資料530 会沢安(正志斎)『諳夷問答』


        幕末の文政7年(1824)5月28日、水戸藩領の常陸大津浜に2艘の外国船が現れ、
         外国人12人が上陸した。水戸藩付家老(つけがろう)中山氏は上陸した12人を捕ら
         え、水戸藩では会沢正志斎と飛田逸民(子健)を派遣して取り調べを行った。そのとき
         の様子を正志斎の記録したものが、次の『諳夷問答』である。

         

 

  

   諳夷問答         會 澤 安(正志齋)

文政七年五月二十八日異人十二名常陸多賀郡大津村ニ登陸ス專ラ諳厄利亞國ノ人ト稱ス余飛田子健ト共ニ筆談スヘキノ内命ヲ蒙リテ彼地ニ至リ六月三日兩人並ニ監察府ノ人ト同ク夷人ヲ捕置タル所ニ往テ筆談ス座定リテ土人勇三郎ナル者ヲシテ先ツ加比丹ゲビスンナル者ヲ呼出サシム 勇三郎ト云ハ村民ノ夷人ヲ守衞スル者ノ中ニテ數日夷輩ト同居シタルニ顔色手遣カヒ等ヲ以テ少シク此彼ノ語ヲ通スルコトヲモ能クスルコトヲ得タルモノ也 ゲビスン我前ニ至リ右手ヲ伸テ禮ヲナシ直チニ蹲居シタレトモ始テ見タル夷人ノコトナレハ言語ヲ通スベキ手段モナシ因テ子健ト謀リテ先ツ諳厄利亞の四字ヲ書テ示シタルニ讀ムコトヲ得ズ又イキリスいきりすト兩樣ニ書テ示シタルヲモ讀得ズ又魯西亞ノ字ヲ以テросисукияト書タルヲ出シテ示ス рエルосエスисエスукяノ字ヲ綴リテロシイスカヤト讀ムト云コト或書中ニアリシヲ抄出シテ懐中シタルナリ是ハ余初メ夷人ノ實ハ魯西亞人ナランカト疑ヒシコトモアリシカハ諳ト魯トノ實ヲ索メンソノ一談ニモナランカト思テ豫メ携へ往シナリ 夷少シク心得タル顔色ニテ熟視シタレトモ又讀コト能ハズゲビスン筆ヲ取テ
    ABCDEFG
如此ニ書テ此字ヲ指シテイギリスト云又各一字ツヽヲ指テ ア。ベ。セ。デ。ヱ。ヱ
。ケ。ト云 此字ハ即チ和蘭字ニシテBヘヱフGゲ ナルモノニシテ余其和蘭字ヲ用ルト云コトナルヲ世ノ知ル所ナリ。アベセノ呼法モ和蘭ト異ナル所アレトモ委細記憶セサル故此ニ和蘭ノ呼法ヲ以テ書ス 知リテヲランダト云シニゲビスン打チ頷キタリ又余カ携ル所ノ書中ニ和蘭字ニテAヲ書タルヲ出シテイキリスト云フニゲビスン又頷キタルニヨリテ其和蘭字ヲ用ルコトヲ審ニスゲビスン又
   1234567
ト書テ ワン。テウ。フレイ。フアラ。ハイフ。セキ。セム。ト云
此字ハ即チ和蘭字ノ1一ヱーン 二テウヱー 三デリー 四ヒール 五ヘイラ 六セス 七セーヘン ナリ ワンテウ等ト云シハ和蘭ト諳厄利亞ト音ノ異ナル所アルナリ 余又和蘭字ニテ1以下ノ字ヲ書タルヲ出シテ示シイキリスト云ニ又頷タル故數量ノ字モ亦和蘭ニ同シキコトヲ知レリ余又初メ書タル諳厄利亞ノ四字ヲ指示シテイキリスト云又イキリスいきりすト書タルヲ指シテ何レモイキリスト云夷輩相顧テ余カ初書スル意ヲ初メテ解シタル色ナリ是ニヨリテ 神州ノ字モ又漢字モ通セサルコトヲ知レリ又勇三郎ヲシテ彼カ力(ママ)類船ノコトヲ問シムケビスン〔南(ママ)手ノ〕指ヲ擧テ三タビ示シ又五指ヲ擧テ示ス余彼ガ書スル所ノ數量字ノ中三ノ字ト五ノ字ヲ指サスゲビスン頷タル故三十五艘ト云コトヲ知レリ又本國ヲ出船シテヨリ幾歳月ト云コトヲ問ハシムゲビスン
     
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如此ニ書タルニヨリテ三十二月ヲ經タルコトヲ知レリ余又地球圖ヲ出シテ魯西亞ノ地方ヲ指サシロシヤト云テ又ゲビスンニ指サシタルニゲビスン頭ヲ掉シテ應セズ諳厄利亞ノ地方ヲ指シテイキリスト云次ニゲビスンニ指サシタル時ニ頷タルニヨリテ其魯西亞人ニ非スシテ諳厄利亞人ナリト云コトヲ知ル
其諸國之名ヲ稱スル所和蘭ノ語ニ似テ魯西亞ハ異ナリ及ヒ其他ノ言語モ和蘭ニ似タルコトハ多ケレトモ魯西亞トハ異ナルカト覺ユ是又其魯西亞ニ非ルコトヲ見ツヘシ 余又指ヲ以テ圖上ノ諳厄利亞ノ方位ヨリ南海ヲ經テ神州ニ至ルノ船路ヲ案シ又北海ヲ經テ神州ニ至ルノ船路ヲ案シテ示スゲビスン指ヲ以テ南海ノ船路ヲ案ス是ニヨリテ其通船南海ヲ經ルコトヲ知ルゲビスン又指ヲ以テ西海ヨリ西(ママ)墨利加ヲ經テ 神州ニ至ルノ船路ヲ指ス是ニヨリテ又西(ママ)墨利加ヨリ通船スルコトアルヲ知ル余又圖ヲ指テ西洋諸國ノ名ヲ呼フゲビスン經度ト緯度トヲ數ヘ其會スル所ニ至テ各國ヲ指點スルニ悉ク吻合ス 但ロシヤヲ聞シ時ゲビスン圖上ノトポルスキヨリ少シ東ノ方東京師ヲ距ルコト五六十度ノ地ヲ指テロシヤト云又モスコーヲ問フニトポルスキヨリ少シク南ノ方師ヲ距ルコト六十度計ノ地ヲ指テモスコート云再三問タルニ其答ルコト皆同シ今マテ余カ見タル所ノ諸國及ヒ諸書ノ誤リアルカ又ハゲビスンノ記憶ノ誤シニヤ未審其説ハ別ニ論スヘシ 又勇三郎ヲシテ夷ノ何輩ノ故ヲ以テ渡來セシト云フコトヲ問シムゲビスン氣ヲ吹キ手ヲ搖ス其狀鯨ヲ捕ルト云ニ似タリ 氣ヲ吹クハ鯨ノ潮水ヲ吹クヲ形容シタル也 故ニ余モリノ形ヲ畫テ示ス モリトハ鯨ヲ刺ス器ノ名ナリ ゲビスン頷キタル故ニ其捕鯨ノタメニ來リシト云ノ意ナルコトヲ知ル 夷輩海上ニ停泊シテ常ニ鯨ヲ捕ルコトハ實事ナレトモ其來リシ本意ハ左ニ非ルコト明ナリ然ルニ俗間ニモ亦夷虜捕鯨ノタメニ來ルト云謬説ノ行ハルヽコト亦夷輩ノ狡謀點計ノ爲ニ其欺ヲ受シニヤ 余其實情ヲ吐カサルコトヲ惡ミ形容ヲ以テ是ヲ詰ンニハ如何シテ其意ヲ通スベキト思ヒ彼カ顔ヲ熟視セシ間ニゲビスン其色ヲ曉リシニヤ別ニモリノ圖ナトヲ畫キ他ノ事ニ轉シテ其言ヲ濁シタルカト見ユゲビスン又西洋諸國海舶ノ幖旗ノ圖ヲ畫キ各其國名ヲ呼テ余ニ示ス余其文采ノ色ヲ問ント思ヒ先ツ其畫ク所ノ圖ニ就テ一幟ヲ指シ 即チ下ニ出ス所イキリス旗ナリ 次ニ夷ノ服ノ赤色ナルヲ指ス夷余カ服ノ青色ナルヲ指ス是ニヨリテ其幟ノ青色ナルヲ知リ一幟
毎ニ何レモ如此シテ皆ソノ文采ヲ詳ニス其圖如左 萬國航海幖旗圖ニ合セ見ニ大同小異アリ
              

