禅と分別について

 

愛―智慧―修行―動中の工夫―宗教の究極のポイント

 

 

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はじめに. 1

フレームワーク(論理構成). 3

愛と力. 3

禅と論理. 6

禅の論理的裏づけと智慧を出すということ. 12

修行の意味あい. 17

菩薩の修行:六波羅蜜. 18

声聞の修行:八正道. 19

修行と般若心経(五蘊皆空). 19

原始仏教における五蘊皆空. 20

五蘊皆空:サッティ・パターナと臨済. 22

修行と宗教. 24

公案. 27

悟りの風景と動中の工夫. 29

不生. 29

動中の工夫. 35

動中の工夫と明けの明星. 37

宗教の究極のポイント(私なりのまとめ). 39

他力の意味あい、気をつけるべきこと. 40

おわりに. 42

 

付録. 43

くつろぎの世界:Beatles: Let It Be 43

 

 

はじめに

 

禅とか仏教に長いことかかわりあっていると、ことによると社会一般で重んじられている論理的な見方が二義的になる、あるいは娑婆との距離が離れるといった「問題」がでてくるかもしれない。そういうことでも「困る」ので、このファイルでは:

 

1)禅・仏教はその存在理由をいかに(どこまで論理的に)説明できるか、

2)それは、いかに(言葉を媒介として成り立っている)社会とつながるのか、

、、という「問題」を探ってみたい。

 

ただ、それをするためにはお経や、祖師方の語録、そしていろいろな修行についても参照することが必要であり、それは非常に多岐にわたるものだが、私なりの「まとめ」をここに試みた。(ちなみにここにまとめたものの原文はヤフー掲示板「鈴木大拙」のトピに連載したものだが、このファイルに載せるのにあわせ一部校正した。)

 

禅・仏教と論理(あるいは分別といってもよい)、大きくいえば宗教と論理がいかにつながるかというのは、禅、仏教、そして宗教「体験」、さらに言えば、「生きるということの根本原理」にからむところで、これを言葉で「論理だって」説明するというのは、例えば「あるく」というのを、歩いたことのない人に、どうやって説明できるかといったこととほぼ同義のように思う。ただそれでは話にならないので、以下に私なりのまとめを試みた。これは私自身これまでたどってきた道、つまり法に生きるという意味合いの確認の意味もあり、また、たまたまここを訪れた人があるなら何かの参考にもなればと思うしだいである。

 

ところで「禅と分別」というのにからんで鈴木大拙のこういう言葉がある:

 

無明と業は知性に無条件に降伏するところから起こるのだ。禅はこの状態に抗う。。。知識の価値は事物の真髄が把握せられた後に、初めてこれを知ることが出来る。これは禅がわれわれの超越的智慧(般若)を目ざます場合に、認識の普通のコースを逆にした特別な方法で、われわれの精神を鍛えるという意味である。  ―禅と日本文化(大拙全集11巻、p。10)

 

さらにもうひとつ:

 

禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なものは抽象的であり、個人的体験に対してはあまり関心を持たぬ。科学は系統化を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には、いるが、禅の場合には妨げに成る。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ禅において最も評価されるものなのである。」   ―同上(p。14)

 

ついでに、「禅の社会性」というで以前に私がHPにファイルにまとめたが、次の文はそこからとったもの:

佛教では苦集滅道をいいますが、苦を滅するというその智慧をいかに社会的な活動にも適用するか、つまり自分だけでなく周りの人の苦を滅する方法を考えるということ、逆に言えばいかに幸福に暮らすか、というのがここでの中心課題といってもいいでしょう。」
http://www.geocities.jp/suzakicojp/zennnosyakaisei.htmlより。)

 

但し仏の教えを正しく受け止め、個人の日常の行為に(社会との連絡をうまく果たしながら)表すためには、いろいろな角度からの総合的・有機的な調べが必要となる。そのようなことを試みるのは、とてつもない話だが幸いに先人がいろいろな「遺産」を残してくれたので、それらを参考にしながら、私の「体験」に照らし合わせ、何らかの(実際に即した)「イメージ」を浮き彫りにできたらと思う。

 

以下、話の流れは、

1)いろいろな意味で私がお世話になった鈴木大拙氏(禅・仏教)と中山正和氏(禅と創造性)の言葉を「まくらことば」に、

2)修行は、法の道を歩むということで「証」にむすびつくわけだから(→修証一等)、いろいろある修行の内容についての理解を深めることにより、いかに禅・仏教の修業が「論理的に」なりたつのかという所を探り、

3)日常の生活にいかに禅・仏教が貢献するかという所にからみ、日常に表されるべきありかたや実践的な修行(動中の工夫)の意味あいを調べ、

4)これらを元に、また、苦を滅するというのみならず、いかに大智大悲を我々の人生・社会生活にあらわしめられるのか、、、

というふうに進めてみたいと思う。

 

                                    ―2009年9月17日

                                          洲崎清 記

 

フレームワーク(論理構成)

 

愛と力

 

ここに載せたものは禅・仏教でいう大悲について大拙が書いたもので「愛と力」という日本語訳大拙全集の14巻p486−492に入っているもとの英語版は私の英語のHP:http://geocities.com/suzakico/loveandpower.html
に載せてあ。(これは、ロンドンでのYPO−Universityという会合に世界中から集まった100名ほどの企業の社長連中を相手に、私が三回に分けて講義したとき参考資料として配ったもの。)

この論文はもともと1958年に大拙がブリュッセルで“In Defense of Spiritual Values in the Contemporary World.”という会議で話した内容。以下に日本語訳の部分を抽出してお

「いまだかつて、人類の歴史において、現代の世界におけるほど、精神の指導者ならびに精神的価値の高揚が差し迫って必要だったことはない。。。

今日、世界が憎しみと暴力、恐怖と裏切りの腐敗した空気に満たされているのは、ひとえにわれわれがこのことを十分に認識しなかったことによる。。。

今日、我々の考え得る、そして、その実現をねがうさまざまの精神的価値のうち、何よりも切望されるものは愛である。

生命を創造するのは愛である。愛なくしては生命は己を保持することが出来ない。。。

7世紀のころ、華厳哲学として知られるひとつの哲学体系が開花したのは、極東の地においてであった。華厳は互いに融通し、互いに浸透し、互いに関連し、互いに無礙であるという考え方に元ずく。

この一切の相依相関を説く哲学が正しく理解されるときに、愛が目覚める。なぜならば、愛とは他を認めることであり、生活のあらゆる面において他に思いをいたすことだからである。「すべての人にせられんと思うことは、人にもまたそのごとくせよ。」これが愛の要旨であり、相依相関の認識から自ずからうまれてくることである。。。

愛とは我々に外から与えられた命令ではない。外からの命令には、力の意味がふくまれている。。。。

それに反して、愛は、、、自己否定をとうして 、常に創造的である。愛は外部の全能なるものを待たずして、みずから働く。愛は生命であり、生命は愛である。。。

愛は生命に形を与えようとして、さまざまのすがたに「自己」を表現する。形は必然的に個別的である。そして分別する知性は、とかく形を究極の実態とみなしがちである。力の概念はここから生まれる。。。

愛は肯定である。創造的肯定である。愛は決して破壊と絶滅には赴かない。なぜならばそれは、力とは異なって、一切を抱擁し、一切を許すからである。愛はその対象の中に入り、それとひとつになる。。。

 

「愛と創造力はひとつの実体の両面の姿であるが、創造力はしばしば愛から切り離される.この不幸な分離が行われるとき、創造力は力と結びつくことになる。力は愛や創造力よりも下位のものである。力が創造力をわがものとするとき、それはあらゆる禍を引き起こす危険極まりない要因となる。。。

力の観念は、実在の二元的解釈から必然的に生まれる。二元論がその背後にそれを統合する原理のあることを認めようとしないとき、その生来の破壊的傾向は、奔放に、ほしいままに露呈される。。。

力の観念は、人格とか、相互依存とか、感謝とか、そのほかさまざまの相互関係の心を退ける。。。

力とは人を物に変える「ちから」である、と定義したのはシモーヌ・ウェイルだったと思う。自分は愛とは物を人に変える「ちから」である、と定義したい。

かくして愛は力と根本的に対立するもののようにも見える。。。これはある程度までただしい。だが真実には、愛は力に対立するものではない。愛は一切をつつみ、一切を許す。。。

力が悟りを体験するには、まずその目隠しを取り除かなければならない。この体験なくしては、力の近視眼的まなこには、真実の姿はうつらない。。。

だが愛は力を超越する。なぜならば、愛は実在の核心に浸透し、知性の有限性をはるかに超えて、無限そのものであるからである。。。

愛は信頼する。常に肯定し、一切を抱擁する。愛は生命である。ゆえに創造する。そのふれるところ、ことごとく生命を与えられ、新たな成長へと向かう。。。

愛は実在をあるがままに正しく見ることから流れ出る。そこで我々に次のことを教えてくれるものも、また愛である。すなわち、われわれ、、、は、善にもあれ、悪にもあれ、この人間社会に行われることの一切に責任がある。だから我々は、人類の福祉と智慧の全体的発展をさまたげるような条件を、ことごとく改善、もしくは除去するように努めなければならない。


ここに載せたものは、p。486−492から勝手に抽出したものなので、さらに興味のあるかたは大拙全集14巻をご参考まで。)


もとの題は「Love and Power」。ある意味ではここで言う「愛」は仏語であり、他のいろいろな「言葉」があてはまるが、「それ」は読む人の参究すべきところであり、「そこ」からの展開を、、、それがなんであれ、、、大拙は願っていると思う。

 

回、ぱらぱらと読み直してみると感慨ふかいが、わたしのそのときの講義のねらいは、経営において経営者の力、知性的有利さなどにとらわれて全体のバランスを欠くと、経営(→人としての)の根本理念を見失うことになるのではないか、というもの。

 

上のものは仏教(→宗教)の基本とも言うべきものと思うので、ここに一部を再掲載しておく

「力は愛や創造力よりも下位のものである。力が創造力をわがものとするとき、それはあらゆる禍を引き起こす危険極まりない要因となる。。。

愛は力を超越する。なぜならば、愛は実在の核心に浸透し、知性の有限性をはるかに超えて、無限そのものであるからである。。。

愛は生命である。ゆえに創造する。そのふれるところ、ことごとく生命を与えられ、新たな成長へと向かう。。。」


仏教用語を使えば、ここでいう愛は大悲の働きを意味し、(愛と)大智は知性にしかるべき意味付けをし、かつ「創造性のはたらきを現」ものだろう。ところが誤って論理(分別・知性)を使うと、それは煩悩を引き起こし、不必要な苦を生み出す。八正道で正思とあるのは、その意味で苦を抜き、しかるべき法にそった道をあゆむと言う意味あいを持っていると思

