資料174 日米和親条約(漢文・漢文和解・翻訳蘭文和解)



 

 

三月三日調印日本國亞米利加合衆國和親條約
                 
神奈川に於て調印、安政二年正
                       月五日、下田に於て批准書交換、

三月三日、取替せ相定り候條約書、

     
條約
  現今亞美理駕
合衆國謀與日本國人交相親睦、將依此意以定後來久守之章程、是以
  合衆國大統領差全權
被理、到於日本、
  日本國大君差
全權林大學頭井戸對馬守伊澤美作守鵜殿民部少輔、相與遵奉 勅諭、立
   約如左、
 
兩國之人嗣後當互相親睦、不得以其人之高下貴賤與所遇異地、而各別視之也、
一 日本國政府今定下田箱館兩港、做爲合衆國船、發薪水食料石炭等諸缺乏物之現存者、
  儘數給之之地、准其駕船入港、但下田港、應以┛約書之日爲之始、箱館、應以來年
  三月而始開、其發給諸物、應自日本官吏購價報知、而抵以洋金洋銀也、
一 合衆國船漂到日本諸處海濱者、應救恤周濟、併其所携諸物、具船送致之于下田或箱館、
  附之該國人到港者、其周濟漂民諸費項、彼此所同、兩國皆不用追支也、
一 漂民及到港合衆國人、應同海外諸國之俗、從容待之、不得一處安置也、但至日本正理
  之例、合衆國人亦不得不甘心從順、
一 合衆國漂民及其他到港者、兩港官吏不應倣長崎港置唐山和蘭諸國人之制、而錮禁之也、
  但下田港、則其港内小島居中、向四方能歩遊七里、若箱館港行歩之規、應竢日後量度
  較定、
一 或要覓必需諸物、及其餘宜見允準之事、應俟兩國議定、
一 合衆國船到兩港者、准其以洋金洋銀及諸貨、抵換必需諸物、應謹守日本政府之法制、
  若其所發諸貨、不中日本之意而却之者、合衆國人應甘心帶回、
一 其取薪水食料石炭及缺乏諸物、皆應從該地官吏幹辨、凡一支一收皆不得私下相與也、
一 嗣後日本政府
以今不相允於合衆國之事、與他海外諸國相允、則亦應同允之于合衆
  國、毋庸遲緩待議也、
一 兩港既開、則合衆國人除猝遇風颶之外、不得向別處恣意入港也、
兩國政府均有不得已之事情、或應置合衆國總領于下田、但置總領之事、應以┛
  約書以來十八月後爲期、
一 條約一定、兩國各官民自應謹守、且
  合衆國大統領同長公會大臣議定允肯、致書于
  日本大君、此事應以今後十八個月、即將兩國君上批准之條約互換、
    已上
   約書如上、兩國全權諸臣下印作證、
  嘉永七年三月三日

前書和解
   約條
  亞墨利加合衆國と帝國日本兩國の人民誠實不朽の親睦を取結ひ、兩國人民の交親
  を旨とし、向後可守箇條相立候爲、合衆國より、全權マテュ カルブレト
ペルリ
   
Matthew  Calbraith  Perry人名を日本に差越し、日本君主よりハ、全權林大學頭井戸
  對馬守伊澤美作守鵜殿民部少輔を差遣し、勅諭を信して、双方左之通取極候、
     第一ヶ條
一 日本と合衆國とハ、其人民永世不朽の和親を取結ひ、場所人柄の差別無之事、
     第二ヶ條 
一 伊豆下田松前地箱舘の兩港ハ、日本政府ニ於て、亞墨利加船薪水食料石炭欠乏の
  品を、日本にて調候丈ハ給候爲メ、渡來之儀差免し候、尤下田港は、約條書面調
  印之上即時にも相開き、箱舘ハ、來年三月より相始候事、
一 給すへき品物直段書之儀は、日本役人より相渡し可申、右代料ハ、金銀錢を以て
  可相辨候事、
     第三ヶ條
一 合衆國の船日本海濱漂着之時扶助いたし、其漂民を下田又ハ箱舘に護送し、本國
  の者受取可申、所持の品物も同樣に可致候、尤漂民諸雜費は、兩國互に同樣之事
  故、不及償候事、
     第四ヶ條
一 漂着或は渡來の人民取扱之儀ハ、他國同樣緩優に有之、閉籠メ候儀致間敷、乍併
  正直の法度にハ服從いたし候事、  
     第五ヶ條
一 合衆國の漂民其他の者とも、當分下田箱舘逗留中、長崎に於て、唐和蘭人同樣閉
  籠メ窮屈の取扱無之、下田港内の小島周り凡七里の内は、勝手に徘徊いたし、箱
  舘港之儀ハ、追て取極め候事、
     第六ヶ條
一 必用の品物其外可相叶事ハ、双方談判之上取極候事、
     第七ヶ條
一 合衆國の船右兩港に渡來の時、金銀錢并品物を以て、入用の品相調ひ候を差免し
  候、尤日本政府の規定に相從可申、且合衆國の船より差出候品物を、日本人不好
  して差返候時は、受取可申候事、
     第八ヶ條
一 薪水食料石炭并欠乏の品を求る時ニハ、其地の役人にて取扱すへし、私に取引す
  へからさる事、
     第九ヶ條
一 日本政府外國人え當節亞墨利加人え不差免候廉相免し候節ハ、亞墨利加人えも同
  樣差免し可申、右に付談判猶豫不致候事、
     第十ヶ條
一 合衆國の船若し難風に逢さる時ハ、下田箱舘の港之外猥りに渡來不致候事、
     第十一ヶ條
一 兩國政府に於て無據儀有之候模樣ニより、合衆國官吏之もの下田に差置候儀も可
  有之、尤約定調印より十八ヶ月後ニ無之候てハ不及其儀候事、
     第十二ヶ條

