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この人生論は、地位や名誉や肩書きを求める人には何の役にもたたないだろう。ただ自分が天から
、神から与えられた人生を少しでも豊かにしようと考えている人々には何かの役には立つかも知れない。
僕の信条は、自己限定することなく、自己肯定すること。人に劣ろうと劣るまいと、自分の持てる能力や可能性は決して捨てることなく、宝として育てること。そして優劣、勝ち負けでしか動かぬ秀才
などより、育む心を持った凡人に学び、友とすることだ。 |
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●このサイトはリンクフリーです。またこのサイトの記事であることを明示される限り、自由に転載していただいて結構です。 |
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日々の言葉 | 生きること | 今日は何の日 | BBS |
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Profile | 僕の信条 | まじめな悪魔の辞典 | Guest Book |
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5月26(土) 昨夜は相変わらずネットで小沢裁判と司法の闇に関連する記事を見ていて3時まで起きていた。9時起床。晴れ。
店では、昨日買ったチャイコフスキーとラフマニノフのピアノピアノ協奏曲第1番〜第4番、パガニーニの主題による変奏曲を聴きながら、橋下人気や日本人の右傾化現象について考え、記事を書いていた。 しかし最大多数の日本人が最大の自己実現をなし得る社会体制や制度が最善であることは、何人も否定できないだろう。「国権」を軸足にする右翼と、「人権」「民権」を軸足にする左翼がそれを踏まえて論争するならば、有益な議論になるのだが ・・・・・。
教育問題に言い換えれば、社会に役立つ人材を育成するためのスパルタ教育と、内発的な自己発見・自己実現を助長する自由教育との両極のどこに教育制度を置くかということである。
○ 夕食後、ネットTVを見ているうち、10時頃寝てしまうが、夜中の12時過ぎに目が覚め、起きて「BLOGS」の秋原葉月氏の記事に投稿する。「名張市ぶどう酒殺人事件」のことだが、さすがに右翼もこれについては矛先が鈍っている。 名古屋高裁の名張毒葡萄酒事件の再審請求棄却決定に抗議します
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またまた昨夜は徹夜してしまった。朝2時弱仮眠をとったが、徹夜のまま一日過ごす。店は今日は休み。この一週間ほど、掲示板サイトの依存症状態になってしまった。今日も「BLOGOS」などをサーフィンしていた。 |
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5月6(日) 8起床。曇り、時々晴れ。夕方一時小雨が降る。関東では竜巻で大きな被害が出たという。温暖化の影響で極端な気象現象が増えてきているということだろうか。 ○ 民主主義というのはそもそも政治は民権や人権を擁護し防衛するためにあり、国権はその目的のために行使されるということの筈なのだが、左翼思想やリベラリズムがそういう基盤の上に立った思想であるのに対して右翼思想というのは政治の目的を民権や人権を制限し、国権を拡大しようとする思想だから、そもそも民主主義とは相容れるものではない。 国権思想と民権思想・人権思想の対立は教育に端的に現れる。本来民主主義教育が人権思想に立って「個人の自立・自己実現を通じて社会に貢献し個人の幸福を得る」ということであるのに対し、国権思想は教育の目的を「国家に有益な能力と思想を植えつける」ということになる。根本的なところで民主主義とは相容れないのだ。
石原東京都知事も、橋下大阪市長も、これまでの言動と行動を見る限り国権思想に立った国家主義者である。だから当然、教育は「国家に有用な能力と思想を身につけさせる」ことが目的だと考えている筈だ。 民主主義というのは、対立が進化の原動力だと考える思想である。異論の存在が問題意識を深め、問題解決のアイデアを生み出すという思想である。ところが、国権思想というのは反体制勢力の存在を国益 を毀損するものと考える。だからデモもストライキも悪徳視する。多くの日本人はその国権思想の呪縛から解放されてはいない。その体質が最近の急速な国民意識の右傾化となって現れて来ているのだ。
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5月5(土) 8起床。今朝も起きてから、越山会事件に関するネットの掲示板やニュースなどを見ていた。あっという間に2時間。ネットの時事通信の記事には以下のものがあった。 虚偽引用の報告書、別の上司作成=検察審の議決誘導意図か−処分を検討・小沢氏事件また朝日は次のような記事を書いている。 財界+官僚+司法・検察+大手マスメディア という支配権力が意図する陰謀に対して、小沢が歯止めをかける存在になるかも知れないという期待を僕は抱いている。もしかすると日本の金大中になるかも知れないと。 もちろん僕のイデオロギーは左翼リベラリズムで、小沢とは違うのだが、国民の手による民主主義革命を経験したことのない日本という国で、小沢は民主党の党首になった時、日本に民主主義を根づかせる為の最後のチャンスだと言った。それは単に政権獲得のための標語ではなく、政治家としての小沢の目的意識かも知れないと思うようになった。 ともかく小沢を抹殺しようとしている巨大な権力にとって、その意図が思いどおりにならない状況を小沢は作ってきた。地裁判決の後も90パーセント近くの国民が小沢は「限りなく黒に近いダークグレー」だと考えているという結果がサンケイ新聞の世論調査に出ていたようだが、徐々にその流れも変わりつつあるように思う。 僕は小沢がきれいな金だけで政治をやっているとは思わないし、法律が許容するぎりぎりのところまで資金集めの為の活動をしてきただろう。今の日本の状況は、タレント候補者でもない限り、きれいな金だけで選挙が出来る状態ではない。本当にきれいな金だけで選挙が出来るようにするためには、何よりも企業・団体献金を禁止しなければならないだろう。 越山会事件の本質は「政治と金」という問題にこと寄せた小沢抹殺劇だと思う。小沢の政治理念は何であるにせよ、この抹殺劇を阻止し、検察・司法とその背後にある権力悪を暴きだすことが日本の民主主義を守ることになるのだと僕は思っている。
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5月4(金) 9起床。今朝も起きてから、ネットの掲示板を見ていた。最近、小沢支持・待望論の傾向が強い『阿修羅』を見ることが多いのだが、今朝はヤフーなど他の掲示板を見たりネットのニュースを見たりして、いまもう午後1時。ホームページの更新が出来ない。しかし大手メディアに比べると、特にライブドアのニュースなどは、「小沢悪玉論」とは全く正反対の視点でニュースを書いているようだ。 「陸山会事件」というのは財界・官僚と、その代弁政治家が司法権力と大手マスメディアを利用して小沢抹殺を図った政治劇という認識が徐々に国民の間に拡がってきているようだ。国民が洗脳から解き放たれる可能性が出てきたのかも知れない。 『阿修羅』の中に以下のような記事があった。 福島原発の作業員800人死去の情報を東北大学医学部附属病院が緘口令を敷いて、外部に洩れなく(板垣英憲) 驚いた。直ちにそのまま信用することは出来ないが、一応書いているのは元毎日新聞の記者で多数の本も出しているジャーナリストである。東京新聞の記事によれば、去年の7月の時点で、1295人の福島原発の作業員と連絡が取れていないというのだが、その後それらの作業員との連絡は取れたのだろうか。 僕も相当に大手メディアには洗脳されているから、被爆した作業員はいるが、被爆による死者はゼロだと思っていた。考えてみれば、作業員の行方が判明しない限りその証明は出来ない筈なのだが、ネットの記事を見て初めてそのことに気が付いた。恐ろしい。
品性の賤しさというのは、家柄や学歴によるものでもなければ、能力の有る無しによるものでもない。ただ自己限定して自己実現を放棄し、人の価値を否認 し排除するすることが品性を奪うのだ。 ひたすら学歴・肩書きのような世間的な価値を追いかけ、品定め根性と即物的な有能感だけが肥大化した人というのは、人との優劣がついたら、すぐに自分の可能性を捨ててしまう。負けるゲームはすぐやめる。そして自己限定する癖がついてしまい、 向上心も、創造性もない人間になってしまう。 そういう人は、いつも不都合なものから目を背け、自己限定し、人の価値を価値として認めない性質になる。無視し、否認
し、排除することで自分の心理を安定させようとするのだ。自分の捨ててしまったもの、自分に出来ないものは何でもケチをつけるようになり、人が何もしないからではなく、何かをするから、それを貶めようとする。それが品性の卑しさ
を生むのだ。それが醜いのだ。
僕ら凡庸の徒には競争などは必要は無い。自己限定する圧力になるだけで却って有害である。僕らは、ただ昨日の自分をライバルにして、ひたすら自己実現するのみである。その中にわずかでも人の役にたつものがあれば誰も「自己満足」などと中傷できないだろう。 |
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5月3(木) 5時 半起床。小沢一郎の裁判の判決前後から、ネットの掲示板サイトを探して読む癖がついて、今朝も起きてから2時間近く見ていた。検察の不正が影響してか、小沢を支持する声が大きくなっているように思え、そのこと自身は今の日本の権力悪を暴き、ファッショ化の動きに歯止めがかかるかなと希望を持たせるのだが、しかし論争の仕方がやたらに攻撃的で、日本人の心の荒廃を感じさせる。 おかしなことだが、ことさらに「愛国心」を吹聴する人ほど攻撃的なように感じる。本当に「愛国心」が同胞愛ならば、考え方が違っても、かりに「日の丸・君が代」に戦前の国策を正当化する匂いを感じて拒否する人や、天皇制を否定する共和主義者であっても、同じ同胞なら暖めあう気持ちがある筈だろうに、「反日」とか「売国奴」とかいう言葉で攻撃する暴力的な排他性には同胞愛、それ以前に人間愛を否認し、破壊して自分の居場所を作ろうとする衝動を感じる。
思想が何色であれ、凡庸な人間であれ、一人一人の能力というのは、日本にとって貴重な財産である筈だ。三百万の人が失業しているということは、三百万の生産力を殺してしまっているということだ。三万人の自殺者を出すことは三万人の生産力を喪失することになる。百万人の引きこもりの存在は、百万人の生産力を捨ててしまうことになる。
さらに「偽善者」とか「売名行為だ」などという中傷的な攻撃がネットの掲示板サイトに蔓延している。人を中傷するというのは、人の居場所を破壊するだけで、それによって自分の生産性が高まることもなければ、他の人の生産性を高めることにもならない。 排他的な攻撃性などには何の生産性もない。ただ破壊するだけである。
善は偽善から紡ぎ出される。
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5月2(水) 8時起床。雨。昨 夜はよく寝て、睡眠不足はとりもどしたが、午前中、妻のリクエストでクリーニング店まで洗濯物を出しに行く予定。そんなわけで今日は簡単にすませます。「今日は何の日」は休みます。
ゆっくりと急げ(アウグストゥス) |
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5月1(火) 昨日起きたのが遅かったので、予想はしていたが夜中も眠れず、朝方少し仮眠するが殆ど徹夜することになってしまった。少しでも疲れを取るために朝風呂に入るが、今日一日体調は良くないだろう。ゆっくり休みながら、一日過ごす他はない。 夜中はずっと、検察審査会の問題や検察の不祥事に関する記事や動画などをサーフィンしていた。田代検事とその上司6人を告発した市民組織「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」の代表八木啓代と高知白バイ事件で有罪が確定し、服役後、再審請求をしている片岡晴彦氏が交流している動画があり驚いた。権力悪、権力犯罪の犠牲者や告発する人々のネットワークが出来つつあるようだ。 社会の閉塞状況に、強権的、暴力的に風穴を開けてくれそうなファシスト政治家を待望する大きなうねりがある一方で、民主主義の理念や精神を守ろうとするうねりも少なからずあるということだろうか。少し希望が出てきたのかも知れない。
自己限定こそ、諸悪の根元である。 自己限定する精神は、「謙虚」でも「堅実」でも何でもない。 自分だけならまだ良いが、自己限定する者の嫉妬や敵意、否認、懐疑の心理は、必ずまわりの健康な、自己実現する精神を巻き込み、貶め、傷つける。真に自己限定こそ諸悪の根元である。
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4月30(月)
今朝は10時まで寝ていた。昨日の朝3時に起きて、昨夜寝たのは12時頃だったが、その反動だろう。10時に起きたりするとあっという間に1日が過ぎてしまう。
「この国はマスコミによって、どんどん劣化している。それは権力のチェックをせず権力と一体化してしまったからです。戦前戦中、軍部のお先棒を担ぎ、国民を戦争に駆り立てたマスコミは、その反省に立てば、国民生活を滅ぼす消費増税など逆立ちしても推進してはいけない。大衆を犠牲にしてはいけないのです。ところが、財務省や大政党、アメリカの手先として大衆を脅かして増税を進めて心が痛まない。大衆増税に反対の小沢さんたちのグループを率先して潰そうとする。腐ってます。権力の犬に成り下がってしまったのです」(政治評論家 森田実) 大阪地検の証拠改ざん事件は、結局改ざんされたフロッピーディスクが証拠として提出されなかった為、実害は無かったが、東京地検の石川知裕議員に対する不正な尋問調書や、それ以上に事実に反する捜査報告書を作成したことは、それが検察審査会に提出され、それを根拠として小沢一郎が起訴されたことを思えば、まさに一人の政治家を抹殺するための材料として使われたのだから、大阪地検よりもはるかに大きな権力犯罪だったというべきだろう。
この検察による組織的な権力犯罪がどこまで解明されるのか、それが今の日本の闇に再び光が射すかどうかの鍵になるだろう。今のところは嘘の捜査報告書を作成した田代検事は配置転換されただけで、処分も受けていない。「記憶違いだった」ということで済まされている。田代検事は石川議員を取り調べている時に、電話をかけに部屋を出て行っており、上司の指示を仰いでいることが解っているのだが、その上司のことは全く問題にされていない。 その役割を果たすべきマスコミは、判決の後も「小沢は黒」の大合唱をしている。とりわけ毎日新聞とTBSの報道は小沢を犯罪者扱いし、TBSの『サンデー・モーニング』では毎日新聞主筆の岸井成格に「限りなく黒に近い」と言わせ、大宅映子に「早く退場して欲しい」と言わせている。 僕は、小沢一郎とはイデオロギーが異なり、左翼リベラリストなのだが、小沢が抹殺されたら日本の民主主義は死ぬと思っている。その意味で小沢の復権は民主主義を守ることになる、小沢は日本の金大中になる可能性を持った政治家だと思っている。 今年は政治が激動するだろうが、大マスコミは財界や官僚の中に巣食う闇の権力集団に繋がっているだろう。僕らは注意してマスコミの情報を選択しなければならない。小沢無罪に対する「東京新聞」や「琉球新報」の社説は、明確に検察の問題を中心に据えているが、大マスコミは「小沢は無罪でも黒、小沢復権で政治が混乱することを懸念する」という主張で共通している。どう考えても異常だ。
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4月29(日) 3時に目が覚め、そのまま起床。「残日録」「日々の言葉」「今日は何の日」の過去の記事を整理し、昨日の「残日録」と今日の「日々の言葉」「今日は何の日」を書いていると、いつの間にか6時を過ぎていた。 今日は店では講談社α文庫:佐藤優『国家の罠』を読んでいた。小沢裁判もそうだが、今日の権力犯罪というのは昔の、単なる権力闘争とは違う。今の民主主義のシステム自体を壊して、つまり憲法を改正することによって、奉仕労働(徴兵制)を国民の義務として課し、社会の矛盾や経済の矛盾を乗り切ろうとする意図がある。二十歳前後の若者を徴兵制という形で、農業や漁業、林業など後継者不足、労働力不足が深刻な地域や、災害救助や災害復興などに送り込めば、只の労働力を活用して国内経済のミスマッチと若者の失業問題を解消することが出来る。こうした考えはすでに自民党の国家主義者によってすでに主張されているようだ。
新自由主義というのは、結局のところ、国家主義の焼き直しで、つまり国民の自由を制限することによって、資本家の自由な経済活動を確保しようとする思想だろう。そのためには、どうしても国民にさまざまな義務・強制を負わせる必要があるから、体制の翼賛化、非常時の「国民精神総動員体制」の再構築が必要なのだ。 戦後民主主義を守れるかどうか。その分岐点に差しかかっている。
幸福は「できあい」ではだめだ。「あつらえ」でなければ。(アンドレ・ジイド) 自己実現とは、そして自分の価値を実感できる自尊心とは、決して人に勝つことではない。初めて自転車に乗れるようになった時の誇らしさを思い出せばよい。 乗れるようになったのが、人より遅くとも、その価値は何も変わらない。自尊心とは優越感ではないのだ。勝ち負けとは関係なく、すべての人が持つことの出来るものだ。 人との優劣とは関係なく、人の成功をまねすることではなく、ただ自分の持っている能力と可能性が実現されること。それが 自分のために、自分が繋がる人々のために、自分を育む社会のために何がしかの価値を創出できたなら、それが幸福ということではないか。
1932(昭和7)年4月29日−上海爆弾事件。 関東軍の田中隆吉少佐は一連の謀略を国際世論からそらすため、1932(昭和7)年1月18日、中国人を雇って、日本人の日蓮宗の僧侶の一団を襲撃し殺傷させ、これに報復するという理由で上海事変を引き起こした。そして3月1日、関東軍の筋書き通り、満州国の建国が宣言されるが、上海事変は予想以上に強力な中国軍の反撃で苦戦し、日本は援軍を送って、ようやく体勢を立て直し、事変の停戦交渉が始まった。 |
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4月28(土) 目が覚めたらもう9時だった。ようやく起きたのは9時半で、その後雑用をしていて今もう10時半。急いで昨日の「残日録」と「日々の言葉」を書く。書き終わって11時20分。 店ではギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送響のブルックナーの交響曲第6番と第8番などを聴きながら講談社αブックス:平野貞夫『虚像に囚われた政治家 小沢一郎』や立花隆『巨悪と言論』を読んでいた。小沢が日本の金大中になれるかどうか。それが今の政治に対する僕の最大の関心事なのだが ・・・・。 僕はこの数ヶ月「岸信介」を書くために日本の近代史を勉強しているのだが、権力者の陰謀というのは、戦前の方がはるかに解りやすく、戦後の方がはるかに闇は深いと感じている。というのは、戦前は権力者が告発者を抹殺しても、自分の地位に影響が及ぶことがないほどその権力が大きかったから、さまざまな状況証拠を残しているが、それに比べて、戦後は曲がりなりにも民主国家としての法治主義が存在しているから、徹底的に証拠を隠滅するからだ。
それにしても小沢抹殺に加担するマスコミという権力は恐ろしい。かりに小沢の4億円が裏献金という性質があったとしても、受託収賄罪や斡旋利得罪というレベルではない微罪だろう。 そもそも小沢は民主党代表になってから、「生活第一」を掲げて参院選、衆院選に大勝した。そのことは小泉・阿部政権の下で軌道に乗った「憲法改正」の動きを頓挫させた。そのことに対する国家主義者の恨みは相当なものだろう。小沢抹殺の動きはそれに発しているのだろうと僕は考えている。
財界・官僚などの支配階級は、グローバル化と新興国の発展で矛盾が激化する日本の未来を予想して、矛盾の噴出を回避するためにさまざま策を考えているだろうが、戦前のようなアジアへの膨張政策を取ることは出来ないから、ともかく内向きのファスズムを確立しようとしているのだろう。その為には是が非でも憲法の改正が必要となるということだ。 財界は目先の利益のために輸出依存型経済に執着しながらも、国内経済の矛盾、労働力のミスマッチの問題は解り過ぎるほど解っている。それを国民の自由に任せていては埒が開かない。一挙に解決するにはファシズムしかないと考えているだろう。それを実現するためには憲法の改正によって、国民に国家的使命を要求できるようにしなければならないということだ。 小沢は自民・民主が合意した憲法改正のプロセスをペンディングしてしまって、「生活第一」に置き換えてしまった。それが小沢抹殺の最大の動機だと僕は思っている。 小沢は自民党だけではなく、民主党の中にも考え方の全く異なる敵を持っているから、どうしても民主党ではなく自派に入る政治献金が欲しいのだろう。それが小沢を抹殺しようとする勢力に付け込む隙を与えたのだろう。 財界・官僚・司法・保守政治家の枢密院が小沢抹殺に失敗したということで、日本の歴史は少し塗り替えられただろう。しかし彼らが断念する筈はない。次のステージがどうなるのか。小沢は金大中になれるのかだ。
