■道月餘影


■連続長屋の先の道路を横断した南に、称名寺がある。ここは加古川城跡である。境内に鮖獲曚良による文政3年(1820)建立の七騎供養塔がある。
南北朝時代正平5年(1350)、塩冶判官高貞が「事実に反した告げ口によって京都を追われて出雲に落ちていく途中、足利尊氏の軍勢に米田町船頭付近で追いつかれ、主人を討たせまいと激しく戦った忠臣七騎が全員討ち死にした」という。

■加古川橋を渡って、橋の西南詰めは米田町船頭という地名で、戦死した塩冶高貞の忠臣を 葬ったと伝える七騎塚由緒地というのをさっきの称名寺で知ったが、今は何もない。 ここから姫路まで17kmという道路標識が出ている。

■緒 言
斯の書は、伯爵亀井家の祖「道月公」の事蹟の概要を記すものなり。今茲(いまこれ)明治45年(1912)は、恰(あたか)も公の300年大祭に當(あた)れり。
是(これ)を以(も)って、伯家は祭祀準備の一端として特に委員を置き、公の事蹟を編纂せし。今、其の業、略緒に就くと雖も未だ完成するに至らず。爰(ここ)に姑く其の概要を抄出し、附するに公の肖像、手蹟等を以てし、題して『道月餘影』と曰ふ。
公の遺徳を景仰する者、之に由りて、其の一斑を窺(うかが)ふことを得ば、此の小冊子の編録、はた徒為ならざるに庶幾からんか。
明治45年(1912)2月     編者誌

■亀井茲矩(1557-1612)。
姓は源。初名は之子。また眞矩といふ。字は長卿。通稱は新十郁。初め湯氏を稱へ、後に亀井秀綱の後を承けて、亀井氏を稱ふ。
茲矩は、宇多天皇第七の皇子。敦實(あつみ)親王の御子。左大臣兼皇太子傅一條雅信より7代の後胤。佐々木源三秀義が五子。佐々木五郎左衛門尉義清13代の孫なり。
初め義清出雲・隠岐等の地頭職に補せられ、隠岐守に任じ、子孫代々使の宣旨を蒙り。職を襲(つ)ぎて、出雲に住せり。
義清の孫頼清は、同國意宇郡湯の荘に居りて、湯七郎左衛門尉といふ。子孫是より湯氏を稱す。蓋し其の地「温泉の湧出する処」なるを以てなり。頼清の子を泰信といひ。其の子を義綱といふ。義綱初の名を公清といひ、佐々木源三と稱す(?)。居を湯の荘の隣地なる富士名邑に移すに及びて、「富士名判官」の稱あり。當時、出雲國の守護たりし、鹽冶(佐々木)廷尉三郎左衛門尉高貞の一族なり。

■富士名義綱。
元弘2年(1332)3月、北條相模入道宗鑑、後醍醐天皇を隠岐に遷し奉り、出雲・伯耆・石見・隠岐に住める武士に、これが警固を命ず。
義綱も亦隠岐行在所なる中門の衛士に役せらる。翌年2月、傳ふるものあり「京師六波羅なる北條越後守仲時・同左近将監時益等、佐々木隠岐判官清高と謀(よしみ)を通じ、主上を失ひ奉らんとす」と云ふ。
義綱、惟(おも)へらく、「予、卑賤なりと雖も、祖宗以来聖恩に浴せり。何為ぞ逆臣に屈従せんや」と。乃ち行宮の雑色成田小三郎をして、傳聞の事を奏せしむ。主上成田をして國分寺の僧徒を語(かた)らはしめ、又、警固の士、名和悪四郎泰長に京師の動静と其の所懐とを問はしめ給ふ。泰長は伯耆国名和荘の住人、又太郎長高の弟にして、忠誠の士なり。其の奉答する所、義綱が言と符す。是を以て、主上義綱・泰長をして、策を戯ぜしめ給ふ。両士以為へらく、「先に隠岐の前司を戮し、出雲・伯耆の間に潜幸し奉り、近國の同志に勅諚を傳へ、率先して各其の門族を誘導せん」と。
よりて元弘3年閏2月20日、泰長、出雲に航し、先づ鹽冶廷尉高貞を説く。
高貞、決する事能はず、遂にこれを逐ふ。泰長去りて伯耆に赴かんとす。途にして出雲國造が郎党、「六波羅の命なり」と称して泰長を捕ふ。泰長活くべからざるを知りて自害す。

同月21日、主上一條頭中将行房を三位局に副へて隠岐の民家に潜ましめ給ひ・義綱及び六條少将忠顕・成田雑色・仕丁金吾等を具し、短艇に御して。千波の湊を発し給ふ。二十七日出雲国杵築浦に至る。時に上下皆飢う。義綱・金吾と共に供御を求めんが為めに陸に上る。曾。出雲國造の郎黨等、國司の勢に件ひ、主を捜索するに遭遇し、意に金吾と共に捕へらる。忠顕等これを察し、避けて伯耆國大阪(?)の湊に至る。忠顕勅を奉じ、成田を遣わして、名和又太郎長高を徴す。長高一族を挙げて龍駕を迎へ、船上山の頂に拠る。
是に於いて初めて「討賊の詔」を発し給ふ。義綱、鹽冶高貞の館にありて、大義名分を説いて屈せず、高貞遂に兵を出雲國安来に出して、帰順の意を表す。
3月3日高貞、意を決して、兵一千餘を率ゐ、義綱を具して、行在に詣り、陳謝す。
主上即ち之を赦し、城外の伺候を命じ給ふ。
5月7日、千種中将忠顕、京師より六波羅の歿落せるを奏す。
同月23日、車駕船上山を発し、山陰を東へ行幸せさせ給ふ。頭大夫行房・勘解由次官光守等、衣冠を著して供奉し、伯耆守長年、御剣を執りて右に候し、金特大和守綿旗を捧げて左に候す。村上彦太郎義高以下名和の一族。鳳輩を守護し奉る。義綱は佐々木鹽冶判官高貞を介け、兵一千餘り将ゐて、前駆に候し、朝山彦太郎家就兵五百餘を以て、後陣たり。
6月6日、京師に至る。弥後義綱は駐まりて京に在り、討賊に任ぜしに、建武3年丙子正月3日、二條大納言師基が西山の陣に在りて戦ひ、傷きて起たす、時に年41。(後、出雲國意宇郡湯町村判官山の半腹に、遺髪を痙めて石塔を建つ。今尚存せり)

■富士名義綱2。
鎌倉-南北朝時代の武士。 塩冶(えんや)(佐々木)氏の一族。元徳4=元弘(げんこう)2年(1332)隠岐(おき)に流された後醍醐(ごだいご)天皇を警固。天皇に隠岐脱出をすすめ、一族に結束をよびかけた。天皇が伯耆(ほうき)(鳥取県)船上(せんじょう)山にうつると、塩冶高貞とともに天皇の軍にくわわった。通称は三郎。 鎌倉時代後期の武士。佐々木一門で出雲国(島根県)意宇郡富士名の出身とされる。『太平記』によれば,正慶2/元弘3(1333)年閏2月隠岐で拘禁中の後醍醐天皇に脱出を勧め,さらに同族の塩冶(佐々木)高貞に援助を打診し,同天皇が伯耆(鳥取県)へ移ると,高貞と共にそのもとに参じたという。 (森茂暁)
義綱の孫「政通」、復た湯邑に任す。此の人慈照院の公方義政の偏諱を賜へり。誠勝・高忠・泰重・泰敏を歴て、惟宗襲ぐ。惟宗ほ出雲七人衆の一なり。これを茲矩の租父と為す。茲矩の父は、左衛門尉永網といひ、母は多胡朗左衛門尉辰敬(?)の女にして、弘治三年、意宇部玉造湯村に産る。父永網は、後出雲國飯石郡須佐城に住せり。

