土佐勤王党 (10.03.10)
森鴎外作:「長宗我部信親」 (09.10.08) 慶禅・”坊さんかんざし”真説 (09.01.28)
脱走ロシア軍艦・土佐漂着 (08.09.23) 日銀総裁・川田小一郎 (08.03.21)
武田氏と土佐(2)香曽我部氏 (07.12.19) 武田氏と土佐(1)板垣退助 (07.12.18)
山内容堂 (07.06.27) 浦戸一揆 (08.04.22) 歴史の道・野根山街道 (06.02.21)
龍馬の師・河田小龍 (06.02.05) 七人みさき (05.11.30) 山内一豊の妻 (05.10.17)
黒岩涙香と森下雨村 (05.09.21) 純信・お馬 (05.09.10) 五台山・竹林寺 (05.09.07)
潔い武人・森中将 (05.06.22) 倉橋由美子 (05.06.16) 龍馬像”喜寿” (05.05.03)
よさこいと兵隊 (05.04.08) 中平 康 (05.03.28) 北方領土と土佐藩 (04.09.03)
吉田 茂 (04.08.01) (04.07.20) 大江卓・奴隷船裁判 (04.07.18)
山本玄峰と雪蹊寺 (04.07.04) からくり半蔵 (04.06.18) 寺田寅彦 (04.06.15)
男爵薯 (04.05.28) 長宗我部元親 (04.05.21) 遠流の国土佐 (04.05.09)
牧野富太郎 (04.04.25) やなせたかし (04.04.20) 山内氏と土佐 (04.04.12)
桂 浜 (04.04.08) 坂本龍馬 (04.03.26) 板垣退助と自由民権 (04.03.18)
ご め ん (04.03.16) 小畑敏四郎 (04.03.12) 片岡太郎 (04.03.10) 弘田竜太郎 (04.03.08)



 土佐勤王党 (10.03.10) 

 幕末、一瞬の花火のように燃え上がり、燃え尽きた土佐の若者の集団「土佐勤王党」
 その数約200人。 維新まで生き残ったのは僅かに一握りにしか過ぎない。多くは動乱の中に消え、あるいは藩に殺された

 盟主・武市半平太はじめその殆どは郷士である。当時の土佐藩郷士は、藩政当初創設された長宗我部遺臣による 郷士は僅かで、むしろ没落した郷士の株を買った裕福な農家・商家の出が多くを占めていた。半平太でさえ、5代前からの 郷士である。

 NHKのドラマ「龍馬伝」でも、当時の土佐藩における上士・下士の激しい差別を描いているが、山内譜代の上士は、 下士の中でも最下層の郷士を百姓町人同様に蔑視していた。
 抑圧された集団が、劣悪な環境から抜け出す出口が見つかった とき、そのエネルギーは強大なものとなる。歴史上のすべての革命の共通項だ。

 その出口が勤皇であり、攘夷であった。江戸に出て諸藩の若者たちと交わるうち、半平太は世の動きを敏感に感じ取り、 郷士を糾合して「土佐勤王党」を結成した。
 このとき半平太は、諸藩の情勢と同歩調を とるに必要な”一藩勤皇”を掲げた。しかし、藩論を有利に導くため時の参政・吉田東洋を暗殺するなど非合法手段にも訴え、 これが後に山内容堂に抹殺される原因となったのは真に無念としか言いようがない。

 「土佐勤王党」が結成されたのが文久元年(1861)。前年の安政7年(1860)桜田門外で、井伊大老が水戸の 下級武士を中心とする浪士団に白昼襲撃され殺害された。
 この事件は日本全国に衝撃を与え、それまで幕府に押さえ つけられていた各藩は急激に勢いを強くし発言力が増大した。そして各藩の中でも下級武士が、この事件に大きく触発されたの である。「土佐勤王党」の結成もこの桜田門外の変と決して無縁ではない。

 ”一藩勤皇”を推す半平太は土佐藩中枢に再三これを説くが、公武合体を旨とする容堂の意を受けた藩中枢の受け入れる ところではなかった。このころ半平太の方針に懐疑的な坂本龍馬や、のち天誅組に参加し十津川で敗死する吉村寅太郎などは、 半平太と袂を分かち脱藩して独自の討幕運動を起こすことになる。

 当時土佐藩内には、藩政改革を目指す吉田東洋に排された守旧派の旧重役が存在した。守旧派の抱きこみに成功した 半平太は、文久2年東洋暗殺を強行し、「土佐勤王党」は一挙に藩政の実権を握ることになった。

 同年、藩主山内豊範を奉じて上京。京都において、「土佐勤王党」は一時尊王攘夷運動の中心となり、半平太は 各藩との交渉や朝廷工作を行なった。しかし一方、反対派を岡田以蔵などを刺客として暗殺した暗黒面も受け持っている。
 この頃が「土佐勤王党」の絶頂期であり、京都における尊王攘夷派の最盛期でもあった。

 翌文久3年”八月十八日の政変(文久の政変)”が起こる。長州藩を中心とする尊攘派の急進を恐れた 会津藩・薩摩藩による政変である。七卿落ちなど朝廷の尊攘派が一掃され、公武合体派が息を吹き返した。
 安政大獄で謹慎中の前藩主容堂が再び藩の実権を掌握、半平太以下勤王党員も次々に投獄され、「土佐勤王党」は結成 以来僅か2年で壊滅に至った。

 党員の切腹第1号は平井収二郎。龍馬初恋の人といわれる加尾の兄である。以下次々と切腹あるいは斬首の刑が執行 され、半平太も入獄約2年後の慶応元年(1865)切腹を命ぜられた。
 その間、元治元年(1864)には半平太釈放を嘆願した 23人を奈半利川原で斬首処刑するなど、土佐勤王党弾圧は残酷を極めた。後藤象二郎、乾(のち板垣)退助など、弾圧の 急先鋒だった。

 何が故にこのような徹底した弾圧が加えられたか。体制破壊者に対する容堂の怨念が感じ取れる。のち大政奉還に 関与する功績はあったにせよ、多くの有為な人材を失った土佐藩は、維新に際しては完全に薩長の後塵を拝することになる。 

 支配者と被支配者の乖離は、その後長く土佐の地に残っている。参照:
山内容堂   歴史の道・野根山街道   山内氏と土佐

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 森鴎外作:叙事詩「長宗我部信親」 (09.10.08) 
 頃は天正十四年 しはす十二日の朝まだき
 筑紫のはても冬闌けて
 霊山おろし吹きすさむ 戸次の川の 岸近く

 ……信親にっこと打ち笑みて
 殊勝の敵よ土佐武士の 最後を見よとわたり合い
 思ふ儘に太刀打して  二十二歳を一期とし
 地にもたまらぬ暖国の 雪より先きに消えにけり
  森鴎外作:叙事詩「長宗我部信親」の冒頭と信親戦死の場面である。

 1580(天正14)年、豊後国(大分県)戸次川(へつぎがわ)で薩摩の島津勢と戦い、敗れて死んでいった 長宗我部信親を描く。
 長宗我部勢の奮闘、信親の戦死、息子を失った元親の嘆きの物語。レクイエムのような 詩編だ。

 戸次川の戦で嫡男を失った元親は往年の覇気を失い、長宗我部氏はこの後衰退の道を辿ることになる。
(参照:
「長宗我部元親」 「七人みさき」

 この叙事詩は、明治36年鴎外42歳の作。九州小倉から東京に戻った頃である。
 鴎外の記録に よれば、「この叙事詩は、弘田長君の嘱により、薩摩琵琶歌として作れるなり」と。鴎外は、谷干城の所蔵する 「土佐国編年紀事略」をもとに、虚構を一切交えず叙したと述べている。

 依頼主の弘田長(ひろたつかさ)は土佐の人(1859−1928)。鴎外の1年先輩の東大医学部卒。東大教授 を長く勤めた後、宮内省御用掛となり昭和天皇幼少時の侍医となった。

 弘田の遠祖は長宗我部の家臣で、 戸次川の合戦で戦死しているようだ。弘田は琵琶を趣味としていたことから、先祖哀惜の思いから鴎外に詩作を依頼 したものと思われている。意外なところに鴎外と土佐人のつながりがあった。 

〔資料:高知新聞10/5夕刊「土佐歴史細見」。写真は土佐史談会による「長宗我部信親」復刻版表紙(絵の ”かたばみ”は長宗我部氏の家紋)〕
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 ”坊さんかんざし”真説 (09.01.28) 

 はりまや橋で「かんざし」買ったのはどちら。純信? それとも慶禅? このことを書いたのは、本稿
「純信・お馬」(05.09.10)。(注)「慶全」 は「慶禅」が正しい。
 買ったのはどうも、ハンサムで若い慶禅の方だったようだ。確たる証拠はないが、人の噂になるような 突飛なことは世間知らずの若者のやること。純信のような中年男には、やりたくてもできない分別があるという ことだ。

 それに、お馬さんは最初から純信一筋というわけでもなかったらしい。巷説では純信に惚れて通う お馬さんに、慶禅が横恋慕して密告に及んだということなのだが、どうも事実は全く逆らしい。
 純信は五台山の脇寺妙光寺を預かっていた。慶禅はその寺で修業の身。寺に出入りするお馬さんと 親しくなり、逢引が度重なり合ううちに噂が広がって、檀家からも非難の声が起こった。
 かねて純信もお馬さんに心を寄せており、慶禅を寺から追放したのが事の起こりだ。この時純信36歳、慶禅24歳、 お馬18歳。

 慶禅の実家は宿毛柏島の護念寺、由緒ある寺である。不名誉な追放を受けた慶禅は、実家に帰るに帰られず、帯屋町に 無住の庵寺を見つけて住み込んだ
 一方のお馬さんは格別咎められることもなく、寺への出入りを許されただけでなく、 言い寄ってくる純信の甘言に、次第に心を奪われるようになった。

 焦った慶禅は、お馬さんの心を取り戻そうと、はりまや橋でかんざしを買い求めてお馬さんに渡したのだが、もはや お馬さんの気持ちはすっかり純信に傾き、取り付く島もなかったという。

 はりまや橋は高知城下で最も人出の多い商売地。帯屋町の庵寺に住む若い美男子の坊さんが、かんざしを買ったのが噂に ならぬ筈がない。早速に”おかしなことよはりまや橋で坊さんかんざし買うを見た”と、よさこい節に歌われだした。
 その噂は忽ち実家まで届き、ついに慶禅は宿毛柏島へ連れ戻され、慶禅の恋はここで終止符を打った。 

 純信とお馬さんにもやがて破局が訪れるのだが、その顛末は前にも書いたし、よく知られているのでここでは割愛する。
 よさこい節に歌われているのは、純信・お馬の悲恋物語ではなく、実は慶禅の悲しい恋を歌ったのが元になっているということだ。

下の写真 (左)柏島の護念寺、手前が慶禅の墓 (右)慶禅の墓正面
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 脱走ロシア軍艦・土佐漂着 (08.09.23) 

 江戸時代中期の明和8年(1771)6月8日、現室戸市佐喜浜町入木の海岸に1隻の黒船が現れた。 浜の人々は始めて見る黒船に随分驚いたに違いない。
 「室戸市史」は、古い資料を元に次のように当時の住民たちの混乱ぶりを記している。

 「夜中ごろ、 沖の方がごうごう鳴るのを聞いて、年寄り連中は、これはただごとではないぞ、何ぞ変事が起こったに違いない、と 怪しんでおった。明くる朝早々浜辺へ出てみると、ざまあ太い黒船が沖にかかっておる」
 「身の丈7尺ばかりもある大男が6人、みんなが鉄砲を小脇に抱え込んで小舟を漕いでやってきた」 「言葉を交わしたがちんぷんかんぷん、それではと矢立を取り出して筆談してみたが、何が何だかさっぱり通じない」
 「大男たちは3人がかりで担ぐほどの大桶を持ってきた。中の水が塩辛かったので、真水を入れてやると 大喜び。酒を飲ましてやり、船に送り返してやった。本船には70〜80人が乗っていたが、お礼のつもりか衣類 などを投げてくれたという」

 鎖国のさなかとあって、ことの始末は山内藩から江戸幕府に報告されていて、山内藩にその記録が残って いるが、本船は格別の騒動を起すこともなく立ち去っている。
 本船来航の事情や乗員などの詳細は、本船の 事実上の船長であったベニョフスキーが書いた「ベニョフスキー航海記」などによって、世に紹介された。

山内藩作成の「土佐国漂流異国船之図」の「スビャトーイ・ピョートル」号。船の 色は黒、長さ20尋(ひろ)=約36メートル、などの付記がある。(昭和6年・土佐史談に掲載)
 この黒船騒動の主役はベニョフスキー(1746-1786)。波乱万丈の人生を送る。
 ベニョフスキー はハンガリー生まれ。1769年(23歳)ポーランド軍に属してロシア軍と戦い、捕虜となる。脱走に失敗してカム チャツカに流刑となったが、1771年(25歳)仲間70人を率いて地区のロシア軍司令官を殺し、小型 軍艦「スピャトーイ・ピョートル」号を奪い、脱出した。

 土佐・入木の浜に立寄ったのはこの時で、その後奄美大島などを経て、3ヵ月後マカオに到着した。 奄美から長崎オランダ商館長に、ロシアの南進策を警告する手紙「ハンベンゴロ(ベニョフスキー)の警告」を 出しているが、これは後に日本側に伝わり、北辺防備への関心が急速に高まったとされる。

 ベニョフスキーは、マカオからフランス船でアフリカ回りでパリ着。フランス政府に雇われ、マダ カスカルの植民地化を図るが失敗。その後オーストリア、アメリカなどを転々とするが、再びマダガスカルに 至り、今度は原住民を蜂起させてフランス軍と戦って、戦死した(1786年、40歳)。

 ベニョフスキーの死後、「ベニョフスキー伯爵の回想・旅行記」が出版され、一躍ベニョフスキー ブームを巻き起こしたが、もともとこのベニョフスキーは大言壮語癖があり、彼の旅行記などには作り話が沢山 あって、「大ぼら吹き」のレッテルがはられた。もちろん伯爵なども自称に過ぎない。 彼の航海日誌も作為が少なくないので、あまり信用されていないようだが、話半分にしても面白い人物だ。
 世界を駆けめぐったその人物が、土佐の浜に一歩を印したというのも楽しい話ではないか。


  • 浦戸一揆 (08.04.22) 

     浦戸城址にある石丸神社が修復再建された。神社といっても小さい祠である。(写真)
     「浦戸一揆」 により処刑された273人の遺体は、浦戸城の片隅に葬られ、その場所は石丸塚といわれた。後年土地の有志 により祠が建てられ、石丸神社と呼ばれた。

     関ヶ原合戦に敗れた 長宗我部氏の領地・土佐一国は徳川に召し上げられ、新たに領主となった山内氏が占領軍として入国した。
     これに抵抗した長宗我部家臣団「一領具足」は浦戸城に篭城50日、家老たちの裏切りによって、最後まで 抵抗した273人が処刑された。これが「浦戸一揆」である。

     山内一豊は入国に先立ち、徳川の領地受取使・井伊直政の重臣とともに、弟康豊を派遣した。 長宗我部家臣団は、せめて半国の領地安堵を願い浦戸城に立て篭った。しかし、すでに軍事行動は始まって おり、和解の術はなかった。