目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。(アンドレ・ジイト『田園交響楽』) ハンデを背負いながら自己実現している身障者がたくさんいるのに、五体満足でありながら、どうせ自分 なんか何にも出来ないと自己限定する人がいる。挙句の果てに他人の個性や才能を妬んで、傷つけたりする。 目が見える、耳が聞こえる、手足が自由に使えるということが、どれほど多くの可能性を持っているか考えてみれば、人より劣るなどということは何でもないことだ。問題なのは、才能がないことではなく、自己限定してしまって、自分の持っている個性や才能を使わないことだ。いかに平凡な人間でも、自分の持っている能力と可能性を、一生の間に使い尽くすことなど出来ないはずだ。自分の身体と、五感が機能しているなら、これから出来ることは無数にあるだろう。 何度も書いていることだが、自転車に乗ることが出来るようになった時のことを思い出せば良い。たとえ皆の中で最後に乗れるようになったのだとしても、その価値は何も変わらない。皆と同じように広い世界と可能性を手に入れたのだ。 先日亀岡で少年が無免許運転で多数の人を跳ねた悲惨な事故があったが、自己実現が自律的な規範意識に支えられていないことの恐ろしさを示している。どんな境遇であろと、世界が広がる喜びは、誰でも持っている筈なのだが、それが規範意識に支えられていないと他人を傷つけ、社会を破壊し、自分の未来を抹殺してしまう。 規範意識をもって自分の世界を拡げてゆくことは、誰にでも出来ることだ。それは自分の世界を拡げてゆく唯一の道だ。そしてエリートと縁のない下積みの人にとっても、自転車や自動車に乗ることだけが自己実現のすべてであるなどという筈はない。 農業ばかりではなく漁業も、林業も後継者不足に悩んでいる。自動車の免許の次は船舶の免許を取れば、自分の世界を拡げるだけでなく、社会の役に立つではないか。社会の役に立った時、人のためにではなく、自分のために、効力感や自己充足感を得ることが出来るだろう。それが幸福の本質ではないか。
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4月27(金) 8時起床。昨夜寝る前に作って残っていた冷えたコーヒーを飲みながら「残日録」を書き始めたら、妻がチャーの様子がおかしいという。猫トイレに座ってうずくまり、クークーと泣いているという。これは又尿道閉塞が再発したのだと思って、すぐに二人でチカコクリニックに連れて行く。しかし結果は異常はないとのことだった。 チャーは外に出してやっているのだが、尿道閉塞が再発していないか確認する必要があるので、家に戻ってきたら、次に出してやる時はおしっこをしたら出したてやるというように教育している。どうも今朝トイレにうずくまっていたのは外に出して欲しくておしっこをしようとしたのだが、おしっこが溜まっていないので出すことが出来ず、必死に出そうとしてうずくまっていたということのようだ。 チカコクリニックから帰ってきて、朝食を食べ、再び「残日録」を書き始める。もう11時半だ。 ○ 今日は店は休みで、昼から花園のBook Off に行き、ついでにマツモトで買い物をして帰る。先日 Book Off に行った時、講談社の「Showa Day by Day」という20巻ほどの日誌スタイルの昭和史の本があったのを思い出した。このシリーズの前半11巻は持っているのだが、まだBook Off に残っているのなら、僕が持っていない巻を買っておこうと思ったのだ。持っていなかったのは12巻、13巻、17巻で、幸いまだ売れていなかった。2880円の定価だが300円だった。 12巻、13巻は昭和35年から昭和42年の記事で、丁度僕が小学校から高校時代だ。いつか自分史を書こうと思っているから、その時の役に立つだろう。
盗むチャンスの無い泥棒は自分を正直者だと思っている。(ユダヤの諺) 安全に不正を働く機会があったとしても、その誘惑に負けないというのは、自立した思想や信念を守る自分の城を持つということである。 たとえバレなくても、不正によって利益を得れば、自分の城は、結局、イミテーションの宝、張り子の城になってしまう。
汚れたシャツを着るのが気持ちが悪いように、心に汚れたシャツを着て気持ちの良い筈がない。リスクがなければ不正を働くといういう要領主義は、結局信頼できる友を得るというチャンスも奪い、内面的な自己実現も出来なくしてしまう。
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昨夜は、10時頃に寝たのだが、少し眠ったら起きてしまって目が冴えて眠れず、しかたなく書き始めていた「岸信介(22)」の続きを書いて完成する。それからもう一度寝た。7時半に起 きたのだが、雑用をしているうちにもう9時半。その後、テレビで小沢裁判関連のニュースを見ていた。途中で無罪判決がのニュースが流れた。先日も書いたが、僕はもし有罪判決なら司法の権威は失墜するだろうと思っていたが、結局それは出来なかったようだ。 権力を握っている者が自らの犯罪をもみ消すということは、戦前はもちろん、戦後でも佐藤栄作の造船疑獄をはじめいくらでもあるだろうが、権力を握っている政治家や、それを動かしている財界の意図で、政界から排除する目的で犯罪のシナリオが作られ追求された政治家が、それを跳ね返したという例は初めてではないか。 小沢一郎に集まる金が、例えば西松建設の例のように、ボーナスに上乗せするから、個人献金をしてくれと経営者が社員に要請するというような形で集まっている事実はあるのだろう。そういう意味では全くクリーンな政治資金集めなどは、今の日本では不可能だろう。僕は小沢がきれいな金だけで政治活動をしているなどとは信じていないが、小沢を潰そうとしている権力悪の恐ろしさを考えると、小沢の復権はその歯止めにはなるだろうと思っている。 しかし小沢バッシングに果たしたマスコミの権力というのは凄まじい。テレビの報道を見ても、法的には無罪でも、政治的には有罪だと言わせてるものが多い。そして国民の声は4億円の出所を説明して欲しいと言っていると、自分が国民の代表のように言う。僕は国民の一人だが小沢の4億円の出所などに関心はない。あいつぐ検察官の証拠改ざんや偽証こそ重大な関心を持っている。検察官の背後に必ず居る筈の財界や政界の権力者の陰謀こそ暴いて欲しいと思っているのだが ・・・。
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4月25(水) 6時起床。「岸信介」の時代を知るという目的で林芙美子の『放浪記』を読み始めたので、起きて茶を入れてから、1時間半ほど関連する記事をネットで検索していた。そこで今日の「日々の言葉」は林芙美子にした。 「日々の言葉」を書いた後、しばらく休んだ後、「今日は何の日」を書く。かつて全時代の「今日は何の日」を書いていた時には見てくれる人も多かったのだが、先月から近・現代史に限定して再開して以後の訪問客は非常に少ない。近現代の歴史に発言する右翼は多いのだが、それを除くと近現代史というのは人気がないどころか、知りたくもない人が多いのかも知れない。しかし現代に生きている自分の人生に役に立つ物語ということでは、近・現代史は宝の山だと思うのだが。 ○ 店では「岸信介(22)」を書き始める。時々NHKの放送大学を見るのだが、祖父江隆男の講義が人気講義として再放送されていた。祖父江は文化人類学者で「県民性の人間学」という本が新潮文庫から出ているが、「岸信介」の成育環境を調べるために、山口県のところを読んだ。 これまで、県民性などというものは、血液型による性格判断とあまり変わらないものだと思っていたのだが、読んでみて驚いた。政治の話が好きで、派閥と縁故で出世する体質、支える人脈があれば力を発揮するが、孤立すると力を発揮できず、何をするかわからないというのがその県民性だという。
僕がこれまで岸信介を書いてきて感じてきたもの、そのものだった。しかも長州藩閥で日本の政治を支配し、「愛国心」を日本人全体に要求する方法で日本人全体をコントロールしてゆく。「縁故主義」と「全体主義」という長州藩閥の体質こそが、戦前の日本を支配したということになりそうだ。
花の命は短くて苦しきことのみ多かりき。(林芙美子) 「人生はいたるところ木賃宿ばかり」と『放浪記』に書いているような底辺の放浪生活を少女時代に送り、最愛の恋人に捨てられるという青春時代を経験した林芙美子にとっては、まことに花の命は短く、苦しきことのみ多かっただろう。しかし『放浪記』を読んでいると、自殺と隣り合わせのような生活を送りながら、なぜか明るい。自分の生活はもちろん、自然の移ろいや、窓から見える風景にも若い好奇心が向かって、そこから生命が湧き出している。そんな印象を持つ。好奇心が書くことを促し、書くことが好奇心を促す、それが生命力の源泉になっているように思う。「苦しきこと」もまた好奇心の対象になり、書くことの素材になっている。 書くことというのは、プロの作家になって、それで生活をしようというためではないだろう。作家という職業を得るためではなく、生きるために書き始めたのだろう。「大草原の小さな家」の作者ローラ・インガルス・ワイルダーも、娘が勧めるまでは自分が書いた物語を出版することなど考えもしなかったという。 書くということには、感受性を育て、好奇心を養い、自分の人生を取り巻くさまざまな事柄について思索させる力がある。書くために必要なものは、ノートとペンがありさえすれば良い。ただそれだけの投資で自分の人生が何倍にも膨らんで行く。 敢えて言えば、「苦しきことのみ多かりき」という境遇は、自分を育てる糧になっているとも言えるだろう。それで自分が育つかどうかは、それを食べて消化するかどうかにかかっている。自分の人生を書くということは、自分の境遇を消化するということに他ならない。
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4月24(火)
8時起床。今朝も何度か目が覚める度に夢を見ていたことを覚えているのだが、どんな夢だったか思い出せない。登山電車に乗って降りてくるシーンだけ記憶に残っているのだが、若い頃のように夢の尻尾を捕まえたら芋づる式に思い出すというわけに行かない。 脳の物理的な老化かどうかは解らないが、老人の記憶力や思考力の老化がどういう風に進行してゆくのか、当事者の立場で観察し、記録してゆこうということを、「残日録」の一つの目的にしている。すでに記録するべき事態は始まっているようだ。 ○ 店では昭和史の本から北一輝、大川周明に関する記事に目を通したり、吉田茂の伝記などを読んで、岸信介の周辺の人物の資料を作ったり、林芙美子の『放浪記』を読んだりしていた。 ○ 妻は夕方弁護士との打ち合わせで烏丸丸田町の法律事務所に行った。連休明けの5月8日に裁判があるが、僕は特に行く必要はないだろうと考えて妻一人で行った。弁護士の話では、借地の境界の問題は裁判官の判断で別件にされる可能性があるということだ。そのことは僕もこれまでの弁護士との話で、頭にはあったが、切り離された場合、どう対処するか考えておかなければならない。
環境や立場が人間の思想や価値観を決定するというのは一面でしかない。真理 や道理に従う意思によって、人は真に自由になる。 多くの人が自分の利害や立場を捨てて、真理
や道理に従おうとすれば、日本人のコンセンサスは一変するだろう。今の社会は個々の利害の均衡が社会のコンセンサスを作るという考え方が支配している。しかしそこから生まれる多数派の論理、強者の論理は
、少数派を切り捨てた多数派の利害、エゴでしかない。 僕は現代の左翼思想や労働組合運動が「善悪は環境によって作られる」という唯物論的な環境改良主義に支配されていることが、保守主義者の即物的支配イデオロギーとともに、現代の思想的荒廃の大きな原因になっていると
思っている。 思想というものは、まず幸福論、人生論があって、その上に社会思想がある筈だ。幸福論、人生論とは、言うまでもなく、人間の本質を問い、人間個人がより良く生きるための理念である。人間とは何か、より良く生きるとはどういうことか、幸福とはどういうことか、そのために人は何をすればよいのかということにまず答えなければならない。 環境改良主義では人の自殺は防げない。不登校、いじめ、校内暴力、幼児虐待、家庭内暴力 、憂さ晴らしのような車の暴走、自暴自棄的な道ずれ犯罪、凶悪犯罪・・・・。それらの現代の社会を閉塞させ、人の心を荒ませている現象に対して何も答えられない。 現代よりもはるかに抑圧され、搾取されていた、戦前の暗黒時代でも、 そして自殺と隣り合わせのような悲惨な境遇の中でも、生きる意味を見つけ、生きる喜びを見出し、より良く生き、自己実現した人々がたくさん居た。 社会や環境のせいにする前に、人間の真理と生き方の道理に従う精神を持たなければ、どんな理想的な社会が実現しても幸福にはなれないだろう。
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昨夜寝たのは1時頃だったが、昨日の朝は起きたのが4時半だったので、その反動で今朝起きたのは8時半 だった。3時に起きる日があったり、その次の日は3時頃まで起きたり、そういうことを繰り返しているのだが、どうも僕には規則正しい生活というのは出来ないらしい。起きてから、とりとめもないようなことで、考えに耽っていたが、とりあえず昨日の「残日録」を書く。書き終わったらもう10時半を過ぎている。 今日は花園のまつもとが10パーセントOFFなので、昼頃に買い物に行く。いつものようにとなりのBook Off に寄る。買い得というほどの値段ではないが、エラートのドビッシーの室内楽の代表作を集めた2枚組みのCDが950円だった。演奏しているのはパイヤール室内管弦楽団やフルートのランパル、ハープのリリー・ラスキーヌ、チェロのぽーる・トルトゥリエなど。僕の学生時代、当時のフランス音楽会を代表するスター達だ。
パイヤールの演奏する『小組曲』を僕が始めて聴いたのはFMでの放送だったが、一度聴いて魅了された音楽の一つだ。第1曲の「小舟にて」を聴いた瞬間、水面に光の粒がきらめく、フランス印象派の絵画を見るように思った。 最近は年のせいか室内楽を聴くことが多くなった。老化といえば老化だが、進化だといえば進化だろうと思う。
断念することをほんとうに知っている者のみがほんとうに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。(三木清)
得ることの出来ない現実に対しては「断念し、現実を受け入れる心」を持たなければならない。努力をすれば確実に得ることの出来るものに対しては「勤勉と忍耐を持って」確実に手にいれるようにしなければならない。
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今日は4時半に起きた。相変わらず起きる時間が一定しない。起きてから「岸信介(21)」を書く。書き終わったらもう7時になっていた。コーヒーを入れて休憩 してから、「残日録」「日々の言葉」「今日は何の日」を書く。書き終わったらもう8時半。 今日も、店では「岸信介」を書くために、関連した本を読んで資料を作っていた。岸信介の生涯を調べるということは、結局右翼の歴史を調べるということになる。そうすると一体右翼とは何かという根本的な問題にぶつかってくる。 民族主義と国権思想・帝国主義的膨張を追及する思想というのが、一応の右翼・国家主義のベースになっているということは言えるだろうが、赤松克麿のように左翼の社会主義者から右翼の国家社会主義者に転じた人も相当に多いし、翼賛体制の中枢に居たエリートも、企画院事件などに象徴的なように、赤のレッテルを貼られて逮捕されたり追放された人も多い。自分でも右翼なのか左翼なのかわからないと言っている人もあり、戦後左翼とみなされている社会党に入った国家主義者も相当居る。
国権(国家主義・民族主義的翼賛思想) ←→ 民権・人権(個人主義的自由・平等思想)という対立軸にしても北一輝は『国家改造法案大綱』に治安警察法や新聞紙条例の廃止を掲げている。岸信介は、東大時代に大川周明が秘密裏に日本に持ち込んだ『国家改造法案大綱』を徹夜で書き写したというのだが、政治家となって後、議会政治や言論の自由を最も抑圧した翼賛体制を推進している。 結局右翼思想というのは「世襲的特権」「制度的特権」への執着ということに収束するだろう。だから右翼・保守主義の思想は根強いのだろうが、その階級的エゴイズムというのは、社会の存続と進化のための合理的なシステムにはならない。だからその矛盾がマグマとなって、社会体制を変革するような爆発を起こす。どこまでいってもマルクスの言った弁証法的歴史観は正しいように思える。つまり科学技術がいくら進歩しても、人間の知能指数が高まっているわけではなく、古代から同じ愚行をくり返しているということだろう。
共産党の下部組織で理想に燃えて運動していた標拓郎は警察に逮捕されるが、逮捕されて屈服したのではなく、幹部が芸者と遊んでいるところを逮捕された話を聞いて共産党に幻滅 したのである。釈放された後、徴兵された拓郎が久しぶりに弟の耕平と会った時、耕平に言った言葉である。 思想は確かにその人の居場所であり、武器ともなるが、必ずしもその人の良心や倫理観の所在を示すものではない。自分を受け入れない社会への反感や、満たされた者への復讐心から理想を標榜する者もいる。真理に従おうとするからではなく、自分の地位や立場を正当化するために思想を標榜する者の方が圧倒的に多いだろう。 真理は誰が言おうと真理だが、思想はそれを言う人の人間性によって全く価値が変ってくる。表面的に同じ思想をもっているから同じ価値を持った人間だなどと思ったら、全く人間の価値を見誤ることになる。 思想は人の価値判断の基準であり、自分の人生の設計図なのだから、思想のない人間などはいない。「自分は思想など持たない。」などという人間は、考えるほどの価値判断も持たず、設計図もなしに建てたようjなあばら家の人生を生きて、無駄な人生を生きているということになる。 結局、どんなに斜めから見ようと、結論は一つである。人に見せるためのものではなく、自分が生きるための理想を持ち、 なおかつ、たとえ自分に不利益なことであっても、道理と認められるものはそれを受け入れ、それに従って生きること。それが真に価値ある思想である。
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6時
半ころ目がさめたが、身体がどんよりとしていて、しばらくふとんの中で燻っていた。ようやく7時過ぎ、起床。「何もする気がしない時は、何もする気がしない時の自己実現がある」という
Syuugoro の念仏に励まされて「残日録」を書き始める。 今日は妻に頼まれて久しぶりに店からの帰りにイズミヤによって買い物をして帰る。いつものように「半額」とか「100円引」などの値引きシールが貼られた惣菜を買いあさる。もう習性になってしまったが、同類と思われる客も多い。
国権思想に立つ者が鼓吹する「愛国心」は、必ず民権や人権を食い物にする。民権思想や人権思想に立つ人の持つ同胞愛こそが、純粋に愛国心といえるものだろう。 戦前の「忠君愛国」の思想を国民に強要し、戦争へ引きずり込んでいった軍人政治家や官僚政治家の正体というのは何だったのか、どこから発生したのか、それを探せば探すほど、長州藩閥に行き着く。 彼らによって、「愛国心」というのは「国威発揚」「富国強兵」「忠君愛国」「滅私奉公」と同義語になり、全く片務的な強制が国民に課せられるようになったのだ。そして国権をかれら閥族と特権階級が握り続けるシステムを作り上げたのだった。 敗戦後、政治体制は民主主義になり、主権在民が憲法に謳われ、条文的には民権や人権が政治の目的とされるようになったのだが、国権思想の生み出す毒は払拭されてはいない。右翼はさかんに現行憲法はアメリカが押し付けた占領憲法で、日本人による自主的な憲法ではないと宣伝する。確かに戦後の民主主義は、アメリカからの「貰い物」に過ぎず、民衆が自らの力で掴み取ったものではないから、非常にひ弱なものなのだろう。 しかし現行憲法に謳われる民権思想や人権思想が、東洋の文明とは異質なものだということにはならない。民主政治が勝利したのは、貴族政治よりも生産性が高いからだし、女性の能力が男性と同様に活用される社会の方が、女性を社会的に差別する封建的な社会よりも生産性が高いからに他ならない。それは普遍性を持った真理であり、日本文化の固有性とは何の関係もないことだ。 皇室の存在が日本社会の発展を阻害することになれば、やはり世襲天皇制というのは見直される時が来るだろう。まして皇室が世襲的特権階級の保護と、彼らのための国権を拡張する道具になるならば、それは必ず社会を閉塞させる要素となり、革命を惹起することになるだろう。
支配されている民衆の方にも、「日本人であることに誇りを持ちたい」という素朴な感情があり、「愛国心は大切だ」と語られるのだが、そこには「優越感を持ちたい」というだけの利己的で、排他的で、たかり的な本音を持つ人も混じっているだろう。そして「優越感」で「愛国心」を鼓吹する人が常に発言権を持つということを知っておく必要がある。
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昨夜はまた3時過ぎまで起きていたので、目が覚めたら9時だった。9時半起床。コーヒーを入れて、昨日の「残日録」、「日々の言葉」「今日は何の日」を書く。その後朝昼兼用の食事をして今12時過ぎ。今日は店は休み。
午前中、店の固定資産税を払い込みに
京都銀行に行き、いずみやに寄って買い物をして帰る。イズミヤで買ったパンを昼食にして、午後は松本清張の『北一輝論』を読んていた他は、音楽ファイルの整理をしていた。夕方、
