資料1  正岡子規の『水戸紀行』(全)

            
        明治22年春4月、正岡子規は寄宿舎内の友人と二人で水戸地方に
       徒歩旅行をしました。水戸には学友菊池謙二郎の実家があったので、
       彼に会う目的もありました。 子規は、当時満21歳、菊池謙二郎ととも
       に第一高等中学校の学生でした。


                                

 

      水 戸 紀 行                        子規生


      水戸紀行自序
紀行に種類あり 其文章に漢文を以てする者、和文を以てするもの、新聞體の文を以てする者、雅俗折衷、和漢混合何でもかでもかまはず記するものゝ四種あり 第一は簡古を尚びて瑣事を略し詳にする者は形勝のみ 第二も第一と相似て只和語を以てするのみ なるべく古代の言葉を用ひて近代の語をつかはぬことは漢語よりも甚しく景色をのぶるも漢文の如く精細ならず 第三は第一第二の如く言語抔
(など)に關せざれども第一の簡古なく第二の優美なし 只理屈を主として地形氣候地味山林人情風俗などを記す者多し 第四は度量宏大にして何一容れられざることなければ細事盡く載せて漏らさず 其代り冗長になり易し 此種のものは旅のはぢ、おかしみを寫すを主とする者多く虚誕誇大に流るゝの弊あれど旅の實情を寫し讀者をして其境を見せしむるはこれに限りたり 余の紀行も此文體を學びながら冗長と卑俗とに失し此種特得の眞味を缺ぐ多し ある人問ふ 何故に半年前の紀行をわざわざさかのぼりて書くやと 答へていふ これには三の原因あり 第一は兼てよりこの紀行を書かんと思ひしかとも歸京後病氣抔のためはた<さ>ざりしこと、第二、此旅行は歸京後一月にして病氣を引き起し其病氣は余の一身に非常の變化を來し大切の關係を有する者なれば其原因となるべき此紀行を書かんと思ひつきしこと 第三は即ち最近因にして先日竹村錬卿の常陸漫遊日誌を讀み自分も水戸紀行を書かんと急に思ひたちしこと也 かゝれば當時囊中に携へし手帳を出して見るに只數十の發句を記しあるのみ 乃ちこれを土臺に種々の連感より當時の事を回想しそを記すものなれは誤謬は多く風味は少かるべし まして學課に追はれて十分の暇を得ず毎日三四時間の閑を偸(ぬす)みてこれに從事したることなれば眞の書きはなしの紀行、不文極まるもの也 此紀行を書き始めしは明治二十二年十月十七日にして書き終へしは同年同月二十日(日曜日)の午後二時三十七分なりき
                              子規生識
   時に寓居は東臺山下不忍池畔にあり 垣外を通る人引きもきらす ある學生
   通りながら話して曰く こんな處では勉強ができんねへ

 
  
(注)下線の部分は、原文では○の圏点がついている部分です。



 

      水 戸 紀 行                  
                          
莞爾先生子規著

余は生れてより身體弱く外出は一切嫌ひにて只部屋の内にのみ閉ぢこもり詩語粹金などにかぢりつく方なりしが
好奇心といふことは強く遠く遊びて未だ知らざるの山水を見るは未だ知らざるの書物を讀むが如く面白く思ひしかば明治十四年十五の歳三並太田竹村三氏に岩屋行を勸められし時は遊志勃然として禁じ難くとても其足では年上の人に從ふことむつかしければと止め給ひし母上の言葉も聽き入れず草鞋(わらぢ)がけいさましく出立せり 生地よりは十里許りも隔たりし久萬山岩屋抔見物して面白かりしも一泊して歸りには足勞れて一歩も進まず路傍に倒るゝこと屢なりき 翌明治十五年には大洲地方へ行き四五泊して歸りたり これを旅行の始めとして明治十六年には終に東京へ來ることとなりぬ されどこは陸路は車し海路は舟するもの故膝栗毛の旅とは趣異なり 東京へ來りし後はあるくといへば王子、鴻の臺、小金井位を極度として其外に出る時は滊車の便による事を常とせり さればいつか膝栗毛に鞭(むちう)たんとは思ひ居ながら休暇は多く極暑極寒の時にて病體のいざと思ひたつ折もなく心ならぬ年月を過しぬ ことし明治二十二年の春十日許りの學暇を得ければ常盤會寄宿舎内の友一人を催して水戸地方に旅行をなさんと相談調ひさらば思ひ立つ日が吉日善は急げ物は障碍なき方へと進み人は愉快なる方へと志す規則のものなれば明日を門出での日と定めんとまで運びをつけ草履朝飯抔の支度をとゝのへしは四月二日の夜のことなりき
明くれば紀元二千五百四十九年四月三日の曉とはなりぬ あやにかしこき我すめらみことの遠つおやにましましてこの日本を千代萬代まで盡きせじとの基を開きませし神大和盤余彦尊
(カミヤマトイワレヒコ<原>)神武天皇の此世をすて給ひし日になん侍るかし いで此由緒ある日を撰んで旅立ちせしこそゆゝしかりしか。闇の世の中は一寸さきの見えね(ママ)が仕合せなり。さればあらぬことまで吉兆なりさいさきよしとことほぎて自ら慰むもやさしき心根なるべし。若しいつは災難にあふべし何時は死ぬべしと分つた日にはかりの浮世に何一つ面白かるべき。神ならぬ身の一月さきの病を知るよしなければ朝六時に勇み立ちて本郷臺の寄宿舎をブラッと立ち出でし二人のなまけ者、一人は鬼も十八の若盛りましてや顔(カンバセ<原>)は雪の如く白く眼は夏も熱さを知らぬといふ程にすゞしく鼻はスッとして通らぬ處よろし 口元は尋常よりも小さく燒き芋抔は十位にも割らねばはいるまじくと見えたり からだは小がらにて福相あり災難をのがるべしと人相見のいひさうな風つき、縦から見ても横から見ても正札付きの美少年なり 今一人は中肉中丈(チウゼ<原>)とまではよかつたが其外は取り所なし 顔の色は靑白くといひたきが白より靑の分子多き故白靑ひといふ方が論理にかなひさうなといふむつかしき色にて着物はゴツゴツ木綿の綿入に下に白シヤツ一枚、それをダラリとしだらなく着流し醤油で何年にしめたかと嫌疑のかゝりさうな屁兒帶を小山の如くにしめ時々齒をむき出してニヤリニヤリと笑ふ處は大ばかにあらざれば狂顚(ママ)病院へ片足ふみこんだ人と見えたり 前の美少年に對して無氣味(ブキミ<原>)さ一層に引き立ちて見ゆ 毛唐人に評せしめば good contrast と云はん この前なる好少年は即ち余の事にて後なる醜男子は即ち余のつれ吉田の少將多駄次(タダジ<原>)となん呼ふ者なり………とは實はまつかのうそにてあべこべなり───こんなに白状する位ならあんなに人をほめるでもなかつた 自分の棚下しも餘り遠慮がなさすぎたり 殘念々々───。近頃長寐の癖あれば町々の店の戸を卸す音ドタンドタンとひゞくもいさましく覺え切通しを下りて上野にかゝればはや初櫻はおぼこ氣に脣を開かんとす 一枝を手折りたき處なれども違警罪といふ戀の邪魔に妨げられて本意をはたさず 早くも千住につきて一枚のはがきを購ひ水戸の友のもとへあてゝ余の出立の旨を記し郵便箱に投げ入れて「コレ郵便箱さん頼みましたヨ たしかですか」とも何ともいはずに出たるこそ後に思へば不覺なりしか。千住の中頃より右に曲るとは聞いたがどこやら分らず、とかうする内向ふに巡査のたゝずむを見てければ地獄で佛とかけよりて
 「モーシモーシ このあたりに水戸へ行く街道あらは敎へて下さりませ
と石童丸の氣取りでいへば定めて巡査も助高屋氣取りか何かで「こゝをまがるも水戸街道、あそこをまがるも水戸街道、水戸街道と許りでは」とでもやらかさんと思ひの外芝居心のなき巡査と見え、左の手を出して、
 「コッチへ
といつた許り也 余は多駄次を見てニッコリ笑ひながら横に曲り
 「丁度曲る處で道を聞いたといふも妙じやないか あの巡査はなぜあそこへ立
  てゐたんだろう、まるで僕等の爲に待てゐた樣なもんだぜ
といひながら後をふりかへればはや巡査の影もなし 扨は明神樣のかりに巡査と姿を現はし我に行く手を敎へ給ひしものかあら有難や忝なやとて睫
(まつげ)に唾をぞつけたりける こゝまではボタボタと草履を引きずり着物もからげずあるきしが最早人里はなれて野路にかゝりければ見えをかざるの必要もなしと尻をりゝしく端折(ハシヨツ<原>)て多駄次に向ひ
 「オイ 多駄公、君とコー二人で一處に膝栗毛とは妙ぢやないか 僕が野暮次で君が多駄八 これから彌次、喜多よりは一段上の洒落人となりて一九をくやしがらせるとは極々妙々思案じやな

