
禅と日本文化(1)
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
(これはことによるとつかえません。そのときはこちらです)
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso
もう25年以上前、スタンフォード大学のビジネススクールにいたころ、近くのプリンターズインとか言う本屋だったと思うが、Zen
and Japanese Cultureという大拙の英語の本を手にした。本に入っていた禅味のあるいろいろな写真が思わずこちらの心に飛び込んできた。思えばそれが大拙との初めての出会いだった。
ここまで、折に触れていろいろな大拙の本を読んできたが、今回は大拙全集の11巻にある表記の本を少しずつ読んで見たいと思う。特に禅の(行為面での)働きがどう(文化に)現れたのか、その深み・原点を探り、またそこからの展開について理解(!)を進めたいと思う。
ところで、今、大拙の全集を眺めてみると、改めて、その滋味ある感じに新鮮な驚きを感じる次第である。行間を読むというような表現があるが、ひるがえって、細胞の深みから大拙のいわんとしたところを感じてみたいと思うのだ。
原点をさぐり、またそこからの行為の働きを見るといった感じ(あるいはこの回互関係)のところがどうかというわけだ。文化ということに限らずむしろ個々人の生き方にどう禅が絡むのか、表現されるのか、光り輝くのか、その辺のところがいかにも妙ではないだろうか!
(ここに書いたものはヤフーの掲示版、鈴木大拙に2006年11月から4月4日までに載せたものです。副題は便宜上つけたものです。)
2007年4月17日 洲崎清
無明と業は知性に無条件に幸福するところから起こるのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自ずから論理を蔑視する。自分そのものを表現しないといけない場合には、無言の状態にいる。
知識の価値は事物の真髄が把握せられた後に、初めてこれを知ることが出来る。これは禅がわれわれの超越的智慧(般若)を目ざます場合に、認識の普通のコースを逆にした特別な方法で、われわれの精神を鍛えるという意味である。
p。10
ーー
>無明と業は知性に無条件に幸福するところから起こるのだ。禅はこの状態に抗う。知的作用は論理と言葉となって現れるから、禅は自ずから論理を蔑視する。自分そのものを表現しないといけない場合には、無言の状態にいる。
無言でなくて、ひっぱたいてもいいかな。
とにかく、これが定慧の基本構造といっておこう。
>知識の価値は事物の真髄が把握せられた後に、初めてこれを知ることが出来る。
知あるいは知識に価値がないというわけではない。AはAでないを通って、のAになったとき、(般若即非、あるいは回互)本物の姿が見られるという具合だろう。
>これは禅がわれわれの超越的智慧(般若)を目ざます場合に、認識の普通のコースを逆にした特別な方法で、われわれの精神を鍛えるという意味である。
だから一々ひっくり返す(あるいは、ご破算にねがいましては)というようなものだ。仮定は仮定として、その元にさかのぼって、いわば宇宙の意に沿った働きを確認しながら、進めようというようなものだ。
これはまた目を覚まして、知覚を鋭敏に、物にあたるといったことだろう。なにものをもぞんざいにしない、といった意味合い(⇒慈悲。智慧。)もそこからでてくる。また、無明に光を照らす、という基本姿勢がそこにみられるだろう。
常に、常に、である。
==
禅匠が論理家らしい振る舞いをすることがあるとすれば、それは普通の推理法や評価標準をまったく逆にしたものである。
汝はわれであり、われは汝である、というのである。
いわゆる事実成るものは無視され、価値は転倒する。
p。12
ーー
論理の元となるものを一々ひっくり返すというようなものだ。
論理をそのまま受け取るということのないよう、用心しろ用心しろ、といっているようなものだ。
というのも、本来の自由が失われるということがつまらないからだ!
