続 禅と日本文化

 

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(これはことによるとつかえません。そのときはこちらです)

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はじめに. 1

禅と日本人の自然愛. 2

禅の禁欲主義. 4

透徹. 8

事実とともに生きる. 10

日本人の自然愛. 14

涅槃図. 18

何も質問せぬこと. 23

. 25

「空」の教えにおける最も難しい部分. 26

最も陥りやすい危険. 28

神秀と慧能. 30

南に向いて北極星を見る. 34

自覚. 37

おわりに. 40

 

 

はじめに

 

もし禅が、此処(鈴木大拙全集11巻p。173―)で大拙が言うように、色々な形で日本文化に浸透(現前)しているなら、あたかもリバース・エンジニアリングというか、その文化の元を逆にたどり、また、そこにある回互関係を探ることによって、いわば、生き生きと生きるということのあり方・現れ方になんらかの示唆を与えるのではないかと思う。

 

(ここに書いたものはヤフーの掲示版、鈴木大拙に2007年9月6日から、12月26日までに載せたものです。副題は便宜上つけたものです。)

 

2007年12月31日 洲崎清

 

禅と日本人の自然愛

 

どうして我々は、内面的苦悩を何とか一時的に抑圧しようとばかり、つとめる生き方するようになってしまったのだろうか。

どうしてわれわれは人生に付いてもっと深く真剣に思索し、その深奥の意味にめざめようとはしなくなったのだろうか。

p。169

ーー

>内面的苦悩を何とか一時的に抑圧しようとばかり、、、

たとえば娯楽が悪いのではないだろうが、度を過ぎると本来なすべきこと(対処しない対処)がおろそかになる。すると、是が心の癖だが、バランスを欠くといったことになる。

>どうしてわれわれは人生に付いてもっと深く真剣に思索し、その深奥の意味にめざめようとはしなくなったのだろうか。

じっとしていることができなくなる。刺激を求める癖が力を持ち、
>ただ刺激のために刺激を追うだけで、、、真に生をたのしむ余裕がない。

ということ。

では、
>真に生をたのしむ

とはどういうことか?

与えられたものを感謝していただき、、、
呼吸し、食べ、眠り、歩き、考え、仕事をし、瞑想をし、、、智慧をはたらかせ、、、正しく物事を見、、、、

そう、八正道だ。

〜を「する」、でなく、おのずから「なる」、まで修業だ。永遠の修証だ。

それで、、、

>もっと深く真剣に思索し、その深奥の意味にめざめ、、、

るべき時が一体どれだけあるか?!

また、その方法に紛れはないか?

 

==

 

(余談)

「禅と日本人の自然愛」と言う章を寝転んで読んでいたら、家で飼っているオレンジ色の猫のレオポルドが遊びに来た。私の周りをごろごろのどで音を立てながら、体をこすり付けたりする。

本を読みながら、なでたりしていたら、いつの間にか私の背中に乗って横になっている。

こういうのもひとつの詩ではないかな?などとおもって一緒のときを過ごした。

しばらく今度はわたしの横で寝たあと、気づいたら彼はいつの間にかどこかに消えていなくなっていた。

(おしまい)

 

==

 

僧問:獅子は敵を襲う時、、、全力を持ってするという。その力は?
師答:至誠の力だ。

至誠、、とは「全存在をそのままに押し出す」ということで、禅語では「全体作用」という。一切を留めず、一切を仮装せず、一切を浪費せぬ謂いである。かくの如くに生きる人を金毛の獅子というのである。

その人こそ、雄渾、至誠、真剣の象徴である。神の如き人である。表示でなくて実在そのものにほかならぬ。その背後に何物をももたず、全真理、そのもの自体であるからだ。

p。191

ーー

抜き身の刀、といった感じかな。
なんら歪がないのだね。
宇宙の意そのものがまるだし、だ。

 

==

 

禅の禁欲主義

 

禅の禁欲主義は必ずしも、われわれの欲望や本能を曲げたり滅したりすることにあるのではなくて、自然を尊び、これを侵したりせぬ所にある。。。。

それゆえ禅の禁欲主義は、科学や工業生産や商業主義やそのほか多くの思想運動の中に明らかに観られる現代の物質的傾向にはまったく共鳴せぬのである。

p。193−4

ーー

この辺、前に述べたさび・侘びの話と通じるのだね。

日本人のこころに深までしみとおっているのだろうな。

御飯粒ひとつを、大事に、ね。

 

==

 

禅の目的とするところは、自然を尊び、自然を愛し、己れ自らの生を生きるにある。

p。194

ーー

自ずから然りで、、、、
自ずから然りを尊び、愛し、

自ずから然りで、
己れ自らの生を生きる。。。。

そこに芯のつよいもの(→絶対の働き)がある。

豈にしいて是非すべけんや!

えい!

 

==

 

>己れ自らの生を生きるにある

己れ自ら、、、、の生

ということで、基盤のない基盤から、芯の芯からの

生のエネルギー、宇宙創造のエネルギーが

自ずから然りで、発露している、、、、

といったものだろう。

チーン

 

==

 

>己れ自らの生を生きるにある

は創造性のトピでさっき書いた、、、

>「極楽」「光明」「華厳」がいまここに現成しているのだな。

を確認して、つまり、もともとそうなっている事を確認して、、、

生きなさいということだろうな。

つまり、、、

>自ら

は、その光、智慧の確認、

その働きの現成だろう。

つまり、すべて整っている、

法の表れの、確認道を歩む、だ。

 

==

 

禅の禁欲主義は単純・質素・素直・雄渾を主張し、私利、私欲のため自然を利用したりはしない。

p。194

ーー

そういえば大拙が松ヶ丘文庫でボタンを救うために家の改造プランを変えたというのもあるね。

共有というのか、共生かな、ともに自ずから然りで栄えたいのだね。

やはり、自然がわれわれの生活空間にはいってくると、、、
是はありがたいものだね。

気が付けば
日が傾いて、
猫はいねむり。

 

==

 

禁欲主義は生活の標準を低めると憂うる人もあるが、忌憚なく言うと、霊の喪失は世界の獲得以上の問題である。

p。194

ーー

さすがだね!