 
多駄「こいつは妙だ、サア道中の始まり始まり
折しも路ばたの車夫聲をかけ
 
車夫「旦那どうです 松戸まで歸りですがお安くやります
といふに二人顔を見合せしが
 
野暮「オイ いくらでいく
といふとサアそれから談判が始まる、すると高いとか安いとかいふ内に車夫がまけるとくる、さらば乘らずばなるまいと折角端折りし裾をおろし再びもとの紳士となりすまし、さきの言葉もどこへやら 中川橋を渡り松戸のこなたにて車はガラガラギリギリドンととまる。車を下り江戸川を渡れば松戸驛なり それより一里餘にして小金驛に至る 道中の一條
(ヒトスヂ<原>)まちにて寂々寥々としてあきやの立ちならびしと思ふばかり也 折から道の傍に四五人の子供うちむれ遊びゐけるが其中に七八歳許りなる女の子の身にはつゞれをまとひいときたなげなるが頻りに守(モ<原>)り歌を歌ひながら足ぶみしゐけり 其背中に負はれし子の頭ばかり見えたるが白くて少(ママ)さし いぶかしければ立ち寄りて見るに小さき犬の子なりければおかしくもあり面白くもあり
    犬の子を負ふた子供や桃の花
とよみすてゝこゝを過ぐれば繩手道にかゝれり 行くこと一里許りにて次の宿
(シユク<原>)へはと問へば二里もあるべしといふ 時計を見れば(尤時計は多駄八のもの也 持つたふりをするにあらねば念のためことわりおく)十二時に近し 腹がへつてはあるかれぬといふ説に多駄公の異論を稱ふるはずもあらず、といつてそこらに氣の利いた飲食店もなし 路傍に一間(ママ)の草の屋ありて食物をならべたるはあれどもむさくろしくて東京の紳士の立ちよるべくもあらず、このさきにも望みなければ腹がへつてはいくさも出來ずとつひに此中にはいる、我等を迎へしは身のたけ五尺五六寸體重は十七貫をはづれまじと覺ゆる大女なり 「菜は燒豆腐とひじきと鮫(さめ)の煮たると也 いづれにやせんと問ふ どれと撰むべき物もなけれど燒豆腐やひじきは恐れる、さらば鮫にせんと、鮫に投票が落ちければ其よしを女亭主板額に通ず 盛りて來たる者を見るに、眞黑にして肴やら何やら分らず 飯を盛らんとするに杓子なければ
 
野暮「オイ しやもじくれんか
 
大女「エヽ
とふりかへりながらわからぬ樣子なれば
 
野暮「飯をよそう………
と半分手まねで示しけるに
 
大女「アヽ しやくしか
と一聲叫びたり 余は東京にて杓
(シヤク<原>)子といつてしくじつたことあれば氣をきかしてしやもじといへば又しくじつたり、飯を盛りて食ふに其色は玄米を欺き其堅度は石膏(ジプサム<原>)の上にあるべしと思はるゝ許り也 さらば鮫にて腹をこしらへんと怒る多駄八をいさめて一きれ食へば藁をくふが如き心地に吐き出したけれどあるじに對してさうもならず口の中にて持て餘したるには興がさめたり いで一思ひにとグッとのどへおくれば目に涙を浮べぬ、物の本に「さめざめと泣く」などと書くは此時より始まりしとぞ これではいかぬと多駄公の發議に贊成し生卵はあるやと問へばありといふ 田舎でも卵は卵なり 味(アヂ<原>)の變るべき筈もなければ仙桃を得たる心地して多駄公は飯をヤッと一杯喰ひ余は我慢して二杯くひたり 代はと問へば二人前にて卵二個をそへて十錢にたらず、これでは無理ないとそこを立ち出で二三十間行きて覺えず大きないきをつき鮫の口をのがれたりと祝ひて傍を見れば芋屋あり 二人喜び斜ならずふかし芋二錢を買ふて喰ひながらあるく 其うまきこと鮫の比にあらず 芋に助けられて漸(ヤウ<原>)々我孫子(アビコ<原>)驛に至る 兩側の宿屋の下女人を呼ぶこと喧しく嚙みつきさうなるをものともせず靜かに又急いで走り去りたり、四五町行けば今迄の單調(モノトナス<原>)なる景色に引きかへ一面の麥畑處々に菜の花さきまじりて無數の白帆は隊をたてゝ音もなく其上を往來す 川ありと覺ゆれども川面は少しも見えず實に絶景なり こゝでこそと考ふれども中々に目は景色にうばはれて一句も出ず 白帆と麥緑と菜黄と三つ取り合せて七言の一句となさんと苦吟すれどもうまくは出來ず さらば發句にせんとて無理に十七字の中に菜花と麥と白帆とをいひこめて見たれどそれも氣に入らず ついでに三十一文字になさんと試みたれどこれも不出來至極なり 斯くいろいろに辛苦する時余の胸中に浮びし一大問題は日本字漢字英字の比較これ也 今此景を敍するに漢字を用ゆればこれだけの字にて足り日本字ならば何字、英字ならば何字を要するなどいふことを初めとし漢字には日本や歐州(ママ)になき特性の妙ありて麥緑菜黄といふが如きは他國の語にて言ひ能はざる處なりといふこと其外種々の漢字の利益を發明したり 此の議論を詳細に書かば少なくも八九枚を費すべし 餘り横道へはいりこんでは中々水戸まで行けさうにもなければ略してやみぬ、かく考へつゝあるきゐる内に路轉じて麥畑のあはひに入れり 氣晴れて胸に雲なし あら心よやといひながら彳(たたず)めば忽ちチーチーといふ聲のいかにものどかにこゝかしこに聞えぬ 鳥にやと仰き見るに姿は見えず こは不思議なりと多駄八に問へば雲雀なりといふ あゝそれよ
川邊に來りぬ 始めて知りぬこれこそ阪東太郎とあだ名を取りたる利根川とは。標柱を見れば茨城縣と千葉縣の境なり
川を渡れば取手とて今迄にては一番繁華なる町なり 處々に西洋風の家をも見受けたり このへんより少しづゝ足の疲れを覺ゆ 多駄八の足元を見るによろよろとしてたしかならず兎角おくれ勝なり 野中に一株の梅花眞盛りにてまだ散りも始めぬをこゝらあたりは春も遲かりけりと烟草を出して吸ひながら彳む
かくて過ぎ行く程に鶯を聞きければ山陽の獨有渠伊聲不訛といふ句の思ひ出されて
    鶯の聲になまりはなかりけり
此あたりは言語多少なまりて鼻にかゝるなり 鶯も鼻ありたらばなまらんも知れず。かくて草の屋二三軒立ちならぶ處に至る 道のほとりに三尺程の溝あり 槇
(まき)、木槿(むくげ)などの垣あり 垣の中に一本の椿いとにぎやかに咲きいでたるが半は散りて溝の中眞赤なり あれ見よやうつくしきことはといはんとして後を見れば多駄八は一町程後よりよぼよぼと來る
道行く商人を相手に次の驛のことなど聞き合せ藤代の入り口にて別れたり まだ日は高ければ牛久までは行かんと思ひしに我も八里の道にくたびれて藤代の中程なる銚子屋へ一宿す 此驛には旅店二軒あるのみなりといへば其淋しさも思ひ見るべし 湯にはいり足をのばしたる心持よかりしが夜に入りては伸ばしたる足寒くて自らちゞまりぬ むさくろしき膳のさまながら晝飯にくらべてはうまかりき 食終るや床をしかせてこれで寒さを忘れたれど枕の堅きには閉口せり 床の中で多駄八とおもしろき事など話しあひぬ
四日朝起き出でゝ見れば小雨しよぼしよぼとふりゐたるに少し落膽したれども春雨のこと何程の事かあらんと各携へ來りし蝙蝠傘をひろげぬ(尤余が持ちし傘は明庵よりの借用物也)
野道をたどること一里いと大なる沼あり牛久
(ウシク<原>)といふ 地圖を案ずるに此沼二股(フタマタ<原>)大根の形をなして余等は其大根の莖と接する部分を横ぎるものなり 沼は枯れ蘆、枯れ菰(コモ<原>)のたぐひ多く水は深しとも見えず 一艘の小舟の雨を侵して釣を垂れゐるは哀れにも寒げに水鳥はかしここゝに一むれ二むれづつ動きもせず
兩股
(フタマタ<原>)のまたにあたる處は近き故雨にかすみながらも低き岡ありてふもとに菜の花の咲き出でたるなど見ゆ 又一里程にて牛久驛に達す 牛久を通りぬけて後は路のほとりに一二寸の木瓜の葉もなくて花咲けるいぢらし
路は一すじの松繩手にかりゝぬ 雨は次第に勢を増してうたゝ寒さに堪へず少しふるへながら多駄公と何か物語りてくれんと思へどもいふべきことは大方昨日の旅路に盡きぬ 詮方なくふるひ聲をはりあげて放歌吟聲を始めぬ 月落烏啼てを序幕にして寒玉音の知りたる詩は吟じ盡したり それから謠ひを自己流の節にて歌ひしが諳誦せし處少ければこれも忽ち種ぎれ、そこでズットなり下つて大阪天滿となりぬ こゝ丈は多駄八も加勢して千秋樂となつた、サア困つた、何か種はないか、あるある、花山文に指南を受けた小笠原嶋の都々一がある、それをやつた、これもおしまひ、それから都々一ときまつたが 都々一は文句を三ツ四ツしか知らねば半分はウヽウヽと小聲で何か自分にも分らぬことをうなつてゐた。片手で傘を持つ。他の手は懷に入れる。風が後からおつかける樣に吹く。雨がさもにくさうに横から人を打つ。手がかじけて小便するのもやつとの思ひであつた。足はだるくなつた。歌は拂底になつた。………からだはふるへる。………粟粒が言ひ合した樣に百程が一處に頰の邊に出た。………松を吹く風の音ゾー。………傘に落ちる松の露ポテポテポテ。………その寒さ。………その哀れさ。………痩我慢の彌次喜多も最早降參した。
折ふし松のあはひに一軒の小屋を見付けたり 店さきにはむさくろしき臺を置きてふかしいもうづ高く盛れり 多駄八にめくばせしてつかつかと店に至り
 
