『本居宣長』の独創性についてU
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宮崎の日南海岸

第二部 古代との交信ー日本人の宗教的経験の源泉

 小林は『本居宣長』の中で日本語の成り立ちについて鋭く考察した。そこにはなにか、事物の根源を究めずにはおれぬ老哲学者の使命感のようなものが感じられる。言語の起源をたどりながら自ずから日本人の宗教的経験の源泉に小林の筆は誘われているように私には思えるのである。

 ここに一枚の小林の写真がある。昭和三十九年六月の熊野大社本宮での神官姿の小林がいる。

『本居宣長』はちょうど一年後の翌四十年の六月に始まっており、私には小林の神々との交流を暗示するものとして興味がある。小林は今日出海との対談で次のように言っている。

《宗教とは教理ではなく、祭儀という行動であった。そういう期間は非常に長かった。宗教史という専門書などが扱っているようなものとは比較を絶した長さですよ。その間の宗教的経験というものは、日本人の本質的意味での文化上の知恵を充分訓練したと見ていい。

外来の宗教的ドグマに出会った時、これを受け取る日本人の気質は基本的には完成していた。ドグマに気質の方を変える力はない。ドグマの方を気質が吸収して己の物と化する。これには長い年月を必要とした》

 小林の心の中には、古代の日本人が悠久の昔から信じ、営々と培ってきた宗教的感性が、生き生きと映じていたはずだ。

 これが『本居宣長』の中では宣長の古事記解釈に関連して次のような形で結晶する。

《彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、その外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神(アヤ)しき」経験を、描き出すに到ったのである》

  小林は古代人の「神(アヤ)しき」経験をわがものとしながら、日本文化のコアとも言うべき源の形がどのように形成されて行ったのか、宣長とともに浮き彫りにしてゆく。それは「宗教史という専門書などが扱っているようなものとは比較を絶した長さ」を通してできたものであり、その中心に祭儀という行動があったと小林は言う。

そのことが『本居宣長』では、古代には既に日本語という巨大な言語組織は完成していたのであり、日本人の営々と培ってきた宗教的経験も『古事記』の神々の御名に明らかであるとする論に行き着く。

 従ってその完成した日本人の宗教的経験、言語組織によるある一定の「世界イメージ」が、外来の文化、宗教、言語と出会った時に、「ドグマの方を気質が吸収して己の物と化する」という日本文化独特の歴史が生まれてきたのである。

 これを証明しているのが『古事記』であり、『古事記』はその基本的には完成した気質の表現体であるとともに外来の言葉=漢字、文化との接触によるドラマを表わしている。

 このドラマに小林は『本居宣長』の中で肉薄していくのであるが、彼はその中で古代人になり、その宗教的体験を己の言葉で語る。その言葉は詩人のそれでもあり、今までの考古学者、民族学者、神話学者、古代史家も到達できなかった高い調べを持っているように僕には思える。中村光夫の言葉を借りるなら「『近代化による精神の空洞』を埋める」調べがこの書物に刻まれた象形文字の間から聴こえてくるのである。

 それはまさに小林が他の作品でもそうであったように宣長という天才と同化し、古代人と通信し、まさに古代人の聞くところ、信ずるところを小林は己の魂の声として語っているように思えてならない。

『本居宣長』にあっては前半の源氏を通して見られてきた物語による知覚論、言語論が、後半に到って『古事記』を通した古代人の「世界イメージ」に収斂していくことを読者は感じられるはずである。

 一、『古事記』観照の道

《物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古えの伝説」に関する「古語物」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんな豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずから繋がって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。

 学問の方法に関する、彼の折に触れての、ばらばらな発言は、皆この一と筋に向う。言わば、その方向感覚を隠し持ったものだと言ってよい。宣長が「古事記」から直かに聞いた、古代の人々の音声は、まさに、「耳に聞こえたるままにて、其外に何も無きことぞ」と言う、完全な形式をとったもので、彼は、これを、極めて自然に受入れたのだが、この簡明な経験は同時に、古人の「言問い」は、これをそっくりそのまま信ずるか、全く信じないか、どちらかであるという、はっきりした意識であった事を忘れてはならない。》