 引用者注:ポルトガルの旗 

  中ニ畫キタルハ地球ナリト云其上

 

        は二つ挙げてあります。

  ニアルモノハ冠ナリト云

 

        

  地球ハ青白赤如此ニ采色ヲ施ト云

 

     
又方今西洋諸國戰爭ノ勢ヲ問ント思ヒ圖上ニ就テ
和蘭諳厄利亞トヲ指シ左右ノ手ニテ兩指ヲ打合セテ示シタレトモ曉ラス又兩拳ヲ打合セテ示シケル時夷三名微笑シテ曉リタル色ニテ頷タリ是ニヨリテ和蘭諳厄利亞トノ戰爭アル事ヲ知ル又トルケス ロシヤト云テ拳ヲ
打合セタルニ又頷タル故
都爾格魯西亞ノ戰爭ヲ知レリゲビスンイキリス フラント云テ
拳ヲ打合セ又
イキリス スパイン云テ打合セシ故諳厄利亞佛郎察 伊斯把泥亞ノ戰爭ヲ知レリ又各其相服屬セル國々ノコトヲ問ント思ヒゼルマニヤト云テ大指ヲ出シヲランダ
ト云テ小指ヲ出シタルニ夷頷タル故
和蘭爾馬泥亞ノ屬國ナルコトヲ知リ又(ママ)
ニヤ云テ大指ヲ出シポウレント云テ小指ヲ出シタルニ夷頭ヲフル故其屬國ニ非ルコトヲ知ル又ロシヤト云テ大指ヲ出シポウレント云テ小指ヲ出シタル時夷頷タル故波羅泥亞
ロシヤニ屬セシコトヲ知ル夷又ロシヤト云テ大指ヲ出シシベリヤト云小指ヲ出シロシヤ
云テ大指ヲ出シ
トルケスト云テ小指ヲ出シタル故止白里亞 度爾格魯西亞ニ屬スルコトヲ知ル余又右ノ如クニ問テ雪際亞モ亦魯西亞ニ屬スルコトヲ知ル夷又右ノ如クシテ拂郎察 伊斯把泥亞諳厄利亞ノ屬國ナリト云余又問フ爾杜瓦爾伊斯把泥亞ニ屬シ翁加里亞八爾馬泥亞ニ屬スルコトヲ審ニス 夷初ハイキリストフランススパイント戰フト云又ロシヤトトルケスト云戰ト云シニ此ニ又各其所屬ナリト云シコト心得カタシ 思フニ本ヨリ互ニ戰爭セシカトモ其カ敵セスシテ大半服從セシニヤ猶熟考スヘシ〇又ホルトカルノコトヲ問シ時 夷小指ヲ押ヘテ僅ニ小指ノ半ノミヲ出シタルハ屬國ノ又屬國ト云フ意ナルヘシ方今ノ勢ハ甚タ衰弱ニナリシト見ヘタリ 夷又河天突天ノ地ヲ指シテイキリスト云又印度〔莫臥兒〕ノ地ヲモイキリスト云 印度ノ地ノコト初ハ其南海ニ沿タル地五六箇所ヲ指シテイキリスト云シカ後日問答ノ時ゲビスン及ヒ他ノ夷兩三名圖面ヲ熟視シ印度ノ北界ヲ手ヲ以テ數々摸索シ互ニ論定シタル色ニテ余ニ向テソノ北界ヨリシテ皆イキリスト云是ニヨリ莫臥兒印度等ノ地ヲ一圓ニ併セ得タルコトヲ知也 南海中ノ諸島ヲモ三四箇所ヲ指テ皆イキリスト云 新和蘭ノ地モイキリスト云テ指シタリ〔ルカ〕ヤウナレトモ疑キ故後ニ再ヒ問フニイキリスニハ非ト云 多クハ近來併吞シタル地ナルヘシラハリコ島ヲ問フニスパイント答フ マラバリコハ小笠原島ヨリ南方ヘ連リタル諸島ノ總名ナリ〇按スルニ正德中モローマ人ノ新井氏ニ答ヘシニモ 神州東南ノ海島ヨリ金銀多ク出ルヲイスハニヤ人取リ得ルト云シモ即チ此島ノコトナルヘシサレハ此島ヲイスパニヤノ闢キシコト既ニ年久キコトト見ヘタリナイデシコヱツ島ノコトヲ問ニニヨイポン日本ト答フ 小笠原島ノ北方ニアリテ房總常陸等ノ正東ニアタレル島々ナリ遠夷ハ是ヲ日本也ト云フニ我國ノ人其島アルコトモ不知也 夷西海道ノ地ヲ指テロテ琉球ト云余ニツポント云夷領ス夷又蝦夷ノ地方ヲ指テゼス蝦夷ト云又ニユイポント云海外諸國ノ形勢其詳ナルコトヲ得カタシト云ヘトモ其概略ヲハ聞コトヲ得タリ因テ又勇三郎ヲシテ今度渡來セシ故ヲ再ヒ問シムゲビスン答フル所分明ナラザリシガ其語未タ終ラサルニ夷メトトンナル者傍ヨリ輿圖ヲ指サシテ 神州ノ地方ヨリ諳厄利亞マテノ海路ヲ四指ヲ以テ再三撫テタリ 神州ヲ服從セシメント云ノ意ナルヘシ惡ムヘキノ甚キナリ」此事ハ監察府ノ人々マテモ皆カクト察セシナリ 時ニ日既ニ昃タル故何レモ旅宿ニ歸ントセシカ夷中ニ色黑ク容貌モ異ナルモノ一人アリ余初ヨリ其異種ナルコトヲ察シタル故其名ヲ呼ント欲シテルチント呼シニ彼者ハ不來シテ他ノ夷來レリ ルチンモ夷人ノ名ナリ余黑面ノ夷ヲ呼ント欲シタレトモ其語ヲ通スルニ由ナキ故試ニ一人ヲ呼出テ是ニ因テ彼者ノ中ニテ一人ヲ呼フト云ノ意ヲ示ンタメニ先ツ取リアヘズ一ノ名ヲ呼タルナリ 余喚タル所ノ名彼者ト相違シタル故面色黑キ者ト云コトヲ曉サント思ヒ自ラ余カ面ヲ撫テ又夷ノ服飾ノ黑キ所ヲ指サスゲビスン會得シテテーラント呼フ テーランハ黑面夷ノ名ナリ 色黑キ夷聲ニ應シテ來ル余其何レノ産ナルヲ問ント思ヒ先ツゲビスンヲ指テイキリスト云次ニテーランヲ指テカムサスカ ト云是ハ言語ヲ通スルニ由ナキ故漫ニ東北ノ地名ヲ呼シ也 ゲビスン曉リテマレケント答フ其地方ヲ問ニゲビスン北亞墨利加ノ沿海ノ地ヲ指ス即チ圖面ニ新諳厄利亞ト書スル所ノ地ナリ因テ其他ノ夷ヲモ一々ニ問タルニ何レモイキリスト答フ 後ニ通詞吉雄某訊問セシ時ニ和蘭出生ノ者一人アリテ和蘭語通シタル故通譯スルコトヲ得タリト云然ルニ是ヲモイキリスト答シハ今イキリスニ住スル故ナランカ諳厄利亞ト和蘭トハ僅ニ一水ヲ隔タル隣境ナル故容貌ハサノミ異ナラサレトモ言語ニハ頗ル異ナル所アリト云 此日夷輩初メハ頗ル疑懼ノ色アリシカ坐久キニ及テハ稍和懌セシヤウニ見エ歸ラントセシ時ニハ何レモ頓首平伏シ其中ニハ手ヲ以テ船ノ形ニナシ己カ身ヲ指シ又手ヲ帆ノ形ニナシテ早ク放還センコトヲ請ヒシモノモ多カリシナリ 夷人ノ性今目撃スル所ヲ以テ言フニ智ナルコトアリ愚ナルコトアリ勇ナルコトアリ怯ナルコトアリ常情ヲ以テ忖度シカタシ是ヲ要スルニ陰柔ニシテ親ミ易キカ如クナレトモ其中情ニ獷獰ニシテ馴カタキ所アリ今日頗ル和懌ノ色ナルカ如キモ 一時情意相接スル間ノ事ノミニシテ其終リ狼子野心ト云ル類ナルコト勿論ナリ 此夜ゲビスンカ俄ニ上衝シテ發狂ニ至リシモ中情ニ陰險ナル所アル故ニ潜ニ心思ヲ勞セシコトアリシ故ナルニヤ是ヲ以テ見ルニモ其心中明白ナラサルコト有ルニ知ルベキナリ
右問答ノ大略記シ置クコト言語文字モ通セサル夷輩ノ事ナレハ訊問セシ條々モ我カ徒撰ナラント人々ノ疑ヲ來スコトモアランカト思シ故ニ後日ニ人ノ責言モアラハ是ニ答ンカタメニ其實ヲ記シテ自ラ遺忘ニ備ルモノナリ
一五日再ヒ筆談ス其問答ノ狀大抵右ノ如クナルユヱコレヲ略ス只其訊問セシ所數條ヲ左
 ニ録ス
一類船三十五艘ノ内今度渡來セシ船三艘其中一艘ハカビタンゲビスン乘組人數四十四人
 一艘ハカビタンケンプ乘組人數三十四人是ノ外一艘ハ乘組人數二十八人ナリ 此後八日ニ
  子
(ハシ)船九艘ニテ大津ニ來リシ時ハ洋中ニ母〔モト〕船四艘來リ又此外ニ小名ノ海上ニ二艘遙カニ見ヘタリト
  云三艘ト云コト疑ヘシ〇子船ニカビタン乘組テ上陸スルコト魯西亞船ノ蝦夷地ニ來リシ時モ毎々カクノ如