 

上で言っているところを私なりに要約すると:「言葉をもとに論理が働くのだが、それが「愛」という基盤なしに為され、「力」と結びつくと、個人的にも社会的にも苦、煩悩、不幸せをもたらし、法にそって正しく生きるという道から外れる」ということだ。

 

禅と論理


次に大拙全集の別巻2に「禅と論理」という題の文(もとは1941年に中外日報に載ったもの)があるので、これから禅と論理、(分別・知性)の関係について調べてみ以下の文を注意深く読めば、上述の「愛と力」で大拙がいっていたポイントが背景にみられるはずだ。

禅は二重に誤解されている。一は一般人の誤解、一は禅家自身の誤解である。いずれも論理と言うものの性質を究めぬからだと思う。

一般の人は言う。「禅は非合理だとか、超論理だとかいうが、そんなものはありえない。いみじくも人間が経験するものなら論理のあてはまらぬものはない。禅家がやたらに超越性を振り回すのは、つまり彼らが論理そのものを知らないからだ。」と。一般人は自分の論理を唯一のものとして禅経験を分析せんとする。

禅家にはまた自ら禅家の言い分がある。いわく「自分たちは何も禅を神秘化せんとするものでない。が、一般の言う論理なるものは、隻手の声を聞くところには、何の足しにもならぬ。哲学をやったとかいう人でも、「無字」をみるという段になるとしゃべりはするが、さていよいよということになると、手も足もでない。そこが禅の超越性・非合理性なところである。一般の論理はなんであろうと、禅経験はそんなものに律せられぬ」と。

これはいずれも一応の申し開きの立つところがある。但し双方とも、論理と言うものをもって、なにか「客観的」とでもいうような他律性のものが外にあって、それが我々のすべての経験を規定していくものと考えている点においては、同一軌道を馳せまわっているといってよい。

 

元来一般に考えている論理と言うものは、人間の経験を分析して出来あがったものである。何も他律性を持ったものでない。それからいままでの論理が、人間の経験の全部にわたって、性格に、精密に、周到に、その力を致したというわけでない。論理は何時も第二義である。第二次性を持っている。人間の経験は底も知れぬところからでてきている。それゆえ。我らのまず目をつけるべきところは、経験そのもので、論理ではない。論理は後からのものだ。後からのものは死んだもので、物の形骸である。いつも論理論理とやかましく言うに及ばぬ。

論理を先にして、それで人間の万事を規制していくのは、家を建てるにものさしのみ先行要件とするようなものだ。まず家を作るという意図がなくてはならぬ。その意図を空間的に具現させるとき、ものさしを借りることになる。初めからものさし一本を振り回しても言えは出来ぬ。物差しの動きはものさしでは決められぬ。その後に意図がなくてはならぬ。思想がなくてはならぬ、更に生きている人格がなくてはならぬ。それゆえ、ある特定のものさしで間に合わねば、何かまた他のものをつくる。。。

禅家も一般人も、論理と経験との関係を、こんな風に考えていかなければならないと、、、思うのである。
」(大拙全集別巻2、p。111〜3)
 

ここで論理は知性という風にいってもいいし、それは言葉について回るものだろう。そしてその言葉は便宜上作ったもので、その出来た背景には経験があり、その経験をあいまいにして言葉、論理、知性を振り回すと、あたかも迷子がるように、もともとの意図、ねらいと「ずれ」を生ずる、、、といったものだろう。(参考資料:中山正和さんがHBC−脳コンピューターモデルーでこの過程を丁寧に説明している。 たとえば『頭が良くなるまじめな話』p162−)

解剖学的に人をみれば、人間は左脳と右脳のつながった脳を持ってその全機現を、、つまり能力をフルにつかうことが「生き生き」の原型と考えられる。そして左脳は言葉・論理、、そして通常いう頭の働き、あるいは意識の働き、右脳は直観につながる無意識の働き、とりあえずみておく(無意識とか直観という言葉の意味合いは微妙だが、今はそこには触れないこととする)そうすると、上の大拙の言葉のねらいは「そこ」(→全機現)を見ていることがわかるだろう。

ところで、このことに絡んで、カントは「直観のない概念は空虚であり、概念なき直観は盲目である」一方、アインシュタインは「宗教のない科学はびっこであり、科学のない宗教はめくらである。」といっていが、これらのいうところは上でいうところと密接につながっているだろう。(ちなみに私の英語の本:Results from the Heartではこの二つの言葉を引用し、経営を知性以上の「もの」、つまり「ハート」(→大拙のいう愛)に基づくようにという提案をし。)

 

 

ここで、上記大拙全集からの引用を続けて先に進む

(注:(S)と、ところどころにある部分は私のコメント):

 

例を挙げて説明する。。。。

ある時薬山が坐禅をしていると、弟子の一人が、
「和尚さんは何を思量していられますか?」
「一箇の不思量底を思量しているわい」
「すでに不思量底ならば、どうして思量せられましょうか」

これはいわゆる論理のものさしではかっての話である。すでに思量できぬというものなら、それはなんとしてまた思量の対象となることができるか。一はいつまでも一でなくてはならぬ、これは論理の要請である。。。

すると薬山は「非思量!」とやられた。

彼は実にこの大喝によって「思量」と「不思量」を一気に吹き飛ばしたのである。

不思量と非思量と、どうちがうなど、そんな「論理」的な問いを出すに及ばぬ。。。我々の面前に、露堂堂と突っ立っている時「貴方が和尚さんでしたか」などと訪ねて見る余裕はないのである。。。今までのもので、彼を説明できぬというなら、それはそれにしておいて、別にそれのできるものをかんがえようではないか。「考え」から「薬山」を見ないで、「薬山」から「考え」を作るのが順序であろう。。。

薬山の「非思量」は実に思量の範疇にねじ込みえべきものではないからである。。。禅を語るときには何時もここに注意しなくてはならぬのである。活人現前と言うことが禅体験の目的である。それゆえ、「非思量」は論理の詮索の対象とはならぬ。「非思量」はもっとも愚代的な真実そのものなので、一切はこれから搬出されるのである。
(P.113-5 一部省略)

 

(S)これは禅の公案のひとつを大拙が彼なりに説明しているわけだが、すでに述べたように、論理のみで上のやり取りの意味あいを納得するということを禅は狙っていない、ということをよくわきまえないといけない。言うならば、第三の眼をもって(直観で、あるいは身心での原体験として)上の意味あいを「つかむ」ということが、狙いなわけだ。

 

さらに大拙はもうひとつの例をとって説明する:

 

趙州に、、、一僧ありて問う、
「これ仏にあらず、これ物にあらず、これ衆生にあらずというときは断語(否定語)なので、十分とはおもわれませぬ。何かもっと積極的ないいまわしはないでしょうか?。。」

趙州はこれにこたえて、
「天上天下唯我独尊」

これは単なる、、、自己肯定ではない。却って自己否定の深奥から自然にほとばしり出た処の絶対句である。それゆえ、この絶対句は論理で規制せられるべきものでない。論理は却って、この事実に基づいて構成せらるべきものなのである。「独尊」は言説の沙汰とみるべきものでない。
 (p。116)


(S)ここのポイントは、論理だけをもって「天上天下唯我独尊」はきわめられない。「天上天下唯我独尊」から論理は構成される。それで無門関(一方通行の関:不可逆)というようなものだ。前に「愛」が基盤にあるといったが、「愛」ではピンとこないなら、「宇宙のプログラム」、「法」(のはたらき)、でも良い。

こういう表現を始めて読むと、そんないい加減な、と思うかもしれない以前のわたしもそうだったかもしれない。でも論理のでる根っこ(→存在の根源にある「体験」あるいは「はたらき」)がある、というのは、、、つまり、論理はそれのみで完結しているものではないというのは、、、大拙も彼なりの「体験」より疑いのなかったところであろうし、私もまた、そう肯うとしかいえない。その「はたらき」に目覚めるというが禅(仏教、そして宗教)のねらいということなのだ。

 

良い悪いは別として、というのもそういう判断のでる以前の問題であるのだから、かりに理屈でこの辺の背景を説明をすることはできても、それは紙に書いた餅であって、畢竟食べなければいかんせんしょうがないということだ。 

 

それで究極的には各人が修行・工夫しないといけないわけだが、、、、それはここでの目的ではないし、話が進まないので、赤子が生まれ、育っていく際に、いかに言葉とその使い方を覚えていったかという経過を例にとって考えてみよう。子供は周囲で言葉が使われているさまざまな様子(情報)を「感じ取る」事により(つまりまわりからの情報の刷り込み、記憶、と自分なりのチェック・試行錯誤により)「覚えて」いったのであろうが、言葉という道具で自分なりの論理を作ることは出来ても、それらの言葉と論理、そしてそれに伴うイメージの「チェック」という点ではあいまいなところがあるのではなかろうか。

 

つまり、子供が成長する過程でいろいろな情報が、あたかも吸い取り紙で吸い込まれるようななかで、言葉・論理をどう「正しく」「法にあったように」受け止め、どう使うかという点について「しかるべきやり方」がどうなっているのか、ということだ。そもそも悩み、煩悩、苦、などというものはその辺があいまい(→無明)ということに起因するのではないか、ということだ。

なぜ大拙はあんなに多くの(身長大の)本を書いたのか?
その答えは目の前にあるのだ。
説明が不十分だというなかれ。
答えはみずから見出すものなのだ。
それでなければ何の役にも立たない。

ただ、禅・仏教・宗教側ではその役割をはたす準備があるということだ。

 

大拙は続ける:

 

隻手の声とか趙州の無字とかいうとある意味では観念をもてあそぶものと見なされるかも知れぬ。それで一般人も禅家も、論理を限界として、超越とか、内在とか、矛盾とかなんとかいうのであるが、「非思量」は全然別の立場から領解すべきであるということが納得せられると、禅にはまた別調のあることが肯はれよう。非思量を思慮分別の上から見ようとするとき、作られた論理がものをいいたがる。はじめからそんなものを考えずに、、、非思量ととりくむのである。

近頃流行の禅ではとてもこんなところに到得すべくもないが、またなにかの縁にはなる。
。。神がかり的なものを、宗教とこころえぬようにしたいものだ。もっともっといいたいが、それよりも、次元を異にしたものへの横超が肝要なのである。(p。116−7)


上で引用した大拙の文では禅と論理の関係がある程度は説明されているが、禅がどのように論理を使うか、、、と言う点についての説明いまひとつはっきりしないとも思われるので、そこのところを次に見てみよう

 