月に一度通っている堀部眼科に行く
。変わりはないとのことだった。夕方になって気温が下がったようで、帰り自転車を運転していると寒さを感じた。
形を追う者は、心を見失う。 昔も今も、日本には学歴や肩書きに対する信仰がはびこっている。しかし学歴や肩書きを追うことが人生の目的になってしまったら、自分の個性や能力を発揮し、自分の固有な価値を創造しようとする精神はすでに失われてしまっている だろう。 進学することや資格を得ること、社会的な地位を獲得することが、自分の可能性を広げ、世界を拡げ、自分が目指している仕事
に就くために必要だから、そのために学歴や資格や地位を得ようとしているなら、それは健全だろう。しかし学歴や肩書きを得たら、その後はただそれが与えてくれる報酬
だけを求めて、餌場に通い、餌をもらうために芸をする動物園の獣のように、職場に行く人間がどれだけ多いことか。 知識を得ることの喜び、考えることの喜び、物を育てることの喜び、物を生み出すことの喜び、社会に貢献することの喜び・・・、それらの人間的な喜びを知ることなく、ただ目先の快楽と 「安全・安心」を求めて存在しているだけの人間とはなんだろう。 何も内実がなくても何かがあるように見せかけられる、学歴や肩書き、社会的地位にはそんな効果があることを知っていて、それを手に入れようとする下心だけが肥大化した人間などは考えただけでも醜いのに、本人はそれに気づかない。そして「どうして 一流大学を卒業した自分を尊敬しない」と逆恨みするような「優越感コンプレックス」を育てる。枚挙にいとまがないエリートによる犯罪にはそういう心理が働いているのだろう。学歴や肩書きはあくまで手段であって、目的は自分の個性や能力を自己実現することである筈なのにその主客が転倒してしまっているのだ。 日本人は何かを学ぶ時、多くの人は権威が示す型に従って学ぼうとする。もちろんどんなことを学ぶにしても、合理的な習得の仕方、練習の仕方はあるだろう。しかしただ型通りに、マニュアル通りに習得し、実践することが目的のようになってしまっている人があまりに多い。
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4月19(木) 昨日も前日の反動で、寝たのは3時頃だったが、妻が家を出るのでバタバタしているのに起こされて、7時半に起きた。昨日の「残日録」を書き始めたのだが、文章が長くなって、いつの間にか2時間経ってしまった。今9時半。これからコーヒーを入れて、少し休憩してから「日々の言葉」「今日は何の日」を書
く。書き終わって10時半。店に行く準備をして家を出る。 夕方激しい雨が降る。店からの帰りもまだ小雨が残っていたが、カッパを着るのがめんどうなので、濡れながら自転車を運転して帰った。
夕食後は松本清張の『北一輝論』を読む。北一輝を知ることは、「岸信介」を理解する上で避けて通れないので、『北一輝論』の前半部分は2度目を読んでいる。岸が最初に影響を受けた上杉慎吉の天皇絶対主義から脱却し、国家社会主義者に近づいた思想的な軌跡に、「北一輝」が最も大きな影響があったことは自らも証言しているからだ。
自分の世界 を持つ者は、逆境や孤独の中にあっても動じない。 災害にあったり、事故にあったり、犯罪に巻き込まれたり、病気をしたり、失業したり、身近な人を失ったり、失恋したり、裏切りにあったり・・・・。すべてを失うどころか、多額の負債を背負うこともあるだろう。そんな時、人は絶望し自殺を考える。あるいは破れかぶれになってすさんだ生活に身を落したり、犯罪をおかしたりする。 しかし人間にとってもっとも大切な財産は、持っていたものではなく、作ることの出来る能力ではないか。その能力さえ失わなければ、すべてを失ってもまた作ることが出来る
だろう。 飢え死にするような悲惨な環境に置かれようと、不治の病魔に冒されようと、それは本質的な問題ではない。その不遇と悲惨と孤独を証言するという仕事が、まだ残されていると、僕はいつも思っている。それを克明に証言することは、必ず、誰かの、何かの役に立つだろうと。
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昨日は3時頃起きたのが、その反動で今朝は目が覚めたら9時だった。ぐずぐずしているうちにもう10時。コーヒーと菓子パンをかじりながら、昨日の「残日録」と「日々の言葉」を書いて11時過ぎ。「今日は何の日」は、以前作ったものをそのまま貼り付けるだけですませる。 急いで準備をして店に行く。 店では、伊藤博文や山県有朋とその子孫、一族について調べながら、ヴァーツラフ・ノイマンを聴いていた。 ノイマンは死去する直前に最後の来日公演をして、京都でも演奏会があり、僕はその演奏会も聴きに行った。今日店で聴いていたのは、その頃録音された最後の録音となったドヴォルザークの交響曲第8番や、ヤナーチェクの交響曲第6番などだった。 ドヴォルザークの第8番や第9番「新世界」などは、ポピュラーな曲だし、僕も学生時代に演奏した思い出のある交響曲だから曲の隅々まで知っている。だから有名な指揮者の演奏でも、違和感を感じたり、不満を持ったりすることが多いのだが、さすがにノイマンの演奏は自分の祖国の作曲家の代表的な作品だから、身体に染み込んでいると感じさせるものだ った。 店に置いているステレオは、レジスターの横にあるのだが、スペースが狭いので大きな装置を置けない。だから音に深みがなく、ダイナミズムも出せないのだが、デジタル録音の時代に入ってからのものだからかも知れないが、聴いていたノイマンの演奏は、安物のステレオでも満足できるものだった。 ○ 音楽を聴きながら、「岸信介」を書くための背景を知るということで、伊藤博文や山県有朋について調べていたのだが、知れば知るほど、長州藩閥を築いた維新第ニ世代というのは明治維新の原動力になった社会的な勢力が作る歴史の流れを歪めたのだと感じる。 伊藤博文は農家の出身で、足軽の家の養子に入ったのだし、山県有朋も足軽以下の蔵元中間の身分の出身だったが、身分を問わずに弟子を受け入れた吉田松陰の松下村塾の人脈と長幕戦争から戊辰戦争・西南戦争という環境が太閤記のような出世物語の場を与えたのだった。 彼らが四民平等という合理性を近代国家建設の条件だと考え、それを推進したのならばそれで問題はない。ところが、彼らは新たな世襲貴族制度である「華族制度」をつくり、自分たちを一般の大名家以上の爵位を与えたのみならず、太平洋戦争が終わるまで、その影響力を保持する長州藩閥を築いたのだった。農民出身の豊臣秀吉が天下人になると、武士と庶民との間に、それまでになかったような身分の障壁を作ったのに似ている。それは下層から成り上がった権力者に通有する思想なのかも知れない。 伊藤博文や山県有朋を維新の二大巨星などと言う人がいるが、近代国家建設が明治維新の本質ならば、その本質を利用し、歪曲した権力の偸盗者だったのではないか。
長州藩閥を象徴する組織に、明治時代に出来た「防長倶楽部」という山口県出身のエリートだけが入会出来る県人会があり、現在も存続している。2名の会員の推薦がなければ入会出来ないという、一般には閉ざされた山口県出身の有力者だけのサロンだ。 こういう背景を見なければ、岸信介・佐藤栄作兄弟も、桂太郎も、田中義一も、寺内正毅・寿一父子も、松岡洋右も久原房之介も鮎川義介も見えてこないだろう。彼らの右翼的な国家主義イデオロギーは、きわめて身内的なもので、決して日本人全体が共有すべきものではないことを明らかにしなければ、今ある民主主義も歪められ、破壊されて行くに違いない。
三流には三流の自己実現がある。 生活保護を受けていても、ホームレスでも、高校中退だろうと、前科があろうと、職がなくとも、自己破産しようと、生きている限り自己実現出来ることはある。気休めではない。自己実現出来ることが無い筈がない。 自活できる職があるかどうかなどは本質的な問題ではない。金にはならない価値、有用な仕事は無数にある。三流の人生だからこそ証言する意味があることも多いだろう。そして三流の人が、希望を持って自己実現している社会は、間違いなく世界で最も豊かな社会である筈だ。 僕は、毎日同じようなことばかり書いているのだが、こうして「日々の言葉」を書いていること自身が、三流の自己実現の実践だと自覚している。つまり、何もする気がしないような、体力も気力も衰退している時でも、寝床に横になったままでもノートとボールペンさえあれば、自分の失意やいくじなさを書き付けることは出来るし、それを記述することは、自分の体力や気力が回復した時のためにも、そして僕と同じような他の「ダメ人間」のためにも、少しは役に立つだろう、無意味ではないだろうと信じているから続けているのだ。 三流でも、四流でも、僕は死ぬまで、ペンを持つ力が残されてる限り、自分の不首尾や不甲斐なさを書き続けようと思う。そうして死ぬまで生き続けようと思う。
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今朝は昨日とは反対に3時頃に目が覚め、眠れないので起きる。本を読む気にもなれないので、朝まで本の整理やパソコンのデータ整理をしていた。家のパソコンだけでも2万ほどの音楽ファイルがあり、店のパソコンにも別のファイルがあるから、音楽ファイルだけでも3万はあるだろう。文書データも自分で書いたもの以外に、集めた資料なども相当な数があり、整理しておかないと探すのが大変だ。 店に行ってからも、本を読む気ににもなれず、ずっと音楽を聴いていた。かろうじて新潮文庫の祖父江孝男『県民性の人間学』という本の山口県の章を読んでいた。県民性などというものは、有るようでないと思いつつ、岸信介を生み出した長州の思想的風土を知るために少しは参考になるかなと思って読んでみたのだが、県民性というのは、思った以上に根深いものがあることを知った。そしてそれは幕末から明治になって、長州のエリートたちによって作られていったものだということを痛感した。 この本で山口県に当てられたスペースは6ページに過ぎないが、その小見出しを見ると などと書かれている。
この見出しだけを見ても、「個人主義的自由主義」を抑圧する「封建的国家主義」、そして長州の藩閥政治や陸軍軍閥を生み出した体質を見ることが出来る。
自分の人生というドラマで、他人が主役を演じることはあり得ない。ドラマが喜劇であろうと悲劇であろうと、ただ主役を演じ切ることにしか人生の意味はない。 自分の人生というドラマの中では、どう考えようと自分が主役である。主役であることから逃れることなど出来ない。主役が主役であることから逃れようとすれば、そのドラマが色あせて 、ドラマに値しないものになってしまう。主役を大根役者がやっているようなドラマなど誰も見ないし、演じる満足もない。 いかに暗いドラマであっても、主役は主役として演じきらねばならない。特攻隊員として死んでゆくドラマもあるだろうし、若者を特攻隊に駆り立て るファシズムと命がけで闘う人間のドラマもあるだろう。或いはそういう極限状態の社会に背を向けて、周りの非難を甘んじて受けても、自分の家庭の幸せを築こうとするドラマもある。 真の悲劇は、自分が演じることの出来ないドラマの主役を引き受けてしまうことだ。自分が主役となるべきドラマを演じるならば、たとえそれが悲劇であろうと 、そこには自己実現の充足があるに違いない。
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4月16(月) 昨夜は3時過ぎまで起きていた。妻は仕事で8時前に出て行ったので、芥を出すために仕方なく8時半頃起きた。しばらく右翼のサイトをサーフィンして、ホームページの更新をする。「日々の言葉」と「今日は何の日」を書き終わって11時。今日は店は休み。 朝昼兼用の食事をした後、昼から五条のBook Off に行き、その後花園のまつもとが10パーセントOFFなので、買い物に行く。 Book Off ではCBS Sony のグレン・グールドが演奏するモーツァルトのピアノソナタ集(4枚組)が950円で売っていた。グレン・グールドのCDはバッハのチェンバロ曲などいくつか持っているが、どれを聴いても同じように、すべての音にスタッカートが付いたような感じで、乾いた感じがする。バッハはそれなりに面白いのだが、他のものはどうも好きにはなれない。 夜は近所の人がたけのこをくれたので、妻がたけのこの炊き込みごはんを作った。桜はもう散り始めているが、それでもまだ満開の木も多い。今日は一時雨もぱらついたが、花曇りの天気で、かえって桜が美しい。気温も暖かだった。
人の愛を得たいと思うなら、人の心を理解する能力ではなく、人の心に共感する能力を養わなければならない。 まじめで教養もある経済的にも中流以上の家庭の子供が、ドロップアウトして社会に適応できず不登校になったり、事件を起こしたりするケースが非常に増えている。それは人を「競争主義」や「効率主義」で煽りたてる今の社会の問題もあるが、そういう風潮の中で「感じる能力」ではなく「理解する能力」のみを与えようとする親や教師の育て方に大きな原因がある。
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4月15(日) 8時 半起床。今日は午前中、ライフにキャットフードを買いにゆく予定。急いで「日々の言葉」だけ書いて、「今日は何の日」は以前のものをそのまま貼り付けていく。 店から帰ってから、日本の近代史の資料から 4月15日の事件を探して、ヘレンケラー来日の記事を追加する。その後「今日は何の日」を書くための資料を探したり、整理をしたりしているうちに夜中の3時になってしまった。3時過ぎ就寝。
自制できない人を自由の人と呼ぶことは出来ない。(ピタゴラス) 内面の世界を作ることができず、ただ世間的な価値を追いかけて、人と争い、奪うところにしか居場所を
作れない。そして思い通りにならないと、その不満、不快感を爆発させて、人の居場所を破壊する。そんな人間に自由などはある筈がないだろう。 人のものを欲しがるのではなく、自分の持っているものを愛し育むこと、そして
今の自分の能力に合った、身の丈に合った目的を見出し、それを得るために努力することだ。自由とはそうした生き方の中にこそあるだろう。
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4月14(土) 7時起床。 「今日は何の日」を書いているうちに、パソコンがハングアップしてしまい。データが消失してしまった。最近ハードディスクの音がおかしいと思っていたが、これまでの経験だと、このパソコンが壊れる前兆らしい。過去、何台ものパソコンを潰してしまったが、すべてハードディスクの不良が原因だった。何とかならないものだろうか。今年になってからでも大量の資料をストックしているし、書いた記事も相当の量になるのだが、消えてしまったら大変だ。今のうちにバックアップをしておく しかない。
自立するというのは、単に庇護を受けずに生活できるということではない。自分が庇護を受けて育ってきたように、人を庇護することが出来て、初めて自立したといえる。 少なくとも自分が育ってきた家庭や社会を維持、存続させるために応分の役割と義務を果たすことが自立ならば、社会に出て家庭を持つことによって、その考え方、行動が成熟し変らなければならない筈だ。
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4月13(金)
6時起床。昨日の「残日録」を書いて、コーヒーとパンだけの朝食を食べてから近代史の人名資料を作っていた。
その後、昨日の「残日録」、今日の「日々の言葉」、「今日は何の日」を書く。 妻の話では、今日の朝、チャーはおしっこはしたが、ほんのわずかしか出なかったらしく、様子を見ておいてほしいというので、午後家に閉じ込めて様子を見ていた。一度トイレに入っておしっこをしたのだが、やはり少量出しただけだった。時間はかかっておらず、少しは出ているようなので、尿道閉塞ではないようだが、量が少ないのが気にかかる。 松本清張の「昭和史発掘」の一巻を読み終えて、ニ巻目を読み始める。昨日も書いたが、他の昭和史を書いた本と比べると、はるかにリアリティを感じる。書いた時期も戦争が終わって、まだあまり時間が経っていない頃だから、松本清張の体験に基づく生の感覚があるし、保守的な人間でも、表面的には戦前の国策を否定的に書いている時代だったから、「南京虐殺はなかった」流の右翼的な雑音で混乱させられることもなく、自然に読み進めることが出来る。この本は昭和史の定本として読み継がれなければならないと思った。そのほかには太宰治の短編を引き続き読んでいた。 気温と湿度の変動が大きいせいか、なにか風邪っぽい。夕食の後は早めに寝た。 偏差値というのは人間性の値ではない。偏差値で 人に勝っても、人間性に劣った人がエリートなるとしたら、日本は恐ろしい社会になって行くだろう。 医師や弁護士、国を運営する高級官僚らは、いずれも偏差値学力さえあれば試験にパスし、その職につく
。しかし偏差値学力というのは倫理観や使命感などは一切評価しない。、人の命を助けるという使命感も、倫理観もない人間が医者になるとしたら、それは恐ろしいことだ。
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4月12(木)
7時頃目が覚めたが、布団の中で1時間ほど燻っていて、8時にようやく起きた。
今日は朝から天気も良く暖かい。妻は授業で、7時半頃出て行き、僕はホームページを書いてから、食事をすませ店に行く。 店ではフォーレを聴いていた。フォーレの作品は有名な「レクィエム」や「ペレアスとメリザンド」、そして「パヴァーヌ」などは昔からよく聴いていたが、その他の管弦楽や室内楽などを聴いても、同じ語法、同じ色彩感というだけではなく、同じような優しさ、暖かさ、淋しさが、そして敬虔さが伝わってくる。 文化や宗教の違いを超えて、信仰の有無を越えて、フォーレの音楽は人の心をピュアーにする。信じる神を持たなくとも、人の心を敬虔にし、信仰心を与える。他の作曲家でも、そういう作品は数々あるだろうが、フォーレの作品は、どの作品にもそれを感じるという点で際立っているように思う。
《日々の言葉》 生まれつきの悪人などはいない。誰でも、一度に悪人になることはない。どこかで防ぐことは出来るのだ。 彼らの子供たちは人格の核が形成される時期に、功利的、打算的な価値観を植え付けられ、ただ
勉強さえしていれば甘やかすだけの育てられ方をされているから、表面は善良であっても、「ルールを守っていれば良い」という功利的な規範意識しか持たず、容易に「見つからなければかまわない」という心理を持ってしまう。 子供というのは、空想の世界を総動員して、充足感を得ようとする。それは世界を拡げようとする、成長しようとする精神的な生理反応だろう。特に男の子の場合、性ホルモンのせいかどうかは知らないが、明らかに「有能感」を求める。僕らの世代が「月光仮面」や「鞍馬天狗」、「猿飛佐助」「孫悟空」などの世界に浸ったようなものだ。 その超能力にあこがれる空想の世界が、社会的な現実に即した「効力感」になってゆけば正常な成長が実現するだろう。ところが、その「効力感」が阻害されると、策略的な虚言、暴力、犯罪、刃物や拳銃、火薬などを手に入れて「有能感」を満足を得ようとする。それが不良化・非行ということだろう。 つまり幼児の頃の「空想的な有能感」 →少年時代の 「遊びの世界の効力感」 →
「成長期の目的意識を持った活動の達成感」 → 成人してからの「問題解決を実現する充足感」という図式が壊れ、どこかで挫折しているということだろう。 |
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4月11(水) 昨夜は12時頃には寝たので、今朝は普通の時間に目が覚め7時前に起きた。普通の時間に起きる日の方が少ないのだが・・・。チャーは今朝は、少しだけおしっこが出たが、やはり少し出にくそうに見える。療法食は食べているのだが、完治するというのは無理なのかも知れない。 ○
夕食の後は、松本清張の「昭和史発掘@」をずっと読んでいた。長州藩閥の申し子で、陸軍や在郷軍人会を牛耳って、政友会を陸軍の御用政党にしてしまった田中義一や、同じ長州の新興財閥を作り、右翼を使嗾した久原房之介らの権力悪を、詳しく描いている。 松本清張の近代史を扱った著作は、まさに彼の推理小説のように、面白く、しかもリアルに描かれている。今も、「岸信介」を書くために、昭和史の様々な本を見ているが、権力者の行動がいかに社会を破壊し、破局をもたらすかが解る。 歴史を物理現象や化学反応のように捉えてしまう風潮は、今の保守化した若者に顕著だが、それは全くの「似非科学」だ。歴史はどこまでも人間が作るものだ。戦前の官僚や政治家の権力悪を、最もそのまま現代の日本に残している組織、それが法務省・検察庁だと僕は思っている。今月末の小沢裁判がどうなるか。それが今後の日本の針路を、民主主義の将来を左右するだろう。
《日々の言葉》 精神の一番美しい特権の一つは老いて尊敬されることである。(スタンダール
) 平凡な人生の経験など何の役にもたたないなどというのは全くの誤解だ。平凡な人生の
中での経験こそ、圧倒的多数の平凡な人々にとって、もっとも身近で役に立つ経験だろう。いつも僕が引用するローラ・インガルス・ワイルダーの『大草原の小さな家』の世界は
、かりに作者が自分の父親を美化してるところがあったりせよ、作り話ではなく実話なのだ。
