資料422  笠亭仙果著「なゐの日並」



 


 
      な ゐ の 日 並
                  
        
                              
   笠 亭 仙 果 著
 
 

 

 

十月二日、朝くもり少しく雨ふる。後はれたり。夜に入定のかねをきゝつゝ、けふの日記しるさんとするかたはらに女もをり。とかくするほど、物の砕くるやうなる音のして、ゆさゆさとする。すは例の地震にこそと驚き、両人ひとしくのぼりばしごをかけおりけるものか、天地も崩るゝやうに響き渡り、身も上下にあげおろしせらるゝやうなれり。去年東海道より難波諸国より、つげ来れりし地震もかゝりけんと思ふに、活たるこゝちもせず。はしご三四きだは転ぶが如くおりて、其まゝにうつぶし臥、上より女もおほひかゝる。この時、行燈の火もゆりけたれつらん。露ものゝあやも、わかれず。いよいよつよくふりて立べくもあらず。たてりとてあゆまるべくもあらねば、もし家のくづれ圧死せば、父子ともこよひかぎりの命ならむとおもひなげくに、さりともわれらはあつたのみやしろをうぶ神とし、つねにうやまひねぎまつりて、万にみたまのふゆかうぶる、あかばねのみやしろのおほんたすけもなからずやとおもふにたのもしく、声をかぎりに一命すくはせ給へと、繰返し繰返し祈り参らするほどに、今もすこしはゆるれど、立てもまろばず家も事なげなり。あらあら嬉しや。今はべちでうもあらじ。ゆり返しといふものゝあらぬほどに、はやく外のかたへ出ましと、手取々々手ひきつゝいづるに、日頃はゆがみそこなはれて、たやすくはあかぬくゞり戸の、さはりもなくおのづからにひらけゐたるは、はしらかたむき、かもゐのゆがみ、雨戸と格子戸二重になりて、庭口にたひらに敷かれたるなり。此庭口に五六寸ばかりのみぞありて、ふたの板くち穴などもあきたれば、はだしにてかけ出る事なれば、踏こみて疵もつくべきに、雨戸の上をふみてあゆみしかば、そのわづらひも釘なども出ざりければ、何のさはりもなく路次口を出、小揚の組屋敷の竹垣のもとにたつ。これまで人の上は、さらに心にも耳にもかゝらず、夢のこゝちにて地震とのみ心得て、その大小如何ばかりともおもひもたどらず。そのつよくふりし間もはづかにて、たとへばたばこ二服も吸ほどとやいはまし。此時、地ぬし吉作の家のおや子下女、松屋の父子、三河屋惣吉なども、みなともにつどひ、鼻緒屋夫婦、わたやの夫婦に、手間取古道具やの久助、その余あたりの人々もてさわぎ、嬉しおそろしといふ声またかまびすし。後々はともかくも、まづ平安に大難をのがれしを互によろこぶ。さはあれど大地震の後は、必火の災あなりといへり。心もとなしなどいふとひとしく、まづ北のかたのそらあかくなり、西に南にひむがしにさへ、火一時におこりたち、すべていとちかくはみえねど、いづこともおもひはかられず。地震のおそろしければ、高くのぼりて見むともせず。火を告る鐘つくものもなし。おのれ女とともに、聊ゆびのさきをもそこなはれず、立出しを悦ぶも、これ皆おほみかみのおほんめぐみの、いやちこなるによりてと、大地に額づきて伏拝みよろこび申、此上の無事をこひねぎつゝ、まづ御符を身につけましと、おそるおそる家の内にかへれど、くらくして入がたければ、人のともしたる挑燈かりて入見るに、つみおきし本箱みなまろびおち、もろもろのしなうちあけられて狼藉たり。壁おち又ひわれて土砂みちみち、すべてあしふみ入るべくもあらず。あらおそろしのなゐふりやと、身のけだちつゝはしのこをのぼるに、さきに三布布団を二階より下へなげおとしおきつるが、梯の下にふくだみゐたるよ。まろびおちつる時身の露いたまざりしも、この物のありけるなどいとをかしくおもふに、猶おほん神のみめぐみなりけりと、いといと尊く、砂にうづまれるはしごのぼり、まづ守袋をとりおろし奉り、次にみはこをかき懐きおり、〔割註〕此さきに挑燈にともしびともして両人たづさふ。」守りは女のくびにかけさす。かくて後、なゐふることなく、四方の火さかんにもえ、いつきゆべくもおもはれず。人々高きにのぼり、廿所ばかり、また廿あまり三四所ともいふ。まづたしかなるは新よしはら、坂本、みのわのあたり、下谷ひろ小路あたり、丸の内なほひだりにも、とほくもえあがる。本所とおぼしき所にもみゆ。かくていとちかきはこまがた也。〔割註〕豊田といふちやうりよりいでたるよし。」すべてなゐふり、家つぶれ火を出し、おほひたる木どもに、もえうつりてやくるなり。半鐘をもならし、人もおそるおそる出れど、たゞものゝおそろしくて、まめやかには火鎮めんともせざるなめり。このよ、風いとしづかなるにぞ、すみやかにはもえ来らぬ。こまがたの火、北風に南に延て、かや寺もやけぬなりなどいふ。いと近ければ心もこゝろならず。これよりさき、みはこを物にもつゝまで、もち出たるが、いとかしこければ、二階の戸棚なる、新しきふろしきとりに行、この序に、家廟の位牌とりいださむとてのぼり、戸棚の戸あけにゆくと、がばがばと二階の縁ふみこみ、さきのかたにて一尺ばかり下へおちいりぬ。今少しつよくふまば、我身も下へおちぬべき勢ひなれば、むねうちふたがりながらも、ふろしきはとう出て、かゝる時にもあやまちなきを拝謝したてまつりぬ。こよひは人々みな門辺に立あかし、風すこしかはらば、火もやもえこんとおもふに、たゞたのもしきものにすなる。地ぬしの土蔵のいとかたく造りたるが、最初にやねの瓦をみなふりおとし、はちまきおち、こしまきひらき、このかはらつちのおつる時あたりてぞ、わたやの北のかべもやぶれ、わがうしろのかべもあなあき、すべて一地面の家、いたくかたぶきそこなはれつる也。かゝれば、蔵にあるものとり出し、他にはこばんとするに、入口の三尺びさしおちたれば、人入がたく、入たりとも又つぶれもせばと、たれ入んといふものもなし。蔵のある故に物とり出されぬも、いとくちおしき。暁に至り風少しひがしにまはり、煙のこなたへおほひかゝるいとおそろし。但し火きえがたなれば、やけ来るいきほひなく、東のかはは、三好町より、おうまやがしへやけぬ。西のは、かや寺の門前にてきえ、翌日巳刻に火しづまりぬ。人々よろこぶ事限りなし。西のも南のも東のも夜あくる頃に皆きえ、馬道より花川戸へやけ行たるのみ。翌日もやけなごりの煙はげしきばかり、午時ごろまで立ぬ。新吉原潰れ、やがて所々火おこりたれば、死傷のものいくらとはかりなく、中にも岡本は、わづか三人存命たるよし、また金久は若者たゞひとり即死のよし、かゝるはめづらしき事といへり。札木や、いかなりけむ未しらず。玉やも、いもうとをなくしつるよし、よるのほどより翌日も次々も、あそび等めもあてられぬさまして、まよひ来るいとおほし。
三日も天気よし。おもふに昨夜大ゆりの後、おもひしよりは小ゆりしげからず、五六度にも及びしが、さばれ人もわれも安き心さらになく、やうやうに人のゆきゝし、又、そのつてつてにて、所々のつぶれたる、またやけたる人馬の死傷など、やうやうさまざまかたるをきくに、身の毛たちおそろしく、眼しばだゝかれてかなしく、われどちの無事を悦ぶの外他なし。ちかきわたり今ぞすこしづゝ見るに、富坂町、新町などいふところ、皆わがすまへるとなりながら、家のつぶれたる事十余戸、ひさしの落たるは家並のやうなり。壁土はいづこにもいづこにも山のごとし。圧死十三人とぞきく。まことや市ヶ谷より、肴屋伝蔵夜べ来りて、とかく手つだひくれたりき。黒舟町のらふそく商人いせ屋、幸助へ来、類焼なれば、まづかしこのものをはこびをはり、のち来りける也。火の心づかひなしとて、夜のうちに、またいせ幸がかりやへゆく。
