すずりんエッセー集 「絆」 パート14

観音菩薩像

菩薩への道
  ”菩薩の心”、誰の心に必ず菩薩の心がある。
  この世はいろいろ厳しさに満ちた世界、”忍土”、である。だからこそ その忍土が人の心に眠っている菩薩心を呼び起こし、引き出し、その人の本当の 使命へと導いてくれる力となってくれます。そしてその力がその人しか生きることのできな い人生、願いを生きることができるではないでしょうか。
   その気持ちを込めてエッセーを書かせていただきました。ご愛読いただければ これほどの喜びはありません。

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"ろう者にとっての手話と音楽"

今、手話音楽がろう者の間に広まりつつあるけど、 ろう者にとって音楽とは何だろうかという問いへの答えを求める旅 はまだまだ続いている


前置き


   すずりんエッセー12で手話ソングについて 書かせていただいたが、そのエッセーで紹介したわかんさんが 「手話コーラスについて調べ、考えてみた」に手話コ ーラスについていろいろ意見を述べ、その後もいろいろ調べた結果を わかんさんのホームページで紹介しているけれど、大変にしっかりした 内容で読み応えがあり、私も考えさせられた一人です。その中で 「間違いだらけの手話コーラス」でろう者にとっての音楽についての 意見を述べているけれど、なかなか鋭い意見であり、深く音楽について の考えを述べているのに対して私も同意見です。私も一人のろう者として ろう者にとっての音楽は何だろうとその答えを求めながら模索していきたい と思います。


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私にとっての音楽


   私はどちらかといえば音楽というより歌は 好きなほうです。音楽は耳(補聴器)で聞くより身体の響きで感じる のが好きです。身体で響きを感じると気持がいいですし、身体も自然 に動きます。もっともどういうわけか日本の友人たちと一緒だと身体 をあまり動かさないのに、ルームメイトと一緒だとどんどん踊って しまうのはどういうわけだろうね・・・A(~_~;) 一つ例外があります! 高村真理子さんとニューオーリンズで一緒したとき、ダンスパーティで 思いっきり身体を動かして、真理子さんを驚かしたっけ。
   私が歌が好きなのは歌が好きな母の影響です。小さいときから よく「さあ一緒に歌いましょう!」と言っては(半ば強制的!?)に 一緒に歌わされたことから自然に歌への馴染みを作っていったと思い ます。今思えば、歌は歌ったけど、耳で音楽を聞きながら歌ったこ とはないと今更ながら気づかされました。いつも母からの合図で 歌い始め、母の手での動きに合わせて歌っていたと思い出しました。 歌は歌ったけど、耳で音楽は聞いたことがないにも関わらず歌が好き なのはどうしてだろうと疑問に思いました。その疑問に合わせながら 私なりの答えを引き出してみたく思います。


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音楽は耳で聞くものだろうか?


