ベルクソンVSアインシュタイン

2006/01/28


はじめに・・・二人の巨人の狭間で
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 ベルクソンの『持続と同時性』アインシュタインの相対性理論を正面から取り上げた論考であり、彼の著作の中でも異色のものになっています。

 小林秀雄などはこの『持続と同時性』の執筆理由が知りたくて、『感想』で延々と相対性理論や量子力学について言及しているくらいです。

 小林が描いた数々の思想劇(本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ…)はいずれも一応同じ土俵に上がった者の間で起きた思想劇(例えばゴッホであれば同じ画家のゴーギャン)でしたが、何せこのベルクソンとアインシュタインいう二人の巨人は違う土俵、リングでのチャンピオン同士ですからその思想劇を書くのは、やはり小林をしても難しかったのでしょう。


 例えて言うならば(話は飛んでしまいますが)一時、アントニオ猪木さんは異種格闘技戦というのをやりましたが、やはりプロレスと全くルールや方法が違う格闘技といい試合をするのは、天才猪木をしても至難の技だったと思います。

  自分のやり方で相手を早い時間にやっつけるだけなら問題は簡単ですが、相手の持ち味や長所を引き出した上で試合をするのはやはり天才にしかできない芸当です。

 ところで、このベルクソンVSアインシュタインの問題を正面からとらえて大変、面白い論文がありますので、紹介させていただきます。著者は科学思想史専門の金子務さんで、これは『現代思想』1993年3月号(青土社)に
「同時性をめぐってーーベルクソンVSアインシュタイン」というタイトルで掲載されています。


ベルクソンVSアインシュタイン@
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 科学思想史専門でアインシュタインの研究者としても有名な金子務さんは『現代思想』1993年3月号(青土社)に
「同時性をめぐってーーベルクソンVSアインシュタイン」というタイトルで大変、スリリングな論文を発表されています。


 この論文でまず面白いのは、アインシュタインのベルクソンに対する言葉(日記)が引用されているところです。

 金子さんによると、アインシュタインは、ベルクソンの著作ではベルクソン自身が献呈した『持続と同時性』という相対性理論を詳しく検証した本しか読んでいなかったようです。そして実はアインシュタインは1922年10月に訪日する際、この本を持参し、日本郵船欧州定期航路の北野丸の船上で読んでおり、その訪日日記に次の言及があるというのです。これは、小林の『感想』にも出てこないところなので引用させていただきます。

〈昨日、ベルクソンの相対性と時間に関する本を読んだ。

彼にとって問題なのは時間だけであって、空間についてはそうでないことに注意。

彼は、心理的深味よりも、言葉の才を多分に持っているようだ。心的所与の対象化に際して、彼はあまり思い惑うことがないようだ。

しかし相対性理論は事実的に捉えていると思われる。それに相対性理論に反対してはいない。

哲学者たちは心理学的実在と物理学的実在の矛盾のまわりを絶えず踊っていて、この点での評価によってのみ違っている。

前者が「単なる個人的体験」であるが、後者が「単なる思考的構築」であるかの違いだけだ。

ベルクソンは後者の種族に属し、対象化しいているが自己流であることに気づかない。
(1922年10月9日付)〉・・アインシュタインの日記

 さすがにアインシュタインだけにベルクソンの意図を見事にとらえているとともに、違和感も感じていたことがこの文章から浮かび上がってきます。

   もっと辛らつに見るとアインシュタインは、ベルクソンは言葉の才を多分に持っており、思考的構築にたけているが、それは自己流にすぎないと全く認めていなかったともいえます。

 このすれ違いの感覚が、後々、二人の思想を検証していく上で重要なファクターになっていきます。

 さて金子さんは、まずベルクソンが同書の意図としてその序文に


@直接の無媒介の経験であるところの持続の観念が時間についてのアインシュタインの所説と両立可能か否か

A時間の空間化ではなく、時間そのものを取り戻すことは可能か否か


ーーの二つのポイントが挙げられていることに注意しています。

 つまりベルクソンはアインシュタインの論敵として立ち向かったのではなく、その理論を「自分の持続的時間概念の補強にしようとした」というのです。


ベルクソンVSアインシュタインA
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 参考までにベルクソンの『持続と同時性』は、次の六章から成っています。