 

 宣長が『古事記』という物を単なる研究ではなく、古代の人々の音声が聞こえてくるまで読みこなしていった、その喜び、心のうねりを小林は忠実に追っていく。

 それにしてもその『古事記』という物の感知がどうして豊かな経験になるというのか。

それはやはり『古事記』というテキストを宣長がどう読んでいったのかという「読む」という問題に直結しているのである。小林は言う。

《恐らく、彼(宣長)にとって、(『古事記』の神々の)物語に耳を傾けるとは、この不思議な話に説得されて行く事を期待して、緊張するという事だったに違いない。無私と沈黙との領した註釈の仕事のうちで、伝説という見知らぬ生き物と出会い、何時の間にか、相手と親しく言葉を交わすような間柄になっていた、それだけの事だったのである。その語るところは、上代の人々の、神に関する経験的事実である、と言ってもよい。しかし、その事実性は、伝説という一つの完結した世界から、直かな照明を受けていた。いや、この自力で生きている世界の現実性なり価値なりが、創り出しているものだった、と言った方がいいかも知れない。そういう事を、しかと納得した上でなければ、経験的事実などと言ってみたところで空言だろう。宣長は、それをよく知っていた。》

「伝説という見知らぬ生き物と出会い、何時の間にか、相手と親しく言葉を交わすような間柄になっていた」ーー何気ない言葉なのだが、宣長の学問のあり方をよく表した名文だと思う。別のところではこうも言っている。「彼にとって『古事記』とは、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくれりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の言語(モノイヒ)≠フさまであった」と。

 この宣長の学問の方向性について、小林は現在の学問のあり方を批判しながら、繰り返し注意を促している。

《「古事記伝」という劃画期な仕事は、非常に確実な研究だったので、本文の批評や訓法の決定は言うに及ばず、総論的に述べられた研究の諸見解も、今日の学問の進歩を以てしても、殆ど動じないと言っていいようだが、それはそれとして、言わば、そういう確実な学問上の成績を乗せた宣長の心の喜びと嘆きとの大きなうねりがあるので、これがなくては、彼に、彼の言う「学問の本意」への道は開けた筈はなかろう。彼の眼は静かで冴えていたが、傍観者の眼ではなかった。「古事記」という対象は、程よい距離を置いて冷静に調査されたのではない。彼は「古事記」のうちにいて、これと合体していた》

 現在の学者にとってある書物なり参考資料は通常、一つの仮説を裏づけるか、反論するかの材料にすぎぬ。その一つの資料にすぎぬものに閉じ込もるなどほとんど考えられないことである。

 しかし現代の学者たちがたくさんの資料から作り出す世界観なり、思想とこの『古事記』というものをひたすらわがものにしようとして、その語らいを続け、『古事記』観照の道を徹底して行った思想とでは、どちらが本当に豊な物の感知を与えてくれるのであろうか。

 確かに『古事記』は一つの完結した世界であり、自力で生きており、ある世界の現実性と価値を創り出しているーーそう小林は考え、この物≠ゥら得た宣長の自己深化に深い共鳴をするに到る。「古事記観照の道」が、そのまま「自己観照」につながっていくところに、宣長の学問の味わいがあり、近世の学問の豪傑たちの独創性とも言えそうである。

 二、古代の人々の音声ーーパロールとしての『古事記』

 井筒俊彦が「コーラン」を解釈した方法論を借りるなら宣長=小林は、エクリチュールとして与えられている「古事記」のテキストをもとの状況まで引き戻して、神々が古人に親しく語りかける、または稗田阿礼が安万呂に話すという具体的な発話行為の状況において「古事記」の言葉を理解する。そしてそのような原初的テキスト了解の上でさらに一歩進んでその奥にあるものを探る。パロールとして「古事記」を読むことによって、その底に伏在し、それを下から支えている根源的世界了解、存在感覚、世界像というのものを探りだそうとするのである。