野暮「オイ 芋を一錢だけくれんか 
 「ハイ、わるいお天氣で困ります
といふものは年の頃十七八を五十許りこえたと思はるゝ老婆なり、老婆の手づから與へしいもを多駄八にわけてゐる内に茶など汲みて出だせり つくつく家の内を見るに間口四間奥行二間もあるべし 右の半分は板間にて店となし左の半分は土間にて竈をすゑ薪を積みなどし火も燃えゐたり かの老嫗
(オホナ<原>)の外には猫一匹ゐるとも見えず いでこゝにて一休みせんと内に入りて多駄八と共に火にあたり木の切りはしに腰うちかけ袂よりいもとうでゝ食ひけるは滹沱河(こだか)の雜炊にも十年の宰相にも劣らじとこそ覺えたれ        
老嫗を相手に話しゐる内一人前五厘の芋喰ひつくしぬ 烟草を巻きながら前を見れば釜の中にて何か煮えたつけしきなり 氣がゝりなれば
 
「ばあさん これはなんだ
 
「それは赤飯(セキハン<原>)でございます
と答ふ
 
「そうか、それじや何か祝ひでもあつてたくのか、
と何心なく問ひしに老婆はせゝら笑ひしながら
 
「イエ それは賣るのでございます
とさも氣の毒さうにいへり こは吾等の身なりの宜しからぬにそれ一杯くはせなどゝねだるにやあらんと邪推せし樣子なり 少し癪にさはつたれど禮をのべて其家を去りぬ 火にて温まりし間は寒さを忘れしかとも表へ出れば再ひ藤房を氣取りて松の下蔭に袖ぬらさゞるを得ず 今はいよいよ御運の末なりと力なけに落ちて行く きのふ迄もけふ迄も玉の臺の奥深く蝶よ花<よ>とかしづかれ風にもあてぬ御からだ、薙刀草履に身をやつしいつこをはてとあてもなく、すべる道草ふみしめて、雨も嵐もあら川やうきとなげきの中村を、さまよひ給ふ御有樣あはれといふもおろか也 かゝる苦にあひ給ふともいつかは花もさくら川土浦まちへと着き給ふ
土浦の町は街道の一すぢ道にはあらず少しはあちらへ曲りこちらへ曲りして家數も可なりありげに見ゆ 丁度正午なれば晝げしたゝむべき家もがなと歩む程にふさはしき處見あたらず四五丁も行き過ぎにければかくては行末も覺束なしとてある宿屋らしき處へはいり晝の餉たうべさせんやといふに早くはとゝのはずといふ やむことなくて行きすぐる内町はづれへいでぬ 詮方なくなく傍の小さききたなげなるはたごやに入りて晝飯食はせんやといへばいとたやすく受けがひたり、足よごれゐれば腰かけてくはんといふにしひて床にあがれといふ さらばと足を滌
(すす)ぎて疊の上にすわる 猶寒くて心よからず 飯待つ間に例の觀察を始めけるが此内は客間とても一間(ヒトマ<原>)か二間に過ぎず しかもむさくろし 家族は三人にて夫婦に娘一人と覺ゆ 家婦の愛嬌よくて客を丁寧にもてなす處より娘の皃(かほ)のあかぬけして一通りならぬ處を思へば此家は曖昧屋と知られたり 飯のうまくなき上にかの雄辨(ママ)なる妻君が人をあしらひながらのお給事(ママ)役なれば何たか無氣味にて腹にたまらず早速飛び出さうとした者の疲れ足を一度やすめた故つかれが出て一寸にはひつこまず不體裁ながら針の山をふむといふ足つきでそろりそろりと門をにじり出でぬ 天、人を苦しめず向ひ側に車屋ありければ行きて頼むに車夫傲然として中々動かず途方もなき高直(かうぢき)なことをいひちらす故さらばこれまで也いきるとも死ぬるともそこは運次第足のさきがすりきれる迄こぶらが木に化石するまで歩までやはおかんと動かぬ足をひつたてゝ立ち去りぬ 余等が失望せしことは猶此等の外に一あり そを如何にといふに地圖を開きて土浦は霞浦に臨むことを知る故土浦へ行けば霞浦は一目の中にあり飯を食ふにも見晴しのよき家を撰んでなど思ひしは空想にて來て見れば霞が浦はどこにも見えず ハテ困つたと思ひゐる内土浦を出て一町ばかり行くと左側に絶壁になりたる處ありて石級あり 若しこゝへ登らば霞浦の見ゆるも知れずと石磴數十級を上れば數百坪もあるべき廣き平地にて處々に茶屋とでもいふべき家あり 總宜園といふ額をかゝげぬ 思ふに土浦の公園ならん この斷崖に立ちて南の方を見れば果して廣き湖あり 向ひの岸などは雨にて見えず されど霞浦とは問はでも知られたり
    霞みながら春雨ふるや湖の上
こゝを下りてまたいもを求め北に向て去りぬ 筑波へ行く道は左へ曲れと石の立ちたるを見過して筑波へは行かず草臥ながらも中貫、稻吉を經て感心にも石岡迄辿りつき萬屋に宿を定む 石岡は醤油の名處也 萬屋は石岡中の第一等の旅店也 さまて美しくはあらねどもてなしも厚き故藤代にくらぶれば數段上と覺えたり 足を伸ばしたりかゞめたりしながら枕の底へいたづら書なとす
余が此二日の旅に於て感ぜしことは氣候の遲きと地理の變りたるとの二
なり 氣候の寒きは梅の散らぬを見ても知るべし 地理に付きては余は兼てより下總常陸あたりは平地にして山なしと聞きゐし故定めて一望平野沃土千里といふ有樣ならんと思ひの外さはなくて平野は極めて稀に却て低き小き岡陵多く稻田などは岡陵の間を川の如くに縫ひゐる處少なからず 其外大木もなくさりとて開墾もせざる平原といひたき樣な處時々あり(余が廣き原を觀察するはベース、ボールより生ずる思想なり)之を我郷里松山邊に比するに大差ありといふべし 我郷里は眞に沃野千里(そんなに廣くはないが)とでもいふべく岡陵もあれども常州邊の如くは散在せず 稻田も麥田も時候によりて變化するものにて水田には稻より外の植物を生ぜずといふ樣なことはなく又一坪と雖も開墾せぬ地といふはなし これ余が常州邊を漫遊して一種奇異なる感情を起せし所以なり
五日朝褥
(しとね)の中にて眼を開けば窓あからみて日影うらゝかにうつれり 昨日にはうつて變りし日和なれば旅心地いはんかたなくうれし 障子をあけたてつらなりたる屋根の上に眞白にふりたる者をよく見るに霜なり
はたごやを出でんとするに家婦いはく 水戸へおいでにならば御定宿ありやと 余なしと答ふ さらば何がしといふ宿へ行き給へ おろそかには取扱はじといふ 案内状まで添へければそを受けとりてこゝをいで行くに筑波山は昨日のけしきに引きかへていとさやかに見られける
昨日より絶えず筑波を左にながめながら行くに共に山も行く心地して離れさうになし
    二日路は筑波にそふて日ぞ長き
あるは雲にかくれあるは雲のあはひより男體女體のジャンギリ頭と島田髷見ゆる處など異
(オツ<原>)なり
    白雲の蒲團の中につゝまれてならんで寐たり女體男體 

