禅と日本文化2

 

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(これはことによるとつかえません。そのときはこちらです)

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はじめに. 1

無心―無意識の意識. 2

不動智. 5

こころの置き場. 10

妄心. 13

溶けた心. 15

水中の月. 17

とらわれ. 19

無念、無想、無我. 21

禅と茶道. 22

和敬清寂. 23

芭蕉. 26

(編集者の注). 28

不動智. 29

無心. 31

止まる心. 33

思索. 35

天の道. 37

第二義. 38

最後の言葉. 40

わび・さびの世界. 42

 

はじめに

 

もし禅が、此処(大拙全集11巻)で大拙が言うように、色々な形で日本文化に浸透しているなら、リバース・エンジニアリングというか、その文化の元を逆にたどり、また、そこにある回互関係をみることによって、あらわれでたものの意味合いがさらに深まるということがあると思う。

 

ひとつには、ここの文化に表れでたものの総合的理解というのがありうると思うが、それができるためには、そのような色々な現成されたものの中にひらめく「ぎろり」としたものを、探し当てる、あるいは確認するということが大事であろう。

 

これは、いってみれば原点回帰と言うようなものであるが、それの「確認」は、さらに生き生きの原点からの展開、あるいはそこにおける名人の働き様とそれにまつわる文化といったものが、いかに生まれ出たのかという事の「理解」につながり、はては我々の生き様に付いての反省をもたらすこともあると思うのである。

 

(ここに書いたものはヤフーの掲示版、鈴木大拙に2007年4月5日から9月5日までに載せたものです。副題は便宜上つけたものです。)

 

2007年10月10日 洲崎清

 

無心―無意識の意識

 

単に芸術を技術的に知るだけでは、真にそれを熟達するには不十分である。その精神に深く入らねばならぬ。

此精神は、彼の心が生命それ自体の原則と完全に共鳴した時のみ、即ち「無心」として知られる「神秘的」な心理状態に達する時にのみ把握される。

心理的に言えば、この心の状態は絶対受動のそれで、心が惜しみなく他の力に身をゆだねるのである。

この点で、人は意識に関する限り、いわば自動人形に成るのである。ただしそれは木石などの非有機的な物質の無感覚製および頼りない受動性と混同してはならぬ。無意識に意識する事、この眼もくらむばかりの逆説以外にこの心的状態を叙述する道はない。

p。59

注)彼は無意識に意識しているのであり、意識して無意識なのである。

ーー

心がとどまらない。我がでない。二元にとらわれない。とらわれない。自在。法の働きにまかす。大人でいて赤子。

大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の世界。

 

==

 

佛教の示す所によると、精神発展の段階が52あり、そのひとつを「止まる」といい、それにいたると人は一点に定着して、自由に動く事ができなくなる。

剣道にもこれに当たる者がある。この段階を沢庵は無明住地煩悩といっている。

p。59

ーー

これは大拙の注が(p152に)あり、注意して読むべきところだろうが、まず私なりの直観でコメントしたい。

これを読んですぐに思うのは「引っかかる」、ということ。「全体を」見ないから部分が強調され、生き生きの智慧が出ない。いわば絶体絶命の境地だ。

だから定慧の修業が大事であり、ことに望んで、おたおたしないで肝の据わった(対処しない)対処ができるように、というわけだ。

鏡の心だって、応無所住而生其心だって、同じ所をみている。

ただし止観でいう止の意は、ひっかかっているところをまず止まって(心をいじらずに静かに)観よ、といった意味合い(鏡の心)と知るべきだろう。意識が一点にひっかかって止まるのでなく意識を中心に(つまり意識に全権を与えて)働かせない、という意味にとるべきだろう。

 

==

 

剣師の無意識と精神分析学者の言う無意識とを混同してはならぬ。つまり剣師の無意識とは自我の思いから完全に自由に成る事を言う。全き剣師は敵という人物の存在も、また自分自身の存在も意識しない。彼は、自分自身がその只中に身をおいている生死をかけた運命のドラマの、無関心な傍観者なのである。

当然全注意力が集中されているにもかかわらず、彼は自分自身をこえ、事態の二元的な理解を超越している。しかもなお、彼は瞑想的神秘家にはあらずして、決死の戦闘のまっただなかにある。。。。

剣術のように対立の原理がいとも明白な芸道においてさえ、それを一番強く感ずべきものこそ、そのおもいから自由にならねばならぬと教えられる。

p。152

ーー

お茶を飲むのと同じように、
鳥の声を聴くのと同じように、
そのつどなすべき事を只なすように、
剣をさばけるか?

一回死んだものなら、それはできる、といえるかな?
それともやはり、何度も何度も(自我が)死ぬのかな?
そのつどそのつど。

発心発心又発心。
武士道は死ぬ事とみつけたり!

そこで、なんでも、道は(名人に成ることは)死ぬ事と見つけたり、だね。

精進、精進!

 

==

 

卒度も心をとめれば、手前の働きは抜けて、人に切られる。
敵にわが身を置けば、敵に心をとられる。わが身にも心をおくべからず。

拍子合いに心をおけば、拍子合いに心をとられる。
わが太刀に心をおけば、わが太刀に心をとられる。

仏法にはこの止まる心を迷いと言う。ゆえに無明住地煩悩と申す。

p。60

ーー

全機現。自己組織性が発揮されるかどうか。
歩くのを「習った」様に、生きる、あるいは物事を為す、というとき、修、証ができるか?

鳥が鳴くように、考えているか、生きているか?

喝!

 

==

 

不動智

 

不動ともうしても、石か木のように、無性なる義理にてはなく、むこうえも、左へも右へも、十方八方へ心は動きたきように動きながら、ちょっとも留まらぬ心を不動智ともうす。

p。60

ーー

応無所住而生其心みたいなものだね。あるいは定慧の感じみたいだ。全機現であり、透脱、自我なしでもあるのだろう。宇宙の意によって、(自ずから欲する、、、、)それゆえに法にそっているのだろう。

大雑把に言うと、肩から力が抜け、くつろいでいながら隙・無駄がないのだろう。なんでも名人の挙動と言うものにはこの辺の感じがよく出ているようだ。

 

==

 

物一目見て、その心を止めぬを不動ともうす。なぜならば、ものに心が止まると、いろいろの分別が出て、胸のうちにいろいろに動く。とまればとまる心は動いても動かぬ。。。

10人をあいてにして一人の太刀を受け流しても二人目の時は働きが上手くいかない。。。

千手観音とて、、、弓をとるてに心が止まらば、9百9十9の手は用に立たない。。。

一本の木の葉一枚を見ておれば残りの葉は見えない。

p。61

ーー

だから、心を止めない。引っかからない。
という事は柔軟心。こころの働きの根底の所を「つかまずに」「つかむ」という事だろう。
(というのもつかもうとすれば、逃げるからね)

そう、対機説法と言うのもここから出てくるのだね。
鏡の心とか、成所作智、全機現、透脱、柔軟心、応無所住而生其心など、みんなこいつにからんでいるようだ。

日常の行為一つ一つにこの心構えで当たるという事。目先の、すべき事に「集中」すること、茶碗を洗う時はただ洗う、サーフィンするときはただする、そのものになって、とまる心、余計な心に関わらない、ということだね。

という事は、習ったら、忘れるということだろう。

お金をもうけたって、なくしたって、天気がよくても悪くても、要は全機で「生き生き」がポイントだろう。

(ふと窓の外を見れば、青空。木々が太陽に照らされて輝いているわい。。。

むむっ。。。

 