けふも小ゆり時々なれど、おそるゝほどのはなし。されど家に入るべくもあらず。地ぬしは人やとひ、土蔵のつちをはがすにのみうちかゝる。すべてするわざもなし。ともかくも家に安眠しがたければ、はじめよりたゝずみゐたりし。小揚屋敷の外、垣の根に敷ならべたりし、格子戸雨戸のたぐひしやうじ、何くれととりあつめ、幸助〔はなをや〕、儀右衛門〔まつや〕など、けふ土蔵のつちかたづくる雇人もまじり、堀田原の馬場にかりやかたゝて、しきむしろ、布団食器のたぐひ、また火桶やうのもの、はた失てはえあらぬしなどもはこぶ。おのれも竹長持借して、ともに自筆の写本類何くれともて行、女の分はこのかりやにおき、男の分はもとの垣根にをかで、家の非常を守らんとなり。おのれいたく驚きし。げにやけさよりわきばらのほねの下いたみ、こゝちよろしからず。さならでも力もなき翁の、人々とともに何事をかすべきとて、馬場のかたへおもふき、女とゝもにやどるべく定めぬ。女といふは吉作の母、〔割注〕すなはち金六のつま、地ぬしなり。」女みちときやう下女なつ、我が女もともなり。松屋の妻は江戸の女のもとにさきに行をりて来らず。三河屋〔惣吉〕の妻は夫とゝもに、はじめより家のうちにありて、のちのちまでも出ず。さばれこよひばかりは、こゝにとまる。はなをや夫婦とわたや一家は、始終門辺の垣根にかりずみしてうごかず。此馬場より高麗やしきのうしろ矢場近きわたりの人共、心々にかりゐして夜をあかす。こゝのみにあらず、江戸中すべてかゝる事なるべし。日くれつがたより、伝蔵再きたりとりもち、このかりやに一夜あかし、四日のあさ、市ヶ谷へかへりゆきぬ。またこよひ近蔵は、われどちとともにこゝに臥し、吉作も宵のほどたけだけしくいひしにも似ず。夜ふけて此所にうちたをれねぶる。
四日、そらはれ西風はげし。下谷わたり火あらましかばと心おだやかならず。夕つかたよりなぎたれば少心おちゐぬ。まことやきのふのあさ、茶屋町にやどりゐる慈慶尼より、荷かつぎの勢たかおこせて安否をとふ。いといと心元なかりしに、そなたにも無事なりけらし。いといとたふとしと云。東橋あたりは少静なりしにや。二階をもおりずうつぶしにありしとぞいひき。けふはわが方よりもゆかではえあるまじとて、まづ玄魚を訪ふ。此あたり潰れ家みえず。あるじ云、家はつゝがなし。たゞ駒形の火の後を防ぐものなきより、いたくはたらき疲れたりと云。子供のわきまへなく、地震といふものを見まほしとて、もてさわぐには困じたりと云もをかし。これより材木町をゆく。この春新に建たる大なる家ども、二階二尺も三尺もかたぶきかゝれるおほし。松坂屋はいたみたりともみえず。慈慶尼、観音へゆかれしと云。かのせいたかおくれ居たれば、同道して広小路のかたへ少しゆくに、尼は嘉助と水茶屋の門にまちをり、おのれあひてともに無事を賀す。尼云、今より上野へなんゆく。あすにも帰りの旅立せんなど言暇乞す。路次いかにあれたらんも計られず。精しくとひきゝてさてなんたゝせ給へと云つゝ、ともに田原川までゆき、荒川をとはんとてわかる。荒川は家潰れたりと門もるわらはのいふ。さらば今はいづこに。田面にと云へばゆきみる。蛇骨長屋のあたり、湯屋は少し家めいたれど、此あたり家大かた僵れ、めもあてられず。荒川のかり小屋めくものも見つけえねば、むなしくもとのみちへかへる。東本願寺掛所は、裏門まへゝたをれ、玄関あたりもつぶれたるやうに見ゆ、大松寺をとぶらふ。本堂の正面から破風やうのもの落たり。鎮守つぶれたり。此寺に身をよする婦人どもみゆ。山城屋久兵衛をとふ。此辺潰家もあれど、この家抔は無事なり。蔵はいづこもいづこも皆そこねざるはなかるべし。誠や万や七□の蔵もおちたり。質みな焼たりけむ。金蔵寺〔割注〕菊聖天のてら也。」も大破損、此並びの家ども仆れぬ。人七人死亡せりとぞ。おうな人になきつゝかたる。しうとも赤子も圧倒されぬ。せめて赤子の助けたさに、力かぎりにひき出してなげやりしが、この溝〔割注〕堀田侯中やしきの溝。」へおちて丸裸にて死失ぬ。舅〔割注〕姑かおやか未
詳。」は物にひしがれて即死せりとかたりつゝなく。大洲侯〔割注〕加藤遠江守どの、」の下やしき西つらの長屋、またむかふの側の家も仆れぬ。御徒士組の石井氏をとふに、家つぶれて人をらず。おくにも潰家おほげ也。おのれ此石井の母がとりもちて、此おくの家に同居せよといひしを、その時さもせばといと嬉しくおぼゆ。此加藤やしきの門前のつゞきなる、酒商人林やも廂おち、人二人死亡のよし、さて馬場のかり小屋にかへるに、今たゞいまむかひなる町〔割注〕福田やしき、富坂町の北のとりつき、」の古家、かわら倒れたりきと人のいふ。けふ家にゐたる時加藤慶蔵ぬし来らる。土蔵の外いたみなしとぞいはるゝ。ひるげたうべて後、瓦町つゞきよこ町の孫八をとふ。土蔵のかべおちて、さしかけ造りたりし隠居屋つぶれたれど、老尼つゝがなしと云。又此ほど大かた出来たりける百枝の家は、いたくねじれたりとか。朝田氏をとふに、後家出てこゝも家半分はいたく損じたり。土蔵はめもあてられず。百枝は芝へゆきたりと云。浅草見付門石垣南の方の根石坼(かけ)落たるあり。馬喰町より小伝馬町あたり、大かたいたみすくなし。但し土蔵の全きは百が一つにも当らず。いとまれなる事也。横山町もおなじほど、塩町、油町もことしあらたに建たるは、瓦もうごかず。土蔵は例の全からず。藤岡屋もその定也。山崎を訪ふ。となりの湯屋つぶれて、二かいの手摺、土に埋まりをり。此家の潰るゝ時、材木町〔軒□□か。〕あたり義太夫の名とりの娘、兄弟供の男とこの処を過ぎ圧つぶされ、男はおされながら人にひき出されて命をひろひ、娘〔割注〕十八と十六か。」ふたりは即死し、又番屋善助の小屋、西村の土蔵のかべの為につぶれ、妻と弟二人圧つぶされぬとぞ。中につきていといとほいなく、浅ましくかなしきは、友人あしの屋撿挍麻績一なり。へついがしの能役者の家におもむき、家刀自の療治し針たてゐたるに家つぶれ、病人も撿挍も即死せりとぞ。山崎のあるじは浅草あたりより、わが家をもとはんとて出たるよし、こゝもとなりの又三郎〔いづや〕の蔵におされ、おくの方大にねじかたむき、あなぐら二寸ほどうごもてりとぞ。かくて浜町がしへゆくに、へつい河岸のあたり、つぶれ家おほきよし、苫屋又兵衛をとふ。平屋なれど所々かたむく。こゝもあるじをらず。佐藤鶴作二階屋の古家、つねだによろよろしたれば、いといと心もとなくおもひしに、門も仆れず柱に紙を貼て、
〔原本此所一行あけて何も記さず 〕
