資料289 島崎藤村「椰子の実」 

 

               

 

   椰子の實      島 崎  藤 村


名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ

故郷
(ふるさと)の岸を離れて
(なれ)はそも波に幾月

(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身
(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ

實をとりて胸にあつれば
(あらた)なり流離の憂(うれひ)

海の日の沈むを見れば
(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々
(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ

 

                          

    (注)  1.  上記の「椰子の實」の本文は、岩波文庫『藤村詩抄』(昭和2年7月10日第1刷発
         行、昭和45年4月10日第48刷発行)によりました。       
        2.  この「椰子の實」の詩は、明治33年6月号の「新小説」に発表され、明治34年8月
         刊行の『落梅集』に収められました。
        3. この詩は、柳田国男が三河(愛知県)の伊良湖岬に椰子の実が流れ着いたことを
         明治31年に藤村に語ったことから発想された、といわれますが、このことについて、
         吉田精一著『鑑賞現代詩 I (明治)』 (筑摩書房・1966年10月20日新版第1刷発行、
         1968年2月10日新版第2刷発行)で吉田氏は、次のように書いておられます。
            
この詩のもとになったのは、藤村自身でなく松岡(柳田)国男の体験でした。松岡国男は三十
            一年ごろ、病後の療養に三河の伊良湖岬に行き、そこで椰子の実の流れよるのを拾いました。
            のちに藤村は松岡からその話をきいて感動し、「松岡君、その話は私が頂きますよ」といったとの
            ことです。しかしただそれだけがこの詩を生んだのではありません。
             藤村の詩には、森鷗外の訳詩集『於母影』に暗示されたものがよく見出されますが、この詩も、
            その中のドイツの詩人カール・ボエルマンの作を「思郷」と題して意訳した漢詩、
               離郷遠寓椰樹国
               独有潮声似窮北
               思郷念或熾 
               即走海之浜
               聴此熟耳響
               欝懐得少伸
            から、主題、詩想を借りてきていることは、まず疑いありません。『落梅集』には、「椰子の実」の背
            景をなしているかと思われる「利根川だより」という散文があり、「白波の砕け散るさま、海潮の磯
            に流るゝさま、その奇譬へんに物なし」などと、海の美が語られています。海に遠い木曾の奥に育
            った藤村は、かえって海辺の人以上に、海に対する愛着を抱いていたのではないでしょうか。また、
            藤村は、人生を行旅に比した李白・芭蕉と同様に、人の一生を漂泊の旅と思う心を古くからもってい
            ました。そうした思いを、遙かに波に乗って流れついた椰子の実に託して、この一篇がなったのであ
            ります。(同書、61~2頁)
 
        4. 『於母影』に掲載されている、カール・ボエルマンの作を「思郷」と題して意訳した漢詩の
         訓読文を、関良一氏の『近代文学注釈大系 近代詩』(有精堂・昭和38年9月10日発行、
         昭和39年12月20日再版発行)から転写しておきます。 
               離郷遠寓椰樹国   郷を離れて遠く椰樹(やじゅ)の国に寓(やど)る。
               独有潮声似窮北   独り潮声の窮北に似たる有り。
               思郷念或熾      思郷の念或ひは熾(おこ)り、
               即走海之浜      即ち海の浜に走る。
               聴此熟耳響      此の耳に熟(な)れし響を聴き、
               欝懐得少伸      欝懐少しく伸ぶることを得たり。
  
