特別番外編 南九州の古代


第1部 鹿児島県


これは2015年11月13日より16日まで鹿児島県大隅半島の縄文時代をを北上し、宮崎県の縄文時代から西都原古墳群までの訪問レポートです。

これまで北は青森県から新潟県までの縄文時代を訪ねてきて、その文化の高さに驚き、縄文時代は東北地方を中心に栄えたものと認識しておりましたが、今回の旅によってその認識をあらためることとなりました。

一部の芸術性の高い土器(例:火炎土器そして漆加工品)を除いて、その生活は距離にして2500Km以上隔てていても、均質的な文化の高さを示しており、日本の風土を一層誇らしいものとしてくれました。

ここでは青森県の三内丸山縄文遺跡より約3500年は古く、九州を代表する鹿児島県・上野原縄文遺跡の優れた解説書「常設展示図録」の分類法に準拠しながら、訪問先を順次ご紹介します。



高千穂峰 1574m(早朝ホテルのガラス越しに撮りました)


「南九州の訪問先」
鹿児島県・大崎町:横瀬古墳
鹿児島県・霧島市:上野原(うえのばる)遺跡・上野原縄文の森展示館など・大隅国分寺跡・霧島神宮
宮崎県・西都市:西都原(さいとばる)古墳群・西都原考古博物館・日向国分寺跡 宮崎市:生目古墳群史跡公園・田野町:本野原(もとのばる)縄文遺跡・宮崎県埋蔵文化財センター・宮崎博物館 など



古墳時代までの略年表


横瀬古墳(鹿児島県曽於郡大崎町)
横瀬古墳は志布志湾沿岸にあり、私が太平洋戦争の敗戦後、小学2年より中学卒業まで住んでいたところから、およそ2Km離れたところにあり、今は廃線となった鉄道線路の向こうの広大な田んぼを隔てて、朝な夕なに眺め、グミの実を食べに行ったり、川で泳いだり横瀬海岸に波乗りに行ったりしたところでした。
その頃の古墳の周りには土器のかけらが散らばり、ジャングルのように木々が生い茂り、盗掘に関わった人が目が見えなくなったとか…何か神秘的でちょっと怖いところでしたが、古代の歴史に興味を持ったこともなく、ひたすら遊びにぼ没頭していました。
今回は小学時代の同窓会と先生の傘寿のお祝いを兼ねて8年ぶりに大崎町を訪れることから始まりました。





古墳の全景:ソバとコスモスの花が美しい季節でした



私の子供時代の遊び場でした


上野原縄文の森(鹿児島県霧島市国分上野原)


1986(昭61)年に、上野原遺跡は約9500年前の二条の道跡とともに52軒の竪穴住居群それに付帯する遺構とともに発見され、南九州における初期定住化の様相を示し、約7500年前に埋納された土器。土偶・耳飾り・石器などは開花した縄文文化を示すものとして、これまで縄文文化は東日本からという常識を覆してしまいました。出土した土器は1998(平10)年に重要文化財に、翌年には遺跡の一部が国の史跡に指定されました。

縄文の森は36haの広大なエリアに、埋蔵文化財センターを中心に時計の逆回りに上野原縄文の森展示館・地層観察館・遺跡保存館・祭りの広場・体験学習館・古代家屋群など充実した遺跡保存がなされていて、68号に及ぶ「埋文だより」「常設展示図録」や定期刊行誌29Vol「上野原縄文の森だより」や「かごしまの遺跡2015−発掘速報展」の43回の企画展・今年で12回を迎えた「縄文の春祭り」など、考古学に親しめる企画がいっぱい、その組む姿勢には素晴らしいものがあります。



展示館入口




最新の「暦年較正年代」と従来の「14C年代」法との違い



復元集落と展示館(穴は竪穴住居跡です:カメラの調整不良でした)


「上野原発掘調査結果」19861996
(鹿児島県教育委員会・ウイキペディアよりコピー) 

発掘調査では17層の地層について調査され、1層目から9層目までの範囲で遺跡が確認された。
1層目: 桜島の火山灰P1- P3)を含む現代の農耕土。土師器陶磁器が確認された。

2層目: 黒色土。山之口式土器中溝式土器竪穴式住居6軒が確認され、近世から中世にかけての遺跡とされる

3層目: 暗茶褐色土。掘立柱建物1軒、石皿、石斧などが確認され、古墳時代から弥生時代にかけての遺跡とされる。

4
層目: 桜島の火山灰(P5)を含む薄えび茶褐色土。多数の土坑黒川式土器が確認され、縄文時代晩期の遺跡とされる。

5層目: 桜島の火山灰(P7)を含むえび茶褐色土、および鬼界アカホヤ火山灰を含む明橙色土。

6
層目: 桜島の火山灰(P11)を含む灰茶褐色土。

7層目: 黒褐色土。様々な種類の縄文式土器に加えて集石遺構56基、土抗3基が確認され、縄文時代早期中葉から前葉の遺跡とされる。

8
層目: 桜島の火山灰(P13)を含む黒色土。前平式土器撚糸文土器が確認された。

9層目: 暗茶褐色土。竪穴式住居跡、集石遺構、連穴土抗、前平式土器などが確認された。この層と直下の10層目との間に縄文時代早期前葉の遺構が挟まる形になっている。「国内では最古級で最大の定住化した集落」竪穴式住居52棟、このうち10軒の竪穴内の埋土は桜島噴出の火山灰(9500年前)が詰まっていた。このことから上野原台地の早期前葉には10軒程度の集落が形成されていた。日本列島最古の集落跡。石蒸し料理施設の集石39基、燻製料理施設の連穴土抗(炉穴)19基、道跡(二筋)、多数の土抗や生活跡。

