ドストエフスキーの復活論

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2004/03/30

ドストエフ好きーのページ

ドストエフスキ−の名言


新しい人間の誕生

 
彼の途方も無い複雑怪奇な小説の中で、彼が一貫して書きたいと希求したもの・・。

 それはカラマーゾフのドミトリーの言う「新しい人間」として新に誕生することなのである。それは決して蘇生という意味ではなく、大いなる生命に自分が包まれていることを自覚することであり、魂のコンバーションなのである。この魂における鮮やかな精神の回転のドラマを彼ほどダイナミックに描いたものはないだろう。彼の小説が「魂の探偵小説」と呼ばれる由縁である。

 そしてこのテーマは、実は21世紀における思想の切実な大テーマになるだろう。

  なぜならば、われわれの前には彼が描いた混沌、絶望、汚辱、悪、罪がまるで当然のように現前にころがっているではないか。否、既にわれわれ自身がその悪と一体化してしまっているではないか。

 この底なし沼にあってわれわれはいかに蘇生するのか。

 いかにして「新しい人間」として生まれるのか。

 彼はこの人間の質的な転換を見事な物語を通して描いた。

 それは、どんな絶望の底にあっても生命はそれを乗り越える力があることを教えてくれる「生命賛歌」の物語でもあった。

 この論文ではできるだけ彼、すなわち悪魔的な巨人が創造した主人公の言葉にそって、彼の追求した一大テーマを浮き彫りにしていきたい。

 

ミーチャのつぶやき・・「カラマーゾフの兄弟」から

 好色で父親と女を奪い合うミーチャは、ドストエフスキーの創造した人物の中でも好きな一人である。

 彼にはいわゆる中間地帯がない。酔っぱらっているか、それとも心の中に天使のような高貴な翼を畳んでいるか、そのどちらしかない。

 そして誰よりも彼はまったく新しい生活が始まることを渇望している。父親殺しのぬれぎぬを負わされたミーチャは、獄中でアリョーシャにこう告白する。

「いよいよお前に胸の底までぶちまけてしまう最後の時が来た。実は、俺はこの二ヶ月というもの、自分のうちに新しい人間を感じて来た。つまり俺の内面に一人の新しい人が甦ったんだ」

 彼は井筒俊彦が指摘するように「旧い人間」と「新しい人間」の中間に位置する。

 仏教用語で言えば、「煩悩」の渦中にいながらも、彼の心の中には「悟り」への強い渇望がある。

 否、その煩悩の闇の深さがかえって、悟りへ光へと向かう彼の欲求を強くしているのである。

 

アリョーシャの少年たちに対する演説・・「カラマーゾフの兄弟」から

  小林秀雄によると、アリョーシャはドストエフスキーの創造した天使であり、鉄舟の創造した観音様みたいなものだという。
  確かにこの宗教的感性にあふれた三男は、無垢の心をもった幼子として描かれるとともに兄のミーチャやイワンの最大の理解者として登場する。無垢ではあるが、アリーシャの澄んだ眼は、現象の醜さを超えて「生命の実相」を観る深刻さにあふれている。彼の前に立てば、どんな人も「幼子の心」を思い出させずにはおれないだろう。

「みなさん、僕たちは間もなくお別れします。僕はさしあたり今、もうしばらくの間は二人の兄についていてあげるけど、一人の兄は流刑に行くし、もう一人は死の床についています。でも、もうすぐ僕はこの町を立ち去ります。たぶん非常に永い間。だから、いよいよお別れなんです、皆さん。このイリューシャの石のそばで、僕たちは第一にイリューシャを、第二にお互いにみんなのことを、決して忘れないと約束しようじゃありませんか。これからの人生で僕たちの身に何が起ろうと、たとえ二十年も会えなかろうと、僕たちはやはり、一人のかわいそうな少年を葬ったことを、おぼえていましょう・・」

 

ラスコーリニコフの新生・・「罪と罰」から
 
  ドストエフスキーがシベリアに4年ほど流刑になっていたことは、有名な話である。その間の消息は彼の『死の家の記録』に詳しいが、彼はそこで魂のコンバーションを得、更生した。魂の底から生まれ変わったのである。
 シベリア流刑後に生まれた名作『罪と罰』は、単なる悪いことをした罪人の懺悔の物語ではない。如何に生きるべきか・・という激しい問いかけにいかれてしまった男、ラスコーリニコフの魂の更生の物語なのである。
 私は彼がシベリアの地でソーニャとともに丸太に腰掛け、大平原を見渡すシーンが大好きだ。
 現象的には失敗し、どん底にいる彼だが、彼の魂の奥底では復活の喜びがあふれ、二人による新しい物語が始まることを予感させる。