是を読んでいる人で禅の公案にはなじみのない人もいるかとも思われるが、それはそれとして、論理をどう使うか、ということにからむ公案があるのでここに二つほど書きしるしておく。(こうかいておけば、あるとき、気づくということもあってのことと思うからである。)

 

[趙州万法帰一]

 

僧:「万法は一に帰すといいますが、その一は何に帰するのでしょうか?」

趙州:「俺はこの間、故郷に帰ったときちゃんちゃんこを一枚作ってもらったが、まことに軽くて暖かいぞ」

 

[趙州12時を使う]

 

:「十二時中、どのような心を用いていたらようございましょう

注:十二時とは一日二十四時間という意味)

趙州:「おまえは十二時に使われているが、老僧は十二時を使いこなしている。



ところで、禅と論理の関係が明確にならないと空病あるいは悪平等などという問題もでてくるということは知っておくべきだろう。(これはここ↓にまとめてある

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kuubyou.html
(注:このファイル「空病について」は、禅者が、いわば論理・社会性を無視し、慢心に陥る、と言う落とし穴について、私なりまとめをしたもの。オカルトもふくめ、宗教はどうしても一般の論理の範疇を超え、我々の潜在意識とか無意識の部分にかかわるものなので、落とし穴には十分注意しないといけない。もっともその注意の仕方がわからないというのが一般なので困るわけだが、是に関しては別途まとめたいと思う。)

 

禅の論理的裏づけと智慧を出すということ


宗教的な臭みをとって、禅を論理的に解明しようというこころみは故中山正和氏が「悟りとアイデア・智慧の発見、つまり創造性のメカニズムは同じであろうう説脳の構造をモデル化(HBCモデルーHuman Brain Computer Modelと名づけている)して説明ていので、興味のある方はHPにある「お勧めの本・修行法」に載せた中山氏の本を参照されたい

 

中山氏は工学系のバックグラウンド、大拙と生まれ育ちの背景がまったく違うにもかかわらず、同じ「禅の原点」とでもいう境涯に行き着いたと見えるのが面白いところだ。(注:中山氏は、洞察力、カンの構造、ちえの構造、悟りの構造、悟りと発見、禅と脳、創造性開発の原理原則、など多数の本を書いている。)

 

(中山氏に絡んだファイルはHPの「トピックごと索引」のなかに「創造性にからむもの」という題でまとめてあるのでご参考まで:http://www.geocities.jp/suzakicojp/youkoso-topicgoto.html 

智慧・発見・悟りの構造をあらわすHBCのモデルはここ↓に簡単にまとめてある:

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/souzousei.html#_Toc57353508

 

ここでは中山正和の「なまけ禅手引き書」という本引用して、禅の構造をいかに論理的に説明できるのか、、あるいは禅のねらうところを体得すると、いかに固定観念にとらわれなく、智慧を出して頭うまく使えるのかという点を調べようつまり、もし禅の悟りが苦の問題解決に役立つのなら、その方法は智慧・アイデアの発見、頭の使い方、判断の仕方などにも役立つだろうというわけである。

 

ところで禅はインドから伝わってきた「仏の教え」(→お経)を元に、実践的に物をみる中国人が、インド人の好む形而上学的な臭みを取って、大地に植えつけたような意味合いがあるというのは知っておくべきだろう。

以下は、中山氏の本「なまけ禅手引き書」からの抜粋:

釈迦牟尼は「人の悩みを救う」という「問題」をとくのに、はじめは科学的方法に従ったのですが、それだけでは完全な解を得ることが出来なかったので、独特の方法として「仏法」という方法を考え出したのです。

その特徴は「全機現」ということです。科学的方法は頭で考えること一点張り、宗教的方法は理屈を言わないで体で修行する一点張りなのに対して、この両方を矛盾なく両立させることです。人間の持っている機能を全部現す、もっとも合理的な生き方をするという意味です。

これはただ科学的方法と宗教的方法の中間をとるとか両方を含むのではなく、まったく新しい次元でこの両者の対立を消去しようという、難しくいえば弁証法の立場にたつものなのです。。。

要点だけをかきますと、
1)宇宙の大法則を確認しておくことが前提であること。できることと出来ないことをはっきり区別するのです。出来ないことをのぞんでも仕方がない。
2)「真実のデータ」を基にすること。 (正しい観察・観測をする)
3)正しい推論をすること。(特にデータをして語らしめるというのがポイント)
4)言葉の嘘にだまされないこと。(固定観念をきるのが大事ということ)

創造学でも、創造性を阻むものの第一が固定観念であるということはよくわかっているのですが、さてこれをどうきるかということになるとなかなかうまい手が見つからないのです。「なまけ禅」めざすところはここです。

釈迦は自分の経験からこの方法を編み出したのですが、ここで彼は発見をしたのです。発見と悟りとは同じ構造であるというと宗教家は怒るかもしれませんが、脳のはたらきからいうとおなじことになるので釈迦の発見はつまり悟りといわれるものであったのです。創造学でいえば「仮説設定法」ということになりますが、それはどういうことかというと、「言えない」、ということは発見するのは「縁」があったからだ、縁のない人にはわからないのです。
 (p。7−8)


(S)要はアイデアは向こうから歩いてくる、、というようなものだ。
ただし、そにはコツがあるし、それは体得できる、、というもの。つまり、「縁」「アイデア」「ツキ」「智慧」「コツ」は法にそった生き方、あり方を修証するとき見出すことが出来るというわけだ。

おおまかにいうなら、だが、修証一等というのが道元。
いわゆる戒定慧もそのプロセス。。。とな

(慧能の定慧一等については別途言及したい。参考資料に:大拙2巻、p。224などがある。)

で、そこがうまくいくと、
固定観念にとらわれず、、、(道元は柔軟心という。禅の語録やお経を読むと他にも同じ意味あいの表現は山ほどある。
苦集滅道(四諦)がわかり、、、
余計な心配、煩悩をきった日々の生活ができ、
したがって頭にゆとりができ、
なすべきことがわかる、、、云々、

といったもの。

中山氏いわく:

 

釈迦の願いは「大衆を救うこと」でした。自分を救うのは声聞、縁覚の道を究めればいいが、それだけでは他人をすくうことはできません。何が障害になるかというと 「自己と他人とは同じである」ということを腹の底から意識することが出来ないのです。「不二」といいますが、この心境になるのは理屈ではない。理屈を言ったらなれるはずがないのです。しかしたとえば母親のわが子に対する愛情をみてごらんなさい。幼児の痛みは即母親の痛みです。これが宇宙の大法則なのですから、その法則さえわかれば声聞縁覚もその心境になれないはずはありません。

だから声聞、縁覚はもし大衆を救おうとするならば、自らの学識の上に「不二の法則」を体で体験して付け加えなくてはなりません。これを修行というわけでそのために釈迦は「六波羅蜜」と言うテキストをつくり、これを菩薩道となずけたのです。
 (p8−9)


小乗のひと(実際は禅をやっているというものもかなり多くが声聞に近いと思われる、、、)要は大衆を救ういう問題意識がなくて自分のことで手一杯、といったわけなのだろう。

 

ただしはじめに自分の苦を抜けるため、とおもって修行をしていたのが、いざやってみて、それができるようになるにつれ、人間としての構造はだれしもおなじで戒はだれにでもあてはまるだろうから、自分が苦を背負い込まないということは他人にもそうしてはならないと気づくようになるように思う。

 

(修行を進め、苦の生まれる構造が身にしみてわかるにつれ、だんだんと出家したい(つまり社会のややっこしいところにはいたくない)という思いも生まれてくるようにも思うが、究極的には生きていく方向をみいだすという智慧は、各人各様、それぞれの状況にそってあらわれでる、といったことと思う。)



中山氏:菩薩道の修行に学問は必要ありませんから、誰でも黙って六波羅蜜さえ行ずれば菩薩への道を歩くことは出来ます。。。ただ釈迦の哲学に依れば,本当は(彼が歩んだとうり)声聞、縁覚をへて、菩薩道に入るのがのぞましいので、はじめから菩薩道を行くということは、間違いない方法なのですが、知識が不足しているということは他人を説得するという点では確かに不利ですし、自らの体験を論理的に整理して次の発展を計画することがむずかしくなりますから、自己を菩薩として完成させるには非常に長い時間がかかることになります。。。。無量の時間がかかるということです。 (p。9)


早い話、これまた絶体絶命だ。もともと業を逃れて人として生きるということは無理なのだから。

だから菩薩はみなが悟るまで自分は悟らないということにもなるわけだ。「衆生病む、ゆえに我病む」(維摩経)

 

 

中山氏:達磨は、釈迦は「凡人」のためにこういう修行法を教えたのだが、もし十分に知的レベルの高い人なら、意識的に固定観念をきることが出来るだろう。それはなんでもない、平素から「考えても仕方がないことは考えない」と言う癖をつけること(莫妄想)もうひとつは六波羅蜜の「禅定」に重点を置くということです。(p。12)


これはそのとうりなのだが、やはり人それぞれなので、いろいろな道(少なくとも3乗)を示さないといけないということだ。それと、、「考えても仕方がないことは考えない」と簡単にいうけれど、そのことがわかるには智慧がいるという意味合いある。それで中山氏のいう「なまけ禅」では、坐禅せずにいかにそのことを体得するかというのが眼目となるわけで、そこをまとめると次のようなことになる。

要は、いつまでも悩みが取れないのは、自分が救えないのだから、その状態はいわば固定観念にとらわれていると見ることが出来る。創造性が働いてないと言うわけだ。そこで莫妄想、あるいは道元の「畢竟してなんの用ぞ」でなんでそんなばかばかしいことをするのか、そんなことをしている自分をながめようというのが、智慧を出し煩悩をきるという合理的な方法と言うわけだ。

 

つまり釈迦は生老病死など「苦」に焦点を当て、苦という問題を解決するために智慧を使って見出された修業を人々に勧めたわけでそれはまた本来正しい頭の使い方を見出すというのとほぼ同義ということ。

ここで問題解決の一例として科学上の発見(つまりなかなか解けない難しい問題を解くということ)はどういうときにおきるかということについて中山氏は数学者ポアンカレと岡潔が言っているポイントを取り上げている:


1)理性的努力がなければ発見(インスピレーション)はおきないが、それがおきるのは理性的努力の直後ではなく、だいぶたった後のことである。
2)発見はあるとき突然起きる。
3)一時に全部わかる。
4)たいていの場合、発見したことは理性が予測した枠外にある。
5)間違いないという核心がある。
6)するどい喜びを感じる。
p。15)

要は意識して理ずめに考えているときにはインスピレーションがおきない、、、ということは意識の働きではない。。。とするとこれを無意識というほかない。そこでこの無意識の働きを意識」するというのが「全機現」ということ。