このあたりより街道はますます東北の方へと向ひければかの俳諧の元祖を後に見て竹原片倉はどうして過きたか知らず早くも小幡に着きにける この邊の街道は松繩手にあらずして路の兩側に櫻の木を植う 木のたち皆のびのびとして高さ十間餘もあり 東京の向嶋へんに見なれたる横に廣がりたるものとは肥えた越人と瘠せた秦人程の差あり 惜むらくはまだ莟
(ツボミ<原>)さへふかず、氣候のおそきこと想ひやるべし 長岡に至る頃まだ正午の頃なれども足疲れてニッチもサッチも行かず 此上膝栗毛をやつて足がすれ(ママ)きれてはと心配し前言を食んてまた人力車二挺をやとへり こゝより水戸上市まで二里半なり 其間大方は林の中を通り行くに標柱を見れは一等官林とあり 松の木、目がくらむ程にひしひしとならびたり 一時過ぎに上市の入り口常盤(ママ)神社のもとにつきぬ
此の日は晴れたれども風いと寒かりしが車上は猶更ひやゝかに覺えたり 仙波沼にそふて來りしがそれもふりすてゝ坂を上れば上市なり 町幅廣く店も立派にて松山などの比にあらず かくて兩側をながめつゝあゆみゐる内萬屋にて名指しくれたる宿屋につきぬ 構へも廣く家も新しければ打ち喜びて案内につれ二階段を上り室に入るに客部屋にはあらで三疊じき許りのほの暗き納戸ともいふべき程の處なり 外に部屋なきやといへばなしといふ 腹だゝしきこと一方ならず されど腹へつては立てられもせず 先づ午飯を持て來よと命ずればやうやうにして飯櫃と膳を運び來る 之を食ふにさすがは水戸だけありてうまけれども行燈部屋でくふては八珍の膳も心よからざるべし 食ひ終れば下女に
 
野暮「これから少しあるいてくるから夕方に歸るまでにはきつと座敷をかへて
  おけ
と命じこゝを出て四五町行きて菊池仙湖の家に至る 案内を乞へば五十許りの翁出で來る 容皃
(ようばう)の似かよひたるに仙湖の親ならんと察し仙湖の在否を問ふに今此下を通りし滊車にて出京したりといふ あなたはどちらからと問はれ東京より參れり 六年已來御交際してゐる何がしなり 同伴のものは同鄕の友誰なりと引き合せければ
 
「それはようこそおいでになりました 謙次(ママ)郎がゐたら喜ぶ事で御座
  いましように………誠に殘念で………モー少し早いと間にあひますのでござ
  いましたに………どうも殘念でござ………マアそこでは何です こちらへお
  上り………サアむさくろしい内ですがサアどうぞ
と促がさるゝにぞその後につきてあがりける いかにもかたぎの翁
見えこれが水戸の士の風なるべしとむかしゆかしく思はれたり 座敷へ通るに餘り廣き間にはあらねどこッちりとして床には本箱を三ッ四ッ重ね其ふたに經書軍書など書きたり かなたの柱には東湖の書を彫りたる竹の柱隱(カク<原>)しあり 一方は庭につゞきて庭のつくる處はきりぎしをなし其下に仙波沼低くきらきらとかゝやけり
座定りて後翁はあらためて初對面の挨拶をなす 余は語をつぎて
  「實は少し前にこつちへ着いたのですが宿屋へいて晝飯をくつてそれからこ
  ゝへ來たもんですから………誠に殘念しました 實はおとゝい千住で端書を
  出しておいたのですがとゞきませんでしたか

 「オヤさうですか 一向とゞきません樣に心得ます 一昨日おだしになつた
  のならば遅くもけふは早くくる筈ですが ヘヽーどういふ間違ひでしたろふ
  か………エー御飯は如何ですか まだおすみになりませねば御遠慮には及び
  ませんから
 
「イエ モー宿屋でくつてきまして、それが爲に後れた位ですから
 
「おすみになりましたか それでは………一昨日でしたか矢張り高等中學の
  石井さんがおいでになりまして私方へお泊りになりましたが昨日の朝寒水石
  の出る山を見に行くとおつしやつて………これは少し北の方にありまするが
  それへおいでになりました
 
「アヽさうですか
と話の中に母親も出て來られて挨拶あり
 
「それでは何ですか お宿をお取りなすつて………ハア、なんにも御遠慮は
  ございません 私の内へおとまりなすつて イエ決して御遠慮には、きたな
  い内ですが………謙次
(ママ)郎はゐなくても ナニさうなさい お宿は少し
  外に知りあひの者があつて宿をきめたからといつて斷はればようございます
   書生さんのうちは矢張………會計の方が………マア成るたけ金のいらぬ樣
  に………何ですから

其質朴淳良の風、思ひやられてなつかし 明庵ならば「卿等(けいら)窮措大(きゆうそだい)思フニ多額ノ長物ヲ有セザルベシ」などゝ書くべき處なり 四方山の話のついでに水戸勝景の地理などを聞き慇懃(いんぎん)に禮をのべて此家を立ち出づ
多駄八と共にくたびれ足をひきずりて城の方へと向ふ 此ほとりの町々一昨年の正月の火事に大方は燒かれて家居新しけれど猶まばらなり 學校にやあらん縣廳にやあらん西洋風の建て物二三軒を過ぐれば二三百坪の廣き平かなる地あり 其まはりに梅を植う 左に曲れば大なる門あり 何とも分らざれども寺か宮の類と思ひ玄關に至り縱覽を願ひしにたやすく許され上りて見れば思<ひ>きやこれこそかねて聞きたる弘道館ならんとは、烈公の畫像を拜して其風采の高尚なるに尊敬の心を起しぬ 床にかけたる一軸は烈公の種梅の記の石摺也 今は大半頽れたるものにや講堂と覺しき程の廣き間は見受けずして此家の半分は幼稚園となりぬ 裏へまはれば梅の樹おびたゞし 梅の碑も此中にあり