一族尼子伊予守経久は。出雲國富田の城主として。傍近七ケ国を領有し、雄を周防國山口の城主大内義興と争ひて、戦闘止む時なし。

時に湯氏は尼子氏の被官たり。経久の孫右衛門佐晴久に至り、毛利右馬頭元就、安芸國に起り、大内義隆に属せしより、漸く尼子氏の強敵となれり。

既にして元就、陶尾張守晴賢を誅し、兵を率ゐて、周防國山口に入る。石見國津和野三本松の城主、吉見大歳大輔正頼、山口に往きて毛利氏に合す。是れ弘治3年にして、即ち茲矩の生年に當れり。

晴久元就と兵を構へしより、闘争七年の久しきに及び、國力漸く衰へ、子左衛門督義久に至りて、毛利氏に降り、尼子氏の祀意に絶ゆ。時に茲矩10歳なりき。尼子氏の驍将山中鹿介幸盛は、共の叔父立原源太兵衛久綱等と共に80餘人、相従はんことを請ひしかども聴されず。各後、計を約して去る。幸盛濁り京師に匿る。

たまたま義久の従祖弟僧となりて、洛陽東福寺におはす。幸盛これを索め得、還俗せしめて、尼子左衛門尉勝久と名乗らせ、舊臣二百餘人を糾合す。

此の頃、毛利氏は、九州の大友氏と戦ひ、兵相結びて解けず、幸盛機乗ずべしと為し、永禄12年己巳6月、勝久を奉じて出雲に入る。

秋上久家・横道高光等来り、曾する者3千人。忽ちにして15城を抜き、進みて富田月山城を攻む。城将天野紀伊守隆重善く之を拒ぐ。

7月14日、永綱此の役に戦死し、茲矩12歳にして孤となる。出雲國意宇郡に在る奮臣某、これを憐みて鞠育す。茲矩資性英敏。年15にして、己に成人の如くなりきと云ふ。

元亀元年辛未2月、毛利氏の将吉川治部少輔元春・小早川左衝門尉隆景・元就の孫輝元を輔け、萬五千人を将ゐて勝久を攻む。衆寡敵すること能はす、幸盛詐り降る。

既にして脱して伯耆に奔り、仁多郡岩屋寺に匿れ、勝久は隠岐に走る。
元亀2年壬申12月、茲矩年16。出雲國を出て、先づ伊予國に航し、其れより因幡國に至る。

気多郡山之宮村〈今の気高郡逢坂村内)なる井村覚兵衝は、幼時の相識なるを以て、これが家に寄る覚兵衛薙髪して名を「素安」と云ひ、尼子氏の舊臣たり。既にして茲矩は、其の近邑勝宿の後ろ、寺内村の上、野鶴山の牛腹なる名字が鼻と云ふ所に卜居せり。

是の年春、山中幸盛は航して因幡に赴き、遂に巨濃郡浦富桐山城を修めて之に居る。 天正元年発酉、茲矩は、幸盛が因幡国に来り住せるを聞き、往きてこれを訪ひ、深く相結託せり。
曾因幡守護山名中務大輔豊國入道禅高。叛臣武田美作守高信が為めに逐はれて、但為に在り。
幸盛以為らく、「雲・因は境界相接せり。今、若し豊國を助けて快復せしめば、わが志因りて以て成すべし」と。
乃ち使を遣わして豊國を説かしめ、假りに君臣の約を結び、勝久を隠岐に迎へて之を奉じ、巨濃郡は邉僻なるを以て、浦富桐山城を徹して、布施に赴き、尋いで法美郡國府甑山に城き、國中を催促す。

國人、風を望みて来り属す。高信之を聞き、自ら将として来り攻む。幸盛、敵の城下に薄るに及び、急に撃ちて之を敗り。急ぐるを迫ひて、高信を降し、豊國を鳥取城に入らしむ。此の役茲矩も亦従へり。

爰に大坪甚兵衛一之と云ふものあり。山名氏の部将にして。八東郡?私部城を守り。常に力を毛利氏に協せたりき。幸盛之を撃たんとす。
同2年甲戊正月、曾.一之賀正の為に安芸に抵りて城に在らす。幸盛・兵1000餘を以て、留守を襲ふ。餘毛利氏の将牛尾大蔵左衛門春重、一之が子姫路玄蕃允等出で戦ふ。

此の役、茲矩年十八奮戦して敵を斬り、傷を右腕に被る。幸盛攻めて第三廓を占領すと雖も城兵書善く拒ぎて、全く陥る。
こと能はす、既にして一之安芸より帰る。時に茲矩は武田源三部と共に、鹿野城に在り、城外五十余丁の原野に於て、偶然一之と遭遇す。
武田兵を進めて戦を開く。茲矩、地利の不可なるを観て、武田を促して却く。
一之追ひて城下に至りて退く、八上郡に矢部行綱といふ者あり。初め幸盛と交厚かりしに、志を変じて幸盛を害せんとす。

同2年2月3日、使を以て幸盛を招く。幸盛その害心あるを覚り、病と称して辞し、茲矩に代り往かしむ。茲矩徒者3、4人を具し、行綱が館に至り、主人と客室に相見る。
茲矩目を左右に注ぎ、行綱が異志あるを看破し、即ち座の左方に置きたる小刀を把り、行綱が首を斬る。行綱が郎党、群がり起りて主の怨を報ぜんとす。

茲矩が従者3、4人主を援けて戦ひ、行綱が家士20餘人を殺す。茲矩身に分寸の傷を負はすして還る。幸盛曰く、尼子の族中、雲州を快復すべきものは、濁り斯の人あるのみと。
天正2年甲戊4月、山中鹿介幸盛、茲矩に妻するに養女(實は亀井能登守秀綱の二女)時子を以てし、亀井氏を嗣がしむ。(時子は、秀網茲矩の租父湯信濃守惟宗の弟造酒正泰家の女を娶りて。生ましむる所なり。其の姉は、幸盛の妻と為る)。

亀井氏は、本姓穂積氏。宇摩志麻遅命に出づ。世々大和に住し、美麿に至りて、紀伊國牟婁郡に移り、能玉神の禰宜と為る。第11世重實、熊野神戸の年預と為り、海部郡藤白荘を掌り、鈴木荘司といふ。
共の子三郎重家、六郎重清。源判官義経に徒ひて戦功あり。重清、紀伊國亀井に住するを以て、「亀井」と称す。

重清より7世六郎重徳、後醍醐天皇に仕ふ。是より土た7世能登守重貞、出雲國に来りて尼子氏に属す。則ち秀綱の父なり。尼子分限帳によれば、備州の内三萬八千石を食む。
秀網、永禄九年に、出雲國島根郡鈴垂城に在り。3月20日、毛利氏の将、杉原播磨守盛重に欺かれて伯耆国夜見ケ浜に討死す。子清若丸も亦敵手に凌れ、亀井氏の祀此に絶ゆ。