   音楽に付き物のリズム(当たり前だけど)は本当 に耳で聞くものだろうかの疑問が湧いてきます。そこで昔私が東京にいた時、 ある団体の集いに参加した時、宇宙博士で有名な方(名前は思い出せない) の興味深い話を思い出しました。その方の研究についての話でしたが、宇宙 にはリズムが流れているそう。それをわかりやすく証明するために鯨の歌 を録音したものを目で見てわかるようにグラフで示してくださったが、その グラフに宇宙万篇に流れるリズムをも表してくださいましたが、驚くこと にそのグラフの動き、上へ下へと動くリズムがほぼ同じだったのです。 つまりは鯨は身体か、感覚で宇宙のリズムを感じ取り、それに合わせて 歌っていることがそのグラフでよくわかりましたが、それによって私たちは 宇宙からリズムを太陽と同じように平等に受けているんだなと感動した のを覚えています。聞こえなくてもリズムを感じることができるのも、 太鼓の音を聞いて、気持ちよくなるのも、それは皆宇宙のリズムを受けて いるからではないでしょうか。
   宇宙のリズムに関して昔ベートベンが耳が聞こえないにも関わらず、 音楽を編み出したのもその宇宙のリズムを身体で人よりも鋭く感じとめた からではないかと憶測しました。ある本によるとベートベンが音楽を創作 するときはいつも森の中を散策する時だったそうです。森の中はもっと自 然の中に身を置くことになりますから、当然宇宙のリズムをよりよく感じ ることができたんだと思います。それとベートベンの音楽はどちらかとい えば大きな音を醸し出すことが多かったというのも彼が聞こえなかったゆ えともいえるかもしれません。
   大きな音響のほうが聞こえない私にとって気持ちいいし、身体も自然 に動くけど、私のルームメイトのケビンもそういう出来事に遭遇したこと があったそうです。その話はロスにいる日本人の友人が話してくれたこと だけど、彼女は聞こえる人でCSUN(カリフォルニア州立大学ノースリッジ校) の大学院でケビンと同期だった方です。大学院を卒業して、そしてその修士 号を獲得するための試験が夏休みの間にあるので、ケビンや同期の方々と 一緒に勉強したそうです。ある日の夕方、たまたまケビンと二人である コーヒーハウス(日本で言えば喫茶店のようなところ)でジャズを聞かせて くれるお店で勉強したところ、突然ジャズの大きな音楽が鳴ったそう。 それまでは静かだったけど、時間が来たためジャズの演奏の時間となった のですが、それがあまりにも大きくて、聞こえる彼女にとっては勉強の 妨げになったそうです。ところが聞こえないケビンは身体で音楽を感じ、 彼の表情も次第に柔らかくなり、「びっくりした! こんなにも音楽が 僕のストレスをほぐしてくれるとは知らなかった」と驚いたように話した そうです。聞こえる人にとっては音楽は心を休ませる、和ませるもので あることは当たり前のように知っていますが、ケビンはデフファミリー (家族全員が聞こえない)出身であるため、小さいときから音楽という ものに縁がなかったから、その当たり前のことを知らなかったのですから、 その驚きは大きかったと思います。ケビンはそれまで仕事をしながら 大学院で勉強し、しかも最後の山である試験を受けるのですから、相当 なストレスでした。それだけにそのストレスがほぐれるのを感じたのは 彼にとって新鮮な驚きだったのでしょう。
   ケビンの例を見てても宇宙は私たち人間に対して聞こえる、聞こ えないに関係なく平等にリズムを与えてくださっていると考えれば、リ ズムは耳で聞くだけではなく、身体で聞き、感じるものでもあると。聞 こえる人がリズムを耳で聞き、それを耳から聞く音楽に変えたのであれば、 聞こえない人は身体で感じたものを音楽に変えることができるはずですし、 その音楽も聞こえる人の概念であるものではなく、まだ誰も考えたことも ない、しかしこれから出るであろう新しい音楽の概念が生まれるかもしれ ないと期待できます。


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私が手話歌に惹かれたきっかけ


   冒頭に私は歌が好きと書きましたが、確かに 小さいときから音符を正しく歌うことができていましたが、音楽の成績は どういうわけか、「5」になりません(当時の成績表は5段階で評価されて いました)。一生懸命に正しく音符通りに歌ってもです。どうしてだろうと 私にはわかりません。
   しかし聾学校を卒業して何年かした後、音楽の成績が「5」取れなか った理由がわかるときがきたのです! 当時私がつきあっていた聾の理容師 たちと飲み屋へ行った時、その仲間の一人である人の友人でNさんと いう北海道出身の聾者も一緒したのですが、彼が手話で「ふるさと」を 歌わせるとすごくうまい!ということで見せていただいたのですが、彼の 手話歌を見た途端に一目ぼれしてしまいました。大変に美しいのです。 彼の手話を真似て私も歌いましたが、感情が自然に出るのに気づき、 びっくりさせられました。というのもずっと歌には感情があるとは知らなか ったからです。その瞬間に音楽の成績がよくなかった理由がわかりました! 感情がなかったからです。ずっと口話で歌いましたし、誰も感情がない! と注意してくれなかったからです。私の記憶ですが、誰もが正しく音符通 りに歌うことを教えるだけで、感情が大切とか、それが歌でもあると教えて くれなかったのです。ただわずかに母が「その部分は高く声を上げて」 とか、「そこは低く」と教えてくれたけど、今思えば、それが感情の波 に関係あるとわかりますが、当時は誰もが耳から音楽が入らないと感情を 表現できないと理解できた人はいなかったかもしれません。耳から 入る音楽があまりにも当たり前になってしまったため、聞こえないという ことがどういうことか想像することもできなかったかもしれません。
   ともかくNさんによって、歌うことの喜び、楽しさを知り、ますます 手話歌で歌いたがるようになりました。夢中で手話で歌っていたある日、 ふと気づくとほとんどの聾者が楽しそうにしていないのに気づきました。 一生懸命に歌って楽しいんだよと手話で歌を表現したり、教えようとすれば するほど、聾者たちは後ろへ引くような感じになるのになぜだろうと 疑問に感じるようになったのですが、それでもいつかはきっと楽しさを わかるときがくるだろう。それまで手話で見せ続ければいいと単純に考えて いました。
   しかしそれはおろかなことだったと気づかされたのはアメリカへ留学 してからです。あまりにも私は聾者のことを知らなさ過ぎたと恥ずかしくな りました。その当時に申し訳ない気持ちを持ったのです。自分は聾者なのに 聾者のことを知らなかった矛盾に気づかされました。
   そしてアメリカにはアメリカ手話詩歌というものが存在する ことを知ったのです。手話で詩のように表現するのですが、その短い 表現はまるで日本の俳句を思わせます。その美しさに惹かれました。 当時に私が一生懸命に手話で歌った歌はすべて歌詞に手話を合わせたものだけ だったと気づかされました。アメリカ手話詩歌はまったく手話そのもの で歌のように表現しているのです。その詩歌の基本のことを勉強しなが らそれで私の好きな歌「ガンダーラ」を日本手話で表現してみようとあれこ れ手話を考えながら、表現してみると質素だけど奥深いものになっていると 発見したのです。その私が考えた手話歌はまた皆に披露していませんので (ある一人の友人だけ披露したけど)、聾者が見て楽しめるかどうかはわか りませんが、いつか披露するときがきたら、聾者たちも楽しめるかどうか 知るのを楽しみにしています。
   またそれは聾者への押し付けになってもいけないと自分を戒めて います。というのも東京にいたときの私の行為は聾者たちに何とか歌が いかに楽しいものであるかを教えたいの一心でしたが、しかしそれは押し 付けだったと今気づき、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。聾者のことを 知らないとの、知るとのではこんなにも違うのかと驚かされます。