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4月10(火) 昨夜は2時過ぎまで起きていたので、今朝起きたのはもう9時前だった。チャーが、またおしっこが出ない様子。妻は今日は休みなので、様子を見ると言っていた。尿道閉塞という病気はどうも、一生付き合わなければならないらしい。甲状腺の機能も低下しているらしいし、免疫抵抗力もどんどん落ちてゆくかも知れない。まあ野良猫の平均寿命の5歳近くまでは生きたのだから、後は「おまけの人生(猫生)」と思って、出来るだけ快適に余生を過ごさせてやる他はない。 ○ 夜、店から帰ったら、妻の話ではチャーは午後になっておしっこをしたが、量は少なかったとのことだった。少しでも出ていれば閉塞ではないが、量が少ないこと自体、腎臓の機能が低下しているのかも知れない。血液検査は受けているのだが、変動しながらも、時々異常値を示していることもあるので、それに注意しながら、出来るだけの治療をする他はない。
《日々の言葉》 春咲く花を羨むな。菊は秋には咲くのだ。(吉岡たすく ) 人生の花咲く時期は人それぞれによって異なるだろう。人の人生が開花しているのを見て、羨み焦る必要は無い。自分の人生が花咲く時をじっくりと待ちそれまでの間、水と肥やしを欠かさないことだ。 しかし他の花がみんな咲いているのに、自分だけが咲いていないとどうしてもあせってしまう。二十歳までの競争で、世間は自分を値踏みする。そこで咲くことができなければ、自分がだめなように見えてくる・・・。 人の人生を支えるものは希望である。しかし希望が人の成功を欲しがるものでしかなければ、それは殆ど叶えられ ることはないだろう。希望は自分の内より発するもので、人が羨やむような価値を手に入れることではなく、自己実現することでなければならない。希望が 自己実現するということなら、それはいつか必ず実現するに違いない。しないほうがアクシデントなのだ。 人生はマラソンだ。競争相手は自分自身だ。人のペースに巻き込まれてしまったら、それで結局負けてしまう。マラソンに勝つためには自分のピッチを守らなければならない だろう。
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4月9(月) 8時起床。朝起きて、掲示板の返事を書いていたので、今朝考えたことはそちらを見てください。午前中、月に1度検診を受けている向井医院に行く。先月の検診では血糖値の値が下がったということだったが、今日もらった結果はまた上がっているらしい。一時ほどはひどくはないようだが ・・・・。 向井医院からの帰り、イズミヤの中の本屋に行って、いつも頼んでいる雑誌を買う。ついてでに「世界」があったので、見出しを見たら「教育に政治が介入する時」というタイトルが目に入り、興味を持ったのでそれも買った。「世界」は今ではそんな雑誌があることすら知る人も少なくなってしまったのではないかと思うが、この雑誌を置いている本屋自身が大型店しか、しかも硬い本や難しい本も置いているような書店しかなくなってしまっているから、イズミヤの中の本屋で見つけたのは意外だった。イズミヤの本屋はアバンティが入っているから、その関係かも知れない。或いは立命館大学が近いから、大学の買いに教師が来るということだろうか。 若い頃には時々買うこともあったが、すべての記事を読んだということはない。硬い話を毎日書いている僕でも、読むのを避けるような硬い雑誌だが、やはり日本の「良心」、日本の「良識」というように思う。「世界」が廃刊になる時、日本人の良識の火は消えているのではないか。 ○ 家に帰ってから、しばらくホームページの記事を書いたりして、午後から五条のブックオフに行く。今日はあまり掘り出し物というほどのものはなかったが、目を惹いたものに佐藤優「国家の罠」、それと林芙美子「放浪記」があったので買う。そのほかカール・ベーム:ウィーンフィルのモーツァルトとイ・ムジチの「四季」のメジャー・レーベルのCDが250円の棚にあったので、それも買った。
《日々の言葉》 何よりも第一に現時の学生に希望したきは、真理に対する従順の態度です。(吉野作造) そんな時代にあっても吉野作造は社会に真理の共有と理想の和解的・調和的発展を求めた。 絶対的な権力、統帥権を持つ天皇が存在し、輔弼という名でそれを私物化している軍部や特権階級がそれを取り巻いているという限界の中で、社会主義者から は欺瞞的と批判されながらも、日本の現実に即した自由と民権・人権を実現しようとした人であった。 その理想と努力は大正デモクラシーというあだ花を咲かせた後、暗い軍国主義の時代の中に埋もれてゆくのだが、それでも吉野作造ら理性を捨てない人々は 、決して軍部や国家主義者の主張するような社会が続くとは考えず、軍部や国家主義者が政治の実権を握り思想弾圧が荒れ狂う時代の中でも最後までその主張をやめなかった。 僕ら戦後に育った日本人は、生まれた時から当たり前のように、自由と平等と人権を保障する憲法に守られて生きている。そんな時代に育った若者 たちは、その民主主義が、個人の幸福のみならず社会が発展するシステムとしても無くてはならない貴重なものであるということを、もしかすると軽視していないだろうか。 社会の実体は
一部のエリートにあるのではなく、まして世襲的な特権や既得権を持つ人々にあるのでもなく、圧倒的多数の民衆にあるのだということ、名も無い平凡な庶民の自己実現が社会
の進化と発展を形成しているのだということ。その名も無い庶民が
そのことを忘れ、自分で考えることをやめ、自分の行き先を強権的なリーダーに丸投げしようとする時、戦前の社会と同じように、社会は荒廃と破局に向かってゆくだろう。
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4月8(日) 7時 半起床。朝起きて、何をするわけでもなく、ネットに配信されているニュースや橋下徹についての評価を検索していた。偽メール事件や市職員への思想アンケート に対して地方労働委員会が違法な「支配介入」に当たる可能性を指摘し市に勧告したことがニュースになり、少しファシズムへの熱狂は沈静化したのかも知れないが、もともと民衆がファシズムを支持する心理には違法性の容認、どころか喝采する気持ちが含まれている。橋下徹の赤狩りや組合つぶしのやり方に違法性があること自体、橋本も弁護士なんだから知らない筈がない。それをあえてやるというのは、違法行為がプラス評価になることを知っているからだろう。 「嘘がバレても効果は残る」というのはファシストの常套手段である。ファシズムの狂気は、一人の独裁者にあるのではなく、違法な行為も平然としてやる独裁者に熱狂する民衆の心理の中にある。橋下人気がその独裁者の暴力に期待する民衆の心理の異常を意味するとしたら、偽メール事件や地労委の決定などで沈静化することはないだろう。 戦前の日本の膨張主義的な国策に熱狂した日本人の狂気も、それを狂気だったと自覚する日本人は少ないだろう。インフルエンザのウィルスは身体に自覚症状をもたらすが、思想的なウィルスに感染しても自覚症状はない。そして精神を蝕むウィルスは身体を蝕むウィルスよりもはるかに恐ろしい。 ○ 日曜日は花園のライフが、10パーセントOFFでペット用品を売るので、 午前中ライフに行ってから店に行く。もう桜は満開が近いようで、いつも自転車で通る立命館の裏の住宅街やきぬかけの道もそこここで咲いていた。 |
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4月7(土) 7時起床。昨夜寝たのは1時過ぎだったが、今朝は6時半頃に、自然に気持ちよく目覚めた。夜中にモモとクリが泣くので、一度目が覚めて餌をやりながら見ていた夢を反芻していたのだが、次に目が覚めた時にはもう霞がかかってしまっている。若い頃だったら夢のしっぽを捕まえて、一度記憶を反芻したら忘れなかったのだが、やはり老化による記憶力の衰えなのだろう。なにか保守系の政治家の話を聞いているという一シーンだけはぼんやりと記憶に残っているが、それ以上思い出せない。
《日々の言葉》 幸福論を抹殺した倫理は、一見いかに論理的であるにしても、その内実においては虚無主義にほかならぬ。(三木清) 三木清を獄死させた戦前の軍国主義は国民に虚無主義を強要した社会だった。その社会を支配していた人々の後継者が今も日本を支配しつづけている。その矛盾が戦後の日本人の精神を荒廃させ、教育の荒廃という形で噴出しているのだ。 TQCや生産性向上運動などの小集団運動、社員に企業のスローガンや挨拶を大声で言わせたり、「自主的」にサービス残業させたり、休みの日に仕事を家に持ち帰る「ふろしき残業」をする風潮を作り出している姿は、まさに戦前のファシズムの体質がそのまま戦後の企業に持ち込まれたものだろう。 そんな人々には幸福論などは無用だろう。彼らの幸福は世間と帰属集団が決め てくれるからだ。後はただ遊び仲間との飲み会やスポーツ、小旅行などの目先の快楽を手帳のスケジュールに埋めることが出来ればそれだけでよいのだ。 使い捨てに兵士が戦地に送られて行った軍国主義の時代でも、快楽を処理するための「従軍慰安婦」だけは用意されていた。そして慰安婦が
人身売買する日本人のごろつき業者に、騙され強制連行されて来たと知っても何も心が動かない人間になっていった。 ※ ここまでの記事は10年前に書いたものだが、それから10年の間に、さらに世相は激変している。企業ファシズムの体質は今も引き継がれているが、年功序列の組織構造が否定される一方、若者の半数が非正規雇用の仕事にしかつけず、毎日働いても生活保護以下の所得しか得られないという笑い話にもならないような現実が起きるような社会になってしまった。 年金は5千万件がいまだ消えたままで、さらにオーシャンファームの詐欺事件と変わらないようなAIJなどの投資運用会社の餌食にされている。大手人材派遣会社グッドウィルが倒産しても、AIJが倒産しても、規制緩和、新自由主義の旗手ともてはやされた小泉政権以来、それらの詐欺的大企業を生み出す社会構造は、ますます毒をたれ流し続けている。 こうした社会の閉塞を打開して欲しいという願望が、「維新の会」の人気になっているように見えるが、橋下徹を中心になって支えているのは、大阪青年会議所などの中で活動をしている、関西の資本家の跡継ぎ経営者たちで、グッドウィルやAIJを生み出した新自由主義の体質を持つ、トリッキーな成功を夢想する連中だろう。 結局ファシズムというのは、資本家に踏みつけにされた大衆の怒りを、右方向にガス抜きするための安全装置なのだろうが、それは最後まで矛盾を隠蔽し通す、つまり最も危険な装置に他ならないだろう。 ※ 話は三木清の幸福論から、かなり逸れてしまったが、幸福というのは、僕の言葉で言えば「最大多数の最大自己実現」の中にある。今蔓延り始めたネオ・ファシズムや「ことあれかし」の火遊び根性は、それを最も破壊するイデオロギーだと断言する。多様性を抑圧するファシズムというのは一見、大衆の力を引き出すように見えるが、それは強権を恐れ、強権を求める指示待ちのイエスマンを作るだけで、結局は大衆の自己実現する能力と可能性を最も破壊することになることは世界の過去の歴史が証明している。 ファシズムの強権は、最後は民衆が個人の幸福を捨ててしまう「滅私奉公」というニヒリズムに行き着くのだ。
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8時半起床。 今朝もいくつも夢を見たが、夢のしっぽを掴んでも、記憶は断片的でストーリーを思い出せない。僕は普通免許しか持ってないのだが、時々バスを運転する夢を見る。今朝もマイクロバスを移動させようとしているシーンがあった。仲間がやってきて、僕と一緒にバスに乗り込むのだが、そのシーンだけを断片的に覚えている。雨が降っているシーンがあったようにも思うし、学校の先生と話をしているようなシーンもあったように思う。そしてここに書くのが憚られるようなポルノ小説のようなシーンもあった。しかしすべて断片的でストーリーは思い出せない。老化で記憶力が減衰しているのかも知れないが、寂しいことだ。
9時に倉内工務店が来る。家の中だけで飼っている3匹の猫が家の外に出られないようにして、外に出している3匹の猫が廊下を通って奥のサンルームに行けるようにするため
、廊下に新しいドアを作るという妻の発案だが、廊下のクランクになった所が照明が届かず暗いので、新たに照明器具を付けてもらうことにした。 ○ 「日々の言葉」は阿部次郎の言葉を見出しにして書いたのだが、阿部次郎というのは、漱石門下の教養主義の代表的な文化人で、『三太郎の日記』は僕らの学生時代にも広く読まれていた。しかしその教養主義は結局暗黒の昭和の歯止めにはならなかった。 昭和の狂気を作ったものは、東京裁判で有罪となった軍人や政治家などよりも、服部卓四郎や辻政信ら中堅幕僚のアジテイターが持っている博打根性、火遊び根性だった。その地ならしをしたのが満州国を作った石原莞爾だった。そして2・26事件によって、上層の軍人・官僚・政治家が中堅幕僚の暴走を止めようとすれば、いつ殺されるかわからないという恐怖を与える状況を生み出したことだった。 今また平成の辻政信とも言うべき橋下大阪市長がはしゃぎまわっている。今の日本の閉塞状況の中で、多くの日本人が橋下が主導するネオ・ファシズムに期待をかけ始めている。ファシストが主人公になるというのは、もちろん時代的な背景があるのだが、狂信・狂気というのはあくまでも人間的なものである。だから人間的な、思想的なレベルで歯止めをかけることは出来る筈である。 太平洋戦争前に許容された言論の範囲でも、服部卓四郎や辻政信、田中信一、そして軍務課長という地位でしかないのに、その立場、権限を越えて、辻と同じ石川県出身の陸軍大将阿部信行に組閣させた有末精三ら中堅将校を批判することは出来た筈である。日米開戦に救いを求める民衆の狂気の熱を冷ますために発言すること。それが良識を口にする文化人の使命だった筈である。
《日々の言葉》 死に対する最良の準備が最も良く生きることであることに在るは疑いがない。(阿部次郎『三太郎の日記』) 生きる意味を考えない者、自己実現することを知らず目先の快楽を追いかける者ほど死を恐れる。死ぬまで目的を持って、ともかく「精一杯生きた」と言って死ぬことが出来たら、
そして、自分の生が生み出したものが、後に伝えられるという確信を得ることが出来たら、充実した一日の労働の後の満ち足りた睡眠のように、安らかに死ぬことが出来るのではないか。
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4月5(木)
7時起床。今日も頭が働かない。働かないままに昨日の「残日録」「日々の言葉」「今日は何の日」を書く。
妻は今日から授業が始まり、8時前に家を出る。僕はホームページの更新をした後、昨日の残り物で食事をして店に行く。
《日々の言葉》 君の目を内に向けよ。そうすれば君の心の中に、まだ発見されなかった一千の地域を見出すだろう。(ソロー ) 自分の世界を外に広げようとすれば、物理的な制約や自分の能力の限界もあるし、他人との競争もある。どれだけ上昇志向の強い人でも、少々の能力ではどこかで限界が見えてしまう。 自分の学歴が定まって、職場での地位も頭打ちになって、いつしか上昇志向は雨散霧消してしまい、「自己実現」という言葉も頭から消えてしまう ・・・・・。「凡人とはそんなものだ。庶民はそれでいいのだ。」と答える人も多いのかも知れない。 外の世界を拡げるなと言っているのではない。ただ自分の内の世界を広げなければ、外の世界も拡がってゆかないというのだ。それは草木を支える滋養に満ちた土のようなものだろうからだ。 自分の内面に世界を広げようとしたら、いかに凡庸な才能しかなくとも、100年足らずの寿命ではとても足りないほどの可能性がある
だろう。
凡人の生活を描け、凡人の歌を歌え、凡人の理想を構築せよ。日本の一億の凡人がそれを実行したら日本はすばらしい国になっている筈だ。日本人はすばらしい民族になっている筈だ。
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昨日も早めに寝たのだが、今朝起きたのは9時 だった。何も考えられなず、何もする気がしない。何度も夢を見たが、ぼんやり霞んでいて思い出せない。こんな意欲の減衰する状態も、老化とともに増えて行くのかも知れない。それならそれで、その経過を記述しておけば、老人医療や、老人の生き方など、何かの役には立つだろう。 こんな時こそ毎日唱えている Syuugoro の念仏に従って、「何も考えられず、何もする気がしない時には、何も考えられず、何もする気がしない時の自己実現がある。」を実行しなければならない。こんな時には「いつものように。習慣通りに。」である。ともかくパンとサラダで簡単な朝食を取ってから、「残日録」「日々の言葉」「今日は何の日」を書き終える と、もう11時半、店に行く時間だった。 店では、音楽データの編集をしながら、フランス・ブリュッヘンの演奏するテレマンの「ターフェルムジーク」などを聴いていた。音楽を聴きながら「沈黙のファイル」や太宰治短編集「晩年」を読んでいた。太宰治というのは、ナルシストの自滅という印象があって、ずっと読むのを避けてきた作家なのだが、自分の恥部をさらけ出すということでは、太宰治のような作家は他にはいないのではないかと思った。「自己開示」は内面の葛藤に道筋を与えて「自己陶冶」「自己実現」をもたらすというのは恐らく、正しいのだろうが、自分の恥部をさらけ出して、それに陶酔してしまうというナルシズムに陥ってしまうと、どうにもならないだろう。
「思い出」などを読んでいると、少年時代に階級社会に疑問を感じて、自分の家の使用人が草刈をするのを手伝うのだが、根から刈り取らないので仕事が二重手間になり、ありがた迷惑になっているという現実を、すでに太宰は自覚していたようだ。 「偽善は善から紡ぎだされる」というほどの厚顔さがあれば、雑菌がうようよしている世の中でも「理想」を灯台にして人生を航海することが出来たのだろうが、どこまでいっても「自意識」と「ナルシズム」からは解放されなかったということだろうか。少し読んだだけで太宰を評価することはできないのだが ・・・・。 ともかく太宰も昭和の暗黒時代を生きた証人だから、岸信介を書いてゆく背景として加えなければならないと思っている。 《日々の言葉》 悪行の呪いは、たえずそれが悪を生まざるを得ないところにある。(シラー)
昨日に続いて「悪」について考える。僕は、悪とは「他者の善への寄生」、人と社会が創造する価値を横領・収奪し、自己実現を放棄することだと書いた。 人と争い、人から何かを奪っても、目先の 欲を満たすだけだろう。自分で創造する意志を失っているのだから、奪ったものが無くなれば、また奪わなければならない。そうして自分の心を荒ませ、人の敵意を得るだけなのだ。
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4月3(火) 昨日は10時半頃寝たので、今朝は5時に起きた。少し体調は良くなっているようだ。起きて から1時間ほど部屋を片付けて、それから「残日録」を書く。「日々の言葉」を書き終わって、現在7時半。 今日は台風並みの雨風になると天気予報で言っていたが、午後から本当にそんな天気になった。雹が降って屋根が大きな音をたてたと思うと、傘も役にたたないような大雨が降った。
《日々の言葉》 悪とは善の生み出す影である。それ故、善が変われば悪も変わってゆく。
しかしその影に惑わされてはならない。影は光がなければ存在しないものだからだ。 人は類として存続し、進化しようとする本性を持っている。
その本性に従うことが善である。その本性を疑い、否認し、創造する意思を持たず、他人の生み出したものを搾取し、収奪し、それに寄生するならば、それは善への寄生である。それが悪
である。 他人の助けを受けることを否定しているのではない。病気になれば人の助けが必要になる。収入を失えば、人の経済的な援助が必要になる。人の助けなしに生きることが出来る人などは居ない。問題は自己実現の意思と行為である。病気であれば、医療技術や看護技術に貢献するつもりで良き患者になることだ。そして同じ病気で苦しむ人の参考になればという気持ちを持って日記を付けたり読書をして知識を深めるなど、病床でもできる自己実現を実行することだ。 生きている限り、自己実現できることはある筈だ。ない筈がない。いかに苦境にあっても、自己実現することは、自助努力に繋がるし、他の人々の生き方の参考になるだろう。難しいことではない。自分にとっての善は自分の身の丈に応じたもので良いのだ。そして、その中にこそささやかな幸福が用意されている筈である。
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8時 半起床。起きて、しばらくクリとモモと遊んでやってから「残日録」を書く。書き終わったら、もう10時半。それから「今日は何の日」を書いて朝・昼食。もう12時過ぎだ。今日は店は休みで、 今日はマツモトが10パーセントOFFなので花園に買い物に行く。 買い物から帰ってくると、妻がチャーが又、おしっこが出なくなったという。5分もトイレにしゃがんでいたが出ないという。いつもはトイレをしたら外に出してやるように条件付けをしているのだが、今日は外から帰ってきて、自分からしようとして出ないから、尿道閉塞の再発に違いない、先日チカコクリニックにチャーを連れて行った時、首筋の脱毛が甲状腺の異常かもしれないというので、その薬をやっていたが、僕は尿道閉塞の再発は、そのせいかも知れないと疑った。 夜、チカコクリニックにチャーを連れて行く。やはり先生は新しい薬の影響かも知れないというので、導尿管を付けておしっこを出した後、脱毛の治療薬は中止して、尿道閉塞の治療の薬だけで様子を見ることにする。
《日々の言葉》