ポアンカレ・岡では「考える種がなくなるまで」考えたらもはや考えることは出来なくなる。(少なくともその問題については)意識と無意識はここで一致する(意識即無意識)というわけだこれは上記、薬山の非思量におなじ。

中山氏の言う「なまけ禅」ではこのことを重視し、漠然と坐禅して無念無相を体験するという修行を排除して、禅の公案を使って、「考える種がなくなるまで考える」と言う方法をすすめており、やっているうちにコツがつかめ、固定観念をきるのがうまくなる、創造性がはたらく、つまらないことに頭を煩わさないようになる、、、ということをねらいとしている。(盤珪禅のように公案も坐禅も使わないというのもあるが、それについてはあとで言及する。)

ということで、知性、論理、と禅、そしてなまけ禅のやり方(発見・インスピレーションの体験をもとにした仮説)は、ここで述べたように論理的つながりがあるわけで、智慧のメカニズム「そのもの」は依然としてわかりにくい(→種の進化と似ていてそのもの自身はわからないように思え)としても、公案であれなんであれ修行、そして法にのっとった生き方は可能であり、それを見極め、多くの衆生を救ったのが釈尊というわけ

 

中山氏:「お釈迦様のやり方はこのように論理的なのです。。。人間独特の理性の使い方を教えているのです。。。(要は)智慧を出しやすいようにするためにイメージを自在にしておくことを忘れるな、それが前提条件だというわけです。そうしないと、理性をはたらかせたつもりでも、その理性は本当の理性としての働きはしていないのです。」(禅と脳p。87)

 

イメージを自在に、、というのは前述の「考える種がなくなるまで」考えたらもはや考えることは出来なくなる、という境涯。ということで、少なくともその問題については)意識と無意識はここで一致(→意識即無意識;全機現)する。。(→薬山の非思量におなじ)、ということ。

 

ところで、禅者と名乗るものでも独善、高慢、あるいは地位・名声・権力を乱用するものなどかなりいい加減の者もいるようから、法にそって生きるためには修行にはきりがないとみるのが正しい見方と思う

ちなみに釈迦の最後の言葉にこういうのがあ
「私は正理と法の領域のみを歩んできた。これ以外には道の人なるものも存在しない。。。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。」

(ブッダ最後の旅、岩波:p。150,158)

「法の領域を歩く」というこの言葉は私は「未完成の完成」、「悟りは現在進行形でなければならない」と言う意味あいに取るというのが実践的な見方であり、まただからこそ、ひと・人類としての法にそった「生き生き」(→全機現)の展開があるということだと思

 

(注:悟りについて大拙全集一巻、p。106に二種の悟り、つまり一つは分別知の上での悟り(気づき)(たとえばアルキメデスのユーレカ体験)と無分別の分別の意味の悟り(境智冥合:分別知をそのままにしての了知:私の「鏡のこころ」と呼ぶもの)とをわけてみているが、ややこしくなるのでここではそこの調べはしない。)

 

 

修行の意味あい

 

仏教には戒定慧(三学)というのがある。ここでいう戒は定慧(→悟り)を導き出す、、つまり法の道を歩む妨げになることはしない、、という意味あいがあるが、是を逆に見ると、定慧があって戒(智慧の働きが論理化されたもの)がでる、ともいえる。戒というと五戒(酒を飲まない、云々)とか十戒とか言うが、たとえば六波羅蜜も八正道も仏の智慧の(体現されたものが、さらに)論理化・体系化・言語化されたもの、と見ることも出来るだろう。

 

ところで、仏道を学ぶというのはスポーツや芸道を修行するというのと似ていて、これらの論理化・体系化・言語化されたものが実践で、「正理と法」が「意識することなく」日常に働き出るというのが、どうか、ということだ。つまり「無意識の意識」というように、「そこ」がちゃんと(自ずから行為して、自ずから)チェック・確認できているかどうか、、、これが修・証の意味あいということだ。

 

つまり、一般には「悟り」を会得するというのが「修行の眼目」というが、それはそうとしても、究極には戒即定即慧、あるいは八正道即悟りの内容、、、そして修即証、つまり修するということがそのまま証する、につながるという手段=目的というところ(これが法を求めるものは法を求めてはならないー維摩経−につながる)を「体得」すべきということであろう。

 

ちなみに道元が発心、修行、菩提、涅槃は同時の発心、修行、菩提、涅槃であるというのは、まさにこのところをみているわけであり、さらに百千万回の発心、、修証しろ、といっている。(道元『正法眼蔵』発菩提心)さらに、こうある:

 

即心是仏とは、発心、修行、菩提、涅槃の諸仏なり。いまだ発心修行菩提涅槃せざるは、即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり。たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり。たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり。たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり。たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。(道元『正法眼蔵』即心是仏より)

 

こういったことをふまえ、これまでみてきた、「愛と力、禅と論理、智慧、」、「大悲、大智」を体得するのにどう「修行」したらいいのかつぎに調べてみよう。

 

菩薩の修行:六波羅蜜

 

八正道が声聞の、六波羅蜜が菩薩の修行、というのは良く知られているが、ここでは大乗の修行として知られる六波羅蜜について調べる。以下はウィキペディア(Wikipedia)によるもの。

 

布施波羅蜜 - 檀那(Dāna ダーナ、だんな、日本語訳:布施)は、財施・無畏施・法施の行。檀と略す場合もある。

持戒波羅蜜 - 尸羅(Śīla シラー、しら、日本語訳:持戒)は、持戒(戒律を保持する)こと。

忍辱波羅蜜 - 羼提(Ksyānti シャンティー、せんだい、日本語訳:忍辱)は、苦難に耐え忍ぶこと。

精進波羅蜜 - 毘梨耶(Vīrya ビーリヤ、びりや、日本語訳:精進)は、身心を精励して六波羅蜜を進修すること。

禅定波羅蜜 - 禅那(Dhyāna ジャーナ、ぜんな、日本語訳:禅定)は、真理を思惟して散乱の心を定止すること。四禅・四無色・九次第定・百八三昧など。

智慧波羅蜜 - 般若prajñāプラジュナー、はんにゃ、日本語訳:智慧)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。

 

すでに述べたように、修証一等で、手段=目的とみる。即ち自ずから上のような行為が日常の行為に自ずからにじみ出てくる、これが法の道を歩むということであり、それが常に自ずから行われるというのが、悟りの現在進行形の意味あいと私はみる。

 

また布施波羅蜜を大悲、智慧波羅蜜を大智とみると、大悲大智が修証されるというのが菩薩のあり方であろう。

 

声聞の修行:八正道

 

菩薩の修行に対し、声聞は小乗ということになっており、声聞の修行は正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定を八正道とされているが、ここでも上で言った修証一等の見方を適用して、大乗、小乗という風にこだわることなく、こういった修行は大智大悲の現われであり、それが日常の行動に自ずからでてくるというところを修し証そう、というのが法の道を歩むということとおもう。

それぞれの人の性格によって修行の性格がことなるという風に一般には説明されているが、たとえば正語、正業、正命は戒、正精進、正念および正定を定、正見、正思惟を慧、というように見るという見方もある(ゴエンカ氏)が、修と証が同時(一等)であり、戒も定も慧も一等(戒即定即慧の意)と見るというのでもいいと思う。

(この辺はさらに細かく言うとプロセス(暫)で見るか空間的(頓)の意でみるかなど、微妙なところであるが、それについては今ここでは言及しないこととする)

 

 

修行と般若心経(五蘊皆空)

 

ここでは般若心経に書かれている「五蘊皆空」の意味を探り、仏教の見方、修行の仕方がいかに論理的に説明できるか私のヴィパッサナ体験も含めて試みてみたい。

 

(注:ここでみるものは公案をもとにした修行ではないが、根本のところで連絡のあるところであり、前に出た「非思量」の意味あい(→つまり分別のみにとらわれない、と言う意味合い)についても別の角度から納得できると思う。)

 

般若心経はその出だしに:「観世音菩薩行深般若波羅蜜時照見五蘊皆空度一切苦厄」とあり、この一文で般若心経のすべてがまとめられている。簡単に訳すと、観自在菩薩(観世音菩薩のこと)が般若波羅蜜の修行をしていた「五蘊は皆であり、従って一切苦厄から解放されたと身心で「わかった」、、ということ。(注:般若波羅蜜の修行をした「から」わかったのではない)ここで五蘊とは色受想行識、つまり我々の身心のありようのすべてをしめしている。

 

こまかくいうと色はこの場合は肉体のこと。受はそとから刺激を受け取る感覚器官の働き。想はそれによって引き起こされる思い(気持ちいい、悪いといった感じ)、行は行動(心の癖にもとづいたもっと欲しい、嫌だといった反応)、識は意識の働き(じゃあこうしたらどうか、ああしたらどうか、、、といった心の動き)したがって五蘊皆空はそういった働きはみな実体がないということ。(あるいはそれらは皆縁起によってできているのでつかみようがない、ということ。)

 

このあと色即是空、云々、とその内容を丁寧に説明しているが、要はそれら一つ一つがそれぞれ空ということ。そこで自在菩薩は固定観念、心の癖、などにとらわれることなく自在に(赤子の心のように素直にー非思量でー但し智慧の目をもって)観た、(そしてあたかも智慧の光に照らされたが如く、空と「わかった」)というわけだ。これが自在(→悟り)の境地、というわけである。(だから坐禅などの修行によって是が直接体験→体得できればいいわけだ)

 

原始仏教における五蘊皆空

 

ここで、空について原始仏教ではどのように扱っているのかをみてみると、たとえば長阿含経にMahasatipatthana Sutra(SD 22)というのがある。(ウィキによると中国では念處經といっているらしいが日本語の訳はさーっとネットを調べた限りではみつからなかった。)

このお経はヴィパッサナの修行と同じところをみていると言うのがゴエンカ氏の見方だが、それはともかく、このお経の中にこういうくだりがある(訳者:Nyanasatta Thera):

2. The Five Aggregates of Clinging
And further, monks, a monk lives contemplating mental objects in the mental objects of the five aggregates of clinging.22

How, monks, does a monk live contemplating mental objects in the mental objects of the five aggregates of clinging?

Herein, monks, a monk thinks, "Thus is material form; thus is the arising of material form; and thus is the disappearance of material form. Thus is feeling; thus is the arising of feeling; and thus is the disappearance of feeling. Thus is perception; thus is the arising of perception; and thus is the disappearance of perception. Thus are formations; thus is the arising of formations; and thus is the disappearance of formations. Thus is consciousness; thus is the arising of consciousness; and thus is the disappearance of consciousness."