     占領軍は長宗我部家臣団の上層部と接触、助命と引替えに篭城家臣団の掃討を命じた。これに 呼応したのが、桑名弥次兵衛と蜷川親長。両名は土佐土着の家臣ではなく、長宗我部氏の勢力伸張時に召抱 えた者たちである。当然命を懸けて主家を守る気概はなく、最後まで降伏に応じなかった者273人の首を 刎ね、占領軍に差し出した。首は大坂の井伊直政の許に送られた。

     一豊は浦戸一揆の翌年土佐入りしたが、一領具足の反抗は続き、鎮圧が謀議された。新国主入国 の祝賀行事として、浦戸城下の桂浜で相撲大会を催した。相撲自慢の一領具足も多数参加したが、これを 利用して危険分子を一網打尽に捕らえ、73人を処刑した。「種崎浜の処刑」である。(これはNHK ドラマでも放映されたが、一領具足の心意気を表した、肝心の「浦戸一揆」の場面がないのは画竜点睛。いかにも残念)

     山内氏は長宗我部家臣団を召抱えていない。浦戸一揆を鎮圧した桑名、蜷川両名も他藩あるいは 徳川の旗本になっている。
     その後土佐では小規模の一揆もあったが、一領具足も次第に藩体制(郷士) に組入れられた。(参照:
    山内氏と土佐)

     昭和 の始め頃、石丸神社の傍に浦戸一揆の犠牲者の霊を慰めるため、有志が六体地蔵を建立した。
     長宗 我部氏ゆかりの子孫らで組織する長宗我部顕彰会も、今に活発な活動を続けている。石丸神社を再建した のも同顕彰会である。

    「六体地蔵」
     平安中期以降、寺院・路傍・墓地などに祀られた六体 の地蔵信仰が盛んになった。六体地蔵とは六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)のそれ ぞれにあって、衆生の苦悩を救済する地蔵菩薩のことをいう。
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  • 日銀総裁・川田小一郎 (08.03.21) 

     日銀総裁選びが政争の具になって泥沼化し、遂に副総裁が総裁代行をするという前代未聞の椿事 が起った。日銀総裁の権威も地に落ちたものだ。
     戦後間もなくのころ、一万田尚登という日銀総裁がいた。 戦後米軍占領下の日本の金融行政を牛耳り、8年余ワンマン総裁として「法皇」とも呼ばれた。

     しかしこの「法皇」、初めてではない。明治22年、時の蔵相松方正義は「日銀は近代日本の根幹。 大局を見ることのできる強い総裁を据える要がある。薩長の寄り合い所帯である元老や閣僚に対して、毅然と して意志を通すことのできる人物となると、岩崎弥太郎とともに三菱の今日を築いた川田小一郎しかいない」と、 すでに弥太郎亡き後(明治18年没)閑静生活を送っていた川田を第3代の日銀総裁に据えた。(川田53歳)

     川田は歴代総裁の中で最もスケールの大きい総裁だったといわれる。経済もわかる。係数にも強い。 しかも確かな国家観を持っていた。
     明治23年の恐慌を乗り切り、日銀の中央銀行としての機能を確立 した。日清戦争の資金調達もやった。かたわら機構改革や支店網の拡充、人材の登用など、日銀内部の問題もきめ 細かくさばいた。

     日銀総裁が「法皇」と呼ばれたのは川田の時代から。株主総会の日以外は出勤せず、行員を私邸に呼び つけて指示し報告を受けた。松方の後任の渡辺蔵相も呼びつけたという。
     現在国の重要文化財になっている 日銀本館は川田総裁の時に建設されたものだ。建設の担当者は、当時事業に失敗して浪人中を川田に拾われて日銀 行員となった高橋是清。高橋はのち第7代の日銀総裁となった。川田にはこのようなエピソードが多い。

     川田や、川田の死去後第4代総裁となった岩崎弥之助(弥太郎の弟)、あるいは第7代の高橋是清など、 「通貨の番人」の威厳と重厚さが伝わってくる。
     日銀の独立性は、戦時中の統制下でつくられた「旧 日銀法」で奪われた。しかし平成10年の法改正で、形の上では復権したはずなのだが、政治家はよくよく日銀を 下風に置きたいらしい。
    ――――――――――◇◇◇◇◇―――――――――――

     川田小一郎は、天保7年(1836)現高知市旭町(旧土佐郡杓田(ひしゃくだ)村)の郷士の家に生れた。抜群の 理財の才を藩に認められ、会計方に登用された。維新に際し旧幕府資産であった別子銅山接収の責任者とな った。

     明治3年土佐藩が始めた海運業・九十九商会は、廃藩置県により純民間会社となり、岩崎弥太郎 が社主となった。会計の才を認められた川田もこの時幹部として参加、以後岩崎の片腕となって事業を助けた。

     九十九商会は、明治6年社名を「三菱商会」と改称、海運業に邁進。圧巻は明治10年の西南戦争。三菱 は総力をあげて政府軍の輸送に当り、国策会社の本領を発揮した。
     明治18年岩崎弥太郎死去。川田は 弥太郎の弟・弥之助社長を助け、炭坑、金属鉱山、造船といった近代国家の基幹産業への集中的な投資を推進。 三菱は明治日本と軌を一にして発展、一大産業資本に成長していった。

     川田は、弥太郎の長男・久弥が米国留学から戻り、弥之助の下で副社長に就くのを見届けると、あっさり 三菱を退いて閑居した。しかし松方正義の要請で日銀総裁となり、日清戦争後功績により男爵を授かった。

     明治29年、日銀総裁在任中急病にて死去。行年60歳。
     長男・龍吉はスコットランドで造船を学び、帰国して横浜船渠(後の三菱重工横浜造船所)社長。後に 函館船渠の再建に辣腕を振るった。
    「男爵薯」の 名前の主である。
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  • 武田氏と土佐(その2)香曽我部氏 (07.12.19) 

     香曽我部氏の名は、土佐でも知らない人が案外多い。よく知られていて、旧臣の子孫を称する人が 多い長宗我部氏とは全く別流である。
     長宗我部氏が渡来人の子孫である秦氏(一説に同じ渡来人である 蘇我氏とも)の出であるのに比し、香曽我部氏は歴とした清和源氏甲斐の武田氏の出である。
     ただ後 述のように、長曽我部元親の弟親泰が衰退した香曽我部の養子に入り、兄元親の四国制覇に助力したことから、 長宗我部の支族のように誤解している向きも少なくない。

     香曽我部氏の祖は、甲斐武田信義の子・一条忠頼。その忠頼は奇しくも板垣氏の祖・板垣兼信と 実の兄弟である。
     甲斐源氏の武田氏は、源平争乱の時代には源頼朝に与力して大活躍、大いに威勢を 張った。しかしこれが狷介な頼朝の忌諱に触れて、一条忠頼ほか兄弟の多くが殺されるなど、離散の憂き目 を見るに至った。

     一条忠頼の家臣の中原秋家は、実務に長けていたため頼朝に重用され、のちに香美郡曽我部郷の 地頭に補されて、土佐へ入部した。
     秋家は、かねて忠頼の遺児・秋通を後見していて土佐へ伴ったが、 のち地頭職を秋通に譲って自らは山田の地に移り、山田氏を名乗った。秋通は曽我部氏を名乗ることになり、 以後子孫は土佐の有力国人に成長していった。

     秋家・秋通が土佐に下向した同じ頃、秦能俊が長岡郡曽我部郷に入部した。両氏はそれぞれ曽我部 を名字としたが、のちに区別するため郡名を冠して香曽我部、長宗我部を名乗ることになった。
     香曽我部氏はその後、鎌倉幕府滅亡から南北朝の騒乱期にあって、足利尊氏に従うなど一族を率いて 活躍し、着実に勢力を拡大していった。

     しかし一族の繁栄とともに、多くの庶子家や支族が増え、次第にこれを統制していくことが困難 になって、国力に翳りが出てきた。当時多くの豪族に見られた図式である。
     やがて戦国時代の騒乱期 を迎え、土佐の有力豪族間の抗争が激化した。勢力を伸張してきた長宗我部国親(元親の父)が香曽我部の 勢力圏に侵出し、また東の安芸氏からも圧迫を受け、香曽我部氏は没落必至の情勢となった。

     その情勢に対処して、香曽我部氏は国親の三男親泰を養子に迎え、非情にもすでに一族から迎え ていた養嗣子・秀通を殺すこともあえて行った。
     香曽我部親泰は、兄長宗我部元親を助け土佐統一、 更には四国統一を目指して奮闘した。しかし中央情勢が変化して秀吉の時代となり、秀吉の四国征伐に敗れ て後は兄元親とともに秀吉の軍事活動に従った。

     秀吉が起した朝鮮征伐には、元親に代わり出陣した長男・親氏を失い、ついで自らは長門国で 客死、家督は二男・親和が継いだ。
     親泰が香曽我部に養子入りするについて殺害された秀通の子・泰 吉は、香曽我部氏の血流を伝える者として、親泰の後継に擬せられることもあったが、結局重臣となって 香曽我部氏を守ることとなった。

     後年、関ヶ原の役ののち長宗我部氏は改易の憂き目をみるが、泰吉は井伊直正を通じて「香曽 我部家は長宗我部盛親とは別心である」旨を申し出て、家康から香曽我部家の存続を取りつけた。
     香 曽我部家を継いだ親和は土佐を去り、のち堀田氏に仕えて佐倉へ移っていった。現代、香曽我部姓を名乗る 人はこの子孫なのだが、血脈からは長宗我部氏の流れとみるべきだろう。

     香曽我部氏が土佐を去った後も、泰吉は土佐に残り、中山田を名乗った。名字こそ変ったが、 香曽我部氏直系の流れは土佐に続いている。


  • 武田氏と土佐(その1)板垣退助 (07.12.18) 

     今年のNHK大河ドラマ「風林火山」に、武田信玄の重臣・板垣信方が重要人物として描かれている。 山本勘助を信玄に推挙したのも板垣信方である。
     板垣退助が戊辰戦争で土佐藩兵を率いて甲州路に 入ったとき、従来の乾姓から祖先の板垣姓に復した話は、前に書いた。(
    「板垣退助と自由民権」参照)

     その板垣氏がどのような経緯で土佐に来たのか、興味があって少し調べてみた。
     すると面白いことに板垣氏だけでなく、同じく大河ドラマに出ている馬場信春の子孫も土佐に来ている ことや、古くは源平時代に土佐に来た一族も、歴史に名をとどめていることなどがわかった。岩崎弥太郎の 先祖が武田氏だということも初めて知ったが、これらのことは稿を改めて紹介する。

     板垣氏は、甲斐源氏宗家武田氏の祖である武田信義の三男板垣兼信に始まる武田の支族である。 現在の甲府市にあたる一条荘に領地を持ち、代々武田氏に仕えた。

     武田氏は信玄の祖父信縄の頃ま では国内乱脈を極め、家中も内訌が絶えなかった。そのような甲斐を統一したのが、信玄の父信虎である。 板垣信方は信虎に従い多くの武功があり、信虎に信任されて嫡男勝千代(後の信玄)の傅役となった。

     その後、乱行の父を駿河に追放し家督を継いだ信玄により、信方は武田家最高職に就き幾多の 武功があったが、村上義清との上田原の戦いで戦死した。
     信方の死後、家督は嫡男の信憲が継いだが、 不行跡のため武田家から追放され、のち誅殺され板垣の嫡流は絶えた。

     信憲の子の正信は、各地を転々としていたが、関ヶ原の戦いでは、山内一豊の重臣乾彦作に陣借り をし、その後彼の養子となり山内氏に仕えることとなった。
     このようにして、甲斐源氏の血流を受け継ぐ 板垣氏は、乾正信を祖として土佐に定着した。乾退助(当時220石)は正信10代の子孫である。
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  • 山内容堂 (07.06.27) 

     最近、山内容堂(1827〜1872)に興味を持って少し調べている。何かの機会に、幕末激動の頃の彼の言動は、 その出自が大きく関わっているのではないか、ということを知ったからだ。
     藩主の座とは無縁の末座の分家 に生まれ、一生捨扶持生活の身分に甘んじねばならぬ境遇の中で、彼はどんな思いで成長し、また藩主の座に就い たのであろうか。

     後年藩主に就任したのち、彼は次のように述懐している。
     「私は読書も好まず、酒ばかり飲んで無為 の日々を過ごしてきた人間だ。はからずも藩主に就任したが、あらゆる政治の問題を処するに当り、色々迷いが生じ 決断が鈍くなり、即決することができなかった。若いころ酒色に溺れ無為に過ごした日々の過ちを悔い、読書の大事 さを知ったのである」

     後年「四賢侯」の一人として、詩才豊かな知識人であった容堂。さすが藩主就任に当りこれだけの 決意を表明し、事実自ら知識の習得に努めるとともに、広く人材を登用して藩政改革にも熱心に取り組んだのである。

     彼は山内分家の千五百石の家に生まれた。父は豊著(とよあきら)(10代藩主豊策(とよかず)の4男)、 母は妾の平石氏。豊信(とよしげ)と称した。
     13代藩主豊煕(とよてる)が、嘉永元年(1848)急病で死去 した。後継は弟の豊惇(とよあつ)を末期養子として幕府に届け出て認められた。しかしその14代藩主豊惇も、 将軍お目見えが済まないうちに僅か在職12日で急死した。その弟の豊範(とよのり)は、まだ3歳の幼児である。

     「お家断絶・領地没収」の事態ともなった土佐藩は、急遽豊範に代る藩主候補を探さねばならなくなり、 白羽の矢が立ったのが豊信のちの容堂である。豊信22歳。
     時の幕府老中首座は阿部正弘。土佐藩縁戚である 薩摩・島津家や親交のある宇和島・伊達家、福岡・黒田家などからの強力な後押しを得て、ようやく豊信の15代藩主 就任が認められた。
     まさに異例中の異例であり、豊信のちの容堂が幕府の恩義に感じ、最後まで幕府を擁護 したのは十分に理解できる。

     藩主の座に就いた豊信は、門閥や守旧派の重臣を退け、若手有能の士を登用して積極的な藩政改革に 乗り出す一方、開明派諸侯とも親交し、幕政改革にも積極的に発言した。
     13代将軍家定の後継をめぐり 大老井伊直弼と衝突して、安政6年(1859)自ら藩主の座を前藩主の弟豊範(とよのり)に譲り隠居、容堂 (はじめ忍堂)と号した。豊信32歳。豊範13歳。
     隠居直後、井伊大老により謹慎を命ぜられ、以後 「文久の政変」(七卿失脚)に至る約4年間は、表舞台から姿を消した。

     さて謹慎の解けた容堂が、隠居の身でありながら真っ先にやったのは藩政の奪還。容堂謹慎中に、股肱で ある参政・吉田東洋が土佐勤皇党に暗殺され、政権は勤皇党首領・武市瑞山が握っていた。容堂は吉田東洋暗殺の 顛末を知るや、土佐勤皇党の弾圧に乗り出して瑞山ほか主だった者をを処刑、党員は脱藩して土佐勤皇党は潰滅した。