これは芸術家など、道を求めるものが、とことん調べを入れるという態度ににている。
==
禅の鍛錬法の一風変わったところがある。
それは心理がどんなものであろうと、身をもって体験する事であり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。
後者は、、、技術の末に関らってその結果皮相的になり、中心事実に到達せぬことに成る。
p。13
ーー
身をもって体験、
身をもって体験、
身をもって体験、
身をもって体験。
われわれの「存在」の最も深いところに光り輝くものがある
というようなものだね。
==
禅は体験的であり、科学は非体験的である。
非体験的なものは抽象的であり、個人的体験に対してはあまり関心を持たぬ。
科学は系統化を意味し、禅はまさにその反対である。
言葉は科学と哲学には、いるが、禅の場合には妨げに成る。
なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。
実体こそ禅において最も評価されるものなのである。
p。14
ーー
ピカソを思い出す。
絵をぶら下げておくというのは死とおなじ。
創造こそが、生きるということ。
==
(禅には)一般に世の事物に対するある特殊の考え方と感じ方が存することをしるのである。それは:
1)禅は精神に焦点をおく結果、形式を無視する。
2)即ち、禅はいかなる種類の形式の中にも精神の厳存をさぐりあてる。
3)形式の不十分、不完全成ることによって、精神が一層表されるとする。形式の完全は人の注意を形式に向けやすくし、内部の真実そのものに向けがたくするからである。
4)形式主義、慣例主義、儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してきて、その孤絶性、孤独性にかえる。
5)超越的な孤高、または絶対成るものの孤絶がアセティシズム(清貧主義、禁欲主義)の精神である。それはすべての必要ならざるものの痕跡をわずかもとどめないということである。
6)孤絶とは世間の言葉で言えば、無執着という事である。
7)孤絶なる語を仏教者の使う絶対という意味に解すれば、それは最もいやしと見られている野の雑草から、自然の最高の形態といわれているものにいたるまで、森羅万象の中にしずんでいる。
p。15
ーー
>1)禅は精神に焦点をおく結果、形式を無視する。
形式の不十分な所、形式の中に潜んでいる可能性を見失わない。
>2)即ち、禅はいかなる種類の形式の中にも精神の厳存をさぐりあてる。
いわば、すべてのものの中に「生きて」いるもの、を探り当てようというのである。
>3)形式の不十分、不完全成ることによって、精神が一層表されるとする。形式の完全は人の注意を形式に向けやすくし、内部の真実そのものに向けがたくするからである。
そこに動き働き、の妙がある。だから形式の不十分な所を何とかしようという働きそのものに絶対の価値をみるのだ。大悲もこれにつながる。
>4)形式主義、慣例主義、儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してきて、その孤絶性、孤独性にかえる。
孤絶性、孤独性とは何か此の世、娑婆と縁のないものという感じだが、その実は形式の不十分、不完全成ることに、ある種の働き(大悲大智)を探るという意味合いがあるのであろう。
>5)超越的な孤高、または絶対成るものの孤絶がアセティシズム(清貧主義、禁欲主義)の精神である。それはすべての必要ならざるものの痕跡をわずかもとどめないということである。
存在の原点と深く関わりあうということは、不必要な形式(すべてのひつようならざるもの)からはなれる(〜無頓着、⇒畢竟して何のようぞ!)という意味合いがあるのだろう。
>6)孤絶とは世間の言葉で言えば、無執着という事である。
それは世間からは、無執着、無頓着というようにみえるだろう。(⇒本当の出家の意味合い)
>7)孤絶なる語を仏教者の使う絶対という意味に解すれば、それは最もいやしと見られている野の雑草から、自然の最高の形態といわれているものにいたるまで、森羅万象の中にしずんでいる。
すべてのものの裏に潜んでいる、いってみれば「神」の働き、宇宙の意の働き(仏性)に絶対の(人知を超えた)「ありがたみ」・不思議、があるというようなものだろう。
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(大海の中に浮かぶいっそうの小舟の絵を例に大拙は言う)
この頼りなさこそ、この漁舟の美徳であって、これと対照して吾我は小舟と一切とを取り組む「絶対成るもの」の無限を感じるのである。
この点において吾我は多様性の中に超越的な孤絶性ーわびと呼んでいるものーを鑑賞するのである。
わびの真意は「貧困」即ち消極的に言えば、「時流の社会の裡に、またそれといっしょにおらぬ」ということである。貧しいという事、即ち世間的な事物ー富、力、名ーに頼っていないという事、しかもその人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値を持つものの存在を感じること、これがわびを本質的に組成するものである。
