資料29 劉廷芝の詩「代悲白頭翁」   
     

 

             

 

代            (白頭を悲しむ翁に代わる)

 

劉 廷


 

洛陽城東桃李花
飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜顔色
行逢落花長歎息
今年花落顔色改
明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪
更聞桑田變成海
古人無復洛城東
今人還對落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
寄言全盛紅顔子
應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐
伊昔紅顔美少年
公子王孫芳樹下
淸歌妙舞落花前
光祿池臺開錦繡
將軍樓閣畫神仙
一朝臥病無相識
三春行樂在誰邊
宛轉蛾眉能幾時
須臾鶴髪亂如絲
但看古來歌舞地
惟有黄昏鳥雀悲

洛陽城東 桃李の花
飛び来たり飛び去つて誰が家にか落つる 
洛陽の女児は 顔色を惜しみ
行くゆく落花に逢ひて長歎息す
今年(こんねん)花落ちて顔色改まり
明年花開いて復(たれ)か在る
(すで)に見る松柏の摧かれて薪(たきぎ)と為る
更に聞く桑田の変じて海と成る 
古人 た洛城の東に無く
今人 還た対す 落花の風
年年歳歳 花相似たり
歳歳年年 人同じからず
(げん)寄す 全盛の紅顔子
(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁
此の翁白頭 真に憐れむべし
(こ) 紅顔の美少年
公子王孫 芳樹の下(もと)
清歌妙舞す 落花の前
光禄の池台に 錦繍を開き
将軍の楼閣に 神仙を画(えが)
一朝病(やまい)に臥して相(あい)る無し
三春の行楽 (た)が辺(ほとり)在る
宛転たる蛾眉 能く幾時
須臾(しゅゆ)にして 鶴髪乱れて糸の如し
(ただ)看る 古来歌舞の地
(ただ)黄昏(こうこん)鳥雀の悲しむ有るのみ


 

 

(注) 1. 本文は、新釈漢文大系 19『唐詩選』(目加田誠著・明治書院、昭和39年3月10日初版発行・昭和

       47年3月1日12版発行)によりました。
ただし、訓読は、諸種の読みを参考にして読んであります。(伝統的な読み<訓>には、

            必ずしもこだわりませんでした。)

     2. 訓読の ( )の読みは、現代仮名遣いで示してあります。

      3.三好達治氏は、岩波新書『新唐詩選』(吉川幸次郎・三好達治著、昭和27年8月10日第1刷発行、

       昭和27年12月25日第8刷発行)の中で、少年の頃暗誦していた唐詩が二篇があり、その一つが

      劉廷芝の「代悲白頭翁」、他が韓昌黎の「左遷至藍關示姪孫湘」であったということです。そし

     て「代悲白頭翁」の詩について、今日読んでいささか胸にもたれるような感のある綺靡な甘い

      作であるが、当時は辞句の美にうたれてただ然としたのを忘れない。辞句の美というより、

      むしろ殆んど字々みな落花のように眼前に入り乱れて繽紛として見えた、その幻覚がなつかし

      い。」と言っておられます。 (「然」(ぼうぜん)(ぼう・りっしんべんに「夢」は、原文には、

      「りっしんべん」に「瞢」<夢の「夕」が「目」>が用いてあります。)ここには、氏の後年の名作

     「甃のうへ」に通うものがあるでしょう。

    4.『古文真宝』前集、巻之六の七言古風長篇に、「有所思 宋之問」として、劉廷芝のこの

     詩と殆んど同文の詩が出ています。違いは、
3句目「洛陽女兒」→「幽閨兒女」、4句目「行逢」→「坐見」、14句目「應憐」→「須憐」、
19句目「開錦繡」→「文錦繡」、最後の句(26句目)「鳥雀悲」→「鳥雀飛」

     の5か所です。
これについては、
新釈漢文大系9『古文真宝 前集上』(星川清孝著・明治書院、昭和42年

        2月25日初版発行、昭和47年3月1日11版発行)の「有所思 宋之問」の「余説」に、著者の星川氏が

     次のように書いておられます。

       『才子伝』劉希夷の伝に「希夷嘗て白頭吟を作る。一聯に云ふ、今年花落ちて顔色改

      まり、明年花落ちて復(また)誰か有る、と。既にして歎じて曰く、此れ語讖(運命の予言)

      り。石崇(西晋の人)の謂ふ、白首同じく帰する所と、復何を以て異ならん、と。又吟じて曰

      く、年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず、と。復歎じて曰く、死生命有り、豈此の

      虚言に由らんや、と。遂に併せて之を存す。舅(しゅうと)宋之問苦(はなは)だ後の一聯を愛す。

      其の未だ人に伝へざるを知りて、懇に之を求む。許して竟(つい)に与へず。之問其の己を

      誑(あざむ)きしを怒りて、奴をして土嚢を以て別舎に圧殺せしむ。時に未だ三十に及ばず。

      人悉く之を憐む。」とあるが、宋之問程の詩人が、詩句を奪うために女婿を殺したとは信じ

      難い話である。とにかくこの篇は宋之問の作ではないであろう。『全唐詩』にも、この詩を

      劉廷芝の集の中に収めてあるから、それに従って改むべきであろう。(同書362頁)

    5.劉廷芝 → 劉希夷

     劉希夷(りゅうきい) (651?~678?)……唐代の詩人。名は庭芝(ていし)、また、
       
廷芝(ていし)希夷は字(あざな)人生の哀楽をうたい、重んぜられたが、
       志行おさまらず、殺された。 (改訂新版『漢字源』2002年による。)                         

     廷芝(651─?)、字は希夷、汝州(河南省)の人。上元2年の進士。従軍・閨情の
       詩をよくしたが、その調子があまりにも哀苦にすぎて、当時の人には喜ば
       れなかった。姿容美しく、琵琶をよく弾いた。のちに姦人のために殺され
       た。あるいはその舅の宋之問のために暗殺されたとも言い伝える。伝は
       旧唐書百九十一。  
        (
新釈漢文大系 19『唐詩選』(目加田誠著・明治書院)による。なお、こ
        の本の巻頭の「唐詩概説(初唐の四傑)」に、「(附)劉希夷」として一頁
        にわたって作者についての解説があります。)
 


 

 

 

          

               

              
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