頭をこっちにあっちにぶつけて、目が回って、何がなんだかわからないで、
刺激のための刺激をもとめるようでは、、、、

意味が薄いわな。

もっと根本の所をしっかりしないとね。

 

==

 

いわゆる生活標準を高めるかわりに、生活そのものの質を向上させるほうがはるかにいいではないか。

是は自明の理である。

p。194

ーー

やはり小欲知足だと、

らくだね、

。。。

安楽だ。

で、、、

おいしいものを食べたら、周りの人と分けたいと思わないか?
ということになるな。

ただ、これも智慧のいるところだ。

(どこでもそうだけど、、ね。)

 

==

 

多くの人は花の見方が本当にはわかっていない。
それというのは、彼らはとにかく花から離れていて、
そのものの精神を決してつかんでいないからだ。
しっかりそれをつかんでいないから、
まるで花の夢でも見ているようなものである。
見る人と見られるものが離れている。

p。195

ーー

分別意識がフィルターをけて、直接体験の邪魔をするんだね。
これいくら、高い、色が少しおかしい、あの人はそういえば、、、などなど、、、頭が勝手に走り出して、その動きを止めて何が起こっているかを見る事もない。

ということで、目の前の花は、どこかに行ってしまった!

 

==

 

禅は生を全体として把握し、それとともに「休みなく」動くし、又「静かに」とまる。いみじくも、生のひらめく所、何処にも禅がある。

p。19

ーー

この辺も全機現と通じるようだな。

生き生き生き生き、、、、

喝!

 

==

 

透徹

 

何よりもまず透徹と言う経験を得れば、自然および其の多様的な事物を二元的にでなく、そのままに愛することができる。

われわれが、主観客観をわけるために起こる観念上の錯覚を決定的なものとして抱く限り、この透徹性は分明をかいて、われわれの自然愛は二元論と詭弁に汚されることになる。

p。199

ーー

「透徹と言う経験」は道元なら透脱だろうな。

それがないと、そのまま、そのままが、、、

素直を失う、というわけだな。

汚された後は、、、

どうしてもおっ付かない。

汚されたと気づくまではね!

==

 

>われわれが、主観客観をわけるために起こる観念上の錯覚を決定的なものとして抱く限り、この透徹性は分明をかいて、われわれの自然愛は二元論と詭弁に汚されることになる。

「透徹性」、「分明」の意味する所はやはり鏡のこころだな。神秀と慧能の違い(偈)はのこるとしても、個々人でその辺のところは、解決を見るまで突き進むのだろうな。

 

==

 

我々のもつ分別や分離はみな後から作られたものである。。。ゆえに禅の狙う所は、この本来の不分離体験を取り戻すことで、語をかえていえば、元の純粋透徹の状態に帰ることである。

ここに禅が概念的分別というものを許さぬ理由があるわけなのだ。

p。201

ーー

暑いが暑い、、、痛いが痛い、、、
迷いが迷い、、、

そのままでととのっている。

莫妄想!

喝!

 

==

 

事実とともに生きる

 

この点で同一性と静寂性をとく論者には、警告を与えておかなくてはならぬ。彼らは観念に支配されている。事実に向かい、事実の中に生き、事実とともに生きなければならぬ。

p。202

ーー

これ面白いな。
>同一性と静寂性をとく論者

は、、、同一性と静寂性という、そういったワナがあるという感じのところだね。

>事実に向かい、事実の中に生き、事実とともに生きなければならぬ。

これは、いとも簡単に言っているみたいだけど、、、どうとったらいいかな?
早い話し、生きるという原点(透き通った所、応無所住而生其心)を見失うなということだろうけど、、

「その原点」を見失わずに、事実に向かい、
「その原点」と一緒(差別=平等)の事実の中に生き、
「その原点」からの智慧を持って、事実とともに生きなければならぬ。

ということかな。

つまり体でなく用・働きから目をそらさずに生きなさい、と言うことなのだろう。

 

==

 

長沙が仰山と月を眺めていたら仰山は月ををさして言った。
「誰もみなつきを持っているが、ただそれを使うことができぬだけだ」
長沙「君の言うとおりだ。ところで、一つそれを使ってもらいたい」
仰山「君ならどうやって使うのか見せてくれ」
長沙はいきなり、この仲間の僧を蹴倒した。
仰山は静かに立ち上がって言った「君はそれこそ獅子のようだ」

ーー

静かな時は静か、それでいて獅子のように暴れる時はにぎやかだ。
働きはどうでるか、気づいてみれば、、、不思議・面白いものだな。

まあ概念がでるたびに、固定すると肩がこるから、それをひっくり返して、
ポカ、喝、を入れろということかな。

 

==

 

禅の認識論は観念の媒体をかりることではない。諸君が禅を理解せんと欲するならば、、、端的にこれを理解されたい。。。。この直接に把握するという主義が禅の特色である。

p。203

ーー

(鳥が飛んでいって、、、)
何処に行ったかな?
もういなくなってしまいました。
(鼻を捻る。)
いたたたた!
ほらここにいるではないか!