          ただし、吉田氏の文中には「離
郷遠寓椰樹国」とありますので、吉田氏は「郷を離れて
          遠く寓る椰樹の国」と読まれたものと思われます。      
        5. 関良一氏の『近代文学注釈大系 近代詩』の頭注に、「柳田国男の『海上の道』によれ
         ば、当時松岡姓の国男が三河(愛知県)の伊良湖(いらこ)岬に椰子の実の流れついた
         ことを明治三十一年に作者に語ったのが発想の一因。」とあります。
          (注7に、「海上の道」の該当部分が引用してあります。)
        6. ところで、「われもまた渚を枕 孤身の浮寝の旅ぞ」とある「われ」の故郷はどこになるの
         でしょうか。自分が今日本にいて、故郷は日本国内のどこかになるのでしょうか、それと
         も、今他国にいて、故郷ははるか海の彼方の日本でしょうか。「海の日の沈むを見れば 
         激り落つ異郷の涙 / 思ひやる八重の汐々 いづれの日にか国に帰らむ」という詩句から
         みると、故郷ははるか海の彼方であるかのようにも思われますが、皆さんはどのように
         お読みになりましたか。
          このことについて、関良一氏は、「「われ」は故国をよそに異郷を漂泊しているので、本
         土の海浜にあり、そこに流れついた椰子の実を歌ったと解してはならない。作者には後
         にコロンボで病没する青年が故国の信濃の父に送る書簡体の小説「椰子の葉蔭」もあ
         る」と書いておられます(上掲書、67頁頭注)が、吉田精一氏は、「最終節では、夕日に
         照り映える海原を眺め、その彼方の遠い故国に帰れるのは、いったいいつのことだろう
         と慨歎しています。とすると、ここではじめてわれ自身の故国が、椰子の実と同じくはる
         か海の彼方であろうと想像されるのですが、必ずしもそのようにとる必要はありません。
         「八重の汐々」の果に椰子の実の故郷を思いやりながら、わがはるかな故国をしのぶと
         とる方が、より自然なように思われます。すなわちもはやここでは、椰子の実に寄せる
         思いとわれ自身の感慨とは、ひとつに溶けて二重写しのようになっていると見るべきで
         しょう」と書いておられます(上掲書、63頁)。
          関氏は、異国に流浪の旅をしているこの詩の主人公が、異国の海辺に流れ着いた
         椰子の実を見て望郷の思いに駆られた思いを歌ったものと見るべきで、本土に流れ
         着いた椰子の実を見てその浜辺で歌っているととってなならない、と言われるわけで
         す。吉田氏は、詩の主人公の故国を必ずしも「椰子の実と同じくはるか海の彼方」と
         とる必要はなく、「八重の汐々の果に椰子の実の故郷を思いやりながら、わがはるか
         な故国をしのぶととる方が、より自然なように思われ」る、と言われるので、吉田氏は、
         必ずしも「われ」が異国にいるととる必要はなく、「われ」は今日本にいて、「八重の汐
         々の果に椰子の実の故郷を思いやりながら」、自分の(日本の)故郷をしのんでいる、
         ととっておられるのでしょう。
          つまり、関氏は、椰子の実が流れ着いたのは異国の海岸であって、はるばる遠く海
         の彼方から流れてきた椰子の実を見て、異国に身を置く詩の主人公(作者の分身)が
         故国(日本)への望郷の思いにかられた、ととるのに対し、吉田氏は、必ずしも椰子の
         実が流れ着いたのが異国の海岸だととる必要はなく、日本の海岸に流れ着いた椰子
         の実を見て、椰子の実の故郷を思いやりながら、自分の(日本の)故郷を偲んでいる、
         ととっていい、と言われるのでしょう。そのことを、「すなわちもはやここでは、椰子の実
         に寄せる思いとわれ自身の感慨とは、ひとつに溶けて二重写しのようになっていると
         見るべきでしょう」と言っておられるのだと思われます。        
 
          (私は、今まで、この詩で椰子の実が流れ着いたのは、本土(伊良湖岬)であると読んでいました。
          そして漠然と、「いづれの日にか国に帰らむ」の「国」は日本の或る地方、ととっていたように思いま
          す。その意味では、吉田氏の解釈で受け取っていたということになる、と思います。
           しかし、「流離の憂」「激り落つ異郷の涙」「思ひやる八重の汐々 いづれの日にか国に帰らむ」など
          の語句から考えてみると、関氏の言われるように、詩の主人公は、異国に身を置いて故国(日本)へ
          の望郷の念にかられている、と取るのが自然かな、という気がしないでもありません。皆さんは、どう
          お考えでしょうか 。)   〈お断り〉 2009年8月9日、この部分の記述を書き改めました。
          
