資料2 藤村操の「巌頭之感」


          明治36年(1903年)5月、一人の18歳(満16歳10か月)の
          旧制一高生の死が、若者たちをはじめ社会の人々に大き
          な衝撃を与えた。
          彼の名は、藤村操。巌頭の大きなミズナラの樹肌を削って
          書き残した文言が、次の「巌頭之感」である。



               
巌 頭 之 感

 

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。

                
(明治36年5月22日)

       

       

            
      
  (写真をクリックすると、拡大写真が見られます。)

 


       
     (注)    1. 上記の本文の句読点は、適宜補ってあります。
          2. 「……煩悶、終に死を決す」で切る本文がありますが、これは誤りでしょう。
           「巌頭之感」の写真を見れば、明らかに「死を決するに至(る)」と読めます。
          3. 「オーソリチィー」「を價する」を、それぞれ「オーソリチー」「に値する」など
           とする本文が見られますが、原文は「オーソリチィー」「を價する」です。
            また、二つの「大なる」を「大いなる」とする本文も見られますが、原文は
           「大なる」です。これを「だいなる」と読むか「おおいなる」と読むかは、読み
           手の判断によるでしょう。(→ 注8 参照)
          4. 写真によれば、「巖」という漢字は、常用漢字と同じ「巌」という形で書か
           れています。その他の漢字も、原文に合わせるようにしました。
            なお、「巌頭之感」の「之」は、縦書きの、右に小さく挟み込むような形で
           書かれています。
          5. 「此大をはからむとす」の「か」は「可」の崩し字(変体仮名)、また、「唯だ
           一言にして」の「だ」は「た」という清音、「この恨を懐いて」の「こ」は「古」の
           崩し字(変体仮名)になっています。
          6. 「この」は、後から挿入記号を使って挿入してあります。また、「知る大なる
           悲觀は」の部分は、Sを左右逆にした形の記号を用いて、上下を入れ替えて
           あります。(初め、「大なる悲觀は知る」と書いて、記号を用いて「知る大なる
           悲觀は」と読ませています。)
          7. 本文の改行は、写真に合わせてあります。
          8. 参考までに、読みを示してみます。
                 がんとうのかん
              ゆうゆうたるかな てんじょう、りょうりょうたるかな ここん、
                  ごしゃくのしょうくをもって このだいをはからむとす。
              ホレーショのてつがく ついになんらのオーソリチィーを
              あたいするものぞ。ばんゆうのしんそうは ただ いちごんに
                            してつくす、いわく、「ふかかい」。われ このうらみをいだいて
               はんもん、ついに しをけっするにいたる。すでに がんとうに
                       たつにおよんで、きょうちゅう なんらのふあん あるなし。
              はじめてしる、
だいなるひかんは だいなるらっかんにいっち
                    するを。
                        (注) 最後の二つの「大なる」の読みについて。
                「巌頭之感」の最後の二つの「大なる」を、ここでは「だいなる」と読み
               ましたが、文春新書『旧制高校物語』
(平成15年12月20日第1刷発行)の著者・
                  
秦郁彦氏、及び『夭折の天才群像─神に召された少年少女たち』(本の友社
              
2004年11月20日初版第1刷発行)の著者・山下武氏の両氏は、「だいなる」では
              なく、「おおいなる」と読んでおられます(『旧制高校物語』18頁、『夭折の天
              才群像
─神に召された少年少女たち』3頁)。        (2006年10月23日補記) 
                また、平成19年(2007年)3月20日早朝の「ラジオ深夜便」〔こころの時
              代〕で、作家の稲垣眞美氏が「旧制一高にみる文学と思想の青春(1)」とい
              う題で話をされた中で、「巌頭之感」に触れられ、そこでも「おおいなる」と読
              んでおられました。
               この「大なる」は「おおいなる」と読むほうがいいのでしょうか。ご教示いた
              だければ幸いです。                    
(2007年3月20日追記) 
 
                             
 漱石の『野分』の中に、「大なる」を「おおいなる」と「だいなる」の両方に
              読ませているところが出てきます。
(「大なる」のところだけ、ルビを括弧に入れて
               示します。)

                
中野君は挨拶が濟んでからも、依然としてまぼしさうにして居たが、やがて思ひ
                 切つた調子で
                    「あなたが、白井道也と仰しやるんで」と大(おほい)なる好奇心を以て聞いた。