何処から来たかな?
南の寺から来ました
いつその寺を離れたのか?
8月15日です。
本来なら3回棒を食らわせる所だが、まあ大目に見てやろう。

 

。。。

二つの世界に同時にいるということ。だから鏡の働きであり、南無阿弥陀仏であり、絶対矛盾の自己同一だ。それは又中道でもある。

意識と無意識の連絡といってもいい。

そこでの働きが、、、、ちゃんといつも原点からほとばしりでて、、、
働いている事を、感じる。知る。

ありがとう!

 

==

 

禅の見地は、いかなる二元論をも許さぬ絶対見地を見出すにある。
論理は主客の別より発し、信仰は見えるものと見えぬものとを峻別する。
西洋流の考え方では、、、、この永遠のディレンマを免れる事は絶対できぬ。
禅ではこれらのものはことことぐ生と実在の本性を見抜くものを妨げるものとして一掃される。

p。203

ーー

「それ」だね。生き生きの根源、絶対のはたらきのもと、、、
まごうことないもの。

これですべてをスパッスパッと切っていくんだな。

(ちょっとでもふれると、やけどではすまないぞ!)

 

==

 

禅によって我々が到達するのは空の世界である。

そこにはなんら観念主義のはびこる事もなく、
そこには根のない樹が生長し、
漂々たる風が地上を吹き払っている。

p。203

ーー

空の世界は応無所住而生其心の世界だな。

それはまたジジ無礙の世界でもあし、、、
自然法爾の世界でもある。

 

==

 

我々は自然と自分たちの間におかれる、、、一切の障礙を破らねばならぬ。それらが除かれて初めてわれわれは自然の生きた心を見抜き、これと生きるのである。

p。204

ーー

任運騰騰だね。

 

==

 

だからこのために、一切の観念的な足場を取り払う事が肝要である。

禅のほうで透徹という事を語る時は、この取り払い、この心の表面を拭い去る事を意味する。

しかし、事実の立場から見れば、この鏡は決して曇っていないので、ぬぐき清める必要はないのだが、同一とか、静寂とか、ひとつの精神とか、自我意識などなどのために、清掃の大作用を行う事を余儀なくされるのである。

p。204

ーー

だから円環運動だ。
行ったりきたり。

人間というのは、面白くできているね。

(面白い、、、ならいいが、こいつがえも知れぬ苦痛をも巻き起こすのだ。。。自業自縛。

誰が縛ったのか?

で、縛ったり、解いたり。。。

そしてそこに道を見出したり、、、

ご苦労さん!

はい。

ありがとうございます。)

 

==

 

日本人の自然愛

 

禅が真実在を洞察しうるのは、あらゆる存在の深奥を打診するからだ。
禅が純粋美を充分味わう道を知っているのは、32相、80種好などという超人的な特徴を備えた、金銅の仏像のような、美そのものの体の中にも生きるからである。

かかる背景を持って日本人の自然愛は、その対象と接触するままに開顕するのである。

p。204

ーー

>あらゆる存在の深奥を打診する、、、

面白い表現だね。

真実在は何か、どう働いているか?

ある意味では、、、
表面に現れているものをすっかりはぎとって、

内に輝くぎろりとしたものが、どうか、
というわけだ。

だから自然愛は
自らと同一のもの、、、

これに打たれる、といったところかな。

平等性智や妙観察智につながるようだね。

 

==

 

 

美を味わう心の底には宗教的なものがある。宗教的でなければ、誰も純粋に美しいものを探り出して、これを楽しむことはできないからだ。

p。206

ーー

>美を味わう心の底には宗教的なものがある。

宗教的とは、、、何か、
こころの深みにみとおるもの?
論理を超えて、、、
存在の奥底で感じるもの?共鳴するもの?

>宗教的でなければ、誰も純粋に美しいものを探り出して、これを楽しむことはできないからだ。

ここで、楽しむとはなに?
いわば平等性智?妙観察智?

一体感?
くつろぎ?

それが楽しめると、、、
どうなる?

無一物中無尽蔵?
華厳の世界?

ああ、言葉をつかうというのは難しいね。
まあ、お茶でもどうぞ。

ゆっくり楽しんで(楽になって)ください。

 

==

 

我々が本来自然にあるというとき、、、子供のようになることを意味する。。。
一切の社会的工作を無視する。。。
動機の純粋性や感情の無私性や即応性にある。。。

現代の生活を特に妨げ煩わしくすることのひとつのことは、日常生活の各層に感じられる目的論の観念である。
人が目的論的な生存概念の面にあるかぎりは、決して自由とはいえない。
自由ならざることがこの世に行われる一切の苦悩、一切の悲惨、一切の軋轢の原因である。

p。218−9

ーー

それで自由ならざる時に自由かどうか?!
これは論ではなく、一刻一刻、行為で証するしかないね。

ただし論や思想が意味がないというわけではない。

 

==

 

いわゆる芸術作品に目的の観念があまりに明らかに過ぎるときはもはや芸術は存在せぬ。

芸術の自由は無技巧即ち無目的に存する。。。

そして自然こそ完全な芸術の見本(である)。

p。219

ーー

無目的の目的だな。
自ずから然りだ。
黙って座れば、ぴたりと決まる、というようなものだな。
定慧の消息。
即非だ。

 

==


太平洋の波にも、、、大空高く聳え立つ富士山にも、明らかな目的はない。

p。219

ーー

手段=目的の世界。

何で生きるの?