関良一氏の『近代文学注釈大系 近代詩』の巻末にある「作家・作品解説」に
         次のように出ていました。

           冒頭によれば、主人公が本土の海辺にあって、そこに流れて来た椰子の実を見か
           け、はるかに南海の島を思いやる詩であるかのように受け取られるけれども、それ
           は例の朧化で、そうでないことは読み進むに従って次第に判明し、結びの二節にい
           たって、主人公が故国を遠く離れた異郷にあることが判明する。頭注に記した「椰子
           の葉蔭」
(引用者注:藤村作の、コロンボで病没する青年が故国の信濃の父に送る書簡体の小
             説)
から逆に類推しても、この海辺は少なくとも日本本土ではなかろう。浪漫文学の
           特徴たる異郷への憧憬と、異郷から故郷への郷愁との二主題を兼ねそなえた作。
           なお、「椰子」が日本近代詩に登場したのは、湯浅半月の長詩『十二の石塚』の「椰
           子の葉のしげるも深し」あたりからのようだ。(同書、334頁)
        7. 『定本柳田国男集 第1巻』
(筑摩書房、昭和43年6月25日第1刷発行、昭和50年5月20
          日第13刷発行)
所収の「海上の道」からの引用。
            今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原
           の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂浜が、東やゝ南に面して
           開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて
           居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、
           他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今で
           も判らぬが、ともかくも遙かな波路を越えて、また新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡
           つて来て居ることが私には大きな驚きであつた。
            この話を東京に還つて来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今
           でも多くの若い人たちに愛誦せられて居る椰子の実の歌といふのは、多分は同じ
           年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。
               そを取りて胸に当つれば
               新たなり流離の愁ひ
           といふ章句などは、固より私の挙動でも感懐でも無かつた上に、海の日の沈むを見
           れば云々の句を見ても、或は詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持つて行き
           たいと思はれたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によつて、些々たる私
           の見聞も亦不朽のものになつた。伊勢が常世の波の重波
(しきなみ)寄する国であつた
           ことは、すでに最古の記録にも掲げられて居るが、それを実証し得た幾つかの事実
           の中に、椰子の実も亦一つとして算へられたことを、説き得る者はまだ無かつたの
           である。土地にはもちろん是を知つて居る人が、昔も今も多かつたにちがひないが、
           それを一国文化の問題とするには綜合を要し、又は或一人のすぐれた詩人を要した
           のである。
            椰子の実の流れ着くといふ浜辺は多かつた筈であるが、是が島崎氏のいふやうな
           遊子によつて、取上げられる場合が少なかつたかと思はれる。昔はこの物を酒杯に
           造つて、珍重する風習があり、それも大陸から伝はつて来た様に、多くの物知りには
           考へられて居た。倭名鈔の海髑子の条などは、明らかに書巻の知識であつて、もし
           酒中に毒あるときは、自ら割れ砕けて人を警戒するとあり、まだどういふ樹の果実な
           りとも知らず、何か海中の産物の如くにも想像せられて居たやうであるが、なほ夜
           之
(やし)といふ単語だけは、すでに和名として帰化して居る。京人の知識は昔も今の
           如く、寧ろ文字を媒として外国の文化に親しみ、久しく眼前の事実を看過して、たゞ
           徒らに遠来の記録の、必ずしも正確豊富で無いものを捜索して居たことは、独り椰
           子の実だけの経験では無かつた。(11~2頁)
         
注: 『定本柳田国男集 第1巻』巻末の「あとがき」には、「論文「海上の道」は、昭和27年5月、第
           6回九学会連合大会に於いて、「海上生活の話」と題して公開講演し、ついで昭和29年5月、第8
           回九学会連合大会の折、「海上の移住」と題して研究発表したものをまとめたものである。」とあり
           ます。同じく巻末の「第1巻内容細目」には、単行本『海上の道』所収の論文として、「海上の道」
           (昭和27年10月、11月、12月、心5巻10号、11号、12号)とあります。
            なお、単行本の『海上の道』は、昭和36年7月、筑摩書房から発行されました。
        8.『故郷七十年拾遺』所収の「藤村の詩「椰子の実」」を引いておきます。
           