としるしたるを見る人堵のごとし。家傾きためれどつぶれず。土蔵はこゝも土をふるへり。入て無事を賀す。あるじ、むすめ小松女に髪ゆはせをらる。陸奥詞の医師坊主も来り、某といふ男、某の家にをりて、その家つぶれ、屋根よりかしらをつき出たれば、それを力にやねをやぶりて助り、家にかへるに、顔より血ながれてとまらぬをふきふき、人のかへり見るがうるさゝに、手拭もてつゝみかへりしなどかたる。かくて若松町を薬研堀のかたへ行。やしき町破損少し。両国橋、かり橋とも無事、廻向院もさしたる事なし。門前頭取の家などつぶれ、よこあみ小泉入口たをれ家あり。安濃津侯の下やしき門崩る。黒河翁をとふに、翁は家にをられず。このほどはづかにたてをへたるに、平屋なれば露損じたるさまもみえず。しかるに土蔵は微塵につぶれ、器財どもあまたそこなはれぬとぞ。かへりにいせ屋庄蔵をとぶらふべしとて、横町へまがると、四ッ角の自身番の前にて、お千代行燈さげ、飯櫃かなにかもちたるあへり。まづまづ御無事とよろこぶ。とかくして庄蔵も来り、家大に損じてすまひがたく、ふねを借り世帯したりとぞいふ、日くれてかへるに、雨もふりぬべき空になりぬれば、大かた人かり居をこぼち、心々にわかるゝ。げに雨には得たふまじければ、にわかにもち出せるものどもを、家のまへにはこびかへし、はじめのごとく組屋敷の垣畔
(かきぐろ)にすまひをうつすに、雨ふらずなりぬ。けふは地震火事方角づけとて所々にてうる。よる人定ころ少し、大なるが一ゆりしつ。きのふもけふも三四度四五度、はげしきばかりゆりたらん。あゆみてはしりがたし。両三度はたしかにおぼえたり。例の事ながら、たれいふとなく、こよひは大なるが震べし。観音の示現、八幡のみさとしなど、いひさわぎておそるゝにも、さりともとおもへど心も心ならず。此ほどは御守の御箱台とともに、新しきふろしき〔さらさ〕につゝみもたりしが、後は中にて一包とり出し奉り、御箱は二階にもとのごとく鎮奉り、小包のみ身をはなたず。三日馬場へ行とき、福神の御かたも竹長持にいれたるを、けふは出してともに、もとのごとく御棚に置奉りぬ。
五日、御縁日也。二日の御利益灼然なるを日夜よろこび奉り、猶向後の無事を祈り奉るといへども、らうがはしき中、ことにけがらはしき限りのまじらひなれば、何事をかなし奉り得べき。死傷の人幾千ともかぎりしられぬを、早桶も用ゐつくし、酒樽の明たる天水桶の不用なる、あら木にてさしたる箱もありて、亡骸の収べき限りのものは、悉これを用ゐおしいれてさしになひ、野にもあれ寺にもあれ。心々におくり行が、五ッ七ッ乃至十十五とゆきかひひきもきらず。身がらよき人のはかごにものすれど、五人七人送りゆくはたえてなし。五六日過てぞ武家などは、はづかに葬式めいたる事してゆくもあり。血にまみれたる人、つり台に舁れたる人、貴きはきぬ夜具につゝまれ、従者の男女とりかこみてゆくもあり。よしはらのあそび女、猶いづこにもいづこにもちりぼひあるき、中には美服目をおどろかしたるが、手拭もてかしらつゝみ、供の男具したるなど、心あてのまらうどたづね行、ものこふとぞきく。小伝馬町の窂払にいとよく似たり。誠や獄屋そこなはれて、かの窂払ありなどいふ。いとおそろし。こは浅草の溜のあやふかりければ、病たる罪人をとり出したるを、きゝひがめたるなんめり。けふより湯屋髪結床そのほか商店、よわたりのなるほどなかばみせをひらく。きのふよりすでに大道の食物商人は、つねに十倍してうる。商人ならぬも心さときは、老少も男女もいはず。おもひおもひにたべもの調じて道傍にたち、あやしのもちぐわし、すしみせ、かんざけの類ひ勝計すべからず。焼原方角うりもやうやうにかずまさる。商ふものゝおほきに、買ふ人もまたおほく。いつしかと諸色のあたひ高くして、銭も酒もをしみてうらず。かゝる天変にあひ、あやふき命をひろふと、はや食慾心熾盛して奸商利にはしり、かゝる折、大利を得ずば、やうやうに衰微する世の中に、何をもてゆくゆく饑渇を凌がんと、一時に利を得んとするさま、いといとあぢきなくあさましなどはおろかなり。けふは空はれ風も静也。祖母の服にて神前には憚あれど、せめて御門前にだに伏拝、神恩を謝したてまつらんと、未刻ごろ、赤羽根へゆくとて、まづ角久をとぶらふ。ふみや町河岸千匹屋〔水菓子や〕はつぶれ人死せりといふに、この家は新造ながらさらに破れもなく、土蔵さへ聊のそこなひなし。主人、人と酒うちのみをり。めでたしめでたしと寿ぐに、むかうなる版木の蔵損じたりとなげく。そは欲のかぎりなき也とあざむ。されど、こゝの番頭松五郎の父は、小児をいだきて圧死し、せりの安の妻もまた、小児とともに命を殞せりとぞきく。この家のつぐ子庄吉、地震の時おやぢ橋のつめなるらんかんにすがりつき居たりしに、あたりの地少しさけ、白気吹出たりと云。こは砂か。そのわれたるあと、のちにふたがりぬとぞ。或人云、大ゆりのさいちゆう、西北の空より馬のごときもの南の方へ飛行したりと、又或人は白気の南へわたりしともいふ。浅草寺の塔の九輪、西のかたへいたく曲りたるを見れば、げに、地震のみの所為にはあらじ。照降町も大かたよろし。えびす屋をとふ。こゝも無事、さてつたや吉蔵もまた無事なれど、町中にかりやつくりをり、このあたりもみなかりやあり。南伝馬町二丁目三丁目は、左右河岸通り迄残りなく焼失ぬ。をりをりの火災しようししようし、芝通りも破損多く、柴井町崩れ、宇田川町一丁目左右ともやけ、神明町は西側大かたつぶれ、神明前三島町あたりも、潰家いとおほし。しかるに神明のみやゐは、本社末社御門鳥居もつゝがましまさずと見ゆるに、たふとさ限りなく、神主も無事なり。これより芝山内も大破損はなげなり。市町も同じ。かくて将監橋わたり、武家一二軒ねりべい又家のくづれたるもみゆ。久留米侯は長屋土蔵すべていたく潰そこなはれたるに、あなたふと尊神のみやしろは、拝殿も本社も土もおちぬやうに、うしろの塀のくづれよりみいられ、御門も傾かず、御鳥居も仆れず。かうもみやしろみやしろの御恙ましまさぬは、たゞ事にはあるまじ。神田の明神も高き所なれど、さはりなしとぞきく。かくて御門前におろがみて、大なるみめぐみをよろこび申すに、今も涙さしぐみて嬉し。とばかりありて立ち、もとのみちへ帰るとき、十ばかりの袖乞の坊主児、わが手拭わすれおきしをひろひ、旦那のには侍らずやともて来る。このわらんべの志感ずるにもあまりあり。其手拭やがてあたへてもよけれど、志をもどくにも似たれば、よくこそとてうけ取、銭聊あたふるに、いと嬉しとておしいたゞく。後におもふに、せめて当百の一ひらもあたふべかりしをと、心はづかしくほいなし。さて神明前の町へ立よるに、潰家山とつもりてあゆみがたければ、うらの筋に入るに、はしなく和泉屋市兵衛のかりやを見かけぬ。市兵衛さつまいも煮あげ居て、このとほり家も土蔵も二つまでつぶし、一つのこるくらも裸なり。さばれ、人につゝがなし。いふやうもなきは佐野屋喜兵衛なり。蔵のあたりに少しのこる所あれど、家崩れ家刀自と十一になる男子、店のもの二十ばかりなる〔割註〕浅草のものゝよし、」三人圧死ぬ。あるじうつし心もなしといふ。予かねてさるやう、きかぬにもあらざりしを、さりともとおもひしなり。悔みいふさへ、顔なきやうなりとこたへ、御守も懐中しつればたちよらず、けふみちあし場いとあしく、あゆみかねてかへりは夜になりぬ。焼場方角辻売漸しなまさりて、くわしきさまに、しるせるもみゆれど、みだり事おほし。二三種かふ。あつた難波へたよりせんと、けふ京屋へよりとひけるに、正六日限書状一通三匁といふ。たよりの外金銀雑物さしたてなし。〇こよひも垣ぐろに、地ぬしの母女とともに、ざこねする。余人も例のごとく、子上刻、やゝつよくゆする。きのふよりつよきなり。また深川のかたにあたりて、午時ごろけぶり見ゆ。けふおのれ他出のあとに護岳来りしよし、又きく深川六間堀の神明宮、四方丸焼にてみやしろのあたりはさはりましまさず。これにひきかへ佐藤信吉は、子二人圧死のよし、土蔵も全くあるまじ。蔵書も灰となりけるか。毎日々々凶便のみきゝ、心きももつくるやうなり。かゝる世界なれば、御縁日なれど御燈も御酒も何もたてまつらず、いとかしこし。
