『決定の本質』(グレアム・T・アリソン)宮里政玄訳 中央公論新社
(『Essence of Decision』 Graham T. Allison 1971)


1 はじめに
 『決定の本質』を読み、学んだことを、次の順序で考察し、著していきたい。
 まず、『決定の本質』で示された3つのモデルについて簡単に整理する。
そのうえで本書の意義、長所について考えを記したい。続けて本書の問題点、
短所などに言及し、最後にそれらの考察をまとめ、課題書から学ぴ得たこと
について述べたい。

2 『決定の本質』におけるモデル
 本書は、「人間の生存にかかわる未曾有の事件」と著者であるアリソンが述べる
1962年10月のアメリカとソ連との間で起こったキューバ・ミサイル危機を題材に、
その謎を解明するため、3つのモデル・分析枠組みを提示し、それをもとに実証分析を
行ったものである。3つの異なったレベルのモデルを、キューバ危機の実証に用いること
によって、その謎だけでなく、人間の認識の間題、意思決定の本質に迫ろうとしている。
 そこで示された3つのモデルは、合理的行為者モデル(第1モデル)、組織過程モデル
(第2モデル)、政府内(官僚)政治モデル(第3モデル)である。
 第1モデルは、国際政治における国家を単一の合理的な主体としてとらえる
分析視角である。換言すれば国家を擬人化し、ある国家の行動を考察しようとするもの
である。そこには、合理的行為者である国家や政府は、目的や目標に向かって合理的に
戦略を立て、選択肢を選び取り、それらを最大化するものであるという理論的前提がある。
アリソンは、対外問題を考える際、本書が出版されるまではこのモデルをほとんどの人達が
用いてきたとしている。
 第2モデルは、そうした戦略に従って合理的に選択肢を選び取るという第1モデルの
政府像に対して、別の視角を提示する。政府というのは、一枚岩の主体ではなく、
課所づけられた組織の集合体である。よってその政策アウトプットは、それまでに組織内で
確立されてきた標準的な作業手続き(SOP)、ルーティンを反映したものとなる、とする。
 第3モデル・政府内(官僚)政治モデルでは、組織は役職に就いている人間の集合体である
との認織のもと、政府の政策行為・アウトプットはそうした役職者たちの影響カ行使、
駆け引きなどの「政治」の結果である、と説明される。役職者たちの目標や考え方は
一様ではない。そこに駆け引きや競争が生じる素地がある。トップエリートが決定に関して
絶大な力を有しているとも一概には言えない。ここでは第1モデルが想定するような
単一的な組織やその目標などは存在せず、合理的に選択肢が選び取られるということはない
とされる。第2モデルが示すような、組織のルーティンでもない。政府の行為を
決定づけるのは、組織内役職者の影響カや政治的リソース、技量である、
と考えるのがこの第3モデルである。

3 『決定の本質』の意義
 本書が学界をはじめとして評価され、名著とされる所以は、やはり上の3つのモデルを
明示したことにあると考える。それまであまり意識されてこなかった(学問研究において
さえも)、視角、分析枠組みが異なることによる認織や分析結果の違いを明らかにしつつ
モデル化し、人々にその重要性を訴えかけた意義は大きい。
 とりわけ本書の学問的貢献は大きかった。意思決定論や政策科学研究の先駆となった
とも言われる。モデルという概念レンズを用いて分析を行うことは、素材をただ積み上げる
だけの学問研究を回避し、それが目指すべき一般化や抽象化、普遍化を促がすものである。
他方、モデルは実証研究に用いられるため、過度の抽象化を避けることも可能となる。
 また本書では、3つのモデルをキューバ危機という同一の事例に適用し、新たな回答を、
あるいは仮説を打ちたてることに成功しており、キューバ危機の謎を探るという当初の目的
においても一定の成果を上げている。視角、枠組みの違うそれぞれのモデルを用いて、
そのいずれからも謎に迫り得た意義は大きいと考える。

