信長の首

 
信長像(清洲城跡)
通説では、光秀は本能寺を襲撃後、信長の遺骸を必死に探したのだが、遂に発見することが出来なかったとされている。
小瀬甫庵は『甫庵信長記』(彼も、また、『信長記』を書いている。)で光秀が行った信長の遺体の捜索状況について

「御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく
士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。」と記している。

『当代記』では「焼死に給うか。終りに御死骸見え給わず。惟任も不審に存じ、色々相尋ねけれども、その甲斐なし。」とある。

フロイスは信長の最期の様子について
「明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真っ先に警備に当たっていた守衛を殺した。

そこでは、このような謀叛を夢にも考えず、誰も抵抗する者がなかったので
彼らは更に内部に入り、信長が手と顔を洗いおわって、手拭で拭いている背へ矢を放った。

信長は、この矢を抜いて薙刀とよぶ柄の長い鎌のような形の武器を持って
しばらく戦ったが、腕に弾創を受け、自らの部屋に入り、戸を閉じた。

ある人は彼は『切腹した』と言い、他の人たちは『客殿に火を放って生きながら焼死した』と言う。
だが火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだか判っていない。

我らが知り得た事は、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄した人が、毛髪といわず骨といわず灰燼した事である。」
と記録している。(恐らくカリオンからの報告をもとに書いたものだろう。)

余談になるが、『言経卿記』では、変翌日以降について

六月三日、己丑、晴陰
   一、洛中騒動不斜
   一、禁中へ徘徊了、今夜番ニ弥二郎進了

六月四日 庚寅
   一、禁中徘徊了
   一、洛中騒動不斜

とあり、6月3日以降、「洛中騒動不斜」が続き
「京内で大規模な信長の遺臣狩りが行われ(捕えては六条河原で斬殺した。)ている有様」が記されている。

この騒動について、一部史家では本能寺を脱出した可能性のある信長の捜索と解釈している者もいる。


安土城趾の信長廟


秀吉もまた、山崎の合戦後、信長の遺骸を必死になって探したのだが、遂に見つけることが出来なく
天正10年10月 京都 金閣寺近くにある大徳寺で信長の菩提を弔うための壮大な葬儀を執り行っている。

このとき秀吉は、信長の遺体が無いため、木像を2体造り、その1体を荼毘にふして葬り、残り1体を本堂に安置したと伝えられている。
しかし、山崎の合戦に勝利した後の秀吉にとっては信長の遺骸など、もうどうでも良いことであったのだろうと思えることから

信長の遺体を必死になって捜索したことが、事実かどうかについては不明である。

信長の遺骸が発見されなかったことについて、作家の小林久三氏は「九州薩摩に逃避し
島津 伊集院にかくまわれ、数ヶ月後に生涯を終えたのではないか。」ということを書いている。

この他では

本能寺に集積されていた火薬で粉々に爆死したという説。

本能寺を脱出後、第三者の手に掛かって死んだという説。

秀吉の手の者が光秀を混乱に陥れるために首を隠してしまったという説(秀吉黒幕説)。

光秀の先鋒として本能寺を襲撃した明智秀満家臣の並河金衛門が信長の首を得て秀満の元へ届けたとき
「主君(光秀)が逆上して、不敬なことを働いてはならない。」と言って、秀満が隠してしまったという講談話などがある。
 
ところが、遺骸が見つかっているという話も残されているのだ。
本能寺近くの阿弥陀寺には信長と信忠の墓があるのだ。

阿弥陀寺は、清玉上人が近江の坂本に創建したことにはじまり、
信長の帰依を受け京に遷ったとされている。

阿弥陀寺の『信長公阿弥陀寺由緒之記録』(享保16年)によれば
「変勃発を知った京都阿弥陀寺(京都市上京区)の住職(清玉上人)が、僧徒二十人ばかりを召し連れて本能寺に駆けつけると

本能寺の墓地の後ろにある藪の中で織田方の数人の武士が信長の遺体を 焼いていたので頼み込んでその骨をもらいうけ
(本能寺の僧のような顔をして)本能寺を脱出、阿弥陀寺に持ち帰った。」

また、旧本能寺跡のそばには信長首洗いの井が残されていて
その水で住職が信長の遺体 (おそらく持ち帰ったのは首のみ) を洗ったと言い伝えられている。


なお、変後約一ヶ月たった7月11日、山科言経はこの阿弥陀寺に詣でて信長以下
本能寺の犠牲者を弔っていることが記録に残っている。

静岡県富士郡芝川町の西山本門寺には信長の首塚がある。以下、寺のパンフレットから謂われを紹介する。
「天正十年六月二日京都本能寺の変で討ち死にした織田信長の首を囲碁の初代本因坊算砂「日海」の指示により

原志摩守宗安(はらしまのかみむねやす)が信長と共に自刃した父胤重(たねしげ)と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ちだし
信長の首をここ駿河の、西山本門寺に納め首塚を築き、柊(ひいらぎ)を植えたのであります。

第百代後水尾天皇のご息女、常子内親王の後帰依をうけた、当山中興の祖十八代日順上人は原家のご出身で
ご自筆の内過去帳に本因坊日海上人と織田信長公の法号を記し、手厚くご回向されておりました。」

高野山にも信長の墓があるが、こちらは単なる供養塔である。

仮に信長が本能寺を運良く脱出でき、秀吉などのもとへ逃げおおせたとしても、闇の中に葬り去られてしまった可能性は十分に考えられる。
甫庵の『信長記』も、豊臣家に仕えた彼(甫庵)が牛一の記述を参照しながら、牛一と同様に信長の死を劇的に書いた節があり、信頼に乏しい。

これらを総括すると、「信長は間違いなく本能寺で死んでいるのだが、遺骸がひどく焼けただれていたため、確認がとれなかった。
あるいは、焼けただれてしまっている信長ともわからない首を京で晒しても何の価値をも見いだせないことを悟った

光秀の優しさが、これをさせなかったのかもしれない。
このような中で、時が急速に流れていったため、信長の首は混乱のうちに失われてしまった。」ということだろうか。