六日、南風あり。のちやみくもる。空のさまあしげなど云。此ほど日だにくるれば、何の時大震あり。何の時大事也などいふ訛言しきりに行れ、吉作などさらに安心もなくもてまどふ。南部新五左衛門と楠里亭其楽へ、こたみのこと告やらんと、二通の文かいつけたるに、猶粟田因幡守にもつげ、同じくはかうをかしからぬ所にすまひせんより、帰国して赤貧を甘ぜまし。いかでさやうの時には、おりたちて助けさせたまへと、たのむよしを一通南部のに封じ入、地震火災場所づけの辻売三通ともに入る。難波へのは五ひら、この二封状を京屋へもて行。田植園とひて、きのふきたりし礼をいふ。此家そこなはれなし。さて品川屋久助焼場方角附あまた人して摺立をり。一ひらこひとりつ。またけふも山崎をおどろかすに、けふは主人も在宿、冬木川はつぶれたれど冬木氏はよし、青山おだやか深川潜蔵つぶれなどきく。又深川あたり乱妨のもの徘徊する風説なり。あらかじめふせぎの用意あらまほしと、隣家のいづや又三郎にかたらふ。又三郎いふには、われよくしれり。よのつねの狼藉にはあらず。まづしきものゝ小家どもみな潰れたる中に、財に富るはたもと某の家のみ、つゝがなし。家もなくしたづきをも失ひたる窮民ども、きのふけふものもくはず、うゑつかれてくるしきまゝ、五人七人かたらひあはせ、かの武家に米銭の合力をねがふ。家のおとな等うけひかず。うれい訴ふる事数度、のちにはいたくしかりこらしておひ返しければ、あまたの窮民ふかく怨み、いでやわれわれ餓死すべくば、慳貪武士の家を打ちくだきて腹いせすべしと、二百人ばかり党をむすび、棒鍬やうのものをもちておしよせたり。家のものいかり弓よ鉄砲よとさわぐを、あるじとゞめて云。今つくづくおもへば匹夫の志奪ひがたし。争ふとも必勝はえがたげなり。ゆりつぶされ火もてやかれたりとおもひなして、渠等が心にまかせおけとて、鳴をしづめてひそみをり。窮民等さこそあらめと、先玄関をこぼち所々乱妨し、穀倉の戸をひらき、蓄積せる穀のこりなくかつぎ出し、わけもていにけりとぞきく。乱妨とはこの事ならんといへり。またきのふおほやけより、伊勢両宮へ祈りの為、また京都所司代へつり物宿次にて発遣のよし。
こよひもよべのごとく垣根に露宿、万きのふにかはらず。かくてあかつきがた寅上刻なるべし。よべより今すこし大なるが一震ふりつ。ねぶりゐたりしかばおどろきさめて、胸とゞろき身ふるはれて歯の根あはず。誠やけふ黒川翁たづねらる。予外に出をりてあはず。またけふは伯母の忌日なれど料供も調じ得ず。夜もなかまんぢゆう少し奉りき。
七日、天気大かたよし。あさのほど玄魚をとふ。品川やのあつらへ地震火事方角付の版下かきをり。のち品川や来り外にも図どもあつらふ。品川屋は地震のをり品川にをり、震はてゝはせかへりけるよし、田町芝薩摩侯の下やしきのまへ大地裂たりと云。いかゞあらん。金竹江川なども来り、こよひもなほかきねの野宿、よひに〔酉中刻〕いと大なるが一つゆりつ。さりとて二日のとはくらぶべくもあらず。さばれ田原町あたりの古家又つぶれたりなどいふ。いとおそろし。かくて亥中刻ごろたしかにまぎれぬばかりの一たび、子刻ごろ小ゆすり以上三度、人々おそれまどふ。けふはあさ料供調じつ。但し一菜のみ。
八日、けふはくもれり。少しばかり雨ふりぬくべくなる。ひる小ゆすりありと云。予しらず。けふも料供を調じ奉れど、御燈も御香も奉らず、誠や家廟は三日の夜、伝蔵二階の次の間へ引出せるを、四日にいたり北のかたのかべにそへ直して、御位牌等御定位におき奉りぬ。朝は大かた、そこそこにも神も仏もをろがみ奉れど、よるは心拝ばかりにて日をへぬ。いといとほいなし。けふおほやけより鹿島、香取両宮、伊豆権現、箱根、三島、鶴ヶ岡八幡、富士浅間社、豊前国宇佐八幡宮、この八所へ寺社奉行衆より祈りの御為、つりもの宿次にて発遣す。上野、芝両山は日々いのりあるべし。こよひ松屋儀右衛門のあね女〔きく〕、へつひ河岸より小児つれ、父の家に来りやどる。こは小網松坂屋某の外妾なり。子ふたりもてり。あね五歳おまつ、末子は神田祭のころ出産、産後の手あて、人なくてゆきとゞかず。すでにすこやかにはなりぬれど、あのあたり、津波くるなどいふにおぢて、小婢つるを具し子ども二人つれ来りぬ。こよひ夜中ばかり雨ふりいでつれば、にはかにおきさわぎ、はなをやのみせにかけ入て寐つ。〔割註〕金六後家、むすめふたり、みち、きやう。おのれときりとおなつと也。」おはる〔割註〕はなをやのつま。」のみわが家なれど入らず。猶おのがかりゐに自若たり。雨にも風にもなれば、地震せぬといへば人々よろこぶ。
九日、空晴たり。夕やけ甚し。小ゆすり五度ばかりありと人はいへど、おのれはしらず。けふ家のうち、あらあらはき清め、次の間へ戸棚出し、東にむかはせ家廟を載、霊牌ぬぐひきよめ、例のごとく鎮奉る。料供つねの如し。〔割註〕北条御燈も同じ。又献香も如
例。」但しこよひは御燈も香も不奉拝するのみ。あさ飯(け)ひる飯わが家にてくふ。〔割註〕きのふまではかりやにて、地ぬしとともにたうべき。」午後武陵来り、吉原あたりとぶらはんとすといふ。おのれもさる心にてありければ同道す。武陵並木の薄荷園をとふ、無事。但し二階一と間あやふしとて縁板はづしたり。この家のへつい尋常ならぬ製なり。つちへつひにて銅壺のやうなり、煙出しあり。さて観音へ入る。□門□像の台損じたりとて、□像を出し奥の院に入置たりとしるしたる札貼たれど、実は門際の水茶屋まつち山がもとにおわすとぞきく。寺中両側寺の門悉たをれ、堂も家も潰れたるもあり。梅園院の門のみやね損じて倒れず。伝法院門の左の塀崩れたり。二王門無事。本堂も無事なれど、西のつま瓦のこらず払ひ、ところどころ損じたり。むながはらいたまず。此堂の椽の下にかりずみするものあり。いと危くおぼゆ。本尊は花やしきの植木やにうつし奉りたりといふ。奥山水茶屋など仆たるもあれど、堂のくづれたるはなげに見ゆ。猶くはしくはしらず。二王門外の地主いなりと、奥山のくまがへ稲荷は潰れたり。三社権現少し損じて無事、石鳥居くだけたり。又弁天山のまへなるぬれ仏、くわんおんかたへ体あほのけに倒れたり。弁天社も崩れたり。因果地蔵はたをれず。五重塔九輪、西のかたへまがりたり。塔はかたむかぬものときくに違はず、いさゝかのきずもなきに、九輪の折ばをるべきに勾りたるはいとあやし。物の飛行せりと云もいはれなきにあらず。随身門を出て南北の馬道より、さる若町、聖天横町、中谷をすこしのこして、北谷寺々凡て灰燼となり、土蔵どもゝさらにのこるものなければ、誠にひろき野の如し。田町、山川町のあたりやけがはらに、みち凸凹してあゆみなやむ事ものにも似ず。鳥寺に武陵のしる人仙八あれば、尋ねてもかりゐだにもしられず。門のやねの鶏くだけてちりをり、田町より土手にのぼる所、巾二尺ばかり長さ五七間なゝめに裂て、深さ三尺ばかり也。いとおそろし。五十間こなたより右側、くづれたるまゝにて火はかゝらず。高札場前へ倒れ、吉徳稲荷は仰向に仆たり。中の町吉川屋吉兵衛は、武陵のともだちなり。金杉の唐木やしやうゆぐらのうしろにゐると札出したり。