                   
(岩波版『漱石全集』第二巻(短篇小説集)昭和41年1月18日発行、665頁) 
                   「一體煩悶と云ふ言葉は近頃大分はやる樣だが、大抵は當座のもので、所謂三
                 日坊主のものが多い。そんな種類の煩悶は世の中が始まつてから、世の中がなく
                 なる迄續くので、ちつとも問題にはならないでせう。」 (略)  
                   「然し多くの愬が一度は必ず陷る、又必ず陷る可く自然から要求せられて居る
                 深刻な煩悶が一つある。……」(略)
                   「夫は何だと云ふと──戀である……」 
                  道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今更
                 氣がついた樣に一寸しよげ返つたが、すぐ氣を取り直して、あとをつゞけた。
                   「只戀と云ふと妙に御聞きになるかも知れない。又近頃はあまり戀愛呼ばりを
                 するのを人が遠慮する樣であるが、此種の煩悶は大(だい)なる事實であつて、事
                 實の前には如何なるものも頭を下げねばならぬ譯だからどうする事も出來ないので
                 ある」 (同、668〜669頁)                   
(2007年3月20日再記)
              

          9. 『日本ペンクラブ電子文藝館』の「招待席・主権在民史料」の中に、藤村操と
           「巌頭之感」に関するページがあって、参考になります。
             
ただし、「巌頭之感」の本文に「はからんとす」「オーソリテー」「懐(いだい)て」とあるのは、
             それぞれ「はからむとす」「オーソリチィー」「懐
(いだ)いて」が正しく、修正を要すると思われ
             ます。(連絡済)

             ここには、藤村の友人・魚住影雄の文(『折蘆遺稿』より)、萬朝報社主・黒岩
           涙香の「少年哲学者を弔す」の一部、藤村の友人で岩波書店創業者・岩波茂雄
           の回想の一部、藤村と同級であった文学者・野上豊一郎の回想、藤村の死んだ
           年に一高に入学した藤井武の感慨(『藤井武全集』より)、藤村の死後1年たって
           学友・魚住折蘆が「一高校友会雑誌」に載せた「自殺論」の一節などが、紹介され
           ています。
          10. 『日本近代文学事典 第三巻』(日本近代文学館・編、講談社 昭和52年11
           月18日第1刷発行)には、「その死は当時の青年たちに異常の衝撃を与え、
           遺書の「人生不可解」は、多くの哲学青年の合言葉ともなった。操の死に象徴
           される懐疑主義は、明治末年の内観的哲学的時代の開幕を告げるものであり、
           多様な教養摂取によって自我の拡充をはかる大正教養主義の出発点であった
           と見られよう」(助川徳是氏)とあります。
           11.港区南青山にある青山霊園内の藤村家墓地の右手に、「藤村操君絶命辞」
           碑があり、表に「藤村操君絶命辞」と題して真筆を拡大した「巌頭之感」の文言
           が、碑陰に次の文章が刻まれている由です。
(「藤村操君絶命辞」碑の「絶命」は、
            下記の松本氏の本によるもので、下記の平岩氏の本には「絶命」が「終命」となっています。
            この碑の写真や、平岩氏の本に引用してある建碑趣意書などによれば、「絶命」ではないか
            と思われますが、未確認です。)
                
                 
嗚呼此爲藤村操君之碑君夙懷人生不可解之恨
                明治三十六年五月二十二日投日光華厳瀑而自
                絶命臨投自巌頭之大樹而手書終焉辞碑面所刻
                即是也時君年十有八在學第一高等學校文科一
                年茲聞君死不堪痛惜者二百余人相謀建此碑以
                表哀悼之情云
                 明治四十二年一月

           (この項は、松本良彦著『文学碑をたずねて』1997年9月10日・日本図書刊行会
           発行、及び平岩昭三著『
検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』2003年5月22日初版
           第1刷・不二出版発行によりました。)

              碑陰を、試みに訓読してみましょう。(適切でない読みがありましたら、お知ら
             せいただければ、ありがたいです。)

                嗚呼
(ああ)、此れは藤村操君の碑たり。 君は夙(つと)に人生不可
                解の恨みを懷き、明治三十六年五月二十二日、日光華嚴の瀑
                
(たき)に投じて自(みづか)ら命を絶てり。巖頭の大樹より投ずるに
                臨みて、終焉の辭を手書す。碑面に刻する所、即ち是
(これ)なり。
                時に君、年十有八、第一高等學校文科一年に在學す。茲
(ここ)
                       
に君の死を聞き痛惜に堪へざる者二百余人、相謀(あひはか)りて
                此の碑を建て、以て哀悼の情を表すと云ふ。
                  明治四十二年一月

            この碑陰の文章は、平岩氏の上記のご著書によれば、操の叔父・那珂通世博士
           による撰文であろうとのことです。  
                        ○冒頭の「此爲藤村操君之碑」を、今まで「此れは藤村操君の爲の碑なり」と読ん
             でいましたが、ここは「此れは藤村操君の碑たり」と読んだほうがよいかと考えて、
             そう直しました。この件についてご教示いただければ幸いです。
                                                 
(2007年7月31日付記)  
           12. 『本所浅草飄飄・山間僻地通信』というホームページの[番外編]「青山墓地に眠
           る人々」というページで、「藤村操君絶命辞」碑(表)の写真を見ることができます。
                  