一往日ゲビスンカ畫タル中ニイキリス國ノ幖旗ナリト云モノヲ余カ携ル所ノ萬國幖旗圖
 ト合セ見ルニスコツトトアル故ゲビスン等モ思可齊亞ノ人ナランカト思ヒ再三是ヲ問
 シニ毎度イキリスト答フ
實ニ思可齊亞人ニ非ルカ又ハスコツトハイキリス三部ノ中ニテ早陋ノ所ナレハ
  自ラスコツト也ト云コトヲ恥タルカ未タ詳ナラズ
一諳厄利亞國王船幖旗ノ紋ハ其本國三部ニ旗紋象リタルナリト云其圖


 

蘭書海區域ニ三重ノ獅子ハ

 

 

イキリスノ紋花輪ノ如キモ

 

 

ノヽ中ヘ獅子ハスコツト

 

 

紋樂器ハイールノ紋ナレト

 

           

モ今ハイキリス主三國ヲ合

 

 

セ有ツ故ニ一ツニ出ト見ヘ

 

 

タリ

 

 

 右紋印ノ説ナレトモ幖旗

 

 

 ノ説待合スカ

 

     
  
一今日ゲビスン畫ク所ノ幖旗ノ圖左ニ録ス

   

一呱哇國甞テ諳厄利亞ニテ撃取リシカ再ヒ和蘭ニ歸シタリト云 和蘭ヨリ再興セシカ又ハ諳厄利
  亞國外ニ志アリテ侵地ヲ歸シ講和セシカ可考
呂宋ハ今ニ
伊斯把泥亞ニ屬シ渤泥ハ和蘭ニ屬スト云
一聖老楞佐島ノ近旁ノ諸島盡ク諳厄利亞ニ屬スト云 聖老楞佐ノ本島ハイキリスニハ屬セスト云〇是
   曰南方諸島及ヒ亞墨利加等ノ形勢ヲ詳ニ問ント思ヒシカトモ是時ゲビスン病ヲ發シテ未タ全ク癒ヘス是後又往キシ
   時ハ夷輩晝寢シ居タルヲ俄ニ起シタル故何レトモ鬱氣殊ニ甚シク見ヘタレハ詳ニ問ハスシテ止ム遺憾トスヘシ〇夷
   輩眠ルコト長カラスト云ヘトモ俄ニ起ス時ハ其睡リ覺メカタシト云
一往日諳厄利亞ハ魯西亞ノ屬ニヤト問シ時ゲビスン然リト答ヘシニ側ニ居タル夷輩何ヲ 
 カ言シガ却テ魯西亞國イキリスニ屬スト云今日又再三問タルニ又魯西亞諳厄利亞ニ屬
 スト答 諳厄利亞其實ハロシヤノ屬國ナルヘシ然ルニ近來張大ニナリテ窃ニロシヤヲモ凌ントスル勢ナルカ故カ
  クノ如ク誇張セシカト思ハル其ロシヤヲ凌ントスル勢アレハロシヤト隙ヲ生シタコルトハナキカト思ヒ戰爭ハナ
  キヤト問シニ否ト答フ然レハ隙ヲモ生セスシテ其親密ナルコト知ルヘシ
一厄力西亞國ヨリ那多里亞ヲ領ス厄力西亞ト都爾格牛〔午カ〕角ノ勢ナリト云 ゲビスン左右
  ノ大指ヲ並ヘ出シテ示シタル也〇按ニギリス再ヒ強盛ニシテトルコ少シク衰ヘタルニヤ

一プロイセン國ヨリ翁加里亞ノ南方ノ地マテ領スト云
是亦本ハトルコノ地ナルニプロイセンニ屬
  スルコトトルコノ少シク衰ヘシ故カト思ハル
一敎法ノ事拂郎察波爾〇瓦爾伊斯把爾亞魯西亞波羅泥亞等ハ皆邏馬敎ヲ奉シ都爾格爾巴
 里亞亞剌皮亞等ハ皆馬哈默ノ敎ヲ奉スト云諳厄利亞ノ敎法ヲ數々問タレトモ遂ニ答ヘ
 ス
言語文字通セサレハ窮詰ルコトヲ得スト云ヘトモ其情實ハ知ルヘシ其敎法ノコト諸書ノ載ル所ヲ以テ考ルニ和
  蘭ト同派ナリト云コトモアレトモ又イスハニヤト同派ニナリタルコトモアリ又邏瑪ノ伴天連ヲ乘セテ淸ヘ渡ラント
   セシコトモアリ又采覺異言等ニモ天敎ニ習コトアリ〇又其旗紋ニ十字ヲ畫キ蘭書ニ載スル所ノイキリスノ紋印ノ上
  ニ其王ノ冠ニモ十字形アリ〇又近世ニ至テモ文政元年浦賀ニ來リシ時モ邪敎ノ蠻書ヲ土人ニ與ヘ去年銚子港ニテモ
   漢文ニ書タル邪敎ノ書ヲ土人ニ與ヘタル類ヲ以テ見ル時ハ其邪徒ナルコト瞭然タリ又ゲビスンカ姓ヲヨワント云此
   ヨワント云コトハ耶蘇ノ弟子名ニシテ即チコレヲ己カ名ニ冠ラシムト云コト新井氏ノ書ニモ見且邪徒ノ名ニヨワン
   ト云モノノ多キモ是亦其一證トスヘシ
一今日ゲビスン自ラ筆ヲ取テ鯨ヲ捕ル圖ヲ畫カク其意ヲ察スルニ往日メドトンガ圖面ヲ
 撫テヽ其實情ヲ明シタル故其事ヲ晦マサントシテ鯨ヲ捕ルタメニ來レリト云コトヲ再
 ヒ示セシナルヘシ
右ノ外談話ノ間異聞モアレトモ瑣末ノ事ヲハ多ク略シテ記サス其大要ヲ擧ルノミナリ
文政甲申六月健齊(ママ)主人書於大津寓舎