p。18−9
ーー
世間的なものの中にいて、いないような、、、
超越的な孤絶性、、から無限を感じさしめるもの。
ぽつねんとして、頼りないようでありながら、
何か宇宙のながれに乗って、穏やかに漂うような、
超越的なものを感じせしめるもの、
それがにおってくる、感じられる、というようなものであろうか。
絶望的なもの、不安定なものの中に、
絶対的なもの、まったきの安定を感じせしめる、というようなものだろう。
つまり、矛盾のきわみである。
頼りないようでいて、絶対の信頼があるという不思議、妙だ。
つまり絶望を通り越した安心があり、変化の中に永遠がある、というような感じかな。
==
わびはニ、三畳の小屋に起臥して、裏の畑から摘んだ蔬菜の一皿で満足する事であり、静かな春の雨の粛粛たるに耳を傾ける事である。
p。19
ーー
そこに論理をこえた、日常の価値観を超えた、何か、がある。
だけどそれは、何処にあるのか、と探すとなくなる「何か」であろう。
というのも、それは探す人、頭、意識、を「包んで」いるものとの不思議な「関係」だからであろう。
だから「そこ」には通常の価値観のひっくりかえり、があるのだろう。
それを妙というか、わびというか、不思議というか、
ありがとうというか、言葉にならないというか、、、、
無心というか、
表現はなんでも、、、
「そこ」にある、何か一般常識のすべてを通り抜けたもの、
そこに、なんともいえない、創造の原点をみる、とでも言っておこうか。
==
それは。。貧困の信仰であって、おそらくはわが国のような所にはきわめて相応しい道である。近代西欧のぜいたく品、、、がわが国を侵すようになっても、なお、わびに対する吾我の憧憬の念には根絶しがたい者がある。知的生活の場合でも、観念の豊富成るを求めないし、また派手でもったいぶった思想の配列や哲学体系の立て方を求めぬ。
神秘的な「自然」の思索に心を案じて静居し、そして環境全体と同化してそれで満足することのほうが、吾々、少なくとも吾々の内のある人々にとって、心行くまで楽しい事柄なのである。
p。19
ーー
おもろかなしい、
さみしうれしい、
かなしありがたい、
まずしらくちん、
なくてある、
あってない、
きびしやさしい、
ふしぎありがたい、などなどかな。
==
たとえ、いかに文明化した人工的な環境に育つようになった吾我といえども、その心の中には、みな自然の生活状態にとおくない原始的単純性に対して、生得の憧憬を持っているように思われる。それゆえに市民は夏、森でキャンプをしたり、砂漠を旅行したり、人跡未踏の道を切り開いたりするのである。
p。19
ーー
これもわれわれの存在の原点の確認という所かもしれない。坐禅ー只管打坐(⇒行住坐臥すべて禅)もまたその確認の意ではないだろうか。
==
自然の懐に帰って、直接その鼓動を感じようと欲するのである。。。
禅は生活の表面に存する複雑さを好まぬ。。。
生命の神秘ははかり知れないのである、、、が、ひとたびその流れに、身を任せれば、生命という者が、その外見は無限の複雑性と錯綜性を持つにもかかわらず、これを理解する事ができるように思える。
おそらく東洋人の最も特異の気質は、生命を外からでなく、内から把握する事であろう。禅はまさにそれを掘り当てたのである。
p。20
ーー
そのものがそのものを知ると言うこと。
その不思議、妙、、、、
それは言葉にならないよ!
==
精神の重要さをあまりに注意、強調すれば、形式無視と言う結果を起こす。。。。(一角様式の墨絵の例にわかるように、普通考えてあるべきものがないのであるから)それは明らかに短所や欠陥であるに関わらず、そうは感じられない。事実この不完全が完全の形に成る。
美とは必ずしも形の完全を示していうのではない。この完全どころか醜ともいうべき形の中に、美を体現することが、、、妙技のひとつである。
p。20
ーー
いわゆる絵画でなく、例えば禅問答の中にも同じことが言えるのだろう。長々と言葉を並べてどうのこうのでなく、ときによって、喝!で済ます、というのもまた妙ではないか。
問いに対して同じ問いで答えるというのも、また妙ではないか!
==
芸術的衝動は道徳的衝動より原始的であり、生得のものである。芸術の訴える力は単的に人間性に食い込む。道徳は規範的だが、芸術派衝動的である。一は外部からの挿入で、一は内部からの抑えがたい表現である。
禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない。
p。22
ーー
とはいえ人間の社会に生きると、中道が見出されるべきと言う事に成るのだろう。
ここで私の住んでいるアメリカから、日本のあり方を見ると(例えばアメリカと比較してみると)、最近はどうかわからないが、論理軽視の問題もあるのではないか?極端な例はやくざ。あるいはオカルト、のようなもの。親方日の丸もそうだし、赤信号みんなでわたれば、と言うのだってある。話しが飛んで、ピカソの場合も何かやり放題と言う感じがないとはいえないようだ。無論、人のことは言えないが、そこで社会性につながる何かを、つまり無意識(自然性)と意識(社会性、科学につながったもの)のバランスを(中道を)見たいと思うがどうだろうか。
