資料25 森鴎外の遺言(余ハ少年ノ時ヨリ……)




           
森鷗外の遺言

 

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
        森 林太郎 言
(拇印)
        賀古 鶴所 書

  森 林太郎
      男     於莵

       
友人
         総代
   賀古鶴所
            
以上
 

 

 

 

 



 
    (注)  1. 上記の「森鷗外の遺言」の本文は、『現代日本文学アルバム』第1巻・森
           鷗外(学習研究社・昭和49年8月25日初版発行)所収の、遺言の写真によ
           り、改行も写真によりました。原文は、勿論縦書きです。
         
 (注の9.で、三鷹の禅林寺境内にある「森鷗外の遺言碑」の写真が、
            注の10.で、津和野の旧藩校養老館にある「森鷗外の遺言碑」の写真が見られます。)

         2. 本文6行目の「官憲」は、「權」の(縦書きの)左に、「憲」と傍書してありま
           す。上記の本文では、傍書のほうを採って「官憲」としておきました。(「官權」
           とする本もあります。)
         3. 遺言中の「賀古鶴所」は「かこ・つるど」、「可ラス」は「べからず」と読みます。
         4. 鷗外は、大正11年(1922年)7月6日、親友賀古鶴所に遺言を口述筆記させ、
           9日午前7時、61歳(満60歳)で逝去しました。(生まれは、文久2年(1862年)
           1月19日。)
         5. 賀古鶴所(かこ・つるど)=1855-1931 明治から昭和時代にかけての
             耳鼻咽喉科医師、軍医。森鷗外の終生の盟友。安政2年(1855)正月
             2日、浜松藩医賀古公斎の長男として浜松に生まれる。藩主が上総国
             市原郡鶴舞に移封されるのに従って、明治2年(1869)同所に移る。翌
             3年上京し、箕作秋坪の塾に学び、同5年第一大学区医学校に入学した。
             明治14年医師柳慎斎4女けい子と結婚、同年東京大学医学部を卒業し、
             ただちに陸軍軍医となる。17年緒方正規に細菌学を学び、軍医学校で
             これを講じ、のち陸軍大学校教官を兼任し、軍陣衛生学を講じた。21年
             内相山県有朋に随行して欧米を巡遊したが、その間ベルリンで耳鼻咽
             喉科学を学んだ。25年東京神田小川町に賀古耳科院を開設、公務の
             かたわら診療に従事した。日清・日露戦争に従軍し、日露戦争後軍医監
             になる。44年恩賜財団済生会を創立した。昭和6年(1931)1月1日東
             京で没した。77歳。墓は文京区本駒込の吉祥寺にある。法名は翠厳院
             玄雲鶴所居士。編著に『耳科新書』(明治25・26年)がある。
              [参考文献] 松原純一「賀古書簡」(『鷗外』ニ)、同「賀古鶴所略年譜」
              (同)                                 
(大塚  恭男) 
                          (『國史大辞典』第3巻
(吉川弘文館、1982年)による。)
         6. 森鷗外の法号(戒名)について
            法号は、「貞獻院殿文穆思齊大居士」(貞献院殿文穆思斉大居士)。これは、
           岩波書店版『鷗外全集(著作篇)第24巻』(昭和29年3月15日第1刷発行)及び
           同じ岩波書店版『鷗外全集 第38巻』(昭和50年6月28日発行)によりました。
            「思齊」(思斉)を、「思齋」(思斎)とする本も多いのですが、「思齋」(思斎)は
           誤りで、「思齊」(思斉)が正しいと思われます。

             「思齊」(思斉)は、『論語』の「子曰見賢思齊焉見不賢而内自省也」(里仁第
           四)に拠ったものでしょうか。 (子曰く、賢を見ては斉
(ひと)しからんことを思ひ、
           不賢を見ては内に自
(みづか)ら省みるなり。)

           
※    『掌中 論語の講義』(諸橋轍次著、大修館書店・昭和34年10月30日第14版発行)で
              諸橋轍次氏は、「子
(し)(いは)く、賢(けん)を見ては齊(ひと)しからんことを思ひ、不賢(ふ
              けん)を見ては内(うち)に自(みづか)ら省(かへり)みる。」と読んで、「孔子言う、己れにまさっ
              た、立派な行いをなす人を見たなら、自分もこの人同様でありたいと念願し、思わしくない
              行いをする、不賢の人を見た場合には、自分にもこの人同様、不賢の行いはないかと反省
              するがよい。」と訳しておられます。そして、「要するに、善い人を見た場合にも、悪い人を見
              た場合にも、常に己れの身に反省せよというのである。かくすれば、人の善悪にかかわらず、
              常に益を得る。なお賢・不賢は、実際に交際しておる人のみならず、書物の中に描かれる人
              物についても同様のことが言い得られると思う。」としておられます。(同書、75頁)           