山中幸盛、其の女婿たるを以て、継ぎて亀井氏を称へしに、是に至りてこれを茲炬に譲る。時子、鬼太郎を生む。七歳にして夭す。
時子、哀悼して己まず、遂に請ひて尼となり。京師長者町に隠遁す。茲矩、是に壱所料として、毎年二百石を給し英樹院と号す。
寛永17年庚辰8月17日歿す。法号を栄樹院覚誉清意大禅定尼といふ。墓は京都黒谷金光院域内に在り。

天正3年乙亥5月、吉川元春父子、因州を攻むと傳ふ。是より先、大坪一之。虐其の主豊國に毛利氏に属せんことを勤む、豊國聴かす。
一之去りて安芸に往く。是に至り、豊国凝惧し、老臣森下出羽守道裕、中村対馬守春次等と議し、勝久等を逐ひて、毛利氏に帰すべきに決し、遂に勝久幸盛に背く。
幸盛直ちに私部・若桜(並に八東郡に在り。)の而城を修め、茲矩を将とし、兵千五百餘を以て、私部城を守らしめ、勝久は幸盛等と倶に、若桜城に籠り、毛利氏の将草刈三郎左衛門景継、牛尾大蔵左衛門春重等と兵を交ふ。

9月、吉川治部少輔元春及小早川左衛門尉隆景、兵4萬7千餘を率ゐて、私部城を囲む。茲矩、衆寡敵し難きを以て、城兵を諭し、衆を合うして、若桜城に入る。
元春また若桜城を攻む。幸盛、夜襲して克たず、勝久其の為すべからざるを知りて、但馬に奔り、復た京師に入る。幸盛、茲矩も亦皆遁れて京師に入る。是の時に當りて、織田弾正忠信長、京に在りて勢大いに振ふ。

幸盛、明智光秀に因りて、信長に謁す。信長見て曰く、「嗟好男子、能く主家を興復せよ」と。
賜ふに駿馬を以てす。幸盛喜びて曰く、「公、若し兵を中國に出し給はば、臣、請ふ先鋒たらん。願くは臣が主に賜ふに、出雲國を以てせられよ」と。

信長首肯す。天正5年丁丑10月、松永弾正少弼久秀、大和國志貴山城に籠り、信長に背く。信長秋田城介信忠に令じて、之を討たしむ。
光秀、先鋒たり。幸盛、茲矩倶に光秀に属して役に従ふ。
敵将河合蒋盈秀武儀名あり。自ら鬼河合と呼ぶ。出でて戦を挑む。幸盛挺身し、互に兵杖を捨て、相持ちて崖下に落つ。
茲矩、馳せ来りて幸盛を助け、秀武の首級を挙ぐ。此の夜、久秀自刃し、志貴山陥る。時に10月10日なり。信長、幸盛の功を賞して、丹波國籾井郷に於いて3千人の月俸を賜ひ、光秀は、茲矩に「郷義廣」の刀を贈る。
時に光秀、山陰道に向ひ、羽柴筑前守秀吉は、山陽道に向ふ。
幸盛、彗敏にして、明智光秀の人と為りを察し、謂へらく、吉川、小早川の両人並びて良将にして、而して元春尤も用兵に長ぜり。
今、元春は山陰に在り。隆景は山陽に在り。然るに我常に山陰よりす。
策の得たるものに非す。若かす秀吉に属して、山陽に出でんにはと。輙ち信長に請ひて秀吉に属す。

按ふに、後幸盛が上月城を死守するに際し、光秀が陰に信長の出馬を抑へ、秀吉をして幸盛を援くることを得ざらしめしは、彼の嫉成に由りしにはあらざるか。
幸盛、勝久を奉じて、秀吉の先鋒となり、播磨に入り、備前國主浮田和泉守直家と、佐用郡上月城を争い塵取りて虐失ふ。

最後に秀吉赴き攻め、悉く浮田氏の守兵を焚穀して、城を勝久に輿ふ。勝久乃ち同苗助四郎氏久以下2千3百餘人を以て、之を守る。

此の時に當り、幸盛の叔父立原源太兵衛久綱、議して曰く、「此の城は、播、作の間に介在し、攻め易く守り難し。若し、直家両川に請ひて、来り攻めば、滅ぶること踵を旋らさず。今、織田氏勢、日に盛なり。其の遂に毛利氏を制するや必ずせり。故に姑く時の至るを待ち、其の威を仮りて、後ろに本國を復するに若かず」と。

幸盛、聴かずして曰く、「衝に當り敵を折き、功を織田氏に建つるは。ただ此の城を然りと為す。縦令両川来り攻むとも、秀吉豈我を棄てんや。秀吉、力足らざらんも、尚信長の後援あり。且つ直家は定節なし。毛利氏の振はざるを見ば、必す其の國を以て、織田氏に帰せん。我の本國を復するは、此の時を然りと為す」と。

勝久、之にしたがふ。天正6年戌寅4月元春隆景・直家と兵七萬を合せて、上月城を囲む。秀吉来り援けて、高倉山に陣す。
信長諸将をして秀吉を援けしむ。元春、織田氏の全軍踵ぎて至らんことを恐れ、急に城を攻む。幸盛戦を督して屈せす、6月に至り、秀吉信長の出馬を請へども、佐久間信盛・明智光秀等、抑へて之を留め、命を秀吉に傳へ、速に高倉の陣を撤し、転じて三木家を攻めしむ。

秀吉為す所を知らす、時に茲矩は、勝久の命を以て、従ひて秀吉の陣に在り。
秀吉俄かに茲矩を召して曰く、「予の上月城を後援するや、数ヶ月にして功を奏せす。然るに今、我軍衆心一致せす、信長の出馬を請えども侫臣等之を拒み、予は遂に此の陣を収めて、三木城を囲むことを命ぜられ、今、将に陣を書写山に移さんとす。想ふに上月城の陥ること、踵を旋らさざらん。汝、今夜潜かに城に入り、幸盛に告ぐるに、此の事を以てせよ。若し城兵囲を衝きて出でば、秀吉亦進みて、敵軍を破り、尼子主従を助けて、倶に書生山に退くべし。然れども汝、萬一虜となり、計洩るゝことあらば、信長の怒を免れざるべし」と。

茲矩、奮つて曰く、「是れ公の使にして、又右府(信長)の使なり。縦令虜となるも、何ぞ解すべけんや。萬一、公に疑惧の念ましまさば、茲矩が妻子を出して質とすべし」と。

秀吉その志を感じ、茲矩に意に應する勇士両人を具することを許す。則ち大野寸兵衛某。高橋孫四郎子広(子廣の名。高橋家譜による。子の字は。茲矩の奮名之子の片諱を輿へたるなり。)の両人を選む。

秀吉先づ二人に、茶代として各知行二百石宛を輿へ、茲矩に謂って曰く、「卿、若し此の使を為し遂ゆば、是れ今回の合戦第一の功たるべし。依りて出雲國主と為さん」と。

茲矩乃ち「若し生を全うして、城内に入らば、号火を起ぐべし」と約し、 6月23日の夜、大野・高橋の二人を従へて、高倉山の陣を出で、闇夜に乗じて敵の重囲を穿ち上月城に入る。