==

 

習ったら忘れる、
大人(名人)になったら、子供に戻る、
荘子の渾沌の話し、ムカデの話し、
深入浅出とかいったかな、
みな同じような所をついているね。

 

――

そこで大拙は言う「仏教徒の修業も同じ事である。その最高の段階に到達すれば、仏陀のことも法の事も、何も知らぬ無邪気な子供と同じようになれよう。自己欺瞞からも偽善からも、自由に成る。しかるときは不動智は結局無知であり、両者はニならず一であるということができる。」

p。62

たんたんたんたん。
こつこつこつこつ。
黙々黙々。
なすことをなす。

ああ、みんな、(もともと)なすことをなしているんだね。

 

==

 

無智の人は、智力をまだ眼ざまさぬから素朴のままにある。
賢い人は、智力の限りを尽くしているから、もはやそれに頼らない。

p。63

ーー

ああ、ありがたい言葉だね。

両者同じところ(こいつを自ずから然り・素朴とでも言っておこうか)が基盤にあるというようなものだな。

だから「両者はむつまじい隣同士である」のだね。

(無意識の意識が基盤にあるといってもいいだろう。それが法にそう、ということになるだろう。)

 

==

 

2種の修業がある。一は究境理性に関し、一は技術(テクニック)に関するものである。

前者、、、にはただ自ら進んでいく「唯一心」があるだけである。ただし技術的な細かい所の熟達も必要である。その知識がすこしもないと目前の仕事に関していかに歩を進むべきかを見ることができない。このニ形式の鍛錬、それは車の両輪のようなものである。

(沢庵はこの二つを理の修業、事の修業としている)

p。63

ーー

こころのおき方、とからだの鍛え方、あるいは定慧の境地、と戒との関係というようなものであろう。これは八正道にも現れているね。

車輪の回転がしかるべく宇宙の意に沿った「進歩」につながるという意味合いも見えるようだ。

 

==

 

>2種の修業がある。一は究境理性に関し、一は技術(テクニック)に関するものである。

ああ、これ面白いな。
娑婆と極楽の関係。娑婆でのはたらきをどうするか、(成所作智)にもつながるようだ。又これは意識と無意識の関係でもあるから、釈迦の対機説法にもつながる。

もともと、自問自答も、(正しく)人と話しをするというのも、こいつがしっかりしてないと、空振りに成る、迷いに迷う、と言うことに成るのだね。(別の言い方をすると成所作智の裏返ったものは煩悩というわけだ。例によっていったりきたりだ。)

そこで、「技術(テクニック)に関するもの」を戒とみていいだろう。(無論柔軟心(応無所住而生其心)が基本だから、状況によって戒あるいは「技術」の現れ方は異なるということがあってもいいのだろうけれど。

そこでこいつを別の言い方で言うと、コモンセンスーあたりまえ・法ーを使えということになるのだろう。すると、「あーそうか」と、誰もが納得する智慧に結びつくのだろう。

 

==

 

佛教も儒教も「心」の何たるかを明らかにするが、「心」が日常生活に輝くようにされなければ、その真理を本当に洞徹しているとはいえない。主要な点は、たえず事物において考えて、これを自分のうちに実現せんとするにある。

p。65

ーー

まさにこれが修業(修証)の意なり。

何処でも、いつでも、

何でも、いかにでも、

ね!

基本を身にしみこませる(もともとある)というのと、それの応用問題への適用(実践、これしかない)のいったりきたりと言うようなものだね。

 

==

 

究極において唯一心、仏陀の智慧、不動智は同一物の名称である。この「心」を説明するために、言葉は不十分である。説明すれば、心は分割されてそこに我と非我が生じ、(この二元性のゆえに)我々は善悪の一切の行為を遂げる事になり、業にもてあそばれるよりほかない。「業」も「心」から発する。ゆえにもっとも肝要なことは「心」そのものを洞察する事である。

この洞察力を持つものは少なく、我々の多くはまったくその働きに関して無知である。

p。65

ーー

(コメントなし)

(いかに洞察すべきかとくなら、その疑問のでてきた所をも徹底的に洞察しろというしかないかと思う。)

 

==

 

鏡の心に関して、さきほど瞑想のトピに載せたものをここにも貼り付けておきます:

神秀の「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と、慧能の「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」の偈に付いては前にも言及したが、ここで鏡の心に絡んで、もう一度おさらいをしておく:

神秀は往相、慧能は環相という感じがある。あるいは十牛の図なら1−7図と9−10図のちがいかな。もっとも慧能のいうのは1−10図すべてが「丸」(円相とでもいうのかな)でくくられているので、もともと「見失ってはいないのに、どうして探し求める必要があろう」、「勤める」という事自体おかしいといっているようだ。

ということで、これ(神秀慧能の流れ)もまた般若即非をそのままあらわしているという感じ。定慧というも同じだろう。

迷いが智慧でひっくり返る。無明が光に照らされて、闇が消える。己自身を知るというのは、ここのところをとことん知り、日常の思考・行為にあらわしめるということ。

それが「わかる」と、己は他人の己でもあるのだから、深い人間性にもとづいた知情意が、つまり大智・大悲が現れるということだろう。

そこで問題は、実践をともなわない頭での理解はなんら意味がないと言うこと。わかったというのはわかってないということ。言葉に引っかかるな、ということだ。中山さんもいっていたが、意識と無意識の弁証法と言うような、無意識の意識の働き、こいつがどうかというわけだ!

喝!



「業にもてあそばれるよりほかない。「業」も「心」から発する。ゆえにもっとも肝要なことは「心」そのものを洞察する事である。」

ということで、この洞察の仕方というやつだが、「それ」をあえて「説明」(月をさす指)すると、自灯明、法灯明(自=法、あるいは自ずから、自=他)であり、灯明は定慧であり、般若即非であり、又鏡のこころ(大円境智)、あるいは喝、只管打坐、ヴィパッサナ、なむあみだぶつ、無意識の意識でもあろう。

 

==

 

こころの置き場

 

心を何処におこうぞ。敵の身の働きに心をおけば、敵の身の働きに心をとらるるなり。敵の太刀に心をおけば、敵の太刀に心をとらるるなり。。。。とかくこころの置き場はないという。

臍の下に押し込んで余所へやるなじきとすれば、やるまじと思う心に心をとられて身の用かけるなり。どこなりとも一所に心を置けば、余のほうの用はみな欠けるなり。

p。66

ーー

これ公案を解くときの心の置き場とおなじだね。

(常にこうするべきということではあるが。。。)

人間、意識ができて、それに使われる。

そうじゃあなくて、意識をつかえるかどうかだ。

いったいに、己の主人公かどうかだ。

(そのときの心の置き場がどうなっているか。。。)

では、随所に主なりというその主人公は誰か?

(主人公が我に対して出てきたら、又それにとらわれるね)

空といえば空にとらわれる。

悟りといえば悟りにとらわれる。

今此処といえば今此処にとらわれる。

坐禅といえばその形にとらわれる。

 

主人公といえばそれにとらわれる。

喝!