4 『決定の本質』の間題点
 本書はこうした意義を持つものの、一方で問題点も抱えているように思う。
まず、事例研究の叙述が、提示されたモデルとうまく噛み合っていないように感じた。
その部分の文章と構成が迂遠で、一読しただけではモデルとの関連や事実関係を
見失ってしまう。
 それは第3モデルの適用例での叙述にも見られた。モデルでは、トップエリートの力
というものが相対的なものとして説明されていると理解していたが、その事例では逆に、
トップエリートの力の大きさ、重要さ、判断力・自制力の重みといったものが印象に残った。
 またモデル自体についても若干の疑問が残る。第2モデルについては、キューバ危機
という非常時の政府行動を、この分析枠組みだけでは捉えきれないだろうと思った。
もちろんアリソン自身もこれらのモデルを「予備的で部分的」なものと述べて、モデルの
精緻化や相互補完について言及をしてはいる。しかし第2モデルについてはかなり「部分的」
であり、単独で重大事件を分析するには適さないと考える。ただ、日常に近い政府行動を
分析する際には、威力を発揮するモデルだとも思った。
 第3モデルに関しても、対外研究は概して国内政治の分析を避けている、とのアリソンの
間題意識からそれは案出されたもののようだが、本来、制度的な研究を中心課題としてきた
政治学はまだしも、歴史学においてはこの第3モデルのような手法や視角はごく通常の
あり方ではないかと考える。多くの細かな資料(史料)を渉猟して「史料批判」をしつつ
過去の「事実」の再構築を試みる。国内政治を忌避しない。そうした研究は、歴史学
においてはむしろ中心課題のひとつではないだろうか。
 さらにもうひとつ大きな問題・疑問点を挙げると、本書においては、価値や思想、
あるいは人間の心理への関心が薄いのではないか、ということがある。人間の内奥に迫る
側面が3つのモデルには希薄であると感じた。

5 『決定の本質』から学ぶこと
 これまで本書の意義や間題点について述べてきた。間題点をやや挙げすぎたきらいもあるが、
それでも本書から学ぶことは多い。何よりも本書は、研究書としてバランスがとれている。
意図するところが明確である。そのことが評価と貢献につながっているのだろう。
そのバランスということを考える時、本書の本編に入る直前の載せられた2つのエピグラム、
とりわけトクヴィルのそれは象徴的である。
私は、公務にたずさわることなしに史書を著わした学者や、また、あまり考えもせずに
新しい事態を作り出すことに没頭している政治家をみかけることがある。私が観察する
ところでは、前者はつねに一般的な原因を見出す傾向があり、他方、関連性に欠ける
日常的事実の中に生きている後者は、すべては特定の偶発事件に起因するものであり、
そして自分が世の中を動かしているのだと思いこみがちである。どちらも同じく誤っている
と考えてよかろう。

 ここで示された両者間のバランスの悪さ、とりわけ研究におけるこうした隔たりをなんとか
したい、との間題意識のもと、3つのモデルは考案され、本書が著わされたのであろう。
 先に私は、モデルのはらむ間題点について指摘した。だが、アリソンはこの3つのモデル
を絶対化し、固執しているわけではない。各モデルの精緻化、モデル間の融合や相互補完、
新たなモデルの創出等々、掴むことの困難な「決定の本質」に少しでも追ろうと、
こうした柔軟な、バランス感覚をともなった姿勢を示している。
 そうした姿勢が、本書を貫いており、またそれはあとがきに明確に記されている。
そのあとがきにおいてアリソンは「パラダイム」という言葉を用いている。近年、出版され、
論争を巻き起こしている『文明の衝突』において著者のサミュエル・ハンチントンが
同書の目的として強調したその言葉である。この新たな「パラダイム」を提示するという
先駆的意気込みも『決定の本質』の意義であり、貢献であり、
研究書として学ぶべきところだと思った。
 他にも、事例研究に載せられた資料の文言、例えば、ケネディ大統領の「この危機の
処理からあることを学んだ。それは最後通牒を出してはならないということだ。恥をかく
以外に逃げ道がないような窮地に相手を追い込むことはできないのだ
」(248ぺ一ジ)
などに込められているメッセージからも学ぶことがあった。
 そうしたメッセージや、一般化と個別化のバランス、モデルの有用性とそれが示す視角、
認識の相違、政治的決定の困難さと複雑さ、パラダイムヘの意志等々、『決定の本質』を
読むことで考え、学んだことは多かった。今後、こうしたことを念頭に研究を進めていきたい。

 

                     総合政策セミナー(増島俊之教授)課題

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