人は昔は、特に農村では平凡な庶民であればあるほど、自分たちで家を作り、家具 や道具を作り、食品を作り、衣服を作って生活していた筈だ。しかし分業化が進み、科学や技術が進歩し、物質的に豊かになるにつれて自分で作ることを忘れ、何でも金で 手に入れるようになってしまった。 多くの人々が、ただ職場という餌場に通い、餌をもらうために芸をすることを仕事だと錯覚し、その芸を覚えることと餌の品定めをすることしか学ぼうとしな くなってしまった。そして創造などは特殊な選ばれた人間のすることだと錯覚している。これは人間の能力の退化ではないか。 創造する心がなければ、育む心もない。育む心がなければ愛する心も生まれない。人や社会に寄生し、作り、育てる喜びを捨て て何もしないことが幸福だというような生き方は、最も不幸な人生であると思うのだが ・・・・。 |
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4月1(日) 8時起床。起きてすぐ、昨日の「残日録」、「日々の言葉」を書き終わって9時半。食事を 済ませ、「岸信介(19)を書く。1919(大正8)年というのはパリ講和会議が開かれる一方で、朝鮮では3.1独立運動が起こり、中国では5.4運動が起こる。国内では普選運動が起こり、支配階級にとって民衆の力は無視できない存在になってくる。激変する国際情勢、国内情勢に岸信介の東大時代の思想を語らせるという流れで書こうと思っているのだが、どうしても歴史的事実を記述しているだけのようになってしまう。しかも元々、近代史の知識を持っていないから、一方でその知識を勉強しながら書いているのだから、なかなか進むわけがない。 今日は久しぶりに店からの帰り、イズミヤに寄る。昨日カレーを作ったので、いつもそうだが、しばらくカレーが続く。サラダとトッピングにするミンチカツを買って帰る。7時も過ぎているのだがイズミヤに行くと、客はかなり多かった。まだ桜は咲いていないが、日曜日で、天気も昼から晴れたから外出する家族が多かったのかも知れない。 《日々の言葉》 多は多なるが故に一に如かず。
日本は「場の倫理」が支配する社会である。そこでは合理性は曖昧にされ、「場」を共有する者
の共通の利害が正邪・善悪・好悪の判断の基準となる。そしてそれに反する者を「異質物」として排除しようとする。 こういう構造の中で「異質物」として排除される者は、相手が多数であるが故に、多数の意見が正しいのではないかという錯覚に陥ってしまう。 だから多くの人は「空気を読んで」排除されないように努めている。 しかし「場の倫理」が支配する中では、多数の意見というのは、 集団の利益、共通の利害でしかない。道理に従うわけでもなく、筋道を通しているわけでもない。単に正否とは関りの無い 、真理などとは無縁の集団のエゴに過ぎない。そこには多様性もなければ、多様性から得られる論理的な進化、止揚、総合性もない。
多様性というのは、常に「場の倫理」「多数」に惑わされない固有な認識の中にある。
そして道理や筋道というのは、その多様性が論理的に止揚、総合される中にある。
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3月31(土) 5時起床。 昨夜は夕食後「岸信介(19)」を書いていたのだが、少し疲れを感じてソファーに横になっているうち毛布もかけずに寝てしまった。中途半端に暖かかったから、寒さで目が覚めることもなかったらしい。起きたら5時。やはり少し寒気を感じて、早起きしても快適というわけにはいかない。とりあえず「日々の言葉」を書く。 11時頃家を出て、店で軽食を取る。眠気と疲れを感じて、ソファーで少し横になっていた。過去のラジオ番組の録音データを整理しながら聴いていた。ラジオ深夜便の「心の時代」で山田洋次のインタビューがあったのでそれを聴いていたのだが、山田洋次の生い立ちを交えて、家族愛を描くようになったわけが語られていた。そして「母べえ」を製作した動機について、軍国主義の時代の生活を語り伝える、世代としての責任があるということを言っていた。 もう山田洋次の世代も次々と鬼籍に入っている。そして今の若い世代の多くは、戦前の狂気や悲惨を追体験することを拒否して、更地に家を建てたがっている。僕ら全共闘世代は、まだ生々しい戦争体験を親から聞いた世代だが、戦前の狂気や悲惨を風化させようとする、反動的な資本家や政治家、御用評論家の注文に嵌ってはならないという義務があると思っている。 ○ クリ坊(栗太郎)はよくこんなポーズで寝ています(朝8時撮影)。
《日々の言葉》 我思う、故に我なし。 自我というものは、自分の存在を構成している、自分が関係しているさまざまな
事物や現象があって初めて存在する。認識する対象がなければ、そもそも「我」という意識も存在しない。
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3月30(金)
4時起床。相変わらず、起床時間が定まらない。「今日は何の日」を書く。1951(昭和26)年の今日、砂川事件の裁判で、米軍基地は、その存在自体が違憲という判決が出たのだが、その年のうちに最高裁で破棄され差し戻され、結果逆転有罪判決となった。 今日は一日家に居るが、何をしたのかわからないうちに時間が過ぎる。 明日のHPを更新するために、3月31日の出来事を探して「今日は何の日」の記事を書いたり、音楽CDを聞きながら、デジタルファイルにして整理したりしていた。夕食後は「岸信介(19)」を書いていた。 素人の僕が岸信介という歴史上の人物について書くことの意味というのは、プロの伝記作家やノンフィクションライターのように関係者に取材をしてエピソードを書くなどという芸当は出来ないのだから、すべて既知の情報をなぞるだけのことになる。しかし、岸信介が見たもの、関ったこと、生きた時代を重ね合わせると、既知の情報以上に大きなものが見えてくるのだろうと思う。 岸信介は大学時代に上杉慎吉、大川周明、北一輝に影響を受け思想形成をしたことは、岸信介に関する書籍を見れば必ず出てくることだが、それらの右翼、国家主義者、国家社会主義から影響を受け、計画経済と統制社会を構想していったという経歴からすれば、東大時代に起こった第一次世界大戦と経済の急成長、西原借款、シベリア出兵や米騒動、普選運動、パリ講和会議や日本の国際的地位の上昇などの動きをどう見ていたかも見えてくる。 机上の能力や掌握した権力への過信で、国民の生死を左右する国家の指導者が合理的な判断を踏み潰すことの恐ろしさ。それを描くには、人の知らない個人的なエピソードを探すよりも、岸信介の行動の背景になっている歴史的な現象を追いかける方が見えてくるのだと思う。
《日々の言葉》
「非理法権天」の思想が日本を破滅に追いやるのだ。 「非」は「理」に破れ、「理」は「法」に破れ、「法」は「権」に破れ、「権」は「天」に敗れるという思想は楠正成がこの言葉を旗印にしていた南北朝時代から現在まで、連綿として日本人の価値観の中に染み付いた思想である。敗戦によって「天」の部分は空白となり、経営権と地位・学歴だけが支配する「権」の社会が続いてきたのだが、今再び「天」を復活させ、すべての国民を「天」の元に拝跪させ、その権威を私物化しようとする右翼的策謀が復活してきている。反動政治家が次々権力を握って「日の丸・君が代」の強制しているのはその表れだろう。 「天」というのは超越的な権威としての存在だが、権力が分立抗争する時、その調停者として「天(宗教的権威や超越的な地位)」が機能することはあるだろう。しかし、織田信長が権力が分立する戦国時代を収束させたのは、「理(合理性・科学性)」の力であった。徳川幕府は織豊政権によって築かれた近世社会を「法」によって300年維持したが、その間に生まれた社会矛盾や権力の分立を、再び調停者・統合の象徴としての「天(天皇制)」の権威によって明治維新を実行し、近代国家へと脱皮した。しかし、幕末の洋学者の活動や疲弊する藩政を改革した指導者、産業の発展、明治の近代化を実現していった多くの人々を支えたのは、やはり「理」の力だっただろう。 ところが、明治維新を実現した「天」の権威は分立抗争を克服した「権」に占有され操られて、「理」を離れ、「法」をへし曲げ一人歩きし始めた。それが昭和の狂気である。そして多くの民衆は「天」に操られ、本当に「神風」が吹くことを信じてしまった。
「長いものには巻かれろ」「勝てば官軍」「理屈と膏薬はどこにでもくっつく」「空気を読む」・・・・・・。 日本人と、日本の社会を育て、進化発展させようとするなら、最上位に置かなければならないのは「理」である。道理に従う精神、理性的に考え、合理的に判断する能力である。日本人の紐帯として「天皇」の存在を認めるのも、あくまでも「理」の元になければならない。それを忘れたら日本人は再び同じ過ちを繰り返すことになるだろう。
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3月29(木) 昨夜寝たのは2時過ぎだった。夕食後、新潮社:共同通信社社会部編「沈黙のファイル」を読み耽っていた。9時半起床。晴れ。 「沈黙のファイル」を読んでいると、日米開戦の原因となった日本軍の南進政策、インドシナ制圧の決定が参謀本部でどのようになされたかについての、参謀本部のメンバーの証言が書かれている。当事者の発言だけにそれだけ重みがあるだろう。読んでみると、辻政信と服部卓四郎の果たした影響が極めて大きい。辻政信というのはこれまで僕が読んだ本の中で、その言動や行動を見ていると、典型的なアジテイター(煽動家)だと思っていたが、やはり日米開戦の決定に服部卓四郎とともに決定的な役割を果たしているようだ。 日露戦争後、太平洋戦争に至るまでの間に、功名心に駆られた軍人だけではなく、少なくない日本人が、坂道を転げ落ちるように不良化して行ったのだ。同じことが、今、再び起こっている ・・・・・。 橋下大阪市長の言動や行動を見ていると、もっとも近いキャラクターは辻政信だと僕は感じている。「ことあれかし」のアジテイターである。アジテイターが主人公になる時、日本は破滅するだろう。
《日々の言葉》 善には様々な善がある。しかし悪は、ただ一様である。 善とは価値を生み出すことだから、価値の数だけ善がある。だから価値と価値が相容れない時、一見相容れない善は悪に見える。しかし本当の悪とはそんなものではない。悪はただ価値を破壊し、価値を簒奪しようとする衝動である。だから悪はただ一つの悪しかない。 価値を破壊したり簒奪、占有するための さまざまな嘘、陰謀、不正、逆恨み、自己利益のためにスケープゴートを作る「イジメ」、仲間外し、暴力・・・・、それらは単純明快にただ一つの悪である。
悪はただ一様の悪しかないが、善には様々な善がある。だからこそ自由は善の中にあるのだ。立場や考え方が違っていても、価値を価値として認める理性。そこにこそ自由はある。 自分に与えられた能力で、自分に与えられた道具で新しい価値を創造すること。自分の可能性を創造すること。そこにこそ自由がある。そこにこそ善がある。
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3月28(水) 5時起床。今朝は久しぶりにまともな時間に起きた 。今朝見た夢は、どこかホテルのロビーのような所で議論している夢だった。なぜか議論している相手は「南京虐殺は虚構」「沖縄の集団自決に日本軍は関与していない」など無い・無い尽くしの全面否認で有名な右翼の国会議員稲田朋美のようだった。夢の中で彼女が「それは××(彼女の仲間)の言ったことじゃないの」と言っている。僕は「誰が言ったことかが問題ではなく、真実かどうかが問題だ。 真実だと思えば誰が言おうとその言葉を使う。」などと言っていた。 しかし僕ら全共闘世代の感覚と10歳年下の稲田朋美の世代の感覚の相違は、絶句するほどの落差がある。その落差は僕の目から見る限り、とても合理的な進歩などというものではないのだが ・・・・。 残日録と「日々の言葉」・「今日は何の日」を書き終わったらもう8時半になっている。
《日々の言葉》
寝床につく時に翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。(ヒルティ) どんな虚無主義者や懐疑主義者でも、子供の頃、明日がくることを心待ちにしたことはあるだろう。欲求が実現される可能性を確信した時から、その欲求が実現されている時間。幸福感とはその間に得られる充足感だろう。だからもし幸福に暮らしたいと思うのなら、
今日の希望は今日の現実の範囲を越えてはならない。実現性の乏しい大きな夢を性急に追いかければ、不満を抱きつづけるだけ不幸になってゆく。 それは挫折の後でも、絶望の中でも同じことだ。どんなにわずかでも残されたものが希望の種子だ。自分の身体が残されている。自分の知識と経験が残されている。「七転び八起き」である。夢を持ちながら日々の小さな希望の実現を積み重ねる努力。それが幸福の方程式だろう。
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3月27(火) 一昨日、徹夜した後疲れがまだたまっていたのか、昨夜は12時までには寝たのだが、9時過ぎまで寝ていた。久しぶりに夢の話を書く。
今朝見た夢は、かなりストーリーが整っていて、小説仕立てになっていた。夢のストーリーが始まる前に、僕はスナックで飲んでいた時、年下の三十歳代の人と知り合っている。話があって友達になった。その友達は将来に夢を持っているのだが、今働いている会社の枠からはみ出している。 ○
美はあらゆるところにある。我々の目が、それを認め得ないだけである(ロダン) 美とは単なる調和のことではない。人は生命のない調和に美を見出すことはないだろう。混沌から調和へ、生命の力によって矛盾や対立、葛藤が克服される中に人は美を見出すのだと思う。それ故、美は革命である。革命とは脱皮することである。成長するもの、その物が持っている内在する可能性が実現されるもの、そこには刻々革命が起こっている。 多くの人は平凡を笑い、平凡から脱出し、凡人と差をつけることが幸福だと思っている。しかし教員試験に失敗したメンデルが単調な修道院の生活の中で、庭に植えられたえんどう豆を 熱心に観察し、プロの生物学者が思いもつかなかった遺伝の法則を発見したことは、人生の真相がそんなところにはないことを示している。 「真の発見の旅とは新しい風景を求めることではなく、新しい目を持つことである。」 とマルセル・ブルースとは言
う。 |
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3月26(月) 8時半起床。晴れ。一昨夜は完全に徹夜したまま店に行ったので、家に帰って夕食の後、すぐに寝てしまい9時間以上は眠ったのだが、やはり体調は少し悪い。朝食を食べてから「日々の言葉」を書く。今日は花園のマツモトが10パーセントOFFなので 、昼頃買い物に行く。五条のBook Off によってから花園の Book Off とまつもとで買い物 。新潮社の古典全集の中の「源氏物語」の第1巻と第2巻が105円で売っていた。マーカーで線を引いたりしているが、汚れはない。古典全集は岩波、小学館なども持っているが、新潮社のものが、一番コンパクトで、高校の参考書のように本文に傍訳が付いており、初学者には使いやすい。定価3200円の上製箱入の本なのだが、時々こういうものが105円で売っている。古典書は情報の価値が減ることはないので、いくら古書とは言え105円ということは有り得ないのだが、Book Off 特有の感覚なのだろう。
《日々の言葉》
人間こそあるがままの事実と、あるべきはずの事実との相違に心打たれる唯一の動物である。(ハズリット) 人は理想と現実のギャップを背負いながら生きている。その乖離に人は苦しみ、そして絶望する。しかし、それだから
こそ人間なのだろう。 理想を捨てて、代わりに利害や目先の快楽、そして保身 や「安全・安心」だけを追いかける人生になってしまったら、つまり「快感原則」と「自己保存」だけを追いかけるようになっってしまったら、動物としての肉体は生きていても、 もはや人間としての精神は死んでしまっているだろう。 現実とのギャップに苦しみながらでも、死ぬまで理想を捨てずに生きる。その中にこそ生きる意味もあり、幸福もある。そして理想を持ち続けるということは、ただ気持ちの問題だ。才能などはいらない。誰にでも出来ることなのだ。
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3月25(日) この所、一日おきくらいに、遅起きと半徹夜を繰り返していたが、今日 はとうとう完全に徹夜してしまった。寝ようとしたがだめだった。「日々の言葉」、「今日は何の日」を書いた後、ずっと小沢一郎の裁判についてネットサーフィンをやっていた。普通なら、あれだけ検察ぐるみの証拠改ざんや口裏あわせなどのボロが出てきているのだから無罪になるのが当然だと思うのだが、小沢一郎の抹殺を図った権力の陰謀だと言っているような、巨大な権力の背景があるのかも知れないから、その権力によって裁判官を動かすということもあるのかも知れない。 しかし当初、民主党内の反小沢勢力や、自民党が期待したように小沢氏を抹殺することは出来ないだろう。仮に有罪判決が出たとしても、その判決に権力の司法介入を感じる人はかなり多そうだ。 それにしても小沢氏や中井氏など民主党議員を右翼が脅迫しているらしい。中井氏の所には切り取った指が入れられた封書の脅迫状が届いたが、逮捕された右翼は元警察官だったという。こういう輩が愛国者というのなら、愛国者というのは人格異常者ではないか。国を愛するどころか、日本人の恥ではないか。よくもこういう輩が、誠実に歴史を検証しようとする人々を「売国奴」などと言えたものだ。 ○ 徹夜のままで店に出たので、やはり少し疲れていて、ふとうたた寝したりしたが、いつもなら殆ど客も来ないのでソファーでごろ寝していてもかまわないくらいなのだが、夕方、外国人の客が来たので、そうもいかなかった。はじめての客だが、また来ますと言っていたから、立命館大学に関りのある人かも知れない。家に帰って夕食の後は、すぐに寝る。
《日々の言葉》 幸福は自足する人のものである。(アリストテレス『エウデモス倫理学』) 自分の世界をもって、自分に与えられた能力と可能性を形にすることが自分の生き方になれば、自己実現することが幸福になるだろう。しかし、しばしば世間の人は、それが世間の認める価値でなければ、「自己満足だ」とか「そんなものが何の役に立つ」とあざ笑う。そんな言葉に僕は惑わされない。 自分の世界を持たなければ、どれだけ世間的な価値を手に入れても自己実現にはならないし、 消費的な満足は得ても、自己実現によって得られる充足感ははない。だから快楽を得ても、幸福を得ることはない。そして目先の快楽を手にして、束の間の満足を得 ても、また次の快楽を探してさ迷うだけのことだ。 日本にも、「口」を真ん中にして「吾唯知足」の四文字を象った竜安寺の手水鉢で有名な、石田梅岩の「知足安分」という思想がある。日本の封建時代の庶民道徳だから、社会的な背景はアリストテレスの生きた古代ギリシャの市民階級の倫理観とは差があるが、生き方の態度ということでは同じだろう。
最低賃金でも、失業して職が見つからず、生活保護も受けられないとしても、多重債務に追われていても、難病にかかって苦しんでいても、自殺したいと考えるような境遇の中にあったとしても、自足する「自分の城」を作ることは出来ると僕は思う。
もちろん社会的不公正や権力悪、組織暴力や、多数によるいじめや排除などの社会悪を容認するものではない。しかしそのような理不尽な攻撃に晒されていても、自分の心の中に「自分の城」さえ持っていれば、自足できると僕は信じている。 |
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3月24(土) 今日も、朝から雨が降り続いている。9時半起床。「残日録」を書き終わって11時半、急いで食事をして店に行く。 店に行く時は、小雨がまだ残っていたが、店に着いてから晴れて、春らしい陽気になった。 店では音楽ファイルの編集をしたり、それを聴きながら近現代史の資料の整理をしていた。
《日々の言葉》 最大多数の最大自己実現 すべての人が自分の持っている可能性を実現出来ている社会は、最も豊かで最も強い社会に違いない。だからこそ民主主義
が絶対主義や全体主義に勝利したのだろう。 最も豊かな社会とは、最大多数の人が最大の自己実現をしている時に実現する。人の能力に差はあっても、
何の能力のない人はいないだろう。人よりも劣っていたとしても、その人に居場所が与えられ、その能力と可能性が実現され、世の中に役立っている状態こそ理想の社会に違いない。 「競争が人間の本性で、競争のない社会などはない」という若者の意見をよく聞く。
しかしそれはとんでもない誤解だ。身分が固定されていた江戸時代の日本人の倫理観は「分を安んずること」ではなかったか。
勤勉と質素、正直と親切、それだけが人に対する評価ではなかったか。 |
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3月23(金)
朝から雨が降っている。昨夜も夜中に起きていたため、起きたのは、もう昼頃だった。朝昼兼用の食事を済ませて昨日の「残日録」と今日の「日々の言葉」を書く。書き終わったらもう2時だった。
店は休みだが、買い物にも行かず、終日家に居る。
《日々の言葉》 そのままに生まれながらの心こそ 願わなずとても仏なるべし。(一休宗純) 仏教は「一切衆生悉有仏性」と言い、どんな人でも生まれながらに仏の心を持っていると言う。仏の心とは