           
※   新訂中国古典選の『論語 上』(吉川幸次郎著、朝日新聞社・昭和40年12月1日第1刷、
              昭和40年12月10日第2刷発行)で吉川幸次郎氏は、「子
(し)(い)わく、賢(けん)を見
              ては斉
(ひと)しからんことを思え。不賢(ふけん)を見ては、内(うち)に自(み)ずから省(かえ)
              りみる也
(なり)。」と読んで、「すぐれた人物にあったら、自分もそれと同じようになりたいと
              思え。つまらない人間にあったら、自分も同じ条件をもたないか、内に向って自ずから反省
              せよ。」と訳しておられます。そして、「「かしこい」という日本語は、必ずしも、賢
(けん)とい
              う漢字の意味をつくさない。すぐれた人物、えらい人物が、賢
(けん)である。」と注しておら
              れます。(同書、102頁)

             また、『詩経』の大雅に「思斉篇」があり、「思斉大任」という句が見えます。こ
           この「大任」は人名で、「思」は形容詞の接頭語、「思斉」は「斉斉」と同意、つつ
           しむさまを表す由です。(『詩経』の「思斉大任」については、新釈漢文大系『詩経
           下』石川忠久著、明治書院・平成12年7月30日初版発行によりました。)

            なお、上記の『現代日本文学アルバム』(第1巻・森鷗外)には、法名は桂湖
           村により「貞献院殿文穆思斉大居士」と名付けられたとして、「じょうけんいんで
           んぶんぼくしせいだいこじ」と、ルビで読みが示してあります。

                    
  桂湖村(1868~1938)=新潟生まれの漢学者・漢詩人。早大教授をつとめた。鷗外
                         の漢詩の師であった。

                  ○ 『早稲田と文学』というサイトに、次のように出ています。
                 桂 湖村(かつら・こそん)=1868~1938。漢学者、漢詩人。名五十郎。越後に生ま
                      れる。幼時より漢学を修め、和歌もよくした。明治25年東京専門学校専修
                      英語科卒。中国に渡り書画を研究。のち早大教授となる。『漢籍解題』の
                      著者として名高く、学生に与えた影響も大きい。            

                
 ○ 『新潟市』のサイトの「秋葉区」の「秋葉区ゆかりの先人たち」に、次のように出ています。
                 桂 湖村(かつら こそん)=明治元年生~昭和13年没。漢文学者。名は五十郎。
                      新津市に生まれ、幼少時に福島潟近くの分家の養子になった。東京専門
                      学校卒業後、「日本新聞社」に入社し、正岡子規と文芸欄を分担していた
                      が、のち中国に留学した。帰国後、早稲田・東洋・国学院の各大学の講壇
                      に立ち、晩年は早稲田大学の名物教授として親しまれた。また、陶器研究
                      でも知られた。研究著書「漢籍解題」は当時類のない中国学会の至宝とし
                      て尊重された。
                      なお、文豪森鴎外の漢詩の師匠としても有名である。                 


           筑摩書房版『森鷗外全集』別巻(昭和46年10月5日初版第1刷発行・昭和49
           年5月20日初版第4刷発行)所収の「年譜」(北村佐太夫編)には、「法號は弘
           福寺住職日向義角師によつて文林院殿鷗外仁賢大居士とつけられたが、遺族
           により桂湖村提案の貞獻院殿文穆思齋大居士に改められた」とあります。
            ここでは「思齊」を「思齋」としていますが、「思齋」は「思齊」が正しいのでは
           ないでしょうか。
     