はあ〜と、ねこがあくびをしている。。。

鳥がチュンチュンないている。

何で苦しいの?

あ〜呼吸がしずかだ。

日があけてきたな。

ああ、そうなっているのか。

ちゃんと朝ごはん食べた?

はい。

お皿洗った?

はい、機械がやります。

まあ、おちゃでもどうぞ。

はい、ありがとう。

 

==

 

功利主義に憑かれているものの目には花は種となるものとして、種は来るべき年年の生命を宿すものとして映る。

だが宗教的、美的な角度から観察すれば、花は花として紅や黄であり、葉は葉として緑であって、この場合、一切の功利主義と目的論的または生物学的な諸々の観念は排除せられる。

p。219

ーー

そういう意味では葉は緑ではないのだね。

それにしても、、、機械的な見方、を通り超えると、世の中面白いな。

通り来て、

通り超えて見る、

この世の中、

一体全体、、、

どうなっているんだろう!

ね!

 

==

 

涅槃図

 

涅槃図のひとつの卓越した特徴はもちろん中心人物であり、彼が弟子たちに取り囲まれて静かに死んでいく情景である。

これを頭から脇から血を流しているキリストのはり付けと対照せよ。。。

仏陀は自分に満足しているばかりでなく、一切の世界と一切の有情非情のものに満足して臥しているのである。。。

それは仏教徒は自然と闘っているのではなくて、彼らと自然はひとつになって法の生活をしている、という事実を強く示しているものでないか。

p。221

ーー

ああ、如来だね。。。

如如如、、、、!

闘っているのではないのだね!

すんなりすんなり、

たんたんたんたん。
こつこつこつこつ。
もくもくもくもく。。。

 

(そういえばある禅僧、自ら穴を掘って、そばにいた人に上から土で埋めてくれといってすこしのお金を上げて、なくなったという話(実話?)があるが、私がそうできるかどうかはそれとして、感じわかるな。ひとに迷惑かけず、なにもなかったかのように消えてなくなる!)

 

==

 

仏、菩薩が動植物とともに描かれるようになったのは宋時代の禅僧画家の天才によると聴く。。。
それまで、、、超然として関わりのない、というよりむしろ近寄りがたい風を、その姿から取り去ったのだ。

仏、菩薩はその超越的な土台から降りてきて、われわれ普通の人間や普通の動植物、岩や山とまで交わるようになった。

ーー

悉有仏性だものね。
あるいはジジ無礙と言ったもので、
理はあってもまあかくれているというようなものかな。

 

==

 

美は何か瞬間にして飛び去り行くものであり,十分生命に満たされている間にそれを味あわなければ、只の記憶となり、その生気はまったく失われる。

朝顔は朝な朝な麻に咲きかえて盛り久しき花にぞありけり。

p。223

ーー

アッ、
それっ、

もういない!

今度はそっち、あっち、こっち、、、
ほら、

そこにも、ここにも、

後追いでは間に合わない。

そのまま、理屈なしに、
探すことなしに、
みつける、みつかる。

鳥が鳴く、
枯葉が風に吹かれて走る、
風鈴がなる、、、

まあ、お茶をいっぱいどうぞ。
はい、ありがとう。

 

==

 

美は過去も未来もなく、只、現在があるがゆえに、いつもいきているのだ。

諸君がぐずぐずしていて、頭を他に転じると、もう美はない。

p。224

ーー

美=不思議だね。

奇跡でもいい。

そういう意味では智慧も美みたいなものだな。

生き生きと、自己組織して、、、、

あるいは法の表れと言ったものだな。

アレはなんだ?

かもです。

何処に行くのかな?

もう行ってしまいました。

ポカ!

 

==

 

日本人は禅の教えから、自然の愛し方を、人間を含めた一切の物を貫く生命との接触の仕方を、学んできた。

P。224

ーー

>「一切の物を貫く生命」との接触の仕方を、学んできた。

うがった表現だね!

そのとうりだ!

そこにもここにも。。。

ある意味では妙観察智といった意味合いが感じられるな。

そしてそれがいわば、薫陶としてすでに体の中に組み込まれている、、、

といったことかもしれない。

(それで、この辺のことを見出す、再認識する、と言うのが、以前に言ったリバースエンジニアリングの意味合いーつまり日本の文化からその中に生きている「それ!」「一切の物を貫く生命」を感じ取ると言うことーとつながるのかもしれない)

 

==

 

あまりに綺麗荷掃除された庭は侘びがない、、、
という利休の話がある(詳しくはp。249)

墨絵に見られるアンバランス、空間の使い方もそこ、自然の美、不思議、を見ているのだろう。

翻って現代文明、生活をみると、完全を求めると言うのにあくせくしているような所がある。

だからこそ、馬鹿のくつろぎといったものも味わいがあるのだろう。

中道ににて、これまた微妙なバランスかな。

 

==

 

壊れた茶入(茶碗であろう)をつぎはぎして、それが利休の気に入った。(p。250)

わび、とかさび、あるいは妙というが、、、
ことによると、人間の心のつぎはぎの様子が妙と言うのもあるだろうな。

つまり、煩悩のいろいろが、苦労してつぎはぎがあって、かろうじて崩れないでなんとか生きている。

見方によったら、中道はそんな感じのところといえないかしら。

で、もしそうなら、、、
つぎはぎの接着剤、これがいかにしっかりしているか、だね。

おいおい、
穴が開くと、水が漏るよ!