==
日本人はその一般文化に知性が充分に浸透していない故を持って、しばしば知的でなく、哲学的でないと思われている。この批評は日本人の非相称性愛好と多少関係があると自分は考える。
知性はもともと均衡を欲するものであるが、日本人は不均衡を好む強い傾向によって、ややもすればそれを無視するのである。
p。23
ーー
そうか、大拙もその辺見ていたのかな。
これも中道の歩みの一風景というようなものかもしれない。
無論、ここで日本人とくくらずに、個人個人でどうか?と言う所ではある。
それにしても波乗りが簡単にできるわけではないように、バランスをとった道の進み方を会得すると言うのは、長い修業が必要とされるのかもしれない。まあこれもまた妙と言うことにしておこうか。。
==
禅院は通例山林の間にあるので、そこにすむものは自然と密接な接触をする。。。彼らの観察に特殊な所は、それが彼らの哲学、むしろ彼らの直観をふかく反映することである。
それは単なる博物学者の観察ではなく、禅僧達はその観察する対象の生命その中まで入り込まねばならぬ。
だから、いかなるものを描いても、必ず、彼らの直観を表現することになって,山や雲の精神がその作品の中に穏やかにいきずいているのを感じることができるのである。
p。25
ーー
是はそうとして、面白いのは、大拙が何かを書くというのを(芸術家が絵を描くというのに照らして)考えると、自然の観察に人間の観察が一緒に入って、それでいて、大拙自身、
>その観察する対象の生命その中まで入り込まねばならぬ。
を、やっているとみえるのである。
少なくとも、彼の文章を読むと、私は、その生き生きさ、深さを感じるのであるが、どうもそれと上の所とがつながっていると思うのである。
本を書くというのはやはりそこに自然+人間の源泉にあるものを読み取って初めてできるというように思う。難しいところだが、だからこそ、その面白いところ、妙と、上手につき合いたいと思う。
書く、読む、話す、聴く、などみんな「そこ」につながっているのだからね!
==
「10年間竹を描け。そして自身に一本の竹となれ。そして竹を描け。そして書く描く時、竹に関する一切を忘却せよ。間違いなき技術は既に手にはいっているので、今はただ天来の興に身を任せるのだ。」
p。26
ーー
是は道を会得するという時、それが絵画であれなんであれ、名人の体得したプロセスを示しているのだろう。(⇒中山さんの創造性の原理:ポアンカレ・岡の仮説、にもつながる)
根本に熱意があるのかどうか、まず是が問題ということじゃあないかしら。(そもそも、うじゃうじゃいう論理をとび越えたところを見ているのだろうから)
==
もう一度:
「10年間竹を描け。そして自身に一本の竹となれ。そして竹を描け。そして書く描く時、竹に関する一切を忘却せよ。間違いなき技術は既に手にはいっているので、今はただ天来の興に身を任せるのだ。」
これ戒定慧とおなじだね。
すると、こいつを行住坐臥に適用すると、面白いことに成る。
歩きの名人、呼吸の名人、などなど、、
正見、正思というところまでつながってくる。
すると、>「今はただ天来の興に身を任せるのだ。」のまま、生きる、行住坐臥と言う事に成る。
そこで、でてくる、「一体どうなってるんだ」とかの疑問は、「一体どうなってるんだ」で消えてしまう。
すごいすごい!
それでいてなんでもない!
あーこりゃ名人の仕業だ!!!
ありがとう、ありがとう。
ついでにあけましておめでとう!
いつもいつもおめでとう!
ひっくり返っておめでとう!
==
>「10年間竹を描け。そして自身に一本の竹となれ。そして竹を描け。そして書く描く時、竹に関する一切を忘却せよ。間違いなき技術は既に手にはいっているので、今はただ天来の興に身を任せるのだ。」
>これ戒定慧とおなじだね。
すると、こいつを行住坐臥に適用すると、面白いことに成る。
>歩きの名人、呼吸の名人、などなど、、
正見、正思というところまでつながってくる。
、、、と書いたが正語、正業、正命・正精進・正念・正定にもちゃんとつづけたい。
そして、それができれば一丁あがりだ。
ただ法にあうというのと社会とのつながりにいろいろ知慧がいるというのが、さらに工夫のいる所なのだろう。
岡村美穂子さんが大拙の生き方を「まるで芸術品を見るようだ」といっていたが、やはりここにつながっているんだろうと思う。
==
一即多、多即一、
是が十二分に理解された時、創造の天才が生まれる。
p。27
ーー
そうか、その(一即多、多即一の)接点で火花が散るんだね。
これが、(無意識の意識でもいい)名人の働く舞台と言うようなものだろう。
==
一即多、多即一、というのは、それだけで絶対の事実を完全に叙述したものとして理解されるべきであって、それを構成している概念に分析すべきではない。
禅は自分の経験を尊び、いかなる体系の哲学とも妥協することを拒むのである。
p。27
ーー
そのまま、そのまま!!!
ふれたら、ふれたまま。
まままままままままままままま!