(注:2008年5月19日現在、このページにアクセスできませんので、リンクを外しました。)
            同じく、『重楼疏堂』というホームページでも、碑の全体像が見られます。(「鉄道
           に乗ろう! 旅に出よう!」→春のお彼岸企画「青山霊園散策(その1)」→上から
           16番目の写真「藤村操」。
ただし、説明文に「墓石」とあるのは、正確ではありません。)  
                  
(注:2010年2月17日現在、このページにアクセスできませんので、リンクを外しました。)
          13. 操の死が失恋によるものであるということに関しては、いろいろな本に触れてあ
           りますが、「巌頭之感」を取り上げてある安野光雅著『ZEROより愛をこめて』(暮し
           の手帖社・1989年5月刊;『君は大丈夫か−
ZEROより愛をこめてという題で、ちくま
           文庫に入りました。
2008年6月10日発行)によれば、中公文庫『明治大正見聞史』(生
           方敏郎著─引用者注: 1978年10月発行。親本は大正15年・春秋社発行─)には、
           「死の原因がプラトニックラブの破綻であった」とあり、『週刊朝日』の1986年(昭和61
           年)7月11日号には、<明治36年5月22日朝、操は突然、馬島邸を訪問し、「これを
           読んで下さい」と、千代さんに手紙を手渡した。本は、高山樗牛著『滝口入道』で、
           手紙には、「傍線を引いた個所をよく読んで下さい」と、書いてあったという>とある

            
由です。(『週刊朝日』に「5月22日朝」とあるのは、「5月21日朝」が正しいと思われます。)

            ○中公文庫『明治大正見聞史』(生方敏郎著、1978年10月10日発行)から、該当
           部分を引いておきます。
              これより先、一高の秀才藤村操が失恋の結果、木を削って巌頭の感なる辞世
             の一文を草し、日光の華厳の滝へ投身した。これは随分、学生ばかりでなく社会
             一般のセンセイションを刺戟した。ホレーシオの哲学も何らのオーソリティーに値
             するものぞ。などと彼の「巌頭の感」を暗誦していた人々は幾らもあった。(中略)
             藤村操は一高の秀才であり、眉目清秀の美少年であり、殊にその「巌頭の感」が
             美文であり、良家の子弟であり、死の原因がプラトーニックラブの破綻であったの
             で、こうまで一世の同情を引いたのだ。(同書、100頁)

             ○次に、『週刊朝日』の1986年(昭和61年)7月11日号から、主な部分を引いて
            おきます。
             記事のタイトルは、<華厳の滝自殺から83年 藤村操の「恋人への遺書」発見 
           年上女性への片思いだった「人生不可解」>となっており、次のような前文が付い
           ています。<18歳の旧制一高生、藤村操が、日光・華厳の滝の上に遺書「巌頭之
           感」を残して投身自殺したのは、明治36年5月のことである。「萬有の眞相は唯一
           言にして悉
(つく)す、曰(いわ)く『不可解』」という遺書とともに報道された彼の死は、
           当時の青年たちに、あの「岡田有希子の死」以上のショックを与え、後追い自殺が
           急増、「人生不可解」が流行語にさえなった。ところが、83年後のいま自殺は「哲、
           学的な死ではなく、恋の片思いが引き金だったことを証明する操の「恋人への遺
           書」が見つかった。>
            以下、記事を適当に引くと、「関係者が明かしてくれた『いかにも明治らしいロマン
           ス』のあらましは次のようなものだ。操が思いを寄せた女性は馬島千代さんという。
           東京工大名誉教授、崎川範行さんの御母堂である。明治17年生まれで、操より一
           つ年上だった。」「本郷の屋敷から人力車で麹町の女子学院に通う千代さんと、神田
           方向から一高に通う操とは道すがらあいさつを交わし、時折、操が手紙を手渡すよう
           な間柄だった。いわゆるプラトニックラブなのだが、年上の千代さんには、とても本気に
           なれるような恋ではなく、操の気持ちがから回りしていたようだ。明治36年5月22
(ママ)
               