 1、半=相対性
 2、完全相対性
 3、時間の本性について
 4、時間の多様性について
 5、光の図形
 6、四次元の時間=空間
 末記ーー特殊相対性の時間と一般相対性の空間


 金子さんはまず、第一章、第二章について
「ベルクソンの物理学的理解の精確さを示すと同時に、特殊相対性理論の数学的構造も的確に捉えていることを証明している。

   本書が単なる奇書でなく、十二分に相対性理論を理解した上での叙述であることは明らかである」
としています。

 そして同氏が特に注目しているのが、第四章の「時間の多様性について」です。


   氏はこの章の最後のベルクソンの言葉ーー

「特権をもった系の除去が相対性理論の本質そのものである。それゆえ、この理論は、ただ一つの時間の仮説を排除するどころか、それをよびもとめ、それにすぐれた理解を与える」

を引用しながら、
この結論に『持続と同時性』におけるベルクソンのすべての意図が塗り込まれている、と指摘しています。

 つまり、
ベルクソンの批判は「特権をもった系の除去」(ニュートンの絶対時間、絶対空間などの観念)という立場が、アインシュタインにおいてすら不徹底であるというのです。


 続いて氏は同理論で提起されている二つの落雷に関する同時性をめぐったベルクソンの批判を紹介しながら、
「このベルクソンの立場、すなわち一方でアインシュタイン流の絶対基準枠の否定を認めた上で、直観的同時性という絶対性を主調することに、論理的一貫性が認められるものだろうか? 残念ながら否というしかないのである」と結論しています。

 しかし一方で同氏は、「ベルクソンの時間の空間化批判」に関する部分は今日なお、有効であるとします。


「アインシュタインの特殊相対性理論は、一九〇九年のミンコフスキー解釈を経て、準ユークリッド空間とも言うべき四次元時空連続体として解釈されるようになった。

そこではあたかも生成は消えて絶対的関係の静止した凍てつける世界が現出したかのようにもとられてきた。

ベルクソンは相対性理論出現以前から、生命的持続、生成する時間の重要性を主張してきたから、相対性理論に対してもみずからの立場に立って再解釈を試みる行為に出たのも当然であった」

「相対性理論の中では、二つの瞬間の同時性しか語らないが、これはベルクソンにとってきわめて不自然と見られた。


より自然なものとして二つの流れの同時性がある。たとえば川岸にあって、水の流れ、舟の滑り、鳥の飛しょうを意識するとき、われわれの注意の特性ーー分割されることなく分配されうるーーによって、三つを違ったものとも眺められるし、それらを内面化して一つの知覚に結びつけることもできる。

この三つの流れを一つであると同時に多であるとすることが、流れの同時性である。

ベルクソンの言う純粋持続の中では、二つの流れの同時性から二つの瞬間の同時性は生じない。

それが生じるのは、時間を空間化する習慣による。瞬間は数学的点から、持続の部分は数学的線分から説明される。点も線分も空間的なのである」


 以上がこの金子論文の本当に大まかな紹介なのですが、ベルクソンの同書の意図は、先に紹介したように
「時間の空間化ではなく時間そのものを取り戻す」ことにあったことが見えてくると思います。

 イリヤ・プリゴジン博士が指摘したように、アインシュタインが想定した新しい時空間も、やはり数式に則った静的なものであり、固定したものであるということでしょう。

 それに対してベルクソンが想定した世界とは
「物質精神連続体としての実在」(小林秀雄)であり、あくまでも生成してやまない、動いている世界でした。時間を取り戻すためには「持続の中に復帰して、実在をその本質である動きにおいてとらえ直さなければならない」(『思想と動くもの』)のです。

 ちなみに
ベルクソンは後年、アインシュタインの空間と化合した時間すなわち時空の第四次元は「換言すれば計算の中に、さらに言い換えれば結局紙の上に、存するにすぎない」(『思想と動くもの』)とも批判しています。

 この両者をめぐる対照的な思想劇に小林秀雄はやはり惹かれたのだと思います。