 

==

 

しからば即ち心を何処におくべきぞ。我答えていわく、何処にもおかねば、わが身いっぱいにいきわたりて、全体にのび、広がりてある程に、手のはいる時は手の用をかなえ、足のはいる時は足の用をかなえ、眼のはいる時は眼の用をかなえ、そのはいる所にいきわたりてあるほどに、そのはいる所どころの用をかなうるなり。

p。66

ーー

これはヴィパッサナなら全身にいきわたる、フリーフローに相当するようだ。隔たり、引っかかりがないのだ。道元なら透脱だろう。

そしてそこが基盤のない基盤なら(定)後は知るべしである。

ただし、これは「名人」の挙動をそのままにいっているわけだから、そこに行き着く修業(刻一刻が修業であるー武士ならいつ刀が飛んでくるわからない。あるいは一般の人なら、迷いの種は何処にもある。)の心構えとして納得する(肝に銘じる)べきだろう。

 

心を、、、何処にもおかねば、わが身いっぱいにいきわたりて、全体にのび、広がりてある」→ああ、うまくいうね!!

 

何処にもおかねば、」→止まらない。

わが身いっぱいにいきわたりて、全体にのび、広がりてある」→溶けた心(沢庵)

 

==

 

十の地点のすべてにおいて、心を働かすためには、どの地点にも心をとどめるな。いかなる一定の地点にでもひとたび踏みとどまると、結局他の地点を等閑にする。

p。67

ーー

これは定慧(無意識の意識)のポイントをみているようだ。

あるいは常に鏡の心を持っていろ(透脱していろ)ということのようだ。

 

鏡のようにすべてを照らせ、というようなものだな。

心が止まっても、止まらないように、ということで、卑近な言葉を使えば多面的に見(て判断し)ろということになる。(正見、正思)

引っかかると、おっとっとで、危うい。

だから、上記にしめす心構えでことにあたれ、と言うことにしておこう。

(ところで、なんでもするのはいいが、何もしないというのも本当に必要な事をするという意味で、大事なのだろう)

 

もうひとつ、「意識に全権を渡すな」、といっておこう。

 

==

 

本心ともうすは一所にとどまらず、全身全体にのび広がりたる心にて候。

p。67

ーー

この沢庵の言葉、ヴィパッサナでいう所と同じ、というのが誠に面白い。ヴィパッサナでは言葉は違うが「のび広がる」訓練・坐禅をする。そして全体に「のび広がる」と、ヴィパッサナの言葉では「フリーフロー」だ。すると、無意識の意識がなにもしないで「わかる」。外と内が一目で見える。(エッカート)畢竟、智慧が働くという事に成る。(ひっくり返りが起こる場が形成される)

沢庵の場合その「智慧」が剣の動作として現れるという具合であるが、これが法に沿ったものかどうか微妙であろう。

禅には泥棒の親父が子供を訓練する公案があるが、これもあやういところがあるのではないか

大用現前規則を存せず、というのがあるが、一方、己の欲する所に従って矩を超えず、とあわせてみるのが中道いうふうにみたいのだ。

社会的にどうかというののほか、そこに子を思う母親の心を合わせ見たいのである。

 

==

 

妄心

 

妄心は何ぞ思いつめて、一所に固まり候。

p。67

ーー

仮に思いつめても、いわば桶の底が抜けるように、それが固まる前に、「抜く」のだ。これ、無意識の意識。

意識、言葉が働くというのは、ある意味で、一面の見方をエスタブリシュ・構築するという事。そこで、そのことの、いってみれば、「裏側」の意味を、あたかも鏡に照らすように見たいのである。

つまり、言葉・論理・概念だけに注意が払われては、全体のバランス(中道)を欠く、と言うことである。

目の前のこと(頭・外)に注意を集中するのはいいが、周り(体・内)にも気をくばるのだ。

そのためには集中に伴う「しこり」・「歪」を感じるようになってないといけない。道元の柔軟心の、あるいは透脱の意見合いを知れと言うことだろう。

 

==

 

本心がうせると所々の用が欠けるので、失わぬようにするのが専一なり。

たとえば本心は水のごとく一所にとどまらず、妄心は氷のごとくにて、氷にては手も頭も洗はれない。氷を解かして水となし、何処へも流れるようにして、手足をも洗うべし。

p。67

ーー

この辺、道元の柔軟心、透脱(鏡の心)に同じ、また、ヴィパッサナのねらいと同じ。とくに、「何処へも流れるようにして」というところの訓練は、いわば癖に逆らう所なので、発心、発心、又発心ですすめるということだろう。(いつまでも、いつまでもね)

引っかかりを一つ一つ丁寧にっていくというようなものだ。

(ところが、それをやらないで、同じところに引っかかっていると、そのひっかかりのニューロンが強化されて癖が抜けきらないという事に成る。だから、いろいろな方向からマッサージをしないといかんということだね。反応し始めた時それに気づいて、じっと何もしない(定)、というのがいいのだけど、まあ覚悟を決めて、戦うのだね!)

 

(そういう意味では禅のやり方として、公案とか只管打坐とかあるが、真宗の聞法あるいは念仏もふくめ、やはり色々な方向から、しこりのできないような工夫をするということがあっていいと思う。)

 

==

 

溶けた心

 

心一所に固まり一事にとどまれば、氷かたまりて自由に使われもうさず、氷にて手足の洗われぬごとくに候。

p。67

ーー

沢庵は心を「溶かす」事の大事な事を何度も言っている。
これは釈迦がものの真理はいろいろな角度から見ることによって明らかに成る、といっていた(と記憶する)のとつながっているようだ。

そういえば何か危険な場面にあって、あるいは絶体絶命に追い詰められて、頭が凝り固まって何もできなくなる、というのは確かに心が氷になったという例の最たる物のようだ。一方、例えば鹿とか兎がハイウエイで車のヘッドライトに眼がくらんで、車にぶつかるというのもあるから、この氷の心は、ある種の業の表れということで、根っこから抜くというのは容易でないかもしれない。

それでも、苦集滅道の道はそこをみている。そこで、いわゆる「定」が溶けた心に相当するいうわけだろう。禅で公案や坐禅などで絶対絶命を切り抜けるという所を見て修業するのは、まさにそういった智慧の発動の原理を知り、臨機応変に対処できる智慧を身につけるのを狙っているという事だ。

 

==

 

ヴィパッサナは、いろいろな角度から知覚を鋭敏にするという事を主眼に修業する、といっていいだろう。言ってみれば心身のマッサージをするようなものである。

これが溶けた心、というのにつながるようだ。溶けた心は自在な心。いろいろな角度からものが見え、従って智慧が自在に働くという事につながる(と見る)。逆に言うと、凝り固まった心は、自在でない。業のネットワークで絡まって、ニューロンのパスがゆとりがない。

だからこそ、刻々変わる状況に上手く対処するには、心身のマッサージが必要と言うわけだ。いろいろ見方ができる、そしていろいろな智慧が働く、というのは、上手く生きるうえでの根本ではないだろうか?