 

==

 

何も質問せぬこと

 

市井の人はもちろん、学者の多くも、
一般に霊魂と肉体、心と他界などと区別するのは
出発点からして間違っている。

この出発点の誤りのために、人は無限の論理的困難の連続に巻き込まれる。

このことを真に理解する最良の道は「何も質問せぬこと」だ。

p。261

ーー

ああ、そうだね!

煩悩のもとをたどれば、ここで言うのと同じところにたどりつく!

原点をしっかり、

出発点をまちがえるなよ!

はい!

 

==

 

あー、これ、おもしろいな。

頭をさきに進めない!

じっと、じっと。

頭の悪い働きにひっかからない!

じっとじっと、

すると全機の働きが、、、

おのずからしかりで、

智慧となり、、、

然るべき行為(これ智慧)となる。

 

==

 

そこで、沸いてくるのがあるんだね。

それは不思議の生き生きかもしれない
絶対の肯定かもしれない。

それで釈迦はなんと言ったかな、、、

奇哉!一切衆生皆倶如来智慧徳相、、、か、、、、

それで、質問しないというのは、、、
只因妄想執着不能証得

をいってるようなものだな。

 

==

 

この世で最も奇跡的な出来事はなんでしょうか?
(百丈)わしがひとりここにすわっていることだ。

禅の欲する所は、この奇跡を固く把握して、それに付いて質問せぬことである。実際、此処ではいかなる問いも成り立ち得ない。

p。262

ーー

絶対の肯定、あるがまま、いかにしようもない、にかかっているのだね。

この世で最も奇跡的な出来事はなんでしょうか?

あの鳥の声だよ、
日が昇る夜明けだよ!

 

==

 

 

空は、、二元的な対立の世界の基礎にあるものを指摘せんと欲する。主観と客観、原因と結果、神と人などは相対的な言葉であるといったところで、それで我々が今生きている所以を説明するには充分でない。

これらの対比的言葉は、すべてその源を尋ねて、一切の矛盾の解消する、人角共通の根拠に立ち戻らなければならぬ。この根拠が空である。

p。272

ーー

その根拠を空と呼ぼうがなんと呼ぼうが、、、
そんなものは名前でなく、その境涯がどうか、だね!

だから言葉で追っかけてもおっつかない。

おっつかない所の根拠・境涯を問題にしているのだから。

ね!

 

==

 

空なる言葉は、佛教では通常二つの意味にもちいられる。大乗を正しく理解する上に混乱をきたすのは、実は、この二重性のためである。

普通の意味では、一切の組成物は空であり、虚であり、生であり死であり、永久性をもたぬ事である。

ただし、般若哲学において一切が空であり、虚であると言う時は、、、、一切万物は絶対者に根ざし、この根ざすと言うことを充分了解する限り、それは実在すると言うのである。この後者の場合に空は「絶対者」に相当する。

p。272−3
ーー

>それは実在すると言うのである。

は華厳のジジ無礙を言っているのだろうな。あるいはこのことは否定を通っての絶対肯定の般若即非を指しているのだろう。

臨済なら活溌溌地だ。

 

==

 

「空」の教えにおける最も難しい部分

 

仏教徒の考える絶対者は、その中に一切を保持し、かつそれをとうして、一切が顕現するという如き、個者ではなくして、かくかく個々の事物がそのままで絶対者の中に存し、又、それとはなれて絶対者があるわけではない。

絶対者は個々の事物から離れれば絶対ではなくなり、個々の事物は絶対者から離れれば個々のものでなくなる。

絶対者はいい得べくんば、その完き姿をもって、かくかく個々の事物に存し、かくかく個々の事物は、その完全な姿をもって、絶対者そのものである。

それゆえに、一切が絶対者の中に存し、あるいは絶対者に属すと言うのは、まったく正しいとは言い切れない。なぜかというに、一切がそれ自体の姿で、即ち、それぞれの個者として、またひとつの全に属するものとして、存するような時でも、彼らは絶対者それ自体なのである。

これは大乗教の諸経および哲学的著作にとかれる「空」の教えにおける、最も難しい部分である。

p。274−5

ーー

ああ、面白いね。不思議だね。

もともとそうなっているのが、そこからずれる見方ができる(これはそれ自身生きるといううえで便利のようであるが)と言うおかげで、その切れ目というか、その、、、位置づけが、見失われうるようにも成っている。

これが意識・分別の働きの微妙・物騒なところだ。

翻って、ジジ無礙、悉有仏性、主人公、唯我独尊、それと、先ほど別のトピで書いた一粒の砂、鳥の声に全宇宙が現れている、というやつ、、、これが、見える、わかる、感じる、というのは、

元があるからともいえるが、元から外れるからこそわかるともいえるのだと思う。(迷いと悟りの関係に同じ)

>仏教徒の考える絶対者は、その中に一切を保持し、かつそれをとうして、一切が顕現するという如き、個者ではなくして、かくかく個々の事物がそのままで絶対者の中に存し、又、それとはなれて絶対者があるわけではない。

これだから「共鳴」と言う感じ、あるいは「脱落」と言う感じがあるのだろうな。つまりその「とき」個が個の然るべき場を見出すと言うようなものだろう。(個=意識・分別でもよい)

>絶対者は個々の事物から離れれば絶対ではなくなり、個々の事物は絶対者から離れれば個々のものでなくなる。

個は絶対が(中に)あるから個である、絶対が離れてあったらその絶対は絶対でないと言うの、もっともだね!