     
辨 妄 附
一、諳虜今度渡り來りし事交易のために來るとも云又漁獵のために來るとも云巷説紛々
 なれ共皆信するに足らす總て西洋の諸國犬羊の性とはいへとも古より通商を事とし萬
 里の波濤を凌き殊方異域を經歴し聞見も廣きに隨ひ自然に志氣も廣大になり四海萬國
 を併吞するを以て業とす是を助るに耶蘇の邪敎を以てし通商を名として至る所の國と
 親み近つきて窃に虚實を察し怠惰虚弱なるをは兵を擧て是を襲ひ又其虚の乘すへき事
 なきをは邪敎を以民心を誑し其國を奪ふの術を施す是に於て絶海萬里の外迄も其屬國
 に成もの多し諳虜の如きも本より魯西亞の與國にして亞弗利加洲の南端を併せ印度の
 地をも領し南蠻諸島をも數多有ち亞墨利加に新地を開き又其内地に近き所にては小笠
 原島邊をも彼か同類のイスハニヤにて大半領する事なれは是亦イキリスの屬島も同樣
 也此地よりして我東洋に往通する故隣境に異ならす是に依て比年東洋に停泊し樣々の
 方便を以内地の民に馴親み海底の淺深を測り山川の形勢を圖し海岸の地をもしはしは
 踏試み不斷に内地を窺ふ事即ち是まて彼輩か海外諸國を併吞せし其故智なれば禍
〔心〕
 いを包
藏する事情實既に明白也然るに是を漁船商船等と云なして人心を怠らしむる事
 趙高の徒の山東の兵を鼠窃狗盜と云て欺罔を逞くせしに異ならす且西洋の船は一船を
 漁にも商にも又戰艦にも兼用る事世の知る所なれは商漁船なりともいかてか是に備へ
 さるへき況や海上にて大銃を放ち或は邊民に邪敎の書を授けし類の事も漁商には無用
 の事なれは一通りに漁商と心得へからさる事勿論なり余今度夷人に其來りし故を問ひ
 しに初は捕鯨のために來ると云又再ひ是を問ふに及んては輿圖を見て何とか言ふ所に
 他の夷人傍より圖面を内地の方位よりイキリスの地方まて再三撫たるは此土をも彼か
 屬國となさんと云の意なるへし是余か如此察したるのみに非す其坐に有合ふ人々も皆
 かくと思はさるものはなかりし也扨其後重ね訊問せし時に夷人筆を把て捕鯨の圖を畫
 きたるは前日其實情を明せしを晦まさんとて捕鯨のために來りしと云事を又示せしな
 るへし是を見る時は夷輩の容易に實情を明さゝるは明白也又西洋諸國宗門の事を尋し
 に皆其實を以告けたれともイキリスの宗門を問ふに至ては隱して言へす彼夷人共國禁
 の邪宗門を尊奉する事は既に明證もある事なれ共自ら隱蔽する事かくの如し是亦その
 情實を吐露せさるの一證なり又守衞の者をして渡來せし故を問しむるに守衞の者も此
 事はしばしば問たれとも分明ならす食物を乞んために來るともいへとも明瞭ならすと
 云今其意を考るに本國より來りしは捕鯨のため也此地へ上陸せしは食物を乞んため也
 と云の意なるへし然とも人の國に初て來り物を乞來るの意なるに於ては其擧動穩便に
 こそあるへきに初め上陸せし時意氣物々として人家を窺ひ婦女に戯れまた洋中にあり
 し本船も海岸近邊まて下ヶ繩等を以て地形を測量せし事是人々求る事あるものゝ擧動
 と云へけんや縱ひ其解は食物を乞とも云へ其實は形勢を窺ひ試みたるに疑なし其實情
 を知らんと思はゝ己か眼を以見るへし妄に彼か虚言を信すへからす且縱ひ彼か言所信
 なり共數十年前より沿海の地を窺ひ其中には蘭人に賄賂を行ひ詐て蘭人と稱して長崎
 に停泊せし事も有又其後には長崎に亂妨をなし長崎奉行も櫐〔變?〕死せし事さへあり
 し程の冠賊なれとも何の憚る所もなく眼前に數艘停泊して漁事をなすさへ惡むへきに
 上陸さへして物を乞に至れり 神州を蔑如せし事是より甚しきはなし然るを神州の人
 にして冦けて彼を捕鯨乞物等と云なす事冦賊に荷擔す彦其罪迯れ難かるべし
一夷舶にて大炮を放ちたるを類船へ合圖のためなると云事全く海邊愚民臆度の説より出
 たり大砲の聲初て聞へたるは五月晦の事也是時余途中にて村民の語を聞に何れの村何
 れの人も皆異口同解に何の故なる事をしらすとて恐怖するのみ也是日は川尻の民に一
 人ありて事の合圖のためにもあらんかと云たるのみ也然るに行伍の内にも合圖と云事
 を誰人の言ともなく傳誦す是其心に憂懼する事有時は少しなり共其憂を解くへき事云
 になさんと欲する人情にして譬は大病人のある家にて病人の惡症をいふ事を忌み樣々
 に分解して惡症とはいへとも生路ありなとゝ云なすの類なるへし然所翌日に至りては
 合圖と云説も稍傳播したれとも其實縱を見たる人一人もなき事也又其日鉛子の飛ふを
 見たる者ありといふ説も行はれしや追て其説を究問せしに伊師濱の民大きく
坪名といふ
 所に田を植て居なから是を見たりと云
數人の説皆同し 余其地をも經歴して親く説て即ち此
 所なりといふ事をも究めたり
海岸に松樹ありて其蔭に有所の谷津田なり〇又郷土の中にも飛丸を見たる
 もの有と聞たれとも其人に親く聞たる事に非る故略す
是等之事も里巷の説なれ共合圖と云説に比す
 れは却て實跡ある説なり合圖といふ臆度の起りたるは初め陰雨中に砲聲を聞たるに依
 て類船も見え分らされは合圖なるへしといふ事を云出したる也然とも晴日にも砲聲の
