資料421  「うつろ舟の蛮女」(『兎園小説』第11集より)


 

 


 
    う つ ろ 舟 の 蠻 女
                  
        
                        
   『兎園小説』第11集より
 
 

 

 

享和三年癸亥の春二月廿二日の午の時ばかりに、當時寄合席小笠原越中守〔高四千石、〕知行所常陸國はらやどりといふ濱にて、沖のかたに舟の如きもの遙に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に濱邊に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒(ハコ)のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)をもて塗りつめ、底は鐵の板がねを段々(ダンダン)筋のごとくに張りたり。海嚴にあたるとも打ち碎かれざる爲なるべし。上より内の透き徹りて隱れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異樣なるひとりの婦人ぞゐたりける。
  その圖左の如し
               うつろ舟の蛮女(画像)              
                     
画像をクリックすると拡大されます
そが眉と髮の毛の赤かるに、その顔も桃色にて、頭髮は假髮
(イレガミ)なるが、白く長くして背(ソビラ)に垂れたり。
〔頭書、解按ずるに、二魯西亞一見錄人物の條下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立云々また髮の毛は、白き粉をぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蠻女の頭髺の白きも白き粉を塗りたるならん。魯西亞屬國の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。〕そは獸の毛か。より絲か。これをしるものあることなし。迭に言語
(コトバ)の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蠻女二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを、これかれと檢せしに、 

 

水二升許小瓶に入れてあり。〔一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。いまだ孰か是を知らず。〕敷物二枚あり。菓子やうのものあり。又肉を練りたる如き食物あり。

 

浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蠻國の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せられしを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟(ウツロブネ)に乘せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。むかしもかゝる蠻女のうつろ船に乘せられたるが、近き濱邊に漂着せしことありけり。その船中には、俎板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に傳ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。されば蠻女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。この事、官府へ聞えあげ奉りては、雜費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乘せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心もてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蠻女の不幸なるべし。又その舟の中に、※※※※等の蠻字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖に歇(カヽ)りたるイギリス船にも、これらの蠻字ありけり。かゝれば件の蠻女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蠻王の女なりけんか。これも亦知るべからず。當時好事のものゝ寫し傳へたるは、右の如し。圖説共に疎鹵にして具(ツブサ)ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。

  ※※※※
ここに挿絵の、うつろ舟の右上に出ている符号のような4文字が入ります。

この話の次に「品革の巨女(オホヲンナ)」の話があって、その最後に、
   文政八年乙酉小春念三              琴 嶺
とあります。)

 

 


 
     (注)1. 上記の資料421「うつろ舟の蛮女」(『兎園小説』第11集より)の本文および挿絵は、『日
         本随筆大成』新装版第2期第1巻(日本随筆大成編輯部編、吉川弘文館・昭和48年11月
         25日新版第1刷発行、平成6年6月1日新装版第1刷発行)によりました。
          この記事は、『兎園小説』の目次に、第十一集〔乙酉冬十月廿三日於海棠庵集会席上各
         披講了〕、「虚舟の蛮女 琴嶺舎」として出ています。
          「うつろ舟の蛮女」は、普通「虚舟の蛮女
(うつろぶねのばんじょ)」と書かれているようです。
        2. 上記の本文は、引用者が本文の漢字をできるだけ正字に直してあります。また、平仮名の
         「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通のかなに直してあります
(「ダンダン」「なまなまし
          き」)