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手話詩歌の勉強を通して


   手話詩歌の勉強を通して、昔東京で見た Nさんの手話歌がどうして魅力あるのかがわかったのですが、それを少し 私なりに解説したいと思います。日本の聴者の歌う手話歌の特徴とも 比較しながら解説いたします。
   聾者であるNさんの表した手話歌とほとんどの聴者の表する手話歌 の違いは目の動き、身体の動き、表情の表現の違いです。聴者はほとんど 目をふせぎながら歌います。観衆を見ない場合が多いのです。まだ首を 動かしながら歌うの特長ともいえます。それは耳で聞く音楽に頼ること でもあるともいえるでしょう。手は動かしても、ほとんど同じ場所、位置 しか動きません。そして歌の歌詞に沿って、その歌詞通りの手話で歌う 場合が多いのです。その例えを話す前にNさんのことをまず説明したいと 思います。
   Nさんの場合は目は必ず観衆や見ている人を見回しながら、そして 歌の内容に合わせて、目を動かし、身体の位置を変えたり、手話も歌詞通 りの手話ではなくそのイメージを表したものでした。例えば「ふるさと」 ですが、

1.「♪う〜さぎお〜いし、かの山〜♪」で「う〜さぎ」と手話で 表現しながら身体の向きを右に向け、「お〜いし」と続きます。 そして山の手話をしながら目は本当にそこに山があるような感 じで高いところを見つめる眼差しになります。その眼差しはふ るさとをなつかしく思うものになっています。

2.次の「♪こ〜ぶなつ〜りし かの川〜♪」で身体の向きを左に向け  ます。目は川の流れを追うようにして左から右へと動かしますが、  そのときの目の位置は低いところにむけるようにしています。

3.次の「♪夢はい〜まもめぐ〜りて♪」で夢の手話をしながら目は遠くを  見つめ空を見るような感じです。そして上に上げていた手の位置をその  まま頭の上へ持って行き、両手の人差し指をお互いに頭の所に回すよう  にしながら目はなつかしそうに瞑ります。

4.次の「♪わす〜れが〜たき♪」で手は頭の上に置いたまま、「わす〜れ」  で目は遠くを見るような感じにしながら「が〜たき」で手のひらを握り  拳のようにしながら頭のところに持って行きます。目は本当に「忘れられ  ない」という強い気持ちで瞑ります。