>絶対者はいい得べくんば、その完き姿をもって、かくかく個々の事物に存し、かくかく個々の事物は、その完全な姿をもって、絶対者そのものである。

たとえば、煩悩即菩提。そのままでありがとう。

>一切がそれ自体の姿で、即ち、それぞれの個者として、またひとつの全に属するものとして、存するような時でも、彼らは絶対者それ自体なのである。

天上天下唯我独尊!ご苦労さん!

無論、生き生きのはずだよ!

***注:絶対者=空

 

==

 

楞伽経(大拙の英訳したものです:http://lirs.ru/do/lanka_eng/lanka-nondiacritical.htm )に前出のものに関して書いたものがあったので参考までにここにのせておきます。

Unobtainability
This going beyond all forms of dualism, however differently it may be expressed, whether as being and non-being, or as oneness and manyness, or as this and that, or as causation and no-causation, or as form and no-form, or as assertion and negation, or as Samsara and Nirvana, or as ignorance and knowledge, or as work and no-work, or as good and evil, or as purity and defilement, or as ego and non-ego, or as worldly and super-worldly, ad infinitum his going beyond a world of oppositions and contrasts constitutes one of the most significant thoughts of the Mahayana. There is nothing real as long as we remain entangled in the skein of relativity, and our sufferings will never come to an end. We must therefore endeavour to take hold of reality, but this reality is not something altogether solitary. For in this case no one of us will be able to have even a glimpse of it, and if we had, it will turn into something standing in opposition to this world of relativity, which means the loss of solitariness, that is, the solitary now forms part of this world.
Thus, according to Buddhist philosophy, reality must be grasped in this world and by this world, for it is that "Beyond which is also Within". The Lanka compares it to the moon in water or a flower in a mirror. It is within and yet outside, it is outside and yet within. This aspect of reality is described as "unobtainable" or "unattainable" (anupalabdha). And just because it is unobtainable in a world of particulars, the latter from the point of view of reality is like a dream, like a mirage, and so on. The subtlest relation of reality to the world is beyond description, it yields its secrets only to him who has actually realised it in himself by means of noble wisdom (aryajnana or prajna). This realisation is also a kind of knowledge though different from what is generally known by this name.

 

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最も陥りやすい危険

 

「心」(下記の注参照、普通言う心とは違う)即ち「一心」を二元の混乱状態の中に把握することが、禅の鍛錬の目的である。

ただし、7世紀に慧能の現れるまでは、心を単に思索の対象とする傾きがあって、それがため、一切の事物のアルファおよびオメガたるべき心は、その純粋の性質を認められずに、いわゆる「万物」のひとつに成った。

心をこんな風に客観化することは、佛教論者がその最後の決勝点(ゴール)へ行く途中で、最も陥りやすい危険のひとつである。

それによって、禅は静観主義または神秘主義に変形される。

p。276−7


注:空=(達磨の)一心=(万物の基礎にある)心=絶対心(普通に言う個々の心とは違う)

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うーん、そうなのだよね!

いわば、抜けきらないで、はまっちゃう!

まあ、いったん、はまるのはいいけど、(修業の過程で)

五位でも華厳でも四料揀でもいうように、、、

いわば自在がどうか、、、ということになる。

ということは、早い話が、

そこに引っかかっているということ、だ。

で、、、

>「こころ」を二元の混乱状態の中に把握することが

くつろいでできるか?

どうかな?!

、、、

ポカッ!

(ポカッ!でなくて、、、

もうひとこと言うと、、、、これは、、、物騒なのだが、、、、

曹洞宗関係の人、神秀関係といってもいいか、、、は

ひとつ注意されたいと言う感じがあります。

つまり、、、下手をすると、、、(どこかで書いたけど)、、、

体を重視して用がわからなくなるということに、、、

つながるのではないかと言うこと。

要は、道元がいうように悟りに迷うのでなく、迷いを悟る、と言うことでしょう。)

 

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神秀と慧能

 

慧能はこの傾向を憂えて、極力これを反駁した。。。。

慧能当時の禅匠たちのなかには、完全な鏡のような意識状態を実現する事が,禅的鍛錬の第一歩だと考えるものが多かった。

だがこのやり方は心をいわば、静的にみるということになるので、慧能はこれを絶対なるものの真性を破壊するものとして、強く反対したのである。

p。277

ーー

かたくなるからね。

 

(前出の「ひとつの全に属するものとして、存するような時でも、彼らは絶対者それ自体なのである、、というやつだ。)

ただ、、、

>完全な鏡のような意識状態を実現する事が、禅的鍛錬の第一歩だと考えるものが多かった。

(これ、今でもそうでしょう!)ただある意味で言えば、コントロールされた状態で(外乱の少ない状態で)心がどう働いているかを知る(汝自らを知る)と言う意味なら、それはそれでいいように思う。

只、それをとおりこさないといかんから、脱落しただけではいけないと、いえるのではないか

只管打坐とは言いながら、道元があれだけ公案をいじったのは、そのへんの確認の意味合いがあったのではないだろうか。。。(ところで、道元―今枝愛真、p。179によると、懐奘による正法眼蔵随聞記にある只管打坐のみの強調、公案の否定はおかしいといっている。わからないでもない。) 

つまり、、、脱落の体験を智慧の働きの表れと言うことができるとは思うが、それに引っかかってしまうと、実にばかばかしいことになると思うのである

 