又松木屋勝五郎を尋るに、山の宿の河岸としるせり。京町のうしろよりはね橋わたりて、竜泉寺まへゝゆく、入口の茶屋少しのこりて、すべて倒れぬ家なし。大垣侯の下やしきも大くづれ也。駐春亭は大破損なげなり。金杉の町、みのわへかけて大かた潰れ、例のあゆみなやむ。みさきいなりもつぶれたり。かの吉川のかりゐは、根岸の方へ一町ばかり入りて惣木戸あり、一と地面の田舎長屋あり。このあたりも竹垣は仆れり。家は大かたつぶれたり。吉川はさゝぶきの平屋の長屋のうちのしる人の家に同居したり。あるじをらず。甲州〔割註〕吉兵衛の本国、」にて、此大変をきゝ、二日の間にはせ帰りしとぞ。今はおやのもとへ行たりといへり。妻あしをいため、歩行むづかしといふ。こゝを出、みのわより日本堤へ出るに、ほそくながくつちさけたり。田中にまがるにすべて倒れぬ家なし。武陵旧友玉川兵右衛門、崩家の山のごとくつみたる中に、犬小屋めいたるうだつやつくりひそみをり。何ごゝちかすらん。かやうのすまひいづこにもいづこにもいとおほし。火災後のかりゐにくらぶれば、わびしさいくらもまされど、こぼたれながら、少しはものゝのこれるぞ猶よかりける。山谷町も大あれと見ゆ。あさぢが原をぬけて橋場へゆく、化地蔵たふれて、笠かむりたるまゝ、くびのおちたるもをかし。橋場には大伝馬町升屋喜右衛門の地面あり。家ぬしは九兵衛とて、おもてのかたに平屋きよく建すまひ、喜右衛門は川にちかく眺望よきやうに、楼などたてゝすまひしなり。〔割註〕みせは大伝馬町にありて、水あぶらをうるなり。」こゝもつぶされて、妻は死失たりなどいふものあれど、店にてきけばつゝがなしと云。喜右衛門父子、すべて庭中に、大なるかりやたてゝすめり。二間半に三間もあるべし。土間なれど、やねはあつき板もておほへり。子の平次郎も出来りぬ。主人も平次郎もすべての子どもゝ、圧倒されて身じろぎもならず。但し平次郎はあしのさきをはさまれたりしよし、善右衛門いせのおほんかみをつねも信じ奉れば、此時こそと祈念せしかば、あしに力の出来て、やうやう身もうごき出したりなどいふ。すりきずはかぎりもなけれど、けがといふほどのきずはなしとて悦ぶ。かくて橋場今戸とかへり来るに、全く立たる家はかぞふるばかりなり。寺どもゝ崩れたり。八幡宮鳥居拝殿僵れ、本社むねこぼれたれどかたむき給はず。今戸橋南のはし台損じたり。北のつめ金波楼の道五十七軒も焼たり。種魚の家はつゝがなきさまなり。入らざればしらず。聖天町あたりも破損あるべし。河岸通りひさしのおちたるはおびたゞし。山の宿河岸松木やは人の家に同居し、うらの方にすまへり。おちかのうばも、おかつも、おみちもをり。あそび一人、かむろ一人をり。まづまづ御無事とたがひにしゆくして、涙もおちて嬉し。かの時それ地震といふとやがて家倒れたりといふ。おちかは箱火鉢のかたはらにゐたれば、殊に身よくうごき、かしらをもたげて見ればひきまど也。〔割註〕天窓なるべし。」こゝにゐるかむろ、つねに愛したれば、をささんをささんと叫ぶ故、ひきよせおきつるにより、まづこのかむろを出し、さておちかいでてお安をひき出さんとて、さしいれたる手のたぶさをとらへたれば、そのまゝ力にまかせてひく。あらいたやいたや首のぬくるはとさけぶもいとわれず。首だに出さではとて、つひに助けいだしたりと云、老女のわざにはいとしたゝかなり。そのさまわざをぎのあだちが原のうばのごとくありけんとおもふにをかし。勝五郎もおかつもおみつもぶじ、あそび等ひとりもさはりなく、その夜の客とひとしく物など少しは持ち出せりとぞ。いとけなげなり。下男ひとりひとへものとりにとて、再いるとて、ひさしにつぶされ死失たりとぞ。仙太郎は新川にをりて、これも無事なり。かくて並木へいで駒形より黒船町のやけはらすぎ、武陵にわかれて家にいれど、こよひも垣根に寝よと人のいふにまかせ、夕飯はそこにてくひ、例のざこね、こよひも暁すぐるころより、雨やゝ大にふり出ければ、鼻緒屋へかけいり、しばしまどろむとせしまに、空しらみわたりぬ。けふ武陵いへらく、この程大川の水かれたり。津波の徴ならんといひさわぐ。また川水あかくなりし事あり。川上の山のくづれて、あかばねの流れたるなめりなど人云。また亜夷、長崎に舶来し、海岸暗礁測量の一件うけひき給はぬは盟約に背けり。さらばこなたより兵端をひらかん歟。けふより六十日かぎり返事きゝに来むとて、やがて出船せしよし、また桜田御門辺大に破損し、大樹たふれしとも云。すべて地震は風とたがひ、樹のたふるゝは一つもみず。こは土のくづれたる故に仆れしなめり。又云、護岳の妻、大道にてあまざけ鬻ぐよし。
十日、空晴る。きり、加藤敬蔵ぬしのもとにつかはす。家も、くらも破損少からず。鳥越の女髪結おとめをもとふ。無事也。けふ御像の御箱御符の御箱きよめ奉り、御棚もかきぬぐひ例のごとくませまつり、べつにわけてつゝみ身にそへたてまつりしも、ひとつにをさむ。但しきりにもたしたりける御守袋は、なほ首にかけさせおく。五日の御酒御餅御燈奉る。まことやをとつ日地ぬし雇工をして、すべての家あやふき所々かりに直すにつけ、二階ねだの、おちかゝりたるをつくろはす。すこしはさがりたれど、ふみても危げなきばかりになりぬれば、心づよくぞおもふ。入口は、柱かたむき、戸はづれてたちがたし。たゞおしつけおくなり。こよひ久しぶりにて内に寝つ。松屋に来をりけるおつるも来りてねる。
按ずるに圧されて死ぬよりは、かけ出して物にうたれつぶされたるが多き。おされたるは聊下にものあれば、その間
(ひま)あるをもて十に八つはしなず。かゝれば箱火鉢本箱などだにあらば、むなぎ、うつばりおちたりとも即死はせじ。況んや、たんす小戸棚などあらば、外ににげ出て、瓦、かべつちなどうちつけられたらんに勝るべし。かならず心あわたゞしく、やみなどにはせ出ては創かうむる事少からず。
十一日、くもり、よる少し雨ふる。未刻一度小震、けふ本箱類つみ直す。地震安心記五丁かきをはる。武陵、彦太郎つれきたり。けふ大音寺あたりにかりゐせる吉川屋妻のおやをとぶらひしよし、地ぬしよりあづかりしものども、みなかへしやる。けふ無事の御よろこびに御酒御餅御燈奉りをろがむ。
十二日、空よくはれ微暑、よるくもる。けさも御よろこびの御酒御燈奉る。御もちひはなし。けふは彦太郎の誕辰なれば、あづき飯ふるまはんと云しかば、ひるごろ、武陵のもとにゆく。隣の〔いづや〕又三郎も来り、ともにひるげたうぶ。赤飯に銀杏大根に、あさりのむき実の汁のみ也。心ばかり無事を祝ふにこそとなり。仙八をぢも酔てきたり、のち護岳も来り、予こゝをいで、永楽や豊蔵をとふ。こぞ火の災の時のまゝ、つくろひもせぬが却てよかりけり。ひさしはおちたれど、つぶるゝにもいたらずといふ。巴人亭も命ばかりは別条なく、八幡宮の地内亀岳がかりごやに、本店の人々とともにをるときくに、心おちゐ、太田屋をとふ。家に破損なし。かくてこゝより引かへし、深川へゆかんとす。小舟町をすぐる時、やゝ大なるが一つふりたり。てけのよく風もそよふき、空もいと高う見らるゝに、かゝる事あれば人々もてさわぎおそる。かくて永代橋に臨むに、小あみ町も南部堀あたりも全き家蔵まれ也。いづこもいづこもかきむしりたらんやうなり。永代ばしわたりて、やがて相川町みなつぶれてやけ、富吉町、中島町、北川町、諸町、熊井町、蛤町などいふあたり、黒江町ものこらず。