一 今般の約條相定候上ハ、兩國の者堅く相守可申、尤合衆國主に於て、長公會大臣
  と評議一定之後、書を日本大君に致し、此事今より後十八
月を過き、君上許容
  之約條取替し候事、
  右之條日本亞美利加兩國の全權調印せしむる者也、
   嘉永七年三月三日
                          林    大 學 頭
花押
                          井 戸 對 馬 守  

                          伊 澤 美 作 守  

                          鵜 殿 民部少輔  


                             (墨夷應接録 向紀山誠齋雜綴 高麗環雜記)
 

飜譯蘭文和解
亞墨利加合衆國及帝國日本兩國人民の際に於て、誠實永久之交を結んと欲し、相議
して、後來兩國人民相接するに當て、信守すへき條約を明白的切に定めん事を決し、
是か爲に合衆國伯理璽天
(ブレシテント)其全權大臣マツチユウカルブレイペルリ人名
を封して、日本え遣すへき特派の使臣となし、便宜に從ひ事を行ハしめ、又世に隱れ
なき日本之君主ハ、其全權大臣林大學頭井戸對馬守伊澤美作守鵜殿民部少輔に命し、
便宜に從ひ事を行ハしむ、上に記せる兩國全權大臣互に約書を見て、其可否を議して、
條を約定する左の如し、
第一條
合衆國及日本國之交際且兩國人民の際ニおいて、地と人とを論せす、永久公共の和平
及誠實の友睦を保つへし、
第二條
倭國伊豆下田の港及ひ倭國松前箱舘の港ハ、日本政府より亞墨利加船の來泊を准し、
日本人より受る所之薪水食料石炭及ひ其他須要之諸物を装載せしむ、下田港ハ、此
條約之下に名字を手配
(記カ)して事を定むる後、直ちにこれを開くへし、箱舘之港
は、來年三月
我か正月中旬より二月中旬ニ到る、に至てこれを開へし、
日本より受たる品物之價ハ、其事を司とる日本官人より是を定め、金銀錢を以て之
を償ふへし、
第三條
合衆國之船日本海岸等漂到し、或ハ難船せし時ハ、力を盡してこれを救ひ、其船中
の人を下田或ハ箱舘に護送して、其國人へ
し、又其器械諸具も共ニ返却すへし、
但、其漂民を拯救撫
するの費用ハ、兩國政府に於て互に問ふことなかるべし、
第四條 
合衆國之漂民及其土人ハ、他の諸國にあることく自由ならしめ、是を籠居せしむる
なく、愼て公正之法ニ依て待遇すへし、
第五條
合衆國之漂民及其土人下田及箱舘ニ一時寄居する者ハ、長崎に來り居れる和蘭人支
那人之如く籠居する事なく、下田港内の一島より四方日本里數七里を限り、自在ニ
往來するも妨なかるへし、其島ハ今以議約之時採用せる圖に見へたり、箱舘にての
界限ハ、後日を俟ちて定むへし、
第六條
此他事ニ臨ミ法制を設くへき要件出來したらハ、内密ニ商量して、之を定むべし、
第七條
合衆國船隻の來舶を准
(ユル)されたる二港内ニ於て、此度日本政府より是か爲に設
けたる約定の如く、金銀錢貨及品物を以て、各種の品物と兌換
(左ルビ:トリカヘ)する
を准すへし、又本人の兌換するを好さる品物ハ、再たひ亞墨利加船に装載し去るを
准すへし、  
第八條
薪水食料石炭及其他須要之諸物ハ、只其事を司とれる日本官人より是を受け、別人
より決して是を取ることなかるへし、
第九條
後來之時勢にて、二三の外國人に殊典
(左ルビ:カクヘツノメグミ)を免す事ありて、合衆
國及其國人ハ未
是に與からさるものあらハ、更ニ思慮するを須ひす、速ニ其恩准を
受しむべし、
第十條
合衆國之船隻颶風に遭て難船し、止む事を得さるに非されは、下田箱舘二港の外他の
日本港ニ來舶する事なかるへし、
第十一條
下田在留のコンシユル
(Consul) 交易總務 或ハアケント(Agent) 萬事を統轄する官は、兩國政府
之内一方より貴官を設けんと要する時至らハ、合衆國政府にて其人を擧へし、但、此
條約ニ名字を手記して事を定る後十八
月之前ハ、これを命することなし、
第十二條
會議全く成る時ハ、此條約永く亞墨利加合衆國と日本國と相接る基となり、嗣後の朝
廷臣民共に其條約を信守すへし、此合同條約ハ、合衆國會議一致して、伯理璽天親
らこれを定め、帝國日本の世に隱れなき君主も、親らこれを定め、各名字を其下に題
する時日之後十八
月を出すして、互に其條約を交付すへし、亞墨利加合衆國及帝國
日本之兩全權大臣等名字を其條約に手記し、印を押て其證となす、
 千八百五十四年第三月三十一日、即チ日本暦數嘉永七年三月三日、神奈川にて作り、
 并ニ名字を記す、 
  