5.「♪ふる〜さと♪」の手話で表しながら、目は優しくなつかしそうにし、  愛しいような感じにしながら手の動きを見つめます。
そのようにしてNさんは表現しました。

  Nさんのはまさしく私が学んだアメリカ手話詩歌の基本にほぼ沿ってい ました。違いはその詩歌はオリジナルが聾者自身の作詞であり、耳で聴く 音楽に頼らず、聾者の感覚、リズムに従っているものであり、そして詩歌の 始めと終わりが同じ手話で締めくくっているというものです。日本でも 詩歌が多く研究してゆけば、日本独特の手話詩歌がきっと生まれること でしょう。
  聴者の場合、ほとんどはNさんのように身体を右に左に向きを変えない 場合が多いように見受けます。真正面を向いたまま「山」や「川」も同じ 位置で表現します。「山」を右の位置に定め、身体を右に向け、目を高い ところに見据え、「川」を左に位置に定め、目を低いところへ向ける。そ れだけでも歌の感じも変わりますし、見る人もはっきりとイメージづける こともできるはずです。
   他に目をふせぎがちのも特徴ですが、それは日本独特の文化、伝統 があるから止むを得ないと思います。昔から人と話すときは目を合わせると 失礼に当たり、目を合わせないようにしながら話すことが習慣となっていて、 それは日本独特の美しい文化の一つでもありますが、残念ながら手話歌では 通用しないことになります。見た感じでは見苦しいものになってしまうから です。
   聴者の特徴として、手話で歌いながら首を上下に振りながらまたは 左右に首を傾けながら歌うのが目に付きます。それは耳で音楽を聞くため、 そういうくせが知らず知らずのうちに出てしまうようですが、やはり手話歌 としては目障りです。手話に集中することで音楽に頼る習慣から離れる努力 をするのもいいでしょう。また手話も歌詞に沿って表現する例が多く見受け ます。例えばNさんが表現した「♪夢はい〜まもめぐ〜りて♪」の「めぐり て」を聴者の場合(これは1970年代のものだけど)両手を胸の前に持って 行き、両人差し指を出して、右から左へとぐるぐると回しながら移動させる やり方です。他にも「♪わす〜れが〜たき♪」も右手を頬のところに持って 行き、親指と人差し指で頬をひねるようにして「難しい」の手話で表現し ています。それらは確かに一般の手話の単語で出ているものですが、Nさん のように手の位置を頭のところに固定しながら、「めぐりて」と「わすれ がたき」をその歌の意味を捉えながら、それに合った手話で表現したほうが 見やすいですし、イメージも湧きやすいものになるはずです。つまりは歌詞 通りの手話ではなく、歌の持っている意味、イメージを把握することが何よ り大切といえるでしょう。そうすることによってもっと感情が表現しやすく なるのに気づくはずです。

  もし大勢の前で手話歌を披露するなら何より大切 なのは手話のプロになるぐらいの気持ちでしょう。でなければ見る人たちに 失礼ということになるからです。
   2年ぐらい前に私が夏休みで日本へ里帰りしたとき、たまたまNHKの 「のど自慢」を見たとき、両親はその番組を楽しみに見ていので一緒に 見ていたのだけど、あるグループが何と手話で歌い始めたのです。それが 何とも見ていられないほど下手だったのです。一人一人の手話がそろって いず、ぜんぜんばらばらでしかも自信なさそうでした。それはきちんと練習 してない証拠であることは明らかです。そして彼女たちの手話に対する 認識がそれだけ低かったともいえるでしょう。そういう態度では先ほど述べた ように観衆に対しても失礼ですし、聾者たちに対しても失礼になります。
   しかしそれは翻ってみればそれは私たち手話を使っているものたちの 責任がそれほど重いということにもなります。手話に対する認識などを深め ないと手話とは何なのかを伝えることもできませんし、手話は聾者たちの 立派な言語であって、上記の聴者のように手話を軽々しく考えて、下手な 手話でも平然と表現してしまうものではないことをきちんと伝える責任を 私たちは負っているとも言えるでしょう。そのためにもその勉強、学問も 大切になると理解できると思います。


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宇宙の心、音楽は宇宙の中から


   聴者を批判するようなことばかり書いたけど、 聴者たちがそうせざるを得ない背景があることも忘れてはいけないと思い ますす。長い歴史の中で音楽は耳で聞くものの概念が浸透してしまって いますし、音楽の根本にあるものは何なのかをもう一度見つめ直さなければ ならないでしょうし、音楽はリズムから来ていて、そこから一般に言われて いる音楽というものが生まれたのでしょう。
   音楽はリズムから生まれ、そのリズムか宇宙全般を流れていて、それが 私たちの心に届いているとしたら、それを音楽の心は宇宙につながっていると 考えてもいいかもしれません。私たちは宇宙と聞くだけで、宇宙を見るだけ で懐かしさがこみ上げ、共同性を感じるのもそのためでしょうし、感動も 生まれるのも音楽の起源が宇宙のリズムにあると私は考えています。
   宇宙の心がすべての生きとし生けるものに平等にリズムを与えて続け ているなら、聞こえないものにも音楽が可能であろうかと考え、それを 求め続けるならきっとこれまで誰もが気づかなかった新しい音楽の概念が 生まれることでしょう。そこから聾者の歌が出現する可能性もあるでしょう。 ちょうどアメリカの黒人の歌が黒人たちの悲しみ、自由を求める心から生ま れたとの同じように・・・。
   何より大切なのは聴者と聾者たちが共にお互いの違いを認め、歩み寄 り、お互いを敬いあうこと、それが音楽の枠を破り、広い音楽の幅を生み出 すと信じています。聾者主体とした手話歌はきっと聴者にも感動を与える ことができると確信しています。そのためにも手話というものを大切にして いく心構えが必要でしょう。
   皆と響動できる手話歌がきっと生まれることを願って止みません。

2005年2月記す


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