日朝、操は突然、馬島邸を訪問し、『これを読んで下さい』と、千代さんに手紙と本を手渡
           した。本は、高山樗牛著『滝口入道』で、手紙には、『傍線を引いた個所をよく読んで下
           さい』と、書いてあったという。」千代さんは「大きなショックを受け」「家族に相談したとこ
           ろ、『みな焼いてしまいなさい』といわれた。」「千代さんはその後、鉱山学者の崎川茂太
           郎氏と結ばれた。」「操の死については、当時から失恋説がなかったわけではない。」
           「千代さんと操の関係について、崎川範行さんは、これまでに2回だけ話をしたことがあっ
           たという。最初は昭和32年秋、相手は元文相、安倍能成氏だった。安倍氏は操の一高
           時代の親友で、操の妹、恭子さんと結婚した。」「もう一度は、やはり昭和30年代のこと
           だ。どこで聞きつけたのか、東工大の同僚教授だった作家の伊藤整から、「『日本文壇
           史』に書きたいのでどうしても教えてほしい」と迫られ、『滝口入道』の本の話をした。そ
           のエピソードは『日本文壇史』の第7巻に載った。昭和57年、千代さんは97歳で亡くなっ
           た。崎川さんは、その遺品の中から『焼いたはず』の操の手紙と『滝口入道』」を見つけて
           びっくりした。」「『一度はひつぎの中に入れようと思ったのですが……』しかし思いとどま
              り、歴史的資料として、最近、日本近代文学館に寄贈することにした。『その後、母が亡く
           なり、伊藤君もいまは亡き人になりました。整君が建設に情熱を注いだ近代文学館に寄
           贈すれば、彼も喜んでくれるでしょう。』と崎川さんは語っている。」
            (引用者注: 記事のすべてを引用したわけではなく、また、記事の引用が適切でない
             ことによって内容を正確に伝えていないおそれもありますので、是非、図書館などで
             『週刊朝日』の現物をご覧になるようにしてください。同誌には、『滝口入道』への書き
             込みの写真も載っています。)                    
 (2006年10月8日付記)
          14. ここで、藤村操と夏目漱石の関係について少し触れておきますと、漱石は明治36年、
               英国留学から帰国して東京帝国大学文科大学と一高の講師になりました。
            大学は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任でした。漱石は大学では週6時間教え、
           一高で週20時間の英語の授業を担当したそうです。
            そのとき、漱石が担当した一高の1年生のクラスに、藤村操がいました。

                    伊藤整著『日本文壇史』第7巻(講談社、昭和39年6月10日初版発行、昭和44年12月
           5日第4刷発行)に、第7章「明治36年、漱石が一高、東大の講師となる──骸爾砲
           ける漱石と藤村操──安倍能成と岩波茂雄、藤村操自殺事件とその反響──(後略)」
           (目次)とあって、漱石と藤村操のことに触れてありますので、その部分を少し引いておき
           ます。
              五月の中頃、夏目は藤村操に譯讀をあてた。藤村は昂然として「やつて來ません」
             と言つた。夏目は「なぜやつて來ないのか?」と訊いた。藤村は「やりたくないから
             やつて來ないんです」と答へた。夏目は怒つたが、氣持を鎭めて「此の次にはやつ
             て來い」と言つた。
              何日かあとに、また夏目が藤村にあてた。その時も藤村は下讀みをして來なかつ
             た。夏目は「勉強をする氣がないなら、もうこの骸爾暴个覆てもよい」と言つて叱つ
             た。
              二十一日の朝、藤村操は馬島邸を訪ね、玄関で千代に自分の日記と本を渡して
             去つた。その本は高山樗牛の「滝口入道」で、色々な書き入れがしてあった。そして
             その日から藤村操は行方不明になつた。
                      (中略)
              藤村操の死は色々な形で各新聞に報ぜられたが、馬島家のことは全く表に現は
             れなかつた。二十六日の朝、野上豐一郎や藤村操のゐたクラスの第一時間目が
             夏目金之助の英語の時間であつた。夏目は鈎鼎愍紊襪覆蝓∈覗偉鵑寮覆寮古
             に向つて、心配さうな小さな聲で言つた。
              「君、藤村はどうして死んだのだい?」
              「先生、心配ありません、大丈夫です」とその生徒が答へた。
              「心配ないことがあるものか。死んだんぢやないか」と夏目が言つた。夏目は數日
             前に骸爾納犬弔燭海箸藤村の死の原因になつてゐるやうな氣がしたのである。
                                                 (同書、136〜139頁) 
                                                   
(2006年10月8日付記)
                                