 響たるを餘(ママ)も親く聞たりされは其訛説なる事知るへし且夷舶の洋中に停泊する
 事數年なれ共今日に至る迄雨中にも砲聲を聞たるものなし今度に限りて雨中の合圖に
 砲を發すへき謂れなし又合圖ならは兩三發にして足るへし半日の間に二十發に過たる
 は合圖に非る事明也又捕置たる夷人に本船所在を知らするためやと云説もあれとも是
 亦其響さへ陸地へ聞ゆれは濟む事なれは兩三發にしても事足るへし又所在を知らせむ
 とならは夷人を捕置たる間は毎日砲を發すへきはすなるに前後の日には砲聲も絶てな
 く且此三數日のみに限りて發すへき謂れもなし何れも臆度の説にして其實に非と知る
 へし
  按するに西洋諸蕃海上に通船して諸國諸島には事に若妨害をなすものあれは大砲を
  放て是を驚す事本より聞及たる事也今夷情を察するに五月廿八日上陸して捕らる廿
  九日橋船一艘にて來り迎へしか空
く歸る晦日には船數を増して四艘にて推參し又洋
  中にて大砲を
發したり是等の事を合せ見るに必す人を驚し威を示し夷人を取返さん
  とせしなるへし六月八日重ねて來りしには又船數を増て七艘にて來り役人と問答の
  間に又二艘來て九艘と成喧呼して地の夷人を歸さん事を要求し又巨舶四艘
を海上に
  かけならへ事を生せんとする形勢を示す是皆人を威し己か求る所を得んとせし事明
  白也前後に就て是等の事情を合せ見る時は彼か海上にて砲を發たる故も隨て知るへ
  きなり
   右巷説里語の訛を解し鼠狗等の妄を破らんと筆を下せしかとも暇あらさるゆゑ半
   途にしてやみぬ
   
                      
 

 

 

 

 

     (注) 1. 上記の「会沢安(正志斎)『諳夷問答』」は『国立国会図書館デジタルコレクション』に収
          められている『日英交通史之研究』(武藤長藏著、内外出版印刷株式会社・昭和12年4月
          1日初版発行、昭和16年1月25日改訂増補第二版発行、昭和17年8月5日改訂増補第
          三版発行)に、「日英交通史料(十三)」として収録されている『諳夷問答』
(同書469~481
            頁)
によって記
載しました。
            『国立国会図書館デジタルコレクション』
 → 『日英交通史之研究』(改訂増補第三版)
                                 『諳夷問答』のコマ番号は、294~300/521  
            なお、『諳夷問答』は、『暗夷問答』と書かれることもあるようです。
         2. 上記の「日英交通史料(十三)」は、初め昭和9年9月1日発行の『長崎高等商業学校
           研究館年報』に掲載されたもので、この年報に掲載された本文は、
『長崎大学学術研究
           成果リポジトリ』で、
鮮明な画像で見ることができます。 
             『長崎大学学術研究成果リポジトリ』 → 
『日英交通史料(十三)』  
         3.ここに掲げた本文中の図版は、『日英交通史之研究』にあるものを利用させていただき
          ました。
         4. 表記について
            (1)(ママ)という文字は、引用者が付したものです。
            (2)
〔 〕で示してあるのは、文中の右わきに小さく付記してある文字です。
            (3)文字を小さくして表記してある部分は、二行に分かち書きされている部分です。 
            (4)平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの仮名を繰り返して表記し
             てあります(「しはしは」「しばしば」)。
            (5) 文中の「西墨利加」は、「亞墨利加」の誤植と思われます。
 
            (6) 文中の「ゲビスン
〔南手ノ〕指ヲ擧テ三タビ示シ」とある〔南手ノ〕は、〔兩手ノ〕の誤
             植だと思われます。 

            (7) 文中の「波爾杜瓦爾」の「杜」は、本では手偏になっているのを、手偏ではうまく
             表記できないので、木偏の「杜」にしてあります。

            (8)  文中に「入爾馬泥亞」と「八爾馬泥亞」とが出てきますが、「八」は「入」の誤植
             だと思われます。
            (9) 文中に「爾巴里亞」が出てきますが、これは「巴爾巴里亞 」の「巴」が落ちたも
             のと思われます。
             (10)  本文には上に挙げたものの他にも誤植ないしは書き写しの誤りが幾つかある
             ようですが、今回はこれには詳しく触れていません。

