秀吉の疑惑
豊臣秀吉像


ここで、「本能寺の変」に秀吉が絡んでいたのではないかということについて考えてみたい。
秀吉が「変」に何らかの関わりがあったのではないかという説は

「変」前後の秀吉の行動に疑問点があまりにも多いことから生まれたものだ。
信長が光秀に襲殺されるのを見通していたかのように、中国地方から神業と思えるような速さで京に戻ってきたこと(中国大返し)も

光秀を山崎で破って以降、天下取りの競争相手が一人、また一人と闇へ消えて行ったことからしても
「変」は、すべて秀吉によって巧妙に仕組まれたものであった可能性が考えられるのだ。


大阪城
 
疑惑1.中国大返し

天正5年(1577年)8月8日、信長は柴田勝家、秀吉らを、上杉謙信の侵入に備えて、加賀に派遣するが
秀吉は、勝家と意見が合わず陣から勝手に軍勢を引き上げて帰国してしまった。

本来ならば、死罪となるところだったのだが信長は秀吉を厳しく叱責し、謹慎を命じるにとどまった。
なぜ、秀吉が死罪にならなかったのかを考えると、信長の嫡男 信忠や光秀らの助命嘆願があったからではないかと思える。

丹波攻略に際して、播磨方面からも攻撃をかける必要性を感じていた光秀が意見具申を行った結果、懲罰的な意味合いを込めて
信長は支援をほとんど出さないまま、秀吉に中国攻めのために播磨に向けて出発させたのではないだろうか。

「変」当日、秀吉は京から二百キロ離れた備中高松(岡山県)で毛利軍と対峙、高松城を水攻めで囲んでいた。
京の異変は翌日3日の深夜に伝わったと言われている。この報を受けた秀吉は、次の日の正午、和睦の条件であった

 一、高松城主清水宗治の切腹
 一、山陰・伯耆の八橋川をもって境界線とし、山陽は備中の河辺をもって境界とする。

の誓紙を毛利方と交換し、毛利方の人質を受け取った後、夜になるや京に向け撤退を開始した。
翌日夜には姫路へ、姫路で一日休んだ後、9日早朝に姫路を出発、13日には4万余の軍勢を整えて山崎の戦いに臨んだのだ。

当時の軍団の移動能力は、一日約二十キロであったと言われている。鎧兜に武器携行で、
かつ食料等を荷馬車で引っ張っての移動には自ずから限界がある。

ところが秀吉はこれを倍のスピードでやってのけている。
これについて旧陸軍が分析した結果、秀吉軍の速度は強行軍に相当し、物理的には不可能ではないとされているが

古文書によると当時の天候は豪雨であったこと等から考えると、これを素直に受け入れることはできない。
「変」を事前に察知して軍勢の一部を姫路あたりに移動させ、時を待っていたのではないかと疑える。

また、これを発展させていけば、「変」自体を仕組んだのは秀吉の手の者で、光秀は、はめられてしまったという説も成り立つが
『「本城惣右衛門覚書』から見る限り、これは有り得ないことだろう。

光秀と談合を持っていた公家達が秘密裏に保険を掛け
光秀が信長襲殺を失敗した場合に備えていた(重複した信長暗殺計画)ということなどは可能性としては面白い。

ところで通説によると、光秀は秀吉の支援のために、出雲・石見方面への出兵を命ぜられ、軍を動かしたとされている。
信長も、また、秀吉からの支援要請を受けて数日後には自ら軍を派遣しようとしていた。

これらのことが事実とするならば、
信長には毛利と和睦する意志は全くなく、あくまでも決戦を望んでいたということになる。
ところが、秀吉は高松城を水攻めにして先に書いた条件での和議を進めていた。

明らかな命令違反であると同時に通説と矛盾する。
このような状況を分析すると、光秀の西国派遣と信長の出兵計画は、自らの許しを得ない毛利との和議について立腹し

秀吉の更迭を含めた毛利討伐のため、急きょ光秀に先陣を命じたのではないかとの仮説が成り立つ。
この動きをいち早く察した秀吉は、極秘のうちに主力部隊を高松から姫路あたりまで撤収させ