 宣長の「読み」は「古事記」というテキストを単なるエクリチュールとしてではなく、もとの阿礼が暗唱していた古伝を安万呂に親しく語りかけるという具体的なパロールの状況においてそのコトバを理解しようとするものであった。

 その宣長独特の「読み」を小林は独創的な読みとして「古事記」成立の経緯と合わせて詳しく紹介している。(同書、二十八章〜三十章参照)

 ここでは、近代の「古事記」の読み方の土台となった津田左右吉氏の「記紀」研究が宣長のそれの対極として詳しく紹介されている。

 津田の「古事記」の序文の「帝紀及び本辞」に対する解釈があくまで文字、文献に写された物語ということに固執するのに対して、宣長の場合、その「辞」を「なべての地を、阿礼が語と定め」た口誦と信じた。このいわば、固定化したエクリチュールなのか、それとも生成流動したパロールであるかといのうが両者の全研究のたもとを分けさせている。

 小林は次のように繰り返し、宣長の「古事記」研究というものがどういう意味合いのものであったのか、強調している。

《宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ、大御国の学問の本なりける」と書いているのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないようでは、仕方ないであろう。彼にとって、「古事記」とは、吟味すべき単なる資料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。

そっくりそのままが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「言語のさま」であった。耳を澄まし、しっかりと聞こうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであった。》

 そして小林が宣長の「古事記」の読み方の中で特に注目したのが、文字を初めて知った古代日本人が経験したであろう、特殊な「言語経験」についてである。

《「書籍と云フ物渡リ参来て」幾百年の間、何とかして漢字で日本語を表現しようとした上代日本人の努力、悪戦苦闘と言っていいような経験を想い描こうとしない、想い描こうにも、そんな力を、私達現代人は、殆ど失って了っている事を思うからだ。これを想い描くという事が、宣長にとっては、「古事記伝」を書くというその事であった。彼は、上代人のこの言語経験が、上代文化の本質を成し、その豊かな鮮明な産物が「古事記」であると見ていた。その複雑な「文体」を分析して、その「訓法」を判定する仕事は、上代人の努力の内部に入込む道を行って、上代文化に推参する事に他ならない、そう考えられていた》

 そこで「古事記」序に書かれた「辞」とは、「古語」のことであり、宣長は安万呂の記した文字の奥に阿礼の言霊を想像し、それを救い上げようとしたところに宣長の独創性がある、と小林は考えた。

 この文字と肉声による言霊との緊張関係を身をもって感じたのが安万呂だったに違いない。いわゆる古事記序に言うところの「上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなわち難し」。小林自身の言うことをもう少し聞いてみよう。

《漢字の扱いに熟練するというその事が、漢字は日本語を書く為に作られた文字ではない、という意識を磨く事でもあった。口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕らえられて、漢字の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらいいか。

 この日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせた。日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない。模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している》

 従って宣長の冒険は、安万呂が苦労して記した文字の奥に宿る稗田阿礼の古語を、言霊をどう救いだすかということに向けられている。安万呂の表記が、今日となっては謎めいた符号になっていても、その背後には古人の「心ばえ」、古言の「ふり」があり、上代において日本語は口誦のうちに完成していた。それを蘇らすために、宣長はその想像力を駆使したというのが宣長の「古学」の骨格になっている、と小林は見ていた。

 この言語に関する宣長と小林の想像力は、現代ではつとに分かりづらいものになっているのではないだろうか。

 例えば「身体と言語」と題した吉本隆明と辺見庸の対談で、「実感に基づいた直接的な経験と、記号的で情報的な経験の間のカイ離」についてさまさままな角度から見ていくのだが、そこで問われているものは、「身体」と「言語」の均衡であり、まったく身体から乖離してしまった現代における「言葉」の問題である。いわゆる現代は情報だけは氾濫しているが、想像力に身体に裏付けられた血肉化した「言葉」は均質化され、それに伴ってわれわれの抱く「世界イメージ」も極めて平板化してしまったのではないだろうか。