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慧能は仏性たる自己の内的存在を直接に洞察せんと欲したので、意識の鏡から塵埃を掃い去ったら、ある人々のかんがえるように仏性が輝きだすだろうとはしなかった

彼の考えでは、人の心は鏡そのものにほかならぬ。心が混乱した観念、印象、そのほかの心理的事象で多忙の時も、本来の鏡性を決して失わぬ。

p。277

ーー

そうなのだが、そこにパラドックス(無門関)があるんだな。

それをそう見ないから、この事が既に分からない、という。

ということで、まあキャッチー22ということになるのだろうな。



いろいろばたばたして、気づいたら、ばたばたしなくてもよかったという、、

体験がないと、そのことはいくら言ってもわからない、ということになるのだね。



で、ばたばたの過程で鏡の塵を取ろうと言うことにもなるわけだ。

これは分別意識に重きを置く限り、(と言ってもそうする様に仕組まれてきたわけだが)逃げられない、、、と、気づかないといけない、ね。

何度でも、何度でも。必要に応じて、ね。



それで、必要に応じてやっているうちに、やる事が自在になる、、、

名人になる、、、という風にみたら、どうかいな?!



まあ、必要に応じて、というそれに気づかなけりゃあ

ちょっと、こまるわいな。

 

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即ち、各個人の心と言うものは心であることによって、初めて心になりえるのである。

p。277

ーー

ははは、、、そうだね!

心が「心」であるとわからないと、心がいつまでもころころして終りのないご苦労さんというわけだ。

心と「心」の違いがわかるかどうかというわけだ!

(それにしても大拙さん、この表現はいつもの丁寧な表現とチョッとちがうようだね。。。やはり最後の関はこういうふうな矛盾のいいまわしになるかな。

 

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一方に我々個々の心が、一方に偉大な鏡のような心があるという風に、互いに対立する二物があるわけでは決してない。

心を洞察することは、ある特殊の心を洞察することであり、その反対も同じである。

ここに主観と客観、見るものと見られるものの絶対的同一性が存する。

P277

ーー

これはいったいどういうことかというと、、、

イメージとしては、やはり、、見るものが見られるもの、、、という表現しかないかな?

あるいは、、、

主客合一でもいい、、月と水でもいい。。。

色即是空、空即是色でもいい。。。

無意識の意識でもいい。

おのずからしかりでもいい。

無作の作、無相の相、、、

南無阿弥陀仏でも、、、ご苦労さんでもいい、といったものだ。

、、、言い方、受け方に問題があるかもしれないが、

只管打坐でもいい、としておこう。

(あるいは、これらすべてが、同義、というか、同じ所を「みている」「ゆびさしている」ということだ。)

 

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南に向いて北極星を見

 

慧能の洞察には二元論も静慮も没入もなくて、あるのは絶対的一者、動的一者である。

論理的に言うと、それは矛盾・撞著を手段として肯定に達する働きである。。。

言葉をかえていえば、、、南に向いて北極星を見ようとすることだとも言えよう。

p。277

ーー

だから、、、いつもそこにある、、、「もの」の働きを、、、

つまり、無意識の意識をしている、というようなものだ。

すると、絶体絶命が絶対絶命のまま、

ちゃんとおさまっているということになる。

これは論理ではいかんせんとどかないところだ。

ご苦労さん!

、、、それで、

その働きが、いつも、、、

はたらいているのかどうか、、、

こいつが、、、

「問題」(つまり「解決」)というわけだ。

 

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論理は禅佛教の理解に大きな妨げとなる、、、

禅の欲する所は、心そのもの、あるいは「無心」を洞察するにある。

この驚異をとげるためには、我々の超絶的な視力のまわりにある枷(かせ)らしきものはことごとくこれを払い落とす事が絶対に必要である。

p。278

ーー

超論理といったものだな。(「視」は論理を素通りしているわいな)

もともと智慧というのの性格は、そういったことだろう。

おもしろいのは、、、

これは馬鹿になる、というのと通じる所があるのだね。



ところが、まるばつをつけるのにいそがしい、というのがある。

また、どうしていいかわからず、お酒飲んだり、四方山話に日が暮れる、というのもある。

そのへん、ちゃんと、芯をしっかり見極めたいところだ。

 

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ああ美しい雪だ。どの雪片もよそへ落ちようとはしない。

何処に落ちると言うのです。

ポカ!

p。278

ーー

やっぱりポカが一番早いか。

この消息、ピアソに聞かせたらわかったろうな。

 

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万物(一切の差別界の諸現象)と伴侶となれぬものとは、どんな人間ですか?

問い終わらざるに、石頭は両手を持って(問いを発したものの)口を覆い、彼を黙らせた。

P。281

ーー

既に、問いのでる前がどうか、、だものね!

ご用心、ご用心。

(それにしても石頭みたいな人がいるとたすかるね、
ポカでも喝でもいいけど)

 

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万物(一切の差別界の諸現象)と伴侶となれぬものとは、どんな人間ですか?

一口に西江の水をのんだら、おしえてあげるよ。

(注:意訳)
p。282

ーー

抜けないと(脱落)、、、論理がぶつかり合って、、、
引っかかりあって、、、

終りがないのだね。

そこで、、、、

わかれるまえが、どうなっているか?