一の鳥居もやけおちたり。八幡橋の東のつめより北側、少し残てやけねど崩れたり。永代寺門前町大島町もやけ、南側は土橋のかた迄やけゆき、北側は永代寺のきは一軒残て火留りたり。門前の鳥居無事、そりはしの中の鳥居くだけたり。本社つゝがましまさず。聊のいたみもみえず。但し西の方廻廊のやうなる所々崩れたり。亀岳の家きりぎりすばこのやうにて建り。庭に大なるかりやたてたり。縁もはりて見よげなり。亀岳にも巴人亭その妾お浜にもあふ。地ぬしの妻もをり。このほど二男真蔵、京よりかへりをるとぞ。けふはあはず。巴人亭六十にあまり病身、こぞよりあしもよわくなり遠くへはいでず。しかるに二日の夜、真蔵翁と枕を並べ、お浜は枕にそひ、よこに寝たりけるに、一ゆりつよくゆするとひとしく、家つぶれたりとおぼしく、翁も真蔵も二階のねだに圧され、いとくるしけれど、頭ばかり外に出たり。燈火は、はやくゆりきえて真のやみなり。お浜はものにはさまりたるまゝなれば、はやくむぐり出たりとぞ。ふたりは少々づつかたみにはひいづ。からくして身のぬけたる時、となりの摩利支天の堂、ゆりつぶれたるいきほひに、雨戸仆れて少しあかるくなりぬ。巴人亭手さぐりするに、ものにとりつきたるを見れば、いせのおほんかみの大宮のみはらひなり。直蔵もまた、千度のみはらひにさぐりあて、いといとたのもしく、四人〔割註〕おみのを加へてなり。おみのゝ事きかず。」手ひきひきはだしにて、瓦のつもれる上をふみふみ立退に、はやちかきわたりより火おこり、やうやう一面あかくなりぬ。かゝれば、ものひとつもとり出さず、かりまゐらせたる書ども、〔割註〕左伝二家注唐本十二冊、五雑俎八冊、蠅打六冊、遠州拾遺十冊、一目玉鉾六冊、路程全図一、南海道々中記一、九州図一、崑山集一より五までか。其内、左伝は質なり。唐詩解頤三冊。」皆焼失ぬ。いかにともすべなしなどいふ。おのれおもひもよらぬ災にかゝりたるなれど、おのが身圧つぶされたらんにくらべては、何条ことかあらん。さてかへりぢ右の町へ入り、ゆきゆきて方角たがへ、もとの相川町へ出づ。さが町も惣つぶれ、小松町の一江のながやも、うしろよりみるに、あたりは皆崩れ仆たれど無事也。誠や永代寺境内にも、おすくひ小屋たつ。大川辺霊雲院のまへ、地長くわれたり。柾木稲荷もたをれつ。御船蔵大かた無事なれど、東側は一ッ目のはしまで、みなつぶれ、蔵前町横町をのこして、南へ木下氏のやしきまで、東へは八名川町辺すべて潰れたり。八幡御たびの門内も皆つぶれたるに、高橋瑞庵のみ、つゆさはりなし。御みやも鳥居も、例の損じ所なし。まことにあやし。神田川平右衛門町をすぐるに、こゝは新に造りたりとはいへ、両側すべて露のあやまちもなし。地震こゝにはゆらぬにやと、ゆきゝの人いふ。かへり日ぐれに及びぬ。なごや神谷伝右衛門、地震火災の事きゝつたへ、母尼公のうへを、いとおぼつかなくおもひ、六日発足の飛脚けふ着て松坂屋へも行。予の方へも手紙もて来り、予他行きり請取かきてやる。おもふに今は慈慶尼もたゝれつらん。
十三日、くもりて日の影みず。夕ぐれつかた少しふり、暁方よりつよくふり、翌十四日一日ふりたり。けふも如
例御酒御燈奉りぬ。けふはあさ辰刻小震あり。日くれてひとつ暁にもありしときけど知らず。午後加藤主〔割註〕敬蔵ぬし也。」をとふ。うらにかべつちこねてときゝあはず。内方にあふ。此家げに所々損じ、中の口玄関のあたりも、新しき家ながら全からず。三味線ぼりへ行とて、鳥越明神を外より見奉るに、このあたり土蔵つぶれ、武家の塀其外崩れたれど、例とはいへど聊か地ゆりたるけしきも見えず、佐竹、下総両侯の中やしき所々くづれたり。上野町長者町すべて焼、おかちくみやしき数おほく灰となり。小笠原侯の中やしきよりむかふのやしきも北どなりもつぶれ、やがてやけつゞけ、角の町屋一軒のこりて、ひろ小路山下へつき、三橋のあたりまで東側うらへかけて焼、西側は大につぶれおほきにあはせて、仲町□□ぬやうなり。しかるに御すき屋町より芥坂あたり、立たる家門まれなり。ゆしまの天満宮も女坂大に崩れ、本社の破損おほし。池のはた茅町のかたへゆくほどつぶれ家多く、すべて人すみたるさまにもみえず。皆新土手にかりやせり。こなたより臨むに弁財祠はやね全し。さて御山内は無事ときく、さもあらむ。山下の家さしたる破損なし。たゞなにとかいへる料理屋つぶれたり。まことや伊藤松坂屋くらものこらずおち、人もおほく死傷せりとか。この所のまへ町会所の御救小屋焚出しの場となり。山下火除地に御救小屋たつ。今つくるさいちゆうなり。このあたりすべてあたりかろし。伊場氏また木村錦之丞主とふ。ともにかべひゞわれたるほどなり。大久寺のかねつき堂をかしく倒れたりと、武陵のいひしかばゆきてみるに、げにをかし。巽の方へやねのまゝあほむきて、つりがね鉄鉤にかゝりたるまゝよこたはりをり、その傍にひろくいかめしきかりやたてたるは、かのしゆろうの柱をかたどりたるなるべし。小堂どもみないたみかたむきたり。けふは日蓮の忌日なれど、寂莫としてともし火のひかりもなく、無住のやう也。広徳寺の門はよしありてひくけれど、左の柱の礎聊ゐざりぬ。菊屋橋のきはつぶれてやけたり。〔割註〕川升より出たりとぞ。」門跡表門左扉はづれてたふれたり。本堂巽の檐大に損じ、その余所々損じ、寺中門など仆たる多かり。法融をとふ。かたむきながら人すみたり。少女来てものいふ。東光寺をとひ住持(有渓法師)内方(おふで)にもあひしばし物語る。葬送来るとて人々入来りもてさわげば、そこそこに出、本法寺へ入みるに、熊谷稲荷土はふるへどつゝがなし。寺内はいたくそこなはれたり。寺々皆大破損つぶれたるもあり。本智院焼たり。おもふに菊屋橋またこゝの火もし大に延たらば、福富町も灰となるべしと、今さらそゞろさむくおそろし。神の恵いとたふとし。諏訪町裏のやけざまみて、こまやしき過て富坂町倒家のまへ、しげきかひ棒の根につまづき横ざまに仆れぬ。きものもけがれねどいとはづかし。大野屋安兵衛の養子地震のときかけ出、廂のおちて脚にきず受たるが余病加はりて昨夜みまかりぬときゝこのついでにとぶらひつ。妻お秀も顔にきずうけたれど、今はよけれど夫におくれ、いといとおもひくしたるさま也。此養子は物などはかばかしくもいはねど、裁縫のわざにたけて、をさをさ世わたりにもたづきなからず、よき人と人もいひきかし、富本流の上るりも上手なりき、をしむべし。こよひも例のごとくおつる来りやどる。また地主むすこの橘作は夜番に出で通夜す。このほどぬすびとしげしなどいふに、女どものものさびしきに、いかで中戸ひらきひとつになりてといはるゝに、さはりなしとてうけひきぬれば、ふたりの少女もわがかたはらに来りあそぶ。夜ふけからすどもはうばうなくに、月夜といへど雲もあつきに、何の徴ならんと人々あやしむ。道子一たびねたるが、おき来りきりの傍にねたり。お鶴とともにさまざまざれかはして夜のふくるをしらず。誠やけふあつた南部新五左衛門より一日の書状つく、九月廿八日かしこにては早く地震せりとぞ。その日は国君あつたの浜にて船いくさ調練御覧、築地あたり貴賤の雑人拝見せしに、御帰船のころほひ夕七ッ過ゆりいでゝ、人々おそれわなゝき、ことごとくあつたのおほん神のみまへにはせあつまりぬなどしるし、又秋の水難の田地損毛高、死傷の人数などくはしくしるしたるをおこせたり。 

