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小林秀雄「感想」

感想のベルクソン引用

 今なぜベルクソンなのか




2011年1月3日 20:02:12



 
 ベルクソンについて論じた檜垣立哉氏の「時間と生命の問い」という解説論文(ベルクソン著『哲学的直観』中公グラフィックス)は、なかなか読み応えがあった。
 「ある」とは、流れていくこと。それはメロディーに似ている・・というベルクソン独特の実在論が現代思想においていかなる意味をもつのか、詳しく論考している。またブームとしてのベルクソニズムではなく、地に足をつけたベルクソン論になっている。
 現代の新しい視点でベルクソンを照明するとき、また新しい“意味合い”が見えてくるところが面白い。

 
同氏の論文に啓発されて幾つか考えたことを書いてみたい。


形而上学は記号なしにすませる科学

21世紀の形而上学を創造していく上で、ベルクソンの『形而上学入門』から受けるヒントは多い。

「実証的科学の普通の機能が分析であることはわかりやすい。したがって実証的科学はなかんずく記号を使って作業をする。

自然科学のうちでもっとも具体的な生物学でさえも、取り扱うものは、生物やその諸器官や解剖学的要素の目に見える形態に限られている。

生物学はそれらの形態を比較し、複雑なものを簡単なものへ還元するのであり、つづめて言えば、生命の働きを、いわばその単なる目に見える記号のうちで研究するのである。

ある実在を相対的に知るのではなくて絶対的に把握し、外部のもろもろの見地から眺めるのではなくて実在そのものの内へ身を移し、分析を行なうのではなくてその直観を得る方法があるとすれば、要するに表現、翻訳ないし記号的再現によらずに捕捉する方法があるとすれば、形而上学こそはその方法である。

形而上学はしたがって、記号なしにすまそうとする科学なのである」


 
ベルクソンが現在の生物学を見たら何と言うか。やはりゲノムの解明なるものに力を入れている有様を見て、「生命の働きを、いわばその単なる目に見える記号のうちで研究している」と言ったに違いない。

 この点、中村桂子さんが始めた「生物誌」という学問は、これまでの「客観」「分析」「還元」重視の生物学ではなく、“生物の物語”という新しい視点を取り入れた新たな生物学のあり方を探ろうとしていおり、興味深いものがある。


一切の実在は生成しつつある事物

「実在するものは既成の事物ではなくて生成しつつある事物であり、自己を維持する状態ではなくて変化しつつある状態である。

休止は単に見かけ以上のものではなく、休止とはむしろ相対的なものである。われわれが不断に流動しつつある自己の自我についてもつ意識こそ、実在の内部へわれわれを誘い入れるものであり、その実在をモデルとして、われわれは、他のもろもろの実在を表象しなくてはならない。

まさに始まろうとする方向変化を意味する言葉を傾動とすれば、いっさいの実在は、したがって傾動である」『形而上学入門』


 このベルクソンの言葉は、私達の普段の認識法がいかに“まやかし”で満ちているかを教えてくれる。私達は生活の中で、まず周囲の人々を“肉体”という既成の不動のものとして認識する。

 まず何よりも私達の感覚は行動するために対象に輪郭を設けなければならないのだ。肉体、家、車さらには自然さえも利用するためには線を引いてブルドーザーで破壊せねばならぬ。そしてそれらは静止した“事物”に翻訳をすることが便宜上、有効なのである。

 これに対してベルクソンは言うのだ。「不断に流動しつつある自己の自我」をモデルにして、すべての実在を表象しろ、と。

 この提言を実際に生活に活かすとなるとどうなるのだろうか。実在は死んだ事物ではなく、イキイキとしたものとして蘇り、すべては物ではなく、生きて動いているということになる。

 実際、優れた芸術家はスミレの花一つでさえも微妙に生きて動いているその瞬間を捉えて一幅の絵にすることができるではないか。


在とはメロディそのもの

  
ベルクソンの「実在論」はすべてのものは単なる固定した事物ではなく、流動して持続する生命そのものであることを説いているわけであるが、その意味するところは宗教的世界観にも通じるものがある。
 
 例えば弘法大師の「声字即實相」という「この世界の本質は大日如来のコトバそのものである」とする世界観や日本人古来の人間ばかりか自然も物語っているとする言霊論などとも相通じるものがあるのではないだろうか。
 
 簡単に言うならば、すべてのものは単に物質として「ある」のではなく、各種の音程を奏でているメロディーそのものなのである。

 谷口哲学のコトバに置き直すならばこの世界は神の理念=神のコトバの満ちる世界であり、あらゆるものは値打ち、すなわち音打ちをもっており、叩けばなにがしかの音を立てるのである。


 ちなみに人間も叩けば何かの音を立てるものである。その人にしかない値打ち、すなわち神の至上命令としての個性という固有のメロディを奏でているのである。

 ところでこのベルクソンの「生命論」「実在論」なるものが、実は「生命の實相哲学」にも大きな影響を与えたことは、谷口雅春先生もご著書の中で再三、説かれていることである。

 例えば『生命の實相』32巻の「序 自然と生命と芸術」には次のように説いてある。


「科学は、『生命』を静止面に置き直した状態に仮想して、それを捉えるのであるが、芸術は生命を流動のままに捉えるのである」

「科学の捉えたところの世界は、かく仮想の世界であり、ウソの世界であるのに反して、科学のごとくには正確さのないと考えられているところの芸術の捉えた世界こそは、かえって真実の世界なのである。それは『生命』を『生命』そのままの相で触れて捉え、『流動』を『流動』そのままの相において捉える」


 
前に紹介した「不断に流動しつつある自己の自我」をモデルにしてすべての実在を表象しようとするベルクソンと同じ立場から、谷口雅春先生が芸術について言及しておられることが分かる。


思考作業の習慣的方向を逆にする

哲学するということは、したがって思考作業の習慣的方向を逆にすることである。

 この倒逆はまだ方法的に実行されたためしがない。

しかし人間思考の歴史を深く考察すれば、形而上学におけるいっさいの永遠的なものとともに諸科学におけるもっとも偉大なものすべてをわれわれが負っているのは、この倒逆にほかならないことがわかるであろう」ベルクソン『形而上学入門』


 
哲学するとは、「実在」を記号化して相対的に分析することではなく、そのような思考の習慣的なあり方を逆転して、ひたすら「実在」と一つになることだ、とベルクソンは言いたいのであろう。この思考の習慣の方向を逆転させるには、意志の強さが必要である。

 例えば画家の例でいくと、梅原龍三郎は「見えるものではなく、見えてくるものを描いていた」(小林秀雄)という。これは視覚と思考を日常的なものから逆転させて、ひたすら実在なるものが見えてくるまで忍耐することを教えてくれる言葉ではないか。



        哲学の国・ドイツ・ハイデルベルクにて