なお、『日本文壇史』(全24巻)は、初め雑誌『群像』に連載したものを、著者自身
           が加筆訂正した上で、単行本として出版したものです。第1巻から第18巻までは伊藤
           整著、第19巻から第24巻までは瀬沼茂樹著となっています。講談社文芸文庫にも入
           っており、本文の他に『日本文壇史総索引』(講談社文芸文庫編、1999年12月10日
           発行)があります。
           15. 平岩昭三著『
検証 藤村操 華厳の滝投身自殺事件』が、不二出版<2003(平成15)年5月
            22日初版第1刷
>から出ていて、詳しい検証が見られ、大変参考になります。           
                   16. また、土門公記著『藤村操の手紙
─華厳の滝に眠る16歳のメッセージ』が、下野新聞社
           <
2002(平成14)年7月27日発行>から出ています。ただ、この本は、著者が「はじめに」
           に断っているように、表記に「読みやすさや理解のしやすさを最優先するために徹底
           的に修正をほどこしてある」ために、「巌頭之感」を「岩頭之感」としたり、「唯だ一言に
           して悉す」の「一言」を「ひとこと」としたりするなど、如何かと思われる表記が見受けら
           れます。
                   17. 「巌頭之感」の写真について
             事件の後、藤村操がミズナラの大樹に墨書した「巌頭之感」は、当局の手で抹消
           されましたが、その直前に、地元の写真館(当時の山中写真館)がこれを写真に撮り、
           絵葉書として売り出したところ、飛ぶように売れたそうです。事件の影響を恐れた当局
           は、ネガを没収し絵葉書を販売禁止にしましたが、写真は既に雑誌(国木田独歩が編
           集を担当していた『東洋画報』明治36年7月発行と推定される)に掲載されてしまった
           あとだったそうです。
            なお、右に「巌頭之感」の写真、左に操の肖像と華厳の滝の写真を配した絵葉書が、
           現在、現地のお土産屋・菱屋華厳滝営業所で販売されている由です。
            (「巌頭之感」の写真についての記述は、上記の平岩昭三著『
検証 藤村操 華厳の滝
               投身自殺事件
』によりました。絵葉書が品切れになっている場合があるようですので、
            購入希望の場合は、菱屋華厳滝営業所に問い合わせてみたほうがよいようです。)
                   18. 『第一高等学校ホームページ』の中に「歴史写真館 写真で綴る第一高等学校の
            歴史」 があり、その中の「第一高等学校時代(明治後期:1894〜1912)」に、「藤村
            操と『巌頭の感』」があって、藤村操の顔写真と「巌頭之感」の写真が出ています。
                                                  
(2006年7月7日付記)
                   19. 平成17(2005)年10月15日の朝日新聞に、2冊目の『煩悶記』が見つかり、それが
            「神田古本まつり」の即売展に出品されるという記事が掲載されました。
              『煩悶記』は、藤村操が生き延びて書いたとされる本で、投身4年後の明治40
            (1907)年、藤村操著として東京の出版社から発行されました。
              記事によれば、1冊は文芸評論家の谷沢永一氏が所有しておられ、谷沢氏の
            『遊星群 時代を語る好書録 明治篇』(和泉書院、平成16(2004)年12月30日
            出版)に全文が掲載されている由です。(谷沢氏のこの本は、調べてみますと、
            1277頁の大部の本で、税込15,750円と高価な本です。)
              朝日新聞には、『煩悶記』について、「偽書に間違いないと思うが、よくできた
            本です。(後略)」という、作家で古書店主の出久根達郎氏の言葉が紹介されて
            います。                             
(2005年10月16日付記)                               
            
 (小生宅の新聞には、 <「煩悶記」見つかる 華厳の滝投身の藤村操をかたり著述?
               147万円、即売出品> という見出しで出ましたが、朝日新聞のホームページ『asahi.
               com』の「文化・芸能」のページには、 <藤村操をかたり著述? 「煩悶記」に147万円
               の売値> という見出しで出ていて、「「予は迷ひ初めたり。予は疑ひ初めたり。予は泣
               きたり、煩悶したり」と始まり、「巌頭之感」をほうふつとさせる。藤村は山を下りて知り
               合った海賊の船で世界を巡り、パリで悟りを開く。そして書きためた原稿を知人に託し
               たという設定だ。」と紹介されていました。

             
 朝日新聞の <藤村操をかたり著述? 「煩悶記」に147万円の売値> という見出しの
               記事が、現在、『asahi.com』の「文化・芸能」のページで読めるようになっています。
                                                      
(2006年7月27日・記)                              20.   江藤淳氏の『漱石とその時代 第二部』(新潮選書、昭和45年8月31日発行)
            にも、漱石と藤村操について触れた部分があります。この部分は、同書巻末の
            「参考文献目録」に挙げてあるように、伊藤整氏の『日本文壇史』によったものと
            思われます。

              五月中旬のある日、彼は藤村操に訳読をあてた。すると藤村は妙に昂然とした
            態度で「やって来ませんでした」といった。「なぜやって来ない」と訊くと、「やりたく
            なかったからやって来ませんでした」という人を食った答である。金之助はむっとし
            たが、怒りをおさえて次のときまでにやって来るようにいいつけた。しかし次の時間
            にもう一度あてると、藤村はこのときも下調べをして来ていなかった。金之助は癇癪
            をおこして、「勉強をしたくないなら、もう教室に出て来ないでもよい」と激しく叱責した。
                          (中略)
                           那珂通世の追悼文が新聞に載った五月二十六日の朝、たまたま第一時間目に
            藤村のいたクラスに出講した金之助は、教壇に上るなり最前列の生徒にたずねた。
             「君、藤村はどうして死んだのだい?」
             「先生、心配ありません、大丈夫です」
              とその生徒は答えた。
             「心配ないことがあるものか。だって死んじまったじゃないか」
              と金之助はいった。彼が、自分が叱責したために藤村が死んだのではないかと気
            にしていたことはいうまでもない。しかし同時に、彼はおそらく藤村の内面をおびやか
             していたなにものかに、自分もまたおびやかされていると感じていたのである。 
                    (後略)                        (同書、252〜255頁)