 このような時代に小林の言う「想像力」を持つのは確かに至難の技にも想える。

私は『本居宣長』を完成後に学生を前に行った講演で小林が言ったことを思い出す。

「想像力とは感性、知性、直覚の伴った最も心の充実した働きなんです」

 そして宣長はこの想像力を駆使して、古人の「心ばえ」、古言の「ふり」を読解していくのだが、それが一つのポエジーでもあることが現在の情報を中心とした学問からは特に分からないところだ。が、その想像力によって「古事記」を紐解いていったときに宣長の前に現代の均質的な「世界イメージ」ではなく、生命の躍動にあふれた「世界イメージ」が開けていったことを想う時、現代こそ、想像力による血肉化した言葉を取り戻すことが求められている気がしてならない。

  三、神々の名について

 古代人にとって、ものの名前を口にすることが如何に重大な行為であったかは、民族学が証明するところである。名前は単なる符牒、記号ではなく、霊的実体であり、呪術的な力があり、人の名をたやすく呼ぶことははばかれていたのである。まして神々の名を古人が口にすることには、特別の意味がこめられていたに違いない。小林も宣長とともに、「古事記」の冒頭にあらわれた神々に名をつけた古人の生きた場所に立ち、今度は古人とともにその命名の切実な体験を語り始める。

《その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百萬の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。……彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったのか。体言であれば、事は足りたからである。》

《迦微をどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がった詞の外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい生きた思想だったという、確信なくして、あの「古事記伝」に見られる神名についての「誦声の上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。》

 古代人は神に直に触れているという確かな感じを心に抱いており、その直観の内容を各々が内部から明らかにしていたと小林は言う。

《神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神の意を引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保證する、生きた言葉の働きの不思議であった。》

 古代人が神名を唱えるとは、そこに神の姿が現出し、神々の不思議な働きを知ることにほかならなかった。小林が宣長とともに冒険した「古事記」とはこのようなこのような古代人のあからさまな神との交流を伝えるものであった。

 例えば、「天照大御神」という神の御号を分解してみると、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的な語詞はそろっていると小林は言う。

 ということは、その御号とは「当時の人々の自己表現の、極めて簡潔で正直な姿」であり、「御号を口にする事は、誰にとつても日についての、己れのり具体的で直かな経験を、ありのままに語る事であった。この素朴な経験にあっては、、空の彼方に輝く日の光は、そのまま、『尋常ならずすぐれたる徳のありて、可賢き物』と感ずる内の心の動きであり、両者を離す事が出来ない。そういう言い方をしていいなら、両者の共感的な関係を保證しているのは、御号に備わる働きだと言っても差支えあるまい」。

 このように小林は宣長とともに古人の言語行為の内部の奥にまで入り込んでいく。そしてそれは、古人の宗教の源泉とも言うべき「あやしき」経験に他ならなかった。小林は次のように古人とともにその現場≠ノ立つ。

《彼(宣長)が註解者として入込んだのは、神々に名づけ初める、古人の言語行為の内部なのであり、其処では、神という対象は、その名と全く合体しているいるのである(高天原という名にしても同様である)。彼が立会っているのは、例えば「高御産巣日神、神産巣日神」の二柱の神の御名を正しく唱えれば、「生」という御名のままに、「万ヅの物も事業も悉に皆」生成賜う神の「かたち」は、古人の眼前に出現するという、「あやしき」光景に他ならなかった。》

 四、神々との驚くべき交流

「古代人にとって神々はどのような形で存在したのか」「神とは古人にとってどんな切実な意味をもったのか」ーーおよそ、このような形而上学的な問いかけに対する解答も『本居宣長』の中では古人の生活感を通していつも語られている。例えば次のような文章である。

自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状」(アルカタチ)を見究めようした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きをまたなければ、出来ない事であった。そしてこの働きも亦、空や山や海の、遥か見知らぬ彼方から、彼等の許に、やって来たと考える他はないのであった。神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。そういう声が、彼等に聞こえて来たという事は、言ってみれば、自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等を全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味わいだったであろう。其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力ととともに、これ又言うに言われぬ、柔らかく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の「性質情状」(カタチ)を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる。これこそ人生の「実」(マコト)と信じたところを、最上と思われた着想、即ち先ず自分自身が驚くほどの着想によって、誰が言い出したともなく語られた物語、神々が坐(いま)さなければ、その意味なり価値なりを失って了う人生の物語が、人から人へと大切に言い伝えられ、育てられて来なかったわけがあろうか。》