==
禅者にとってはいつも一即多、多即一である。
二つのものはいづれも同一性を持っていて、是が一是が多と分けるべきではないのである。
万物の姿は真如そのままである。真如とは無である。即ち万物は無の中にある。無より出て無にはいるのである。真如は無であり、無は真如である。
p。27
ーー
ここで
>同一性を持っていて、
と書いた後、
>無より出て無にはいるのである
となっているが、
>無より出て無にはいる
は意識の働きのいってみれば、無為⇒人為⇒無為の微妙な円環運動、回互関係を見ていっているととっていいと思う。
==
一即多、多即一というのは、それだけで絶対の事実を完全に叙述した物として理解すべきであって、それを構成している概念に分析すべきではない。
月を見て月とわかればそれで十分だ。
p。27
ーー
そう、ぶつぶつときりましょう。
道を歩くのに、今此処の道を「全身でわかって」進む事が出来なくなったら、是は物騒なことに成るということでしょう。
それでもひっくり返ったら、ひっくり返ったで、ちゃんと起き上がってまた進めばいいわけでしょう。
==
一切の音はみなブッダの声であるとおもいますがそう、解してもいいでしょうか?
いい。
すると和尚さんの声もどぶの音と違いないでしょうか?
(一棒をくわす)
(またたずねた)悟った人にとっては、つまらぬ誹謗的なことばでもみな究極の真理を表すものだと断定してよろしいでしょうか?
よろしい。
では和尚さんを驢馬だといってもよろしいでしょうか?
(また彼を打つ。)
p。29
ーー
やはり言葉で説明できない所は、打つということ。
ただしネットだとそれも届かない。
また、かりに届いてもたたかれたことすら気づかないということもある。
是は自分の過去を見れば簡単に納得できること。
それでどうするか、というのが、ある。
大拙の場合、それに対する回答がこうして本になった。
あいにく、それを読んでも、気づかないことがある。
そこで、またいかに、と工夫すると言うことだろう。
論理による工夫は普通、ギャップを飛び越えるというのに、意味ないから、
これがまた、難しいというわけだろう。
そこで大拙の本や中山さんの本が、ある意味では自問自答の形になっているようにも見えるというわけだろう。
自ずから気づかせるというのがポイントだから是はもうやもうえないというようなもののようにも思う。
それでも、どうするか?というのが正念場なのだろう。
==
和尚は、あらゆる禅匠と同じく、かかる僧に対しては言語的説明の無益成るを知った。言葉上の詮議はひとつの複雑から他の複雑に入って、終わるところを知らぬからである。。。
故に手荒い法にでたのである。
p。29
ーー
和尚もつらいのう。
まあ、歯がゆくても、しょうがないね。
それはそれで、というわけだ。
==
堀尾孟氏の書いた眺望大拙像(p。77−78鈴木大拙とは誰かー上田、岡村)にこうあります。(大拙の言葉を堀尾氏がつなぎ合わせています)
「仏陀から直接受け継ぐということは、佛教古来の教義などと言うものを一切捨て去って、各人各個が一切のものを生かしているところの真の存在または生命と、ぴったり一枚になることであり、その生命が自分の中に脈々と脈打っていることを親しく感じることであり、この宇宙の理と一枚になった各人各個の内部自覚、霊性の自覚こそが、正覚即ち仏陀の心である。即ちそれは仏陀自身の正覚の主体性である。」
当たり前といえば当たり前なのでしょうが、
>真の存在または生命と、ぴったり一枚になることであり、その生命が自分の中に脈々と脈打っていることを親しく感じること
云々は言葉にならない事実、生きているものとのぴったり一枚、あるいはふれあいとそこからでる妙用、知慧、慈悲などの働きを包括して指し示しているようです。
==
「一即多、多即一」という事実の直観的または体験的理解となづけていいものは、どの佛教各派でも教える仏法の根本義である。般若経の語でいえば「空即是色、色即是空」である。。。
特殊世界の経験諸事実は相対的の意味でなく、絶対的の意味において、一切空である。絶対的の意味における空とは、分析的な論理の方法で達しえる概念ではなくて、花の紅などという体験事実そのままをさすのである。直観または知覚の事実を素直に認めることである。知的作用と言う外側のものに向かわずに、こころがその注意を内部に向けるとき、一切は空から出て、空に帰することを知覚するのである。
p。32
ーー
いとも簡単にいっているようだが、なんと奥の深いことか。。。
と言うか奥はない、あるいは、「それ」は無限、空であるからこの言葉は色即是空、空即是色そのものを「知って」読まねば意味がない。(例のCatch-22、絶対矛盾の自己同一である)
「鏡のこころ」と言う言葉の意味合いもここにつながるだろう。
色が空にあって、その本当の色の意味合いが「わかる」というのは、いわば鏡に姿が正しくまぎれなく映ると言うようなものだ。(そしてこの鏡と塵の関係が、神秀と慧能の偈の関係に同じと思う)そしてその両方を見るから、往相と環相となり、あるいは定と慧とも成るのだろう。
そしてそこに何があるかとあえて言うなら、それは大悲と大智の働き、法の働き、絶対の肯定、生命の不思議・エネルギーというようなものではないだろうか!真空妙用ーなむあみだぶつ、である。自力、他力のない一面の他力(才市)である。
!(喝!)