              著者の江藤氏は、藤村操の死について、「背後におそらく神経症があり、さらにその
            背後に(略)父からの体質遺伝があったことは疑う余地がない。しかし、それと同時に、
            この個人的な厭世自殺が、時代に底流する不安と変化の兆候をさきどりしていたこと
            も否定しがたい事実である。日本の社会はこのとき、まさに未知の新しい時代の重圧
            を受けて、自らそれと知らずに激しくきしんでいたからである。」としておられます。
             江藤淳氏の『漱石とその時代 第二部』(新潮選書)には、5月26日の「万朝報」
(よろ
                 ずちょうほう)
に掲載された、「嗚呼(ああ)哀しいかな、痛(いたま)しいかな、余が兄の子、藤
            村操幼にして大志あり、……」で始まる藤村操の「叔父那珂通世氏の切々たる哀悼の
            辞」も引用されています。(同書、253〜255頁) なお、この那珂通世氏の哀悼の辞は、
            前掲の伊藤整氏の『日本文壇史』にも載せてあります。     
(2006年6月26日付記) 
          21. (1) 漱石が『吾輩は猫である』の中で藤村操の死に触れている箇所を、次に引いて
                おきます。
               武右衛門君は悄然として薩摩下駄を引きずつて門を出た。可愛相に。打ちやつて
              置くと巖頭の吟でも書いて華嚴瀧から飛び込むかも知れない。
                 
 (地の文、つまり猫の言葉。岩波版『漱石全集 第一巻』昭和40年発行、「十」 446頁) 
                「いたづらは、大概常識をかいて居まさあ。救つて御やんなさい。功になります
              よ。あの容子ぢや華嚴の瀧へ出掛ますよ」 
(寒月君の言葉。同全集、「十」 450頁) 
             (2)漱石の『草枕』から、藤村操に触れている部分を引いておきます。
               昔し巖頭の吟を遺して、五十丈の飛瀑を直下して急湍に赴いた愬がある。余
              の視る所にては、彼の愬は美の一字の爲めに、捨つべからざる命を捨てたるも
              のと思ふ。死其物は洵に壯烈である、只其死を促がすの動機に至つては解し難い。
              去れども死其物の壯烈をだに體し得ざるものが、如何にして藤村子の所作を嗤ひ
              得べき。彼等は壯烈の最後を遂ぐるの情趣を味ひ得ざるが故に、たとひ正當の事
              情のもとにも、到底壯烈の最後を遂げ得べからざる制限ある點に於て、藤村子よ
              りは人格として劣等であるから、嗤ふ権利がないものと余は主張する。
(岩波版
                『漱石全集 第二巻』(昭和41年1月18日発行)所収、『草枕』「十二」 525頁) 

            (3)漱石の『文学論』の中から、藤村操に触れている部分を引いておきます。
               (ニ)次に考ふべきは善惡の抽出なりとす。こは讀者が必ず然かすべしと云ふに
              あらず、たゞ然か成し得と云ふのみ。從つて前の如く實際と誦讀の上に全然反對
              の結果を生ずとは斷言し難し。例へば藤村操氏が身を躍らして華嚴の淵に沈み、
              又は昔時のEmpedoclesが噴火坑より逆しまに飛び入るが如し。是等の事實は
              此事實を聞き若しくは此事實を讀むの一方に於て頗る壯烈の感を生ずるに關は
              らず、若し吾人が華嚴の傍に立ち又はEtna頂に座を占め、彼等の死せんとする
              に會するあらば、吾人はわが壯烈美の滿足を得んが爲に拱手して其死を從容裏
              に傍觀すべきか、或は狂呼身を驅つて之を救ふべきか。
(以下略)(岩波版『漱石 
              全集 第九巻』
(昭和41年8月23日発行)『文學論』第二編第三章、175頁)            
          22. 注8でも触れましたが、文春新書『旧制高校物語』
(平成15年12月20日第1刷発行)で、著
            者の秦郁彦氏が、「第一章 明治の旋律 三 藤村操と「巌頭之感」」で藤村操につい
            て書いておられます。
              なお、同書17頁に、「藤村操(1886〜1903)  屯田銀行頭取藤村胖
(ゆたか)と晴子
            
(女子職業学校教師)の長男として東京に生れる 札幌中学校、京北中学校を経て明
            治35年9月一高文科入学 36年5月22日自殺 妹恭子は安倍能成(一高校長、文
            相)に嫁す。」という経歴の紹介が出ています。        
(2006年7月11日付記)       
          23. 注8にも引用した『夭折の天才群像
─神に召された少年少女たち』(山下武著、本の友
               
