司馬 遷しば せん、紀元前145年 - 紀元前86年?)は中国前漢時代の歴史家。

姓は司馬。司馬氏は周代の記録係の家系であり、父は前漢の大史令となった司馬談。
名は遷、字は子長。『史記』の著者として東洋最高の歴史家の一人に数えられる。

周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。
太初暦の制定や、中国最初の通史『史記』の執筆などの業績がある。
その迫真の人物描写は『史記』に文学としての評価をも与えた。




司馬遷は匈奴との戦いで敗北し匈奴へ下った友人の李陵を弁護したため武帝の怒りに触れ、死刑を下された。
だが、死刑を免れる方法として宮刑があるのを知り、宮刑を受けた。
性器を切り取るというこの残虐な刑罰は司馬遷に多大な衝撃と恥辱を与え、人生観を一変させた。
2年後、屈辱を耐え忍びつつ宦官として宮廷に赴いて中書令となり、『史記』の執筆に全力を傾けた。

史記の『太史公自序』にはこの出来事に関して、ほとんど触れられていない。
だが、友人の任少卿に送った手紙には、彼が一時は自殺を考えながらも、
ただ『史記』の完成のためだけに生き長らえようという悲壮な決意が記されている。
皮肉にも、この事件こそが司馬遷の筆に一層の深みと重みを与え、『史記』を不滅の史書たらしめたのである。
この手紙(『報任少卿書』)は名文として文選にも収録されている。

司馬遷は『史記』の列伝の最初に伯夷叔斉を次に管仲と晏嬰とを置いている。
この四人は全て君主に対して強い諫言を行って、かつ君主に殺される事の無かった人たちである。
これらの古人と自分、古の君主と武帝を引き比べて思う所があったのだろう。




【生涯】
【 著者 司馬遷について 】
一説によると『史記』の著者・司馬遷(シーマー・チェン)はBC80年の11月 6日に亡くなったとされています。
(BC86年没という説もある) 夏陽の生まれ。
子供の頃は農耕や牧畜の手伝いをしており、20歳頃に中国の あちこちを回る大旅行をして見聞を広めます。
父が歴史の編纂をする太史令 という職に任官されて一緒に都に移りますが、その大旅行の経験が買われて 遷自身も郎中(官僚見習)に任官。
更に今度は時の皇帝・武(ウー)帝の命であ ちこちを回ることになります。
父の司馬談は中国のこれまでの歴史をまとめる仕事をしていました。
それま で中国に正規の歴史書というものは存在しておらず、これはたいへんな事業 でしたが、道半ばにして談は亡くなります。
すると遷はその後任に任命され やがて、それまで集められた資料を元に、BC104年、大著『史記』の執筆に 取りかかるのです。
ところがここで事件が起きます。BC98年のことでした。
当時漢は北方の遊牧 民族と激しい戦いを繰り広げていましたが、そうした中、将軍の李陵が奮戦 しながらも敵の捕虜になってしまいます。
捕虜になったことに怒った武帝は 御前会議において、李陵に死刑を宣告する(むろん帰ってきたら)と発言。
居並ぶ重臣たちはびくびくしながら畏まっていました。
ところがここで、司馬遷が死刑はひどすぎるといって李陵を弁護しました。
司馬遷は特に李陵と親しかった訳ではないのですが、皇帝の命令は筋が通っ ていないと感じた彼独特の正義感がこうさせたのでしょう。
しかしすると、武帝は今度は司馬遷をギラリとにらみ「それでは李陵を死刑 にする前に司馬遷を死刑にせよ」と言い放ちました。
あまりの言葉に青くなる司馬遷ですが、さすがにこれに対しては他の重臣た ちが、武帝を取りなします。
すると武帝は少し思い直して「では司馬遷は罪 一等を減じて宮刑とする」と発言を訂正しまた。

説明の必要はないとは思いますが、宮刑とは男性の外性器を切除する刑です。 むろん麻酔などは掛けません。
古代には尿道がふさがってしまったり雑菌で 炎症を起こしたりして、死亡率も高かったようです。
女性の場合どうしたか については諸説あります。
一時期「女性は宮中に幽閉した」という説が流布 していましたが、どうもこれは外れのようです。

ともかくも、かくして司馬遷は首の代わりに別の所をチョン切られてしまっ た訳です。
後に司馬遷は宮刑の恥を思うと体中から油汗が出てくるほど悔し いといったようなことを記述しています。
武帝はある意味で寛容な君主であり、宮刑に処した後も司馬遷に今までの仕 事を続けることを許しました。
かくして、全130巻という大著『史記』はBC90頃に仕上がります。
ただこの時、 一説では、司馬遷が書いた武帝に関する巻だけは武帝があまり気に入らず、
破棄してしまったため、後代に別の資料から補充されたとも伝えられます。
また、それ以外にも現在伝わっている『史記』は後世追加された部分がある ようです。
(つまり司馬遷が亡くなった後の時代に関する記述が存在する)
司馬遷が『史記』において確立した記述方式は「紀伝体」と呼ばれ、皇帝ご との「本紀」と諸臣を記述した「列伝」、
および年表などの諸表や文化史の 記述、諸侯の事績などからなります。『史記』が中国で最初の正史である訳 ですが、
後の中国の正史は全て基本的にこのパターンを踏襲しました。





【史記の構成】

本紀 12編 五帝本紀 夏本紀 殷本紀 周本紀 秦本紀 始皇本紀  
        項羽本紀 高祖本紀 呂后本紀 孝文本紀 孝景本紀 孝武本紀

列伝  70編 伯夷列伝 老子韓非列伝 太子公自序 など。

世家  30編 呉太伯世家 斉太公世家 魯周公世家 孔子世家 など。

書   8編 礼書 楽書 律書 歴書 天官書 封禅書 河渠書 平準書

表   10編 三代世表 十二諸侯年表 六国年表 秦楚之際月表
     漢興以来諸侯王年表 高祖功臣侯者年表 恵景間侯者年表  
     建元以来侯者年表 建元巳来王子侯者年表 漢興以来将相名臣年表