 

八まんの別当道本老僧、はりにしかれつゝがなしとて、此守りを大岡どのへ奉られけるよし、まつや儀右衛門よりもち来る。
  
※1 抬 ※2 ※1   ※1 抬 ※1 ※2 
   はりはやつ門もこゝのつ戸はひとつ我身のうちは大社かな
   水神のをしへに命たすかりて六分のうちにいるぞ嬉しき

 (注) 
※1=手偏+合+辛  ※2=手偏+己+口

 

十四日、あめふる。よる亥刻地震一つ、きのふより少しつよし。けふも中戸とぢず。ひる御酒御燈きのふに同じ。但しきのふつねの夕のは、死穢をはゞかり奉らず、黙拝せりき。おみちもこなたにて寝る。あすよりは来らず。
十五日、木むらのお高八幡宮へ詣づとて来り、よべは三度震しといふ。また四日五日のころ、池の端近きおすきや町辺のげいしや家などつぶされたる。さならぬもにごり酒田楽など広小路に店出してひさぐ。髪を銀杏くづしにむすび、鉢巻し、緋の胴ぬきの下着に、たちつけはきなど花やかに粧ひ酌などもすれば、かうやうの世界にても、色好のみちは忘られぬものなれば、うつゝ心もなく買人いとおほしなど云。
こよひも亥刻に一度すこしゆる。けふ天気いとよくさむし。あつた南部新五左衛門諸家の早追に、二日の変をきゝ驚きをりしも、八町堀の同心衆小林平十郎ぬし、大沢藤九郎ぬし上方のかへり、八日の夜長門屋新兵衛家に止宿あり、もとよりしる人なればおのれらの上を心にかけ、もし居所なく迷ひをらば、この人々をもたのみ、また尾張のとのゝ築地の御やしきなる、鬼頭市十郎ぬしをもたのみたらましかば、力をそへ給はましなどねんごろに書かいしるし。あつらへつけておこせたる。その日は八日なり。けふ小林ぬし帰府ありとて、その人の出入黒船町代地喜太郎と云がもて来りぬ。安否の返書とゞけつかはさんとなれば、無事にてもとの家にすまふよし書つけ、喜太郎のもとへつかはす。
十六日、あかつき一度、よる亥刻一度小ゆすりあり。天気けふもよし。きのふもけふもおつるのやどらぬ夜なし、近蔵きりとねる。また十四日の雨にて、古家などまたつぶれ、死傷のもの多しなどいふ人あり。虚実つまびらかならず。よるはくもりぬ。
十七日、くもりまた日もてる。午下刻やゝ驚くばかりひとつゆる。積たる箱どもうごくほどなり。十八日は心をつけ、大火たくななどこのころのゝしりさわぐ。観音のみさとしおほやけよりの御触也などいふ。いとをこなり。はたして、
十八日はくもりのち雨ふり出、夜に入東風つよく吹、雨車軸を流すがごとし。よもすがらやまざりけれど地震はなし。たゞ□□は時ならず両三度もあり。あけぼのにいたり雨やみ風なぎ。
十九日、てけいとよく晴わたりぬ。南風にてあたゝかなり。〔割註〕けふあしのやと、さのやへ死傷のくやみをいふ、さのやは妻と男子とみせのもの即死也。」
廿日、未刻すぎてのち、観音おく山花やしきなる雨の屋をとふ。こは清くひろき家のさゝぶきなるにかりゐしたり。いかにせん夫婦ともにきずを受、てもこよびをり、かの時かけ出したりしに、隣家の物のたふれかゝれるに圧仆され、又人にふまれなどせしとて、ちかはるはかしらに大疵三つ、右手のうでぼねを折りてきかず。つまはあしのほねをひしぎあしなえとなりぬと云。されど後には全快すべくや、三人の子どもはさはりなし。さるあやふき時にも、としごろ心をつくし写しおきたる、おもしろくめづらしき粉本やうのものは、男
(こ)をして仆家の内よりとり出させ、器物も少しは助けたりといへり。書籍はつくしてやけうせぬと云。いかゞはせんけふみればおく山のぬれ仏もおちたり。
銭がめ弁天、出世大黒、二王尊、多福弁天、不動などつぶれたり。大神宮もつちをふりおとし、みぐるしくなり給へり。並木大やほややねおち、とらやといふはつぶれたり。からしや十兵衛ばかり家落成してすめり、けふ訪ふ。
○こよひきらくへの返事、またなごや神谷への返事どもいだす。〔割註〕このほど見まひのこたへ也。」○平右衛門町もけふみれば、いへごとにつッぱりかはぬ家稀なり。
廿一日、あさ五ッごろ、少しおどろくばかり震りつ。てけはよく西北風つよし。なかね其楽へ地震火災の板行ものしなじなとゝのへておくる。
廿三日、天気いとよし。武陵いはく、石町大横町すゞき越後の蔵前に売卜者のみせあり。この卜者九月の下旬にいふやうは、来る月のはじめ、よにいとおどろおどろしきわざはひあらん、この辺りにをらば命もたもつまじとて、いそぎ他所へゆきぬ。〔割註〕千住へうつりしといふ、のちの安否はしらず。」はたして二日夜のなゐぶりに、蔵のかべはがれおちて、かのみせのあたりに山をなせりける。こゝらをらましかばと、その卜者の未然を察せしを感ずと云へり。
廿四日、あさ田のもとにて、よし野あやを云、浅裏庵ひろよしをぢいとあさましくいたましきかぎりになむ、かのやしきつぶれたるも、長屋の梁のいとふときに圧され、のがるゝ事をえず、人々力を戮せうごかせどもあがらず、火はいとちかくもえ来りぬ。ひろよしはいとくるしげなる声して、今はたすかるべくもおぼえず、槍などにてつきころしてたまへといふほど、ほのほかゝりてわれも人もやけうせぬ。むすこは助りけれど、内かたもむなしくなりぬるぞいとあぢきなきや。寄食の人もありて、すべては十三人ばかりすまひせしに、四人の外はみなみまかりきとぞかたる。中浜万次郎は長屋つぶれつれど、妻も子もつゝがなくぬけ出たるよし、文鳳堂いへり。
廿五日、空はれたり。未刻たしかに一つふるふ。但しみじかし。
廿六日、木むら錦之丞来り云、山内(上野)は無事なりと世にはいへど破壊少からず。宮の御殿にても潰れたる所ありて、しもべ一人圧死す。また□□門内の□□院傾まがり、土蔵全きはなし。浅草の伝法院も方丈つぶれ、住持金とりにかへりて、ものにうたれむなしくなられたり。少年三日ばかりものゝ下におされ居たるが、猶死なで餓鬼のやうになりて、ものゝ下よりはい出でたすかりたりとぞいふ。
十一月朔、けさ〔割註〕午上刻ごろ。」まためづらしく震すといふ。予はゆやにありてしらず。
けふ上野山内に地震はじめて入る。下
寺〔割註〕車坂屏風坂などのかたにつきたる寺町也。」ことにあれおほし。いづこもいづこも石垣くゑ壊れたるぞ多き。しゆろうのかたへゆかねば見ず。宮ざまの外垣(へい)はことごとく倒れ、いたもてかこひたり。真空法師の寮をとふ。この僧かの時他の坊に居て、歌物語してゐたりし頃也とぞ。ゆすりしづまりて早々帰りて見るに、地火炉の鉄瓶くつがへりて、おぼつかなかりし、火みなきえ、あたりは灰にくもり、本筥どもみなころころとみだりがはしく、あしふみ入べうも覚えず。此時寮にをらましかば、軒ぢかき土手の石どもくづれかゝり、家は無事なれども瓦をおとしたりしかば、頭にもあれ足にもあれ疵うけましをといと嬉し。世はすてながらも猶命はをしきものになんとやうのものがたり、さすがにあはれなり。かくて根岸へゆかんとて谷中門を出る。このあたりよしはら京町のくつわども立退たる家おほし。すでに店はりたるもありとぞいふ。なまめくものほのめくも、地震の事おもへばふさわしからぬこゝちぞする。天王寺の塔の九輪げにかたへゝおちたり。輪のさしわたし大なるのは四尺あまり也。此寺いたくあれず。いも坂あたりも寺の門などは、例としてたふれたれど氏家はさもなし。
二日、市中にて心まかせにはゞかりなく彫刻しうりたる地震火事方角付の類、ならびに戯作の一まい画の類の板、とりあげおくべきやう、行事(地本屋の)にかゝりの名主よりいひつけらる。これによりてかづかづ板をとりあぐれど、いやますますほりもしうり出しもして、品かず百数種にあまる。○またけふ一めぐりにあたる日なればとて、いたくおぢゐる人おほし、されどゆるがず。かへりて〔割註〕けふ台命ありて、諸寺にて圧死人のために大せがきあり、四日にいたり三日の間也、別にしるすべし。」
三日の夜亥下刻ごろ、やゝ大に長くゆすりたれど、物のまろぶほどにはあらず。
五日、田中喜三郎来り云、地震火事の彫刻もの、その数三百八十余種ありとぞ。その中に重板三四丁あり。山口藤兵衛当番にて板をとりあぐるに、いまだ十の一ッ二ッなり、板木屋どもこれを禁ぜられては、当分の飢渇しのぎがたし、一箇月も延引せさせ給はずば、いづかたへもまゐりて強訴せんなどいひさわぐよし、さてさてあるまじき事なり。
九日夜、小ゆすりありといふ。我はしらず。
十日午中刻、根岸木むら徳麻呂の家にゐたるに、声ある地震一つありて、大にはあらねど、しばしゆらめくやうなりしを、家にかへるにたゞはしらのぎしりとなりたるのみ、しらぬ人もおほしといふ。しかるに本所の江川氏のやしき、中浜のかり家にても、しやうじのびりびりとなりて、しばらくゆりたりといへり。○きのふまで盛にかざりたてし地震火災の画戯作もの、すべての商店ことごとく下へおろして、よのつねにかへたり。こはあまりかぎりもなき事故、まづうちうちにて憚るべきよし、そのかたの人よりさたのありしなるべし。されど猶下におきてうる中へ新板をくばる、彫工にあつらふるもあめり。今は四百種にもおよぶべし。画の中にてはかしまの御神像をあまたの人拝する画と、くさぐさの人ども大なまづをせめなやますかたぞはやく出て、うるゝ事おびたゞしといへり。すべて重板おほくうるゝものは、十板廿板も増刻せしよし也。○いにしころ人のいふは、いせのおほんかみの神馬、江戸中をかけあるき積善の人を助けたりければ、無難の人の身には、必白馬の毛一もうづゝつきてゐるとぞいふなる。まことにやこゝろみざればしらず。○つがる侯のみたちにては、圧死七十人あまりと万次郎もいへり。○町々の名ぬしにて検索しかきあげしは、そのまぎれなきかぎりなり。よしはらなど人別にのらぬと、誰ともしられざると、何ばかりの数かはかられずといふ。三倍はたしか也とぞいふ。武家はいよいよおほかりとぞ。
十一日、亥刻許地震。
十二日、おなじ時少しばかり。
十五日、あさ辰ばかりにゆさゆさとゆる。人々あわてまどふ。巳刻ごろにもまた小動す。心もとなく恐ろし。
十六日も風あらき中に一ッゆすり。亀井戸あたりの家つぶれしなどいふ。虚実をしらず。けふ尾州家の御くらやしき鬼頭氏のいはるゝやう、市ヶ谷の上やしきこゝもすべて所々そこなはれつれど、指一本きづつきしものもなし。またをはり焼の陶器をうる江戸の問屋十七軒あり、ちかきころあつたのおほん神をうやまひ信じて、大々かぐらなど奉る事也。〔割註〕三都の問屋心をあはせてのよし。」こたびの大変に十七軒のもの一人死傷もなく、しろものもそこなはれざりしとて、悦びのぬさ奉りなどしたりしよし、いといとたふとき事なり。