         5. 『日英交通史之研究』所収の『諳夷問答』は、旧水戸藩の漢学者寺門勤氏方に伝
          わったものを、同じく水戸出身の近藤常明氏が著者武藤長蔵氏の依頼を受けて蒐集
          されたものの由です。この写本を写した人は、寺門誠氏で、寺門勤氏のご子息とのこ
          とです。
         6.『諳夷問答』の「諳」とは「諳厄利亞」(アングリア、つまりイギリス)のこと、したがって、
          「諳夷」とは諳厄利亞(イギリス)の夷人ということです。
         7. 漢字で表記されている国名・地名を、注の12に挙げた栗原茂幸氏の「「新論」以前
          の会沢正志斎─註解『諳夷問答』─」という論文を参考に、できるだけ片仮名に直して
          みます。(誤りがあるかもしれませんので、お気づきの点を教えていただければ幸いです。)
             諳厄利亞(アングリア、イギリス) 魯西亞(ロシア) 和蘭(オランダ)
             亞墨利加(アメリカ) 都爾格・度爾格(トルコ) 佛郎察(フランス)
             伊斯把泥亞(イスパニア) 入爾馬泥亞(ゼルマニア) 波羅泥亞(ポーランド)
             止白里亞(シベリア) 雪際亞(スウェーデン) 波爾杜瓦爾(ポルトガル)
             翁加里亞(ハンガリー)  河天突天(ケープタウン)  莫臥兒(モンゴル)
             新和蘭(オーストラリア)  新諳厄利亞(ニューイングランド)
             思可齊亞(スコシヤ、スコットランド)  呱哇(ジャワ) 呂宋(ルソン) 
             渤泥(ブルネイ) 厄力西亞(ギリシャ) 聖老楞佐島(マダガスカル島を指
             すものと考えられる
  那多里亞(ナトリア、小アジア・アナトリア高原) 
             亞剌皮亞(アラビヤ)  巴爾巴里亞(バルバリア、北アフリカのこと) 
             亞弗利加(アフリカ) 
             
          
         
8.沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=江戸後期の儒学者。名は安(やすし)。水戸
                  藩士。藤田幽谷に学ぶ。彰考館総裁・弘道館総教。著「新論」
で尊王攘
                  夷を唱え、幕末期の政治運動に大きな影響を与えた。(1782~1863)
                                               
(『広辞苑』第6版による)
           会沢正志斎(あいざわ・せいしさい)=(1782~1863)幕末の儒学者。水戸藩士。
                 名は安
(やすし)。藤田幽谷に学びその思想を祖述・発展させた。彰考館
                  総裁。藤田東湖とともに藩の尊攘運動を指導。著「新論」「迪彙篇」など。
                                             
  (『大辞林』第二版による)
         9. 瀬谷義彦先生が、『茨城県大百科事典』(茨城新聞社、1981年10月8日発行)に、この
          事件について「大津浜異人上陸」という項目で大変分かりやすく書いておられますので、
          少し長くなって恐縮ですが次に引用させていただきます。
           
1824年(文政7)5月28日、2隻の小舟に分乗した異国人12人が本船を離れ、水戸藩領大津浜(現・北茨
              城市)に上陸した事件。これは鎖国日本にとって、かつてない大事件であって、翌年2月、幕府が全国に布
              告した異国船に対する無二念打払令(むにねんうちはらいれい)は、この大津浜の一件が動因となったとも
              いわれている。国籍不明の異国船の水戸藩領沿岸への接近は、とくに19世紀はじめころから頻繁となり、
              1823年6月、那珂湊に異国船が近づいたときは、藩では、鉄砲隊や筆談役まで急行させて防備にあたら
              せるという騒ぎであった。そのわずか1年後の突然の異人上陸であるから、水戸藩の騒ぎは大きかった。
              水戸藩では大津を直接治めていた付家老の中山氏の報告により、先手物頭(さきてものがしら)や筆談役、
              大筒(おおづつ)係など総勢230人あまりが大津へ出動して、まるで戦争に臨むような騒ぎであった。筆談
              役の1人に選ばれた学者の会沢正志斎(あいざわせいしさい)は、筆談の結果、それがイギリス人であるこ
              とを知った。水戸藩の報告を受けた幕府でも、代官古山善吉(ふるやまぜんきち)や蘭学者の通訳吉雄忠
              次郎(よしおちゅうじろう)ら40人近い1隊を現地に派遣して、尋問にあたらせた。その結果、上陸イギリス人
              は捕鯨船員であることを確認し、野菜・鶏肉そのほかを与えて6月11日、全員を解放して本船に帰した。
                                                                (同書、174~175頁)
       10. 『水戸市史』中巻(二)の第11章 寛政・文化文政期の藩情「第2節 文化文政期の政
          情」に「異人大津浜上陸」の項があり、そこには次のようにあります。
            文政七年の四、五月ころになると、またまた異国船の出没がはげしくなり、五月二十八日には、       
            大津(北茨城市)の浜へ、異人一二人が上陸するという、水戸藩でもはじめての事件が起こった。
            大津は附家老中山氏の知行地だったので、中山氏の多賀郡手綱(高萩市)の陣屋から役人を派
            遣して上陸の異人を軟禁し、水戸と幕府に急使を出して事件を知らせた。水戸へは二十九日急使
            が届き、早速評定所か先手物頭庄勘衛門らをはじめ、目付・徒目付・筆談役、大筒役ら数十人の
            武士が現地に急行した。また大津のほか川尻・湊へも大筒役などを交えた一隊が派遣された。中
            山氏も多数の武士を出し、郷士や猟師らも動員され、大津の浜はさながら戦場のようであった。異
            人らは二艘の船を大津浜三町ばかりのところへとどめおき、伝馬船二艘に乗って一二人が上陸し     
            た。中山氏の出動状況を記した「異国船御手当控」によれば、二十八日午の刻(午後一時ころ)あ
            たりから夕刻まで、大筒(大砲)を数度打つ音が聞こえ、二十九日もまた大筒の響きが天地を震わ
            し、戸障子へ響き、雷をあざむくばかりだったという。
             大津へ派遣された筆談役は、いずれも幽谷の門人の会沢正志斎と飛田逸民(武明)の二人で
            あった。この時の情況を記した逸民自筆の「異舶筆譚雑記」によれば、彼らは二十九日水戸彰考
            館退館後、異人の上陸のことを知らされ、筆談役の命を受けて、夜九つころ(十二時ころ)水戸を
            出発して、翌晦日は石町(高萩市伊師)へ宿し、六月一日七つころ(午後四時ころ)大津へ着いた
            が、途中砲声を聞いたという。異人との筆談は三日になって行なわれた。七日には幕府代官古山
            善吉や蘭学者の通辞吉雄忠次郎、天文方高橋作左衛門ら一行が到着して、異人の訊問に当た
            った。その結果、異人一行は英国捕鯨船員で、薪水を乞うための上陸であったことがわかり、幕
            吏の指図で十一日に釈放することとなった。これについて「続水戸紀年」は「何ゾ温柔ニ処シテ免
            シテ帰ラシムルヤト云テ、士人憤激シテヤマズ」と記しているが、幕吏の処置を手ぬるしとして憤
            激する者のあったことは、正志斎や幽谷らの態度をみても明らかである。(同書、464~465頁。
            この項の筆者は瀬谷義彦氏。なお、『水戸市史』中巻(二)は、水戸市役所・昭和44年9月10日
            発行。)