信長の通過を待って、挟み込む形で討ち倒し、後は毛利に後押しされた秀吉政権を樹立しようとしていたのではないだろうか
その根拠として、山崎の戦いは秀吉の「信長弔い合戦」というよりは、旧室町幕府勢力対秀吉・毛利連合軍の戦いの様相を示している。

戦いにおいて伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の主だった面々が
一人残らず敢闘し討ち死にしている(『蓮成院記録』、『言経卿記』、『多聞院日記』)ことなどがあげられる。

したがって、
秀吉が信長の討ち死にを演出することを企て、周到に準備している中、変が起こり、これを逆に利用したという可能性は否定できない。

*参考

立花京子女史は著書『信長と十字架』で
変の黒幕をイエズス会としている。

イエズス会の日本制覇計画において、イエズス会は当初信長にそれを託していたものの
天正10年の頃から、信長の言動に危機感を覚え、秀吉への首のすげかえを考えた。

変は光秀が信長を討ち、秀吉が光秀を討つという構図でイエズス会によって企画されたというものである。

山崎付近(名神高速道路)
 
疑惑2.関係者の死

山崎の戦いにおける勝利の12日後、戦後処理を話し合うため織田家重臣の柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、秀吉の4人は、
安土城が消失していたため、尾張の清洲城に集まり会議を行った。これが、世に言う天正10年6月27日の清洲会議だ。

清洲会議では、信長の後継者についての話し合いがもたれ、秀吉が推す信忠の嫡男・三法師丸(2歳)が後継ぎに選ばれ、
秀吉が後見人となることが決定された。

ところで、この会議出席者を含め
秀吉の競争相手となりそうな者、あるいは変に関係した可能性がありそうな者が、
以後数年の間に、秀吉に殺されるか、非業の死を遂げている。


織田家ナンバー1の地位にあった柴田勝家は、
翌天正11年4月24日に、北ノ庄で秀吉に攻め落とされ、妻である信長の妹・お市の方と自決している。

ナンバー2の丹羽長秀は、清洲会議では秀吉に付いた人物だ。
これにより天正13年4月16日、秀吉から、越前一国の他に加賀の能美、江沼の二郡を合わせ、百二十三万石の大名に出世したが、

喜んでいたのも束の間、『積聚(しゃくじゅ)』を患い、苦痛に耐えられないで自ら腹を刺して死んでいる。
一説では旧臣長束正家に毒殺されたとの説もある。(長束正家は、この手柄としてか秀吉に取り立てられている。)

長秀の跡目となった長重は、『当代記』や『寛政譜』によると、加賀松任城四万石に百二十万石から減封されている。
池田恒興は、子供の元助と共に、岐阜と大垣城主になった直後、

天正12年4月9日、秀吉から岡崎攻めを命じられた際、何者かに鉄砲で撃たれて死んでいる。
『太閤記』では、恒興は進んで突入、敢えなく討ち死にと記録されているが

敵の徳川方では「拾い首」の扱いになっていることから、華々しい戦死ではなかったようである。
秀吉と信長の二男 信雄に反目した信長の三男 信孝は、

天正11年4月29日、秀吉によって生母や娘を磔付にされた後、尾張の野間で切腹を命ぜられて死んでいる。
信長の寵を受けた神戸の板御前や、その孫にあたる信孝の娘も、秀吉によって、慈恩寺の刑場で張り付けにされている。

変関係者の中で生き残っているのはただ一人、先の信雄だけである。
信雄は「ふつうより知恵が劣っていた。」(フロイス『日本史』)せいか安土城と町を焼き払ってしまっている。

小田原落城後は一時、追放処分となっていたが、最後は棄て扶持一万七千石のお噺し衆として生涯を終えている。
変で、信忠軍が立て籠もった二条御所から一時の休戦により脱出した誠仁親王も35歳で、はしかにより病死している。

一説では秀吉に脅されて切腹したとも伝えられている。
こうなると千利休の切腹についても、謎は深まってくるばかりだ。

なお、徳川家康は何故か秀吉のもとへは、いくら求められても行こうとしていない。
最終的に断りようのない上洛の際に、秀吉の母を実質的な人質として岡崎城へ招き、初めて上洛という取引に応じている。

とにかく秀吉の周りには危険が一杯だ。