【13】




「アントニオ?」

四輪駆動車に乗った、栗色の髪とサングラスをした彼が、居た。服装も家を出た時と違っていた。
「どうしたの?その格好」
スザンヌが居た。裏通りの人通りの少ないの電話ボックスの前に居た。アントニオにこの場所に呼び出されていたのである。冷たい風に、新聞紙が電柱に音をたてて絡まる。中秋であった。
「誰かに見られたら、大変だろう?」
ハンドルを握っている黒革の手袋を嵌めている手が、微かに震えている。
―――――――精神安定剤飲んでいるっていうのに・・・!
スザンヌが近くにいるだけで、この女によって受けた、忘れていた【恐怖】が、自分を支配しようとしていた。あの、絶望的な永遠とも言える恐怖が――――――――
―――――――しっかりしろ!
自分自身に、叱責する。恐怖を心の奥底に追いやろうと懸命であった。
「ここじゃ人目につくから、乗って」
アントニオはそっけなく言う。スザンヌは喜々として、助手席に乗り込んだ。スザンヌの毒々しい香水の匂いに、思わず胸がむかつく。
――――――娼婦でも、こんなに香水つけてないぞ!
サングラスの奥の目が、嫌悪で不快に細まる。アントニオは車を発進させる。窓を少し開けた。冷たい風が、アントニオの頭上の茶色の髪を微かに揺らす。
「嬉しいわ〜。貴方から電話をもらえるなんて・・・」
幼い頃、微塵にも見せなかった笑顔。いつも自分に見せる顔は、眉間に皺を寄せ怒り捲くっている悪魔のような姿しか、ない。「目障りだ!!」ちょっとした事でも、いや、何もなくても、叩き、蹴られた記憶しか、ない。己の不満解消の為の、【道具】でしかなかった。
スザンヌが自分の隣に座っているだけで、アントニオは溜飲を感じ始める。この場から離れたいのを、懸命に堪えていた。
「どうしたの?顔色が悪いわよ?」
――――――――お前の所為だ!!
怒鳴りつけたかったが、
「別に」
前方を見つめたまま、ぶっきらぼうに言った。
――――――――同じ、姉妹のくせに!こうも違うのか!?
ルーシーの顔を思い浮かべた。
優しい笑顔
優しい声
優しい腕・指
優しい抱擁

 

最初、ルーシーを見たとき
―――――――今度(・・)は、この人に叩かれるんだ・・・
そう、アントニオは思った。
今まで、スザンヌの友達、恋人達は、皆、面白がってアントニオに暴力を振るっていた。
それなのに、
自分だけ(・・)の為に、ピザを頼んでくれた。
今まで、誰かが食べ残したモノしか、口に出来なかった。自分だけの食事など、有り得なかった。
風呂にも入れてくれた。温かいベッドで一緒に寝てくれた。
だが、
――――――いつ、叩くんだろう・・・
アントニオの心には、それ(・・)しかなかった。
決して、心許さない。今までも【そう】だったからである。
最初は優しいが、しまいには暴力を振るわれた事など当たり前だったからである。

ルーシーの機嫌がいつ(・・)変わるのだろう。そればかり気にしていた。

だが、
彼女は、いつもいつも自分を抱きしめて、キスをしてくれた。優しく声をかけ、頭を撫でてくれた。
あの(・・)()
涙を流して、自分を抱きしめてくれた。
―――――――ああ、この人は、違う(・・)・・・
初めて、声を発し、自分から擦り寄った。


愛しい人の事を考えていると、不思議と、身体の震えと、最悪だった気分が、和らいできた。

 

カーラジオをつける。今流行りの曲が爽快に流れる。
街をかなり離れ、周りには針葉樹林が生い茂る寂しい通りに出た。人家も何も見当たらない。バカンスシーズンならキャンピングカーが通るであろう道。今は時期外れで、その車でさえ、見当たらない。

「どこ行くの?」
「ドライブもいいだろう?」
「そうね」
スザンヌは別段不信がる節もなかった。彼女自身も、アントニオの機嫌を損なわないように気にしていた。
車内はカーラジオの音しか、しなかった。

かなり走って、アントニオは車を止めた。
「はい」
懐から、封筒を取り出した。それをスザンヌに渡す。
「まあ!有難う!」
喜々として両手で受け取る。そして、中身を見る。札束が入っていた。
「誰にも僕と会う事、言ってないよね?旦那にも」
「ええ」
「これからは、僕に言ってよね。絶対にルーシーには言わないで」
「解ってるわよ!」
アントニオの話を聞いているのかどうかも解らない目を爛々に光らせ、中の札を数えている。
―――――――金の亡者だな・・・
その光景を見て、アントニオは心底隣の女を軽蔑した。自分の中にこの女の血が流れているかと思うと、全部の血を入れ替えたい心境である。
アントニオはスザンヌを見ながら、上着のポケットの中から、ビニールに入ったハンドタオルをスザンヌに気づかれないように、取り出した。そして、ビニールからそれを取り出した。
「有難う。アントニオ、やはり貴方は私のこど・・・」
スザンヌが嬉しそうな顔を上げた途端、アントニオがスザンヌの口と鼻にハンドタオルを押し当てた。スザンヌは驚愕して、咄嗟に激しく抵抗した。手足をばたつかせる。数秒後、スザンヌの動きが、止った。
「・・・はっ・・・はっ・・・・・」
アントニオの顔、服の下は、汗だくであった。車のシートに凭れかかった。クロロホルムとスザンヌの香水とが入り混じった不快極まりない匂いが、鼻に、一気に襲い掛かった。収まっていた溜飲が一気に押し寄せた。口元を押させえて、乱暴にドアを開け、慌てて外へ道端へと出た途端、嘔吐した。数回吐く。終いには吐く物がなく、胃液まで吐いた。
「・・・・うぇ・・・げ・・・・は・・・・は・・・うっ・・・・」
両手を雑草が生える地面へとつけ、苦しさに、涙を流す。サングラスに涙の小池が出来る。
周りは葉と葉が擦れる微かな音しかしない。まるで世界に一人しかいないくらいの静けさの中、アントニオの苦痛の喘ぎしか聞こえなかった。




【13     終】




09.10.31





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