「無分別」の心、つまり「値踏み根性」で優劣をつけない心、そして生きとし生けるものを慈しみ憐れむ心、育む心だろうか。 「学習する」という人間の本性は「仏性」だろうが、学習するということは、真実や真理だけではなく、虚偽や虚構、誤謬をも学習してしまう。さらに「真実」や「真理」も見る角度、見る立場、切り取り方で様々な異説を生む。そこに人間の「仏性」を考える時の難しさがある。 しかし、人間は「学習する能力」の延長に「考える力」を持ち、そこから物を作り出す創造性を持 つ。そして自分の能力や可能性を実現し、環境の改善、社会の発展の為に、身の丈に応じた役割を果たそうとする自己実現欲求を持っている。これも人間の「仏性」だろう。 そして「考える力」は、真理を追求する理性を生み、「善」を追求する倫理観を育て、「美 」を求める感受性を養う。そしてそれらに従い自分を高め、完成させようとする欲求が自己を越えようとする時「聖」に遭遇する。これが人間にとっての「仏性」ということだろう。 いかにも現実離れした理想論のように聞こえるが、人間にとっての「仏性」、人間が人間であることを全うするというのはエリートの話ではない。すべての人にとってそれは存在 の根拠であり、その人にとっての幸福の条件なのだろう。
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9時起床。起きてすぐ「残日録」を書いて、それから「今日は何の日」を書くが、「岸信介」を書いているので、出来るだけ大正時代に近い時代の事件を探すが、あまり大きな事件がなく、探すだけでかなり時間を費やしてしまった。「デバ亀」事件も3月22日の出来事ごとだが、「自由民権」と「平和」というのが僕の書く「日々の言葉」のテーマだから、性犯罪事件は趣旨に合わない。ということで袁世凱の帝政放棄を書いたのだが、書き終えたらもう12時だ。朝からまだ何も食べていないので、味噌汁の残りで軽食を取る。 ○
夕方、地方裁判所に行く。妙心寺塔頭多福院住職の起こした「地代値上げ」の裁判で、妻は被告借地人として訴えられている。一条通のバス停で同じ被告人のSさんと一緒になり、10番のバスにのって裁判所に行く。 しかし「道理と筋道を通す」という精神は、誰かが守って行かなければならない。そうでなければ「脅し・ごり押し・なし崩し」のクレーマーが主人公の世の中になってしまう。すでに大阪はそうなってしまっているが ・・・・。 ○ 読売新聞だったと思うが、ネット配信の記事を見ると、橋下大阪市長を支持する人が70パーセントだと書かれていた。若い世代ほどその支持率が高いという。橋下市長のような人間は、いつの時代でもいるだろうから、そんな人間がいることに、僕は特にどうこうは思わないが、支持する人が70パーセントに登るということに愕然としている。
橋下という人物は、光市事件の被告の弁護団を中傷する発言で、弁護士資格の停止処分を受けるような人物である。それが権力を握るや、自分の言うことを聞かない人々、「日の丸・君が代」拝礼を拒否する教員や、市の労働組合を強権的に弾圧する。つまり、自分はルールを平気で破るが、他人には自分の考えたルールを暴力的に強要するような人間である。 この、ファシズムの火をつければすぐに燃え広がるような思想的な枯れ草状態が、これからの日本に何も引き起こさないわけがない。今年は恐らく政界再編が起こるだろう。政治家は来月の小沢裁判の結果とその影響を見て動き出すだろう。今の隠微なファシズムの策動に歯止めをかけるものがあるとすれば、小沢の復権と支配階級の分裂以外にはない。小沢は先日、橋下の「船中八策」の中に謳われている「首相公選制」に憲法上疑義があると発言して、民主党小沢グループとの距離を示す発言をしているが、この距離に期待する以外、今の日本人の意識がファシズム化する流れに歯止めをかけることは出来ないだろうと思う。 真に日本を動かしているのは、民衆に見える政治家の動きではなく、戦前の「枢密院」のような役割を果たす少数の特権階級の私的な会合があるのだろう。それが検察やマスコミも動かして小沢を抹殺しようとしているのではないか。
小沢裁判で、検察は又も証拠改ざんを、しかも組織的にしていたことが報道され明るみに出たが、それでも小沢を抹殺しようとしている権力者には、司法を動かし小沢を有罪にする力があるのかも知れない。
なし得ることを望め。 これまでに無数の人が、こう考え、人に言った言葉だろう。しかしこの当たり前の言葉を人はしばしば忘れ、人の成功を羨み、世間的な価値を追いかけ、出来もしないことを望む。そして
徒労を重ねたり、出来ないことを出来たように見せかけたりして、最後は自己実現を放棄する。 「競争社会」「学歴社会」というのは、出来る人間、相応しい人間よりも、成りたがる人間が地位を占める社会だから 、世の中にブロイラーエリートが氾濫 し、成績の悪い教え子を育てるよりも軽蔑するような教師や、正義感もなく、権力側に居たいだけの警察官や、人の生命を救う気持ちなどさらに無い医者が生まれる。 プロに成れなくても、自分の中に出来ることがあるなら、アマチュアとして一生続ければ良い
ではないか。その人が書き続けた作品は、時代とともに消滅するプロの作家の作品よりも、はるかに価値のあるものかも知れない。そうでなくても、もしその
作品が、いくぶんでも人の心に残る糧を与えるなら、読み捨ててしまいのプロの作品よりもはるかにプロと言えるだろう。 |
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腰痛は大分軽くなったのだが、最近の睡眠時間が不規則な影響だろうが、生活のリズムは完全に狂って、 7時頃、ようやく眠くなり2時間ほど寝て、9時ごろ朝食、その後「今日は何の日」を書く。もう12時前で、これから店に行く準備をする。
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3月20(火) 3時 に一度目が覚めて一度起きたが、少し「残日録」を書き始めたが、腰痛はおさまらず続ける気にもなれず、また横になる。10時に起きたが、少し腰痛は治まっているようだ。起きてから「今日は何の日」を書 く。書き終わってから、朝昼を兼ねて食事を取り、店に行く。 ○ 《日々の言葉》 人類から愛国心をたたき出してしまわない限り、あなた方は決して平穏な世界を持たないだろう。(バーナード・ショウ) 「日の丸・君が代」を強制し、戦前の日本のアジア侵略を反省し、ファシズムを推進した人々を批判する人を「売国奴」を言い募る反動的な資本家・政治家や御用評論家、それに追随する人々の言う「愛国心 」というのは決して、自然な、素朴な愛国心ではない。 多くの場合「愛国心」を鼓吹する者の本性は、民衆を強制的に国家に 服従させ、その国家を自分たちが支配することで、すべての民衆を自分たちに服従させようとする思想に他ならない。それは「愛」とは全く逆の 、支配者や国家主義者の露骨な「欲望」の表現である。 しかし多くの人々は、「国益」の拡大や「国権」の拡張が、自分に利益をもたらすものだと信じ、支配者に逆らったら損をするという気持ちも手伝って、彼らの吹聴する「愛国心」に追随する。そして気が付いたときには「国権」のために「民権」や「人権」は踏みにじられているのだ。 真に同胞を愛し、民族の文化や風土を愛するものは、その内実を愛する 。「国権」や「国益」で「愛国心」を吹聴するのは支配欲や権力欲に凝り固まった人々の愚劣な欲望であってあって、愛とは無縁のものである。
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3月19(月) 8時起床。今日はようやく晴れた。腰痛はまだ治らないが、午前中チャーをチカコクリニックに連れて行く。尿道閉塞はこの所、小康を得ているが、半年ほど前から頸の両側が毛が抜けて剥げてしまって、それがどんどん広がっている。チャーは、これからどれだけ生きられるのか分からないが、病気とは一生付き合ってゆかなければならないようだ。 帰ってから、「残日録」「日々の言葉」「今日は何の日」を書く。
《日々の言葉》 人は真実の中に居場所を失ったら 虚構の中に居場所を得ようとする。善意の中に居場所を失ったら悪意の中に居場所を得ようとする。理想の中に居場所を失ったら虚無の中に居場所を得ようとする。 真実や善や理想というものは、一部の人々のものであってはならない。まして持てる者、優れた者、富める者の 装飾品などであってはならない。日本には「金持ちけんかせず」などという愚劣な諺があるが、持たざる者が敵意や悪意や虚言の中にしか居場所を見出せない人を見て、優越感に酔いしれているような言葉だ。 劣る者、持たざるもの、貧しき者から居場所を奪 い、悪意と敵意と虚偽と犯罪と、或いは引きこもりや自傷行為や自殺の中にしか居場所を得られなくなった社会は、閉塞し荒廃した社会というのはもちろんだが、それだけ多数の人々の生産的な価値、創造的な価値が使われずに捨てられてしまう、貧しい社会になってしまう。 今の世の中、 「真実」や「善意」や「理想」を居場所にする人は少ないように見える。しかし、それらが居場所にならないとしたら、虚構や悪意や虚無が蔓延する社会になってしまうだろう。 戦前の「神国日本の、天皇の臣民」という思想で洗脳されたその反動で、戦後の日本人は生まれた時から価値を相対化する感覚が刷り込まれている。そして ただ「劣等恐怖」と「孤立恐怖」と「平凡恐怖」を刷り込まれて育ち、同調を最大の価値判断にして、周りの空気を読みながら、「鬱陶しいもの(人)」「不都合なもの(人)」から目を背け、 或いは否認し、排除して生きている。 真実も、善意も、理想も人の居場所にならない社会がどうなるか。その結果は既に今の日本に現れ始めている。 神(自然の摂理)が自分に与えてくれた生命、その能力と可能性を全うすることが 、生きる意味だと知れば、そしてたとえわずかでも自分の存在を必要としてくれる人がいるなら、そこには真実があるし、善意があるし、理想があるはずだ。人と比較して、自分を品定めするから迷いが生じる。自分の個性を見ずに、世間的な価値を追いかけるから迷いが生じる。それを捨てれば、何の迷いも無い。自分の個性、自分の人生は全開するだろう。 すべての人が自己実現できる、「最大多数の最大自己実現」が目指されている社会、それが理想社会だろう。それは優秀なエリートと、エリートの命令に無批判に服従する良民を作ろうとする、これまでの日本の権力者(資本家、保守政治家、体制的官僚・学者)の考えるような思想とは正反対の、対極にある思想だが、歴史は必ず「最大多数の最大自己実現」を目的とする社会が生き残ってゆくことを証明するだろう。
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3月18(日)
8時半起床。小雨が降っている。今朝は昨日よりは腰の痛みはない。治ってきてはいるらしい。今日はいつも日曜日にペット用品10パーセントOFFをやっている花園のライフに、キャットフードを買いに行こうと思って出かける準備をし始めると、財布が見当たらない。どうも昨日店に置き忘れてきたらしい。
少し心配になって店を見に行った。ところが店についてみると裏口の鍵が開いている。これも掛け忘れたらしい。店のカウンター下の小物入れに財布はあったのだが、腰痛でボーとしていたから、次々他のトラブルを誘発する。 家に帰って朝食を取り、ようやく昨日からの「残日録」を書く。「日々の言葉」・「今日は何の日」を更新。1時過ぎ、花園のライフに行 き、キャットフードを買い、ブックオフに寄り、その後「まつもと」に寄って買い物をして帰る。
《日々の言葉》 わが敵はわが味方である。(E.バーグ/イギリスの政治家) フランス市民革命に大きな影響を与えたルソーは、その著書「エミール」の中で、「子供を殺すのは簡単だ。欲しがるものを何でも与えればよい」と言っているが、結局、欲求の不正な、或いは安易な充足は自分の自己実現を阻害し、自分を腐食させてしまうということだ。 吉本隆明に「日本三バカ」の一人にされた浅田彰の言う「スキゾ人間」という言葉が若者の間で流行った頃には、よく「生きることなんかに意味はない。何もしないと退屈だから、なんか目的らしきことを持つだけだ。」という言葉を聞 いた。しかし目の前に自分を傷つけようとする敵が現れて、その危険を防ごうともしない人間がいるだろうか。
成長したいというのは人間の本性だ。そして自分がかかわる社会を発展させたいというのもやはり人間の本性だ。そのために克服しなければならない困難と戦い、自分を鍛え、成長し、さらに大きな困難と立ち向かう。
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3月17(土) 9時半起床。 午前中雨が降っていたが、昼から雨は上がる。しかし曇り空で時折、小ぬか雨が降る。昨日の午後から腰痛が再発し、夜になってひどくなる。今朝は5時頃まで寝られず、ずっとブルックナーを聴きながら布団で横になったいた。ようやく5時頃眠りについたが、9時過ぎに目が覚めた時は、起き上がるもの大変な状態になっていた。店を休もうかとも思ったが、雨も止んだので店に行くことにした。 午前中、妻が白梅町のイズミヤに行くというのでバッファリンを買ってきてもらって、食後にそれを飲んで店に行く。しばらくして腰痛は軽くなったようだが、店を出る頃には、再び酷くなり、すこし朦朧としてくる。 家に帰って、夕食後、もう一度バッファリンを飲んですぐに寝た。
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3月16(金) 9時半起床。 最近は9時頃目が覚めるというサイクルでリズムは安定しているようだ。毎朝、起きた時に、夢を見ていたことは覚えているのだが、夢のしっぽを捕まえても、昔のように、芋づる式にストーリーを思い出すことが出来なくなっている。これも、老化による知力の低下ということだろうか。 夢の中で、車に人を乗せて走っている場面を覚えている。走っているうちに雨が降り出す。左にはため池があり、池に沿って道は左にカーブしている。雨が降っているのに僕は右の窓を開けたままにして走っている。ところがいよいよ雨が激しくなって僕は窓をしめる。そこからのストーリーは思い出せない。 次の場面はぬかるみになった道を、こんどは自転車で走っている。友達が後ろから来ている筈だが確認できない。道が冠水していて自転車のタイヤがかなり水没しているのを気にしながら、僕は冠水した場所の浅そうな所を選んで走り、何とか水溜りの向こう側に出たのだが、友達が追いついて来ないので、結局また冠水を越えて、元の場所に戻る。 次の場面は、何か民宿のような建物に入り階段を上がっている。僕は靴を履いていないことに気が付く。冠水の中を歩いている時、脱げ落ちてしまったらしい。さらに靴下も履いていない。これでは外に出られないと不安になる。上がった部屋の中で、大学時代の友達が傍に居て、靴下を見つけてくれるが、僕のではない。夢の記憶はそこで途絶えている。 結局、僕の潜在意識にあるのは、仲間と一緒に行動しようと思いながら、どうしても同じ土俵には立てないという葛藤なのかも知れない。 ○ 「残日録」を書いた後、「今日は何の日」の記事を書いていたが、書き終わったら、もう12時になっている。
《日々の言葉》
復讐のために正義を語ってはならぬ。
正義は道理でなくてはならぬ。道理であるためには不都合な事実も受け入れなければならぬ。他者を攻撃するための正義、復讐するための正義
などは決して真の正義とはなりえない。 |
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3月15(木) 9時半起床。 朝まで小雨が降っていたようで、いまも曇りの天気。昨夜も、音楽を聴いているうち、12時頃には寝てしまったから9時間近くは寝ただろう。昨日と今日の「日々の言葉」を書いていま11時。店にゆく準備をする。 今日も、あまり本は読む気になれず、資料の整理をしただけで、店に来た客と長話をしたり、後は音楽を聴いていた。家に帰り、夕食を取った後は、今日も12時頃までに早めに布団に潜り込んで、音楽を掛けっ放しにして寝た。
《日々の言葉》 人間を高尚にすることのみが、あらゆる害悪を除いて、社会の基礎を強固にする。(長田新/教育学者) 人は、自分の知識形成や人格形成が成長するにつれて、自分の能力や可能性を実現し、社会的価値を生み出したいという「自己実現欲求」を持ち、職業的使命感や社会的使命感を持つようになる。さらには「真・善・美」という普遍的な価値に即した審美欲求を持つようになってゆく。それが高尚になるということである。 「高尚やな。近寄れんわ。」という侮蔑の言葉を聞くことがある。正義感を価値と考えている日本人は1割しかいないという中高生の意識調査があるが、村木局長を犯罪者に仕立てようとした前田検事の姿は、彼の特殊な問題ではなく、今の多数の日本人の倫理観や職業的使命感の内実を示しているのではないか。 枯野に火が放たれたように橋下流のファスズムが、これから日本中に広がって行くのかも知れないが、たとえ少数でも「高尚」を守る人が次の再生の時代の種子となるだろう。一人でも多くの人々が理性と「高尚」を守ってゆくように生きることが、日本の未来の希望の種子となるだろうと思う。
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3月14(水) 9時半起床。晴れ。人間の僕は、毎日起きる時間も寝る時間もバラバラだが、僕の部屋にいるクリとモモは、朝は毎日同じ時間、6時頃になると僕を起こしにかかる。時計も見ない猫がそうなのに、時計を見ている人間は行動する時間が毎日バラバラというのは、やはり「人間は本能の壊れた動物」ということなのだろうか。
店では1919(大正8)年の資料を調べたりはしていたが、相変わらずモチベーションは下がったままで、本も読む気になれず、音楽のデータを整理したりしながら過ごしていた。
《日々の言葉》 あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない(フランクル) この言葉は13日の「残日録」に書い たように、フランクルの未亡人が弟子の永田勝太郎に送った手紙の中の言葉だが、その考え方はフランクルの実存分析の真髄を表わした言葉だろう。 アウシュビッツの極限状況の中で、人間は最後のパンを他人に与える人と、他人のパンを奪う人に分かれてゆくということをフランクルは観察する。そして、その違いがどこから生まれるのかを観察し続ける。そしてフランクルが発見したことが、生きることの目的、意味を持っているかどうかの違いだったという。
「一人残された母がいるからここでは死ねない」、「やり残した仕事があるからここでは死ねない」というささやかな目的、意味を持っている人が最後のパンを他人に与えるのだという。そして生きることに何の意味も感じられない人が、かえって他人のパンを奪うのだという。 毎年3万人以上の人が自殺してゆく今の日本の社会、教育のあり方を考える時、フランクルの教えている意味は非常に大きいだろう。それは僕なりに表現すれば、たとえ社会の「お荷物になっている」ような人であっても誰かの役に立つことは出来るということだ。それは自分が自殺したら、それを悲しむ母かも知れない。良き患者となって医学に貢献することかも知れない。あるいは自分の絶望を書き残して、同じ苦しみを持つ人に伝えることかも知れない。そのように、もし自分の悲惨な境遇の中に、なお生きる意味や目的を感じることが出来たら、その人はすでに人間性を保つことが出来ている。そしてその境遇を半分は克服しているだろう。
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3月13(火) 昨夜から、結局寝られず。起きて何かをするエネルギーもない。しかたがないのでずっと音楽を聴いていた。今、朝の6時。起きて「残日録」を書く。朝食の後、やはり疲れて眠くなり、少し仮眠してから店に行く。 店では本を読む気がしないので、以前録音しておいたNHK深夜便の「心の時代」でやっていた精神科医、永田勝太郎のインタビューを聞いていた。永田医師はアウシュビッツから奇跡の生還をしたフランクルの弟子だが、自身が筋肉が萎縮する難病に罹り、医者にも見離され絶望の淵にあった時、永田の病気を知ったフランクルの未亡人からの手紙に、「自分は医者では無いので、あなたを助けてあげることが出来ませんが、生前夫がいつも言っていた言葉をあなたに贈ります。それは『あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない』という言葉です。」という内容が書かれていたという。その言葉とともにアウシュビッツから生還したフランクルの魂が自分に乗り移り、まるで神様のような人柄の鍼灸師など、周りの人々の助けを得ながら、難病を克服することが出来たという。 ○ 家に帰ってからも、ずっと音楽を聴いていただけで、本も読む気がしないし記事を書く気もしない。グレゴリオ聖歌やフォーレのレクィエムなどの「ヒーリング系」のアンソロジーを掛けっぱなしにして布団に入ったが、すぐに寝てしまった。
《日々の言葉》 神は決して呪縛しない。
昨日の「日々の言葉」の続きである。神とは
「一切の事物と現象を現前させている『力』である」と僕は定義しているが、それは「エネルギー」のことだと言うことも出来るだろう。ただし、そのエネルギーは生物を創造し、精神を創造する「力」である。 生命を創造し、精神を持った高等生物を創造することが本質的なエネルギーの振る舞いだとすれば、宇宙はそれ自体有機的なものであり、生命的なものと言うべきだろう。それ故に、生命を生み、精神を生む「力」を人は精神的な存在として捉え「神」と名づけたのだろう。
神、言い換えれば
万物を創造するエネルギーは、遺伝子と言っても良いような進化のプログラムを持っている。ということは、万物は進化しているということだろう。そしてもちろん生物も進化する。種族としても進化しているし、個体そのものも成長し、その精神も進化する。それは生物が内在
している能力や可能性を自己実現すること、それ自体がエネルギーの振る舞いと言うべきだろう。 これを買わなければ祟りがあるとか、何々をしなければ祟りがあるというような呪縛は、人間の脅迫的な自己暗示か洗脳である。その考え 方自体が神の定義に反している。人に呪縛を与え、何かを強要するような宗教はすべてインチキ宗教である。