     土佐で容堂の人気が薄いのは、有為の若者多数を殺したのが大きな理由だ。だが聡明な彼があえてこの 行動に出たのは、勤皇倒幕運動を階級闘争と見て、倒幕即下級武士社会の現出、即ち大名政治の崩壊を意味するもの と考え、革命の芽を摘み取ろうとしたのではないかとみる。
     成人するまで市井の生活を経験した彼は、 世の中の機を見るに敏なところがあり、一種の自己防衛本能だったのだろう。

     機を見るに敏といえば、「大政奉還の建白」に象徴される。しかし彼の真骨頂は「小御所会議」での挙動だ。
     すでに密かに発せられた大政奉還の大号令を薩長・岩倉らの陰謀と看破し、西郷らによる暗殺の危険を冒して まで、将軍を中心とした列侯会議を主張した。最後まで将軍を擁護した根性は、坊ちゃん大名には真似できぬことだ。

     のちに鳥羽伏見の役が起こったとき、容堂は派遣する土佐藩兵の指揮官・板垣退助に、「これは薩長と 会桑の私闘なり。戦をしてはならぬ」と命じた。
     この”いごっそう”ぶりは容堂の面目躍如たるものがあるが、 もとよりこの期に及んで日和見を許されぬことは百も承知。その後の板垣指揮の土佐藩兵の無益な戦闘排除は、史実に 示す通りである。

     維新後は当初内国事務総裁などの職に就いたが、薩長閥やかつての家臣などと馴染めず、明治2年には すべての職を辞し、酒と侍妾相手に気ままな隠居生活を送ったが、明治5年脳溢血で逝去。享年46歳。

     昭和7年、明治維新の功績を顕彰するため、別格官幣社・山内神社を創建し、15代藩主山内豊信 (容堂)、16代藩主山内豊範が祀られた。
     前大戦により、山内神社も山内家歴代藩主を祀る藤並神社もともに 戦災焼失。新たに初代一豊から16代豊範に至る全藩主を合祀して、現在の山内神社が造営された。



  • 歴史の道・野根山街道 (06.02.21) 

     今、旧「野根山街道」が静かに注目されている。この街道は、自然に囲まれた山間道で、「四国の道・自然遊歩道」 として辿る人も多いのだが、過去様々な往来の歴史があり、「歴史の道百選」にも指定されている。

     阿波との国境・甲浦(かんのうら)港からすぐ山に入り、野根山越えに35キロ余り、太平洋岸 の安芸郡・奈半利(なはり)に至る道が「野根山街道」。奈良時代、国都と土佐国府を結ぶ官道として、養老2年(718年) 建設された。
     当時、この「野根山街道」は土佐に入る唯一の往還道で、他には沿岸をたどり直接国府の近くに 至る海路も利用された。紀貫之は往復とも海路を利用している。

     今回の大河ドラマ「功名が辻」では、山内氏の土佐入国経路は、大坂から海路浦戸へ直行ということ だが、史実は、土佐の東端・甲浦に上陸して野根山街道を経由、海岸沿いに陸行して浦戸に入城している。
     実際に考えてみても、占領地の事情も何もわからない状態で、長宗我部の本城・浦戸城に、船で直接乗りつけるのは、 誠に無謀な話で歴史上も例がない。
     海路と陸路では、山内氏の占領戦略に大変な違いがあるのだが、歴史もの 小説やドラマの歴史考証はこの程度のもの。埒外におかれた「野根山街道」の地元民も少々戸惑っているようだ。

     土佐の東部・安芸郡一帯は、長宗我部氏の影響力の強い土地柄である。長曽我部軍団は「野根山街道」を越えて 阿波へ進出した。
     関ヶ原戦に敗れた長宗我部氏は領地を没収されたが、それぞれの土地に根づいている家臣団には 行き先がなかった。これら旧家臣団が大規模の反乱を起こせば、今度は山内氏が新領地を没収されかねない。山内一豊が 最も頭を痛めたのは、無傷の長宗我部旧家臣団の処遇である。

     山内氏が入国後、果たして浦戸一揆始め多くの小規模反乱事件があったが、その鎮圧にてこずった山内氏は、 長宗我部氏の旧家臣団の懐柔策をとり、主な者を郷士に取り立てて郷村の間接支配体制をを敷いた。しかし、旧家臣団 の勢力台頭を恐れた山内藩は、藩体制の中では最下級の武士として彼らの発言権を封じ、著しい差別と抑圧政策を行った。 (参照:
    「山内氏と土佐」

     これが後に、郷士団の反山内、倒幕運動へと結集されていく。龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎も、 「野根山街道」から脱藩し倒幕運動に参加した。彼は街道沿い・北川村の郷士・庄屋の出である。
     藩主・山内容堂 は、土佐勤皇党の活動を非として大弾圧を行った。武市半平太ほか多数が投獄され、土佐勤皇党 は事実上潰滅した。

     これに不満を持った安芸郡一帯の郷士団23人は、「野根山街道」に集結して武市らの 助命嘆願をしたが、容堂はこれを藩に対する反逆とみなし討伐軍を差し向けた。
     郷士団は「野根山街道」から阿波 に逃れたが捕らえられ、奈半利河畔で全員斬首され、首は高知城下に晒された。武市らも後に死罪となった。
     土佐の若者 を多く殺した山内氏の仕打ちは、権力者の傲慢と言うしかない。私の山内嫌いの気持ちも理解してもらえるだろう。

     「野根山街道」はすでに往還道の役目を終えた。今は街道に並行して国道493号が走り、自動車専用道路も 計画されている。旧街道は、自然を楽しむ人以外には通る人はなく、壮大な歴史を抱いたまま静かに眠っている。

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  • 龍馬の師・河田小龍 (06.02.05) 

     河田小龍(1824-1898)。土佐の人。狩野派の画家ながら日本各地に遊学し、外国事情にも通じて、幕末土佐の 志士たちに大きな影響をもたらした。

     小説などでは、坂本龍馬が勝海舟から外国事情を聞き、海防の必要性 を説かれて、尊王攘夷論を翻したとある。だが、事実は大分異なり、龍馬・海舟の初対面の8年前に、龍馬は小龍の 教えを受けて肝胆相照らし、のち龍馬が海援隊を組織した際には、小龍門下生を多数送り込んでいる。
     しかし、龍馬が海舟の指導を受けて航海術を学び、のちの活動の基を固めたのは事実で、海舟なくして後年の 龍馬があり得なかったかもしれない。

     幕末、開明思想家・実践家として高名な横井小楠を、龍馬の行動に大きな示唆を与えた後援者とするなら、河田 小龍は龍馬の目を世界に向けさせた教師とでもいうべきであろうか。
     龍馬を含めて、小龍・海舟・小楠の4人に 共通しているのは、いずれもが行動力抜群で日本の将来を見据えていたこと。単なる悲憤慷慨の徒ではなく、 それが龍馬をして心を通わせた拠りどころではなかったか。

     河田小龍は土佐藩の下士の出。幼少より才気煥発、画才にも優れていたのを、上司の船奉行(のち執政)の 吉田東洋に見出され京都狩野派に入門。しかし勉学の念やみがたく学塾へ転じ、のち江戸や長崎に遊学した。特に 長崎において外国の空気に触れ、海外情勢に視野を広めて帰国した。

     帰国後すぐ画塾「墨雲洞」を開き、絵 の傍ら西洋事情なども教えた。藩内随一の新知識者とあって門を叩く者も多かったが、階級差別の激しい土佐の 風土ゆえに、門人は下級武士や庶民であった。

     そのためか塾はのびのびとした雰囲気で、自由討論も活発で あったという。のち土佐勤皇党の首領になった武市半平太も門下生で、彼は狩野派の絵を幾つか残している。
     龍馬 の義兄・岡上樹庵(姉・乙女の夫)も当時藩医であったが、この塾に通って絵を習っていた。このことが、のち龍馬と 小龍とを結びつけることになる。

     河田小龍の名を一挙に高めたのは、ジョン・万次郎事件である。
     嘉永4年(1851)正月、琉球に帰国 した漂流漁民4人のうちの1人がジョン・万次郎で、土佐に送られてきた時は漂流後11年を経過していた。その取り調べ を吉田東洋から命ぜられ、小龍は自宅へ万次郎を連れて行き起居をともにして、11年間のすべてを聞き取った。この時 小龍29歳、万次郎24歳である。

     その聞き書きは「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」5巻にまとめられたが、内容は漂流の経過を始め、アメリカでの生活、社会事情、 産業事情や文明機械、造船技術、航海術など多岐に及び、それぞれ見取り図やカナ書きの名称が付されている。
     喜んだ藩主山内容堂は、これを江戸に持参して見せびらかせたので一躍有名となり、のち万次郎はペルリ来航に より混乱した幕府の通訳官として、幕府直参の身分を得たというオマケまでついた。

     坂本龍馬は、嘉永6年(1853)剣術修業のため江戸に出たが、この時ペルリの来航に遇い品川警備について いる。ペルリ艦隊を直接見たかどうかはわからないが、世間知らずの18歳の少年はさぞ驚いたことだろう。これが龍馬の 外国に対する初体験になった。
     翌年帰国して義兄・岡上樹庵からジョン・万次郎のことを聞き、河田小龍を訪問したのが二人の以後の交流の最初 である。この時龍馬19歳、小龍30歳。

     龍馬は小龍から改めて、日本がいかに西洋諸国から遅れているかを聞かされ、国防力増強のためには、殖産・ 交易を充実する必要を考えた。龍馬が世界に目を向けた直接のきっかけである。
     龍馬はその後数年経って勝海舟に 出会い、これの実践の師として海舟の指導を仰いだのだ。決して刺客として海舟を訪問したのではない。

     勝海舟は、龍馬と会う前すでに幕艦「咸臨丸」の艦長として、アメリカまで往復している。乗せていた使節団 の中に中浜万次郎が通訳として同行していて、海舟もアメリカ滞在中、随分と万次郎の世話になっている。龍馬と万次郎 が出会ったことはないが、人を介して色々と縁があったものだ。
     海舟と龍馬の間で、万次郎について共通の話題と して上がったかもしれない。

     小龍は、その後も歴史の表舞台に立つことはなかったが、龍馬とは常に音信を交わし、龍馬の許に自分の門人 の多くを送り龍馬の活躍を扶けている。小龍の「墨雲洞」の自由討論の気風は、のち明治維新後の土佐の自由民権運動 に息づいている。



  • 七人みさき (05.11.30)    −長宗我部氏の滅亡と”七人みさき”の怨霊ー 

     土佐にも怪談・怨霊話は結構多い。”七人みさき”もその一つ。少し前に、京極夏彦原作の「怪・七人みさき」という映画が あった。私は見ていないので内容はよくわからないが、何でも土佐・室戸岬で水死した七人の亡霊が人をとり殺す怪談らしい。
     しかし、本稿で採り上げる”七人みさき”は、「岬」ではなく、「御先」(みさき=御先人、つまり貴人の先導をする 供人)の怨霊のこと。四百余年前の長宗我部時代からの伝承で、こちらが本家のようだ。

     南海の雄・長宗我部氏の凋落が始まったのは、元親の長男・信親が秀吉の島津征伐に従軍、豊後・戸次川の戦で敗死してから である。全幅の信頼を寄せていた世継ぎを失ったうえの敗戦で、気落ちした元親は往年の覇気を失い、些細なことで感情が激することが多くなった。
     元親の 甥・吉良親実は剛直な武断派、筆頭家老の文治派・久武親直と事々に意見が対立、家中を二分して確執が絶えなかった。これ が後継問題をめぐるお家騒動に発展した。

     長男信親死後の後継問題で、吉良は三男の津野親忠を推し(二男はすでに死去)、久武は四 男・盛親を推した。盛親は凡庸であったが、元親がこれを溺愛して後継に考えていることを、久武は知っていた。
     執拗に親忠の擁立を迫る吉良が、「兄を措いて弟が家を継ぐのは、人倫に悖る」と直諫するに及び、元親は立腹して 吉良に死を命じ、居城を攻めて吉良氏を滅ぼした。一説に、吉良の謀反を讒言した久武の謀略であったという。

     恨みを残して死んだ吉良親実の怨霊が、領内に現れるのはこれからである。これを城下の人々は”七人みさき”と 言って怖れ慄いた。七人というのは吉良七人衆のことで、居城落城に際し元親軍と戦って主に殉じた武者たちである。
     元親は後にこれを悔い、居城の近くに吉良神社(土佐市に現存する)を建て親実を弔ったが、親実の怨霊はその後も 執拗に長宗我部氏に取り憑いた。

     元親の跡を継いだ盛親は、関ヶ原敗戦後土佐に帰ったが、家老・久武の進言で江戸に伺候し家康に許しを乞うた。 この時、土佐を二分して半分を盛親に安堵し、残りを家康に近い三男・津野親忠に与えるとの噂が立った。
     ここでまた ”七人みさき”が久武に現れた。錯乱した久武は密かに親忠を殺し、盛親の全領安堵をはかる暴挙に出た。
     これを知って激怒した家康は、領地のすべてを没収し、盛親を追放した。盛親は後に大阪の陣に参戦するが敗北、捕らえられて斬首され、ここ に長宗我部氏の跡は絶えた。

     領主が重臣を殺した話はザラにあるが、大概は後に領主家も滅亡している。家中を掌握しきれていな かったのであろう。英雄元親といえども、長子信親の死によって心に隙を生じ、この轍を踏んだのである。
     怨霊話は、当時は 真面目に信じられたかもしれないが、恐らく当て推量か噂話に、尾ひれが付いて伝えられたものだろう。



  • 山内一豊の妻 (05.10.17) 

     山内一豊の妻「千代」(一説に「まつ」)は、名馬が欲しい貧しい夫のため黄金を差し出したという、内助の功の 美談の主として有名。この話は、後年編纂された新井白石の「藩翰譜」に載せられていたのが根拠となり、江戸時代中期 にはすでに有名になっているそうだが、山内家の資料の中には一切記録がなく裏付けられていない。

     差し出した金 (10両)は 千代が嫁ぐとき、夫の大事の時に使えと親が持たせてくれた持参金だといわれている。千代の実家は、近江浅井家の旧臣・ 若宮氏とされているが、最近の研究では美濃郡上の城主・遠藤氏が正しいのではないかともいわれている。いずれにしても 実家はかなり裕福であったのだろう。
     後年、美談として伝えられる中で、この金は千代が貧窮の中で蓄えたヘソクリ だといわれている面があるが、これは話を美化して質素倹約の美徳を敢えて付加した虚説に過ぎない。

     ところでこの話の真偽について、専門家の研究によると色々疑問が出て いるそうだ。
     この話に出てくる信長の「京都馬揃」が実際に行われたのが天正9年(1581)で、一豊はすでに秀吉の 臣となって10年余りを経過しており、身分も多くの武勲により二千石取りの大身になっている。

     戦国当時は、武勲を たてるなどとかく目立つ行為によって主君に認められ、立身出世するを善しとする気風があったのは確かだが、一応出世コース に乗っている一豊に、馬揃で目立つ行為をする必要があったのかどうか。「内助の功」の話の真偽は不明である。

     千代は、関ヶ原戦後夫に従い土佐に入ったが、5年後夫が死去、京都に居を移し剃髪して 「見性院」と称した。土佐にいたのは数年である。一豊との間に子がなかった(一女があったが、幼児に死去)ため、藩内 に血縁がおらず、土佐を去った一因とも考えられる。
     京都にあっては秀吉未亡人・高台院と親交を結び、土佐藩のアンテナの 役目を果たしたという説もあるが不明。晩年は、歌や書画に親しみ安穏な生活であった。夫の死の12年後京都で亡くなった。