「それはまたよく晴れた暖かい日であった。早朝6時ごろに、彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。そこには一軒の小屋があって、雪花石膏を焼く竈の設備があり、そこで焼いた石をつくのであった。・・ラスコーリニコフは小屋から川岸っぷちへ行って、小屋の傍に積んである丸太に腰を下ろし、荒涼とした広い大河を眺め始めた。高い岸からは広々とした周囲の眺望がひらけた。遠い向うの岸の方から、かすかな歌声が伝わってきた。そこには日光の漲った目もとどかぬ草原の上に、遊牧民の天幕が、ようやくそれと見分けられるほどの点をなして、ぽつぽつと黒く見えていた。そこには自由があった。そして、ここの人々とは似ても似つかぬ、まるでちがった人間が生活しているのだ。そこでは、時そのものまでが歩みを止めて、さながら、アブラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去っていないかのようであった。ラスコーリニコフは腰を下ろしたまま、眼も離さずにじっとみつめていた。彼の思いは夢のような空想と、深い黙思に移って行った。彼はなんにも考えなかったが、何ともしれぬ憂愁が彼を興奮させ、悩ますのであった」・・『罪と罰』エピローグ
 
 
そこに突然、ソーニャが現れ、彼と並んで丸太に腰掛ける。彼は泣いて、彼女の膝を抱きしめる。彼らは二人とも蒼白くやせていたが、「この病み疲れた蒼白い顔には、新生活に向う近き未来の更生、完全な復活の曙光が、もはや輝いているのであった」。
新生活の予感・・「白痴」から

  ドストエフスキーの抱えていた大きなテーマは、人間が根本的に内部から変革することであった。このテーマは彼の代表的な名作に主調低音のように鳴り響いている。『罪と罰』『悪霊』『白痴』『カラマゾーフの兄弟』などに登場する主要人物は、とんでもない悪人や白痴であってもその奥には、“新しい人間”に生まれ変わることを熱望しているのである。
 例えば『白痴』の主人公のムイシュキン公爵は、スイスの田舎で療養したころのことを回顧しながら、次のようなコメントをアグラーヤなどの若い娘にする。

「私のいた村には滝が一つありました。あまり大きなものではないんですが、高い山の上から白いしぶきをあげて騒々しく、細い糸のようになって、ほとんど垂直に落ちているのです。ずいぶん高いところから落ちているんですが、妙にそれが低く見えました。家から半キロメートルもあるのに、それが50歩くらいしかないような気がするんです。私は毎晩その滝の音を聞くのが好きでしたが、そういうときにはよく激しい不安に襲われたものです。それからまた、ときにはよく真っ昼間にどこかの山にのぼって、大きな樹脂だらけの松に取りまかれて、たった一人で山の中に立っていますと、やはりそんな不安が襲ってくるんですよ。はるか頂上の岩の上には中世紀の古いお城の廃墟があって、眼下には私の住んでいる村が、かすかにながめられます。太陽はさんさんと明るく輝いて、空は青く、しいんとこわいような静けさなんです。そんなときですね、私がどこかへ行きたいという気持になったのは。もしこれをまっすぐにいつまでもいつまでも歩いていって、あの地平線と空とが接している向こうがわまで行けたら、そこではありとあらゆる謎がすっかり解けてしまって、ここで私たちが生活しているのよりも千倍も力づよい、わきたっているような、新しい生活を発見することができるのだ、と思われてなりませんでした。それから私はしょっちゅうナポリのような大きな町を空想していました。そこには宮殿が立ちならんでいて、ざわめきとどよめきと生活があるのです・・・・いやっまったくいろんなことを空想したものですよ! それからあとになって、私は牢獄の中でも偉大な生活を発見できると思うようになりましたよ」

 この公爵のコメントは、まるで一編のメルヘンのようでもあり、美しいポエムのようでもある。が、このモノローグの背後には、前述の「新しい人間」と「新しい生活」を渇望する魂が潜んでいる。彼の云う不安とは、これまでの偽物の人間が消え去ろうとすることへの不安であり、彼の中には既に「新しい人間」ーー本物の人間がもうそこにまさに誕生しようとしているのである。これを唯神実相哲学では、「我の置換え」と呼んでおり、何にもまして尊ぶのである。
 換言すれば、「神の子」という真我に「我の置換え」をしない限りは、「新しい生活」も「偉大な生活」も到来しないのだ。この内面的な蘇りのことを「人間革命」(谷口雅春先生・『人生を前進する』)とも云う。