 私はこの文章から次のようなことを想像する。

 古代人の生活は、狩り、農耕、漁、いずれの形態をとるとしても、自然との生の交わりなしには成り立たないものであった。その交わりの中で心を清め、彼らの知覚は我々の想像を絶して澄んだものであったに違いない。そして古人同士の間には独特の通信機関があったのではないだろうか。彼らの通信のアンテナを一段と高めてくれるのが他ならぬ祭儀の場であった。収穫を終え、秋の実りを感謝したり、未だ目に見えぬ春の訪れに身も心も躍らせる気持ちは自ずと祈りという形にならざるをえない。

 第二部の冒頭に掲げた小林の言葉を借りるならば、「宗教とは教理ではなく、祭儀という行動であった。そういう期間は非常に長かった」のである。そしてその祈りの祭儀の場こそ、神々と直かに交わって新しい生命力を得、神々の声を聞くことのできる、彼らにとっての生活の原点であり、そこで「誰が言い出したともなく語られた物語、神々が坐(いま)さなければ、その意味なり価値なりを失って了う人生の物語」が紬だされることになった、と。

 五、古代人の宗教的経験

《宣長が、古学の上で扱ったのは、上古の人々の、一と口で言えば、宗教的経験だったわけだが、宗教を言えば、直ぐその内容を成す教義を思うのに慣れた私達からすれば、宣長が、古伝説から読み取っていたのは、むしろ宗教というものの、彼の所謂、その「出で来る所」であった。何度言ってもいい事だが、彼は、神につき、要するに、「何にまれ、尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる徳(コト)のありて、可畏(カシコ)き物を迦微(カミ)とは云なり」と言い、やかましい定義めいた事など、一切言わなかった。勿論、言葉を濁したわけでもないし、又、彼等の宗教的経験が、未熟だったとも、曖昧だったとも考えられてはいなかった。神代の物語に照らし、彼等の神との直かな関わりを想い、これをやや約(つづ)めて言おうとしたら、おのずから含みの多い言い方となった、ただ、そういう事だったのである。》

 小林はこのように静か語り口で「彼等の神との直かな関わり」を明らかにしていく。この企だての背景には、「日本人の宗教的経験の源泉」を探ろうとする、晩年の小林の念願があることは先にも触れた。

 それにしてもこの書物は、得体のしれない本だ。開けばまるで時空を超えて、古代人の言霊が聞こえてくるようだ。そしてそれは、まるで祭の場で長老(小林)の語る伝説に耳を傾けているような、錯覚にとらわれる。例えば次のような表現はどうだ。

《さて、宣長は、わが国の神代の伝説の、最初にして最後の、覚め切った愛読者であったとは、先きに書いたところだ。古人の生き方を、一挙に掴もうとした、彼の古学の極まるところ、愛読の道が、そのまま学問の道として熟した、そういう形を取った事を言ったわけだが、其の際の彼の「あやしき事の説」という文に触れた。学者達は、神代の伝説に接し、特にその内容を取り上げて、「あやし」と判ずるのだが、伝説の内に暮らしていた人々は、そういう「あやし」という言葉の使い方、つまり、あやしからぬ物に対して、あやしき物を立てる巧みを知らず、ただどう仕様もなく、「あやし」と感受する事の味わいの中にいた、というのが、宣長の考えであった。丁度、「源氏」をが語られるその様(サマ)を、「あはれ」という長息(ナゲキ)の声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、「あやし」という、絶対的な「なげき」を得た。》