     このほど高知県が山内家から購入した国宝「古今和歌集・高野切」は、千代が京都で買い求めたものといわれる。



  • 黒岩涙香と森下雨村 (05.09.21) 

     先頃、県立文学館で二つの企画展があった。
       ”反骨の巨人”「黒岩涙香展」
       ”探偵小説の父” 「森下雨村展」
     共通項は「探偵小説」。われわれが幼い頃から親しんだ探偵小説を世に広めた二人。涙香は探偵小説の元祖と 呼ばれ、雨村は探偵小説の父と呼ばれる。

    「探偵小説」
     この言葉は、明治期に Detective stotry の 訳語として生み出されたが、戦前の日本では推理小説だけではなく、犯罪小説、怪奇幻想小説、冒険小説など似通ったジャンル を包括する語として使われていた。戦後になると推理面を重視しはじめたため、「推理小説」という言葉が一般的になって、 その他のジャンルはそれぞれに応じた言葉が使われるようになった。今は「探偵小説」の語も死語になってしまった。

    黒岩涙香 (1862−1920)
     文久2年現・安芸市川北の生まれ。大阪・ 英語専門学校のち慶応義塾に学び、明治12年から絵入自由新聞、次いで都新聞に勤めたが、編集方針で社長と対立し退社した。
     明治25年「萬朝報」を創刊、権力に阿ねず社会悪を追及して自由民権運動にも大きな影響を齎し、 生涯反骨の新聞人として の矜持を貫いた。
     涙香が自ら翻訳・翻案した探偵小説「幽霊塔」「岩窟王」「噫(ああ)無情」を萬朝報に連載して 大好評を博した。当時はリアリズムを重視した純文学全盛の頃で、波乱万丈に満ちたこれらの小説は、いかにも新鮮興味を 読者に与え一挙に萬朝報を東京一の大新聞にのし上げた。
     涙香はまた、趣味の和歌や漢詩、カルタ、囲碁など 大衆娯楽の普及にも大きな貢献があった。大正9年没、58歳。(奇しくもこの没年には、博文館が「新青年」を創刊して 森下雨村が初代編集長となり、のちに探偵小説の普及に尽力することになる。)
     貫いた反権力、新聞小説を通じて大衆 への文学の普及など、近代日本の新聞史上残した功績は大きい。
     萬朝報の編集局には、涙香の言葉「目に王侯なく、 手に斧鉞あり」が大書されていた。

    萬朝報
     明治25年、30歳の青年黒岩涙香によって創刊された。「よろず重宝」をもじって名づけ られ、簡単・明瞭・痛快をモットーとした。他の新聞が10ページあまりなのに対して4ページに圧縮、庶民が求めやすい 価格をつけ、趣味と実益を兼ねた家庭欄や英文欄も設けた。幸徳秋水内村鑑三などの論客に格調高い論説を書かせる など、社会悪を徹底追及する姿勢と、また涙香の探偵小説などで人気を博した。
     日露戦争前の明治36年頃、開戦か非戦で国論が二分され大論争となったが、この時非戦を固持する幸徳秋水・ 堺敏彦・内村鑑三などの論客が、涙香と袂を別って退社。
     これを機にさしもの萬朝報も次第に衰微し、のち昭和15年 東京毎夕新聞に合併された。

    森下雨村 (1890-1965)
     明治23年高岡郡佐川町の生まれ。早稲田英文科卒後、やまと新聞記者を経て 博文館に入社。「冒険世界」の編集後、大正9年「新青年」に改題、その初代編集長となる。
     当時すでに黒岩涙香による 海外探偵小説の翻訳ものが普及し、雨村もこれに魅せられた一人であったが、日本人による創作はまだまだ未開拓の 状態であった。雨村は「新青年」を通じ、江戸川乱歩や横溝正史などに発表の舞台を提供し、彼らを一流の探偵小説作家 に育てあげた。
     当時の探偵小説作家で雨村の庇護を受けない者はいなかったほどで、大正から昭和にかけての探偵文壇 に不朽の功績を残した。彼自身も、「樽」「月長石」などの翻訳小説や「謎の暗号」「丹那殺人事件」などの創作を書き、 人気作家でもあった。
     戦争のさなか、博文館を退社し父の待つ郷里佐川町に帰り、以後、随筆を書く傍ら、農と釣りに 親しみ平穏な余生を送り、自宅で没した。昭和40年、75歳。



  • 純信・お馬 ―悲恋の物語― (05.09.10) 

     前回の「五台山・竹林寺」の中で、ちょっと触れた「純信・お馬」の悲恋物語を少し紹介しよう。
     「よさこい 節」は土佐の代表的民謡で、全国的に愛唱されている座敷唄。歌詞の終わりの「よさこい、よさこい」というのは、「今晩 おいで」の意味である。
     この歌が広まったのは、安政2年(1855)の「坊さんかんざし事件」が歌い込まれてから。 幕末、京都で活躍していた土佐の志士たちが酒を飲むほどに歌ったこの歌は、当時の流行歌になったという。

     お馬は色白の美しい乙女であったといわれる。五台山麓の鋳掛屋新平の娘で、武家奉公に出たあと親元に帰り、家の 手伝いをしていたが、竹林寺や脇寺の洗濯ものを届けにしばしば寺へ出入りするうちに純信を見初め、やがて純信もお馬を 愛するようになって、二人は人目を忍ぶ仲になった。
     純信は愛のしるしとして、かんざしをお馬に贈ったのだが、色恋は隠し 通せぬもの、たちまち世間に知られるようになった。

     一説には、同じ坊に住む「慶全」という僧がお馬に横恋慕し、 かんざしを買ってお馬に贈ったが、見向きもされなかったことに嫉妬して密告をしたともいわれる。
     かんざしを買った のはどちらか、また事実かどうか真偽のほどはわからないが、肘鉄を喰らったのが慶全であるのは間違いない。

     純信は「不倫の破戒僧」として謹慎処分を受け、お馬は寺への出入りを禁止された。しかし修業一途の純信に一旦 火のついた恋の炎は燃え盛り、遂に駆け落ちを決意するに至る。
     稚児姿に扮装したお馬を連れて、北山越えに他国 へ脱出をはかった。しかし事の次第を知った藩庁は直ちに追っ手を派遣し、二人は琴平で捕らえられた。北山の関所破りの 罪は重い。厳重な取調べを受け、二人はつながれて高知城下で3日間さらし者にされた。
     その後二人に課せられた 罰は、純信は国外追放、お馬は安芸川から以東へ追放と、二人が生涯会うことのできぬ厳しいものであった。
     時に安政2年5月、純信37歳、お馬17歳

     これで一段落ついたに見えたが、一旦川之江に落ち着いた純信は、お馬恋しさに行商人に身をやつし、国境を越えて お馬の所へ忍んできた。
     しかしこれは直ぐに露見し、純信は再び国外追放に、お馬は今度は仁淀川以西へ追放、 須崎の庄屋預かりとなって厳しい監視下に置かれ、この後二人は再び会うことはなかった。 

     純信はその後、岡本要と改名して生涯を川之江の地で暮し、寺子屋の師匠を続けて、再び土佐の地を踏むことなく、 明治21年69歳で亡くなった。川之江の人々は、のちに「純信堂」(写真左)を建て彼を偲んでいる。
     なお、純信の故郷の現土佐市・市野々にも、土地の人々が建てた「純信堂」があり、国道55線から見ることが できる。

     お馬は須崎で暮すうち、近くの大工寺崎米之助に見初められて結婚し、2男2女を得て平穏な家庭の主婦となった。 明治18年東京・滝野川に移り住み、その後はこの地に暮し明治37年65歳で生涯を閉じた。
     北区・豊島の西福寺 に葬られ、同寺に「お馬塚」(写真右)がある。「坊さんかんざし」の由来記も建てられている。 



  • 五台山・竹林寺 (05.09.07) 

     高知市の東郊、浦戸湾を隔てて海抜139mのこんもりした五台山がある。付近にあまり高い山がないので、この山頂から の眺望はすばらしい。
     山上の展望台から見渡すと、眼下に浦戸湾が一望され、南の方遥かに湾口・浦戸城跡近辺の山々 が見える。西と北は高知市の市街地のほぼすべてが眺望でき、遠くには四国山地の山々が連なる。市街地の夜景(写真)の美しさは 函館のそれに劣らない。

     展望台一帯は五台山公園となって、桜・つつじなど花の名所でもある。展望台の背には、名刹・ 四国31番札所・五台山竹林寺牧野植物園があって、山上は年中賑わいを見せている。
     以前には浦戸湾を跨いで ケーブルがあったが、マイカー時代になって登山道路も改修され、今はもう無くなった。

     竹林寺は、神亀元年(724)聖武天皇の勅願により行基が創建した土佐屈指の古刹である。聖武天皇は文殊菩薩の 聖地・中国五台山で文殊菩薩に会う夢を見て、国内で五台山に似た山を探し出すことを行基に命じた。
     諸国を巡り 歩いた行基は、遂に僻遠の地土佐に至って漸くこの山を見つけ寺を建立し、栴檀の木に本尊の文殊菩薩を自ら刻んで安置した のが竹林寺の創まりである。
     その後弘法大師(774〜835)が、修業の地土佐を巡錫中この地に立ち寄り堂宇を補修 し、のち札所に定められた。弘法大師が座して修業した石が、今も寺域に残っている。

     爾後およそ1300年、 法灯は消えることなく現在に至っているが、特に中世戦乱の時代には荒廃にまかせられるなど幾多の変遷があったようだ。
     竹林寺がほぼ現在の形を整えたのは、江戸時代初期の頃。信仰に篤かった山内家2代藩主忠豊がこの寺に帰依し、 堂塔を再建するとともに、名僧知識を多く集め、学山として土佐の信仰や文化の中心地としたことによる。

     本堂は、参道から石段を上がって2層の仁王門(写真左)をくぐり、更に石段を経た広場にある。 文殊堂ともいわれる。慶長年間焼失後再建されたもので、本尊の文殊菩薩像とともに国の重要文化財に指定されている。
     五重塔(写真右)は、本堂から少し上がったところにある。かつては三重塔であったが明治32年 台風で倒壊、昭和55年現在の五重塔に再建された。総檜造りで、高さ31.2m。木造の塔は国内でも珍しい。

    補逸1 「夢窓国師の庭園」
     竹林寺・客殿の西と北側に広がる庭園は、夢窓国師の作と伝えられている。 夢窓国師は文保2年(1318)から2年間土佐を訪れて五台山山麓に庵を結び、竹林寺に庭園を築いた。昭和9年名勝の 指定を受けており、土佐3名園の一つに挙げられている。

    補逸2 「文殊の知恵」
     本尊の文殊菩薩に あやかって、少しでも頭が良くなりますようにと参詣人が絶えない。特に受験期になると、潮江天満宮とともに 合格祈願の受験生の参詣が多くなる。
     ちなみに潮江天満宮は、土佐に配流されていた菅原高視が、父道真を偲んで 土佐の地に創建したもの。(前掲
    「遠流の国土佐」参照)

    補逸3 「坊さんかんざし」
     民謡よさこい節の簪を買った坊さんは、竹林寺の脇坊・妙高寺の修業僧純信で、 恋の相手おうまさんもともに実在の人物。引き裂かれた悲恋物語はロマンを誘う。
     妙高寺は明治初年の廃仏毀釈 に遭い廃寺となったが、その跡地は現在の牧野植物園である。  

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  • 潔い武人・森中将 (05.06.22) 

     最近の地元紙に、森中将の長女(大阪府在住)が帰高して郷土史家と対談した記事が出ていた。「日本で一番長い日」 という映画があったのをご記憶であろう。昭和20年8月15日、あの日に近衛第一師団司令部で斬殺された師団長が、 森赳中将である。遠い記憶の郷土の先輩を思い起こし、この機に少し書いてみる。

     終戦前夜、宮城警衛の直接責任者である森中将は、徹底抗戦派の不穏な動きを察知していたが、彼らの暴走 を食い止めるには自分が体を張る以外にないと、すでに覚悟を決めていたようで、軍司令官田中静壱大将に相談し後事を 托している。「陛下のご命令以外には 私は動かない」と、陸軍省の中堅将校らの部隊出動要求をきっぱりと拒否した。

     森中将の長女と対談した郷土史家は、「中将が体を張らなければ、戦争が長引いていたかもしれない。功績は はかりしれません」と。しかし長女は「先の大戦で多くの方々が亡くなられました。父は職業軍人。家族は死に場所を得たと 思っております。…父の死は、平和の時代が始まった終戦の日の一場面であったと思っております」と。

     森 赳:高知市出身。陸士28期(恩賜)(騎兵)、 昭和2年陸大(39期)卒、関東軍・第1軍・第6軍・第19軍などの参謀、憲兵司令部本部長などを経て昭和20年近衛 第一師団長

     明治4年に誕生した 御親兵が翌年近衛兵と改称、後に明治24年に近衛師団が創設された。明治11年には、西南戦争の論功行賞に不満を持つ 近衛兵が、上官を殺害する「竹橋事件」を起こしている。近衛兵創生当時と、師団終末時に似たような事件に遭遇したが、 軍の歴史には数多くの戦史とともに、また幾つかの裏面史も見られるのである。
     竹橋に在った当時の近衛師団司令部は、 現在国立近代美術館工芸館になっている。

     作家の村上兵衛は陸士57期。当時予科士官学校の区隊長をしていたが、 終戦翌日、疎開先の軽井沢廠舎を抜け出し東京へ出た。しかしこの時事件は、抗戦派の自決によってすでに収束され、若輩の彼にはさして出番がなかったようだ。
     ただ、彼の兄・村上稔夫大尉は、当時近衛歩兵第一聯隊の大隊長であったので、抗戦派からの誘いも激しく、事件当日師団長の説得が行き詰まった時、 遂には彼の剣道の腕前を見込んで師団長殺害の実行を依頼された。しかし彼は「直属上官に刃は向けられぬ」ときっぱり 断った。後彼は弟に、「やれやれ命拾いしたよ」としみじみ述懐したという。事件をめぐるエピソードの一つである。
     このことは、村上兵衛の小説「桜と剣ーわが三代のグルメット」に詳しく書かれている。

     森中将の墓は高知市筆山墓地にあるが、この春訪れた人が、墓地の入り口もわからないほど草が生い茂り、訪れる 人もない様子に驚いたという話を聞いた。忘れ去られていくのだろうか。



  • 倉橋由美子 (05.06.16) 

     先日、テレビニュースで訃報を聞いて驚いた。高校(注1)の後輩でもあり密かに応援していたのだが、近年は体調がすぐれ なかったようで創作活動も少なく、存在も忘れがちになっていた。
     彼女の名を知ったのは、もう45年も前彼女が 大学在学中に、「パルタイ」(注2)で文壇に鮮烈にデビューした時である。多くの評論家から激賞され芥川賞の候補にもなった。
     後に室生犀星が「あんな文章めったな才能じゃ書けるもんではない。あれは20年か30年に一人という天才だ」 と絶賛した話が伝わっている。この作品で彼女は女流文学者賞を得た。
     (注1)土佐高校29回生(昭和29年卒業)。同期に 俳優・北村総一郎。
     (注2)「パルタイ」は 革命政党を風刺した作品。(パルタイはドイツ語。Party=組織、党)