         (付記) 岩波書店の鷗外全集編集部に問い合わせたところ、平成18年5月29日付
           けで、岩波の全集の記載が正確であるというご返事を頂きました。 その根拠とし
           ては、位牌現物を確認していただいていること、また、字義の点でも「思斎」では
           理解しにくいのではないかということでした。
(2006年11月28日記)
         7. 鷗外の葬儀は、大正11年7月12日、谷中斎場で仏式により行われ、13日、日
          暮里火葬場で荼毘に付され、当日、弘福寺に埋葬されました。弘福寺は大正12
          年9月の関東大震災によって全焼したため、昭和2年10月2日、墓は三鷹市の
          禅林寺に移されました。(『現代日本文学アルバム』(第1巻・森鷗外)による)
           なお、森於菟著『父親としての森鷗外』(ちくま文庫、1993年9月22日第1刷発
          行)に、「父の墓碑は中村不折氏の筆で向島弘福寺にあったが、その七回忌の
          時の春、隅田公園の成るとともに墓地縮小のため府下三鷹村禅林寺に移した。
          祖父の墓(落合直文の筆)及び叔父篤次郎、弟不律、潤三郎の男兌の合墓(父
          の筆)と並んでいる。なお曾祖父曾祖母祖母の墓三基は土山常明寺にその前の
          祖先の墓は津和野にある。」とあります。(同書、295頁)
         8. 永井荷風はその日記『斷膓亭日乘』に、鷗外の死に関して次のように書いて
          います。
           大正十一年七月七日。夜半與謝野君電話にて森夫子急病危篤の由を告ぐ。
                   七月八日。早朝團子阪森先生の邸に至る。表玄關には既に受附
                       の設あり。見舞の客陸續たり。余は曾て厩のありし裏門よ
                       り入るに與謝野澤木小嶋の諸氏裏庭に面する座敷に在り。
                       病室には家人の外出入せず。見舞の客には先生が竹馬の
                       友賀古翁應接せらる。翁窃に余を招ぎ病室に入ることを許
                       されたり。恐る恐る襖を開きて入るに、先生は仰臥して腰よ
                       り下の方に夜具をかけ昏々として眠りたまへり。鼾聲唯雷の
                       如し。薄暮雨の晴間を窺ひ家に歸る。
                   七月九日。早朝より團子阪の邸に徃く。森先生は午前七時頃遂に
                       纊を屬せらる。悲しい哉。
                   七月十日。(略)
                   七月十一日。玄文社合評會終りて後、小山内兄妹と自働車にて觀
                       潮樓に至り、鷗外先生の靈前に通夜す。此夜來るもの凡數十
                       名。その中文壇操觚の士は僅に十四五人のみ。
                   七月十二日。朝五時頃、電車の運轉するを待ち家に歸る。一睡の後
                       谷中齋塲に赴く。此日快晴凉風秋の如し。午後二時半葬儀終
                       る。三河島にて荼毘に付し墨上の禪刹弘福寺に葬ると云。           
              《岩波書店版『荷風全集 第十九巻』(昭和39年5月12日第1刷発行・昭和47
              年8月7日第2刷発行
によりました。同書 239~240頁。この全集では「斷膓
              亭日記 巻之六(大正十一年)」となっています。》

            また、昭和8年12月17日の日記に、次のようにあります。
                  十二月十七日
日曜日 晴れて風寒し。終日『鷗外遺珠』を讀む。昏刻銀座
                       に飰して後喫茶店きゆうぺるに憩ふ。諸子と共に佃茂に立寄り
                       てかへる。昨夜きゆうぺるの女給
名お淸といふ歸途銀座通にて自
                       働車に觸れ平民病院に入りしといふ。
                          鷗外遺珠と思ひ出 森潤三郎編 昭和書房刊 序
森潤三郎
                          珠三十篇 序跋題辭四十一篇 廣告文三十九篇 引札 漢
                          詩補遺 歐文
二篇 年譜及著作目録 思ひ出森於菟 與謝野寛 
                                     森潤三郎 小金井喜美子
                          編輯後記
                              臨終口授
                          余は少年の時より老死に至るまで一切の秘密なく交際した
                          る友は賀古鶴所君なり。ここに死に臨んで賀古君の一筆を
                          煩はす。死ハ一切を打切る重大事件なり。奈何なる官憲威
                          力といへどもこれに反抗することを得ずと信ず。余は石見人
                          森林太郎として死せんと欲す。宮内省陸軍皆縁故あれども
                          生死別るる瞬間あらゆる外形的取扱を辭す。森林太郎とし
                          て死せんとす。墓は森林太郎墓の外一字ホル
(假名でも好
                             いよ)
べからず。書は中村不折に依託し宮内省陸軍の榮典
                          は絶對に取りやめを請ふ。手續はそれぞれあるべし。これ
                          唯一の友人にいひ殘すものにして何人の容喙をも許さず。
                          大正十一年七月六日
              《昭和8年12月17日の日記は、岩波文庫版『
摘録断腸亭日乗(上)』(1987年
              7月16日第1刷発行・1993年1月12日第10刷発行)によりました。同書 291~
              292頁。なお、引用者が本文の常用漢字を旧字体に改めました。また、文庫本
              の本文には、「飰
(はん)」「引札(ひきふだ)」「賀古鶴所(かこつるど)」「煩(わずら)はす」
              「奈何 
(いか)なる」「石見人(いわみのひと)」「中村不折(なかむらふせつ)」「請(こ)ふ」
                    
「容喙(ようかい)」と、文庫編集部によってルビが付けられています。》
                                
(昭和8年12月17日の日記は、2013年3月27日付記)

          9. 禅林寺の森鷗外遺言碑の写真
           
鷗外の墓がある三鷹の禅林寺境内に、「鷗外遺言碑」があります。その写真を、
           霊泉山禅林寺のホームページで見ることができます。
             
霊泉山禅林寺TOPページの「禅林寺のご案内」 → 下方の「禅林寺 境内マップ」の中
             の「鴎外遺言碑」に触れると、「鴎外遺言碑」の写真が見られます。(「遺言碑」の拡大写真が
             ないので、文字がはっきり読み取れないのが残念です。) 
                 