秀吉、終夜寝ずして劫火の上がるを俟(ま)つ。
暁七ツ半時に至り、煙火起る。茲矩、既に城に入りて幸盛に曾し、具さに告ぐるに、秀吉の意を以てす。
幸盛曰く「秀吉の厚誼は誠に謝する所なり。今、囲を衝き身を以て免れんは敢えて難しとせす。然れども籠城の士女2300余人、その命、一に予が隻肩に繋る。孤城濁立。寡兵を以て十萬の敵に坑し。能く60余日を支へしは、洵に士卒忠勇の致す所なり。今、義を捨てて生を取らんこと吾、志に非す。汝、還て秀吉に謝し、且つ予が決心を告げよ」と。

茲矩、志の奪ふべからざるを見て、共の言ふ所に従ふ。
幸盛、別に臨みて、秘蔵する所の新見國行の刀を執りて、茲矩に授く。
茲矩、辞してて曰く「茲矩、今、使命を果したりと雖も、若し萬死を免れて復命するに及び、茲矩、死を期せずして、貸しを貧れりとの謗あらば、其の恥辱をいかにせん」と。

幸盛、亦強ひず、茲矩、高倉の陣に還り、秀吉に告ぐるに、幸盛が決心の状を以てす。
秀吉、まず幸盛が志を歎じ、且つ茲矩が勇を賞し、涙を揮つて曰く「我れ必す信長に稟して、汝に出雲國を與へん」と。
秀吉の高倉山の陣を撤して、書生山に移るや上月城は士気大いに沮み、謀の出づる所を知らす。
幸盛乃ち使を敵軍に遣し、首謀を誅して、以て一城の命を贖はんことを請ふ。
元春・隆景曰く「勝久・氏久等をして自殺せしめば、其の請を許さん」と。

幸盛泣いて勝久に謂つて曰く「事既に此に至る。君、請ふ自ら計を為せ。臣は将に佯り降りて元春を刺し、以て泉下に復命せん」と。
勝久、後事を幸盛に嘱して自殺す。城兵悉く出で去る。
幸盛、進みて元春に面す。然れども警衛甚だ厳にして、近づくことを得ず。毛利氏、兵を発し幸盛を備中松山の本営に護送す。
途、甲部川に至り、人をしてこれを阿井渡に欺き殺さしむ。幸盛時に年三十四。實に七月十七日なり。

茲矩、為めに寺を其の邑鹿野に建て、号して「幸盛寺」と云ふ。幸盛歿後尼子氏の遺臣、多くは茲矩に属す。
(幸盛遭害の翌月、尼子氏の遺臣片寄角右衛門重明。幸盛の妻亀井氏を奉じて、茲矩に依る。即ち亀井能登守秀綱の長女にして、茲矩の妻の姉なり。寛永二十年十一月二十四日没す。法名を高松院香誉崇薫禅定尼と云ひ、墓は石見國津和野亀井家墓地の域内に在り)
天正八年庚辰四月、羽柴筑前守秀吉兵を率ゐて但馬に入り、進みて因幡鳥取城なる山名中務大輔豊國入道禅高を攻めんとす。
是より因幡國は、羽柴・毛利二氏の争區となれり。初め豊國の毛利氏に降るや、質を徴せられ、其の最愛の息女、井に老臣森下道裕・中村春次以下の子女二十余人を差し出したる。
毛利氏は之を取りて、部将三吉三郎左衛門尉・進藤豊後守に託して鹿野城に拘置せり。秀吉、之を聞き兵を進めて鹿野城を攻め、城将を論し、山名氏出す所の質を収め、三吉・進藤の輩を逐ひて、安芸に退去せしむ。
此の役、茲矩功あり。因りて茲矩及因幡の士武田源五郎・丹波の士赤井五郎・石見の士福屋彦太郎の四人をして鹿野城を守らしめ、秀吉、更に兵を鳥取城に進め、使を遣し。山名氏に説くに、大義名分を以てし、且つ曰く「若し降参を肯んぜずば、火を鹿野城に放ち、質として拘置せる子女を殺さん」と。

豊國、遂に秀吉の軍門に降る。即ち豊國を更に鳥取城立と為し、質子は尚、鹿野城に置かしめ、秀吉は播州姫路に凱施せり。然るに、豊國の老臣森下・中村の徒は、一時の難を遁れんが為めに、佯り降りしことなれば、秀吉の軍を斑すや。
直に豊國に勧めて、復た欸を毛利氏に通ぜしめんとす。
豊國、遂に奔りて秀吉に投ず。道裕・春次等、相議して毛利氏に請ふに、主将を得んことを以てす。
毛利氏、牛尾大森左衛門春重をして、五百余騎を従へ、鳥取城に入らしむ。
是に於いて、羽柴方は、秀吉の留めし兵を、桐山(巨濃郡浦富桐山城是れなり)・鹿野の両城に集め、以て敵に當らんとす。
只、鹿野城には、其の拘置せる質子あるを以て、特に杉原播磨守盛重を将とし、矢田七郎左衛門幸等をして、土囲を築きて封陣せしむ。
(盛重が築く所の土囲の址、今尚、鹿野幸盛寺の域内に存せり)

鳥取の城将、牛尾春重以為らく「桐山城陥らば、鹿野は自ら降りて、容易に質子を回収することを得ん」と。
即ち自ら将として、急に桐山城を攻む。城将垣尾播磨守宗富善く拒ぎ、春重遂に矢に中りて死す。
偶、石見福光の城主吉川式部少輔経家、因州に在りて諸城を検察す。
毛利氏乃ち之に命じて、鳥取を守らしむ。経家大兵を必て、鹿野城を攻む。秀吉其の守り難きを察し、杉原十郎左衛門家次・荒木辛大夫・神子田半左衛門等十三人を遣し、鹿野城の守備を徹せんことを命ぜしむ。
是に於いて、武田・赤井・福屋の三人、共の久しく保ち難きことを慮り、命に従ひて、吉岡に退く。茲矩、濁り應ぜすして、「此の城決して棄つべからす」となす。
家来等これを壮とし、砲二十挺に弾薬を具し、黄金拾枚を併せて茲矩に贈る。
是より茲矩、益々守備を厳にし、且つ家士多胡・塩冶・湯・牧・松田等の徒を集め、諭して曰く「茲矩は此の城を死守し、死れて後已まんとす。憶ふに永禄九年、富田城食喝き、守るに術なくして、義久公、毛利氏に降らるるとき、幸盛に諭し、時の至るを俟ち、尼子の子孫を佐けて再興を謀らしむ。
此の時、寶蔵に貯蓄せし黄金を出して、幸盛に輿へて、軍費と為さしむ。幸盛、遺志を奉じて、臥薪嘗胆し、大小六十五戦を経る。然れども、運、拙くして、天正六年六月、勝久公は上月城に自刃し給ひき。時に茲矩、秀吉の旨を奉じて、城中に入り、幸盛を救はんと謀りしに、幸盛の志奪ふべからず、別に臨みて、幸盛曰く「義久公の賜ひし軍費尚残余あり、京都商人某に附して、保管せしむ。又軍功に因りて、信長の賜ひし丹波籾野郷三千人の月俸あり。両つながら、今、之を汝に譲るべし。汝これを以て、尼子氏の遺臣、及、予が郎党を撫育し、秀吉の力をかりて、出雲國を快復し、以て、尼子氏の遺志を達せしめよ」と。