剣道だと、(経営道でもいいが)それが技術・腕として、現れるわけだろう。自在であれという事、難しいは難しいとして、しこりをつくらぬように、あるいは無駄なしこりを取るように、上手く心身を「鍛えたい」ものである。

それがうまくできると、例の鏡の心(四智など)、透脱などとつながるのであろう。→すると、次のしこりのできる前に気づくという好循環になるのだろう。(→業の根っこが次から次に抜けていく、智慧が次から次に働く、ということもありうるのだと思う)

 

==

 

心がその思うところにありて、一方へ偏り、一方へ偏れば、ものを聞けども聞こえず、見れども見えざるなり。

p6

ーー

これ盤珪の不生、仏心とおなじところをみているね。
意識がこると、無意識への連絡がなくなり。あるいはおろそかになり、そこからの働きが疎んじられて、(今此処の)バランスを欠いたものに成る、と言うような意味合いだろう。

どうも天才と言うのはそこの働きがスムースに行っている人のようだ。(中山さんのHBCをおもいだすな)

全機現でなきゃせっかくの働きがもったいない、と言うようなものかもしれないね。

 

==

 

見るとも聴くとも、一所に心を留めぬを至極とすることにて候。

ーp。69

ーー

この前に沢庵は応無所住而生其心について言及している。

まあ無心でことをなせ、と言うことにしておこう。

 

==

 

心を捨てきらずして、する所作は皆悪しき候。

p。70

ーー

例の四智のうちの成所作智を見ているのだね。定慧のバリエーションだ。

 

==

 

水中の月

 

これは剣道の奥義として腕の鍛錬のみでは不十分とされている:

水のあるところ、いかなる所にも、月が無心の状態でうつる。その映り方を会得することである。

そこには人の手による工夫の跡はひとつもない。あらゆるものが大自然にまかされる。

p。71

ーー

名人の名人たるゆえんはここにあるね。
無意識の意識だ。なすべきことが沸いてくるのだ。
道元のいう、ほとけの家に投げかけて、、、である。

これは又、戒定慧だ。

 

==

 

そう、道元もこいつを見ていたのだね。
「身心を挙して色を見取し身心を挙して声を聴取するにしたしく会取しれどもかがみにかげをやどすがごとくにあらず水と月とのごとくにあらず一方を証するときは 一方はくらし.

それを又中山さんがみていた。そして丁寧に説明した。「無意識が働いていてしかも、、、意識しなくてはなりません。修業中はなかなかそうはいかないので、どちらかがおろそかになってしまうのです。」

それを又私が鏡の心などと、つべこべ言った。

でも、「元」は何を言おうが、「元」。

なんのかの言うのは、そう、月を指す指だね。

言葉に引っかかると、見えるものもみえなくなる。

でもまあ、確認の意味で、そういう言葉があると便利(ありがたい)、ということにしておこう。

 

==

 

禅宗と同様に、芸術のすべての部門において、この危機の通過という事は、あらゆる創造的作品の根源に到達するために、きわめて肝要だと考えられている。

(注:危機の通過は、いわば不動智に案内をまかすということに通じる)

p。75

ーー

その体験をしたものは、絶対の「ありがたい」、と言う感じを得るのではないだろうか。

自分がどうしてどうなった、というものをとおりこえているのだからね。

 

==

 

剣士のこころは、常に利己的な感情と知的な策略をまったく去って、「本来の直覚」がいつでもまったく至上に働きうる。即ち、無心の状態にあらねばならぬ。

p。76

ーー

斬られるか?
と心が止まらないで、体が動く。

大悲は何処に行ったのか?と言う考えは何処にも見られない。(だからどうのこうのという意見はあるにしても。。。)

それは、おそらく、こういうことではないかな?

向こうからトラが走ってくる。

とっさによける、逃げる、隠れる。

いのちは大事だからね。(そういう前に既にそうなっている)

岩が落ちてくる。

ぱっと逃げる。



そこで、本来の直覚、とは何か?

あえて言うなら宇宙の働きの自ずから然りのあらわれ。

全機現をみているのだね。

どうのこうの言う前にすでにそうなっているんだ。

 

==

 

とらわれ

 

生死の闘争に従う場合、死の考えにとらえられていては、最後の結果に対する大きな障害物になる。

p。77

ーー

生死の闘争に従わざるを得ない場合、というように言い換えたほうがいいのかな?それとも絶対絶命の時、あるいはすべきことをするとき、ということか。

禅が生死の闘争(剣道)とからみ合うという点に付いての問題はどう見たらいいのか?

まあ、トラが追っかけてきたというのとおなじで、それはそのときの事としておくか。

対人関係でも同じだが、生死の闘争に望むのと同じで、無心、不動智、鏡の心が元になってしかるべきなのだろう。

生、全機現、創造性云々は戦い(に関わる智慧の働き)と見ることができるからね。

それと、サーフィンやるのか、武士と成るのか、ある意味で(人間として個人として)業の問題である。むずかしいね。ここにもCatch_22(循環論理)パラドックスが見えるな。

ほっとこ!なるように、なりますように!
宇宙の意が正しく働きますように!

 

==

 

ほっとこ!なるように、なりますように!
宇宙の意が正しく働きますように!

成るようになっている。
そして、また、なるように、なりますように!だ。

迷いに悟る、悟りに迷うだ。

ご苦労さん!

はい、どういたしまして。

いえいえ、いつでもどうぞ。

あ。そうか。

そうだね。

そうだ、そうだ。

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

==

 

無念、無想、無我

 

剣道においてその技術以外に最も大事なことは、その技を自由に駆使する精神要素である。それは無念または無想という心境である。これは太刀をとって相手の前に立ったときに、思想、観念、感情を持たないという意味ではない。

すべての思想、反省あるいは愛着に縛られぬ自由な意識において生来の能力を働かせる意味である。この心境を又無我といい、利己的思想を抱かず、自分の所得を意識せぬ状態である。

(高野弘正氏の「剣道および剣道史」より)

p。80

ーー

サーフィン道でも何でも、名人といわれる人はこの境地を知っていると思う。松下幸之助さんだって同じ。経営道の名人であろう。

俗に言う修羅場を通るというのも、程度の差はあれ、その辺の研鑽の意味合いがあるのだろう。

通り抜けて、楽になって、自在に心体が動くということ。「生来の能力を働かせる」は法に従うとおなじだろう。

又ここで、名人の心は名人でないとわからない、というのもあるのだろう。

 

==

 

絶体絶命を抜けるというのは禅につながるということだろう。
すべての道の名人は、ここにおいて共通の場を見出すというというように思う。

 

==

 

禅と茶道

 

禅と茶道に共通な所は、いつも物事を単純化せんとする所にある。

茶は原始的単純性の洗練美化である。。。
禅の狙う所も、人類が己を勿体づけるために工夫したと思われるような、一切の人為的な覆いものをはぎ採るにある。。。
禅がまず知性とたたかうのは、知性というものが実用にはやくにたつであろうが、我々が自己の存在を深く掘り下げようとするのを妨げるからである。

p。97

ーー

単純化したところにおける働き。
「それ」とのふれあい。回互性。
不思議、妙、ひらめき、自在性、などなど。

言葉に尽くせない「それ」に「最も深いレベル」で「かかわる」ということ。

それは(われわれの)生まれる前のふるさとに「かかわる」ということ。

それはまた、言葉にならない感謝、祈りの世界だ!

Be Aware of what is going on! 目覚めよ!

 

==

 

禅さらに言って宗教は、人が持っていると考える一切物を、生命をさえ、かき捨てて、最後の存在状態・「本住地」、または「父母未生本来の面目」にかえることである。これはわれわれの誰しもがなしえることである。

p。97

ーー

シンプリシティー、簡素化のきわみ、存在のきわみ、知の元の元。
あるいは無明の元の元でもいいだろう。

これの直接体験、そのもの、
言ってみれば宇宙・存在のおおもとにある働きそのものの体験。

これが安心、くつろぎ、救い、あるいは、いかにも使い古された言葉だが根源の「愛」・「慈悲」といっておこう。

ことばはどうあれ、
われわれの人生が「それ」「そこ」にどうかかわりあっているか、

これはやはり、ないがしろにすべき問題ではあるまい。

どうかな?