咲き殘る梅の中に一ッの堂らしき小さきたて物あり 何か知らねどのぞきて見るに面白きものもなし 其少し横に又小さき家作りあり これも亦つまらぬ者よと通り過ぎて歸京後聞て見ればこれぞ名高き大なる寒水石の碑なりと、弘道館の向ひは即ち舊城阯(ママ)なり いで興亡の跡を見んと堀を渡りて内に入れば師範學校なりしか立派な家居あり 其にそふて行けば古木しげりてほの暗き處にいづ 行きつまる處は絶壁にて谷の深さは二三十間もあるべし 下を望めば工夫四五十人むらがりて鐵軌(レイル<原>)をしき煉瓦を運びなどす 其故を知らず 谷を隔てゝ櫓(ヤグラ<原>)の殘り一ッ二ッ立てり 此城は上市とは同じ高さの土地なれども城の東南にある下市より見れば遥かに數十丈の空にあり 蓋し上市は東京の山の手にて下市は下町の類なり 此谷にそふて左に行けば那珂川は山の下に帶の如く横はり蛇の如く曲折す それを出て新たに堀り割りし道を通り石階を登れば常盤木のおひしげれる中に一ッの廟あり 家康公を祭りしものにや 
こゝより路を轉じて水戸公園常盤(ママ)神社に至り左にいづれば數百坪の芝原平垣(ママ)にして毛氈の如し 左は十間許りのがけにして此がけの下は直ちに仙波沼なり 此沼には限らず此近邊には沼多し 沼の水は深くはあらされとも一面に漲れり こは灌漑の用に供するために今より水門を閉ぢてたくはへおくによるものにてさなき時は水乾(か)れてきたなしとぞ
かの芝生の上にて七八人の小供の十許りなるがうちむれて遊ひゐたり 何やと近つき見ればベース、ボールのまね也 ピッチャアありキャッチャアありベース、メンあり ストライカーは竹を取りて毬(女の持て遊ぶまりならん)を打つ 規則十分にとゝのはずとはいへファヲル、アウト位の事を知りたり 此地方に此遊戲を存ずるは體操傳習所の卒業生などが小學校にてひろめたるならんと思ひやらる、かへり見がちに打ち過ぎ行けば一株の枝垂櫻あり 稍脣を開いて笑はなんとす 其下に竹垣、柴の戸などあり 内は色々の木などうつくしくつみいれていと淸らかなる中に二階づくりの家一棟二棟あり 富貴なる人の別荘と見受けられたるかまへ何とも分らねばつかつかと進み入りて見れは好文亭なりけり 番人の許しを得て上りて部屋を見まはすに額、襖、掛物の類皆當藩諸名家の筆
(フデ<原>)
二階に上りて見れば仙波沼脚下に横たはり向ひ岸は岡打ちつゞきて樹などしげりあへり、すぐ目の下を見ればがけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り盡さず 此がけと沼の間に細き道を取りたるは滊車の通ふ處也 此樓のけしきは山あり水あり奥如と曠如を兼ねて天然の絶景と人造の庭園と打ちつゞき常盤木、花さく木のうちまじりて何一ッかげたるものなし 余は未
(いま)だ此(かく)の如く婉麗幽遠なる公園を見たることあらず 景勝は常に噂よりはあしきものなれどもこゝ許りは想像せしよりもはるかによかりき 好文亭と名づけしは梅を多く植ゑしためならん
ながめはあかねと樓を下りて後の方に行けば見渡す限り皆梅の樹のはても見えず花もまだ大方は散りはじめぬほどなり
奥へはいりなば仙境もあるべく思はれたれど風寒く日傾くに梅と袂を別ちて我宿へと歸りし頃は燈をつくる時なりき  
大方善き部屋のあきゐるならんと階子段を上れば矢張もとの狹くむさくろしき部屋なり 腹立つことおびたゞしく下女をさんざんに叱り亭主を呼ひ來れといふ 下女はあわてゝ下に行きしが待てども待てども亭主も來らず番頭も出でず手を打つ音、はげしく、パチパチパチパチパチ、下にて「ハーイといつたことはたしかにいつたが濱の松風にて姿を見せず ますますいらちて拍つにやうやう下女來れり
 
「貴樣じやァ分らない、早く亭主を呼んでこい 早く早く
といそがせは下女は又トントントンと楷子を下りたが人音なし 腹が立つて腹が立つて裂けさうなるをかゝえてやうやうに癇癪玉の破裂を防ぐ折から障子をあけて音づれしは五十許りの老嫗なり 
 
「何御用ですか
といへば今迄こらえこらえし癇癪が一度にこみあげて面には朱をそゝぎ口に泡を吹きて

 
「オイ 人を何だと思つてゐる、ナゼこんなに人を馬鹿にするのだ、馬鹿に
  するのも程があるじやァないか、この部屋は何だ 人間のはいれる部屋じや
  あるまい、行燈部屋へ人を納れるといふのは………石岡で萬屋で折角いつて
  くれたからわざわざこゝを尋ねて來たのだ、宿屋はこゝばかりじやァあるま
  いし、さつき出る時にもあれほどいつておいたに………失敬千萬じやァない
  か、なんどへ押しこまれてたまるものか、なんだと 外に部屋がないと、な
  にいやがるのだい、ないならないで始めからなぜことはらぬのだ、なんだと
   左樣なら外の宿へいつてくれと、人を馬鹿にしやァがるな、いけといはな
  くつてもこつちでいかァ、だれがこんな處でぐづぐづしてゐるものか、晝飯
  の勘定もつてこい、早く早く
とくりかへしまき返ししやべる言葉もあとやさき 老下女は驚きもせず返事しながら下り行きしが暫くして來り

 「お宿は私方から御案内致しますからどうぞお出なすつて………御飯代はも
  う宜しうございます

 
「なにをいやがるんだい、飯代はいくらだといふに、なぜ貴樣はそんなに人
  を馬鹿にする、飯代を拂はずに………どう どうすると思つてゐるのだ……
  …早く勘定してこい
終に勘定をすまして二階を下り何か亭主のわび言いふを耳にもかけず草履ひつかけ草臥も忘れていとあらあらしく門を出づれば小僧提灯をつけて待ちゐけるにまだ腹はいえねど、これにつきて歩み行きたり 道々思ふ樣 水戸街道は鐵道が通じ始めてより忽ちさみしくなり石岡などにてはそれが爲に我々でもよくもてなしくれたる者ならん されど水戸は鐵道のために益々繁昌し殊に縣廳さへあれば我々がうさんくさい風をしては侮るも尤也 彼の旅店はあがり口に靴の澤山ありしを見れば縣官などの止宿しゐるものとの卜筮は中らずといへども遠からざるべし かゝる處にては書生などを取りあはぬもいはゞ普通のことなり されど我々の考へでは書生は天下第一等のお客なり 錢はなくとも丁寧に取り扱ふべきもの也抔と考へゐる故立腹もしたるなり、こんどは少し善き處なるべしと思ひ歩む内小僧はとある門にはいり何か亭主にさゝやきて出できたり余等を引き入る 餘りうつくしからぬ宿屋なれど案内につれて上りて見れば矢張り下等なる店なり、されど小僧の通知にや下女などの應接等より其他のもてなしに至るまで別仕立の丁寧なる言葉也 部屋のきたないので立つ腹はまだ横にならねど、我慢して笑皃
(ゑがほ)をつくり「腹へつたればまづ早く飯を持て來れと命ず そを待つ間に湯にも入り足のばし隣近所の客を見るに皆書生なり 扨は下宿屋なりしか 謀られたり 殘念なり あくまでにくきはかの宿屋の亭主なりと齒ぎしりすれどせんすべもなし、こゝを出んと思へども、こわみをおびて手にすゑる樣にあしらう故氣の毒でさうもならず、もはや此上はこゝにて堪忍せんと多駄八にも相談し飯を食ひしが飯は下宿屋もの故うまからう筈なし 飯終ればすぐに表へ出で二三町行けば一軒の大きさうなる蕎麥屋あり これ屈竟の處なり いで一攻めやらんとはいれば餘り奇麗にはなかりしが間はいくつもありて別々にしきりたり、こゝで天ぷらと何とかと二杯を喫し腹をいやして宿に歸り寐ねたり 自分は心からはらだゝしけれど讀む人聞く人はおかしかるべし、こふもあらふか 
    おこつてはふくれるふぐの腹の皮よりて聞き人は笑ふなるらん
六日曇天、多駄八と共に宿屋を出でけふは大洗
(オーアラヒ<原>)に行かんとか□<ね>てよりのもくろみなれば舟に乘らんとて那珂川のほとりに下らんとするに忽ち左の足の裏の筋肉痙攣を起して一歩も歩むこと能はず 多駄八と顔見合せてまるで立ち往生の姿なり 正にこれ
    時不利兮騅不逝。多駄多駄奈
汝何。
かくてはかなはじと項羽の勇をふるひて十間程あるくにまた筋がつりたり 泣く泣く蝙蝠傘をたゝいて歌ふて曰く
    行
クニ車。歸ルニ家。蝙蝠若
やうやうのことにて舟宿へ行き小舟一艘を買ひて那珂川を下る、岸うつり山行く あるは藪の下を過ぎて竹の風に耳を洗ひ、あるは家のほとりをこぎて人の話に耳を傾く 此日は日もてらさず雨を催す筑波おろしいと寒ければ興もさめなん心地す、ふるひ聲ふりたてゝ船ばたを敲いて歌ふて曰く
 