あるいは、わかれるもなにも、、「我」、関せず、といったものだね。

 

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自覚

 

「万法とともたらざる人」は森のなかに、町の中に、いたるところに出会う世間並みの人間であるように思われる。ただ彼は自分というものを知らず、自分の威厳を意識せぬ。

禅の使命はこういう人間にその事実を自覚させるにある。

p。282

ーー

そこでだ、、、

禅をおしえるもの、行じるもの、は
自ずから然り、で
みずから「それ」の実践を
刻一刻すすめているものでなければならぬ。

これ、あたりまえ!

 

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>「万法とともたらざる人」は森のなかに、町の中に、いたるところに出会う世間並みの人間であるように思われる。ただ彼は自分というものを知らず、自分の威厳を意識せぬ。

禅の使命はこういう人間にその事実を自覚させるにある。

ーー

(もう一度)

「万法とともたらざる、、」のにどう気づくか?
どう気づきのコツを体得するか。。。

熱意を常に持ち続けるというのがひとつある。
まあ、自分(こっちの論理)が消えないとできない、といった認識もそこにあっていいのだろう。

つまり、どこまで謙虚、素直か、だね。

で、このどこまで、、、というのは底のない「どこ」なのだな!

これをきづかせるには、あるいは自ら気づくには、
100回棒で殴られてもわからないということは充分あるだろうね!

 

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>自分(こっちの論理)が消えないとできない、

ができなかったらどうする?

それはこっちの論理を進めているから。

消してどうなるかわからなかったらどうする?

それはこっちの論理を進めていたらわからない。

昔読んだ大拙の本にこうあった、「チョコレートの味をしらないものにその体験を説明することはできない」

そりゃあ、パラドックスだ!

そう。

だから西田は絶対矛盾の自己同一という。自覚というも同じ。

禅はもともと、ここでいう頭のグルグルを抜け出ることを「言う」のだ。(時として喝、棒、たたく、など)

そんな馬鹿な!

しかり!

だけど、馬鹿が馬鹿とわかったら、これはたいしたものだ。

自ずから覚する、、、

そういう可能性をみんな持っている、これを仏性というのだろうね。

わかったか?

はい。

馬鹿!

 

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事実この世界に入ることはこの現実世界に戻ることなのだ。それ以前には、人は真実この世界にいたのではなかった。まるで夢でも見るように現世の事物を見ていたのだ。。。

目前に広がる事物を強くつかんでいたつもりだろうが、この把握したのは影であり、実際ではなかった。禅を体験する時は、新しい世界が諸君の前に開かれるが、それは、畢竟、諸君が時々刻々に動いていた、古い世界にほかならぬ。ここに見る花は以前の花と同じであり、明らかに事物の客観性という事に関する限りは、なんら変化せぬ。ただし主観的には(主観的という言葉は主客のない世界にはいっているものは全然妥当せぬのであるが)諸君はまったく異なった認識者であり、行為者なのである。これを奇跡と呼ぶなら、確かにこれは奇跡なのである。

P。287

ーー

やはり、解説すると、そうなるのだろうな。。。

あるいは、チョコレートを食べているのに、、、
チョコレートを食べている事が分からない、
といったかんじでもあるな。

そしてそれが自ずからわかるのが、自覚であり、、、
即、当たり前の奇跡、というわけだ。

(ところで、ここでふと思い浮かんだ言葉、「因果なものだ」、、
というその言葉、当たっているね。
いつまでも因果に引っかかっていたら、
チョコレートを頭で食べるということにもなるわいな!

ポカポカポカ!
ああ、ありがとうございます!)

 

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おわりに

 

言葉の意味合い(つまり、体験に裏づけられた「それ」)がはっきりしないで話をすると、頭の上に頭をのせるようなもので、意味がない、と言うことになりがちだ。

 

ここに何ページも費やして、読んだり書いたりして、今それを振り返ってみると、はたから見れば私がかってに「頭」のなかでマスターべションをしているともみえるのかもしれない。はたから見れば、目障りだから、やめてほしい、という風にも映るということもあろう。

 

そういうことが原因かどうかはわからないが、2007年の年の終わり(大拙全集11巻、p。287をすんだところまで)、従前のIDではヤフーの掲示版に投稿できないようになってしまった。こういうことは以前になかったが、まあこれを機会に4年以上も続けた投稿をやめたほうがよいという事かもしれない。

 

というところで今、二つほど思うことがある。

 

1)人に会うとか、本に会う、というのは縁だ!生きるも死ぬも縁だ。一歩先はわからないが、無常を無常としり、とらわれずに、法にそった道を歩み続けたいと思う。

 

不思議な縁でここに書いたものを読んでいただいたかた、生きるという、まことに不思議な出来事の意味合いを、しかるべく、くんでいただければ幸いとするものです。

 

2)大拙のトピのほか4つのトピで4年以上にわたって、並列に、というかいろいろな角度から調べ・確認をこれまで進めてきたが、このやり方は私にとって大変役に立つものであったと思う。大拙の佛教に付いての「理解」を私もしたいというのが背景にあったのかもしれないが、いろいろな角度から「それ」を研究し、その結果、なにか「まぎれもないもの」をどう考えてもそうとしかいえない、そういうぎりぎりの所に「いたった」と感じるのだ。(そう、物騒ではあるが、、、)

 

これから、どうするか今はわからないが、いまここで感じる、この包括的というか根源的というか、、、そういった「理解」とでもいうようなものを、大事にしたいと思う。まあ、いかだはほっぽり投げるというのが、本来の「あり方」ということもあるので、今後、それなりに上手い対処・工夫をしたいと思っています。

 

では最後に一言:「理由なしにありがとうございます。」

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

 

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(これはことによるとつかえません。そのときはこちらです)

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