     その後アメリカ留学を挟んで、「蛇」 「密告」「聖少女」「反悲劇」「アマノン国往還記」(泉鏡花文学賞)その他多数の作品を発表。ベストセラーになった 「大人のための残酷童話」は、若者の心もとらえ現在も息長く読まれている。
     抽象的、寓話的と評される作風で、 独自の世界を描き出しているが、カフカ、サルトルなど西欧現代作家のスタイルに影響を受けつつも、仏文学はもとより 米文学、中国文学など幅広い教養に裏打ちされて、いずれも重厚な作品である。

     文芸評論家の清水良典は、「反」 の文学者だという。倉橋文学には幾度となく、「反悲劇」「反小説」「反時代」など「反」の字が冠せられたが、 彼女は批評精神を生涯貫いた人だと追悼文に書き、いささか早すぎる死を惜しんでいる。
     デビュー当時やその後の作品群の印象から、知的才女のイメージが強いため孤高の人と思われがちなのだが、 知友・山田一郎は、土佐弁丸出しで話し好きの普通の高知の女性で、書くものとは全く別ものと語っている。 



  • 龍馬像”喜寿” (05.05.03) 

     桂浜といえば龍馬像。この銅像、 昭和3年5月27日海軍記念日の建立。日本海軍の源流ともいえる龍馬を顕彰 するに相応しい日である。今年で満77年を迎える。
     日露戦争に際し、龍馬は昭憲皇太后の夢枕に立ち 「誓って日本海軍を勝利に導きます」と奏上した。果たしてわが海軍は日本海海戦に大勝利。このことが世に伝わるや、 一躍龍馬は海軍の守護神と称えられるに至った。有名な話である。

     高知県出身の本山白雲の作。像本体は 5.3メートル、重さ約3トン。台座を含めた高さは13.4メートル。台座裏の銘版には、「建設者 高知県青年」とある。

     当時早大生の入交好保氏。この人が一念発起、同年代の青年たちを語らって、龍馬を慕う多くの人々から 建設資金2万5千円(現在に換算すれば約1億円か)を募金、建設に漕ぎつけた。当時の青年たちの意気込みが、 台座の銘版から伝わってくる。その意味もあるし、また同い年ということもあって、私はこの龍馬像に一入の愛着を感じている。 



  • よさこいと兵隊 (05.04.08) 

     ペギー葉山の「南国土佐を後にして」が流行したのはもう40年あまり前だが、当時大評判になった歌なのでご記憶の方も多いと思う。
     昭和33年NHK高知放送局のテレビ開局記念公開番組「歌の広場」で、ペギーが歌ったこの歌が爆発的な人気を 呼んだのがきっかけだった。

     ペギーはもともとジャズ歌手なので、やや民謡調のこの歌を歌うのには気が進まなかった ようだ。ところが歌ううちに会場全体が熱気に包まれて、全員の大合唱となった。後にペギーも「あれほど驚いたこと はない」と述懐しているが、ペギーにもNHKにも思いがけない反響だった。
     もちろんペギーの歌唱力とこの歌のフィーリングがピタリと 一致して、心に染み入る雰囲気をかもし出したからなのだが、実は聴衆がこれほど熱狂したのには、もう一つの理由がある。

     この歌は戦後、歌詞を少し改編してはいるが、元の歌は「よさこいと兵隊」の曲、歌詞の殆どそのものであり、県民の 多くが愛唱している郷土の歌なのである。戦後若者たちは、折にふれ集まっては酒を酌み交わし、この歌を合唱した。
     「南国土佐を後にして」の歌には、挙って合唱するに相応しい県民のこの想いがこもっている のである。それは、

     去る昭和14年、日中戦争の激化に伴い新編成された第40師団(通称「鯨」兵団)に所属し、 高知で編成された歩兵第236聯隊(鯨236部隊)は、爾後終戦に至るまで多くの犠牲を払いながら、広大な中支・南支方面を転戦した。 その戦塵の中で兵士たちの心を癒したのが、この「よさこいと兵隊」の歌である。
     それは兵士たちの 暫しの憩いの時に自然に生まれ、彼らはこの歌に望郷の思いを托して、露営の焚火を囲んで合唱した。 戦陣の長期化に伴い順次交代帰還した兵士たちが、この歌を郷里に広め、いつの頃からか私も口ずさむようになった。
     元の歌詞を覚えている限り記してみる。(間違いあればご指摘願う)

     《よさこいと兵隊》 鯨部隊作詞・作曲
     (1)
      南国土佐を後にして 中支に来てから幾とせぞ
     思い出します故郷の友が 門出に歌ったよさこい節を
       〜土佐の高知のはりまや橋で 坊さん簪買うを見た〜
     (2)
     月の露営で焚火を囲み しばしの娯楽の ひと時を
     俺も自慢の声張り上げて 歌うよ土佐のよさこい節を
      〜みませ見せましょ浦戸を開けて 月の 名所は桂浜〜
     (3)
     くにの父さん室戸の沖で 鯨釣ったという便り
     俺も負けずに手柄をたてて 歌うよ土佐の よさこい節を
      〜言うたちいかんちやおらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳
      ぎよる〜
       よさこい よさこい

     いつの頃からか、武政英策(愛媛県出身・故人)作曲ということになっているが、メロディは全く元歌通り。 単に編曲に過ぎないのだが、一体なぜそうなったのだろうか。私は認めない。
     郷土の先輩たちが異郷の戦陣にあって、 遠い故郷を偲び父母を慕う魂の歌なのだから。そして、散華した英霊への手向けの歌なのだから。 



  • 中平 康 (05.03.28) 

     昭和30年代から40年代にかけて活躍した異色の映画監督・中平康(1926-1978)。
     監督第一作「狂った果実」(昭和31年日活:原作・石原慎太郎、主演・石原裕次郎・北原三枝) の斬新さは、当時の日本映画界に衝撃をもたらし、フランスのヌーベル・ヴァーグの作家たちにも大きな影響を与えて、 中平康の名を一挙に高めた。

     彼が一番嫌ったのは束縛。「大きな組織の中では、手かせ足かせをはめられて 面白い映画が作れない」と、多くの青春ものやアクション・ミステリー・コメディ作品、文芸作品を生み出した日活を 飛び出して、自ら中平プロダクションを設立し、香港や韓国などでも映画を製作した。プロダクションで作った 「闇の中の魑魅魍魎」はカンヌ映画祭にも出品された。
     現在の映画界は彼の先見通り、いくつものメディアや 会社で製作委員会を組織して、一本の映画を作るのが主流になってきた。 

     まさに土佐人の「いごっそう」そのものの彼であるが、生まれは東京。父は洋画家・高橋虎之助 (1890-1984)、穏やかな画風 で知られるが、出身は日高村。私の母の実家のすぐ近くである。戦時中、難を避けて郷里に疎開し、康も旧制高知高校を 卒業して戦後東京に帰り、昭和23年東大文学部美術学科に入学した。
     その年、松竹映画の助監督試験に合格して東大退学、映画界 に入る。同期には、松山善三・鈴木清順などがいる。のち日活に移った。松竹では木下恵介・黒澤明など、日活では田坂 具隆・新藤兼人などの助監督をつとめ、「狂った果実」で一本立ちした。

     さき頃、高知の県立美術館ホールで、「中平康映画祭」が開催され、生涯48作品のうちから18作品が上映 された。老若を問わず多数のファンで埋まり盛況であった。もう30年近く前の昭和53年惜しまれて世を去った (52歳)が、郷里土佐では中平康の名は輝きながら生きている。

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  • 北方領土と土佐藩 (04.09.03) 

     小泉首相が北方領土を海上視察した。どういう意図があってのことかわからないが、近く行われる日ロ首脳会談への影響も考えず、国内向け人気回復 の小泉流パフォーマンスだろう。どうもロシアの反応も芳しくないようだし、結果、吉とでるか凶と出るか。四島一括 返還では話が先へ進まないので、先ず主権の確認をして実質的返還交渉はそれからだ、という。返還はいつのことになるのだろう。

     さてこの四島のうち最大の択捉島が、明治維新後、一時土佐藩(藩改編で当時高知藩と称した)の統治下にあったの だが、このことは殆ど知られていない。
     北海道は藩政時代松前藩の領地であったが、その支配は主に海岸地方のみで 大部分の内陸部には及んでいなかった。 維新後新政府は、北海道全域および付近島嶼の実効支配と開発を目指して、明治2年北海道開拓使を設置し、有力藩に分割統治 を命じた。

     高知藩には石狩地区が割り当てられ、後年この地区には龍馬の甥の坂本直寛一族や龍馬の養子坂本直の遺族などが移住して来る のだが、一方で択捉島の東端・蕊取(しべとろ)の統治も命ぜられている。どのような統治支配が行われたか、開拓従事者を どれほど連れて行ったか一切記録がないそうだが、どうも未開の原野ばかりであったらしく、開拓の状況は 全く不明、恐らく手付かずであったのではあるまいか。

     高知藩の支配は約2年で終わったが、その後この蕊取 地区には日本人が多数移り住むようになり、この地に生活基盤を築いたが、昭和20年敗戦によりソ連軍の侵攻を受け、住民は 悲惨な生活を強いられ、昭和23年には本土に強制送還されるに至った。

     高知と北海道は離れて遠いのだが、坂本龍馬の 北海道開拓の理念は受け継がれ、多くの交流を生んでいる。高知からの移民は石狩地区だけでなく、現在高知市と姉妹都市に なっている北見市周辺にも多い。男爵薯の川田龍吉 (前述)もこの地に骨を埋めたし、大町桂月は層雲峡をこの上なく愛して、名付け親となり名を全国に広めた。坂本直寛は一家で 札幌近郊浦臼の地に移住し、本人はキリスト教伝道師として各地に足跡を残している。また極く近年では、高知の「よさこい 祭り」に感動した学生が、北海道にこれを持ち込んで「よさこいソーラン祭」を始め、今や冬の雪祭りとともに札幌の一大 イベントになっている。
     その他高知ゆかりの人が数多く北海道に移り住んでいるし、私もこの地にこの上なく親しみを感じている。 先年、所用で函館に旅行しその思いを熱くした。

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  • 吉田 茂 (04.08.01) 

    高知空港の吉田茂像 頑固一徹な明治人と、直情径行の 土佐人の気質を併せ持つ吉田茂。流行語大賞がもし戦後すぐの時代にあったなら、 この人ほど辛らつな言葉で数々の大賞をものにした人はあるまい。
     時に人を食ったような駄じゃれを飛ばして煙に巻き、時に放言して物議をかもし、 天衣無縫言いたい放題なきにしもあらずだが、明治人の気骨溢れる言行は多くの人に愛された。
     写真は高知空港の吉田茂像

     ストの指導者を 「不逞の輩」と呼び、南原東大総長を「曲学阿世の徒」と批判し、また皇室に対して自らを「臣茂」という一途さを見せた。 彼は大正中期ロンドン在勤時に、当時皇太子であった昭和天皇に接して、その人柄にほれ込み尊崇の念を篤くしたという。
     フーモアたっぷりなのは高知市での選挙演説。オーバーを着たままの演説を野次られて、「外套を着てやるから街頭 演説だ」とやり返して喝采を受けた。晩年健康の秘訣を問われて、「人を食っていますから」と笑って答えたという。
     人を食った話といえば、朝鮮戦争後編成された警察予備隊を保安隊に改組した時の国会答弁、「保安隊は戦力なき軍隊」が最たるものだろう。

     戦後間もなく首相に就任した吉田は、その日本復興にかける情熱をマッカーサーに認められて信頼を受け、 昭和天皇の人柄を縷々説明して会談を実現し、GHQの皇室観を友好に導いた功績は大きい。
     その吉田が、ある時 マッカーサーに「GHQは何の略語ですか?」と聞いた。真面目なマッカーサーが「ジェネラル・ヘッド……」と答えると、 吉田は「ゴー・ホーム・クイックリー! かと思っていました」と。二人は大笑いしたそうだが、冗談のなかにチラリと 本音を覗かせた吉田の真骨頂が光る。

     この大宰相も人の子、よく言えば人間味たっぷりで、腹が立てばついカッとして 燃え上がる。世に言う「バカヤロウ解散」である。右派社会党西村栄一のしつこい挑発質問に乗せられて、つい「バカヤロウ」 の大失言をやらかしたのだ。
     この時、政権を狙う鳩山一郎一派が造反して内閣不信任案が通過したため、国会を解散。 総選挙の結果、自由党は過半数に達せず改進党と連立して組閣したが、造船疑獄が発覚して内閣の危機に直面。 指揮権発動という非常手段を講じて乗り切ったが、これが各方面からの批判を招き、1年後の昭和29年12月遂に 内閣総辞職、吉田は政界を引退した。
     「バカヤロウ」の一言で政権の座を失ったのは、いかにも吉田の じいさんらしい結末ではないか。

    吉田茂(1878-1967)
     父は自由民権家竹内綱(後に衆議院議員)。竹内氏は代々土佐山内藩家老伊賀氏の家士。 茂は幼くして横浜の貿易商吉田健三の養子となり、養父の死後莫大な財産を相続し、これが外交官として、また政界に入って 後の幅広い人脈づくりや活動資金として役立ったことは容易に想像できる。

     学習院から東大に進み外交官に(同期に 弘田弘毅)。
     明治42年牧野伸顕の長女雪子と結婚、ロンドン赴任
     大正元年安東領事・朝鮮総督府書記官 (大隈内閣の対支21ヶ条要求に反対左遷)
     大正7年パリ講和条約出席の牧野伸顕に随行、イギリス 大使館一等書記官
     大正11年奉天総領事。昭和3年外務次官。のち短期間イタリア大使
     昭和10年定年退官

     昭和11年二二六事件後、弘田外相が首相に。この時弘田の依頼を受け組閣参謀に。また外相就任を要請されるが、 軍に反対され実現せずイギリス大使として赴任。やがて日英関係が悪化に伴い帰国
     日米開戦後、鳩山一郎、岩淵辰雄らと謀り 東条排斥・和平志向内閣を作るべく吉田邸に集まり協議するが発覚、投獄される

     昭和20年8月東久邇内閣組閣に 当り外相に推されるも、木戸幸一の反対により重光葵が就任。しかし占領軍に非協力的な重光は1ヶ月で解任、吉田が外相に 就任した。時に66歳。政治家としては遅いスタートである。
     次の幣原内閣も厳しい食料事情と激しいインフレ を抑えきれず退陣、昭和21年5月公職追放の鳩山一郎に代わって、第一次吉田内閣を組閣
     昭和21年11月 新憲法公布(22年5月3日施行)
     昭和22年4月総選挙で高知県全県区に立候補当選。この選挙では社会党が第一党 となり吉田内閣退陣。片山内閣が誕生したが短命に終り、続く芦田内閣も昭和電工疑惑で退陣
     昭和23年10月第二次 吉田内閣が発足したが、少数与党のため不信任され国会解散
     昭和24年2月総選挙に圧勝して第三次吉田内閣へと移行
     昭和26年9月サンフランシスコ講和条約締結、同時に日米安保条約締結
     鳩山一郎の公職追放が解除され、政権返上を迫るが吉田は拒否、 「抜き打ち解散」
     昭和27年10月総選挙で圧勝し第四次吉田内閣発足
     昭和28年2月の「バカヤロウ」 発言が国会解散に発展、5月総選挙の結果改進党と連立して第五次吉田内閣発足
     造船疑獄が発覚、指揮権発動が命取り となり昭和29年12月内閣総辞職
     昭和42年10月89歳にて逝去、国葬の礼を受ける