「蘭槳兮桂棹 そんなものはこゝにない。月落烏啼いて朝寒い
 
「なんだ、それは。船歌なら船頭の方がうまいよ
 
「これは「い」の字の韻をふんだ新體詩だよ、和漢を一丸にした處にお氣が
      つかれやせんか
といばつても風の寒いだけはおさまりがつかず とうどう船の底に成るべくたけそれだけ少
(チイ<原>)さくなつて寐てゐれと猶寒し、少し働いたらさむさを忘れるべしと船板をまくりてボートを漕ぐ如くこがんとするに薄き板なればヒョコヒョコとして力入らず 船頭が「そこにある棹では如何ですかといふ さらばやつて見んと棹を取り出し見るに三間有餘の大なる木の棒也 重きことおびたゞし、これを横にして繩にて船べりにしかとしばり、いざこぎて見んと水に入れ引きあげんとするに、舷低くして棒長ければ棒のさき水をあがらず、却て舟の進みをとめければ、これもやんなんとてやみぬ、船頭に少し櫂をかしてくれんや 漕ぎて見んといへば船頭は喜びて座を余にゆづりぬ 余は臍の緒きつてより初めて日本船を漕ぐこと故如何やと心配しながらおしたり引いたりするに思ひの外うまく行きたり 興に乘じて夢中に漕ぐ(コ<原>) しばらくして氣がついて船の位置を見るに眞直には來らでななめにななめに進めり これはと思ふ内にはや向ふの岸につきあてんとす、あわてゝまげんとするに舟はますます直線に進みわき目もふらず石に頭を觸れんとするに困じはて「助け船助け船と呼べば 船頭は笑ひながら立ち來りて舟を轉じくれたり 余の漕(コ<原>)ぎ方は引く方が弱しとの船頭の忠告に成程と悟り其理論あらば今度はうまくやらんと鼻ぴこつかして漕ぎはじめしが、いつの間にかまた岸近くなりぬ かくては一船を支配せんこと覺束なしと終に辭職せり 若し余をして人海に世渡りせしめば猶此舟の如くならんのみ 船のことは船頭に讓りておのれは矢張り哲學者然と舟に在て舟を忘れ水を見つめて逝者其如此夫(ゆくものはそれかくのごときかな)とすましこんでゐるものから今迄舟漕ぐわさに紛れゐたる寒さはいよいよ強く其上に船暈(ふなよひ)の氣味ありければ口にはいはねと腹では閉口しながら何! 大丈夫がこれしきのことに………余は元來痩我慢の男にて身體の弱き割合には不規則に過劇なる運動をなすことあれども苦しきのみにて何とも思はず着物も着たらぬぐことは大きらひぬいだら着ることは猶きらひ、烈寒の時もさむがりの癖に薄着にて表へ出ること多し されば此旅も綿入一枚に白金巾のシヤツ一枚許りにて着がへも持たねばひた震ひに震ひしかどもそれはたゞ寒いのみなりと達摩の如く悟りこんでゐてこれが爲にわるいとかよいとかいふ考はなかりしのみならず、こんな目にあふて櫛風沐雨(しつぷうもくう)の稽古をすればこそ體も丈夫になり心も練磨するなれと思ひしるこそうたてのわさなれ 此船中の震慄(しんりつ)が一月の後に余に子規の名を與へんとは神ならぬ身の知るよしもなけれど今より當時の有樣を回顧すれば覺えず粟粒(ぞくりふ)をして肌膚(きふ)に滿たしむるに足る、嗚呼天地は無窮大の走馬燈なり 今日の人は昨日の人にあらず 今年の花は來年の花にあらず 甲去り乙來り權兵衛死して八兵衛生る 百萬年の百萬倍も無窮に比すれば奇零の一にも足らず、まして百年いきのびるも三十にして終るも天地の一瞬の一億萬分の一なるべし、さばれ一寸の蟲に五分の魂あり 生きとし生ける者いづれか生命ををしまざらん たゞ已むを得ずあきらめるのみ 西行は浮世のまゝならぬを悟りて髮を落し直實は若木の櫻を切りて蓮生となる 提婆が惡も佛果を得、遠藤の戀は文覺(もんがく)となる、煩惱も菩提なり 病氣豈悟りの種とならざらんや、かへらぬことをくりかへすは愚癡のかぎりなるべし
舟は川口につきぬ 祝町の大門を出て松原を行くこと半里餘砂の中を歩むこと數町にして又一
の林にいづ 樹々のあわひに見ゆる甍(イラカ<原>)はこれなん大洗ひ神社なる 石階を下りて海濱に出れば料理屋四五軒あり 今新築にかゝれるたかどのは結構壮麗目を驚かす許りなればこれも料理屋にやと問へば然(サ<原>)なり 鐵道の水戸へ通して已來紳士のきますことも多ければ此夏の備へに設くるもの也といへり 此うてなの下は即ち海にして直ちに太平洋に連なるものなれば島もなく山もなく空は海に浸し海は空につゞく 行きくる白帆なければ飛びかふ小鳥もなし 此濱邊四五町の間は小石のかたまりしと見ゆる丸き岩いくつとなくつらなり東より打ちくる波は此岩にあたりて白雪を數丈の高さに飛ばし勢の餘るものは岩の上を越えてつぎの岩にあたりてくだけちる、くだくるものは空に白く躍りこゆるものは岩の上眞白となる このけしきの長くつゞきゐれば、こゝにきえてかしこにおこり左に退きて右にすゝむ、一目に遠くより見渡せば白き岩と黑き岩とありてさながら碁石の如く變幻の妙筆に盡し難し
    ア メ リ カ の 波 打 ち よ す る 霞 か な
    茂林陰暗路迂回 大洗祠頭眼界開 牛踞虎蹲百岩石 雉飛翬集幾樓臺
    狂風高自雲端落 怒浪遠從天末來 嶋影無痕帆影沒 乾坤一望絶纖埃
こゝの美肴にて午飯をしたゝめんとの發議もありしが表
(ママ)議まとまらずしてやみぬ それよりは車を倩(やと)ふて歸らば今日の午後の滊車に間にあはんと磯濱(地名)をあるきまはりしが車なくして志をはたさず、さらば飯をくはんとあと戻りして飲食店を探すにこれと思ふ處一間(ママ)も見あたらず、せんかたなくていとふるびたるきたなき家に入りぬ 二階へ通れども乞兒(コジキ<原>)小屋に壁つけた位なもの也 飯もさもこそと思ひやられしが運び來る膳に向ひて茶碗を取り一箸の飯を頰張りたるに初めの日に板額の御馳走になりたるにもまして石を食ふともかくはあらじと腹は立てども吐き出しもならず一杯をやうやうに食ひ終りて早々こゝをもにげ出しぬ
磯濱の出口に至れば車夫むらがりゐて頻りに乘せんといふ これも足もとを見しものならん 此時は多駄八も余もよわりによわりて蹌々踉々
(さうさうらうらう)といふ風情、酒を飲みし徴候なけれは遠路にくだ(ママ<原>)びれしとは論理を知らぬ車屋にもすぐ樣見ぬかれたれど最早かくなる上は車にはのらじと意地にかゝりて
 