Thus he lives contemplating mental objects in mental objects internally, or he lives contemplating mental objects in mental objects externally, or he lives contemplating mental objects in mental objects internally and externally. He lives contemplating origination factors in mental objects, or he lives contemplating dissolution factors in mental objects, or he lives contemplating origination-and-dissolution factors in mental objects.23 Or his mindfulness is established with the thought, "Mental objects exist," to the extent necessary just for knowledge and mindfulness, and he lives detached, and clings to nothing in the world. Thus also, monks, a monk lives contemplating mental objects in the mental objects of the five aggregates of clinging.


日本語訳は省くが、上の中では空という言葉を使ってはいないが、要は五蘊はすべて無常である(実体ない空)ということが(原始仏典でも)釈迦によって説かれたというわけだ。(ちなみにConstant thorough understanding of impermanence-無常の完璧な知覚とでもいうもの、はSampajannaと呼ばれている)

ところでゴエンカ氏のヴィパッサナでは10日のコースを三回終えたものが8日間のサティパターナ・コースを受けられるようになっており、このお経を修行し、体験し、確認することとなっている。(私の場合はこれまでこの8日のコースを三回やって丁寧にこの点を(論理でなく、直接体験で)修証している。)

ちなみに、ウィキペディアによると、このお経はパーリ語で書かれたお経のもっともポピュラーなもので小乗、大乗ともに大事と見られているとのこと

また、このお経の出だしには、ここに書かれた方法が解脱のためのただひとつの道である、と述べられている。
This is the only way, monks, for the purification of beings, for the overcoming of sorrow and lamentation, for the destruction of suffering and grief, for reaching the right path, for the attainment of Nibbana, namely, the four foundations of mindfulness.

注:four foundations of mindfulnessとは体、感覚、心、心の内容についてそれぞれ丁寧に(完璧までに)無常であるということを観ずる(→Sanpajanna)ということ。

原文はhttp://www.accesstoinsight.org/tipitaka/mn/mn.010.nysa.html
による)

要は煩悩の根を抜き、心を清浄(解脱)にするにはこのお経にもとづいて身心の修行・確認(修・証)を行うべしということ

一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静(四法印)を使ってこの修行の意味あいを説明するなら、ここで調べているは、苦・煩悩のありさまをあるがままに見るということであり、さらにそのときすべてが無常であると直接体験するということは、無我(の境地)知る」ということであり、またこの修行において涅槃寂静を体験することが苦を滅するということと、そのことの確認するということになる。但し、是も修行者にとって大事なところだが、涅槃寂静もまた無常であり実体がないということも、これまた各人がそれぞれ修行で修証するところである。

このお経は大拙のいう般若即非の論理に相当するところもあって興味深いが、ここではそれらにふれるゆとりがない。ただ、ここで言及したお経(サッティ・パターナ)はあたかも般若心経のきもを丁寧に説明しているようで、インドから中国にわたって出来あがったといわれる禅の原点がここに見出されると思えるのである

 

これに関して「ブッダ、悪魔との対話」(岩波)(雑阿含経のなかにあるお経)、による五蘊に関するものを参考までにここに載せておく:

 

「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香、触れられるもの、これらに対する私の欲望は去ってしまった。」p。31

 

「色かたちと、感受作用と、表彰作用と、識別作用と、形成されたもの(サンカーラ)と、――私はこれではない。またこれは私に属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執着を離れる。」p。33

 

(さらにこの後〜p。45まで説明がつづく。)

 

五蘊皆空:サッティパターナと臨済

 

ところで上でみてきたサッティ・パターナという原始仏典(お経)で、サッティ(Sati)は気づき、パターナ(Patthana)は智慧の意味あい。つまり智慧によって気づく・あるがまま(〜真理)を知る、(英語だと「Awareness with Insight」という訳となる。ここでポイントをもう一度確認すると、

 

修行のねらいは:

五蘊の働きを直接体験する。
それらの間の関係を見極める。

五蘊=無常、無我を体験する。
    ↓

苦集滅道を体験する。

つまり煩悩の根をぬく。
、、、といったもの。

 

それで般若心経の五蘊皆空、度一切苦厄が体験をもとわかる(証せらるる)というわけだ

 

ちなみに何百年か後に出た臨済はこういう。なんともおもしろいではないか。:

 

「諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼に働けば見、耳に働けば聞き、鼻に働けばかぎ、口に働けばはなし、手に働けばつかまえ、足に働けば歩いたり走ったりするが、もともとこれも心が六種の感覚器官を通して働くのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境涯にあってもそのままで解脱だ。」p。41臨済録、岩波

いうことで、やはり論理は体験の裏づけ(後づけ、あるいは第二義的→空)ということになる。そして(あいにく)体験がないなら、理屈は理屈としても、根本のところでこういう話は通じないということになる。そしてそれでは苦集滅道に結びつかない、というわけだ。(つまり絶体絶命に陥って、苦を味わっているときに論理をもとに苦を逃れようとして、それが一体できるか?というわけだ。そして、もしそれが出来るなら、論理と知識で解決が得られるので人類に宗教は必要ないということになる。)

 

ヴィパッサナを指導するゴエンカ氏は戯論は意味がない、という意味あいのことを言っていた。まさにそのとおり。とはいえ、「月」そのものは手元にないにしても、指差すとことはできる。ただ、大拙もいっていたがチョコレートを食べたことのない人に味をいくら説明してもわからないだろう、ということもよく「わかって」ないといけない。

本来、お経、祖師方の語録、公案、あるいは仏教に関する究極の話は、自ずからわかり、自らのチェックのためにある、というようなもので、これが論理と体験の関係にかかわるところだが、初心のものに対してはある程度の説明はいいとしても、とことん・ぎりぎりのところでは、、、その(絶対絶命を通り抜けるー解脱するーという)体験なしには、畢竟、いくら話しを続けても意味がない、ということだ。だから(方向が正しくないと回り道してしまうが、、)道元が言うように何百万回でも発心し、修・証するということだ。また、仮に「悟った」といってもこの構図にはなんら変化はないということを修行を進めたいと思うものはよく銘記するべきだろう。


ちなみに言葉というもののもつ問題を示すのに、こういう寓話が 

二人は砂漠を渡ろうとしている。一人が目は見えない。

のどが渇いてきて、目の見える人は相手に「ミルクをあげる」と言う。
目の見えない人、「ミルクとは何ですか?」 
見える人、「白い飲み物です」
見えない人、「飲み物は分かりますが、白いは何ですか?」
見える人、「白いとは白鳥の羽の色です」
見えない人、「羽は分かるが、色と白鳥は何ですか?」
見える人、「白鳥は、曲がった首をしている鳥です」
見えない人、「首は分かりますが、曲がったというのは何ですか?」
(相手の腕を取って見せながら)見える人、「こうしたら、まっすぐ、こうしたら曲がっている」。
見えない人、「ああ、ミルクというもの分かった!」

 

――

 

以上、ここで述べてきたのは五蘊皆空、無常、無我修行のポイントということ。また修行なしにその意味あいをあたまでいつまでも考えてもしょうがないということ。また、仮に頭でわかったと思っても、そのわかり方は実践(特に動中の工夫)の役に立たないということ。したがって結論は修し証すべしということ。これはまたサーフィンとか水泳を教室ではならうことができないというのに同。答えは各人自ら(修行して)見出すしかないということになる。

これが釈迦が最後にいったといわれる言葉:「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。」とつながっている、と私は受け取っている。(そして、これがありがたいのだが、、、この意味あいが、人として生きていくうえでどういうことかというと、修証はあくまでも「未完成の完成」、現在進行形、ということなのだ。)

 

 

修行と宗教

ここまでのべてきたように論理・理屈のみでは宗教の根本のところはわからないし、大雑把に言うなら我や業といった苦や煩悩の元凶ともいうべき「固定観念」・「法にそってない論理・頭の閉回路」をこえて、「解脱」し、「自在」になるには、そういった「構造」を飛び越えるという体験が必要というわけだ。したがって禅・仏教のみならず、どんな宗教も、本当の意味では、しかるべき発心・修行なしには成り立たないと思う。したがって頭で「わかる」というのはありえない、といって良いだろう。

 

ところで以下のものは「くつろぎの世界」のトピ(掲示板)に載せたもの修行というものを「視野を変えてみている意味合いがあるので、参考になるかもしれないのでここにコピーしておく

目の前のこと(あるいは心の対象)とらわれない(〜それがすべてと実体視しない)というのはいろいろな場面ででてくる大事なポイントと思う。

サーフィンの場合、目の前にある情報だけにとらわれると、いわば無意識からの情報(肉体の記憶)から智慧を出して、どんどん次の手をうっていくという、、、つまり将来を先取りした、、というような操作がうまくいかなくなり、波にうまく乗れなくなる。

これは剣道でも株の売買でも、囲碁でも、、、そして仏道でも、、、おなじだが、こういった処理がうまくいかないと、いわゆる成所作智と言う奴(実はこれだけではなくて四智すべてだが、、、)が働かなくなるということにつながるだろうムカデが自分の足をどうやって動かしたらいいか考え始めたら動けなくなったという話もある。したがって修行のねらいは、あくまでも「心の欲するままにしたがって矩をこえず」(孔子)というわけだ。それで、、この境涯が無意識の意識(あるいは身心の全機現)ということ。。

ところで、コンピューターにキャッシュ・メモリー(すぐにアクセスできるメモリー)というのがあるが、これにはいっているメモリーが目の前の情報ばかりだと、目の前のことのみにとらわれてしまい(意識)、もっと奥のほうの大事なメモリー(無意識)に気づかないということにもなるだろう。これでは視野がせまい、したがってそれを基にした判断はとかく間違っている可能性が高いというわけだ。

そこで全機現(意識・無意識をフルに使う)の修行が大事というわけだが、これに関していろいろなが思い起こされる。(論理的にはギャップがある、あるいは意味が不明、、のように見えるかもしれないが、それなりに「意識・無意識をフルに使う」という「理由」があるのだ。)

足の裏で呼吸する、、、(白隠の内観)
丹田に中心を置き腹式呼吸で下半身に力を入れていく、、、(白隠の内観)
息をしながら鼻の下での微妙な感覚を知覚する、、、(アナパナ)
坐禅しながら時々腰をひねる(少林窟)

―たとえば是を読みながら鳥の声などを知覚し、それが何かが考えずにわかる(盤珪、ヴィパッサナ・サティ)
体全体の微妙な感覚を知覚する、、、(ヴィパッサナさらに身心ー五蘊ーなどのあるがままを観る・知る・知覚する・気づく・目覚めている)
、、、などなどやり方はいろいろある。

(そう、道元の一方を証すれば一方は暗し、、というのもあるが、これは全機現がうまくいっていないときのことで、かがみにかげをやどすがごとく、、、というのがいいわけだ。→HPに載せた「鏡の心」を参考まで。