 

      コムモトレクレルク(官及和蘭語通詞
      
(Commodore Klerk)                     (エル) 
                               
ア、ス、セ、ポルトマン 眞譯

 

 

 

 

            

  

 

    (注) 1. 上記の「三月三日調印日本國亞米利加合衆國和親條約」は、『大日本古文書 幕末外国
                       関係文書之五
』(東京帝国大学文科大学史料編纂掛、大正3年2月16日発行;東京大学出版会、昭和
          59年10月25日覆刻再刊
)によりました。
        2. 上記条約本文中の「
」「の文字は、“島根県立大学e漢字フォント”を利用させ
                  ていただきました。
                           ( =イ+尚  =斤−丁+虎+之繞
(しんにょう)  =血+邑(おおざと)
        3. 資料173に「日米和親条約(条約本文)」があります。
        4. 資料176に「日米和親条約(英文)」があります。
        5. 外務省のホームページの「外交史料Q&A 幕末期」によれば、日本側の日米和親条約
         調印書原本は、幕末期の江戸城における火災によって焼失してしまい、現在残っていない
         そうですが、アメリカ側の原本は、アメリカの国立公文書館に所蔵されているそうです。そし
         て平成16年に、アメリカが保存している条約批准書のレプリカ(複製)が日本側に寄贈され
         た由です。
                   国立国会図書館のホームページ「史料にみる日本の近代 
開国から講和まで100年の軌跡
         で、アメリカ側に保存されている日本文の条約の写し(「日米和親条約写」)を見ることがで
         きます。
        6. 日米和親条約(にちべい・わしん・じょうやく)=1854年(安政1)神奈川で、アメリカ全権
              使節ペリーと幕府全権林大学頭
(あきら)以下4名との間に締結・調印された条約。
              アメリカ船の下田・箱館寄港、薪水食糧の購入、漂着アメリカ人の保護、片務的最
              恵国条款などを定めた。神奈川条約。               
 (『広辞苑』第6版による)
                                           (注)   
(光+韋)の漢字は、“島根県立大学e漢字フォント”を利用しました。        
                     日米和親条約(にちべい・わしんじょうやく)=1854年江戸幕府がペリーと結んだ条約。
              下田・箱館両港へのアメリカ船寄港、薪水・食料などの補給、下田に領事をおくこと
              などを認めた。貿易は認めなかったが開国の端緒となる。神奈川条約。
                                                
 (『大辞林』第二版による)
              7. NHKの第120回「その時歴史が動いたスペシャル」で、「ニッポン開国 第一部 なぜ
           アメリカだったのか?〜ペリーの知られざる外交戦略〜、第二部 通商か亡国か?
            〜日本全権決死の通商条約締結〜」が、平成15年1月8日に放送されました。
           残念ながら現在は見られないようです。(2017年10月30日)  
          8. 「国立公文書館アジア歴史資料センター」というサイトに、
「条約と御署名原本に見る
         
近代日本史」があって参考になります。
 
 

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