          下線を施した語は、傍点が施されている語です(「イギリス」「ベンガラ」「アメリカ」)。
          原文に施されている振り仮名は、括弧に入れて示しました。
        3. 文中の「享和三年」は、西暦1803年。「解按ずるに」の「解」は、馬琴の名「解
(とく)」。「迭
         に」の読みは、「たがひに」。「好事のもの」は、「かうず(こうず)のもの」。
          なお、「女の衣服が」の「女」は「をんな」、「蠻國の王の女」「蠻王の女」の「女」は「むすめ」
         と読むものと思われます。
          また、「この蠻女の頭髺の白きも」とある「髺」(髟+舌)は、音カツ・カチ。髪をたばねるの
         意。挿絵に「假髻」とある「髻」(髟+吉)は、音ケイ。もとどり。たぶさ。わげ。髪を頭上でたば
         ねる。また、その髮。
(本文の「髺」は、もしかして「髻」の誤植か?)
        4. 兎園小説(とえんしょうせつ)=滝沢馬琴ら編集の随筆集。本集12巻7冊。1825年(文政
              8)成る。主として兎園会の記事を収録したもの。ほかに外集・余録・別集・拾遺9巻。
          兎園会(とえんかい)=文政(1818-1830)の初め、滝沢馬琴らの発起で、好事家
(こうず
              か)が集まって組織した会。世上の珍説奇談や珍物などを持ち寄り、見聞をひろめる
              ことを趣旨とした。
          滝沢馬琴(たきざわ・ばきん)=→曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)
          曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)=江戸後期の戯作者。本名、滝沢興邦、のち解
(とく)。別号
              は蓑笠
(さりつ)漁隠・著作堂主人など。江戸深川の生れ。山東京伝に師事し、1791
              年(寛政3)黄表紙「尽用而二分狂言
(つかいはたしてにぶきょうげん)」を発表。以後、勧善
              懲悪を標榜、雅俗折衷の文をもって合巻
(ごうかん)・読本(よみほん)を続々発表。代表
              作「椿説
(ちんせつ)弓張月」「俊寛僧都島物語」「南総里見八犬伝」「近世説美少年録」
              など。(1767-1848)   
                                            (以上、『広辞苑』第6版による。)
        5. 『日本随筆大成』新装版第2期第1巻の巻頭にある丸山季夫氏の『兎園小説』十二巻の
         解題に、次のようにあります。
           
馬琴は友人の山崎美成、屋代弘賢等とはかって、文政八年兎園会を起し、毎月一回ずつ相会して、
           各自持寄りの奇事異聞を記した文稿を被講し、これを回覧することをした。第一回は一月十四日関思
           亮邸に発会し、その年の十二月朔日には、馬琴の著作堂
(ちょさどう)満筵した。その文を集めたもの
           が十二巻七冊である。本書に収められたものは『百家説林』に拠ったものであるが、その底本となっ
           たのは大槻如電翁収蔵の石川畳翠軒本である。石川畳翠は馬琴と関係浅からぬ仁であるので、信
           ずべき一本である。(以下、略)

        6. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「虚舟(うつろぶね)」「兎園会」の項があります。「兎
         園会」の記事によれば、会の参加者は、正員12名、客員2名で、正員は次のメンバーです。
           曲亭馬琴、山崎美成、関思亮、屋代弘賢、西原好和(西原一甫か)、大郷良則、
           桑原修理、亀屋久右衛門、荻生維則、清水正徳、中井豊民、滝沢興継(琴嶺) 
          (引用者注:客員の二人は、角鹿青李庵と西原晃樹です。)  
        7. 国立公文書館のホームページに、2003年(平成15年)夏の企画展「江戸の怪」の紹介が
         あり、ここに『弘賢随筆』に載っている「うつろ舟」の挿絵が出ています。
(画像は、クリックすると
          拡大されます。) 
             画像の紹介文:「享和3年(1803)2月に常陸国(ひたちのくに 現在の茨城県)の沖に漂っていた
                      UFOのようなあやしい船。(弘賢随筆)」
        8. 『やじきた.comというサイトに、「江戸時代の浮世絵にUFO!? うつろ舟の謎(1)~(9)」
         というページがあって、「うつろ舟」についての詳しい考察がなされており、たいへん参考にな
         ります。
          (国立公文書館に出ている『弘賢随筆』所載の「うつろ舟」の挿絵や、『兎園小説』に出てい
         る挿絵、この話(「虚舟の蛮女」)を取り上げている書物7点なども挙げてあります。)
        9. 2012年(平成24年)4月23日の茨城新聞が、「うつろ舟奇談に新史料」(「日付記載、日
         立で発見」「
専門家 事件がリアルに」)という題で、「江戸時代のミステリー「うつろ舟奇談」を
         伝える史料が新たに日立市の旧家で発見された」と伝えています。
          記事を少し引用させていただくと、
           