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3月12(月) 昨夜もよく寝られず、眠ることも起きて何かすることも出来ないような状態で夜明け前起きていた。不眠症などというのではなく、単に生活のリズムが狂っているのだろうと思うのだが、ともかく今日は月に一度向井医院に行く日なので8時頃に起きた。 妻は昨日から、また入試の採点があるとかで、朝早くから出かける。僕は昨日の残り物で食事をすませ向井医院へ行く。先月の検査の結果はまずまずのようだが、朝食を食べてすぐということもあるのだろうが、今日の血糖値は高い。最近はあまり食事の内容も気にしなくなっており、すこし検査の結果が良くなったといっても、そんなことをしているからいつまでたっても良くならない。
向井医院を出てから、今日は休みだが店によってパンと紅茶で簡単な昼食を取りながら、しばらく休憩して家に帰る。何かずっと疲れを感じている。 夕食後、ようやく「残日録」を書いている。「日々の言葉」を書いて、「今日は何の日」を過去の記事から転載し、今10時半。昼寝の後、起きたのが夜の6時だから、今夜も又夜昼逆転になりそうだ。
《日々の言葉》 神は自然に原理と法則を与えるが、決して人間の運命を予定しない。運命を決定するのは人間の意志である。 神、万物を創造したエネルギーと言い換えても良いが、神が人の運命を予定するなら、人間に「意志」などを与える筈がない。すべての生物、自然がみずからの可能性を全うし、人間もまた持てる能力と可能性を実現し、より良く生きようとすることが エネルギーの振る舞い、すなわち神の意志ならば、より良きものを選択する意志こそが人が生きることの証であり神の意志である筈だ。それならば運命は人が何を選択するかによって不断に変わってゆくことになる。人は意義のある生き方も、無意味な生き方をすることも出来る。幸福になることも、不幸になることも出来る。それはすべて人の意志によって決まるのだ。 同様に「歴史の必然」などということも有り得ない。歴史に「蓋然性」はあっても、「必然性」はない。一人の英雄の出現を、時代的、環境的背景を指摘し、その出現の「必然性」を強弁することは出来ても、その英雄が病気になって早世して、その結果歴史のシナリオが変わるということを考えてみれば解るだろう。 病気になることに「必然性」を主張することは出来るかも知れないが、そのことと英雄であることは何の関係もないのだ。病気と英雄であることは何の関連性も無い以上、英雄の早世によって書き変えられる歴史は、偶然である。 結局、人間の運命も、歴史も、ともに英雄の早世のような「関連性の偶然」と、しかしなお「人間の意思」によって作られるということだろう。とすれば人の生き方は偶然を覚悟しつつ、蓋然性の中で、自己実現の意思を実現するという結論に行きつくのだろう。
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3月11(日) 5時頃目が覚めたが、ふとんの中でぐずぐずしていいて6時に起床。昨日の「残日録」と今日の「日々の言葉」「今日は何の日」を書く。書き終わったら8時半。あまり食欲はなくコーヒーを入れ て飲んだ。 今日は市民マラソンをするというので、きぬがけの道を横断することが出来ないという。仕方なく店は休むことにした。車もだめだというので買い物にも行かず、一日家に居た。 一日家に居ても本も読む気になれず、音楽を聴きながら一日過ごす。
《日々の言葉》 学力が良識や善意志を意味するなら、エリートたちに政治を任せれば良い。しかし学力は決して良識や善意志を意味しないし、判断力さえ意味しない。
司馬遼太郎の影響があるのか、日本人は日清・日露以後おかしくなったという見解を聞くことが多いが、それは日露戦争の博打に勝って、第一次大戦で漁夫の利を得て病みつきになったという表面的なことではなく、立身出世主義が蔓延り、学歴エリートが政治を支配するようになったことと深く関係しているだろう。 立身出世主義に発する学歴競争というは、良識や善意志を育てるどころか、むしろそれを破壊するエゴイズムを孕んでいる。そして軍や、満州などの植民地機構や各省庁の、そして資本家の一種の組織エゴイズムが政策の判断力を奪い、世界を相手に戦争するという倒錯した決断をもたらしたのだろう。
それでも民衆は、最も優秀な人々が日本を動かしているのだから、その人たちが考える政策以上に良い選択はないだろうと信じている。そして自分の生命を預けて戦地に向かっていったのだ。 学力は良識や善意志を意味しない。良識や善意志を育てなければいくら学力を育てても、何も問題は解決しない。
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3月10(土) 昨夜からずっと起きている。「日々の言葉」と3月8日の「今日は何の日」を書いていた。結局寝たのは6時過ぎ。9時半に起きる。 妻は歯医者に行き、僕は残り物で朝食をすませ店に行く。睡眠時間が少なかったのでさすがに疲れていて、何もする気がしない。草柳大蔵の『満鉄調査部』などを少し読んでいたが、あまり進まない。 今日は帰りに買い物をしてきて欲しいというのでイズミヤに寄る。5パーセント割引の日で、いつもよりも多めに買い物をするが、大きな買い物を思いつかず、買ったのは3300円だった。 夕食後は、ナクソスのライブラリにシュミットの交響曲全集があったのでしばらく聞いていたが、すぐに眠たくなって11時頃には寝た。
《日々の言葉》 世の人は我に何とも言わば言え 竜馬のような大仕事は出来なくても、その生き方は学ぶことが出来る。自分が自分を納得できるような生き方ををすれば良いのだ。自分の持っている能力を養い、与えられた可能性を精一杯実現することが出来れば、自分はやるだけのことはやったと言える筈だ。
周りの空気を読まなければ、途端に一人浮き上がって、吸う空気も無くなってしまうような恐怖、そんな脅迫感を今の若者たちは、子供の時から刷り込まれてるという話を聞く。その一方で「脅し・ごり押し・なし崩し」で
自分の主張を押し通すチンピラ・やくざのようなクレイマーやモンスターがあちらこちらで組織の主人公になっている。 空気を読んで、思想的に枯れ草のようになっってしまった多くの民衆にファシズムの火が燃え移り、「赤狩り」や「組み合い潰し」が始まろうとしている。しかし空気を読んで自分も同じように枯れ草になってしまったら、自分に火が燃え移って焼け死ぬだけだろう。 「赤狩り」が終わったら、ファシズムは空気を読んで「君が代」を歌っている民衆を襲うだろう。
火を消すことが出来ない時には、焼け尽くされた後の畠に撒く種を、一人で持って逃げるしかない。いかに孤立しようともそれが最善の策だろう。「世の人は我に何とも言わば言え
我がなすことは我のみぞ知る(坂本竜馬)」 |
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3月9(金) 9時起床。雨。昨日の残日録を書いてから朝昼を兼ねた食事を取る。食事を作って、食べ終わったらいつの間にか12時半になっている。本当は月1度の診察を受けている向井医院に行く日なのだが、起きたのが遅かったし、雨も降っているので、電話をして月曜日に変更してもらった。今日は金曜で店は休みなので、じっくりと本や資料を読んだり、ホームページの記事や、そのほか、資料作りをしたり、雑文を書いたりし ていた。 「岸信介(16)」をようやく書いた。「山名宗全」や「織田信長」に比べてると、カウンタは一向に増えないが、今の時代を見れば、近代史を検証して行かざるを得ないだろう。国際環境は戦前とは全く違うし、憲法を初め、政治体制も全く違うが、権力者が強権的支配を強め、閉塞した社会に疲弊した多くの民衆が、強者や多数に同調することに救いを求め、ファシズムを待望してゆく心理の変化が、破局に向かっていった戦前と驚くほど似ている。
《日々の言葉》 模倣によって偉大になった人は、かつて一人もいなかった。(サミュエル・ジョンソン) ただ間違ってならないのは、個性というのは人より劣った能力や、誰でも出来ることは切り捨てるという
ことではない。 たとえみんなの中で最後でも、自転車に乗れるようになれば、一番に乗れるようになった人間と同じ価値を身に付けということなのだ。そして自転車に乗ることが出来れば、それに乗って 、一番の人も知らないところに行くことが出来るではないか。
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3月8(木) 昨夜は10時頃には寝たので、今朝は5時半頃に目が覚めた。6時起床。天気は春らしい日差しで暖かい。「日々と言葉」と「今日は何の日」を書き終えて7時半。今日は弁護士に家に来てもらって、裁判になっている借地を見てもらうので、9時半に迎えに行 かなければならない。朝食を取り、9時に家を出た。 弁護士はJ先生のほか皆女性で3人来てくれた。地主である隣の多福院と争っている借地境界の様子を見てもらい、そのあと裁判になっている他の2軒の家に一緒に行く。一通り見てもらった後、Nさんの家でコーヒーを飲みながら話をする。 最近増えている裁判はありますかと聞いたら、老人の生活に絡むものや遺産の相続に絡む裁判が増えているとのことだった。介護ヘルパーの数の不足、その背景にある待遇の問題が一方にあって、1回の介護時間を1時間から45分に減らされたようだが、それだけ介護サービスの内容も減らさなければならない。そうした根本的な矛盾は、今後団塊世代が高齢化するに及んで、どうにもならない状況になってゆくだろう。 今でも老人を狙った詐欺などの犯罪が多発しているが、老人の金を狙っているのは食い詰めた若者だけではない。企業も、行政も狙っているだろう。健康保険から、後期高齢者分離するというのはその一例だろう。 最近ラジオの経済番組で、団塊の世代が老人料金の設定基準になっている65歳に達するのを前に、老人向けビジネスが活況を呈しているという報道を聞いた。しかし、これは生産の論理ではなく、分配の論理、たかりの論理だ。 確かに日本人の貯蓄に閉める高齢者の貯蓄は相当な額になるだろう。その金が今後の日本社会の維持、発展のために社会に還流されなければならないことは確かだ。しかしそれは基本的に未来のためのインフラや物作りに投資されねば、社会的には浪費されるだけに終わってしまう。
思いつきで考えるのだが、クリーンエネルギーが成長産業だというのなら、高齢者世帯の需要喚起をするような政策があってしかるべきだろう。老人世帯を考慮した機器の設計。老人の貯蓄を投資に振り向けるような金融商品の開発や株主へのサービス・・・・。
○ 《日々の言葉》
本当の自由は環境から与えられるものではなく、自分の中から生み出すものだ。 (林田茂夫)
平均寿命を引き下げる程の自殺者が出る今の日本の社会。その中で苦痛から逃れるために死んで行く、あるいは死にたいと思っている人 は無数にいるだろう。失業して再就職の道もなく途方に暮れている人。貸金業のごろつき社員に毎日毎日脅迫され行方をくらます人。違法取引や汚職行為を会社から、上司から強要され 、犯罪に手を染めてしまう人。子供までがいじめにあって死に安らぎを得ようとする。 しかし借金から逃げ惑いながらでも、会社をくびになっても、生きていれば、再び芽吹き花咲く時が やってくるかも知れない。五体満足であれば、可能性は無限にある。そして、自殺をしようと思うほどの苦しみは、それだけでも人に伝えるべき貴重な体験だ。 職も無く、生活保護も受けられず。健康保険もないから病気にもなれない。ホームレスにもなれず、盗みをする勇気もない。それでも餓死するまでは生きている。それは貴重な体験ではないか。その悲惨を克明に記述することは、少子化問題を云々している政治家やその背後にいる資本家を吹き飛ばすような力がある。 人は何がしかの価値を同胞の歴史に付け加え、同胞の未来の為に残す。 そこに永遠の生命がある。自分の鮮烈な体験を残し、活かし、同胞への糧にすればよい。死ぬのはその仕事が終わってからで良いではないか。 生きることが死よりも恐ろしく、苦痛である時、あえて生きることこそが最後の、そして真の勇気である。(トーマス・ブラウン) ○ 《今日は何の日》 1944(昭和19)年3月8日−インパール作戦が開始される。
不都合なものから目を背け、自分に都合の良いように解釈し、不都合なことを言う人間は排除し、無謀な行動に人を巻き込んで、失敗したら我先に逃げ出す。この牟田口の体質は今の日本にも脈々と受け継がれている、「なりたがり」のリーダーの特徴的な性格である。
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3月7(水) 昨夜は、4時 頃まで「日々の言葉」と資料を調べながら「今日は何の日」を書いていて、布団に入って寝てからも寝られず、仕方がないのでこれまでに見た夢をあれこれ反芻しているうちに5時頃になってようやく眠ることが出来た。 目が覚めたのは9時40分。見た夢を忘れないうちに、起きてすぐこの記事を書いている。 覚えている夢は一つだけだが、一度目が覚め、2度に分かれている。夢は岸信介の夢だった。夢を見ている僕以外、誰も出てこない。最初の方の夢では、僕はどこか小さな事務室のような部屋に居て、突然事務用のテーブルの背後から岸信介が出てくる。それはボール紙の人形で顔の部分は岸信介の白黒写真で斜め前から撮った姿になっている。その人形が三度出たり、沈んて消えたりしている。 一度目が覚めて、次に見た夢は何かスケジュール表のようなものがある。夢の中ではそれは岸のスケジュールだということが解っている。その内容は「流体力学の研究」についての会合だということも解っている。僕はそのことについて考えていて、岸信介の真実を捉えたと思っている。 もちろん岸信介の夢を見るというのは、それだけ最近岸信介について考えているからだが、岸信介が白黒写真のボール紙の人形だというのは、僕と岸との距離感を示しているのだろう。それが浮いたり、沈んだりするのは、岸の策謀家的な性格を現しているのだろうか。 岸のスケジュールの内容が「流体力学の研究」の会合だというのは、岸の政治家としての思考内容が、飛行機を作る技術研究と同じものだということを示しているのだろう。つまり岸信介のやった仕事、国家総動員体制と計画経済による人と社会の支配・管理の方法を岸は流体力学のような最新の物理学として捉えていると僕が認識しているということだろう。
《日々の言葉》 心に私なき時は、疑うことなし。(上杉謙信) 疑うというのは自分の判断のゆらぎである。自分の認識や選択を疑うにしても、人の言動や行為を疑うにしても、疑うというのは、 結局自分の判断が揺らいでいるということだ。そしてそれは多くの場合、自分の立場や利益、願望に引き寄せる主観に原因しているだろう。その主観に執着するエゴイズム によって疑いが生じるのだ。そしてしばしば疑いの無いものを疑い、逆に本当に自分を破滅させようとするものを見逃すものだ。 信じている者に裏切られることを恐れるより、人間は裏切る者だと考えて、その人が自分を裏切らず、約束を守れる範囲がどこまでかということが解れば、その範囲で人を信じることが出来るだろう。その為には、自分の主観に引き寄せて判断しないことだ。それが「私なき」ということだろう。それは結局、道理と筋道に従って判断するということである。 道理というのは、自分のことでも他人のことでも、人間関係でも組織のことでも、社会のあり方、法や秩序のことでも、通有しているのは「そのものを生かす・育くむ」ということだろう。「道理」という言葉は「正義」や「公正」という言葉を連想するが、それは、「公正」や「正義」ががなければ社会が健全に育たない、発展はおろか、存続することも出来ないということを意味しているだろう。 社会が発展するためには、そして自分が真に自己実現するには、自分 一人が自己実現しようとしてもどうにもならない。自分と同様に人も皆が自己実現しなければ社会は自己実現できないし、自分の自己実現も不完全なものにならざるを得ない。ならば人 との利害確執を超えて、 自分も人も、組織も、社会も、それに付随する法や制度や慣習や文化も、一体として育む気持ちに立たねばならないだろう。もちろん育むということは、存続させると同時に変革するということを含んでいる。それが「私なきこと」「公」「道理」ということの意味だろう。 そういう気持ち、「育む心」、道理に従い、筋道を通す気持ちに立てば、人を疑 うこともないし、自分が迷うこともないだろう。
○
《今日は何の日》
1925(大正14)年3月7日−治安維持法が成立する。
成立後、さっそく小手調べをするように、1926年1月15日、全国社会科学研究会に所属する京都帝大の学生ら38名が一斉に検挙される(京都学連事件)。そして、 山県有朋以来、桂太郎・寺内正毅と続く、議会政党政治そのものを否定する長州閥の田中内閣内閣が成立すると、治安維持法は猛威を振るい始める。
1928年(昭和3)年2月に行われた初めての普通選挙で、無産政党から8名の当選者が出たことに危機を感じた田中内閣は、3月15日
、労働農民党や日本共産党の活動家ら1600名を大量に検挙した(3・15事件)。
そしてこの年の6月29日には議会の休会中を狙って緊急勅令によって最高刑を死刑とし、目的遂行罪を加え、検挙の対象をさらに拡げた。
治安維持法によって、戦前の日本共産党は壊滅するが、その後は、共産主義者や社会主義者のみならず、自由主義的な政治家、学者や文化人、宗教家まで逮捕
されるようになり、
1935(昭和10)年12月8日、百万以上の信者がいた大本教は、不敬罪と治安維持法違反で、幹部65人が逮捕され、亀岡と綾部の本部など全国各地の教会はすべて破壊された。こうして昭和の暗黒時代を現出する。 |
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3月6(火) 8時起床。今朝もまだ曇っている。夜中も何度か目が覚めて、その都度夢の記憶が残っているが、断片的で公開のホームページでは少しはばかられるような夢もある。しかしそれを切り捨てたら深層心理の分析にはならないので、人の深層心理に関心を持つ人のために、出来るだけまな板に乗ろうと思う。 見た夢の順番はわからないが、僕は高知に出張していてどこかの高校の職員室にいる。国語便覧のセールスをしようと担当の先生に話をするのだが、当分変えるつもりはないと言われる。すると他の先生がやってきて、担当の先生に手紙を見せている。その手紙は僕のプロフィールを紹介したものらしい。そこは夢のことなので僕は書かれている内容が何となくわかる。大意は少し風変わりだが、良い個性を持った人物だと概ね褒めた内容らしい。僕は何か書類を取りに戻る。そこで場面が変わる。 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴る。通りすがりの先生が僕に、授業は終わりましたかと聞く。僕はいまチャイムが鳴りましたが、少し時間は進んでいるようですと答える。それから僕は教室に入ってゆく。その時には僕はすでにセールスマンではなく、高校生になっているらしい。クラスの中でがやがやと人の声が溢れている。ところがそこは僕の教室ではなく、僕は教室を出て自分のクラスを探しにゆく。 次の場面は、どこか高知の田舎にいる、明るい日差しの木陰に老人がいて、僕はその老人と話している。どうも僕の親戚の人らしい。「祖父が生きていた頃には、体験した人の 話も色々聞けたでしょうね」と僕は話している。話は維新・明治・大正時代頃の出来事のことらしい。これは今近代史に没頭している影響だろう。 次の場面は高知のどこか小料理屋のカウンターに座っている。女主人と三十前後の女性の店員が前にいる。何か字が染め付けられた布を持っている。そして小料理屋はいつの間にか散髪屋になっていて、僕は顔と頭をごしごし洗われている。女主人がもう一人の女性に「あんたの客だから、後はまかせたよ」と言っている。 そこから文字通り、憚られるような夢の内容になって、僕はその女性と一つ布団の中にいる。しかし僕はその女性の持つ優しさやたおやかさに惹かれつつも、肉体そのものの不潔な部分を疎ましく思っている。これが初老の心理なのだろう。肉体的な欲望は失いつつも、優しさや柔らかさ、たおやかさへの求愛衝動はいくら年を取っても残されるものらしい。丁度肉体的な欲望に目覚める前の10才までの幼年期の心理に帰ってゆくように思える。昨日の中学時代の初恋の少女の夢や、僕に理想を説く理知的な見知らぬ女性の夢にもつながっているのかも知れない。 その次の場面は僕は電車の中に居て、僕が座っている横に二人の見知らぬ若い女性がいる。少し魯鈍な感じで、遊ぶことにしか関心がないというイメージを感じている。そして肉体の持つ不潔な部分のイメージに繋がっている。その女は書類を僕に渡し、「こんな物を拾ったよ」と僕に言う。いかにも知られてはまずい秘密を見つけたという様子をしている。手渡された書類の中に、前の小料理屋の夢に出てきた、文章が染め付けられた布がある。それは僕の書いた恋文であることがわかる。しかし僕は心の中で、こんなものは僕の弱みになどにはならない、暴露したければしたらいいとあざ笑っている。 この一連の夢とは別に、僕の会社にいる頃の夢を見ている。どこか会社の旅行で山に居る。レストランの食堂で、会社に居る頃、よく芸術や思想的な話などをしたことのある後輩の女性が傍にいる。僕は最近の日本人の思想的な劣化について実例を挙げながら話をしている。それに対して後輩の女性が何か僕に話をするのだが、その内容がわからない。そして「Nさんにも聞いてみよう」と言う。Nさんというのは僕の大学時代の先輩で、時々芸術の話などをした僕が好意を持っていた人なのだが、夢だから異なる人間関係も混在している。僕はその後輩の女性に「やっぱりか、僕を軽く見ている」と思って失望感を感じている。僕に好意を持ってくれていると思っている人でさえ、僕が期待しているより、僕を軽く見て、低い評価をしているというコンプレックスがあるのだろう。 まだ他にも、高校時代の同級生とのやり取りなども夢に出てきたのだが、はっきり覚えていない。一晩に見ている夢の数というは、かなりあるらしい。自分でその意味が解るものもあれば、わからないものもあるが、こうして毎日見た夢を反芻していると、少しは自分の心が見えてくるようには思うのだが・・・。 ○ 《日々の言葉》