「なんだと 車に乘れと、おれさまだちを誰だと思ふんた 憚りながら神田
     
子の其隣の本郷子だよ、車をすゝめるなら足元見ていやがれ、一日に
     東海道を行きもどりしたとて、くたぶれる樣なお兄イさんじやないよ
とさんざんにいばれと足といふ正直者はとかく我等の裏切
(ウラギリ<原>)してはかはかと歩まず、折から道の邊にてよもぎといふ草を摘む老女(アフナ<原>)あり 我ふるさとにては餅(モチイ<原>)などにまぜてつく故さることにやと尋ねしに否この草は何とかいふ病にきゝめありといふめり、思ひがけねは驚きてさることもあるにやと打ち過ぎぬ 三里ばかりにて下町につくにいとさみしくおとろへたるさまなり 店に重箱木地鉢のたぐひの塗物を賣る處多きは此わたりの名産にや 仙波湖にそふて上町に來り停車場に近き家に宿をとる 明日の一番滊車に乘る積り故よきころにさまし給はれと頼みて一夜の夢に日頃のくたびれもやすめぬ
翌七日朝とく起て出でゝ見れば大雨は盆を傾くるが如し 氣
(ママ)車にのればと屈たくもせざれと、こゝより停車場まで五町はあるといふに閉口したり 尤人力車は一寸なし 朝飯は間にあはぬとて辨當をこしらへくれたれど此雨にては辨當の折りは雨にぬれぬべしと心配すれば此家の老女、絹の破れしきれと破れ草履二足とを持ち來り折り二ツを絹のきれにてつゝみその草履ではとてもあるかれぬ此破れ草履をはきて停車場まで行きかしこにてはきかへよといふ いとなさけ深き老女(アフナ<原>)なりと拜む許りにいやをのべてこゝをたち出で停車場へくるまでに着物は大方しぼる許りに濡ひぬ 一番滊車にのりこめば最早しめたものなり 火もふれ鑓(やり)もふれと思へど雨勢はあいにくに減じたり ピューと一聲、氣(ママ)車は仙波沼にそうて動き始めしが偕楽園(好文亭のある公園の名)の麓に數十の穴、同じ隔りに並びたるを見たり、あやしくて若し穴居の遺跡にや それならば足はくたびれたりとも見てくべきものを殘念なり、併し雜誌にて見たこともなければ穴居にはあらざるべきかと半信半疑の中に氣車はためらひもせで進み去りし 間もなく正午となれば上野停車場へ歸りぬ、餘りの早さにあるきしことのおかしく思はれぬ
旅費の殘りあればと多駄八がだゞをこねるに仕方なく西洋料理と出かけ歸りに菊池仙湖の寓を訪ふて水戸行の委細を語れば「君がこようとは夢にも思はざりき それは殘念也 はがきは曾て屆かず これは不思議なことありて君と同日ならん僕の弟が出した手紙も屆かず云々と 思ひ出して偕楽園の下の穴の由來を問ふにあれは土を掘るためにて何でもなしと答ふ 余は此答を聞て失望せず却て安心せり。
後は野となれ山となれ、日頃志す膝栗毛のこゝにやうやう終を告げて
                             めでたしめでたし
        
                                                         
[自筆稿 明治22]

 

 (注)1.本文は、講談社版『子規全集』第十三巻(昭和51年9月20日第1刷発行、昭和54年
     4月10日第2刷発行)によりました。全集本文は、勿論縦書きです。
    2.「莞爾先生」は、子規の別号です。
    3.全集本文のルビは、( )によって示しました。
    4. なお、偕楽園の部分の「未(いま)だ此(かく)の如く」の読み仮名は、引用者が付け
           たもので、全集本文にはありません。
    5.本文に一部濁点の付いていない仮名がありますが(例えば「過きたか」「食んて」「見
     れは」「かゝやけり」「沼の水は深くはあらされとも」「遊ひゐたり」「進み入りて見れは」
     など)、これは全集本文のままです。
    6.本文中の「ニヤリニヤリ」「ドタンドタン」「モーシモーシ」「始まり始まり」「さめざめ」「いろ
     いろ」「よぼよぼ」「しよぼしよぼ」「チーチー」「ガラガラ」「ギリギリ」「ますます」「のびのび」
     「パチパチパチ」「早く早く」「トントントン」「こらえこらえ」等の繰り返しの部分には、「く」の
     縦に伸びた形の踊り字が、また「種々」「色々」「我々」「別々」等の「々」の部分には、「こ」
     のつまった形の踊り字が用いてあります。
             また、○を用いた圏点は、下線に直してあります。(「嫌疑」「屁兒帶」「さめ」の部分)
    7.本文の漢字にはできるだけ旧漢字を用いましたが、止むを得ず一部常用漢字にして
     あるところがあります。なお、「滊車」の「滊」は、「さんずい」に「気」の正字(氣)が書い
     てある字です。
      また、「滹沱河(こだか)」の「こだ」の漢字は表記されない可能性がありますが、「滹」は、
     サンズイ+「罅(ひび)」の右側(虎の下の「ル」に似た部分が「乎」になっている漢字)、「沱
     (だ)」は、サンズイ+「它」(ウカンムリに「ヒ」)の漢字です。
    8.偕楽園の部分に出てくる「かげたる」は、「かける(欠ける)」を「かげる」と言う、子規
     の郷里松山地方の方言です(小学館『日本国語大辞典』による)。
    9. 偕楽園の部分に出ている「婉麗幽遠なる公園」の「婉麗」を「艶麗」とする本文が見
     受けられますが、これは誤りです。原文は「婉麗」となっています。
     10. 明治22(1889)年4月、子規は友人と二人で学友菊池謙二郎を訪ねて来水しまし
     たが、上に子規が書いているように、菊池は一足違いで上京した後で、会うことがで
     きませんでした。
      子規たちは徒歩で東京を3日に出発、途中で一部人力車を利用したりして、水戸に
     は5日に着いています。
     11. 『水戸紀行』の解説書としては、筑波書林発行のふるさと文庫に、柳生四郎・解説の
     『水戸紀行』(1979年7月15日第1刷発行、1981年5月15日第2刷発行)があります。
     12.
菊池謙二郎について
       菊池謙二郎は、慶応3(1867)年1月19日(旧暦)、水戸天王町の家に生まれた。
     号は仙湖。菊池家は代々水戸藩士で、曽祖父は彰考館総裁を務めた学者であった。
     父が石岡藩の藩政改革に参与した関係で石岡に移り、廃藩置県後、竹原村(現・美
     野里町)に住み、そこで小学校に入学した。明治14(1881)年、菊池が14歳のとき、
     竹原小学校上等小学2級修業で、水戸に戻り、栗田寛の私塾輔仁
(ほにん)学舎に
     入って漢籍を学んだ。翌明治15(1882)年、茨城中学校(後の水戸中学校)に入学し
      たが、2年で中退して神田の共立学校に学び、明治17(1884)年9月、子規とともに
            東京大学予備門に進んだ。子規とは共立学校以来の友人であった。夏目漱石も、
            この年、東京大学予備門に入学した。大学予備門は、明治19年に第一高等中学校
      と改称された。手元の漱石の年譜には、「明治22(1889)年1月、同級生子規と知り
      あい、その交友が文学への方向を決定した」とある。明治23(1890)年、菊池と子規、
            漱石は揃って第一高等中学校を卒業した。
       子規が「水戸紀行」で水戸を訪れたのは、明治22(1889)年4月のことであるから、
      当時は二人とも第一高等中学校の学生だったわけである。時に、9月生まれの子規
      は満21歳、1月生まれの菊池は満22歳であった。
        第一高等中学校を卒業して、菊池は帝国大学法科大学に、子規と漱石は同 ・文科
      大学に進学した。菊池はまもなく文科大学国史学科に転科。謙二郎と漱石は明治26
      (1893)年に卒業したが、子規は25年9月に中退して文筆活動に入った。
              [付記] 東京大学予備門・第一高等中学校については、
『第一高等学校ホームページ』
      いう旧制第一高等学校のホームページがあり、そこに「第一高等学校略史」があって参考に
      なります。