其の言、猶耳にあり。秀吉も亦、予に誓ひて「出雲國を與へん」と云ひぬ。
抑々、尼子家は、山陰の名族たり。
然るに毛利氏に滅され、歴代の墳墓、敵の馬蹄に汚さるゝこと、一族たる者の均しく遺恨とする所なり。然れば予は飽くまで毛利氏に敵せんとす。
此の城、軍費二箇年を支ふるに足る。城は固より地の利を得たり。将卒、心を一にし、攻守宜しきを得ば、衆寡は敢て開ふ所にあらず。
若し運命此に尽きれば、将卒、枕を並べて死なんのみ。願くは予と死生を倶にして、尼子歴代の恩義に報いよ」と。

多胡以下の士卒、上下三百余名。皆これを然りとす。茲矩、語を続ぎて曰く「古より籠城は、退守に急にして、進取の勇なし。然れども、予は攻守二つながら、其の機に應ぜざるべからすと以為へり。
聞く北條氏康は、八千の兵を以て、両上杉八萬の軍を敗りぬ」と。

勉めよや汝将卒、鬼吉川の名を聞きて、漫に危惧すること勿れと。
既にして敵将吉川経家は、後援なき孤城に寡兵を以て留守する。
茲矩が大膽を凝惧し、又翻りて其の無謀を軽悔し、一挙容易に抜くべしと為し、千余の手兵を以て来り攻む。
茲矩、諸将士と議し、夜襲の計を却け、晨戦の謀を可とし、松田蔵人をして留守せしめ、騎兵百騎、歩卒百人、逞兵凡二百人を以て三手に区分し、早旦城を出づ。
皆白地に丸一の記号を書きて肩章とす。
(按するに、亀井家丸一の記号を用ゐるは。蓋し此の時に權輿するか)
時に濃霧天地を罩め、咫尺を辨ぜず。敵軍未だ朝食を終へざる時に方り、不意に起り、閧聾を放ちて攻撃す、敵の前後陣為めに一斉に紛擾し、高草郡宮吉地方に敗北す。

此の役、茲矩手づから敵の首を獲ること五級、接戦教十回に及べり。
我兵の敵首を獲ること約八十三、死傷三百余人なり。而して我将士の戦死せし者は、湯小市郎・加藤一学・塩冶三四右衛門・松田十蔵・多胡八右衛門、並に卒なりき。其の他、傷者若干人あり。秀吉、茲矩の功を褒めて、黄金作の太刀長刀を賜ふ。
是より経家、其の侮るペからざるを知り、復た来らず、鹿野城の北一里に、宮吉城あり。
毛利氏の鳥取を掩護せんが為めに、田公新介高家をして守らしむる所なり。茲矩これを攻む。鳥取の城兵救ふこと能はす、高家、降を乞ふ。則ち許して家人と為し、宮吉城を毀つ。高家、小銃を善くす。茲矩、就きて学び、基の技に精通すと云ふ。鳥取城は、後ろに山を負ひ、西北に海を控へ、山下に湊川あり。

毛利氏の武将、吉川式部少輔経家、之を守る。「秀吉来攻す」と聞き、塩冶周防守に雁金山を、奈佐日本助に丸山を分守せしめ、塁を築きて、本城と相連絡す。
天正九年辛巳六月二十五日、秀吉、兵三萬を将ゐて姫路を発し、戸倉を踰え、八東郡に入り、若櫻通私部に至り、笑堂を経て、法美郡三代寺に入り、更に国府より、岩倉の隘谷を歴て、瀧山に出で、小西谷より、鳥取城の東南峰に上りて、地形を相し、陣を城側の帝釈山に布きて本営とす。
山頂方五十間を開拓し、蕘らすに防堤を以てし、上に垣埼を築き、空涅を山麓に撃ち、鹿柴を結べり。
諸将、乃ち鳥取奴を包囲す。東は大日谷より、栗谷・柿谷・雁金山・角寺・円護守・浜坂・丸山を経て、西湊川今カロ川と言ふに至るまで、陣営碁布す。
別に杉原家次を三島に、浅野長政を其の西方に、吉川平助を弁天島に置き、湊川の港口を扼して、海路よりする敵の来援に備へしむ。
数月にして、城兵漸く苦む。既にして、宮部善祥坊継潤、奮戦して、本城と雁金山との間の一要所を奪ひ、以てその交通を絶つ。
雁金山の守将塩冶周防守、去りて丸山城に入り、二城遂に孤立す。
秀吉、機に乗じて肉薄す。十月中旬、城中糧尽く。経家、重臣福光小三郎を遺し、自殺して城を開き、以て士卒の死を宥めんと請ふ。
秀吉答へて曰く「経家は毛利氏の客将なれば、罪軽し森下・中村の輩は、主を逐ひて我に敵す。共の罪、宥すべからす。三人自殺せば、士卒の死を免さんと。経家之に従ひ二十五日自刃し、福光小三郎等三人これに殉す。
森下出羽入道道裕・中村対馬守春次・佐々木三郎左衛門・奈佐日本助・塩冶周防守の五人ら自害し、因幡、全く平ぐ。

乃ち宮部善祥坊を留めて、鳥取を守らしむ。是より先、茲矩は山名氏の麾下、汚登路免の城主兵頭源六を欺きて其の城を陥る。
城は鹿野城を距ること東南十町に在り。一にコンコノ城と曰ふ。又、鹿野河内向谷の荒神山城は、矢田七郎左衛門幸佐・田公次郎右衛門高清の籠る所にして、小畑高尾の城主島崎某、これが後援たり。
茲矩先づ説きて島崎を降し、次いで荒神山城を攻めて、これを陥る。其の他、山名弾正が守る所の驚峯村の狗屍那城、尼子豊後守正久が籠る所の湯村長泉寺の後山、勝見勝山の城も亦攻めてこれを取る。
茲矩の功、此の如くなるを以て、秀吉嘗て私に出雲國を與ふベきを約せり。是に於て、信長に稟し、天正九年八月七日を以て、出雲國を與ふる朱印状を得て、これを茲矩に授く。
鳥取城の陥るや、徳吉・大崎の諸城、風を望みて皆降る。濁り高草郡丸山の城主吉岡将監定勝、別に防巳尾に城き、これに籠りて降らず。秀吉みて、同郡末恒村三津崎に陣す。定勝逆へ撃ちて、秀吉の部将多賀文蔵を殺し、干瓢の馬標を奪ふ。
秀吉怒りて、急に攻む。利あらす。因りて茲矩を留めて、これを囲ましむ。茲矩、敵の糧道を絶ち、且細作を放ちて、城内を唆かす。旬日にして糧尽く。定勝夜遁れ、城遂に陥る。是に於て、十月二十五日秀吉茲矩を召し、籠城二年に及び、粉骨の労報い難しと称し、白銀三百枚、鞍馬一匹を贈り、又因幡國気多郡壱萬三千八百石を賜ひ、鹿野城主と為す。
(朱印状、後天正十七年十二月八日を以て下されたり)
鹿野城は、因幡國気多郡(今毛気高郡)鹿野の南、妙見山に在り。王舎城と号す。北を正門と為す。