ちょっとながめただけでは、これらの意味あいはピンとこないかもしれないが、要は、無心、三昧、無住、応無所住而生其心、、、などなど(無意識の意識、全機現、智慧の発現)の意味あいをみているのである。したがって、このこつ」を体得するまでどんどんどんどん修行(静中そして動中の工夫を続ける、、ということ。

 

白隠は内観をやったり、公案を進めたりはては念仏まで彼なりに「何か」を見極めていたように思える道元もまた只管打坐とはいえ正法眼蔵にあるように公案についてしかるべき見解をもっていたようだ。ところで、本当にわかってくるとこれらすべてが統合的にわかるということと私は思っているし、大拙が幅広く調べを進めたというのも、そこを見ての事と思う。(というのも基本―根っこ―は同じだから。つまり月をさす指はいろいろでも、月はひとつ、ということ。はたでみていて現れ方がいろいろあっても「根っこ」がしっかりしているのなら、間違いはないというようなものだ。)

ところで盤珪の場合は公案にも坐禅にも重きを置いていなかったようだ。彼はこういう:「ただなんの分別もなく、何の合点もなく、念の起こるをもきらわず、また、起こる念をももとめず、我本心はもとより念をはなれたるものとよく合点しろ」(p。174盤珪禅師語録)ちなみに大拙は盤珪に禅の純粋なものがあるという意味のことを言っていたと思うが、まさにそのとうりと思う。

修行にいろいろあるというのはそれとして、とらわれがあるというのは、心に引っかかりがあり「おっとっと」と心がふれる(→迷い・煩悩)わけだ。もっともふれてもわからないというのがもともとの問題ではあるが、、、とにかく、とらわれがあると智慧が出ない。進むべき道が見出せない、判断が狂うということに成りかねない。

それで、、、このところはややっこしいかもしれないが、釈迦はいかだのたとえの法門をだして、法さえも捨てなさいという(たとえばp。55金剛般若経ー岩波)つまり諸法無我で、悟ったという当体があってはおかしいし、悟りを対象化するのもおかしい。それと、この道、あの道、といろいろな修行(→これらをいろいろな、いかだとみてもいい)があるが、基本」のところではそのどれにもとらわれるな、というのがのスタンス(ありかた)だ。そしてこのことが人格に現われ出ると釈迦の対機説法となる。(法の働き→智慧というわけだ)そして言った本人には跡が残らない。つまり、さらさらと水が流れる如しということであり、荷物はしょわない(→しこりがない、自在,自然法爾)ということ。

とにかく、、表面は異なっているように見えても、これらの指し示すところ(いうならば働きの原点・場)には同じ境涯(全機現、無意識の意識)がある。そしてその境涯において(→般若波羅蜜多時)五蘊皆空、度一切苦厄、であり、悉有仏性の世界が(あるいは華厳の世界が)そこいらじゅうに展開されているのを「知る」・「悟る」のである。

大げさな、と見えるかもしれないが、山のぼりにいろいろな道があるように、あるいはそれらいろいろな道を登る技術が登山を成功させる役に立つように、、、これらにあらわれでたものの基本のポイントを読み取る・体得するというのは、仏教と言う大きな山の全貌を見る・知る、という意味合いがある思う。そしていわば、縦横斜めに、この辺を調べると、禅も真宗も、小乗も大乗も、果てはキリスト教もイスラム教も、その本来の意味あいが透き通って見えるといえるようでもある。

大拙はいろいろわかってくると面白い、年は取るものだな」といっていたが、彼はまさにこのことをやったのだと私は思っている

公案


修行にいろいろあるし、なにかとっかかりを、ということもあるのでここで公案を調べてみよう

 

すでに中山氏の「なまけ禅」で、公案を使って智慧のでるコツを体得するといった話をしたが、ひとつ面白い話をここに書きそえておく。それは、あるとき中山氏と公案の話をしていたとき彼が公案の答えは「こじつけ」でもいい、と言ったというもの。私はそのとき耳を疑ったが、「考えて」見ればこじつけでもなんでも、要は本人が安心を得られれば、、、と言う意味あいがあるので、「ある意味」では(コツが身につくまでは)それはそれでいい、ともいえる。ただ、道元が言うように、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむる、、、と言うことでないと意味はないとは思う。

いずれにしろ公案はいってみれば、「どうしようもないときどうしたらいいのか」という、いわば絶体絶命の修羅場をいかに智慧を出して切り抜けられるかと言うのがそのねらいだろう。私の場合はヴィパッサナの修行でそのことを体験したので、むしろ公案のようないわば架空の問題と言うより切羽詰ったものがあったと思うが、公案の修行を本当にとことんやるのなら、やはり公案に自らの身を投げ出すと言った覚悟でないと盤珪がいうように)頭遊びになる恐れがあるだろう

一般の論理の範疇に答えはみいだされない、というのが、そのねらいに見合った公案の性格なので、これも無意識の意識の境涯(智慧)がいかに働きでるかが鍵ということだ。つまり、こっちを進めていたら答えはいくらやっても見出されない。答えはあっちから、自ずから歩いてくる、といったもの。これが智慧(そして創造性)の発現のメカニズムなので、やはり他人のといた公案の答えを聞いて、ああそうか、というようなものでは修行にならない。自ら、体から「生き生き」のエネルギーが感じられるような「答えが見出されるかどうかということだ。したがって直観のトレーニングが狙いなので解説はしない(解説書は読まない)というのが正しい修行法ということになる

ヒントとして中山氏がまとめた科学上の発見がどういうときにおこるか、ということをここにおさらいしておく。;

1)理性的努力がなければ発見(インスピレーション)はおきないが、それがおきるのは理性的努力の直後ではなく、だいぶたった後のことである。
2)発見はあるとき突然起きる。
3)一時に全部わかる。
4)たいていの場合、発見したことは理性が予測した枠外にある。
5)間違いないという核心がある。
6)するどい喜びを感じる。

そこで禅の悟りの場合はどうかというと、中山は以下のような特徴をあげている
)禅者は理性的活動は排除するという注:中山そうはいわない)
2)悟りはあるとき突然起きる。悟りを期待しているときではない。
3)一時に全部わかる。宇宙が自分の中にとびこんできたような感じがする。
4)それまで想像していたようなものではない。
5)宇宙の大法則がわかってしまうので、そこには一点の疑いもない。
6)悟ったときのうれしさは筆舌につくしがたい。

私の場合、公案ではなくヴィパッサナの体験によるのだがそのときは、それこそ体からわかる、、と言った感じが、その体験の内容をいろいろな角度から「調べ」「理解」「確認・納得」する」のに、(特に禅でいう悟りの意味あいとの整合をみるのに)何年もかかったという経過があ。むしろヴィパッサナではそういう体験を何か特別なものと見ると言う問題・危険性(高慢、独善、云々)を強調しているのであり、その危険性はその後の調べで、まさにそのとうり、と了解してい。つまり、これは当たり前のことで、「素直・謙虚な心」を忘れてしまえば、悟ったと言うこと自体が荷物になる、あるいは固定観念となるというわけだ

注:体験内容についてはhttp://www.geocities.co.jp/suzakicojp/shitumonnntokaitou.html

のなかの禅体験の項目をご参考まで。ただ人によって身心脱落の体験や表現はいろいろあるように思います)

 

いずれにしろ公案は悟ったものの日常の行動が智慧(法)の発現とぴたっとあっていると言うケースが多いので、そこに他の修行ではみられないユニークな特色があると思う。以下参考までにいくつかの公案を示しておく:

 

A:仏法とは何ですか?

B:後で話してあげよう:

(みんなの前で、、、)

B:さっき質問した僧、ここにでてこい。(A:皆の前にでる)

B:ここに仏法とは何かときく僧がいるぞ。

 

(上の公案はうろ覚えのもの冗談のような味わいがあるが煩悩から智慧を見出すと言うポイントを付いている

 

(ついでにこれもにたようなもの)

 

A:たった一つのものさえ持っていないときとは何でしょうか?

B:放著(そういう考え方も捨てろ)

A:私は一切のものを捨て去りました。もう捨てるものはありません。

B:そうならかついでいけ。    p。182

 

(これは基本中の基本)

 

A:「道とはどんなものでしょうか」

B:「平常心これ道」

A:「それではどのようにしてそれに向かえばいいでしょうか」

B:「それに向かおうとすればますます離れてしまう」
A:「それに向かうのでなければどうやって道を知ることが出来るのでしょうか」

B:「道とは知るか知らないかではない。知ると思うのは妄想であり、知らないというのは自覚がない。もし道に達すれば空のようにからりとしたものである。そこには知る知らずという理屈はない」

B(趙州)はこれを聞いて悟った。

 

 

悟りの風景と動中の工夫

不生

 

公案はそれなりにその果たすべき役割があると思うが、その弊害をいっていた盤珪のいう不生もまた味わい深い。ただ不生はあまりに直載的、、つまり「純粋」なために、形のある修行の方法がないと言う難があったのではないかと思う。これがひとつの理由になって盤珪の続かないと言うことになったのではないかと私は思っている

ところで世に忘れられていた盤珪を「再発見した」大拙は盤珪の不生禅を評してこういっている:「悟りは開くものでなくて、もとよりあるもの、そのままのものである。これを不生というのである。。。自分(盤珪)は仏法をも禅をも説かぬ、と云うは実にこの点を見てのことである。盤珪の不生禅はこの意味でそのまま禅たることは間違いない。しかし、如何なる宗教でも最後の安心の処はそのままより外一歩も出ないのである。宗教は、みな絶対受動性に落ち着く。 (鈴木大拙全集1巻、p。59)

この辺、神秀の偈「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」に対しての慧能の「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」の偈思いおこされる。また妙好人才市の言葉「他力には自力もなく他力もなし。ただ一面の他力なり」p。291、大拙全集27巻も同じニュアンスがある。

そこを盤珪はこういう

「皆親のうみ付けてたもったは仏心ひとつでござる。余のものはひとつもうみつけはしませぬ。その親のうみつけてたもった仏心は不生にして、霊明なものに極まりました。不生な仏心、仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切がととのいまするわいの。

その不生でととのいまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて烏の声雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずにおるに、烏の声雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、不生で聞くというものでござるわいの。かくの如くにみな一切事が、不生でととのいまする。これが不生の証拠でござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来永劫の活如来でござるわいの。今日より仏心でいるゆえに、我が宗を仏心宗といいますわいの。」
(p。33、盤珪禅師語録ー岩波)

「不生の仏心」が無意識の意識の消息だ。あるいは般若の智慧が出るその有様(定慧)が、そこにある。あるがままをあるがままと知るということ、ヴィパッサナのサティ(気づき)もそこにある。道元の柔軟心も、般若経の「応無所住而生其心」も維摩の無住も、、、無心も無相もみなそこにある。但し、そうわかるにはそれなりの見所がないといかん、あるいは前にいった修羅場を抜けた体験がそこに現われ出てないといかんというわけだ。