 

==

 

これを最後の単純化と称していいのは、物事をこれ以上単純な状態にもどすことができないからである。

P。98

ーー

茶道にかぎらず、一つ一つの動作、心の動きの単純化、
そして、そこにある根本の働きに常に目覚めているということ。

これができたら、(しようと言う余計な思いをこばまずに)
これは、面白いね。

いや、面白いと、うれしいと、ありがたいが一緒になって、
そのまま、おもしろうれしありがたいだ。

 

==

 

和敬清寂

 

茶の湯の精神は、、、和敬清寂から成る。

和:我がなければ心は柔であり、外面の力に反抗を示さぬ。
敬:敬とは宗教的感情ー死を免れることなき哀れな我々以上の存在に対する感情ーである。人間の奥底の誠実、、こころの誠実さである。
清:茶の湯の本意は六根を清くするためなり。五根清浄成るとき、意自ずから清浄なり。
寂:寂はさびである。その指し示す所は貧しさ、単純化、孤絶に近い。貧しさを味わうために、あるいは与えられしものをそのままに受け入れるためには、静かなこころがいる。

もだえる心には真に生を楽しむ余裕はなく、ただ刺激のために刺激をおって、内心の苦悶を一時的に窒息させておこうとするに過ぎない。。。

茶は人間の生存が許しえる所まで自然に帰って、自然と一緒になりたいというわれわれの心奥に感じる憧憬の美的表現であることをしめす。

p。99−109

ーー

ああ、これは茶の湯にかぎらないね。

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

==

 

侘の一字は茶道において重んじ用いて自戒なり。。。

それ侘とは物不足して、一切我意に任せずさたする意なり。

不自由成るも不自由なりと思う念を生ぜず、不足も不足の念を起こさず、不調も不調の念を抱かぬを侘なりと心得べきなり。

ー宗旦

p。109

ーー

念をおこさず、、、というのが微妙なところだ。
あるいは、念が起きてもその念が大きく成る前に、ひっくり返るんだ。

というのも修業が進んでいるからあまり馬鹿なことはしなくなる。

きっとそんな時、その目には深い穏やかな、うむをいわせぬ「不思議」がやどっているのだろう。

 

==

 

禅を修めた茶人達は茶の湯の形でその了得したる所を実行する道を工夫したのである。

p。110

ーー

まあ一服のお茶でもどうぞ。

(いまここ最初で最後のお茶ですぞ)

はい。ありがとうございます。

 

==

 

聖書に「門をたたけ、されば開かれん」と言う言葉がある。。。ここに言うたたくは普通のたたくではない。その存在を組成する肉体的、知的、道徳的、精神的の一切を持って、自我を創造の門にたたきつけることである。人間の全存在が、まったく力尽きて身内の最後の一滴の力を使って、この創造の門に投げつけられる時、初めて、それは衝撃を生じて彼を不可思議の領域に突き進めるのである。。。それゆえに、禅と芸術がともにその生命力を仰ぐ源である「無意識」成るものは不可思議の領域以外の何物でもない。

注)別のところ(p。123)に「無意識は蓄積された知識の宝庫ではなくて、枯れることを知らぬ、生の源泉である。」と言う記述がある。

p。124

ーー

まあ、不思議?なことに、たたくのがすきなひとと、嫌いな人というのもある。(本来ー存在の根源ではみんなたたいているのに、、、)

難しい所だ。みんなが芸術家に成るというのではおかしいのかもしれない。

本田宗一郎氏の得手に帆を揚げて、と言う言葉が思い出される。

宇宙の意ー好きーとことん、こつこつー発見・智慧・妙ー名人・芸術家、、、というような図式であろうか。

 

==

 

芭蕉

 

やがて死ぬけしきはみえずせみの声

p。138

ーー

みーん、みーん。

みーん、みーん。

声いっぱいに

みーん、みーん。

宇宙を満たして

みーん、みーん。

体中が振動して

みーん、みーん。

回りも一緒に

みーん、みーん。

*俳句は元来直観を反映する表装以外に、思想の表現という事をせぬのである。(p。130)

 

==

 

芭蕉は偉大な漂泊詩人、、、であった。彼の生涯は日本中隅なくたびすることに過ごされた。当時鉄道がなかったことは幸いであった。現代の便利さは詩と一致しないように思われる。

科学の面倒な点は暗示の余裕を残さぬこと、一切が裸におかれ、そこに見るすべてがむき出しになっている事である。科学の支配する所から想像力は退却する。

p。140

ーー

人生、詩なり、といきたいな。

私のサーフィンも詩となるか?

どうかな?

 

==

 

旅行が容易で快適に過ぎれば、その精神的意味は失われる。これはセンチメンタリズムといわれるかも知れぬが、旅によって生ずるある孤絶感は人生の意味を反省させる。人生は畢竟、ひとつの未知から他の未知への旅であるからだ。我々に割り当てられた60,70、80年と言う期間は 、できれば神秘の帳を開くためのものである。この期間は短いが、これを余りにすべらかに走っていくことは「永遠的孤絶」の意味を我々から奪うことに成る。

p。140

ーー

やはり絶体絶命を身をもって体験していく、そしてその過程で貧しさ、苦労、そして不足感の中の充足というものにその何かを見るのであろう。

やはりたたかないといけないのだろうな。人がたたいてくれなければみずからたたかれるところに、身をもっていく。そして何にもないところ、大拙の言う「永遠的孤絶」を通り抜け、朝日を拝むのだろうな。光に照らされる木々、風に揺れる草と一緒に、色即是空、空即是色を体感するのだろうな。

そういえば私のニュージーランド行きも去年の息子との日本行きも、やはり「そこ」の感じが根っこにあるんだな。

いやまて、私自身、ここでこうして、仙人ー世捨て人ーみたいに、あまり人と交わらず毎日を生きているというのも、(無論、現代生活の便利はきりがないが)そこにひとつ通じるところがあるのかもしれない。

波に乗るんだって、旅の一こま、という感じもあるんだ。未知から未知への。。。ね。

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

==

 

我々は人工性を意味する文明において進歩しても、常に無技巧ということをつとめて求める。それが一切の技巧的努力の最後の目標であり、基礎であるようにおもわれるからだ。

p。143

ーー

どうしてもどうにもならないところのもの。
お任せのそれ。
絶体絶命の中のきらめき。
禅も芸術も、智も悲も、
無技巧の中にあった技巧。。。

ああ、それなのだね。

と何度でも、教えてくれる。
何度でも助けてくれる。

ありがとう、ありがとう。

 

==

 

(編集者の注)

 

p。148−169は編集者の注とあります。(1959年版刊行のときに大拙は1938年版を改定しておりそのときの内容がここの編集者の注である)本来なら私が本文とここの注を分けないで読めばよかったのが、そのときの成り行きで本文を読んだ後、注のみを読むことになった。

 

==

 

修業は一方にかたよってはならない。理と事とは車の両輪のようなものである。

p。153

ーー

達磨の理入、行入もこれにつながるのだろうな。

ひとつはいかにして無心にいたるかという精神的原理、、、
もうひとつは(剣術の)業の修業。

 

==

 

不動智

 

(剣道と禅の関係について、、、)

佛教の修業においても最高位にいたった人は、佛のことも教えのことも何も知らない阿呆のようになってしまう。学問も学術的取得も何もないように見える。第一段階の特徴である「住地煩悩」は仏道修業の最終段階たる「諸仏不動智」のなかに没入してしまうのである。すなわち知的計算は跡形もなくなり、無心・無念の状態がひろがる。