        11.江戸幕府の命によって大学頭林復斎らが編纂した対外関係史料集『通航一覧』第五
          (国書刊行会、大正2年8月25日発行)に、この事件に幕府及び水戸藩がとった処置の
          有様が詳しく記録されています。

              
通航一覧 巻之二百六十一 諳厄利亞國部十 〇狼藉始末常陸國大津濱
             『国立国会図書館デジタルコレクション』
                                    
 
『通航一覧』第六 コマ番号 232~237/276

        12.異国船に与えた品物は、上記の『通航一覧』によれば、次のようになっています。(「
          之二百六十一」に出ています。『通航一覧』第六 コマ番号 236、237/276
 
            (1)文政7年7月19日の柳橋藤蔵の書状によれば、
              此方より遣候品々、米二斗、喰二鉢、青梅・薩摩芋・枇杷・李・葱、いつれも一籠宛、
              鷄十二羽相添遣申候
            (2)「申諭」書のあとに記載されているもの
                 異国人被下候品々
             一 りんご三百五十、一籠   一 枇杷四升、一籠  
             一 大根一把五十本つゝ、十把    一 さつま芋三十二本、一籠
             一 鷄、十羽    一 ひよう、一籠     一 
酒五升入、一樽
               以上  
           
 ここに出てくる「喰二鉢」「ひよう、一籠」とは、何のことか不明です。お分かりの方がおられましたら、
             ぜひお教えください。(2016年5月8日記)
 

            
「ひよう」について
               2018年6月30日
、茨城大学図書館で開催された土曜アカデミーの「古文書寺子屋へよう
              こそ!─  次のもう一歩 ─ 」 という公開講座で、
宮城県から来られたというあるお方から、 「ひよ
              う」とは山形県などで食用にされている雑草のこと、と教えていただきました。ありがとうござい
              ました。
                調べてみると、フリー百科事典『ウィキペディア』の「スベリヒユ」の項にも、
               「スベリヒユおよびその近縁の種は健康食品としても使われるω━3脂肪酸を多量に含む植物
              として知られている。山形県では「ひょう」と呼び、茹でて芥子醤油で食べる一種の山菜として
              扱われており、干して保存食にもされた。また、沖縄県では「ニンブトゥカー(念仏鉦)」と呼ばれ、
              葉物野菜の不足する夏に重宝される。」
               と出ていました。
                試みに手元の辞書を引いてみると、
広辞苑』にも、
                  ひょう【莧】 〔植〕ヒユの訛。
               と出ていて、「ヒユ」の項を見ると、
                ひゆ【莧】ヒユ科の一年草。インド原産で古くから栽培。葉の高さ約1㍍。葉は菱形で柔軟、
                  赤色を帯びるものもある。夏から秋、黄緑色の小花を穂状に付ける。葉はゆでて食用と
                 する。日本にも類似の野生種が数種ある。また、広くはヒユ属(学名アマランサス)植物
                 の総称で、食用作物や観賞用のハゲイトウなどを含む。ヒョウ。ヒョウナ。〈季・夏〉〈本草
                 和名〉 
 
              と出ていますが、説明ではもちろん、挿絵を見ても、スベリヒユとは全く違うようです。広辞苑の
              「すべりひゆ」の説明には、
                スベリヒユ【滑莧】 スベリヒユ科の一年草。世界の暖地に普通の雑草。茎は地をはい、暗紅
                  色。葉は多肉で対生し、楕円形。夏、鮮黄色の五弁の小花を開く。果実は熟すと上半部が
                  帽状にはずれ、種子を多数放出。茎・葉は食用、また、利尿・解毒剤にも用いる。イハイズ
                  ル。漢名、馬歯莧。〈季・夏〉
              と出ています。
               『日本国語大辞典』には、
                ひゆ【莧】〖名〗「ひゆ(莧)」の変化した語。〔いろは字(1559)〕
                ひゆ【莧】〖名〗ヒユ科の一年草。インド原産で、古くから栽培されており、現在でも、ときに蔬
                  菜として畑で栽培される。高さ約1メートル。葉は長柄をもち菱形卵形で緑・紅・暗紅色また
                  は紫斑のあるものなど変化が多い。夏から秋にかけ、茎頂および葉腋に、ごく小さな黄緑
                  色の花が球状に密集してつらなった花穂をつくる。果実は楕円形で横に裂け、種子は黒褐
                  色。漢名、莧。ひょう。ひょうな。ひゅう。ひゅうな。《季・夏》〔本草和名(918頃)〕
              スベリヒユ【滑莧】 スベリヒユ科の一年草。各地の田畑や路傍に生える。全体に肉質無毛、紫
                  赤色を帯びる。茎は地をはい上部は斜めにはい上がる。葉はへら状くさび形で対生。夏、茎
                  
の上部の葉腋に小さな黄色の五弁花を開く。果実は球形の蓋果で上半部がとれ黒い細かい
                  種子を落とす。茎、葉は利尿・解毒薬に用いられ、若いうちはあえ物やひたし物にして食べら
                  れる。《季・夏》〔多識編(1631)〕  
補注 「日葡辞書」には「Suberibiǔ (スベリビュウ)」と
                  ある。
              と出ていました。  
             
一応の結論:
そうすると、外国船に与えた「ひよう」がスベリヒユなのか、栽培される蔬
               菜としてのヒユ(ヒョウ、ヒョウナ)なのか、ということになりますが、
文政7年7月19
               日の柳橋藤蔵の書状に出ている「ひよう」は、一般に雑草とされているスベリヒユ
               のことではなくて、
蔬菜として栽培されたヒユ(ヒョウ、ヒョウナ)のことだろうと思わ
               れます。  
                なお、別のお方からも、「ひよう」について教えていただき、『和漢三才図絵』にも、
               「ひゆ 
莧菜 ヒヱンサイ  和名 比由」 として挿絵とともに漢文の解説が出ているこ
               とを教えていただきました。(『和漢三才図絵』には「すべりひゆ 馬莧 マアヽ ヒヱン」につい
                  ても出ています。)
ありがとうございました。 
                 
                             (以上、2018年7月3日付記)
                『和漢三才図絵』は、国文学研究資料館のホームページで見ることができます。「ひゆ 莧菜」
                「すべりひゆ 馬莧」は、「巻第百二 柔滑菜」のところに出ています。