(前略)史料は、江戸時代に海岸防御に携わった郷士(ごうし)の子孫の家の倉庫で、天保年間(1830
            ~44年)の「異国舩(船)渡来御届書」とともに発見された。この奇談を長年研究する田中嘉津夫岐阜
            大教授は「地元の旧家に伝わってきたことは意義深い。さらに、日付が書かれた文書の発見は初めて」
            と指摘している。
             見つかったのは、縱28.5㌢、横90㌢の文書。(中略)田中教授は「江戸時代の滝沢馬琴の『兎園
(と
            えん)小説』などとほぼ同じ内容」と話す。
              特徴は、文末に「享和三癸亥三月廿四日」(享和3年3月24日)と文書作成日が記載。事件が起きた
             年月日は「當亥二月廿二日」(当年亥の歳2月22日)とあり、田中教授は「日付が本当なら事件の約1
             カ月後に書かれた文書。事件のリアルさを感じる」と話す。(後略)
          つまり、この史料は、地元の旧家に伝わってきたものであり、しかも、文書記載の日付が記
         載されている点が貴重だ、というわけです。
          新聞には、史料の一部
(洋風の服装の女性と箱、UFOを連想させる丼型の舟の絵、「△」や「〇」など
          を組み合わせた記号のような文字)
の写真が出ています。
       10. 『茨城新聞』のホームページに、「特集・連載:うつろ舟奇談」に新史料 「金色姫」と関連か」
         という記事が出ていましたが、現在は見られません。
(2012年6月18日)
       11. 2014年(平成26年)5月14日の茨城新聞に、「「うつろ舟」漂着は波崎?」(江戸期伝説に
         新史料 実在地に研究者驚く)という表題で、史料の一部の写真とともに、三次豪記者による
         「うつろ舟」についての記事が出ています。
          初めの部分を引用させていただくと、
            
江戸時代、常陸国の海岸にUFO(未確認飛行物体)のような物体と1人の女性が漂着したという伝
            説「うつろ舟奇談」で、漂着地の実在地名が記載された新たな史料が見つかった。漂着地は「常陸原
            舎り濱(ひたち はらしゃりはま)」と記されている。江戸時代の常陸国鹿嶋郡に実在し、伊能忠敬が作
            製した地図「伊能図」(1801年調査)にある地名で、現在の神栖市波崎舎利浜(しゃりはま)に当たる。
            研究者の間で漂着地の特定は難しいとされてきただけに、同史料の調査に当たった岐阜大の田中嘉
            津夫名誉教授は「まさか実在の地名が出てくるとは」と驚いている。
          とあります。続く記事の内容をまとめてみると、
          