極意を会得する時は、体も手足も心に妨げられることなく、自ずからその為すべきを為す。(技術的修練がすっかり自立的のものとなるので、意識的な努力とはまったく無縁と成る。)

p。153(大拙全集11巻)

注)佛法には、此止る心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。(不動智神妙録)
ーー

そう、名人はそうなのだよね。

法にそっているのだ。

 

==

 

禅者はその教えの中で、正と偏ということをいう。心が身体にあまねく満るとき、それは正である。身体のどこか一部に限られる時には偏であり、一面的である。

正の心は身体全体に等しくいきわたり、毛頭区分的でない。他方、偏の心は分裂し、一面的である。禅は部分化や極限化を嫌う。

p。155

ーー

この辺もヴィパッサナとぴったりあっているのだ。言葉は違うが体験した所は同じところを示している。

ただし剣道ではその働きの方向がある形(きりあい)をとるので、それ以外の形(をとるとらないと言う点)に付いての大智大悲の働きがどんなものかところがあるように思う。

まあ、絶体絶命で戦わざるをえない場合、そういう形(きりあい)に成って現れるということなのだろうが。

もっとも、心が溶けてないのなら、それが形以前のポイントであり、心が溶けているのなら、形がどうなろうと、その現れ方は偏でなく、正であるという事なのだろう。

まあ対機説法があって、対機の心身の働きの法があって、状況に応じていろいろな姿、行動、言葉、考え、智慧、が表れる、ということなのだろう。

だからその根っこの所(原点)を常にしっかり押さえておく、と言うことに成るのだろう。

 

==

 

心を紐につながれた猫のように扱ってはならない。
あるがままの心であらしめ、その本性のままに行動せしめねばならぬ。
局限化、部分化をしないことが、精神修業の究極である。住するところなしとは一切處に局限する所にあるのではなくて、心におのが道をいかせるところにある。

p。155

ーー

>局限化、部分化をしないこと

は業の働きにでなく宇宙の意の働きにまかすということだろうから、

>一切處に局限する所にあるのではなくて

というも同じ、根っこの空からの自在の展開でなければならないのだろう。

>心におのが道をいかせるところにある。

も間違って取っちゃいけないね。任せてやって八正道に成るようでないと。
つまり、孔子の己が欲する所に任せて矩を超えず、だ。

 

==

 

動いてしかも動かず、緊張の中にあって、しかもくつろぎ、意識的に計算することもなく、期待も予想もない。つまり赤子のように無心でありながら、しかも円熟の極に達した心の持つ明徹この上ない知性の巧妙さを有する。

p。156

ーー

ああああああ

面白いね!

(なんとなく人を小ばかにするようでもあるが、
やはりそういうことなのだろうな。)

 

 

無心

 

妄心とは智的にまたは感情的に思い煩う心と定義できよう。つまり、とまり、思案することなしにはひとつの事柄から次へ動くことができず、こうして心の本来の流動性が妨げられる。

始めの動きがまだ後を引いているから、心は次の動きに映る目に凝固してしまう。。。剣士にとってはこれが隙である。

p。157

ーー

隙のない時は、
気が充満している。。。。

観音菩薩のようにあるいは千手菩薩のように、
そう、インスピーレーション・「慧」がぱっとでる「定」、、、

つまり、無意識の意識の状態だ。

油断するなよ!

カラスがカーカー。。。
時計がちくたく。。。

光が散乱、、、
呼吸が静か、、、

うーん。

 

==

 

無心とは文字の上では心なきことである。己を否定し、己自信から己を解き放つ心である。

固く凍結した心が、まったく無防備なくつろいだ状態にのび広がることである。

p。158

ーー


>固く凍結した心が、まったく無防備なくつろいだ状態にのび広がることである。


固く凍結した心が、ーーー>そのまま、鏡に照らされるようにーーー>
まったく無防備なくつろいだ状態にのび広がることである。

そこの呼吸。そこの状態、無意識の意識。
これを常に、、、、身につけて、

はたらかせる、、、のだ。

 

==

 

止まる心

 

東洋の思想ならびに文化は、無心または無念の精神状態に目覚めることを大いに強調する。

これに目を開かぬ限り、心は常に己のなすことを意識する。これが沢庵のいう「止まる心」である。

p。159

ーー

こころが止まると、いざと言う時、あるいは、とっさの時になすべき行動ができない。

止まる=引っかかるである。

そこでは生き生きが生き生きでなくなる。

だから、おっとっと。。。。

正しい道に(智慧を使って)もどるのだ。

(これがあるから妙があるし、ありがとう、がある。

まさに不思議・おもろい・ありがたい、ところである。)

 

==

 

回想や予想は意識の優れた特性であってこれが人間の心を他の外等動物の心から区別している。これは有用な特性であって、相応の役にも立つ。しかし行動が直接生死の問題に関わっているときには精神作用の流動性と電光石火の行動を妨げぬよう思索は放棄しなければならぬ。

人は無意識の手のゆだねられた繰り人形とならねばならぬ。

p。160

ーー

お任せ、だね。

人為がその限界を知って、無為におまかせだ。

その先は問わないのである。

それでも、そこで問うと言うのは、後戻りなのだ。

繰り人形、
繰ったとおもたら、
(こっちが)繰られてた。

 

==

 

>人は無意識の手のゆだねられた繰り人形とならねばならぬ。

無意識が意識に取って代わるのである。形而上学的にいえば、これが空の哲学である。

剣術のテクニックはこの心理にもとづいたものであり、そしてこの心理は、上記の形而上学の部分的応用である。

p。160

ーー

空の哲学とは「おまかせ」「ご苦労さん」のことのようだね。

 

==

 

思索

 

思索は多くの面で有用であるが、時としてはそれが働きを妨げる場合がある。そのときには思索をすてて無意識を活動させねばならぬ。

p。16

ーー

娑婆の世界に生きるというとき。。。
それの弊害。。。
つまり本来の面目が働かないという時がある。

意識が、あるいはこころがある観念で満たされて、、、
柔軟心をうしなったとき、、、
こころの引っ掛かりが、大局を見失うということがおうおうにしてある。

そういえばLimitation of Thoughts と言うクリシュナムルティの言葉があったな。。。

(調べたらなんと Awakening of intelligence など本をGoogleで読める!事が分かった。んともはや!便利になったものだ!!!

http://books.google.com/books?id=qwfvVpSsxRcC&dq=limitation+of+thought+krishnamurti&pg=RA1-PA459&ots=G7W-iWzP-L&sig=0Z3u4-m8Y0s016RwmFMITuiyABo&prev=http://www.google.com/search%3Fhl%3Den%26rls%3DGGLD%252CGGLD%253A2004-11%252CGGLD%253Aen%26q%3Dlimitation%2Bof%2Bthought%2Bkrishnamurti%26lr%3Dlang_en%257Clang_ja&sa=X&oi=print&ct=result&cd=1#PRA1-PA16,M1

ーーおっとっと。早とちりでした。よく見たら部分的に読めるということのようです。

それにしても懐かしいな。。。

例えば、、

Thought is mechanical, isn't it? -because it is repetitive, conforming, comparing. p.29

The observer only came into being when you wanted to change "what is." p.33

Can the mind observe "what is" without the observer? p.33

...therefore thought is always working in a prison. p.37

When I say "I don't know", which doesn't mean I am expecting to know, ....I climb down the ladder. I become, the mind becomes completely humble. (これは達磨の不識と同じ)

Now that state of "not knowing" is intelligence. Then it can operate in the field of the known and be free to work somewhere else if it wants to. p.37-8 (これは応無所住而生其心と同じだね)

(きりないから、もうこれぐらいにしておこう!)