僕が二十一の頃だつたか、まだ親が生きてゐるうちぢやなかつたかと思ふ。少し身体を悪くして
           三河に行つて、渥美半島の突つ端の伊良湖崎に一ヶ月静養してゐたことがある。
            海岸を散歩すると、椰子の実が流れて来るのを見附けることがある。暴風のあつた翌朝など殊に
           それが多い。椰子の実と、それから藻玉
(もだま)といつて、長さ一尺五寸も二尺もある大きな豆が一
           つの鞘に繋つて漂着して居る。シナ人がよく人間は指から老人になるものだといつて、指先きでい
           ぢり廻して、老衰を防ぐ方法にするが、あれが藻玉の一つなわけだ。それが伊良湖崎へ、南の海
           の果てから流れて来る。殊に椰子の流れて来るのは実に嬉しかつた。一つは壊れて流れて来た
           が、一つの方はそのまま完全な姿で流れついて来た。
            東京へ帰つてから、そのころ島崎藤村が近所に住んでたものだから、帰つて来るなり直ぐ私はそ
           の話をした。そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ、誰にも云はずに呉れ給へ」といふことになつ
           た。明治二十八年か九年か、一寸はつきりしないが、まだ大学に居るころだつた。するとそれが、非
           常に吟じ易い歌になつて、島崎君の新体詩といふと、必ずそれが人の口の端に上るといふやうなこ
           とになつてしまつた。
            この間も若山牧水の一番好いお弟子の大悟法
(だいごぼふ)君といふのがやつて来て、「あんたが
           藤村に話してやつたつて本当ですか」と聞くものだから、初めてこの昔話を発表したわけであつた。
            牧水も椰子の実の歌を二つ作つて居る。日向の都井
(とゐ)岬といつて日向の一番南の突端の海
           岸で、牧水が椰子の歌を作つたことがあるから、その記念のため、碑を立てさせてくれといふことを、
           門人達が宮崎の近所の人たちに頼んださうである。ところがそこの新聞記者の中に反対する者が
           あつて、「あんな所に椰子の実なんか流れて来やしませんよ、そんな歌の碑を立てたら却つて歌の
           価値が下がりますよ」といつたといふ。大悟法君が悔しがつて自分で都井岬へ行つて見たところ、
           何とそこの茶店に椰子の実がズーッと並んでゐたので、「こんなに流れつくのかい」と聞いたら、「え
           え、いつでも」なんて云つたといふわけ。
            それで大悟法君、宮崎の新聞記者に欺されたといつて悔やしがつて居た。藤村の伝記を見ても
           判るやうに、三河の伊良湖崎へ行つた気遣ひはないのに、どうして彼は「そをとりて胸にあつれば」
           などといふ椰子の実の歌ができたのかと、不思議に思ふ人も多からう。全くのフィクションによるもの
           で、今だから云ふが真相はこんな風なものだつた。もう島崎君も死んで何年にもなるから話しておい
           てもよからう。この間も発表して放送の席を賑はしたことである。何にしてもこれは古い話である。
                       (『定本柳田国男集 別巻第三』所収の「藤村の詩「椰子の実」」458~9頁)
          注:   『定本柳田国男集 別巻第三』(筑摩書房、昭和46年3月20日第1刷発行、昭和50年5月20
           日第6刷発行)の「あとがき」に、「「故郷七十年」は、昭和33年1月8日から同9月14日まで、200
           回に亙つて神戸新聞に連載されたものである。神戸新聞社創立60年記念の為に、兵庫県出身の
           著者が、嘉治隆一氏の慫慂により口述筆記せしめたものである。後、昭和34年11月編集をかえて、
           単行本としてのじぎく文庫より出版された。本書は新聞発表当初の体裁を踏襲し、それに未発表の
           分を拾遺として附加した。」とあります。
        9. 藤村のこの詩には、曲がつけられ、ひろく歌われています。金田一春彦・安西愛子編
         『日本の唱歌[中](大正・昭和篇)』(講談社文庫、昭和54年7月15日第1刷発行)には、
         次のようにあります。
           島崎藤村が明治34年の昔出した詩集『落梅集』の中に載っている詩に大中寅二が
           国民歌謡の一曲として新たに作曲したもの。 国民歌謡のうちの最も広く愛され歌わ
           れた曲をこの曲と見ることに異存はないであろう。昭和11年7月13日から1週間東
           海林太郎によってJOAKで放送されたのがはじめで、以後、8月3日から二葉あき子
           により、11月9日から多田不二子により、12月9日から柴田秀子により放送された。
           (略)レコードでは11年11月、ポリドールから東海林太郎が吹き込んで売り出された。
           (略)今、伊良湖岬には、この詩の詩碑がある。(同文庫、212~3頁)
       10. 島崎藤村(しまざき・とうそん)=詩人・作家。本名、春樹。木曾馬籠
まごめ(現、岐阜県
               中津川市)の生れ。明治学院卒。詩集「若菜集」などでロマン主義的詩風を示
               す。小説「破戒」によって作家の地位を確立。「春」「家」「新生」「嵐」などの自
               伝的作品で自然主義文学を代表。「夜明け前」は畢生の大作。「幼きものに」
               「ふるさと」などの童話もある。(1872~1943)
           柳田国男(やなぎた・くにお)=民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を
               経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民
               俗学研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(18
               75~1962)        
           落梅集(らくばいしゅう)=島崎藤村の詩文集。1901年(明治34)刊。従来の感傷的・
               ロマン的傾向を脱して、現実的で重厚な詩風への転機を示した。
           於母影(おもかげ)=訳詩集。森鷗外を中心とする文学結社新声社編。1889年(明治
               22)8月「国民之友」夏期付録。韻律を中心に訳詩上の新しい試みが多くなさ
               れ、和語・漢語の長所を生かしつつ西欧的情緒を盛りこみ、明治の新体詩を
               生む母体となった。             (以上、『広辞苑』第6版による。)         
       11. 青空文庫に、『藤村詩抄』が入っています。
       12. 国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、『落梅集』(春陽堂、明治34年8月
         25日発行)が入っています。
          「椰子の実」は、 74 ~75 / 146 にあります。