2004年11月20日初版第1刷発行)の中に、藤村操が取り上げてあり、著者の山下武氏
                        は、その中で「自殺の原因を失恋とする風説はもとより信を置くに足りない」とし「一介、
            の高校生の自殺が当時のマスコミを賑わし、藤村操の投瀑から二
月余にわたって
            引き続き言論界の中心話題となった」理由について、次のように書いておられます。
              
              彼の悩んだ煩悶が当時の時代苦を深刻に代表した煩悶であり、彼が華厳の滝の
              頂上の楢
(なら)の大木を削って書き残した「巌頭之感」百四十二文字が、如実に
              これを表現した切々の文字だったからにほかならない。一九〇三年といえば、近
              代国家の形がようやく整ったかに見える日露戦争の前年であり、十七歳の少年
              の熟した頭に芽生えた自我の覚醒に応えるべき社会的基盤はあまりに未熟だっ
              た。まして、哲学の不在なこの国の教師たちに彼が失望しただろうことは想像に
              かたくない。黒岩涙香が「萬朝報
(よろずちょうほう)」紙上で「少年哲学者を弔す」と
              題して、「我国に哲学者無し、此の少年に於て初めて哲学者を見る」と哭したの
              はそのためではなかったか。(同書、4頁) 

             山下武氏は、別のところでも「某家の令嬢への思慕の情がどうのこうのというよう
            な、そんな安手の小説まがいの動機から滝壺めがけて飛び込んだのではなかった」
            「投瀑一
月程前、親友の藤原正と暗夜、不忍池畔を散歩しつつ、人生問題の解決
            至難を論じた」時に、「もしも失恋の悩みがあれば、無二の親友に打ち明けないはず
            がない」(同書、15頁)、「藤村操の自殺は(略)あくまでも真の原因は自我の意識に
            目覚めた近代人としての悩みにあったと解釈すべきではないか」(同書、17頁)として
            おられるように、失恋による自殺説を否定する立場に立っておられる点が注目されま
            す。                                     
(2006年10月23日付記)
          24. 斎藤茂吉が友人・吉田幸助に宛てた手紙のなかに、藤村操の死について触れて
            いる部分があります。その部分を、『斎藤茂吉全集 第36巻(書簡4)』
(岩波書店、昭
             和51年4月30日発行。「書簡補遺」の明治36年のところ)
から、次に引いておきます。
                           茂吉は、前年9月、第一高等学校第三部(医)に入学、明治36年5月当時は満21
            歳で、1年に在学中でした。
              なお、引用文中の下線部は、原文に傍点の振ってあるところ、また、太字の部分
            (「楽みて」)は、圏点の振ってある部分です。 また、漢字は常用漢字に改めてあり
            ます。(出典に「鈴木啓蔵著 茂吉と上ノ山」とあるのは、「鈴木啓蔵著 茂吉と上山」
            が正しいようです。)

              
全集の書簡番号 7741〔明治36年9月8日 山形県南村山郡上山町十日町 吉田幸助様
                 神田自宅より〕 (鈴木啓蔵著  茂吉と上ノ山 )  