盤珪は「身びいきするな」という表現をよく使ったが、無我だって無常だって、みんな不生の仏心でひっくるめたというようなものだ。

ではどうやってこれを実施したらいいかというと、「不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、じきに不生の仏心のまま」つまり、不生の仏心でいればよいということになる。これは行住坐臥すべて禅というに同じだろう。豈しいて是非すべけんや、である。

ただ、そういわれても、人によっては、とっつきにくいということもあるのだろうが。。。それはほかの修行法についても同じ様なものではないだろうか。つまり、わるい癖をとり、法にそって正しい「癖」をつけるということであり、いままで長年かけて培った悪い癖を取ると言うのは誠実な心構え・熱意(発心、発心、また発心)とある種のコツ、そして「継続は力なり」という信念・忍耐・精進がいるというのはやもうえないだろう。これは私がサーフィンをマスターするという例でも同じということだ。

 

盤珪は不生の仏心でいればいいのであえて修行はする必要がない、ということを言っていたが、細かく調べて見ると、これまた逆説的だが、こういうがあ

「皆身ともに打ちまかせて、身どもしだいにして、まず30日不生で居ならはしやれたらば、それから後には、自ずから居とむなふても、いやともに不生で居ねばならぬようになるものでござる。」p。12、盤珪語録(岩波)

さらになにかあるかと調べると、次のようなものがある。

「一切の迷いは身のひいきゆえにまよいますわいの。身のひいきせぬに、迷いはできはせぬわいの。」p。12

「仏心の尊いことを知りますれば、迷いたくても迷われませぬ。これを決定すればよい」p。15

「我欲がきたなさに気ぐせを出かし、身のひいきをし、迷います。(それで)仏心をしりぞき、つい凡夫になります。もともとは凡夫はひとりもござらぬ」p。17

「たとえば昨日までも大悪人であって、(みなに)後ろ指をさされましても、今日従前の非をしりまして、仏心でいますれば、今日からは生き仏でござるわいの」p。18

「迷うは凡夫、迷わねば仏で、別に仏で居ようはこれよりほかに、近道はござらぬわいの。皆の衆これをよく決定めされい。」p。19

「もとより念に実体はありはしませぬによって、うつらばうつるまま、おこらば起こるままに、やめばやむままにて、そのうつる影にとんじゃくさへせねば、迷いは出来はしませぬの。とんじゃくさえせねばまよわぬがゆえに、何ほど影がうつりても、うつらぬこととおなじことでござるわいの。」p。22

「不生の仏心は線香(坐禅)の
上にありはしない。仏心で居てまよはないなら外に悟りを求めず、ただ仏心で座し、ただ仏心で居、寝、起き、住して居るぶんで平生、行住坐臥、生き仏で働き居て、別の仔細はござらぬ。」p。26

「向かうて貪着せず、わが身のひいきをせずして、ただ仏心のままで居て、ほかのものにしかえさえせねば、まよいはいつとても出来ませぬ。常住不生の仏心で日を送るというものでござる。」p。40


(以上一部は意訳してあります)

それと、「迷わぬが悟りで、ほかに仏になりようはない」(p。10)というのがなんとも愉快、ポイントを付いている。道元の「迷いを大悟するは諸仏なり、悟りに大迷なるは衆生なり」を思い出す。

ところで大拙は「盤珪禅を明らかにするには禅一般をあきらかにしなければならぬ」といっているが(全集1巻p。84)これまたそのとうりと言う感じがする。つまり、あまりにいうことが簡単(基本)過ぎて、なんだか腑に落ちない、、とっかかりがつかめない、と言う15年ほども前に読んだときの感じが、私自身、回り道をしたおかげで、却って(いろいろ苦労してきた内容も統合されて)きめ細かいニュアンスまでわかる、と言う感じがするのだ。(なんだそんなもか、簡単なものだな、ということでもある。。。)

 

盤珪の不生いうことで思い付くのは「鏡の心」とWilbro氏のガイド(ともにHPにのせてある)またヴィパッサナの修行も道元の只管打坐も公案も、、、不生はそれらの集大成(→始めて仏道の修行するものにとっては簡便法)といった意味あい(→無意識の意識、無分別の分別)と受け取れる。

 

「迷いは仏心で居ないことによって起こる」、というので、、道具はいらない(→「常が坐禅」、語録p。26、「公案は余計」、p。148)というのだと、やはり一般的には手におえない、というようにも思えるが、それが盤珪の人徳というのであろうか、たくさんの人が、たとえば元禄2年には1,683人の人が禅、天台、真言、浄土、日蓮宗などの僧をふくめ龍門寺での結集に集まったということでもわかるように、多くの人を感化したものとみられる。(語録p。32)

 

ところで盤珪は鏡を例にして不生についてこうもいっている:

「不生というものは、明らかなる鏡のようなものでござる。鏡というものは、我に何にてもうつりたらば、みようとはぞんぜねども、何にても鏡に向かえば、その貌(かたち)がうついませいではかなわぬ。またそのうつるものをのけたらば、この鏡がみますまいとぞんぜねども、取り除ければ鏡にうつらぬが不生の気というものでござる。」語録p。65

 

(p。98にも似たような表現がある)

 

これが大円鏡智と通じているようで、(あるいは無意識の意識でもいい)まことにぴったりくるのだが、私の場合最初の〜見性体験から7年ほどもかけて2007年にやっと「そこ」にいたったというのは、これはこの盤珪の言葉を読んでいたということ、大拙やWilbro氏などからの感化、そしてヴィパッサナでの体験があるとき突然ひらめいた、ということかもしれない。そして振り返ってみると、たしかにわかった後では道具はいらない(→いかだのたとえ)ということ。なにも理屈だって難しいことを言う必要はない。「迷いは仏心で居ないことによって起こる」、「鏡の心」、「無意識の意識」、、、で大事は済む(すべては整っている)ということだがそれを日常に修証していくというのは、それなりの工夫がいる。

 

ただし、前からおもっているのだが、釈迦がよく坐禅していたとお経にかいてあるということもあり、私は、いわば「保険」の意味あいもあって(心の癖・業・サンカーラ・煩悩、、は油断できない)毎日座ってはいるし、それ以外のときでも時折その境涯をチェックするようにしている。(たとえばサーフィンしているときでも、囲碁をうっているときでも、なにもしていないときでも。。)

 

いま私にとっての課題は、「これ」(→不生の仏心、気づき、覚醒、鋭敏な知覚と平静な心)を「失うこともある」というのはまだしっかりと身についてない、ということなのだろう。ただし道元ですら「親しく会取すれども、鏡に影をやどすがごとくにあらず。水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。」といっている。

 

ここのはなしを「禅と論理」という話とつなげるなら、論理的には絶体絶命でも、(つまり、頭ではまったく解が見つけ出されない場合でも)本体は自由自在・遊化三昧というのが鏡の心で、この本体が不生というふうにとっていいだろう。そしてそこに見られる働き、そこから現われ出る働き、が法の働き(→定慧)そのものというわけだ。

 

さらに盤珪の言葉を調べてみよう:

 

「生まれつきの心が、不生不滅の仏心である。その証拠には色を見るとき、百品を一度に見つけ、そのうちに、鳥の声、金の音、一切の物音、、、を一念も動かさないでことごとく聞くことが出来る。朝から夕まで、一切のことを一念不生にて働いていてもそれを知らないのだ。かわりに分別で働くのだと思う。是は大きな間違えだ。諸仏の心と人々の心に違いはない。だから悟りたいと思い、あるいは自らの心を見つけようと思って修行するというのは大きな間違いだ。」(語録、p。101注:私なりに意訳しています。)

 

まさにそのとうり!ただ、ここで私なりに言えるのは、心が何かに「引っかかっていると」あたかもフィルターがかかっているようなもので、鏡の様でもないし、頭が透き通った(透脱した)感じでもない。それはまた動物的な直観が働いてないというようでもある。つまり「無意識の意識」(般若の智慧)が働いていないと、心はその所を失って迷い、引っかかり、頭の閉回路(固定観念、あるいは、いつまでも「迷い・煩悩から抜けられない」)におちこみ、根本(つまり無意識―不生)の働きに気づかないということになるのだ。

 

盤珪の作った和歌にもポイントがうまくまとめられているので、参考までにいくつかを載せておく:

 

みな人の、悟りとおもうさとりこそ、絵にかく餅をかきや争う。(→かいて争うの意であろう)

 

我はただ、虚空を家と住みなして、須彌を枕に独り寝の春。

 

我にある、活ける祖師をば捨ておきて、外に求める紙の達磨を。

 

心とめずば、浮世もあらじ、何もないこそ活如来。

 

迷い悟りは、もとないものじゃ、親も教えぬならいもの。

 

惜しや欲しやと、思わぬゆえに、いわば世界が皆我がものじゃ。

 

死んで、世界に夜昼暮らせ、それで世界が手に入るぞ。

 

地獄いやの極楽すきで、楽な世界に苦をうけた。

 

(盤珪語録、p。180−4)

 

(注:これらの盤珪の言葉が、なんとも面白いことに真宗の教え、や妙好人の言動(→そのままで救われているということ)にぴったり会うとおもうのだが,その辺は別途ファイルを設けて検討することとしたい)

 

 

動中の工夫

 

盤珪の不生を調べて、さらに特筆すべきは「動中の工夫」、つまり日常での「立ち振るまい」であろう。どんな修行も証とつながらなければ意味がない(道元のいう修証一等)、つまり目的=手段であり、いわゆる悟り(是をここでは覚醒した身心の状態といっておく)も、その状態における法(不生:無意識の意識)の働きが「確認」され日常の立ち振る舞いにあらわれでているかどうかということだ。

ここのところを一歩間違えると、維摩経の「法を求めるものは法を求めてはならない」というのがわかってないということになるし、道元を引き合いに出せば、彼のいう「悟っているというものは自分が悟っているということに気づかない」、ということがわからないというわけだ:

「諸仏の諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども証仏なり、仏は証しもてゆく」(現成公案)

ところが不思議なもので、とかく禅というと、かえって悟り悟り、と悟りに迷うものがでがちで、「動中の工夫」つまり日常での「立ち振るまい」についての明確な見所がないと、そして一刻一刻不生の仏心(悟り)をあらわしめようという「菩提心」がないと、たとえば神秘体験、悟りの心理的内容、、などに「とらわれて」元の木阿弥となるというパターンに落ち込む。つまり:「悟に大迷なるは衆生なり」(現成公案)というわけだ。