 ここでも小林の関心は、ただどう仕様もなく、「あやし」と嘆ずるしかなかった古代人の宗教的経験に集中している。その経験に神の物語の成長の源泉を見ていたのである。

その直観の高まりは、次のような表現を産んだ。これは古代人の宗教的経験の精髄とも呼んでいいのではないだろうか。

《神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様に並列して現れるのであって、とても神々の系譜などという言葉を、うっかり使うわけにはいかない。「天地初発時」》(アメツチノハジメノトキ)と語る古人の、その語り様に即して言えば、彼等の「時」は、「天地ノ初発ノ」という、具体的で、而も絶対的な内容を持つものであり、「時」の縦様の次序は消え、「時」は停止する、とはっきり言うのである。

 そういう次第で、宣長の仕事の本質は、その出発点で、もう決まって了ったと言う事が出来る。というのは、上古の人々の、事物に関する基本的な認識、或は経験の形式、更に言えば、それを成立させている時空の根本観念の質が、確かめられて了った、と言う事になるのだ。確かめられた観念の質とは、等質化され、量化された抽象的な時空の観念などらは、全く無縁であった古人達が、文字通り身に附けた、その感覚感情に浸されたものを言う。ここから逸脱しては、どのように語ろうとも、彼等には伝説を語る術はなかった。この事を熟考するのが、宣長には、「文字なき世は、文字無き世の心」なる所以を知る事に、他ならなかったのである。》

 一見、神々の系譜の別天つ神五柱と神世七代は、現代人からすると一見、神々の荒唐無稽な名が記されているとしか思えぬ。その「次に」という『古事記』の言葉を、多くの注解者は「時」の縦の次序ととらえたが、小林は宣長とともにそれをはっきりと否定した。

そして「神々は、言わば離れられぬ一団を形成し、横様に並列して現れる」と言うのだが、その壮大な神々のビジョンにはどのような意味が隠されているのであろうか。

 上古の人々の時空の根本観念は、現代の均質化したものではなく、それはエネルギッシュな「生命の世界」であり、そのいわば原初的な生成の場≠古人は様々な神々の名として命名したのかもしれない。

 薄っぺらな世界観に息吹きを与える、古代人の生命の躍動感にみちた世界ーー。小林は古代の日本人の「宗教の出でくる所」を探りながら、ついにある信仰体験を語るに到った。その意味は繰り返しはんすうしてもつきることのない無限≠宿しているように私には想える。

 小林は神々の物語を通して、日本人の宗教の源泉とも呼ぶべき、その時空観の根元まで遡り、「その性質情状」(アルカタチ)を見究めようとしているのである。 

 六、古代人の生死観ーー古代からあった日本人の「世界イメージ」

 この「等質化され、量化された抽象的な時空の観念などらは、全く無縁であった古人達が、文字通り身に附けた、その感覚感情に浸されたもの」は栗田勇にならって換言するならば、古代の日本人は大陸の文明の血をあびるよりも、はるか悠久の昔から独特の「世界イメージ」を持っていたということになろう。

 栗田によると、「神話は分析的にその素性を洗うのと同じ熱情をもって、そのトータルな生きたイメージを、いわば空間的に追体験することによって、はじめて、私たちのうちに甦るのである」という。

 例えば古人がつけた「常世の国」「根之堅洲国」「黄泉の国」といったわれわれが死んでいくとされる世界も、「死は、古代人の意識にあっては消滅ではなく、エネルギーと再生と豊饒を意味していた。とすると、常世国を含めて、これらの国の名は、位置の相違を区別するというよりも、ほぼ同じ世界の「意味あるいは「機能」の相違によって呼び名」をかえてイメージしていた」と栗田は説明している。

 小林が最終章で追っているのも、この古代人の生死観であり、私はこの章を何回読んだことであろうか。

 読んでも読んでも新しい意味が沸きいでくる不思議な章である。

 小林はその中で言う。

《「神世七代」の伝説(ツタエゴト)を、その語られ方に即して、仔細に見て行くと、これは、普通に、神々の代々の歴史的な経過が語られているもの、と受取るわけにはいかない。むしろ、「天地の初発(ハジメ)の時」と題する一幅の絵でも見るように、物語の姿が、一挙に直知出来るように語られている、宣長はそう解した。では、彼は何を見たか。「神世七代」が描き出している、その主題の像(かたち)である。主題とは、言ってみれば、人生経験というものの根底を成している、生死の経験に他ならないのだが、この主題が、此処では、極端に圧縮され、純化された形式で扱われているが為に、後世の不注意な読者には、内容の虚ろな物語と映ったのである。