            (前略)貴兄も御変り無之との事先以て大賀奉り候さるにても御虚弱の御身体ひと
            へに御養生被下度願上候御手紙の中にも世路の辛酸は一しほ深く感ぜられ候と
            仰せらるるが誠に御最もの事にて誠に同情の感に堪へず候亡き高山博士も「我が
            袖の記」の中に誠に病は親むべき友にてはあらざりきと書かれ候へしがまことさる
            ものならむと存ぜられ候されど君よ藤村の死を羨しとおもひ給ふ事なかれ、嗚呼彼
            は死せり彼の名山の彼の名瀑に落ちて死せり世人は文を作り歌を作り詩を作りて    
            彼を譽めたたへぬ、霊も泉下に笑まむ、しかはあれど死人口なし如何なる理由で
            死んだか真に分るものにあらず宇宙の真相を不可解と観じ棄てて死せりとはいへ    
            どああ思へ給へ君よ、古来より大頭脳の哲学者輩出せしにあらずや然も未だ分ら
            ざるにあらずや、分らざるが為めに生きて居て何の不都合かある彼の昆虫を見ず
            や蠢々として動けり彼宇宙の真相を解せるか然も彼は生きて居るなり而して何の
            不都合かある、独の哲学者シヨツペンハウエル曰く「戦はずんば勝ちなし」と余は
            君にこの言を捧ぐるものなり余は哲学を知らず又哲学の書をも読まず嘗て藤原正
            が余に向つて君等は医学などで論をするからダメダと嗚呼悲しむべき似而非哲学
            者の卵よ彼は哲学者をもて任じ科学以上のものなりとし余輩を指して動物党とい
            ふ然も彼等は科学すらも解せざるなり。語にいはずや九層の台も一階よりはじむ
            とさればにや新渡戸博士も日本学生の頭は薄ツペラなりと然も彼等はカントはど
            うだとかヘーゲルはどうだとかいふなり何も彼も分つたもので御座なく候 益軒先
            生は楽訓の中に『人の命は限りあり、ひいて長くし難し、限りある命の内の光陰を
            をしみ楽みて月日を送るべし、しばしが間も益なき事をなし、ひが事を行ひ楽しま
            ずして空く過すべからず況んやうれい苦しみ怒りなどして楽を失ふは愚なりなす
            事なく楽しまずして月日を空しく過さば千年を経ともかひなかるべし』と宣へり余
            等の教訓に候はずや 貴兄は「貴兄はここ数年最も楽しき時代ならむか」と仰せ
            られ候へしも中々左様なものでは御座なく悲めば幾何でも有之候他人の中に居
            ては人知れぬ処のあるものに御座候されば小生の未来は如何なるものになるべ
            きか小生にも分らず候されば小生は明日からでも百姓になるを嫌はず候只今は
            聖賢の語を誦して自らなぐさめ居り候。是処に至りては哲学者などは屁の役にも
            立たず候(日本の似而非哲学者)人情の真などは少しも知らず候されば哲学者で
            も一家を丸々持つて行くもの幾人かある。これ宇宙真相を知れりと云ふ顔付する
            哲学者の有様に候、思ふに小生などは棟梁の材にはあらざるべしされどよし高楼
            を作るの料とならずともせめては生籬つくる材ともならなむそれにても尚日輪の光
            をも仰ぎ夕顔の花白く咲く時あるものなるを死する迄
がむ、死せば其迄の事な
            り、後は空々寂々土と化するのみ。斯る事書くは馬鹿者なり 御夫婦になられ候由 
            芽出度しともめでたし、(後略) 頓首 九月八日夜書 茂吉拝 幸助雅兄玉案下 
                  
          ※ (1) 手紙文中に「況んやうれい苦しみ怒りなどして楽を失ふは愚なり」とありますが、
              「うれい」の仮名遣いは本来は「うれひ」とあるべきところでしょうが、全集の原文    
                   のままにしてあります。

           
   (2) 上記文中の「(手偏+裃−衣偏)の漢字は、「島根県立大学e漢字フォント」
              を利用させていただきました。
               
ここの「がむ」は、何と読むのでしょうか。木偏に上下の「かせぎ・かせぐ」から、「かせ
               がむ」(稼がむ)と読ませたのでしょうか。


                 
 (吉田幸助あての斎藤茂吉の手紙については、ちきさんの『にっきっき』というブログ
             で教えていただきました。記して謝意を表します。)
                                                  
(2007年4月13日付記) 

          25.2006年10月30日に第1版第1刷が出たPHP新書の坪内祐三著『「近代日本文学」
           の誕生
百年まえの文壇を読む』に、「明治36(1903)年5月 一高生藤村操「巌頭之感」を
           残し自殺する」があります。
            新書版で3ページほどの短い文章ですが、坪内氏はそこで、「藤村操の自殺はただの
           青年の死ではないインパクトを世間に(特に一高の知的エリートたちに)与えた。(略)つ
           まり彼の自殺は一つの思想的(哲学的)事件だった」とし、例えば、「萬朝報」の社主だっ
           た黒岩涙香は、評論「藤村操の死に就て」の中で、「(略)藤村少年の死は、万有の真理
           を疑ふより出たる者なりと云へば、今までに類の無き自殺なり、(略)(その死は)尊敬す 
           べき死なり、(略)」と称讃する。」「それに異をとなえたのが自然主義の論客長谷川天溪
           であり、彼は(略)評論「人生問題の研究と自殺」で、(略)藤村操の自殺理由の矛盾を鋭
           く批判したが、それは少数意見にすぎなかった。」としています。
(注:(略)は引用者)
               
そして最後に、藤村の自殺に最も強い衝撃を受けたのが、一高の同級生や先輩たち
           だったこと、安倍能成は、藤村の自殺の本当の理由は失恋だという噂が流れた時、一番
           強く否定したこと、岩波茂雄は「巌頭之感」を何度も読んで、そのたびに激しく涙を流した
           ことを述べ、「その岩波がのちに出版社を立ち上げ、一高の学友たちを中心に大正教養
             主義を形成していった時、その精神的象徴の一つに藤村操的なるものがあった」と書い
           ておられます。
            坪内氏は、本文中に「巌頭之感」を引用しておられますが、その引用が正確でないの
           がいささか残念です。                             
(2007年11月14日付記)
                              
  

 

 


         
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