山高さ百二十間、周囲七町十間、城内は、東西十六間、南北八間あり。
相傳ふ、志賀野某世々これに居りしに、天文十二年、尼子晴久の滅ぼす所となる。
永禄中、山名源七郎これに居り、叛臣武田高信に鳩殺せらる。爾後定まりたる主なし。
此に至りて、茲矩此の城に主たり。茲矩、既に気多郡を領有し、禄を功臣に與ふ。
就中井村覚兵衛は、茲矩が身を立つる初、寄食せし恩義あるを以て、特に之に報ゆるに、山ノ宮村四十八町の茶園を以てす。
覚兵衛六代の孫六右街門、氏を田中と更む。子孫四十八町の田園を保持することを得ずして、今は他人の分有する所となると雖も、尚多(田中に通す)の字名を存せり。
吉川駿河守元春は、兵六千を将ゐて、鳥取城を後援せしに、城既に陥いりしを以て、馬を伯者河村郡馬山に駐む。
秀吉は鳥取城の陥いりし翌日、陣を撤し、其の夜、茲矩の鹿野城に入り、二十八日、鎧畠に至り、進みて伯耆に赴き、馬山の前面なる高山に陣し、以て元春の陣を下瞰す。
馬山は橋津にあり。一に根岳と称す。地勢平円にして、湖山を襟帯し、後方大川を控へ、麓に一橋を通す。
元春舟梁を絶ちて、必死を示す。相持すること三日。秀吉、時李の寒に向ふを虞り、羽衣石の、城主南條勘兵衛尉元続・岩倉城主小嶋左衛門尉元晴等を戒め、堅守して出づることなからしめ、食糧器具を給し、軍を拳けて姫路に凱施す。
元春も亦、火を途次の民家に放ち、軍を引きて安芸国に還る。
天正十年壬午正月、元春因幡を快復せんと欲し、来りて荒神山城に入り、進みて鳥取城を襲はんとす。守将宮部善祥坊継潤、急を秀吉に告ぐ。
茲矩は備を厳にし、以て鳥取城に聾援せり。秀吉、報を得て、元春の軍を牽制せんと欲し、兵を率ゐて淡路に入り、二十日にしてこれを定め、四月備中に入り、高松城を攻む。

元春乃ち因幡を棄て、高松を救ふ。六月、右大臣信長弑に遇ふ。
秀吉毛利右馬頭輝元と和を講じ。軍を班して姫路に還る。其の八日。諸将を曾して。光秀を誅する謀を議す。是日秀吉茲矩に命じ。封に就きて因播を成らしむ。且日く。曩には汝に出雲国を輿へんと約せしに。今事変に処して。遽かに利を毛利氏に講ずるに至れり。復た如何ともすべからす。願くは出雲以外に於いて。汝の欲する所を選べと。茲矩日く。光秀誅に就かば。海内六十余州。挙げて摩下に属せんこと。火を賭るよりも明かなり。然れども。茲矩の海内の地に於ける。出雲を除く外。望む所なし。若し琉球国を賜はらば。伐ちて之を取らんと。秀吉大いにこれを壮なりとし。腰間插む所の金園扇を採り。其の中央に。六月八日秀吉と署名し。右辺に羽柴筑前守と書し。左辺に亀井琉球守殿と書し。手づから之を授けて。他日の証左と為す。征韓の役選るに際し。秀吉叉茲矩に。明国を征服せん後。汝何の国を望むかと悶ふ。茲矩願くは台州を賜へと答ふ。秀吉の茲矩に輿ふる文書。琉球守或は台州守と署するは。是を以てなり。按するに。台州は.明の浙江省台州府。(禹貢の揚州域。春秋戦国の越地。秦の(門に虫)中郡。漢に東 に属し.東漢の章安。三国呉の臨海。染の赤城。唐の海州・徳化・台州。宗・元不・明の台州)是なり。

天正十三年乙酉.茲矩従五位下に叙し。武蔵守に任ぜらる。天正十五年丁亥三月朔日。豊臣秀吉京都を發して島津を討つ。茲矩黒田官兵衛長政と倶に軍監となりて。豊後国時枝城を修む。秀吉之に入る島津義弘・同家久。豊後国府内より。日向の縣に還り。其の蔵摩に入るを追撃せんとす。茲矩は。官部善祥坊継潤・木下平大夫興基・垣屋隠岐守光成・福原右馬助直高等と倶に日向国耳川を渡り。根白に陣し。薩軍の出でんとする要路を扼す。四月十七日。義弘の夜襲を受け。頗る苦戦す。時に木下・垣屋・福原の三将敗走し。茲矩力を善祥坊に協せて抗拒し。藤堂佐渡守高虎・黒田如水・同長政の援を得て。逢にこれを撃退す。秀吉功を賞して。則光の長刀を賜う。五月八日。島津氏降を乞ひ。九州葱く平らぐ。九州平ぎて後。茲矩石州より出雲路を経て。邑に帰る。途に石見国美濃郡益田に在る姉を訪ふ。姉は茲矩の同腹なり。永禄六年。尼子晴久の雲州富田城を失ふや。毛利氏に捕らえられ。長じて益田越中守の一族。小原豊前守宗勝に嫁し。ニ男一女を生む。宗勝先ちて卒し。寡婦となりて益田に住めり。翌年。茲矩江角善右衛門を益田に遣わして。母子を招き。ニ子新吉を主水と更め。亀井氏を称せしめ。片諱を輿へて眞房と云ふ。(後眞清と更む。)後故ありて鹿野を去り。山城伏見に客居し。外祖父の氏多胡を称す。多胡主水眞房は。天正九年辛巳生る。慶長五年関が原の役。茲矩に従いひて出陣す。時に年甫めて二十。天正中。叔父茲矩と和せず。去りて山城国伏見に移り。母の氏を冒して多胡と称す。徳川家康駿府に在りし時。本多佐渡守・成瀬隼人正に依りて。幕府に仕へんことを請ふ。両人之を許し。茲矩に告げしに。茲矩日く。渠れは叔父たる予に背きて。身退きたる者なれば。推挙せらるること勿れと。是に於いて眞房空しく伏見に帰る。慶長十七年。茲矩卒し。政矩封を襲ぎ。帰復せんことを促す。眞房途に鹿野に帰る。乃ち禄千石を輿へ。名を眞清と更めしめ。老中の別席と為す。慶長十九年。大阪真冬の役。共に政矩に従ひて出陣す。元和三年。政矩の封を石見に移さるるや。従ひて津和野に徒る。同五年.政矩卒し。嫡子大力(後にこれ政と云ふ。)僅に三歳なり。将軍秀忠。特に眞清を召し。

