光秀夫妻像(西教寺:滋賀県大津市)

はじめに
2001年に『新たな歴史教科書を作る会』が作った『日本史』教科書における、我が国のアジア進出の記述について
中国、韓国等の国々からの反発があるように、僅か60年ほど前

まだ当時の生き証人も沢山いる現在において、勝者と敗者、立場が変われば主張が両極端に変わってしまうこと
あるいは、歴史が時の権力者達によって都合良く利用され、悪いことは公にしないまま闇に葬られてしまうことが数多くある。

従って民主主義の確立された現代であっても、通説の歴史について何の疑問も持たないで
そのまま受け入れてしまうことは甚だ危険なことであると思う。

何しろ、私たちが学んでいる歴史というものは勝者が残した、勝者にとって都合の良い記録であると同時に
その内面には勝者たちによる様々な利害関係が満ちあふれていることが多いのが殆どだからだ。

その一つとして石田三成や明智光秀の例がある。
関ヶ原の戦で徳川家康に破れた石田三成は、今でも豊臣家の威を借りた「奸臣」の後ろ暗さがつきまとっている。

勝者をより英雄にするためには、敗者はより悪辣に仕立て上げられなければならない。
石田三成は天下騒乱の奸雄、こざかしい佞臣に仕立てあげられ佐和山城は家康によって跡形もなく崩されてしまった。

明智光秀は天正10年(1582年)6月2日、織田信長を京都の本能寺で自刃に追い込み(本能寺の変)
その11日後に山崎の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に破れ、世に言う「三日天下」「反逆の武将」として知られている。

特に光秀の評価は、明治以降「主人殺し。因果応報、天は正しきを助け悪は必ず滅びる。」とされ
儒学上の主従関係における倫理面から語られることが多かった。

私自身 光秀に興味を持ったのが、いつの頃からだったのか忘れてしまったが
小学生時代に江戸川乱歩の推理小説を読み

頭脳明晰な明智小五郎という探偵の、「明智」という姓が、どこか頭の中に残っていたことと
近くに秀吉が水攻めをした高松城趾があり、『日本史』、取り分け戦国史を面白いと感じていたからかもしれない。

光秀の研究を行っている人は全国に数多い。
その多くは、有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、古典に関する高い知識を持ち

和歌・連歌・茶の湯を好む戦国有数の教養人であり、信長からの信頼も厚く、自領に善政をしいていた武将が
何故に主人を弑逆したのかという動機解明の研究を行っている。

先にも書いたように光秀が「反逆者」「謀反人」として、極悪人のレッテルを貼られたのは、明治に入り豊臣秀吉の復権があったからだ。
徳川政権が崩壊し、明治政府は徳川幕府によって守られてきた神君家康の宗教的権威を否定することを企図した。

明治政府は徳川幕府によって徹底的なまでに破壊されていた豊臣秀吉を祭神とする『豊国社』の再興を図るとともに
発禁処分となっていた『太閤記』をも復興していった。この時以来、光秀は、ことごとく秀吉と対比させられたのである。

明治から昭和にかけて折からの富国強兵政策にのっとり、秀吉は「皇威を海外に宣揚した」国家の英雄として
また、貧しい庶民が夢を託せる立身出世の人、数々の創意工夫の戦術と忠孝によって成功をおさめた人

主人 織田信長の仇、明智光秀を討ちとった忠臣等々として都合良く利用されたのだった。
もし、本能寺で信長が死ななかったら、中国大陸、果ては欧州に至る大航海時代的な日本国家が成立していたかもしれないし

秀吉が行った朝鮮の悲劇は、もっと早い時期に、もっと大規模な形で信長によって行われていた可能性は否定できない。
逆説的な見方をすれば「本能寺の変」がなければ、今日のような日本の繁栄はなかったことも考えられる。

光秀は本能寺に信長を攻めた動機を語ることなく歴史の中から消えて行った。
動機を語った決起文等が残存していないのは、秀吉による封建社会が、これを許さなかったからだろう。

当ホームページは、光秀に関する通説について考えながら、彼の復権を図っていきたいと願うページである。

(’04.06.08)




【明智光秀】(1528?〜1582)

戦国時代の武将。通称、十兵衛。
織田信長に仕え、近江坂本城主となり惟任、日向守と称する。

ついで丹波亀山城主となったが、天正10年(1582年)6月2日 信長を京都の本能寺に攻めて自刃させた。
その僅か11日後の6月13日、羽柴(豊臣)秀吉と京都の山崎で戦い、敗走の途中、京都小栗栖で農民に殺されたとされる。

信長に仕えるまでの前半生及び信長を本能寺に攻めた動機については、諸説有り
戦国史最大の謎とされ、数々の論議を生んでいる。



【有職故実】

有職と故実の2語からなる。
故実は行事・儀式・法令・軍陣などの先例のこと、有職は故実に通じていることを言う。

鎌倉時代に武家政治が進展すると、武家の間でも有職が重んじられ
特に室町幕府のもとで武家儀礼の整備が進み、伊勢・小笠原氏などが武家の有職家として成立した。

そのため、公家儀礼における公家故実と武家儀礼における武家故実とを区別して
前者を有職、後者を故実ということもある。


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各ページは、私の勉強の成果によって、随時加筆・修正しています。


信長と光秀(’04.06.08)

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参考資料及び光秀関連書籍集(’05.06.29)