資料62 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」


                              

        
君死にたまふことなかれ   
            
旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
 
           
                               
與 謝 野 晶 子

 

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃
(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

(さかひ)の街のあきびとの
舊家
(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思
(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守
(も)り、
(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾
(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻
(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月
(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 

 

 
   (注) 1.詩の本文は、「名著複刻詩歌文学館<連翹セット>『戀衣』」(昭和55年4月1日発行・初刷。
           
日本近代文学館刊行によりました。
        2.原本は、明治38年1月、本郷書院発行です。
        3.句読点、踊り字、ルビは、原本通りです。ただし、ルビを( )に入れて示しました。
          原本は、勿論、縦書きです。
        4.「をとうと」の仮名遣いは、歴史的仮名遣いでも現代仮名遣いと同じく「おとうと」です
         が、原本通り「をとうと」にしてあります。
        5.初出は、『明星』明治37年9月号で、初出の題は「君死にたまふこと勿れ」、また、
         初出では句読点が全くなく、「旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」は、括弧内に
         記されている由です。(関良一
校訂・注釈・解説近代文学注釈大系近代詩』有精堂、昭和
          38年9月10日発行・昭和39年12月20日再版発行
による。) 
          ○初出の『明星』掲載の本文と『戀衣』の本文との比較を次に示します。
            初出の『明星』には、題が「君死にたまふこと勿れ」と、「なかれ」に漢字が使ってあ
            ること、読点が全くなく、「旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」が括弧(丸括弧)
            内に入れられていることは、上述の通りです。その他の相違は、次の通りです。
                       『明星』                    『戀衣』
            (第2連) ほろびずとても何事か   ←→  ほろびずとても、何事ぞ、
            ( 同  ) 君知るべきやあきびとの  ←→   君は知らじな、あきびとの
            (第4連) 母のしら髮はまさりけり   ←→   母のしら髮はまさりぬる。

           なお、関氏の上掲書によれば、『晶子詩篇全集』(実業之日本社、昭和4年刊)に
          は、「旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて」→「旅順の攻圍軍にある弟宗七を歎き
          て」、「舊家をほこる」→「老舗
(しにせ)をほこる」、「家のおきてに無かりけり」→「家の
          習ひに無きことを」、「母の白髮はまさりぬる」→「母の白髮は増さりゆく」となってい
          るそうです。
          ○日本ペンクラブ『電子文藝館』の「反戦・反核」のコーナーで、初出の『明星』掲載
         の形が見られます。
(ただし、第5連の「少女」に「をとめ」とルビが振ってありますが、『明星』の
          本文には「少女」にルビはついていません。) 
     
        6.第4連の「しら髪」は「しらが」、第5連の「少女」は「をとめ(おとめ)」、「誰」はこの詩
         が文語体なので「たれ」と清音に読みます。若い人たちのために補足しておきます。
        7. 参考までに、『定本 與謝野晶子全集 第九巻』(詩集一)(講談社、昭和55年8月
         10日第1刷発行)所収のものを、次に掲げておきます。この詩の形は、『晶子詩篇全
         集』(実業之日本社、昭和4年刊)によるものと思われます。

                      



     
君死にたまふことなかれ   
   
(旅順の攻圍軍にある弟宗七を歎きて)  

                     
與 謝 野  晶 子


  ああ、弟よ、君を泣く、
  君死にたまふことなかれ。
  末に生れし君なれば
  親のなさけは勝りしも、
  親は刃
(やいば)をにぎらせて
  人を殺せと海悗靴筺
  人を殺して死ねよとて
  廿四
(にじふし)までを育てしや。

  堺の街のあきびとの
  老舗
(しにせ)を誇るあるじにて、
  親の名を繼ぐ君なれば、
  君死にたまふことなかれ。
  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても、何事ぞ、
  君は知らじな、あきびとの
  家の習ひに無きことを。

  君死にたまふことなかれ。
  すめらみことは、戰ひに
  おほみづからは出でまさね、
  互
(かたみ)に人の血を流し、
  獸の道に死ねよとは、
  死ぬるを人の譽れとは、
  おほみこころの深ければ
  もとより如何で思
(おぼ)されん。

  ああ、弟よ、戰ひに
  君死にたまふことなかれ。
  過ぎにし秋を父君に
  おくれたまへる母君は、
  歎きのなかに、いたましく、
  我子を召され、家を守
(も)り、
  安しと聞ける大御代
(おほみよ)
  母の白髮
(しらが)は増さりゆく。

  暖簾
(のれん)のかげに伏して泣く
  あえかに若き新妻を
  君忘るるや、思へるや。
  十月
(とつき)も添はで別れたる
  少女
(をとめ)ごころを思ひみよ。
  この世ひとりの君ならで
  ああまた誰を頼むべき。
  君死にたまふことなかれ。
 


        8.ここに歌われている「弟」は、2歳年下の籌
(ちゅう)三郎(1880−1944)のこと。「長兄
        秀太郎が東京大学工科大学を卒業して教授となったため、明治36年10月に没した父
        宗七の後を受け家業を継いだ。次兄玉三郎は夭折した」と、関氏の上掲書の頭注にあ
                ります。
(「東京大学工科大学を卒業」とありますが、秀太郎が卒業した当時は、正確には「帝国大
         学工科大学」でした。 また、「明治36年10月に没した父宗七
の後を受け家業を継いだ」とあるの
            は、父が亡くなったのは9月なので、「10月に……家業を継いだ」となるのでしょう。