      
[ ここで、帝国大学の学制について触れておくと、明治19(1886)年3月、帝国大学令に基
       づいて、明治10年4月12日創設の東京大学(東京開成学校と東京医学校を合併。旧東京
       開成学校を改組し、法・理・文の3学部、旧東京医学校を改組し医学部を設置、東京予備
       門を附属)が工部大学校を統合して帝国大学に改組された。<法・医・工・文・理の5分科
       大学及び大学院を設置。明治23(1890)年6月に農科大学を 設置> 明治30(1897)年6
       月、京都帝国大学の創設に伴い、それまでの「帝国大学」を「東京帝国大学」と改称した。
       大正8年2月、分科大学を廃し学部を置く。<法・医・工・文・理・農の各学部のほか経済
       学部を新設>昭和22年9月、東京帝国大学を東京大学と改称。昭和24年5月、国立学校
       設置法公布。新制東京大学創設。<教養学部・教育学部が新設され法・医・工・文・理・
       農・経済・教養・教育の9学部を設置。昭和33年4月、薬学部を設置>明治
       つまり、明治19年から明治30年6月までは、帝国大学は1校のみであったので、単に「帝
         国大学」と称したのであるが、明治30年6月に京都帝国大学の創設の伴い、「東京帝国大
       学」と改称したのである。その後、京都に続いて明治40(1907)年に東北帝国大学、明治
        43年(1910)に九州帝国大学、大正7(1918)年に北海道帝国大学、昭和6(1931)年に
               大阪帝国大学、昭和14(1939)年に古屋帝国大学が創設された。なお、文部省所管外の
        帝国大学として、大正13(1924)年に京城帝国大学が、昭和3(1928)年に台北帝国大学
                が創設されている。
]
           
明治10年      東京大学創設(法・医・文・理の4学部を設置)
              明治19年3月   帝国大学に改組(法・医・工・文・理の5分科大学及び大学
                                    院を設置)
              明治30年6月    東京帝国大学と改称
              大正 8年2月   分科大学を廃し学部を置く(法・医・工・文・理・農の6学部の
                                         他に経済学部を新設)
              昭和22年9月   東京大学と改称
              昭和24年5月   新制東京大学を創設


        菊池謙二郎は、明治26(1893)年に帝国大学文科大学を卒業して、文部省に入った
       が、明治27(1894)年、山口高等中学校教授兼舎監となった。明治28(1895)年8月、
      新設の岡山県津山尋常中学校校長に就任。明治30(1897)年、千葉県尋常中学校
             校長に転じたが、知事との確執が原因で1年で休職を命じられた。明治31(1898)年
             7月、仙台の第二高等学校校長に就任。この間、水戸学の研究を続け、明治32(1899)
             年には、『藤田東湖伝』を出版した。その後、明治34(1901)年上海の東亜同文書院教頭
      兼監督、次いで明治36年、南京の三江師範学堂日本総教習兼両江学務処参議となる。
      この間、明治35(1902)年、木村むらと結婚。明治39(1906)年水戸に戻り、明治41(1908)
      年、水戸市教育会の初代会長に就任。同年4月、知事森正隆に請われて茨城県立水戸中
      学校校長事務取扱に就任した(大正元(1912)年9月、第11代校長に就任)。以後、大正10
      (1921)年に、いわゆる「舌禍事件」で辞職するまでの13年間、水戸中学の校長として多くの
      改革を行い、校風を刷新した。退職に際して、復職を求める生徒たちによって同盟休校(全校
      ストライキ)が行われたことは、有名である。辞職してから3年後の大正13(1924)年の総選挙
      で、衆議院議員に当選し、教育振興策に努力したが、昭和3(1928)年の総選挙では落選、
       晩年は水戸市梅香に住み、史学の研究に没頭した。昭和11(1936)年に水戸を去り、鎌倉の
      英勝寺に寓居したが、まもなく東京小石川の次男揚ニ宅に移り、昭和20(1945)年2月3日、
       東京の揚ニ宅で逝去、多磨墓地に葬られた。享年79(満78歳)。「子孫が忙しいのに、お彼
      岸だなんだって、お墓参りに来ることがないようなところへ葬れ」という遺言に従って、墓は今、
      静岡県の富士霊園にある由(森田美比著『菊池謙二郎』)である。
       菊池謙二郎は、『義公全集』『幽谷全集』『新定東湖全集』などを刊行し、水戸学関係の研究
      に尽くした功績は大きい。
        (  なお、『漱石全集』に菊池謙二郎あての書簡が数通収録されています。)
        [ 菊池謙二郎の経歴については、森田美比著『菊池謙二郎』(耕人社・
昭和51年9月10日
       
発行)、柳生四郎・解説『水戸紀行』(筑波書林発行・ふるさと文庫・1979年7月15日第1刷発行、
         1981年5月15日第2刷発行
)、『水戸の先達』水戸市教育委員会・平成12年3月発行)の「菊池謙
       二郎」の項(執筆・安見隆雄氏)、『茨城県大百科事典』
茨城新聞社・1981年10月8日発行)
       「菊池謙二郎」の項(執筆・佐久間好雄氏)、『水戸一高百年史』
(昭和53年11月11日発行)等を
       参考にさせていただきました。]
     13. 水戸中学校長時代の「舌禍事件」については、『ぼくでんのホームページ』というサイトの
     中に、 
「菊池校長舌禍事件・同盟休校(全校ストライキ)」 がありますので、ご覧ください。
            
お断り: 残念ながら現在は見られないようです。(2017.10.30)
    14. 「崖急に梅ことごとく斜なり」
(原文の「ごと」の部分は、平仮名の「く」を長く伸ばした形の踊り字)
               
の句について  
      偕楽園にある子規の句碑 「崖急に梅ことごとく斜なり」の句を、「水戸紀行」で来水の折
           の明治22年の作だとする説がありますが、柳生四郎氏は上掲書の「解説」で、「この句も
           後年当時を思い出して作ったもので、決して明治22年の作ではない」としておられます。
     そして句 の出典について、遺族から寄贈されて国立国会図書館が所蔵している「句稿寒
     山落木」の、明治29年春の部に載っている句だ、と書いておられます(同書82頁)。
     (『寒山落木』 明治29年 巻五 「春」は、講談社版『子規全集』第2巻 俳句二 に出ています。)
    15. 平成17年3月、菊池謙二郎の実家跡(旧大坂町、現梅香1丁目)に、子規が水戸を訪
     れた時に菊池謙二郎の実家のことを詠んだと思われる「この家を鴨ものぞくや仙波沼」の
     句碑が建てられました。 資料66に、「正岡子規の句碑『この家を鴨ものぞくや仙波沼』」
     があります。
    16.
資料64に「ロンドンの漱石にあてた『子規の手紙』」があります。
    
17. 『秋尾敏の俳句世界』というホームページに、「正岡子規の世界」があり、「絶筆三句」
      「子規の墨跡」「子規の絵」「子規の生涯」「子規の旅日記」……などの項目で紹介・解説
            があって、大変参考になります。      
      18.子規という人物の概略を知るには、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 の
      「正岡子規」が便利です。
    19.国立国会図書館の『近代日本人の肖像』で、正岡子規の肖像写真を見ることができ
      ます。(クリックすると拡大写真になります。)
     20.
『松山市立子規記念博物館』のホームページがあります。
     21. 台東区根岸にある『子規庵』のホームページがあります。 
      22. 『国立国会図書館』のホームページ内の「蔵書印の世界」(電子展示会)で、
        「子規の藏書印」(印影「獺祭書屋図書」)や「自筆本(『銀世界』の一頁)」の映像
       を見ることができます。
       23.電子図書館『青空文庫』で、『歌よみに与ふる書』ほかを読むことができます。
       24. 2007年3月号の『常陽藝文』(常陽藝文センター発行)に、「正岡子規の『水戸紀行』
      を歩く」が特集されています。(2008年10月23日付記)
       25.『春や昔─坂の上の雲のファンサイト─』というサイトに、「俳句革新「正岡子規」」があ
      ります。
       26.
『「坂の上の雲」マニアックスblog』というサイトがあります。

         

 

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