       13. 『J-TEXTS』に、『於母影』の本文(ルビなし)が入っています。ここには、『若菜集』
         の本文
(ルビは省略)も入っています。(『J-TEXTS』には『落梅集』はありません。)
        14. 蛇足ながら、語句の注釈をいくつか付けておきます。 
           
  生ひや茂れる……「生ひ」は、ハ行上二段活用の動詞「生ふ」の連用形。「や」は疑問の意の
                    係助詞。「茂れ」はラ行四段活用の動詞「茂る」の已然形。「る」は、完了の助動詞
                    「り」の連体形。係助詞「や」の結び。ここでの意味は存続。「生い茂っているだろう
                    か」という意味になります。
                影をやなせる……「や」は疑問の意の係助詞。「なせ」は、サ行四段活用の動詞「なす」の已
                    然形。「る」は、完了の助動詞「り」の連体形。係助詞「や」の結び。ここでの意味は
                    存続。「影をなしているだろうか」という意味になります。 
            なお、このところの注釈で、関氏は、「そなたの親である木は生い茂っているだろうか、枝は前と
           同じく茂って木蔭を作っているだろうか。親兄弟の安否を問うているので、「韓詩外伝」の「樹静カ
           ナラント欲スレドモ風止マズ、子養ハント欲スレドモ親待タズ」という「風木の嘆」「風樹の歎」をか
           すめている」とされていますが(『近代詩』67頁頭注)、また、吉田氏も、「椰子の実にこと寄せて
           自分の感慨を述べた詩であるから、「旧の木」は両親を、その「枝」は兄弟を暗示したものであろ
           う」と、『鑑賞現代詩 I 』の語釈で述べておられますが(同書、61頁)、 私はそこまで考える必要
           はないのではないか、と思いますが、どうでしょうか。「旧の木」「枝」は、それぞれ何を象徴してい
           ると考えられますか、という国語の問題もあるようですが、どんなものかと私は思っています。    
                胸にあつれば……「あつれば」は、タ行下二段活用の動詞「あつ(当つ)」の已然形「あつれ」
                    に、已然形について確定条件を表す接続助詞「ば」のついたもの。「当てると」の意。
                    (「当てれば」と訳すと、「もし当てたならば」という仮定の意にとられるおそれがある
                      ので、よくありません。ここは、「已然形+ば」の確定条件を示 しているわけです。)  
               海の日の沈むを見れば……ここの「見れば」も、上の「あつれば」と同じく、確定条件を示して
                     います。マ行上一段活用の 動詞「見る」の已然形「見れ」に、已然形について確定
                    条件を表す接続助詞 「ば」のついたもので、「見ると」の意です。(「見れば」とその
                    まま訳してはいけません。仮定条件の訳になってしまうからです。) 
                         なお、「海の日の」についても触れておくと、「海の日」の「の」は所有を表す格助
                    詞。「日の」の「の」は、主語を表す格助詞(主格助詞)。したがって、「海の日が沈
                     むのを見ると」 という意味になります。
               いづれの日にか国に帰らむ……「か」は、疑問の意の係助詞。「む」は、推量の助動詞「む」
                       の連体形。「か」の結び。「いつになったら、なつかしい故国に帰ることができるのだ
                       ろうか」。 

        15. 『朋盟のホームページ』というサイトに「愛唱歌歌詞解説」のページがあり、そこに「椰
         子の実」の歌詞解説があって参考になります。 
       16. 『春桜庵』というサイトの『春桜庵随筆』に、「島崎藤村詩碑(「椰子の実」)」 (『帝京
         国文学』6号所載)という文章があって参考になります。
 
                     
 
(お断り) 現在は見られないようです。(2011年4月10日)
       17. いくつかのサイトで「椰子の実」のメロディーを聞くことができますが、ここではYouTube
                      に出ている三つの歌を挙げておきます。
                YouTube → 
(1)「唱歌・椰子の実」(女性歌手による)
                         (2)「椰子の実」 (歌:鮫島有美子)
                         (3)「椰子の実」 (歌:東海林太郎)



           
                 
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