  • 大  (04.07.20)

     私が「大噤v(おおそね)という地名に興味を持ったのは、かれこれ10年以上も前になる。実はこの「噤vの字、高知県人 にとっては慣れ親しんだ字なのだが、常用漢字にもJISの第1・第2水準の漢字にもなく、ワープロを打つ時にはわざわざ文字 を作って入力しなければならない不便さがあって、何故なのか少し調べているうちに、地名の由来に疑問が湧いてきた。
     この辺の経緯は、「庵主自己紹介」のページの
    「文集・嘯フ字考に記してあるので参照願いたい。

     そもそも「そね」という語は、「いそね(石根)」という語の略だと言われるが、その意味は「石ころの多い痩地」だ そうだ。(名古屋の大曽根もご多分に洩れないだろうか)。
     また、「噤vという字には「そね」という読みがないので、大嘯フ 場合(無理な)あて字であることはは明らかだ。

     南国市大は、 旧ごめん町の南側に隣接する肥沃地帯。土地の相から見て、 かつてこの地が石ころの荒地だったとは到底思えない。私が長く疑問に思っていた点である。
     その疑問をある程度氷解 させてくれたのは、先日の高知新聞・「大嘯フ地名由来」、郷土史家・山本笹寿さんの説を紹介している。「十市村故事考」に 述べているそうだ。

     山本さんの説:「そね」には”荒地”のほか”低く長く続く嶺”の意味がある。大嘯ヘ後者で、 「長く続く丘陵を機縁として起きた郷名」と見られる。そしてこれに「噤vの字をあてたのは、「埆」と書くと”荒地”の ようにイメージされるのを住民が嫌ったためだろう。

     なるほど。これで「おおそね」の呼び名の発生が納得できるが、 やはり「噤vの字を当てた理由が今一つ曖昧である。「噤vには、土を盛り上げた状態を示す語意があるそうだが、別に 土地の豊かさを表す意味でもあるのだろうか。

     いずれにしても「噤vの字、今はワードにきちんと収まっているので、簡単 に使えるようになったのは嬉しい。

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  • 大江卓・奴隷船裁判 (04.07.18)

     明治5年、修理のため横浜に入港したペルー船マリア・ルーズ号から一人の清国人が脱出し、船内の惨状を停泊中の 他船に訴えた。船内で奴隷の扱いを受けている二百余名の清国人の救助を求めたのである。

     当時、司法制度が整っていない わが国は不平等条約下にあり、国交のない他国船を裁くのは越権行為であると、各国領事館のみでなく日本国内でも猛反対の 空気が支配していた。しかし、時の神奈川県権令・大江卓は、人道上の見地から見逃せないことであると、強い反対を 押し切って特別裁判を開き、自ら裁判長となり審理に着手した。

     当然、裁判は難航した。ペルー船長は日本側に 裁判権はない、のみならず人身売買の公娼制度すらある日本にはこれを裁く資格はないと、正面から反対を唱えた。正攻法 では勝てないと判断した大江は一計を案じ、実を取る作戦を講じたのである。その策とは…

     「船長は無罪。自由に 出航してよろしい。ただし、裁判の間上陸している清国人たちが、再び乗船を望まないのであれば、強制的に乗船させる権利 は船長にはない」と。清国人たちは当然再乗船を拒否、改めて解放され全員無事帰国を果たしたのである。

     この困難な人道裁判を乗り切った大江卓、後に人道主義のパイオニアと称されるに至るが、実はこの時弱冠 25歳。彼の名を記念して、横浜市に「大江橋」が現存する。

     大江卓(1847-1912)土佐・宿毛の下級武士の 家に生まれ、20歳の時上京し陸援隊に入り倒幕ゲリラに参加したが、維新後は兵庫県判事試補に登用された。しかし、 自由主義的な急進論を唱えて罷免され、神戸の裏町に住んで被差別部落民と付き合い、その悲惨な生活を知った。
     大江が「穢多非人廃止建白書」を建議し、穢多非人の称が廃止されたのは明治4年。翌5年に神奈川県権令に 返り咲き、奴隷船裁判の衝に当たった。
     しかし、西郷、板垣らの征韓論が敗れるに及び下野して、西南戦争時には要人暗殺計画を企てて7年の実刑を受けた。

     出獄後は、第1回普選で岩手県から衆議院議員に当選、予算委員長を勤めたが第2回選挙で落選、実業界に転じた。 晩年は部落解放運動に尽力し、仏門に入って全国を行脚した。



  • 山本玄峰と雪蹊寺 (04.07.04)

     「雪蹊寺」(せっけいじ)四国霊場33番札所。高知市長浜にあり、桂浜、浦戸城址(長宗我部元親居城)に 程近い。四国霊場八十八寺はその殆どが真言宗であるのは当然だが、当寺は数少ない臨済宗の一つである。
     9世紀初め延暦年間、弘法大師の開基で当初は真言宗・高福寺と称した。鎌倉時代に至り、運慶が本尊 ・薬師如来を奉納して以来、寺名は運慶寺と改められた(運慶ほか当時の仏師による仏像多数が当寺に現存する)。
     年を経て当寺も荒廃したが、天正年間に長宗我部元親が土佐を統一して近くの浦戸に本城を構えるに及び、 当寺を改修して菩提寺とし、臨済宗に改めた。元親の死後、その法名をとって雪蹊寺と改名した。 長宗我部氏遺臣の子孫の尊崇が篤い。

     明治の半ば、雪蹊寺の門前に一人の若者が行き倒れ た。若者は目を患って失明を宣告され、生きる希望を失い死場所を求めて、四国遍路の旅を続けていた。
     住職 ・山本太玄(たいげん)に助けられた若者は、”目も見えず、字も読めない私が、坊さんになれましょうか”と尋ねた。 この時の太玄の言葉”仏さんに貰った心の目は、開けようと思えば開くよ”、この一言が若者を救ったのである。
     「心眼を開け」この一言に蘇った若者は仏門に入り、師より山本の姓と玄峰の法名を授かり、修行の年月を重ねる のである。後に臨済宗妙心寺派管長にまで上げられ、その感化は政財界の最上層部にまで及び、当代の名僧と謳われるに 至った。

     山本玄峰は師亡き後一時雪蹊寺住職を継いだが、再び行脚修行の旅に出、京都・円福寺、三島・龍澤寺 住職、昭和の始めから東京で生修会という月例接心会を催して、多くの政財界・言論界の人々に依るべき道を示し、厚い信頼と敬慕を 集めた。
     五一五事件で井上日召の特別弁護人をつとめたが、最も語り継がれているのは、終戦に際しての「無条件降伏」のすすめと、 新憲法の「象徴天皇制」の示唆である。

     終戦間際に首相・鈴木貫太郎に語った言葉。「日本は大関じゃから、 勝つも負けるもきれいにせねばならん。日本はきれいに、無条件に負けることじゃ。これは命を賭けた人間が5人もいれば できること。お前、できるか。今、聖戦完遂などと騒いでいるが、そんな我執にとらわれていると国家は潰れ、国体は 損なわれ、国民は流浪の民になるぞ」。
     終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」は玄峰の言葉。

     新憲法制定に当たり、民主主義政治体制のもとで天皇の地位の表現に窮した首相・幣原喜重郎に語った言葉。 「天皇は空に輝く国民の象徴みたいなもの」。幣原の迷いは晴れたという。
     ほかに米内光正、阿南惟幾、迫水久常、安倍能成、 岩波茂雄、吉田茂、池田勇人ら、玄峰を敬愛した人は多い。

     山本玄峰(1866-1961)和歌山の生まれ。魂の故郷 土佐の人として、雪蹊寺とともにある。
     「旅に出る。着物を用意しろ」…臨終の言葉である。生涯17回の四国遍路 の旅にまた出立した。95歳。 



  • からくり半蔵 (04.06.18)

     鉄腕アトムをはじめ、限りなく人間に近いロボットを作るのは人間永遠の夢。その人間ロボットも今や驚異的に 進歩してきたが、その昔もちろんコンピューターも電池もない時代、動く人形を見た人々は夢見る如く驚いたに違いない。

     細川半蔵、人呼んで「からくり半蔵」も江戸時代中期、「からくり」に魅せられた一人。
     半蔵が作ったといわれる「茶運び人形」は、 現在
    「高知県立歴史民俗 資料館」に所蔵されている。

     細川半蔵(1748-96)は土佐藩郷士。細川氏の先祖は室町時代土佐守護代であったが、のち長宗我部氏 に随身して一城を預かっていた。長宗我部氏滅亡後は入国した山内氏に従って郷士となる。
     半蔵は幼少時より向学心 に富み、藩内の碩学のみならず京都、江戸にも度々遊学して、儒学、天文暦学、機巧図学(機械工学)を学んだ。 この頃すでに「写天儀」(天体観測器)を製作し、「写天儀記」を著している。 しかし年とともに向上心やみがたく、43歳にして本格的に江戸に出て名をあげる決心をする。
     江戸出府の折り故郷に 残した書がある。「不一揚名于天下、不復過此橋(天下に名をあげなければ、再び帰ってこない)」。

     出府 した半蔵は更に研鑚を積み、選ばれて幕府の寛政改暦事業に携わった。更に彼の名を高めたのは、からくり工学書とも いわれる「機巧図彙(きこうずい)」三巻の著作である。世界に誇るこの機械工学書、設計書は当時のベストセラーになったという。
     このような特殊な技術や知識は、当時の常識としては門外不出なのだが、あえてこのような精密な技術書を 公開して世に広めた勇気は偉大である。

     しかしこの天才的な万能科学者、技術者は、病を得て出府以来僅か5年、 寛政8年(1796)江戸に没した。48歳。

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  • 寺田寅彦 (04.06.15)

     「天災は忘れた頃来る」という有名な言葉、地球物理学者・寺田寅彦の言とされているが、実は寅彦の書き残した随筆、科学 論文、書簡など、どこを探しても見当たらない。
     しかし、随筆「津波と人間」(昭和8年)や 「天災と國防」(昭和9年)などの中に、この言葉とほぼ同じことが、少し違った表現で書かれている。
     例えば 「自然は過去の習慣に忠実である。地震や津波は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に保守的に執念深くやって くるのである。紀元前二十世紀にあったことが、紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである」。

     「災害を 避けるためのあらゆる方法・施設は、天災というものの科学的研究に、その基盤をおかなければならないという根本の 第一義を、忘却しないようにすることが一番肝要であろう」という寅彦の言葉は、まさに科学的な教訓の真髄である。
     そしてまた「科学の法則とは畢竟”自然の記憶の覚書”である」と説く。「天災は忘れた頃来る」という言葉が、 寅彦の名言であるという伝承を生んだ根源を見る思いがする。

     寺田寅彦(1878−1935) 少年期まで高知で 過ごし、熊本五高から東大に進む。のち東大教授として地震研究所で地震予防と防災の研究を進める傍ら、漱石や子規 らの影響を受けて多くの随筆や俳句を残した。「藪柑子集」「冬彦集」「萬華鏡」「蒸発皿」「蛍光板」「寺田寅彦 科学論文集」「寺田寅彦全集」などとして出版されている。
     バイオリンを愛し、また多くの絵画も残していて、 実に多彩な文人物理学者であった。幼少時に生活した跡地に
    「寺田寅彦記念館」が開設されている。

    (資料:高知新聞・土佐の100人)

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  • 男爵薯 (04.05.28)

     あのホコホコのじゃがいも「男爵薯」が、北海道産であることは良く知られているが、土佐人が作ったことは 殆ど知られていない。その人、男爵・川田龍吉。土佐藩士・川田小一郎の子として、安政3年高知市に生まれる。

     父・川田小一郎は、幕末常に岩崎弥太郎と行を共にし、維新後は弥太郎の片腕として三菱財閥の基礎を作った人。 財界功労者として男爵を授かり、のち第3代日本銀行総裁となったが、在職中死去した。

     龍吉は明治初期イギリス に留学して造船技術を学び、帰国後、父小一郎死去により襲爵。横浜ドックを経て函館ドックの専務に就任、危機 にあった同ドックを再建した。
     イギリス留学中、恋人といつも一緒に食べたじゃがいもの味が忘れられず、会社 経営の傍ら当別に農場を作って、イギリスから輸入したじゃがいもの試験栽培を始めた。その中から育てた「アイリッ シュコプラー」「男爵薯」として広く世に知られるようになった。

     戦争中、五稜郭の広場を耕して 男爵薯を植え付け、市民の飢えを癒した話も伝わっている。戦後昭和26年、当別の農場自宅で死去(95歳)
     男爵薯は主力品種として、今も全国各地で栽培されている。

     龍吉が日本のオーナードライバー第1号 であるのは、知る人ぞ知るところ。初物好きの土佐人の面目躍如である。彼が日本で始めての「蒸気自動車」を輸入した のは明治34年。アメリカ製「ロコモビル・スタイルS2S」、 出力は3〜4馬力で走行時速約20キロ。当時の金額で2,500円。現存している。



  • 長宗我部元親 (04.05.21)

     戦国時代、中原に覇を競った武将たちの名は数多く今日に残っているが、長宗我部元親(1539〜1599)の名はあまり知られていない。 覇気満々でありながら、歴史の上では脇役に甘んじねばならなかったせいでもあろうか。
     今一つは元親の死後、後を継いだ盛親の落差 が余りにも大きく、外交の失敗によって関ヶ原、大坂の陣ともに敗者側にたち、長宗我部氏が完全に滅亡したことも一因であろう。

     元親は、土佐中央部の岡豊城に拠る小豪族・長宗我部氏に生まれる。当時の土佐は一国を支配する大勢力はなく、 近隣小豪族の小競り合いが続いていたが、傑出した力量を持つ元親が漸次頭角を現し、遂に土佐一国を支配するに至った。

     当時の武将たちがいずれも目指した、中央制覇の夢は元親にも強いものがあり、まず四国制覇をステップとした。元親の 妻は美濃・斎藤氏の出であるが、のち斎藤利三が明智光秀に仕えるに及び、光秀を介して織田信長とも親交を結んだ。 元親の長男に一字を与え信親と名乗らせたのが信長である。

     元親の四国制覇が着々と進行するにしたがって、脅威 を感じた信長はこれに介入、領地の返還などを元親に強制したが、元親は当然これを拒否した。この辺り元親の面目躍如たる ものがあるが、この時にも仲介した光秀を窮地に陥れたのは間違いない。この折にも光秀は信長に散々痛めつけられたようだ。 本能寺の変の原因の一つといわれる。
     当時の織田軍団は、中国筋に秀吉を配して毛利攻め最中で あったが、同時に三男信孝を将として四国征伐軍を編成した。本能寺の変直前である。