               * 
『東京さまよい記』というサイトに、禅林寺の森鴎外の遺言碑の写真があって、遺
           言碑の文字がはっきり写っています。
(拡大写真も見られます。) (2014年3月31日付記)
               『東京さまよい記』 → 「禅林寺(森鴎外の遺言碑・墓)」
                                          森鴎外の遺言碑

         10. 「森鷗外遺言碑」が、津和野町の、鷗外が学んだ養老館内に建っているそうです。
          その遺言碑の写真を、山口県観光連盟のwebサイト「おいでませ山口へ」で見ること
          ができます。
(これも「遺言碑」の拡大写真がないので、文字がはっきり読み取れないのが残念
           です。)
                         
                  →  「森鴎外遺言碑」の写真

               (1) 「おいでませ山口へ」TOPページの左上にある検索欄に「森鴎外遺言碑」と入力して検索
                    → 「森鴎外遺言碑」をクリック → 「森鴎外遺言碑」の写真 
               (2) 「おいでませ山口へ」TOPページの左下にある「すべての市町」から「津和野町」をクリック
                    → 左上の「名所・史跡」をクリック  → 下から2番目の「記念碑・銅像(3)」をクリック
                    → 「森鴎外遺言碑」をクリック → 「森鴎外遺言碑」の写真

         11. 電子図書館「青空文庫」では、上記の遺言を含めて、「遺言三種」を読むことがで
           きます。

  
         12.『文京区立森鷗外記念館』について 
               
千駄木3丁目にある観潮楼跡の元の「鴎外記念室」(「文京区立本郷図書館鴎外
           記念室」)がリニューアルして、新たに『文京区立森鷗外記念館』として、平成24年
           11月1日に開館しました。
        
                 
   → 『文京区立森鷗外記念館』   
                  
(参考)   「本郷図書館」                      (2013年2月2日付記)
          
13. 「森鷗外記念会」のホームページがあります。
          
14. 資料8に「森鴎外の詩『沙羅の木』」があります。
          
15. 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、森鷗外の肖像写真を見ることが
           できます。
(写真をクリックすると拡大写真になります。) 
         16. 津和野町の「森鷗外記念館」の施設案内のページがあります。
      
         17. 東京大学附属図書館に、「鷗外文庫 書入本画像データべース」があり、森
           鴎外旧蔵書の一部を画像で見ることができます。 
         18. 資料346に「森鴎外の詩「扣鈕」」があります。
         19. 資料347に「森鴎外「我百首」」があります。
         20. 岩波書店の『図書』2012年11月号に、平岡敏夫氏の「原敬の遺書と鷗外の
          遺書」という文章が掲載されていて、原敬の遺書と鷗外の遺書との類似について
          触れてあります。
            なお、原敬の遺書は、林茂・原奎一郎編『新版 原敬日記6』(2012年6月、
          福村出版)に出ているそうです。(2012年11月2日付記)
            1981年9月10日発行の『原敬日記6』(福村出版)にも出ていました。(同書、
          190頁) (2013年12月25日付記)

         ※ 『原敬遺徳顕彰事業団 
財団法人大慈会』のホームページに「原敬アルバム」の
          ページがあり、そこに原敬の遺書4通のうち「死亡せハ即刻開披すべし」とある遺
          書の写真が出ています。
(ただし、写真が小さく、文字を読みとるのは困難です。) 
              
そこに、「死去ノ際位階勳等ノ陞叙ハ余ノ絶對ニ好マサル所ナレハ死去セハ即
          刻發表スヘシ」「死亡通知ハ親戚ノミニ限ルヘシ一般ニハ別ニ通知書ヲ出サス新
          聞紙ノ廣告ニ止ムヘシ」「墓石ノ表面ニハ余ノ姓名ノ外戒名ハ勿論位階勳等モ記
          スルニ及ハス」などの文言が見えます。
            
なお、ここに「……位階勳等モ記スルニ及ハス」と書きましたが、平岡敏夫氏は「……位
             階勳等も記すに及ばず」と書いておられます。これは、『原敬日記6』
(2012年6月、福村出
             
版)によったものでしょうか。遺書の写真には「記スニ及ハス」ではなく、「記スルニ及ハス」
             と書いてあるように見えるのですが、どうなのでしょうか。細かいことですが、一言書き足し
             ておきます。(2013年4月9日)

                『原敬遺徳顕彰事業団 
財団法人大慈会』 → 「原敬アルバム」
                                             (2013年3月27日付記)
              
『原敬遺徳顕彰事業団 財団法人大慈会』のホームページは、残念ながら現在
              見られなくなっています。(2013年12月25日)

 


                      
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