           第2連に、「親の名を継ぐ君なれば」とあるのは、「籌三郎は父の死後、ただちに父の
         名宗七を相続した」と、これも関氏の頭注にあります。

                   なお、日露戦争後の籌三郎については、『
年表作家読本与謝野晶子』(平子恭子・編著、
         河出書房新社・1995年4月25日初版発行)に、「娘時代より晶子のよき理解者であった
         籌三郎は、無事生還し、晶子の終生まで交流を保ち続けた」(同書60頁)とあります。
                   籌三郎は、昭和19年2月25日、63歳(数えで65歳)で亡くなりました。
        
          また、『内海ワールド』というホームページに「大阪今昔百題」というコーナーがあり、
         その「89.厭戦反戦気風(与謝野晶子の詩)」に、「※参考 与謝野晶子の弟、鳳籌三
         郎(ちゅうざぶろう)は大阪の歩兵第八聯隊に入隊し、第四軍の一員として旅順攻略に
         参加したが、字が書ける「特技」で、戦闘には参加せず、将官の書記役を務めて居た。
         『何と、字の知らん兵隊が如何に多いのやろう』が籌三郎の感想だったと言う。」とあり
         ます。
注:『内海ワールド』というホームページにアクセスしてみましたら、別のサイトにつながって
          しまいましたので、リンクをはずしました。この晶子の弟・籌三郎に関する記事を含む『内海ワールド』
           の内容がすべて削除されてしまったのでしょうか。記事の内容について何らかの方法で確認をとりた
          いのですが、それが可能かどうかは今のところ分かりません。2008年5月19日)


          (晶子の実家の姓は、「鳳(ほう)」です。ちなみに、晶子の戸籍名は、「志よう」です。
         父・宗七は善六ともいい、弘化4年9月24日生まれ、和菓子商駿河屋の2代目で、明治
         36年9月14日、脳溢血で死去しました。晶子の弟・籌三郎
(ちゅうざぶろう)は明治13年8月
         14日生まれ、明治36年8月27日、23歳(数えで24歳)の時、せい(旧姓・堺)と結婚、
         翌37年、日露戦争に召集され、乃木希典
(まれすけ)率いる第三軍の第四師団第八連隊
         に在隊して旅順で戦ったわけです。妻の「せいは当時身ごもっており、翌年8月、長女
         夏子が生まれた」と関氏の注にあります。「二十四までをそだてしや」と晶子が歌った時、
         籌三郎は数えで25歳でした。満では24歳だったでしょうか。しかし、この当時は年齢は
         数えでしたから、晶子の思い違いだったかも知れません。籌三郎はこのあと無事に帰還
         し、昭和19年2月25日、63歳(数えで65歳)で亡くなりました。なお、「末に生れし君なれ
         ば」とあるのは、関氏の注に、「籌三郎は男兄弟では末であった。妹は二人あった。」とあ
         ります。)

           関氏の上掲書『
近代文学注釈大系近代詩』の巻末の「作家・作品解説」に、<新間進一の
         「与謝野晶子評伝(その四)」に、「籌三郎は32年ごろ晶子に先んじて浪華
(なにわ)青年文
         学会堺支部に入会しており、文学少女時代の晶子のよき理解者であった。晶子が親密の
         感情をこの弟に抱いたことは不思議ではない(中略)父の死、弟の襲名、留守の母と義妹
         への愛情など、たとえ一旦は家を飛出したように見えても、断ち切れぬ強い『家』との連関
         が地盤になって、この詩が生まれた」とある。堺の町人の反骨の伝統から生まれた作と言
         ってもよいかも知れない。>とあります。(同書、336〜337頁)

                     なお、『臨床育児保育研究会』というホームページの、「おーい!父親」というコーナーに
         「君死にたまふことなかれ」という文章があり、弟籌三郎のことに触れてあって参考になり
         ます。
注:現在、このページにアクセスできませんので、リンクを外してあります。2008年5月19日)
        9. 晶子の長兄・鳳秀太郎については、『拳拳服膺』というホームページに、「日本の特許
         史」があり、「明治中後期発明家伝92」・「電気理論と発明の両面で活躍した鳳秀太郎」
         というページがあって、鳳秀太郎の業績を知ることができます。
                            
 (お断り) 現在は、工事中とのことです。(2012年6月23日)

                    『日本近現代人物履歴事典』(秦郁彦編、東京大学出版会発行・2002年5月20日初版、
         2002年8月8日第2刷)から抜き書きすると、鳳秀太郎(ほう・ひでたろう)は明治5年1月
         1日生まれ。菓子舗鳳宗七の長男。第三高等学校尋常中学科、高等中学科を経て、明治
         26年9月工科大学電気工学科に入学。29年7月、首席で卒業。29年9月、大学院に入学。
         30年7月、東京帝大工科大学助教授。31年9月から33年3月まで海軍大学校教授嘱託。
         36年10月から39年1月まで、電気及び磁気研究のため英米独国へ留学。39年2月、工科
         大学教授。40年12月、工学博士。昭和6年9月17日没。……ということだそうです。

        10. 『戀衣』は、山川登美子・増田雅子・与謝野晶子共著の詩歌集です。 
        11. 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、与謝野晶子の肖像写真と「近代デジタル
         ライブラリー」収載の著作名等を見ることができます。
        12. 大阪府堺市の『堺市立文化館』の中に「与謝野晶子文芸館」があります。
        13. 『鳥飼行博研究室』というサイトに「与謝野晶子を巡る戦争文学」のページがあって、
         大変参考になります。 
(2008.01.04付記)
 

 

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