 

==

 

このような場合には剣士はもはや意識を持った自己の主人ではなくなり、不知なるものの手中の道具と化する。

この不知なるものは自我意識を持たない。故に試合に勝とうというおもいもない。主体も客体もない、非二次元の域に動くからである。

だからこそ剣は動く所に動き、試合を勝利に導くのである。

p。164

ーー

この辺クリシュナムルティと同じ様な表現だな。

>だからこそ剣は動く所に動き、試合を勝利に導くのである。

は、自ずから然り、というに同じだ。要は煩悩の振れ・妨げがないから、成所作智が働くというようなものだ。

わたしのサーフィン、釣り、(さらに人生の道)も「これ」にのっとって進める、と言うこと。中道!!!

 

ただし上で言う勝利は、いわゆる勝利とはちがうだろうな。

 

==

 

天の道

 

油断をせぬとはこの上なく真剣なことを意味する。この上なく真剣とは、自己に誠実なことである。人がついに天の道を見出すのはこの誠実さによる。

天の道は自己をこえる。すなわち無心であり、無念である。無心に目覚めると、心を妨げ抑えるものはなくなり、生死、損得、勝敗の念を離れて自由になる。

人は敵を倒そうとという考えを抱いている限り、彼の心はその目的達成のためのあらゆる企みでいっぱいである。

P。165

ーー

>油断をせぬとはこの上なく真剣なことを意味する。この上なく真剣とは、自己に誠実なことである。人がついに天の道を見出すのはこの誠実さによる。

誠実さ=まこと。全機現(意識即無意識)

>天の道は自己をこえる。すなわち無心であり、無念である。無心に目覚めると、心を妨げ抑えるものはなくなり、生死、損得、勝敗の念を離れて自由になる。

二元でない。人の世の善悪もない。(とはいえ戒定慧の戒、つまり、、、己の欲する所にしたがって「矩」を越えず、と大用現前「規則」を存せず。が矛盾ないそういうのが天の道)

>人は敵を倒そうとという考えを抱いている限り、彼の心はその目的達成のためのあらゆる企みでいっぱいである。

 

これなんだよね!

 

するとゆとりがなくなって、見えるものも見えなくなる。

あらゆる企みでいっぱいだと、それに引っかかって、天の道がみいだせない。

そこでわかるのはこの天の道は中道に同じ。これはまたいわゆる修証一等ということ。(なまじっかなことじゃあない!まこと、だ。まこと、だ。)

 

==

 

侍は刀を携え、その用法を修めるのが彼の勤めである。しかし、侍は、力を行使し、殺人剣に訴えることを考えてはならない。力の観念は悪用されやすいからである。

ゆえに刀は自我を殺すための道具であるべきである。自我こそがすべての争い、戦いの根である。

p。165

ーー

ああ、するどいね!大拙さん!

ところでこれ、剣に付いていっているけど、人の使う道具すべてに当てはまることだね。例:言葉、論理、思想、などなどなどなど。。。。

元を正すと、どうか、というところだ!

やはり外の景色にとらわれるのでなく、内の根源のはたらきの外への正しい展開を、(我など、余計なものを取り払って)というようなものだな!

 

==

 

第二義

 

象徴や文字で表現しえるものはみな、第二義に過ぎないことを知るのが肝要だ。それは単なる通路に過ぎない。ゆえに禅僧は、文字が究極のものであると認めない。

p。166

ーー

だけど、文字を馬鹿にしちゃいかんよ!

生かすんだ!活かすんだ!

何でもかんでも、活かすんだ!

その本来の業務を、いわば源にさかのぼった所から働かすんだ!

 

==

 

その文字や言語の出てくる源をさかのぼることによって、そこにいたり得るのである。象徴化や思弁に止まっている限り、我々は理に目覚めることはできない。

p。166

ーー

頭のこんがらがりを解く、そして本来の役割を果たす、というのが理にかなったもの、理のやくわり、とすると、やはり法の働きにそった事(思考・行為)をしないといけない。

思考を超えた思考というようなもの。絶体絶命を越えた働きに目覚めよ!というわけだ。それが智慧であり、法にかなったもの(理)である。

 

==

 

最後のものは決して人から人へ伝ええるものではない。その人自身の中からでてくる。。。究極は存在の神秘に目覚める所にある。

それが外から来るとすればそれは誰か他の人のものであって、自分自身のものではない。

p。167

ーー

これだから絶体絶命がすべての公案の基本構造なのだよね。
ただいえることは、その絶体絶命は誰がどうやって作り上げたものかということ。

また、そのドア(本当はドアはないんだけど。つまり、むこうからは、いつでもあいているんだ。)をたたく、全身全霊を込めて、存在の全エネルギーをこめてたたく、(自我が死ぬまで、、、)ということをやらないといかん、ということじゃないかな?

 

==

 

最後の言葉

 

それは不知のごとくに知ることである。それは知識を越えたところの消息(不識、または不知)である。。。。これが私に言える最後の言葉である。

ーー

チーン!

 

==

 

>これが私に言える最後の言葉である。

ありがたいね!

言葉が始めにあって(マタイ伝)
最後の言葉がある。

上手くできてる。

エデンの園をでるのにドア・門があるかどうか知らないが、、、
禅では無門の関という。

そこで、言葉がでると、門が出来る。
迷子もできる。

あーこりゃこりゃ!

だから、(真宗では)阿弥陀様が働いて、いったりきたり、
無門の門での連絡をはかるのだ。

 

。。。

というところで、、、

是が安心、救いの構造であり、
妙・不思議の発生するところだ。

すると、その妙・安心をめぐって、
詩、芸術、道、思想、宗教などができる。

ああ、おもしろいな。
これこそ妙の妙なりだな。。。

ところで、、、、

そんな無責任な、、、
と言う声もきこえる。

で、それがまた無責任の責任と言うふうに
展開するのだ。

ここにきて、最後は最後でない、と言うことになる。
で、それが最後のない最後だ!

菩薩の働きの出る源泉、と言うことだ。

(すごいすごい、この構造的問題に根を発しているから、その働きはー娑婆から見ればーきりがないのだ。)

 

==

 

(チョッともどって)

精神的修業や達成についてのありとあらゆる本を読んだとしても、究極は存在の神秘に目覚める所にある。

そしてこの覚醒は己自身の中から来るものであり、どこか外からやってくるものではない。

p。167

ーー

昔、こういうのを読んで、全然わからなくってどうしようもない時があった。大拙の本ほとんどすべて、そう、蚊が鉄牛を咬むごとくであった。

そして、とことんの調べの後、その体験、存在の神秘を「知る」体験、があった。

若しこれを読む人がいるのなら、その体験はまさにとことんの修業(期間の長短ではない)と、それに結びつく、人知の及ばない何かの働き(いわば内から沸いてくるもの)によるものと思う。

ただし、人によってはこの体験のありようが異なることもあるようである。(例えば、中山さん、や妙好人の場合)

大事なことは、体験はそれとして、ポイントは日常のありよう(刻一刻、日常での「おさまり」かた、智慧のはたらき)だろう。

 

==

 

わび・さびの世界

 

「客観的否定にして主観的肯定」とよぶであろう。
要するに、わびはさびでありさびはわびである。。

p。168

ーー

客観的否定にして主観的肯定、とはさすがだな。
少欲知足ともつながる。
我の消滅が大ひっくり返りのおお喜びに変わるといってもいい。

わび・さびの生活は内面の満たされた、、、
というかあるがままの生活、だろう。

それは不思議・妙に、あるいは華厳にきらめく、、、
かといって、時として、どんぐりへんぐり、あるがまま、の生活と思う。

そう、引き潮(否定)と満ち潮(肯定)の生活ともいえるかな。

いやはや不思議なことになったものだ。

 

==

 

思い煩う心は、ただ刺激のために刺激を追うだけで、真に生をたのしむ余裕がない。

p。169

ーー

ああ、そうだね!! まったくだ。
そしてなぜにそうなのかという不思議でもあるね。

こいつをいかんせん、思い知らしめないと、いかんのだ!