10層目: 桜島の火山灰(P14:サツマ火山灰)を含む黄色土。この層より下の遺跡は確認されていない。

このうち特に桜島火山灰P14の上にあった最下層部の遺跡において、竪穴式住居46軒、石蒸調理のための集石遺構が39基、燻製製造のための連穴土抗15基、その他の土抗約125基、道の跡2条が確認された。竪穴式住居跡のうち10軒については桜島火山灰P13で埋まっていたことから、これらの住居はP14からP13の間、すなわち約9500年前の縄文時代早期前葉に存在していたことが確認された。集落跡の面積は15,000平方メートルに及ぶ。


「旧石器時代」







































「9500年前の上野原」


約13000年前に九州南部の氷河期が終わり、温暖・湿潤な気候となってコナラ・ブナ・クヌギなどの落葉広葉樹の森におおわれ、今より寒い時代に竪穴住居の村を中心に、狩猟・漁猟・採集の生活が始まりました。

鹿児島県で最も古い遺跡の一つ、種子島・西之表市にある鬼ヶ野遺跡では,縄文時代草創期(約1万2千年前)の竪穴住居の遺構と隆帯文土器などの遺物が良好な状態で確認されました。隆帯文土器とともに出土した石鏃などの多種の石器604点は、草創期の狩猟・採集生活の様子を知るうえで貴重な遺物になっています。




隆帯文土器:中種子町・三角山遺跡 縄文草創期(約12000年前)



貝殻で文様を付けた独特の土器:上野原遺跡・縄文早期前半 
南九州では、他で見られない角鉢や壺まで現れています



土偶を作るより簡単?





















左:深浦式深鉢 右:広口の壺


深浦式土器=縄文時代前期の土器のひとつで、枕崎市深浦遺跡より出土、口縁部がやや外反して、胴部はやや締まり、底部は丸くなっているのが特徴で、刻みつけた1本または2本のミミズばれ状の細い突帯で区画を作り、その中を沈線文で飾っています。



双口土器:みなみさつま市・上加世田遺跡 縄文晩期 
ここからは新潟県糸魚川の翡翠の首飾りも出土しています


「7500年前の上野原」
早期後半になると、気候の温暖化によって人々は多種多様な道具をつかい、土器文化と精神世界が生活を豊かにしていきました。「祭りの広場」の台地の最も高いところに、丸と四角の口を持つ壺が完全な形で土中に埋められ、その周囲には10個の鉢型。つぼ型の土器が斜めに埋められ、これらを取り囲むように日常使用した土器片や石器が埋められ、この場所は神聖な地であり、真ん中の壺はお祭りのときに掘り出して使われたようです。


この展示館の照明は色々な色が使われています


「6300年前」鬼界カルデラ大噴火
屋久島の北方にある海底火山が噴火し、鬼界カルデラ(現在の薩摩硫黄島もその一部です)の火砕流は海を渡って薩摩半島や大隅半島にまで達し、宮崎県全土で30cmもの積灰があり、南九州の集落に壊滅的な損害を与えました。
この災害がなければ南九州の縄文時代はさらに素晴らしい発展を遂げていただろうと想像しています。

この頃から朝鮮半島から沖縄諸島まで、全国的な尖った底や丸い底の土器が現れ、人々の交流が盛んになったことを裏付けています、その範囲は北は新潟県・糸魚川のヒスイから始まり1500Km以上の交流を物語っています。
一方では九州南部の土器が四国西部・山陰や五島列島、そして奄美諸島・沖縄本島まで分布を広げてゆきます。また九州南部ではこの頃から貝塚が多く見られるようになります、人口が増えてごみ処理に工夫がなされたのでしょうか。





















































左:上からアカホヤ火山灰・火砕流・炭化した樹木・軽石層  右:24000年間に堆積した地層(鹿児島県・末吉町)



古代の歴史を見てみる…(「上野原縄文の森」展示図録よりコピー)


大隅国分寺跡(霧島市国分)

奈良時代741(天平13)年、打ち続く地震・凶作・天然痘のため世情が不安になり、聖武天皇が鎮護国家と五穀豊穣を祈って全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました、その後明治初年の廃仏毀釈によってことごとく失われてしまいました。



敷地はそのまま残されていたようです



残されたのは仁王像と多層塔のみ


霧島神宮(霧島市霧島田口)

6世紀欽明天皇の時代に社殿が創建されていますが、元々高千穂連山の山岳宗教の地であったのでしょう、社殿は噴火によって度々炎上してしまい、現在の社殿は1715年のものです。
ご祭神はニニギノミコトと奥さんのコノハナサクヤノヒメミコトそしてその曾孫までが祭られています。「古事記」「日本書記」ではアマテラスオオミカミがニニギノミコトを日向に遣わしたことになっており、いつの時代かわかりませんが神話でも古い神社です。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一面観音、別当寺に華林寺を有する霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権現信仰の中心的役割を果たしていました。



霧島神宮



ご神木は樹齢800年の大杉



「君が代」に出てくる「さざれ石」
(石灰質角礫岩:石灰乳が小石を固めてできます) 岐阜県揖斐郡春日村の山中にて発見


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