==
「葉隠れ」には次の一節がある。
「武士道と言うことは死ぬことと見つけたり。。。毎朝、毎夕、改めて死に、死に、常住死身になりている時は、武道に自由を得、一生落ち度なく、家職を仕果たすべきなり。」
「兵法の要は、ただ身を捨てて、敵を打つべし。(己の安全を願う限り、勝つことなし)」
「生死をはなるべきこと。武士たるものは、生死を離れねれば何事も役に立たず。」
p。45
ーー
物騒なところであるが、あえてコメントするなら、全機するには無意識の意識で、その隔たりを突破せねばならない、ということだろう。無論、これは坐禅、解脱のプロセス(定慧)とつながる。
ところで、大拙はp。42で「葉隠れ」についてこういっている。「いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしてはー即ち現代語で表現すれば、意識の普通の意識の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければー成就したためしはない。この力は時として悪魔的であるかもしれぬが、、、
ここで思うのは例えば戦闘あり(だったかな)の事である。つまり、使命が決まると、ただそのために命をささげて悔いがない、ということ。いやまて、これはそんな戦闘というものだけでなく、子供を助けるためにいのちを顧みない母親の態度にも通じる。
これはどういうことか?全体のために身を投げ出すということか?
しかしその全体とは宇宙全体、あるいは種の保存という事につながるのか?菩薩の願いとはどうつながるのか?
私のMini Companyのアイデアも同じであるが、「全体」の願いと個人の願いの整合がどうなっているのかと言う問題があるのだろう。そしてその整合をとくには智慧が必要ということのようだ。
自ずから然り、につながる大悲とともに、自ずから然り、につながる大智(そして、知行合一)が見出されるべきなのだ。そしてこれはおかれた状況により、いわば釈迦の対機説法のように、自在に、、、応無所住而生其心を「もと」として現れるべきものなのだろう。
それというのも、もともとこの(生死云々の)プロセスが法(のフォーミュラ=宇宙運行の原理)にそったものなのだから。
==
前出の葉隠れの話しなどに絡んでちょっと考えてみた。
もともと禅は絶体絶命をいかに抜けるかと言う点にひとつポイントがあると思う。つまり、人生苦なり、ならその苦をどう抜けるかと言うこと(⇒苦集滅道)。そこで禅と武士について、こう考えてみる。まず武士はその身の置き所・環境が武士として既に決められていたとする。すると後はいかにその決められた環境の中でいかに立ち回るかが問題と成る。
この問題の設定は「戦闘あり」と同じであリ、後はいかに戦うかだけが問題と成る。ここで沢庵の文あるいは葉隠れは、人としての心構えを示したもの。こころのおき方の問題をみている。そしてそこには絶対絶命における禅の心身の対処の仕方と通じるものがある。
ここで、例えば公案で、「上は虎、下はワニ、ぶら下がっているツタをねずみが食っている。そのとき目の前にイチゴがあって、食べたら、ああおいしい!」、というのがある。また(つまらない例かもしれないが)私の例で、ヴィパサナにおけるぎっくりごしの話と鎮痛剤の使用に付いて考えたことがある。(⇒「真夜中のぎっくりごし」と題してまとめ、HPにのせてあります)
早い話これは理と行、こころと体、意識と無意識の連絡、つまり中道のはなしに行きつくと思う。
つまり、頭・心をつかう、例えば、ぎっくりごしに鎮痛剤、助けを呼ぶのにセルフォーンと言う具合に、内だけに目を向けるのでなく、内外の全体を見て「智慧」を使って道を開くというのがあるということ。またそのために理屈、論理を大事にし、無駄死にを避けるということがあっていいだろうというわけだ。
全機現(そして中道)はこういうことにも相当すると見えるわけだ。外のことを知らない、わからない、関与しないというならそれはそれではあるが、それもまた理屈がとおといということを知らない、と言うことにもつながると思う。
(ただし、問題は理屈・頭の間違った使い方であり、十牛の図の8図以前では、理屈をとりあえずほおっておくというやり方(定慧)の体得に絡むところであるから、理は理として、つべこべいわずにやることをやれ!というのを通らざるを得ない様になっているわけだと思う。)
ところで、私は「ひっくりかえり」、と言う言葉をここ2−3年使っているが、即非、道元の弁証法、そして往相⇒環相、8図⇒10図は、皆この辺の消息を示しているように思う。あるいは絶体絶命を抜けて、また地獄に戻る(趙州)というやつで(も)ある。
つまりこの動き、働きを自ずから然りの形で進めるということ。いってみれば梵天勧請の意味合いがここに見出されるのではないかと思う。
これはまた、大拙がどこかでいっていたが、往が即、環にならねばならないというところまで進むということなのだろう。
迷いに眼ざめるという、ひっくりかえりとともに、そこにとどまらずに、さらにひっくり返って娑婆に戻るという、ひっくり返りがあると言うことだ。
そして、この(働きの)「全貌」が見えなければ(深い意味での)中道の意味合いもわからない、あるいは、でてこないということではないだろうか。
==
少し横道にづれたが、ここで話を元に戻す:
「真剣の勝負にあたりては、わが身をころされに行くと思うべし。」
ー荒木又右衛門:一刀流聞書
p。45
ーー
絶体絶命に遭遇して、わが身をころされに行くと思うということ。
無論、わが身をころされに行く⇒自在であり、捨て鉢ではない。
また、わが身をころされに行く⇒究極のくつろぎ、という一見、矛盾のところだ。
いづれにしろ表現はどぎついが、全機するには我をとらねばならない、ということ。そしてこれは常に配慮すべきこと、というわけだ。
生きるということは真剣勝負。一時一時がそれである。
法が生きるというのも、いまここしかない。
真剣に、誠実に、流されることなく、、、、ね。
==
生を必する者は死し、死を必するものは生く。 −上杉謙信
参禅は別に秘訣なし、ただ生死の切なるを思う。 −武田信玄
p。47
ーー
こういう人がいたんだね。
それにしても大拙はいろいろよく調べているな。全体像を俯瞰して、自分の置かれたところを知り、世界のニーズを直観して、為すべきを為す。
そしてその為す原動力に禅がある。だからすべてがピタット収まった形で使命が認識され、つぎからつぎにすべきことをしていったわけだろう。
ありがとう!ありがとう!
(そこで、私はというと、、、、その足跡をおって調べを進めるという。。。そう、、、そういえば道元もそんなこといっていたっけ。自問自答をしながらいろいろと深めていくのだろうな。――― あ、そりゃそうだ!)
==
心頭を滅却すれば火もまた涼し。
p。48
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心頭を滅却すれば、平等の世界に行っちゃう、というようなものかな。
それこそ、ムー、だね。
やはり坐禅してこのポイントを鍛えておくと言うことになるかな、いろいろなことに遭遇して、あたふたしないためにも。
(でもこういうと、「手段」の坐禅に成るから、本当はこういう言い方はいけないのだろうけど、まあ目的=手段に行くのにとりあえず発心⇒手段を通るということにしておこう。
それで、一般には、いったりきたりとなるのだね。つまり、回互、円環運動ということ。)
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日本人は自分たちが最も激しい興奮の状態におかれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、又鍛錬されてきた。
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武田信玄、上杉謙信などの戦国時代には、とくにそうだったのかな。絶対絶命の時にはそういう二ーズがどうしても起こってくるということかしら。そしてニーズあればそれの答えも自ずから現れるようになっているということ。それもまた法のあらわれだろう。
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多様の世界は過ぎ去り、又還る。然し、その背後にあるものはかわらぬままにその完全な美をとどめる。(信玄の偈への大拙の言葉)
極楽も地獄もまずは有明の月の心にかかる雲もなし。(謙信の漢詩への大拙の言葉)
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人としての運命に逆らわず(あるいは無常を無常と受け止め)、といった感じかな?
いろいろな風景があった。
それを私は見た、体験した。
外の変化と内の変化も知った。
最奥の静寂にも遭遇した。
今、この場におよんで、
あえて何をかいわんや!
喝!
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哲学は知的精神の所有者にゆだねられて然るべきである。禅は行動することを欲する。
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ただし知と行は合一したいとも欲するのだろう。
そこ(すべて)を貫通するもの、これが法だろう。
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刀には果たすべく、、、二重の務めがある。一は持ち主の意志に反するいかなるものも破壊することであり、一は自己保存の本能から起こる一切の衝動を犠牲にすることである。。。
前者の場合しばしば刀は単純に破壊を意味する。そのとき刀は、時として悪魔的な力の象徴である。それゆえ、それは第二の機能によって抑制され、聖化されなければならぬ。良心的な持ち主はいつもこの心理を心がけてきた。そうする時には破壊は悪魔のほうに向けられるからである。
刀は平和、正義、進歩、人道の妨げをなす諸物を全滅させることと同一だ、ということになる。広く世界の精神的安寧のために望ましい一切のものに見方する。それはいまや、生の体現であって死の体現ではない。
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同じことが刀だけでなく、医師のつかうメス、われわれの使う言葉、道具すべてにいえるのだろう。正しい使い方、法にそった道具の使い方、生き方。。。
その使い方の基盤がどうかによって、現れ方に智慧および大悲の心がやどっている場合もいない場合もあるね!