     光秀の起こした本能寺の変 により四国征伐は不発に終わり、元親を救った形になった。本能寺の変には謎の部分が多く、黒幕探しがいまだに行われて いて、元親黒幕説を唱える人もいるが、どうもそれはあり得ない。確かに本能寺決起は元親に知らされていたようだが、 もし黒幕なら秀吉軍の背後を衝いていただろう。その気配は全くない。むしろ、機に乗じて一気に四国制覇を進めたこ とからも窺がえる。

     のち秀吉の四国征伐を受けて、元親はやむなく降伏、土佐一国に押し込められて中央制覇 の機会はここに完全に失われた。その後は秀吉驥下にあって、島津征伐、小田原征伐、朝鮮出兵に参陣したが、特筆すべき 功績は残っていない。むしろ島津征伐に際し、かつて元親傘下にあった讃岐勢の戦場離脱によって孤立、長男 信親はじめ長宗我部軍団の精鋭を多数失うに至り、元親の覇気もこれを境に急速に萎えていった。
     更に長宗我部氏 の衰退に拍車をかけたのは、元親の後継争いである。結局は四男盛親が跡目を継ぐが、その過程での内紛で次男親和のほか 一族を失い、家中の団結は崩壊寸前の状況を呈するまでになった。

     元親は武辺の将であるのみでなく、領地経営 にも優れ、「長宗我部地検帳」「長宗我部元親百ヶ条」を残している。治国の基本になる土地調査と、行政法令である。
     晩年は京都に隠棲し、関ヶ原戦の直前に亡くなった。息子の盛親は東軍に参加の意志を持ち、家康に使者を 送ろうとしたが、家臣に阻まれている。領主の抑えはすでに効かなくなっており、やむなく西軍に参加し国を失う結果 となった。もし元親が健在であれば、関ヶ原戦にも東軍に味方し、長宗我部氏も生き残っていたかもしれない。



  • 遠流の国・土佐 (04.05.09)

     万葉集に「天離る夷辺の国」とうたわれた土佐は、他国との交通の便が悪く、古来から外界と遮断された一種の 独立国のような状態を保ってきていた。それ故に律令時代、安房・伊豆・常陸・佐渡・隠岐と並んで重罪人を流すため の遠流(おんる)の国と定められ、都人には鬼の棲む蛮族の地と恐れられた。

     遠流の刑を受けて土佐へ流された 人は、記録が残っている人で30人ぐらいだそうだが、正確にはわからない。更に源平時代あるいは戦国時代を通じて 戦に破れた落人群、それに戦乱を避けて土佐に居着いた人々、それらを加えると外来者は相当多数に上るだろう。彼らに とっては案外安住の地であったかもしれない。

     閉鎖的な行き止まりの地に住む人々は、どうしても思考回路が単純になりがちで、一面偏屈な気質に陥りやすい ものだが、このような外来の人々がもたらす様々な文化、思想、そしてある人々の都への回帰の思いが、 土佐人の気質を形作っていく上に大きな影響を与えたことは想像に難くない。
     土佐人が意外に開放的、 ある意味では進歩的で外来思想をも柔軟に受け入れ、また中央志向、言い換えれば広く天下に志を求めるという気風 に結び付いてきたのではあるまいか。[しかし戦後この方、日本全土を覆った変ちくりんな型枠教育に毒されて、土佐人も すっかり腑抜けになってしまった]
     これら流人に限らず何らかの理由で土佐に来た人々の中で、あまり知られて いない人を紹介しよう。

    菅原高視
     菅原道真の長男である。父道真が大宰府に左遷されたとき、高視も土佐に左遷され土佐権守 として入国した。父道真の死去に伴い、遺品を神体として「潮江天満宮」を創建した。高視の住居地は現在の「高見町」、 また近くの山は「高見山」と名づけられている。

    源希義
     平治の乱の後土佐へ流された。兄頼朝が伊豆に挙兵したとき、希義も呼応して兵を挙げようとしたが、 利あらず平家方に討たれた。兄弟に対する情愛の薄い頼朝といわれるが、希義の死を悲しんで鎌倉に墓所を設けたという。

    土佐一条氏
     公家が戦国大名化した「3国司」(土佐・一条、飛騨・姉小路、伊勢・北畠)の一。 応仁の乱を避けて荘園の地土佐に入国、一時は諸豪族の助力を得て土佐を支配したが、内紛を乗ぜられ長宗我部元親に 滅ぼされた。土佐に京文化を伝え広めた。

    明智一族
     明確な記録はないが、本能寺の変後一族が土佐に落ちてきたとの説が有力である。長宗我部 元親の妻は、明智光秀の重臣斎藤利三の妹。この縁で元親は織田信長との仲介を光秀に頼り、長宗我部と明智は親密な関係 となった。
     明智滅亡後の一時期、後の春日局(斎藤利三の娘)が叔母を頼って土佐に隠れ住んだとの説もあるが、 定かでない。
     坂本龍馬の家紋は明智の「桔梗紋」、姓の坂本も明智の本城「坂本」を名乗ったものとして、 出身地・現南国市才谷(長宗我部の本城・岡豊城にほど近い)が明智一族の隠れ地で、龍馬はその末裔という人もいるが、これはどうも根拠が薄い。

     流人としては他に、法然上人、土御門上皇(承久の変。実際は讃岐であったという)、尊良親王(元弘の変)、また政争に敗れた 公家たちの名があるが、多くは一時的な流罪であった。変ったところでは伊達兵部(仙台お家騒動の張本人。山内家預け)。 この人の墓は五台山にある。    



  • 牧野富太郎 (04.04.25)

      左の写真は「スエコザサ」(牧野植物園庭園)。 牧野富太郎を支え続けた妻、寿衛子が亡くなった年(昭和3年)に仙台市で発見し、亡き妻に感謝して献名したものである。妻の 墓碑には”世の中 のあらん限りやスエコザサ”とある。

     牧野富太郎。文久2年(1862)高知県佐川町の酒造家に生まれる。幼くして父母を 失い、家産傾く。病弱のせいもあって小学校中退、山野を跋渉して体を鍛え植物の採集と分類に没頭。植物に対する研究心は すでに幼時より育まれた。


     22歳で上京、東京帝大植物学教室に出入りを許され、のち助手、非常勤講師として 77歳まで勤め、植物分類学の第一人者の評価を得たが、学歴重視の官学では厚遇には程遠く、研究中心の生活は困窮を極め た。
     牧野のフィールドワークは日本全国に及び、生涯に制作した標本は数十万点、名づけた日本産植物は2,500種 にのぼる。「牧野日本植物図鑑」(1908年初刊)は植物分類学の不朽のバイブルとして何度か改訂改題を重ね、現在の「原色牧野植物 大図鑑」に受け継がれている。
     牧野描く植物図にはみずみずしい生気が宿り、学術的価値に加えて、精密かつ力強い筆 使いは美術的にも高く評価されている。

     牧野は高知にもしばしば研究のため帰っていたが、若いころにソメイ ヨシノの苗木を持ち帰り、故郷佐川町と高知市五台山に植樹した。この桜は今に毎年美しい花を咲かせ名所となっている。牧野逝去 (昭和32年95歳)の翌年、ゆかりの五台山に県立牧野植物園 を開園、膨大な標本や蔵書、その他牧野ゆかりの数々を展示し、庭園には牧野を偲ぶ多くの植物が市民の目を楽しませている。

     ”草を褥に 木の根を枕 花と恋して 九十年” 

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  • やなせたかし (04.04.20)

     国民的人気を博して一世を風靡した漫画家といえば、田河水泡・長谷川町子・横山隆一・手塚治虫などを思い浮かべるが、 ”やなせたかし”もその一人だろう。
     私が彼の名前を知ったのは、かれこれ50年も前になるだろうか。彼がまだ地元の高知 新聞社に勤めていた頃、すでに”漫画描き”として地元ではそこそこに名を知られ、新聞でもよく面白い絵を見た記憶がある。 いつか彼の絵も見かけなくなり、すっかり彼の名も忘れるていたが、その後20年も経った頃だろうか「アンパンマン」 が世に踊り出た。

     「アンパンマン」については、もう説明の必要のないほど知られているし、幼児たちにとっては 生まれて初めて接するヒーローでもある。わが家でも孫のためにテレビの録画は欠かさず撮ったし、ビデオも何本か買い入れ て孫と一緒に繰り返し見たものだ。この作者が”やなせたかし”であることを知ったときは少々驚きはしたが、意外感は全くなかった。 当時、漫画界には高知県出身者が多く活躍し、漫画王国高知と言われていた時代。横山隆一・泰三兄弟はじめ、改田昌直、黒鉄 ヒロシ、はらたいら、岩本久則、コジローなどなど実に多士済済。私も、また一人トップランナーが出てきたと喜んだものだ。

     彼は郷里の高知県をこよなく愛し、私でお役に立てることならと、多忙の中を縫ってしばしば帰郷して様々な観光 キャンペーンに参画しているのだが、もちろんその中心になるのは「アンパンマン」と関連キャラクターである。
     一昨年 開通した
    土佐くろしお鉄道・ごめん奈半利線の全20駅それぞれに新しいキャラクターを配し、JR四国の土讃線、予讃線 にはアンパンマン列車を走らせ、予想以上の 大人気になっている。
     出身地の香美郡香北町には、私財を投じて 「アンパ ンマン・ミュージアム」を建設して町に寄贈し、今では県下有数の観光施設になった。

     彼は今年85歳。エネルギッシュ な行動力は驚嘆のほかない。アニメ制作はもちろん、映画監督もやるし、作詞・作曲それに歌手までも、それに筆もたつ。中々 の名文家である。いずみたく作曲「手のひらを太陽に」の作詞は彼。いつまでも元気で活躍してほしい。

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  • 山内氏と土佐 (04.04.12)

     高知市の南部、太平洋岸に東西300メートルほどの小高い浦戸山塊がある。坂本龍馬像はその東端にあり、山塊の中央部に 龍馬記念館がある。この記念館一帯はその昔、長宗我部元親の居城浦戸城があった所で、山内氏の土佐における歴史はここ から始まった。
     慶長5年(1600年)山内一豊は土佐入国に当り高知城を築城し、長宗我部の象徴である浦戸城を徹底的に 破壊した。

     実はこの浦戸城をめぐる、山内占領軍を迎える長宗我部遺臣間の確執が、後々山内氏と土佐領民との 離間に至る最初の出来事であった。
     長宗我部軍団の最強時はおよそ1万騎であったが、その多くは一領具足といわれる 在郷武士団である。この一領具足の武士団はそれぞれ200町歩前後の農地を所有しているのだが、この所有すら保証はされ 得ない現実に直面し、山内入国拒否を武装蜂起に訴えた。いわゆる「浦戸一揆」である。
     これに対して重役クラスの 武士団は恭順開城による保身をはかり、一揆を徹底的に弾圧した。山内入国後、彼らは士分はおろか農民百姓として追放され 怨恨が残った。

     土佐入国後の山内氏の最大課題は、当然藩としての自立財政基盤の確立である。 山内氏の藩政初期における苛政は峻烈を極めた。苛酷な重課税によって領民は極度の 貧困に陥り、さらに奴隷的使役による治水港湾工事、農地開発の強行である。これらは主として山内二代目忠義のころ執政野中兼山によって 行われたが、結果として領民逃亡を招来するなど藩政自体が混乱に陥り、野中兼山を追放せざるを得なくなった。

     実は 兼山治世の手先として鞭を振るったのが郷士階級である。郷士は山内藩政のアメの部分として旧長宗我部家臣団の一部を懐柔し、 士分として取り立てたものだが、この時また複雑な領民感情を生ずる結果となった。
     後々、郷士と領民間の靭帯は当初から強固な ものと思われがちなのだが、郷士は元々豪農・地主階級であって、庶民とは相容れない利害の面がある。しかし、やはり地域内で 密着する郷士・庶民間には幕末頃には相互依存の地域システムができ上がっていたようで、幕末に土佐勤皇党が郷士を中心に 結成された頃には 、過去の離反感情は消滅し寧ろ庶民感情はこれに味方していたようだ。

     郷士は士分であるとはいえ、山内家臣団とは明確に区別 されて足軽階級以下の差別をうけ、山内氏への帰属意識は殆どないに等しいものであった。幕末に至り情勢が急転するに及び、 武市半平太を中心に土佐勤皇党が結成され、倒幕運動に奔ったのは不思議でない。しかし土佐勤皇党が過激化して、土佐藩執政 吉田東洋を暗殺するに至り、激怒した15代藩主山内容堂により大弾圧が強行され、多くの若者が処刑されて土佐勤皇党は壊滅 した。
     のち戊辰の役にあたり土佐藩は一藩官軍に投じたが、土佐勤皇党弾圧はこの後藩主家と県民との間に深い溝を残 した。

     山内豊秋氏は藩主家18代の当主。東幼30期、終戦時陸軍中佐・第1総軍参謀。東幼会会長・高知六幼会の 大御所として殆ど欠くことなく例会に出席、温顔を見せておられたが先年物故された。豊秋氏は生前、山内家と高知県民の感 情的なしこりを随分気にして、言葉の端々にそれが窺がえたのだが、逝去の数年前、山内家の膨大な宝物を県に寄贈された。一つには 相続税のこともあったようだが、すべてを県民に返すという気持ちが中心にあったのではないかと察している。
     豊秋 氏の逝去によって、山内氏と土佐との実質的な縁は終焉を迎えたと言ってよい。



  • 桂 浜 (04.04.08)

     土佐湾の中央部に、南北におよそ10キロのひょうたん形をした浦戸湾がある。北端が高知市の市街地である。南の土佐湾 に出る湾口は浦戸の山塊に遮られて、ほぼ直角に東に折れ山塊沿いに約1キロで湾口に達する。
     この浦戸山塊は高い所で 標高50メートルほど、外海と浦戸湾に挟まれて細長く東西に伸び、その東端に現在坂本龍馬像がある。龍馬像から外海側に 降りた所が「桂浜」である。
     この桂浜は白砂青松、180度にも広がる雄大な太平洋の眺望は、龍馬像 とともに観光ポイントとして有名なのだが、「月の名所」としても知られている。文人大町桂月はこの地をこよなく愛し、 雅号に用いたといわれる。

     ところで、この桂浜の名の由来なのだが、前にアメリカの孫から坂本龍馬のことを聞かれた 時に、続いて「桂浜ってなぜ桂浜というの?」と来た。平素は何気なく親しんでいる名前なのだが、考えてみれば桂の木は内陸に 生える用材木で、海岸に生えているのは聞いたことなし。とたんに興味が湧いてきた。
     孫からのこととて、老妻も 熱心にあれこれ探していたが、「月には桂の木が生えている。中国の古い伝説だそうよ」と百科事典で見つけ出してきた。なる ほど、これならわかる。「月の名所」→「月の浜」→「桂の浜」→「桂浜」…。しかし、今一つ説得力がないなぁ。