祖父茲矩の忠節を憶ひ。本領を安堵せしむ。眞清命を拝し。大力の成長するを待ちて。政務を・懈らず。七年八月。成瀬隼人正・竹中采女頭・島田治兵衛命を伝えて。亀井家年寄職たらしむ。八年正月。多胡信濃等と蓮署せる誓書を出す。寛永十二年四月。湯八朗右衛門・塩屋弥五左衛門・同潅兵衛・富田織部等。眞清の顕栄を嫉み。幕府に誣告す。松平周防守・金森出雲守・柳生但馬守・松平出雲守・神尾内記等訟を聴き。将軍家光の裁決を請ふ。六月。寵解け。加増せられて二千 六百石を食む。寛永十九年七月二日。江戸に没す。法号を帥庵元心居士といふ。墓は芝愛宕町青松寺の域内に在り。茲矩の姉は。慶長十九年終に鹿野に没す。幸盛寺の域内に葬り。法号を賀屋殊慶大姉といふ。墓石今尚存す。秀吉の海内を統一するや。茲矩意を民政に注ぐ。気多郡勝見郷日光村に大池あり。茲矩池水と海潮との高低を測度し。これを大海に洩決して。新田を拓かんとし。天正十六年戊子二月。土工を興し。池の北岸を撃開す。此の池。幅二三町。或は五六町。長さ半里許あり。両岸に山峙ち。湛水深黯なり、既にして工事成り。泥(さんずいに卓)を治。転軒を奨め。三百飴石の良田を得たり。今は水陸田合せて百三十五町あり。池畔に民家五十戸散在せり。今その地を視るに。地中に突出せる折念が鼻の一端を削平して。軌道を設け。山陰列車の通路とせり。秋穫の候までは。車窓より望むに。皆稲田にして。池沼を認めず。秋に至れば。水量加はりて。股を浸す。池畔五十戸の村民は。各小舟一船を備へ。刈り取りたる稲を。この舟に積み。海浜に輸して乾すを例とす。冬は田地全く池沼に変じ。水面軌道の下に達すといふ。蓋し北海の潮水。春夏の侯は低減して。秋冬の侯は。之に反するなり。総じて池に奇異あるを説くものあり。八月。池東の山林に一社を創建し。

日光大明神と云ふ。今杉谷神社と改称し。一村の鎮守と為す。天正十八年庚寅十一月二十九日。政矩生る。幼名大力丸。後新十朗と更む。母は側室多胡宗治右衛門重盛の女なり。 政矩の生母多胡氏は。元和六年庚申。将軍秀忠の特旨を以て。江戸より石見津和野に移り。大力を保育すべき任に当たる。寛永六年己已六月八日津和野に於いて没し。永明寺に葬る。法号を清光院栄曳正壽大姉と云ふ。丈禄元年壬辰。太閤秀吉明国を征せんと欲し。途を朝鮮に借る。韓王應ぜす。秀吉怒りて。先づ朝鮮を討つ。茲矩艨艟五般を師ゐ。兵千人を従え。肥前国名護屋の本螢に抵る。是より先。茲矩秀吉に謁して曰く。総じて賜ひし処の流球を征する準備。已に略整ひたり。願くは允可の朱印を賜へと。秀吉已むことを得すしてこれを輿ふ。是に至り。兵を率ゐて。琉球に向はんとす。秀吉日く。我れ今明を征せんとし。先づ朝鮮の罪を問ふ。然るに卿が事を琉球に構へ。兵を二分するは。策の得たるものに非ず。朝鮮平らぎて後。琉球に及ぶも亦晩しとせいず。卿先づ朝鮮に航して。軍功を励めと。茲矩乃ち征韓第十軍に列し。加藤嘉明が海軍に参加して。大いに敵の海軍蒋李舜臣と。
巨済海に戦ふ。時に茲矩が船。敵の佛朗機に中りて。火起る。茲矩船を棄てて倉皇陸に上る。急遽の際。驚きに秀吉賜ふ所の。金圏扇を遺失せり。按ずる。敵清舜臣茲矩棄つる所の船を治して。金圏扇の函中に歳するものを獲たり。李忠武全書収むる所の。乳中日記壬辰六月二日の條。記する所頗る詳かなり。然れば此の金圏扇は。今尚朝鮮国王城の寶庫中に存するものゝ如し。茲矩の朝鮮に至るや。先づ攻めて蘇州城を取り。七十飴日の間。人馬を休息せしむ。蘇州城を距ること西五里に。熊川の古城あり。堀内安房守氏善之を守る。三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉隆)書を致し。茲矩をして代りて守らしむ。茲矩乃ち蘇川城を焼き。古城に移る。居ること敷月の間。敵兵来り攻むること数次なれども。皆之を撃退せり。既にして。岐阜宰相秀信書を移し。古城を徹して。釜山に来れと令す。是を以て古城を焚き。釜山に還る。時に秀信の兵千余人。東古都城に據り。韓兵に囲まれる。乃ち茲矩をして往きて援はしむ。茲矩囲を破りて。城に入り夜城兵を引きて。釜山に還る。後茲矩復た進みて。機張城を守る。文禄元年壬辰十月十三日。明韓の兵三萬飴ありて来り囲む。茲矩隠忍して發せす。既にして敵兵城門に蟻附す。茲矩精兵三百を放ちて。内威して出づ。敵背兵券を棄てて走る。此の役。首を獲ること八百飴級。砲銃其の他の兵器を獲ること算なし。是より敵復た敢て来り逼らす。十一月二十一日。茲矩部下の士卒を催し。近傍の山澤に猟す。大虎を見る。茲矩二丸を発してこれを殪し。臣牧彦十朗信明に命じて。肥前名護屋の行螢に斎し。秀吉に戯ぜしむ。秀吉見て未だ曾て見ざる処なりとし。直に京都に輸送し。後陽成天皇の叡覚に供ふ。既にして。虎を車に載せて。洛中洛外を観き巡り。衆庶をして縦覧せしむ。畫伯狩野山楽。これを写すといふ。秀吉茲矩に朱印を輿へ。牧信明に時服を賜ふ。文禄二年発已四月二十四日。茲矩ウイナゴン城を攻落し。五月朔日。敵の番船を西生浦に捕獲し。悉く船中の敵を斬る。秀吉叉朱印を輿ふ。此の役。高橋孫四朗子廣の男樺八朗子清。年十九にして勇戦す。毒矢内甲に中る。輙ち自ら其の矢を抜き。小柄の刀を以て。矢痕の肉を到り去り。潮水を潅ぎて彿拭す。既にして明韓頼りに和を求め。諸将戦を休めて命を竢つ。茲矩遂に海に舵して還る。慶長三年戊成八月十八日。太閤秀吉死す。遺物として茲矩に一文字の名刀を賜へり秀吉の死後石田三成等の徒潅を壇にするを以て。茲矩意を決して徳川家康に属す。茲矩一女あり。家康の旨を請ひて。五年庚子二月二十三日。其の閥族参州吉田城主松平玄番頭家清の嫡男萬之助忠清に嫁せしむ。茲矩の女は。政矩同腹の姉なり。寛永十二年己亥十月七日卒す。法号を顕光院松誉裕栄大姉と曰ひ。墓は参州吉田大泉寺に在り。松平家清は。天正九年。家康の偏諱を賜ひ家康異父の嫁を以て。之に配し忠清を生む。然れば忠清は家康の甥なり。忠清慶長十七年王子四月二十日卒し。嫡なきを以て封を除かる。慶長五年庚子五月。徳川家康上杉景勝を討たんとし。六日を期して。諸侯を江戸に曾せしむ。茲矩三百人を率ゐ。諸将に先んじて江戸に入り。軍資二千両を贈る。壽いで家康に従ひて。下野小山に抵り。留まること数日。其の間本多上野介正続、成瀬隼人正等に属し。