「平和、正義、進歩、人道、、、広く世界の精神的安寧のために望ましい、生の体現」。。。やはり八正道につながるかな。(言葉を含めた正しい道具の使い方、これは大智大悲がその裏に働かないとそうならないという事だね!)
、、、ということは、大智大悲が働くと言うその環境、状況、こころの持ち方を正しく身につけるということがやはり基本に成るね。
「それ」は「何か」というと、、、
まあ、これが大問題だけど、
いま、とりあえず、ここでは、それはそれとしておいて、
とにもかくにも、そういう方向にむかう「大きな熱意」を持つ、
これがないといかんという事だね。
道元にいわせるなら、発心、発心、また発心、ということになるね!
、、、
それにしても発心ができるというのはたいしたもんだね。
そう、発心と言うのは我があったらできないものね。
(ところで話しがずれちゃったみたいだが、すべての元はここにあるからそれでまったくいいのだね。)
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文殊菩薩の聖なる剣は、生き物を殺すためではなくて、我々自身の貪欲、瞋恚、愚癡を殺すためである。
それは我々自身に向かって擬せられる。なんとなればかくすることによって、我々の内部にあるものの反映であるところの外界の世界もまた、貪欲、瞋恚、愚癡から自由にされるからである。
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これ面白いね。人との会話をここにふくめると意識の働きにいろいろあることに気づく。
1)自問自答:前にもいったとうり、二つ目の自はいわば無意識の意識で、智慧の働きを意味する。上で言っている(、、つまり、「我々自身に向かって云々」)のは、この範疇にはいるだろう。これは正しい、あるいは法にあった道を見出すということは、まず各自がやらねばならないということ。(仮にこれを縦方向の働き、回互、円環運動とよんでおく)
2)人と人との会話:どうも、これに二種類ありそうだ。
2−A) 我をもとにした会話(いってみれば横方向):これに気づいたら1)(無意識の意識)に戻るべし。(気づくというのがもともと、そういうことではあるが)1)は止⇒観である。つまり2−A)におちいっているのに気づいたら、一回止まって様子を見る、そして智慧の発現を待つゆとりが必要だろう。(動中の工夫:定慧に対応)
ここで気づきが遅い、というように気づいたなら、例えば坐禅により、定慧のポイントをとことん修業すべきであろう。(静中の工夫)そうでないといつまでも後追いになってしまう。
2−B) 法をもとにした会話(いってみれば縦横方向):これはいわば中道の表れみたいなものだろう。どういうことかというと、2−A)がうまく対処できた状態。ひとつむずかしいは、自問自答でなく、最初の自が私とあなたと言う複数であるということ。だから自らを知り、相手を知ると言うのが大事なわけだ。
それでそいつがどうやったら上手くいくかというと、これが釈迦の対機説法にむすびつくのだろうが、いわばすべての物の上に法の働きを見るということができないといけないわけだから、これは最初の自が、ないと言う状態、つまり定慧の働きが常に働いているということでないと上手くいかないのだろう。
「文殊菩薩の聖なる剣、、、が我々自身に向かって擬せられる」、というのはそういう意味だと思う。
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能楽の小鍛冶から:
宗近はこの仕事の、、、できることを祈った。。。
私がこれから従おうという仕事は、一身の栄達のためではありません。。。
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仕事をなさんとする。
それでそれがなかなかできない。
そこで、すべてを投げかけて、というのが絶体絶命の境地だ。
この、とことんの定をへて、
智、インスピレーション、が訪れる。。。。。。。。。。
あえて釈迦の場合で言えば、明けの明星での大悟がそれ、
ただし梵天勧請に答えるのもまた、同じような道をたどっているのではないかと思う。
そしてそれが対機説法で、状況に応じて人に道を示すという時も同じではないだろうか。
感謝があって、また祈りがあるのであろう!
甘いものを食べたら、分けたいのである。
そこに絶体絶命を超えた祈りがある。
そして智慧のでる環境が整う。
これをとことんの自問自答とでもいっておこう。
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(これはことによるとつかえません。そのときはこちらです)
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