○うつろ舟奇談については、これまで約10件の史料が確認されているが、どれにも詳しい漂着地(実在の
            地名)は記されていない。
          ○新史料には、「如斯(かくのごとき)の船常陸原舎り濱と申す處(ところ)」と、漂着地の実在地名が記され
            ている。(江戸時代の地図に「原舎り濱」とあり、そこは現在の神栖市波崎舎利浜に当たる。)
            過去の史料には、地図などで一致する地名はなく、ばらつきもあった。2012年に日立市で見つかった史
            料には「常陸原舎濱」、兎園小説には「はらやどり濱(原舎濱)」となっている。
          ○新史料は、三重大学特任敎授の川上仁一さん(甲賀流伴党21代目宗家)が甲賀流忍術を伝える伴家の
            古文書などと一緒に保管していたもの。
          ○田中名誉教授によると、紙や筆跡から江戸末期から明治時代に書かれた文書で、最後に「亥(い)の年
            (1803年、享和3年)二月二十六日」と書いてあり、これまでの史料の中で最も古い文書か、またはその
            写しとみられる、という。(過去に見つかった史料では、漂着したのは同年2月22日とある。)また、新史料
            は、これまでのいろいろな文書・伝説のもとになった文書の可能性が高いとみられる、という。         
           ○新史料のそのほかの内容は過去の史料とほぼ同じで、奇妙な円盤型の物体や記号のような奇妙な文字、
              変わった衣裳を着た女性の絵などが描かれ、不思議な物体が流れ着いたという事件について記されてい
             る。
 
          ということです。(詳しくは同日の茨城新聞を参照して ください。)  
                                                       
 (2014年5月15日)
                   
 『茨城新聞』のホームページに、<UFO「うつろ舟」漂着は波崎? 実在地名記載の新史料 「伝説の
            元の文書か」>という題で、上記の記事が出ています。(2014年5月15日現在)              

 

神栖市波崎舎利浜 

 

 

 

 

 

 

              
   12. 2014年(平成26年)5月25日の茨城新聞・オピニオン欄の「インサイド記者の目」に、<「伝
     説」から「歴史」へ一歩」・「うつろ舟」漂着地名浮上、
神栖・波崎舎利浜 検証機運高まりそう>とい
     う、鹿嶋支社・三次豪記者の記事が出ています。
      
○江戸時代の伝説「うつろ舟奇談」に関する新史料に、「常陸原舎り濱(ひたちはらしゃりはま)」(現在
         の神栖市波崎舎利浜)という漂着地の実在地名が記されていたことで具体性が増し、「伝説」は
         「歴史」に一歩近づき、事件の真相解明へ、連鎖的な史料発掘の可能性や検証機運が高まるこ
         とは間違いない。
      ○文学者の渋沢龍彦(1928~87)も同伝説をモチーフにした短編小説で「銚子から平潟にいたる
         今日の茨城県の長い海岸線のどのあたりに位置する村なのか、一向にはっきりしない」と記すな
         ど、これまで漂着地の特定が困難とされてきただけに、今回の発見は研究者らが待ち望んでいた
         “大きな一歩”と言えるだろう。
      ○舎利浜の近くに、大タブの木、木造釈迦涅槃(ねはん)像のある神善寺(神栖市舎利)がある。また、
         神栖市内には、天竺から金色姫が流れ着き養蚕を伝えたという伝説の残る蚕霊神社と星福寺(とも
         に同市日川)もある。田中嘉津夫・岐阜大名誉教授が、2010年に水戸市内で見つかった「うつろ舟
        奇談」の史料のなかの女性の衣服が、蚕霊尊(金色姫)の衣服と酷似することを発見し、二つの伝説
         の関連性を指摘していたことも、神栖と「うつろ舟奇談」との結びつけの意味で興味深い。
      ○事件があった1803年は開国前で、日本近海では外国船がしきりに現れ、常陸国の浜でも小船に
        乗った外国人が上陸する事件などがあった時代。異国船打ち払い令が出されたのもこのころで、こう
         した社会情勢も伝説と関連付けて考えることができる。
      ○田中氏によると、これまで全国で見つかった「うつろ舟奇談」の史料は11編。田中氏は、「これほど
        あちこちから多くの文書が見つかるということは、当時大きな話題を集めた出来事だったのではない
         か。舎利浜の発見で、ますます魅力的になった」としている。
      
詳しくは同日の茨城新聞を参照して ください。                                                                                        (2014年5月27日)

 

 

 

 

 

 

 

 



                                      トップページ(目次) 前の資料へ 次の資料へ