     少し考えてみた。思いついたのは、桂浜の所在地は浦戸、「うら」に何か関係があるのではないか。もしかして「勝浦」 という地名ではないか。千葉県の勝浦、和歌山県の勝浦、全国各地の港に付いている名前である。「かつうらはま」→ 「かつらはま」、これではないかと気が付いた。ならば裏付がほしい。文人に顔の広い友人に、メールで意見を求めた。
     2日ほど して返事があった。やはり、戦国時代や江戸時代の古文書に「勝浦浜」の記載があり、「かつうらはま」→「かつらはま」説が 正しいようだ、とのこと。ただ、桂の字を充てて「桂浜」と称したのが何時ごろからかは不明であると。
     伊能忠敬が作った 伊能地図、今インターネットで見ることができる。やはり「勝浦浜」とあった。「桂浜」と名づけられたのは200年前の、 それ以降か。名付け親がわからなくとも、それはそれでロマンを追う夢があっていいではないか。

     桂浜の由来探し、以上で 終わりなのだが、考えて探してみるのは実に面白い。次は「勝浦」の語源を辿ってみたい。もしかしてアイヌ語であろうか。 「うら」にはアイヌ語で「深い」という意味があるらしい。

     春霞たなびきにけり久かたの月の桂の花や咲くらん  紀貫之



  • 坂本龍馬 (04.03.26)

     アメリカに留学中の孫娘からメールが来た。「今度こちらのロータリークラブで、”私の郷土”を紹介することになった。 人物は坂本龍馬を紹介するつもり。薩長連合をやった人ということは知っているけど、どんな人か詳しく知らんので教えて」というものである。若い者 は龍馬のことを断片的には知っているが、人に説明できるほどの知識はないようだ。
     お安い御用と、早速返信に取り掛か ったものの、考えてみれば話の相手は皆外人さんで、しゃべる言葉は当然英語。尊王攘夷とか明治維新など英訳すればどんな言葉 になるか、それは私にもわからない。できるだけ英訳し易いように色々考えてみた。多少誤解されるかもしれないが、わかり 易い言葉を用いてみた。

     @坂本龍馬は、日本の近代化のための革命(明治維新・1868年)に 大きな功績があった人で、国民的英雄として多くの人々に敬愛されている。
     A龍馬は1835年、高知の下級の侍の家に生まれた。幼少時 は甘えん坊の泣き虫だったが、病気の母親に代わり姉の乙女が厳しく育てたので、だんだん逞しく成長した。幼少の頃から世界 地図を見るのが好きで、その頃から日本の外の世界に興味を持っていたようである。

     B18歳になって、学問や剣術を習う ため東京(当時は江戸と言った)に出たが、その時にアメリカの軍艦(ペルリの艦隊)が東京湾にやってきて、日本に開国を 迫る大事件に出会った。その頃の日本は侍の政府(幕府)が支配する国で、外国との行き来や貿易などを禁止してい た(鎖国政策)ので、政府はアメリカに返事もできず大変な騒ぎになった。この事件をきっかけにして、反政府運動(倒幕運動) がだんだん盛り上がってきた。
     C龍馬もこの事件を体験して、日本は今のままでいると世界に取り残されて、やがて外国 に侵略されてしまうという危機感を持った。そして龍馬は、高知で結成された反政府グループ(土佐勤皇党)に参加したが、 政府側の弾圧も厳しくなり、高知を脱出(脱藩)して全国各地の実力者と会い、のち長崎で活躍することになった。

     D長崎での龍馬は、日本は外国と 貿易をしたり外国の技術や文化を取り入れて、近代化しなければならないと、日本で初めての貿易会社(亀山社中、後の海 援隊)を作り、後の日本海運発展の基礎を作った。
     Eその頃の反政府運動はかなり過激化して、多数の人の命が奪われて いた。この状態を憂えた龍馬は、一刻も早くこの混乱を収めなければならないと決意し、革命の進め方の違いから互いに反目 しあっていた二つの大きな反政府グループ(薩摩と長州)が力を合わせることを成功させた(薩長連合)。

     F次いで龍馬は、平和のうちに政権交替が行 われるように政府に働きかけ(大政奉還の建白)、遂に今の政府を解散し新しい政府を作ることを承諾させた。しかしその直後、龍馬は旧政府側の不満分子から命を狙われ暗殺 された。1867年11月15日、この日は龍馬32歳の誕生日であった。
     G龍馬死後、旧政府の残存勢力の武力抵抗 はあったが、強い力を持った反政府側が東京を占領して新政府を作り、明治革命は成功した。龍馬の志は新政府に引き 継がれ、日本は近代化への道を歩み始めた。

     龍馬が実質的に働いたのは脱藩後の5年間。その間に実に2万キロ歩き 多くの実力者と交わっている。最も影響を受けたのは勝海舟、その他西郷隆盛、桂小五郎、松平春嶽、横井小南、、、これらの すべての人に愛され信頼を受けている。誠に不思議な人である。彼が多くの人に信頼されたのは、勿論彼の理念の底に「日本」 という言葉がデンと座っていたことによると思うが、一つは脱藩浪士の身分にあったことが幸いしているのではないか。 一国一藩の政治情勢に束縛されることなく、自由奔放に発想し、行動できることに多くの人は魅力を感じたのかもしれない。



  • 板垣退助と自由民権 (04.03.18)

     「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を残した板垣退助。土佐藩上士(乾氏)の家に生まれ、戊辰の役には官軍参謀と して甲州を経て日光・会津攻略等に従軍した。幼少時暴れん坊だった彼も、長じて学問に打ち込み、人心収攬術にも長けていた ようだ。占拠地における土佐藩兵の軍紀は厳しく、住民の恨みを買う行為は極めて少なかったと伝えられる。甲府において 彼は「父祖の地に帰ってきた今、わが先祖の姓に復す」と、以後板垣姓を名乗ることになったのは有名な話。武田二十四将の一人 、板垣信方の一族が武田滅亡後、山内氏に仕えたのは事実らしい。

     維新後は新政府参議として国政に参画したが、 征韓論に敗れて下野し、明治6年高知に帰って「立志社」を起こし自由民権運動を展開した。当時はすでに西洋の自由思想が広く知られる ようになっていたが、むしろ薩長藩閥政府に対する不満が、自由民権運動の背景にあったと考えられる。
     始めは不平士族中心の運動で あったが、やがて共鳴者は四民に及び、全国各地に政治結社が生まれるまでに発展した。政府に対する批判、要求もエスカレート していったが、政府も当然これを弾圧、言論・出版・集会を厳しく取り締まって投獄者も相次いだ。

     後の「秩父事件」の ように、一部先鋭化して官憲のみならず軍隊の出動を促した運動もあったが、多くは「言論のみをもって武器となす」ことに 徹し、殊に土佐の民権運動家たちは、佐賀の乱・西南の役にも誘いに同調せず、ひたすら言論の自由を訴えたのは特筆に価する。 むしろ官憲との軋轢も、新聞の発刊停止を命ぜられると「新聞の葬式」を賑やかに営んだり、投獄者がおれば料亭で「送獄会」 を催すなど、豪快に笑い飛ばしたところなど、いかにも気概満々であったことが窺がわれる。
     後に板垣は「自由党」を、 大隈重信は「立憲改進党」を結成、憲法草案を公表するなど政治活動を続けたが、憲法発布・国会開設に伴い自由民権運動も 終焉を迎えた。

     高知市の「自由民権会館」には、自由民権運動の詳しい経過や運動に携わった多くの思想人たちを 紹介している。ご覧いただければ「自由は土佐の山間より」の気概を感じていただけるものと思う。なお、紙幣でおなじみの 板垣退助像は、高知城追手門を入ってすぐにある。

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  • ご め ん (04.03.16)

     高知市の真ん中を、前に“ごめん”と書いた市内電車が走っている。初めて見る県外の人は「?」と思うらしい。しかし これ、れっきとした行先板なのである。西隣の伊野町から高知市を抜け、私の寓居地の大津を通って、東隣の南国市ごめん町を終 点にするチンチン電車だ。私も通勤用に、子供たちも通学用に随分お世話になった。

     さてこの“ごめん”町、漢字では 後免町と書くが、古くは御免町と書いていたらしい。藩政初期の頃、荒地だった一帯を開発・美田化するとともに、物流の中心地 とするために多くの商人を呼び寄せ、定住策として売買税や地租を免除したのが地名になったという。

     その昔はこの 南国市一帯が、政治経済の中心だった。紀貫之が赴任した土佐国府は南国市の北郊だし、豪族割拠の戦国時代に、長 曽我部氏が四国制覇をした本拠地・岡豊(おこう)城もその近く。当時の農耕の中心でもあり、東西交通の要衝でもあった。 今の高知市は、山内氏が高知城築城後の城下町だが、爾来政治経済の中心として繁栄し現在に至っている。

     と ころでこの南国市というのは、後免町を中心に付近数町村が大合併して市制を施行したのだが、市の呼び方で一悶着 があった。南国市という名前までは決まったのだが、「ナンゴク」と呼ぶか「ナンコク」と呼ぶかの論争である。普通なら 「ナンゴク」だが、土佐の地名は濁らないのが多い。佐川は「サカワ」、須崎は「スサキ」の類だ。結局濁らない方に軍配があがって、 「ナンコク」市というのが正式の呼び方になった。いかにも“いごっそう”の国らしい話である。

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  • 小畑敏四郎 (04.03.12)

     小畑敏四郎:東幼1期・陸士16期・陸軍中将、東久邇終戦内閣国務大臣。土佐藩士・小畑美稲の四男。小畑美稲は戊辰戦争従軍、 維新後は司法官、貴族院議員・元老院議員を歴任し男爵に。

     ロシア駐在武官(少佐)当時、ドイツのバーデンバーデン において、同期の永田鉄山、岡村寧次、1期下の東条英機と会合を持ち、軍中枢の刷新を話し合った。
     後に軍中枢にあって絶大 な影響力を駆使したメンバーがメンバーだけに、この会合は戦後の極東軍事裁判の過程で問題視され、世にいう「バーデン バーデンの密約」として有名になった。軍中堅幹部の下克上を助長し、ひいては軍部の政治介入を進めた源流と位置付け られたのである。
     しかし実際は密謀とか密約と言われるほどの政治的なものではなく、派閥人事に反発する気鋭の少壮将校 が軍内部刷新を討論したに過ぎないとされる。

     彼らが軍中枢の実力者として地歩を固めるとともに、同調者も増加し 新派閥が形成されてきたのだが、かつて親友であった小畑と永田は軍略上の対立から袂を別ち、相容れない2派に分裂した。 小畑の皇道派永田の統制派である。
     その後の両派の相克はすでにご承知の通りなので割愛するが、永田は相澤事件に より殺害され、小畑もまた二二六事件後の粛軍により予備役に編入され終戦を迎えた。

     戦後、東久邇終戦内閣が組閣 されるに際し、近衛文麿の推挙によって国務大臣として入閣、戦後の政策・政治体制作りに調整役として貢献したが、惜しくも昭和 22年に没した。小畑は戦時中、皇道派贔屓の近衛文麿の隠れたブレーンであったといわれている。

     二二六事件後、 皇道派の将軍たちは野戦軍指揮官に追いやられ、山下奉文などは悲劇の運命を辿った。土佐出身の軍人は、小畑・山下始め 多くが皇道派に属していたのだが、最後の陸軍大臣になった下村定(名幼4期)も土佐出身。
     皇道派の牙城土佐出身の 小畑・下村が、統制派の暴走により壊滅した帝国陸軍の骨を拾うことになったのは、運命の皮肉か。



  • 片岡太郎 (04.03.10)

     片岡太郎:明治41年高知県日下村(現日高村。私の郷里である)生まれ。昭和4年陸軍少尉任官、大邱第80連隊。昭和9年 11月の士官学校事件に連座(当時中尉・予科区隊長)。翌年不起訴となり原隊復帰、昭和11年の二二六事件当時は在大邱。 その後広幼生徒監、陸士中隊長等を経て、終戦時は内地編成の連隊長(中佐)。昭和21年郷里にて逝去(享年38)。
     士官 学校事件は、統制派によって送り込まれた陸士中隊長・辻正信が、真崎教育総監始め皇道派追い落としのため、生徒を使い 捏造したとされるクーデター未遂事件である。
     この事件は、後に相澤事件、二二六事件へと発展する。士官学校事件の首謀者とされ 免官となった村中、磯部は二二六事件首魁として処刑された。

     ●片岡さんは郷里の先輩として、私の幼年学校 志望に大きな影響のあった方。戦後残念ながら、お会いする機会を得ないまま早く亡くなられた。詳しい軍歴なども存じ上げ ないのが心残りである。
     最近インターネットで色々な出版リストを見ていたら、偶然「片岡太郎追悼録」が広幼45期1訓編 で出版されているのを見て、広幼では45期を担当されていたことを知った。高知にも広幼45期の方がおられるので、追悼録 をお持ちでないか伺ってみたいと思っているが、まだ果たせないでいる。
     名幼47期ホームページの「関連サイト」に 「60期ホームページ」がリンクされているが、このホームページは広幼45期の方が中心になって編集されているらしく、 「広幼45期室」のページが設けられていて、時折り拝見している。●



  • 弘田竜太郎 (04.03.08)(05.08.04) (07.01.20)

     安芸市に 弘田竜太郎の曲碑が現在10基ある。
     弘田竜太郎(1892−1952)は、 大正から昭和にかけて一世を風靡した作曲家。残した曲は多いが、われわれが幼時親しんだ童謡の数々は彼の曲である。「雀の学校」 「お山のお猿」「春よ来い」「靴が鳴る」「叱られて」「雨」「鯉のぼり」「金魚のひるね」などなど。今に歌い継がれて いる。

     竜太郎は現安芸市の有力政治家の家に生まれたが、一家は彼が3歳の時東京に移住、彼はのち東京音楽学校に学び 作曲家として高名を馳せたが、ふるさと安芸市の人も後年に至るまで彼が安芸市出身であることを知らなかったようだ。

     今 安芸市は竜太郎を顕彰して、 童謡の里をテーマに町づくりをすすめているが、「タイガース・タウン」の名と共に次第に 知名度が高くなってきた。「岩崎弥太郎生家」「野良時計」「武家屋敷土居郭中」など落ち着いた古跡・名所もあるので、ぜひ 一度童謡の雰囲気を味わっていただきたい。

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    弘田竜太郎が藤山一郎のピンチを救った話(05.8.4追記)

     藤山一郎といえば昭和初期から戦後にかけて一世を風靡した大歌手。
     弘田竜太郎は、大正末年から東京音楽学校(現東京芸大)の 助教授を務める傍ら、慶応普通部の講師として音楽を教えていた。その時の生徒の一人が藤山一郎(本名:増永丈夫)である。

     藤山は弘田との縁を頼り、音楽学校の教師たちに教えを受けて音楽の才を磨き、東京音楽学校に進学した。ここで 藤山の天賦の才は開花し、3年生の頃にアルバイトで歌った「酒は涙か溜息か」「丘を越えて」が大ヒットして(いずれも昭和6年)、一躍 歌謡曲界の人気歌手となった。

     ところがこれが大問題となった。当時の音楽学校は校則で校外演奏を禁じていて、 違反者は即退学である。藤山の才を惜しみ、真っ先に弁護を買って出たのが弘田である。
     当時藤山の実家は家業が傾き、 藤山自身が稼がなければ学業が続けられないことを弘田は知っていた。弘田の奔走により特別な事情ありと認められた藤山は、 停学1ヵ月の処分を受けたのみで、無事音楽学校を卒業することができた。

     何よりも音楽を愛した弘田竜太郎の 一面を物語るエピソードである。

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