特急に乗る者を羨むな。各駅停車で行く者だけが、人生の隅々を見ることが出来る。 結果主義は疑似体験を体験とすりかえる欺瞞をはらんでいるし、バレなければ裏口入学する方が得だというような思想を平然と醸成 する。しかしそんなやり方で競争に勝ったところで、そこには裏口体験という以外、何の実体験もない。そんなところにはいかに隠し遂せたとしても詐欺師の人生しかない。
受験技術でエリートになった人間にどんな人生の意味があるだろう。人生の道程、人生の味わいを「無駄なもの」と切り捨てるだけ切り捨てて栄光だけを追いかける人生に、どんな価値があるだろう。 ○ 《今日は何の日》
1936年3月6日−ドイツがロカルノ条約を破棄し、ラインラントに進駐する |
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3月5(月) 8時起床。昨日からしとしと雨が降り続いている。9時に家を出て、チャーをチカコクリニックに連れて行く。尿道閉塞は今のところ治まっているようだが、両側の耳の後ろが、すっかり禿げて引っかき傷が出来ている。これまで何度も先生には話をして塗り薬ももらっているのだが、禿げは広がる一方で原因がわからない。今日始めて先生が甲状腺ホルモンの異常かも知れないので血液検査をすると言った。初めて異常を見つけてもう半年以上経つのだが・・・・。 ○
昨日から今日に見た夢もいくつか覚えているので書いておこう。一番古い夢は昨日の夢で、昨日は2時間ほどしか寝なかったので、起きてホームページの更新をしたあと、眠たくなって小一時間仮眠した。その時に見た夢だが、多福院が地代値上げで起こした裁判の夢だった。
その次に見た夢は、最近の僕の夢に多い、思想的、心理的な夢、言葉の夢だ。誰か知らない女性(それは最近僕の夢の傾向になっている)が、僕が毎日「残日録」で書いているような、僕の顕在的な理念、理想を喋っている。それに対して僕は、一々、「人間誰しも、糞もすれば、小便もする」とか「赤いリンゴも、一皮剥けばみな白い」というような「本音」を感じている。というような夢だった。 その次に見た夢は、どこか人の集まる場所(夢の初めは駅のコンコースだったかも知れない)に妻と二人でいると、この夢でも、通りすがりの見知らぬ女性が「浜田君と違う?」と話しかけてくる。僕は相手が誰だか思い出せない。しかし話しているうちに、中学時代の僕の同じクラスの女の子の友達らしく、僕は覚えがないけれども、相手は僕を覚えているという関係らしい。そして同じクラスメイトというのは、僕の心に成人するまで、まぶしい記憶として残った初恋の女の子のことだった。しかしどうして僕の見知らぬ友達女性という形で夢に出てくるのか。最近の夢によく出てくる、理想を語る知的な女性と何か関係がありそうに思うのだが、その意味はわからない。 ○ 《日々の言葉》 喜びが何であるかは、元来、多くの苦しみを耐え忍んできた人々のみが知っているのである。その他の人々は、真の喜びとは似ても似つかない、単なる快楽を知っているに過ぎない。(ロマン・ロラン) これを精神訓話と考えてはならない。自己実現するための苦労というのは、充足感を伴った苦労なのだ。その充足感がなければ、苦労も長くは続かない。反対にいくら快楽を追いかけても、快楽は自己実現にはならない。それ故に、真の喜びは苦労した経験を持つ人のみが持つことが出来る 特権なのだろう。 しばしば引き合いに出す例だが『大草原の小さな家』のお父さんのチャールズの人生は、決してサクセスストーリーではない。地位を得たわけでも名誉を得たわけでもない。苦労続きの、平凡な一介のアメリカの農民の実話である。しかし自己実現とは何かという問いに見事に答えた人生である。だからこそ娘の手によって書かれた物語がベストセラーになったのだ。 「青い鳥」は目が覚めたら傍に居たということである。自分に与えられた環境が、ウーシャンテンの悪牌でもゲームに臨む方法はある。自分が上がることだけがゲームの目的ではない。トップの独走を阻止するために、トップを追いかける人の上がりを助けることでさえ、自分にめぐってくるチャンスの地ならしのためには重要な作戦だろう。 ローラのお父さんチャールズの口癖は「どんな大きな不幸の中にも、小さな幸が残されている」という言葉だが、注意して見れば、嵐で壊滅した自分の麦畠の残された稲藁を町に売りに行く後ろ姿に幸福が見えるだろう。幸福か不幸かということは、不幸の中に何を見るかという気持ちの違いに発するのではないか。つまり「育む心」を持っているかどうかということだろう。 ○ 《今日は何の日》 1932(昭和7)年3月5日−血盟団事件。三井合名理事長団琢磨が日本橋三井銀行玄関で、血盟団員の菱沼五郎に撃たれ、翌日死亡する。 先月の2月9日、前蔵相井上準之助が「血盟団」の小沼正に狙撃され、即死する事件があったばかりだったが、3月5日、またも「血盟団」によるテロ事件が発生した。犠牲者は三井財閥の総帥団琢磨である。 1928(昭和3)年暮れ、茨城県水戸市に立正護国堂を建て、小沼正や菱沼五郎ら近村青年を 感化した。1930(昭和5)年には霞ヶ浦海軍飛行学校の藤井斉ら海軍青年将校と提携し非合法運動を目ざすようになり、陸軍青年将校の一派とも結び、東京帝大生ら大学生にも影響を広げた。十月事件の計画に加わったが、これが露見し陸軍皇道派が時期尚早という理由で手を引いた後は、井上・藤井らは陸軍抜きで決起することを決定し、藤井が出征した為、井上らの民間右翼が海軍内の皇道派からピストルを得、「一人一殺」という手段で現体制の破壊に着手し、藤井の帰還を待って、次の決起を目指そうとしたのである。 こうして翌1932(昭和6)年の血盟団事件が引き起こされた。警察の捜査から井上が藤井を通じて海軍からピストルを入手したことが発覚すると、井上は自首
し、無期懲役の判決を受けるのだが、1940(昭和15)年、大赦により小沼・菱沼らとともに減刑され出所する。 国内ではこの事件の後も5・15事件や1936(昭和11)年には2・26事件が起こされ、国外では柳条湖事件に端を発する満州事変やその後の上海事変、そして蘆溝橋事件に端を発する日中全面戦争への突入など参謀本部と関東軍による画策陰謀くりかえされた。皇道派青年将校や若い右翼青年らに、困窮する弱者救済や、政治の腐敗を根絶しようとする意図があったにせよ、これらの事件の結果、結局冒険と立志伝と金と権力を得ようとする軍人や民間右翼の意図に引きずられ、
自由主義的な政治家や企業家も恐怖によって沈黙させられ、翼賛体制が成立し、日本はずるずると破局に向かって引きずられてゆくのである。 |
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3月4(日) 昨 夜は1時に寝たのだが、2時間ほど寝ただけで3時に目が覚めた。また眠るだろうと思って、布団の中で1時間ほど横になっていたのだが眠ることが出来ず、結局4時に起きて「残日録」を書く。「日々の言葉」と「今日は何の日」を書くのに2時間かかった。今6時半。やはり「今日は何の日」まで書くのはきつい。10年前は出張先のホテルで、朝食前にこれだけのものを書き終えていたのだが、これも年齢とともに頭の活力が弱っているためだろうか。 ○
《日々の言葉》 自らのことは隠さず、人のことは詮索せず。 現代の日本の社会は、心寒い匿名社会である。ヤマアラシのように互いの針で、愛が触れ合うのを妨げる 社会である。隠さなければならないことを持っている人など、庶民には殆どいない筈なのに、多くの人は、自分のことは隠し、人のことを詮索 しようとする。こんな風潮もまた、「孤立恐怖」と「劣等恐怖」に煽られ、「安全・安心」と「利益」「優越」という即物的イデオロギーに洗脳された故 だろうか。 いじめや仲間外しをする心理も匿名的である。多数に責任を分散して孤立した人間を攻撃する。自分が被害を受けているわけでもないのに、孤立した人間の陰口を言って、みんなが知っている情報もその人 にだけは決して教えないという見事な匿名の緘口令が、誰が命令するでもなく作られる。そうして孤立した人間を貶めて、自分は多数派だというと安心感 とささやかな優越感を得ようとする。こんなやり方で人の居場所を奪うというのは、人間としてもっとも卑しむべき態度なのだが・・・。 僕はいかに少数であろうと、自らのことは隠さず、人のことは詮索せず、誠実に、率直に生きている人を探し求めてゆこうと思う。学歴でも、肩書きでも、家柄でも、財産でもなく、ただ善良さと誠実さを求めて。
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《今日は何の日》 1936( 昭和11)年3月4日−2.26事件のための東京陸軍軍法会議が開設される。
1936(昭和11)年3月4日、2・26事件を起こした皇道派青年将校らの特設軍法会議が始まった。通常の軍法会議であれば、公判は公開され、弁護人も選任されるのだが、2・26事件が実戦部隊を動かしたクーデターであったという重大性を考慮して、戒厳令下の特設軍事法廷という戦闘地域で行なわれる軍法会議と同じ形で行なわれた。その趣旨によって、この裁判は「非公開、弁護人なし、一審のみで上告なし」という厳しいものとなった。
反乱将校らはもとより自分達が政権を取ることは考えていなかった。クーデターに成功した後は、真崎や荒木らを中心に挙国一致の軍事政権を立ててもらおうと考えていたのである。 そもそも、事件の具体的な計画は、皇道派将校を満州に派遣し、首都東京から排除するという軍の機密情報を反乱将校が入手したからであった。北ら民間人がいなくとも事件は起こったかもしれない。しかし真崎の教唆がなければ事件は起こらなかっただろう。しかし北と西田は死刑となり、真崎は無罪となった。真崎は無罪の判決を受けたとき、満面の笑みをもらしたという。
いつの頃からか、日本では「ずるい人間が主人公になる」という現象が頻繁にみられるようになった。それが昭和の初めの頃から顕著になり、敗戦
後常識になってしまった。2・26事件は、多くの政治家に計り知れない恐怖心を植え付け、議会政治を葬り去ってしまった。そしてこの事件は
国家主義を推進する軍人・官僚・資本家によって徹底的に利用され、その後のファシズム体制を実現することになったのである。 |
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3月3(土) 昨夜は音楽を聴いているうちに寝てしまったのだが、今朝起きたらもう10時だ。朝の天気は、雲は少し多いが晴れ、もう春の光で暖かい。
今朝見た夢は、よくは覚えていないが、宜保愛子が出てきて、日本の社会情勢を、後付の解釈で予言が当たったと吹聴している。僕は先日の夢の言葉の積み木のようなことをしていて、与太話に対抗しようとしているらしい。 夢のつながりはよくわからないが、自動車や自転車で坂道を登るという夢や、自動車が壊れる夢というのは、僕はよく見る。それは自分の意思が進捗しないという、ちょっとした焦燥が潜在意識にあるのだろう。また駅前のターミナルのような所に居る夢、団地の商店街、各階別々の商店が並ぶ、テラスが通路になっている立体構造の専門店街やスーパーマーケットに行く夢もよく見る。大抵一人で、夕方や夜のことが多い。 リタイアしてからの生活というのは、古書店をやっているといっても孤独な生活だから、それが夢に反映しているのかも知れないし、乗り物に乗っている夢や、旅をしている夢が多いのも新たな世界を求める気持ちが反映しているのかも知れない。 しかし60歳からの人生は、「第二の人生」ではなく「余禄の人生」だというのが僕の考えだから、新たな「第ニの人生」を目指すつもりはない。新しいことをするのではなく、これまでの知識や経験を整理して残すことが目的でなければ人生を完成させることが出来ないと思っている。
《日々の言葉》 生えて伸びて咲いてゐる幸福(種田山頭火) 山頭火は名のある花ではなく旅の行きずりの道端の雑草に目を向ける。雑草は雑草としてあるがままに雑草を生きている。山頭火はまた「閉めて一人の障子を虫が来てたたく」と詠む。虫もあるがままに虫を生きている。人もあるがままに自分の個性を生きるべきだと思う。しかし
多くの人々は自分を生きるのではなく、世間を生きようとする。それに耐えられず山頭火は放浪の旅に出た。 放浪する山頭火の乞食の旅は、確かに孤独だっただろう。しかし、山頭火は雑草の中に、虫の姿の中に、確かに生命を掴んでいただろう。山頭火の生涯は挫折の連続だったかも知れないが、俳句を作るということで、その人生は完成されていっただろう。 自分の一生が支離滅裂な人生だったとしても、その支離滅裂な人生を素材にして、一つの作品に完成させることが出来たら、それは明白な個性として残るだろう。それに比べたら、計算通りのサクセスストーリーなど何も残さない。 ○
1868(慶応4)年3月3日−新政府は赤報隊を偽官軍として捕らえ相良総三(33)以下8名を斬首、54人を処分する。 |
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3月2(金) 9時起床。 朝から雨が降っている。今朝の夢は、僕よりは若い、知らない女の人と話している夢だった。その人の話が、人のことでも、物についてでも非常に的確で深い洞察をするのに感心している。愛というのは結局深く知りたいと思う気持ちのことだ、人間性の深さというのは歳を取れば得られるというものではない、愛もなしに、いくら知識を得ても、砂に水を撒くだけだと、僕は夢の中で思っている。
目が覚めてから、色々考えたが、「知らないものを愛することは出来ない」という考えは日頃僕がよく言う言葉だから、何も新しいものを発見したというのではない。それが実感として僕の内部に消化されたものかどうかも解らない。単に日頃頭の中にある観念が夢になっただけなのかも知れない。
《日々の言葉》
「よだかの星」と「かもめのジョナサン」、その違いの中に愛とは何かについての解答があるのではないか。 宮沢賢治の「グスコーブドリの伝説」は、昨年の大震災を経験した日本人にとって、何をなすべきかという問いに答えるリアリティを持っている。「雨ニモ負ケズ」の詩は、被災した人々の聖歌にもなっているいるらしい。
そして「よだかの星」は、仲間外れにされ、いじめ抜かれたよだかが、それでも生きるものへの慈しみを忘れず、かわせみに生きてゆくために必要なだけ以上の魚を捕らないでと遺言を残して天に駆け上がってゆく。 今の社会は宮沢賢治の生きた時代以上に、排他的で残酷ないじめ社会だと僕は感じている。しかしそれは、誰か一人が犠牲者になっているというような段階を超えてしまって、いまや多数の人が、いつ孤立し、いじめに晒される解らないという恐怖を感じるところにまで来ているだろうと思う。 そんな時代、そんな社会に生きて、人を救うものは何かと問う時、僕はこの「よだかの星」を思い出す。よだかよりももっと弱い立場のいじめられっ子とはかわせみに食べられてしまう魚だろう。しかし、物語には出てこないが、その魚ももっと小さな生き物を食べて生きている。皆が生きている以上、犠牲者は無くならない。しかしそれでもよだかは殺される魚のことを思いやる。生きるため に必要な以上に魚を捕るなと言う。 殺される魚は、殺される数を計算に織り込んでそれ以上の数の子孫を残す。母かもしかは子供を助けるために、自ら囮になってライオンに殺されようとする。それで子孫を残そうとする。そこに永遠の生命があることを本能として知っている。 生命をつなごうとする気持ち、それが愛である。そしてそこに永遠の生命がある。 ○ 《今日は何の日》
1881(昭和56)年3月2日−初めて中国残留孤児が肉親探しのため日本を訪れる。 |
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3月1(木) 9時起床。 猫が大声で泣くのに起こされた。急に起こされたので夢の記憶は全くない。9時半に倉内工務店が来る。うちには外に出している猫が3匹と、家の中だけで飼っている猫が3匹いるのだが、廊下に戸を作って室内飼いの猫が外に出られないようにしておいて、外に出している猫も廊下から裏のサンルームまで行けるようにするという妻の考えによるのだが、僕は室内飼いの猫の自由に行ける空間がそれだけ減るので少し不満がある。 倉内工務店との話は妻にまかせておいて、僕は「日々の言葉」と、ほぼ10年ぶりに「今日は何の日」を書く。まあ「岸信介」と一緒に出来る範囲で時々書いてゆこうと思うが続くかどうか・・・・。
《日々の言葉》
自分の理想を持って、自分に与えられた可能性を実現することに、人より優れた能力などはいらない。 しばしば子供の絵が人に感動を与えるように、たとえ人に劣った能力でも、自分の目で世界を見、自分の心で感動すれば他の人には表現できないものを創造出来るだろうし、自分に与えられた可能性を精一杯生きた人生は、ともかくそれがその人にとっての最大の自己実現である。そのゴールへの道のりは必ずその人の幸福につながるだろうし、同じように凡庸な他の人々の生き方の参考になるだろう。 自分がいかに下積みの平凡な人間だとしても、どこかに必ず自分の個性を必用としている人がいるに違いない。人の品定めや値踏みの目にさらされて、自分の個性や能力や可能性を捨ててしまった、自分の個性を捨ててしまったら、自分の世界、自分の城を失ってしまうだけではなく、自分を理解してくれる友と遭遇する機会も失ってしまう。 いかに自分が凡庸な人間であろうと、自己実現すること、自分の個性や能力を発揮し、可能性を実現することが幸福であることは疑いようがない。 ○ 《今日は何の日》 1932(昭和7)年3月1日−満州国の建国が宣言される。
1931(昭和6)年9月18日、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐や作戦主任参謀石原莞爾中佐の策謀によって、柳条湖で満鉄線路を爆破し、これを口実に張学良の宿営北大営と奉天城を攻撃する。そして翌日満鉄沿線主要都市占領を目的とした軍事行動を開始し、営口、安東、鳳凰城、長春など満鉄沿線の主要都市を次々に占領した。
最近、近代史を扱った歴史書や歴史雑誌を見ると、石原莞爾をナポレオンに匹敵する「天才」とか「英雄」と見なした記事が目に付くようになった。しかし石原が予言した「日米決戦」などは大正時代のシベリア出兵の時以来、その可能性を解いた人は日本だけではなく外国にも多数いたし、大東亜共栄圏の思想のルーツも幕末まで遡ることが出来る。新しくも珍しくもない。柳条湖事件のような謀略も、張作霖爆破事件以前からも関東軍高級将校の性癖といってよいような体質になっていた。その根底にあるものは、やはり高級官僚と同じ「立身出世」と「功名心」であっただろう。手柄を立てるために国を賭物にする。その精神が日本を破局に追いやったのである。 |
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1.「育む心 」こそ真の生命である。「育む心」が愛である。自分を育み、隣人を育み、社会を育むために人は生きている。 2.たとえビリでも走れないより走れた方が良いではないか。他の能力も同じだろう。どうして人に負けるからといって、自分の能力を捨てるのだ。捨てたほうが良い能力など何もない。 3.自己実現することを忘れなければ、樹木が枯れる時まで年輪を加えるように、人は人生の終わりの時まで 世界を広げ、成長し続けるだろう。「生きる」ということは自己実現するということだ。それだけは忘れないようにしよう。 4.生きることの意味と価値は、主観的には無数にある。しかし客観的には、「社会の存続と進化に何を残し、何を伝えたか」ということ以外には無いだろう。身の丈に合ったものを残せば良いのだ。名前などは残す必要はない。人の記憶に留まる必要もない。ただ社会の存続と進化のために役立ったといえる何かを残すこと。伝えること。そこに永遠の生命があるだろう。 5.疲れた時は静かに眠れ。理想への道程を思い描きながら。そうすれば明日の生活が少しずつ変ってゆくだろう。それが疲れて何も出来ない時の自己実現だ。
病気の時には病気の時の自己実現がある。失意の時には失意の時の自己実現がある。いかに苦しくても、創意工夫出来ることがあるだろう。その苦しみを記述することは出来るだろう。それが自己実現だ。 7.年をとっても好奇心を持って雑学を増やせ。それが自分の世界を広げるだけでなく、中年、老年になると、新しい知識を記憶することは、既知の知識との関連付けでしか出来なくなるからだ。 8.古来、勤勉と誠実、義理と人情こそ日本人の美徳であった。いま非人間的な管理と利己的な競争を煽り焚き付ける支配イデオロギーが日本人の美徳を果てしなく破壊している。 9.信仰について僕は考える。いかに科学が進歩しても、人は、つねに人智を超えた「力」に生かされている。それを知り、その「力」に帰依し、その力の導く所に行こうとすることが信仰である。 自分を生かしている「力」を見つめ、そしてその「力」が万物を、生命を進化させる存在であることを悟り、その「力」の命じるままに生きること。 10.「神」とは一切の事物や現象を現前させている「力」のことである。自然がその摂理を全うし、人が自己を全うすることが神の意思なら、神は決して呪縛 などしないだろう。神が自己実現を阻む筈はない。 11.自分の時間は朝食の前に作れ。
日中の仕事や生活に流され、失うことはないし、仕事で疲れた夜より、はるかに頭は活発に働く。自分の仕事はまず朝の時間にせよ。 |