それにしても、刺激が麻薬みたいな働きをしているのだね。

かといって、宗教は麻薬と言う見方をいう。

これまた絶体絶命のギャップがあるな〜。

ほんとはないのだけども。。。(迷悟)

。。。それにしても
>真に生をたのしむ余裕
とは、いい言葉(イメージ)だな。

どこからともなく、おだやかな緑の風がふいてくるようだ。

 

==

 

(さび、わびから、すこし横道に入るかもしれないが、、)

ピカソの言葉で、お金をたくさん持って、貧しく暮らしたい、というのがある。[What I want is to be able to live like a poor man with plenty of money.]

前から気になっていたのだが、(貧しさ創造性につながるというのが私の考えだった)さび・侘びの感覚もそこに入っているのかな、とも思う。

それにしても、ピカソの人となりに付いて、いろいろな点でパラドックスが微妙にバランスしていたという感じのことをピカソと一緒に暮らした女性がいっていたと思うが、道元(の正法眼蔵)、即非、ひっくり返り、弁証法的生きかたといったところに火花が散るような「何か」創造性・智慧といったものが伺われるようだ。

こういうのもまた妙のあらわれの例ということであろうか。

 

==

 

こういうメールがありました:
大前研一 『 ニュースの視点 』2007/8/31  #177

●20代の若者の所有欲そのものが減退しているという不思議な現象

日本経済新聞社が首都圏に住む20代、30代の若者(201207人、
30530人)を対象に実施したアンケート調査の結果、

車を買わず、酒もあまり飲まない一方、

休日は自宅で過ごし、無駄な支出を嫌い、
貯蓄意欲は高いという、予想以上に堅実で慎ましい
暮らしぶりが浮き彫りになりました。


「首都圏・若者消費意識調査」チャートを見る
 http://vil.forcast.jp/c/ahkLac23nccKcZab


固定電話もパソコンも持たない20代の人たち。

30代の人たちとは様変わりしている20代の若者の実態について、
私は週刊ポスト誌において「20代の人たちの不思議な現象」
という趣旨のことをコメントしました。

今回のアンケート調査は、まさにそれを裏付ける数量的な
調査だと言えます。


今回のアンケート調査(2007年)の結果を見てみると、
20代の人は2000年の調査時点に比べて、

車の所有率(23.6→13.0%)も所有欲(48.2→25.3%)も
半減しています。

飲酒についても、月に1度程度あるいは全く飲まないと
回答した人の割合が34.4%になっています。


特に注目すべきは、「車が欲しい」という所有
低いということです。

3C(カー、クーラー、カラーテレビ)という標語に代表される
ような高度経済成長期から日本人を形作ってきた所有欲
そのものが減退していることを私は重く受け止めるべきだと
考えています。


満ち足りた世代に見られる現象と言ってしまえば
それまでですが、私はそう思いません。

おそらくこの現象は日本特有の現象です。

「失われた10年」という暗いニュースばかりが溢れた時代に、
10代の多感な時代を過ごしたという、その経験も
大きな原因のひとつではないかと私は思います。

ーー

このあと大前さんは

若者世代の消費喚起のためには、
          
という観点をうちだしてますが、消費喚起が即いいこと、と言う観点だとしたら、是はおかしいのではないか。私はむしろ、所有欲が減退というのは面白い現象だなと、(ことに寄ったら、刺激のための刺激でない?、ある種の智慧ではないかな、と)前の投稿に合わせて、考えてみるのもまた面白いのではないかとおもいます。

まあ、若い人がわび・さびの話しを知ってるかどうかアメリカに長く住んでいる私にはわかりませんが、若しそこになにかな連絡があったなら、これは面白いと思うものです。

(ところで大前さんとは20年以上も前に何度かお会いしたことがありますが、このポイントに関して、宗教の見地を適用したら面白いんですが、どんなもんかな?)

 

==

 

さび・わびについてもう少しいじってみたい。

つまり、、、さび、わびは何もない(貧困のきわみの)中での働きと見たらどうか?と思う。

何もないとはなにか?

我が働いてない、自ずから然りの境地。

するとどうだ!

全世界、全宇宙がそのままで、大いなる芸術のきわみではないか?!

あれもこれも、、、

こおろぎの声も、波の光も、夕焼けも、、、、

猫のくつろぎも、、、

そう、貧しい茶室において呑むお茶も、一輪の花も、、、

みんなみんな、、、、

不思議な働きの現成!

そう、その、、、妙観察智とでもいうか、、、

四智でもよい、

なにおかいわんや、である。

「この法は示すべからず 言辞の相が寂滅すればなり」だ。(法華経方便品第二)

 

==

 

そこでさらに話しを進めて、我々みんなが、さび・わびの世界、に生きたらどういうことになるだろう?

(いや、本当は、もともとそういう世界に生きているのだが、、)

つまり、生きるためのぎりぎりのものだけを身の回りにおいて、、、
ところでインターネットはあっていいかな?

「この法は示すべからず 言辞の相が寂滅すればなり」だから、それもいらないかな?(とはいえ法華経はそれ自身、是はとっても大事だといっている)

いや、めんどくさいことはとにかく、わび・さびの方向ですべてを取り仕切ってみる、、、

(いわば、無駄の排除。トヨタ方式的に言えば、必要なものを、必要なだけ、必要な時に、、、というわけだ)

すると、ほら、みてごらん、

肩の重荷がおりるだろう!(無駄な意識が働かない煩悩即菩提)

あれもこれもでなく、

みな回りの世界すべてが光明に輝いているのが、、、、

さび・わびの世界=華厳の世界だね!

無一物中無尽蔵だ!!!

すごいすごい!

 

。。。

このすごい、はすごいじゃあないよ、すごいだよ。念のため。

 

==

 

>このすごい、はすごいじゃあないよ、すごいだよ。

すごいが単なるすごいだと、
侘びもさびもあったもんじゃない。。。

一輪の花がさしてある、
その人の心がそこにうつっている、

外ではこおろぎが鳴いている。
日がだんだん傾くとともに、障子にもみじの葉っぱの影が動く。

木々の風に吹かれて揺れる音が聞こえる、
時たま風鈴が音を立てる。

そう、何もない中に
何にもあるんだ。

だから妙なのだよ!
そこになにかのふれあいがあるんだ。

で、もうひとつ言うのなら、
それは、なぜかという領域を超えて、
そうなっているんだ!

 

 

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(これはことによるとつかえません。そのときはこちらです)

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