 生死の経験と言っても、日常生活のうちに埋没している限り、生活上の雑多な目的なり動機なりで混濁して、それと見分けのつかぬ状(サマ)になっているのが普通だろう。それが、神々との、真っ正直な関わり合いという形式を取り、言わば、混濁をすっかり洗い落として、自立した姿で浮かび上って来るのに、宣長は注目し、古学者として、素早く、その像(カタチ)を捕らえたのである。》

 われわれが日常の生活に対応している表層の自己や行動のための知覚を一旦、きれいに捨て去り清めた時に見えてくるもの。おそらく、小林の『古事記』読解の焦点はそこに常にそそがれている。一見、「内容の虚ろな物語」と思える神々の物語にどんなに豊かな古人の想いが、生死観がこめられているのか。それを味わうためには、われわれも混濁をすっかりと洗い落とす必要があるのだ。

 小林は宣長とともに『古事記』の伊邪那美神の「黄泉の国」における万感を託した「汝国」(ミマシノクニ)という一言に注目する。すなわち宣長の『古事記伝』には「汝国とは、此の顕国をさすなり、抑モ御親生成給る国をしも、かく他げに詔ふ、生死の隔りを思へば、甚も悲哀き御言にざりける」とある。そして小林はこのように注解する。

《女神が、その万感を託した一と言に、「天地の初発の時」の人達には自明だった生死観は、もう鮮やかに浮び上って来たに違いない。彼等の眼には、宣長の註解の言い方で言えば、神々の生き死にの「序次」は、時間的に「縦」につづくものではなく、「横」ざまに並び、「同時」に現れて来る像(カタチ)を取って、映じていたのである。》

 このいわばその世界イメージを悠久の昔から肉声で互いに伝え合ってきた古人日本人が、大陸からの文字や仏教という違う世界イメージを基に作られたものに出会った時にどんなドラマが産まれたのか。

 その一つの結晶が、この日本語に関する、日本人の最初の反省が『古事記』となったことは既に小林の言葉として書いた。すなわち「日本の歴史は、外国文明の模倣によって始まったのではない。模倣の意味を問い、その答えを見附けたところに始まった、「古事記」はそれを証している」と。

 この古代日本人が営々と自分の物語を紡ぎ続けることがなかったら、どうしてそのような芸当ができたであろうか。しかし、そのことを本当には分かるためには、古代人の生活を領していた「神(アヤ)しき」経験を、自分のものとして描き出さなければならない。その刻苦精進がこの最終章には感じられてならない。

 それは、この『本居宣長』という作品が、近代日本の歪みから遠く、日本人の宗教の源泉なるものに立っていることを如実に現している。

 現代日本が己れの実体を、本当の物語を見失っている時、小林は宣長を通して、根源的な時間と空間を取り戻そうとしていたのではないか。何回も同著を紐解きつつ、私はそう思わずにはおれない。

 最終章の最後には古人の純粋な精神活動を学者とし明らめるためには、「この活動と合体し、彼等が生きて知った、その知り方が、そのまま学問上の思惟の緊張として、意識出来なければならない」とあるが、これはそのまま『本居宣長』を著した小林の方法論でもあったのだ。

 ここまで書いてくると、「私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである」という小林の言葉を想起せずにおれない。小林は「近代の宣長像」があまりにその構造を引きだそうとした余り、救い落としたその肉声を再現してみせようとした、いや見事にそれと合体してその思想の劇を実演しようとし、そして見事に成功したのである。

 それは十二年間という長い歳月に渡る刻苦精進がついにたどり着いた、美しく生きた思想の肖像画として今私達の前にある。しかしこの果実を味わうためには、やはり自分自身の精神の鍛錬が必要なことを賢明な読者は忘れてはならない。

  

 

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