夜話の席に候せんことを請ひて允さる。一夕茲矩懐を探りて。石田三成等が檄を出し。家康に示し。直に寸裂して懐に収む。既にして家康藤堂佐度守高虎・山岡道阿弥を遣し。関西諸侯にして。妻子大阪に在る者は。随意帰邑せしむ。茲矩留まらんと請ふ家康これを嘉す。八月朔日。従ひて小山を発し。江戸に還る。閲が原の役。茲矩又家康に従ひて。九月朔日西上し。十一日。尾州清洲に至る。十四日家康部署を定む。茲矩は蜂須賀至鎮等と共に遊軍たり。翌日関が原に曾戦し。西軍遂に敗る。敵将江州水口城主長束大蔵大輔正家。遁れて其の城に入る。池田備中守長吉、欺きて桜井が谷に退かしむ。尋いで茲矩長吉と倶に台命を奉じ。正家に逼りて屠腹せしむ。因りて城内の貨財を。茲矩・長吉の二人に分輿せらる。此の役。因・但二州の侯伯。宮部兵部少輔元房以下。皆西軍に属す。一茲矩東軍に属して功あり。九月二十二日家康大津城に在りて。茲矩を召し帰邑して因幡及伯耆牛国を絢へしむ。茲矩因幡若櫻に至り。罪を徳川氏に得たる諸将の遺臣を諭し居城を徹せしむ。若櫻城主木下備中守・浦富城主垣屋隙岐守の遺臣。皆命を奉す。独り鳥取城主宮部元房の遺臣。城を守りて降らず。茲矩援を但馬竹田城主赤松左兵衛尉廣英に求め。兵を合せてこれを攻む。市民兵火に死する者あり。既にして。邑美郡の人田中某を遣わして。説きて降らしむ。因・伯全く平ぐ。十二月茲矩伏見に抵り・復命す。家康茲矩が西軍に左加せし赤松宏英と協力し兵を以て鳥取城を定めしを倖ばず。宏英が火を放ちて災を民家に及ぼしゝを責めて。之に死を賜ひ。茲矩には僅に高草一都二萬四千武百石を加賜す。前に通じて三萬八千石を食む。是より茲矩志を幕府に得ず。専ら殖産興業の事に従ふ後。高草郡の新に領土に帰するや。湖山村なる湖山の池を開發して。海に叡決せんと欲す。而れども。池水海面より高くして。功を完うすること能はす。僅に池畔数頃の田圃を得きと云ふ。千代川は。邑美・高草の境界にして。邦内の巨川たり。茲矩其の水勢を利用して。土砂を大海に俳除す。茲矩池田備中守長吉と。領土相撲し。千代川流域の境界を争ひ。彼我河畔に大堤を築く。我堤は高草郡古海村より。秋里三島に至る。大約二里許なりき。土民為めに氾濫の害を免るるを得たり。称して亀井堤といふ。今に至る土で三百年崩壊せす。茲矩又領土高草加路村と。長吉の領土袋河原村とを交換し。新に布袋村を置き。此の袋河原・布袋の両村より.智頭川の流水を堰き入れて。大井堤を作り。高草郡数村の田地に灌漑す。是より郡中水足りて。農作倍加す。村民今尚水利組合條例を設けて。其の遺意を尊奉せり。鹿野に鍛冶町あり。民皆鍛冶を生業とす。茲矩屡これを過ぎ。一家の味爽より起きて。夫妻倶に業を勉むるを見。米二石を賜ふ。是より隣保競ひて夙起こす。茲矩民を愛する心深く。毎年領民年六十以上の者を。鹿野に召し。洒飯を響す。其の状数十問の連房を設け。奉行を置き。気多・高草両郡。日を異にして。老男老女を集め。城下妙齢の婦女子数人をして。出でて給仕せしむ。饗し畢れば。老者をして銭を探りて。米・粟・大豆・小豆・栗・稗等各一包を携へて還らしむ。

茲矩、先きに琉球を征せんと欲して果さず。意を翻して海外に通商せんと欲す。
慶長十二年丁未八月十五日、海外渡航の朱印を幕府に受け、庶子鈴木八右衛門を異国同船売買の総奉行とし、長崎に派して、通商の事を督せしめ、大船を造り、家臣多賀是兵衛子久・塩冶五郎大夫・梶原弥右衛門等に、気多・高草両郡の民を附して舟夫と為し、更る更る渡航し、刀剣・金銀細工物・布巾・錦織・薪絵道具・絵屏風等を購ひて、明国及暹羅・東蒲寒・安南・交址・呂宋・阿媽港・東京等に輸出し、又彼の国の縮緬・綾子・襦珍・襦子・天鷲絨・羅紗・狸々緋・毛織物・豹・虎・羚羊の皮・南京陶器・北京織物・瑠璃・珊瑚・象牙・室生犀角・麝香・龍脳・伽羅・沈香・丁子・白檀・紫檀・黒檀等を輸入し往往これを幕府に献じ。又諸侯に贈る。伊達政宗が生麝香を贈られたるを謝する文。政宗の記に見えたり。又鸚鵡・孔雀・驢馬・野牛及異様の植物等をも舶載し来り。其の中驢馬及野牛は。これを湖山池中の青島に放ちしに。寛永年中ので生存したりき。茲矩又朱檀。黒檀・花櫚・梹椰子・沈香・白檀等珍奇の材を以て。鹿野城中に一室を構ふ。封を石州に移されし後。池田光政の臣日置豊前守。これに居り。一日火を失して悉く鳥有に帰せしむ。慶長十四年己酉正月三日。茲矩致仕す。男政矩封を襲ぎ。四月幕府の旨に依り。松平周防守康重が女を納れて室と為す。尋いで。伯耆国久米・川村の二郡の内に於いて。高五千石を賜ひ。前に通じて四萬三千石を領するに至る。茲矩一日嗣子政矩及老職を召して。懇ろに諭して日く。吾家ほ世々尼子氏に属せしに。憾むらくは其の衰亡を救ふことを得ざりき。今より後。須く幕府に仕へて。奉公の誠を尽すべし。是れ天恩に報ゆる所以なり。萬一不逞の徒あらば。家をも身をも顧みずして。王事に勤めよ。我租富士名義網が元弘の時の事。以て模範とするに足ると。政矩及老職等。皆感涙して命を奉す。茲矩老いて後。抑遜人に超ゆ。家人嘗て共の功を録して。後に伝へんことを勤む。茲矩笑ひて許さず。故に今其の詳悉を考ふべからす。茲矩慶長十七年壬子正月二十六日。病みて因州鹿野城に卒す。

享年五十六。鹿野寺内村名字が鼻に葬る。
蓋し此の地、當初茲矩が卜居せし処なるを以てなり。
葬式は、曹洞宗少林山譲伝寺、第十七世南嶺長老、導師となりて之を勤行す。
法号を中山道月大居士と云ふ。
石碑の高さ一丈許。二重臺座にて、上段方二間、高さ一尺余。下段方三間半、高さ五尺、本造の玉垣方四間、高さ五尺なり。
茲矩八世の孫能登守矩貞。父祖の遺志を継ぎ、明和五年戊子、神社を石見国鹿足郡喜時雨村(今畑が迫村に属す)に建てて。茲矩の霊を祀り。神祇管領卜部兼雄に請ひて。武茲矩霊社の神号を得たり。
文久元年辛酉「元武神社」と改め、明治四年八月、又「喜時雨神社」と改め。
郷社に列せらる。
四十三年二月七日、更に「津和野神社」と改め、同年八月八日県社に列せらる。