                    
国文学研究資料館 → 『和漢三才図絵』 → 「ひゆ 莧菜」 (2817/3337)
                                               → 
「すべりひゆ 馬莧」 (2818/3337)
            「喰」について
               文政7年7月19日の柳橋藤蔵の書状に出ている「喰二鉢」については、あるお方
               に次のようなことを教えていただきました。ありがとうございました。
                結論から申しますと、「喰」は「飯」の誤写ではないかと考えられるということです。
                ある文書に、イギリス船へ下した品々として、梅や夏だいこん、さつまいも、りんご、
               にはとり、酒、びわ、ひやうな、などとともに、「飯 水」と書いたものがあり、このこと
               から柳橋藤蔵の書状に出ている「喰二鉢」は、米二斗とは別に、炊いた米(飯)を送
               っていた可能性が考えられる、というわけです。
                「二鉢」の鉢は飯櫃のことと考えられ、「喰二鉢」はもともとは「飯二鉢」で、炊いた
               ご飯を飯櫃二つに入れて送ったものと推測されるわけです。このことを、現在のとこ
               ろの結論としておきたいと思います。             (2018年7月14日付記) 
                なお、注18に掲げた、
水戸の町年寄・加藤松蘿が書き写した 『文政七甲申夏異
               
国伝馬船大津浜上陸幷諸器図等』に、「めしハ至て少々用候由」「飯をくふはしい
               らす」「飯はち一ツへあまた集り喰ふ也」とあるのも参考になると思います。
 
                                                   (2018年7月21日付記)    

         
13. 『東京都立大学法学会雑誌』第30巻第1号(平成元年(1989)7月15日発行)に、栗原
          茂幸氏の「「新論」以前の会沢正志斎─註解『諳夷問答』─」という論文が載っていて、
          詳しい註解が見られます。
           栗原氏によれば、現存している『諳夷問答』は三本だと思われ、無窮会図書館所蔵の
          『諳夷問答 弁妄
』一本と彰考館所蔵の『諳夷問答畧記 弁妄 』二本だそうです。
          このうち後者の一本は虫食いが甚しく閲覧できなかった由です。
        14.東京大学史料編纂所データベース所収の外務省引継書類1026 『通航一覧』」
          中に、手書きの『通航一覧』があり、そこに
「喰貳鉢」の部分が出ています。
              
東京大学史料編纂所データベース → 「史料の所在」の「所蔵史料目録データベース」 
             → 「通航一覧」で検索 → 「9 貴重書・外務省引継書類1026 『通航一覧』」の「全表示」
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→ 152 (260,261,262)の「イメージ」をクリック内容・諳厄利亜国部
                 九(狼藉始末肥前国長崎)・諳厄利亜国部十(狼藉始末常陸国大津浜)・……

             
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「通航一覧」柳橋藤蔵書状(部分) 59/98
                               
          (2018年7月21日付記) 

        15. フリー百科事典『ウィキペディア』に、会沢正志斎の項があります。
                    『ウィキペディア → 「会沢正志斎
        16. 資料136に「会沢安(正志斎)『及門遺範』」があります。
            資料175に
「会沢正志斎「時務策」」があります。
            資料426に
「会沢正志斎『新論』巻上(読点のみの本文)」があります。
            資料427に
「会沢正志斎『新論』巻下(読点のみの本文)」があります。
         
17. 『ようこそ大船庵へ』というホームページに、「文政七年七月十九日 柳橋藤蔵書状」
          が出ています。
             
『ようこそ大船庵へ』のトップページにある「古文書コーナー」をクリック
            → 「古文書を楽しむ」の「22 江戸後期異国船渡来記録」
            →  「江戸後期異国船の渡来記録(下の「江戸後期主要異国船記録1-3へ」をクリック
            →  「江戸後期主要異国船渡来記録1」の「1824年(文政7年3月)」の右端の(▶通商一覧)をクリック
            → 
文政七年イギリス鯨漁船常陸大津へ上陸」 (文政七年七月十九日 柳橋藤蔵書状」
                                                         (2017年10月25日付記) 
       
18. 茨城県立図書館デジタルライブラリーの松蘿館文庫に、水戸の町年寄・加藤松蘿が書き
          写した 『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜上陸幷諸器図等』の原文と翻刻文とが、カラ
          ー画像で見られ、大変参考になります。

               
茨城県立図書館デジタルライブラリー  
                      → 
『文政七甲申夏異国伝馬船大津浜上陸幷諸器図等』     
                                                (2018年7月5日付記)
       19. 北茨城市大津浜の現地に立てられている北茨城市による案内板の文言を、次に書き写し
          ておきます。
                
異国人上陸
            文政七年(一八二四年)三月二十八日 二そうの英国捕鯨船が、常陸大津浜沖に現れて碇泊、鉄砲を
             持った十一名の船員が二隻のボートに分乗して富岡海岸に上陸してきた。はじめて見る巨大な黒船と
             異人の姿に村人たちは驚きあわて、平和な浜は忽ち大騒ぎとなった。
             急を聞いて駆けつけた領主中山氏の手勢によって船員は捕えられ浜辺の民家に監禁されたが、一部の
             船員が逃亡を企てたゝめ洞穴に押し込めた。沖合の本船は数十発の大筒空砲を轟かせ威嚇しながら船
             員の身柄引渡しを要求したが、拒否された為、上陸船員を残して退去、その後数日して、こんどは五そう
             の船団となって現れたが再び退去した。
             水戸藩からも出陣の兵が送られ幕府代官の下向によって取調べが行なわれた。結果船内に病人が出て、
             野菜等の補給の為の上陸とわかり、六月十日薪、水、食糧など給与し、ボートにて退去させた。
             この事件を知った水戸の藤田幽谷は一子東湖を大津浜に送り異人たちを斬るべく計ったが時すでに釈放
             のあとで果たせなかった。「常陸なる大津の浜にイギリスの船をつなぐと君はきかずや」の一首はその時
             の歌である。
             異人たちは二十日ほどの囚われの中で画をかき、相撲などとって里人と親しくなった。洞穴のそばに梅の
             老木があった。人呼んでイギリス梅という。昭和のはじめに枯死し、今は面影をとゞめていない。
             
これ以後も常磐沖には、外国船が出没し、沿岸各藩の海岸防備は厳重をきわめた。
             嘉永六年ペリーの浦賀来航に先立つ約三十年前の事件であった。
                                                      北茨城市
                                                 
茨城民俗学会北茨城支部
                                                                          資料提供
       20. 大津浜事件の詳しい資料
           『レファレンス協同データベース』に、「大津浜事件の詳しい資料、研究論文、小説、郷土資料
          などがあれば知りたい」という質問があって、それに対する茨城県立図書館の回答が出ていて
          参考になります。
           
『レファレンス協同データベース』 
             → 
大津浜事件の詳しい資料、研究論文、小説、郷土資料などがあれば知りたい」  
                                                     (2018年7月26日付記)


 

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