なゐの日並 終
 

 

 


 
      (注)1. 上記の、資料422笠亭仙果「なゐの日並」の本文は、『日本随筆大成』新装版第2期第24
         巻(日本随筆大成編輯部編、吉川弘文館・昭和50年1月 10日新版第1刷発行、平成7年5
         月1日新装版第1刷発行)によりました。
        2. 上記『日本随筆大成』新装版第2期第24巻の巻頭にある丸山季夫氏の「なゐの日並」の解
         題に、次のようにあります。
             本書は、安政二年十月二日の江戸大震災の惨状をまのあたり見聞した、笠亭仙果の十月二日より、
           翌 十一月十六日までの見聞日記である。この地震には死者二十万余人を生じたと云う災害で、水戸藩
            の藤田東湖や戸田忠敬等と云う有名な学者をも罹災せしめたので、殊に世の注意を引いた大地震であっ
           た。(中略)仙果は此の時分堀田原(今の台東区)寿町三丁目あたりに娘と共に暮していた時であった。
            (同書、10~11頁)

             
※ 引用者注:文中に「この地震には死者二十万余人を生じたと云う」とありますが、昭和51年(1975)の
                『理科年表』によれば、次のようになっています。(日本暦・西暦の表記は、書き換えてあります。)
                  安政2年10月2日(西暦1855年11月11日) M6.9
                     〔地域〕江戸:〔被害摘要〕江戸とその東,径20kmの範囲に被害大.山手で被害少なく,下町
                     被害大.江戸の被害壊家焼失14346,町人の死4000人余.有感半径500kmに達した.出
                     火30余ヵ所.焼失面積2.3
江戸地震               
        3. 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ仮名・文字を繰り返して表記して
         あります
(「ゆさゆさ」「いよいよ」「繰り返し繰り返し」「あらあら」「もろもろ」「みちみち」など)
        4. 初めのほうに出てくる「かたはらに女もをり」「上より女もおほひかゝる」の「女」は、「むす
         め」と読み、当時一緒に住んでいた仙果の娘を指していると思われます。
        5. 安政地震(あんせいじしん)=安政初年に起こった地震。(ア)安政元(嘉永7)年(1854)
               11月4日、東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州灘
(なだ)沖。マグニチュ
                ード8.4。死者約2000~3000人。(イ)同年11月5日、南海道の大地震。安
               政南海地震。震源地土佐沖。マグニチュード8.4。死者数千人。(ウ)安政2年
               (1855)10月2日、江戸の大地震。江戸地震。震源地江戸川河口。マグニチュ
               ード6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。        (『広辞苑』第6版による。)
        6. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「笠亭仙果」「安政の大地震」の項があります。



 



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