このへんについても盤珪のコメントが的を得ている。たとえば:

「怒り、腹立ち、惜しい、欲しい、、、の念が出ようと、それは出次第にし、その念を重ねて育てず、執着せず、おこる念をやめようとも、やめまいとも、その念にかかわらないなら、自ずからやまないわけにはいかない。たとえいろいろの念がおこっても、その起こった当座に、重ねてその念にかかわらず、うれしいというときも永く念をかけず、一心を二心にしないほうがよい。常にこころもちをこのようにしているのなら、悪いこともよいことも思わないとか、やめようとか、思わないないなら、自ずからやむ、ということになります。。。(このやんだところが不生です、だから)とにかく不生の心をこころがけなさい。」(盤珪語録p。84、注:意訳しています)

「ただなんの分別もなく、何の合点もなく、念の起こるをもきらわず、また、起こる念をももとめず、我本心はもとより念をはなれたるものとよく合点しろ」(p。174

「起こる念をはらうというのは、血でサラをあらうようなものだ。はじめの血は落ちても、洗う血にてサラがけがれる。いつまであらっても汚れはなくならない。。。念は仮の化想(夢のようなもの)と知って、取らず嫌わず、おこるままやむままにすべし。たとえば鏡に映る影の如し。。。この道理をよく信得すれば、念がいかに起こっても、妨げはない。」(p。98、注:意訳しています)

ついでに、これは真宗:妙好人、才市のことば:「ままならぬ、ままにしようとしても、ままにならぬ。ままにしようとは、そりゃ無理よ」(妙好人、p。113)――つまりままにしょうという自力(身びいき)では答え・智慧がみいだされない、というわけだ。

以上であきらかなように、要は修証は現在進行形ということであり動中の工夫を続けということ。これを別の言葉で言うと、釈迦も達磨も修業中であり、一般にいう悟りの「体験」に安住するな、法の道を歩み続けろ、ということ。これが「仏に会ったら仏を殺せ、の意見合いであり、動中の工夫がさらに進んで周りの関係でうまく智慧が働くと釈迦の対機説法にもなり、あるいは我々の社会生活においても知慧がはたらくことになるわけだ

 

つまり、もともと「悟り」などを対象化して追いかけたら「青い鳥」とおなじで、つかまらないのだし、本来の不生の仏心ですべてがととのっている。そしてそれを刻々あらわしめよ、というわけであり、そこに結びつかないものは意味がないということだ。

 

ところが、このポイント(動中の工夫)が公案を基にした禅(看話禅:臨済宗)や道元の只管打坐(黙照禅:曹洞宗)などの修行でしかるべくなされているか、と調べてみると、あいにくそういう狙いがはっきりとみられない。また私のこれまで知り合った曹洞宗や臨済宗の老師・僧侶・住職などの日常の立ち振る舞いを思い浮かべても、そこがどうも不明確ともおもえる。

つまり一般の修行では、目の前のねらい、つまり公案をとく、あるいは只管打坐(の形)に気を取られ、本来のねらいであるべき動中の工夫、あるいは悟後の修行(もっとも悟後である必要はない)がおろそかになっているということではないか。そして、このことがまさに盤珪のいっていたところと見えるのだ。

要は見性しても、通った公案の数ばかり数えていても日常において動中の工夫が出来ないようでは話にならないだろう。それで白隠が動中の工夫は静中の工夫の百千億倍といっているのだ。ちなみに白隠に由来する公案体系. は、「法身・機関・言詮・難透・向上」とあり、これに「末後の牢関」が加わる。このうち、機関が動中の工夫に対応するようであるが、どうもはっきりしない。日々の工夫こそ動中の工夫で、これはわれわれが生きている限り続くもので、それが釈迦のいう「正理と法の領域を歩む」というものであろう。

 

動中の工夫と明けの明星

 

以上、長々と書いてきたが、要は動中の工夫、日常の立ち振る舞いにこそ法が現われ出てしかるべきなのだが、本末転倒、そこに行く前に迷子になるという問題が見て取れるようである。

大事なポイントは修証というものをしっかりとプロセスでみるということとおもう。明けの明星を見て釈尊が悟った,と言う話。そういった「瞬間」あるいは「事件」さらには「その心理的内容など」に知的興味を引かれるというのは一歩譲っていいとしても、そういう「なにか」を頭に描きそれに「とらわれる」のは、本来の悟りの意味あいから逆の方向に向かうということに気づかないといけないのだ。

維摩経にあるように、「法を求めるものは法を求めてはならない」のである。悟りというのは盤珪そのほかの祖師方が言うように、法あるいは不生はもともと手元にあるということに気づくということ。青い鳥は探す以前に手元にあるということ。そしてそれを自ずから働きせしめる、ということこそが我々が迷いとか苦にさまたげられずに法にそって道を歩み生きていくという本来の修証の意味合いであるということだ。

要は迷ったら、迷ったということに気づけばいいのである。もっとも迷っている本人が自分が迷っていることに気づかないとこれではいかん。だが、そうではなくて「しっかりと」迷わなければ、迷いなし=目覚めている=全機現=無意識の意識=悟り、と了解していいということだ。そこには(心理的)苦はないのである。心はあちこちにふれず迷わずに、ただあるがまま、法の働きのまま、あるいは智慧の働きにあずかるというわけだ。

ここで念のため、例を出して動中の工夫(のプロセス)をチェックしてみよう:

たとえば、上で言った、「青い鳥はすでに手元にあるということだ。」、、と言う文が本当かなとおもう。。。あるいは疑問が出るとしよう。(→是が迷い)

そのとき、その念にとりあわない。いじらない。(→鏡の心)

すると、その疑問は消えてなくなる。(なくそうという意識なしになくなるのでなくそうとおもったらなくならない)→いつの間にか疑問は消えていた、と気づく、ということ。するといずれ、青い鳥はもともと手元にあったと気づく消息があるのだ。そういう智慧がでるということが身をもって体験されるということだ。

これが盤珪なら「不生の仏心」でいるということ。その働きがでるということ。妙好人、才市なら「他力、自力はありません。ただいただくばかり。]ということ。「これは、いわば生体の持って生まれた自己組織性がその機能を全機するために、しかるべく働くというようなものだ。そしてこれは一般論というのでなく、ひとりひとりがどう「それ」を「働きしめるか」なのかということだ。

ところで、上の例が実際に我々が人生で出会うさまざまな苦(生老病死など:四苦八苦)の場合であっても修証すべき動中の工夫のプロセスそのものは何の変わりもない。一般に貪ジン痴というが、煩悩の処理のプロセスは。煩悩あるいは苦の性格が何であっても同じ。そして是ができるなら、畢竟、眼が開いている、ということで、一件落着!なのだ。あとは一歩一歩、次から次へ、落着、落着、、、ですすめていけばよい。(ちなみに私はこの動的なプロセスをその感じ・雰囲気からみて「対処しない対処」と呼ぶことがある。つまり我をだすのでなく、正見(あるがままに見る)といったものだ。) 

ところで釈尊は明けの明星を見たときに悟りを開き「奇哉!一切衆生皆倶如来智慧徳相 只因妄想執着不能証得」(奇なる哉、奇なる哉、我れ心の眼を開いて見れば、山川草木は悉くすでにさとり、一切衆生は悉く仏性をもっていた。ただ妄想、執着のためにそれを証することができない)といったと伝えられているが、要は執着しなければ、そこに悟り、不生があるということ。是が盤珪のいう「迷わぬが悟り」であり、それは釈尊のいう「山川草木は悉くすでにさとり、一切衆生は悉く仏性をもっていた。」というのと同義ということだ。我々の頭(意識、知性、論理)の使い方がどうかということによって、それは明らかにもなり、逆に無明ともなるのだ。

どこにいても、どんな置かれた境涯でも、とらわれなく自分の心の動きをあるがままに見る、あるいは見失わない、ということが心の眼を開く(→目覚める、目覚めている)ということだ。ただ、細かく言うとこれは見ようとして「見る」のでなく、無意識の意識、盤珪なら不生の仏心、という「境涯」にいるときに、おのずから見える、あるいは見えてくるということだ。

そして、これに気づくとき、不生の仏心、あるいは悟りはもはや外に探すというようなものでなく、あるいは論理でおいかけて見つけよう、わかろう、というものでなく、盤珪が鳥の声などのいろいろな例でしめしたように、「それ」はもとよりあったもの、あるいは働いていたもの、と気づくということだ。つまり、そのとき、我々は我々が実体と思い込んでいる頭主導の論理(たとえば迷い・煩悩・実体のない苦)にとらわれることなく、迷いは、迷い、あるがままはあるがままとして真の姿が見えるのである。

この辺、ことによるとあまりにも簡単に見えるかもしれない。また、仮にあるとき、そう「わかった」と思っても、実際は微妙で、気づいたら手元にいた青い鳥(→不生の仏心)がすり抜けていなくなっていた、ということも往々にしてあるかもしれない。だから、、、それを工夫する、、工夫し続ける、、というのが動中の工夫であり、釈迦も達磨も修行中、修証をし続ける、(私の言葉では、悟りは現在進行形で進めるもの→法の道を歩む)ということの意味合いということだ。ただ根本のところを盤珪にいわせると不生の仏心ですべてが整っているのだ。

 

宗教の究極のポイント(私なりのまとめ)

 

たかが30年ほどではあるが、私のこれまでの禅・仏教の(たて、横、斜めの)調べと私なりの修証をここで総括するなら禅、仏教、そして宗教の究極、つまり人間を人間の苦から救うこと、というのは上で見てきたことに尽きているように思う。キリスト教は詳しくは知らないが、エックハルトやトーマス・マートンや聖書を読む限りでは、その根本において見ているところはほぼ同じとおもう。

 

つまり人間と(全知全能の)神との関係は人間の意識(→間違った頭の使い方が煩悩を生み出すという意)と不生との関係に同じだろう。原罪によりアダムとイブがエデンの園から追い出されるということは、仏教では「無明→迷い、煩悩」の有様を描いているようである。そして神を見出す、そして救われるというのは、たとえば盤珪のいう「不生ですべてが整っている」あるいは妙好人、才市の、「他力、自力はありません。ただいただくばかり。」と言うことと同義と了解できる。もちろん、救われるためのプロセスとしては、我(我執)は「神に、、」、あるいは道元の言葉なら「仏の家に」、、なげいれるということだ。

 

是はまた般若経の五蘊皆空(あるいは色即是空)につながるし(→無常、無我の体験)、それが阿弥陀仏への帰依とつながるなら南無阿弥陀仏でもいい。ただ真宗(あるいはキリスト教)は情の傾向(←原罪などにみられる、いかんともしようもない罪悪感から究極的にはゆるされるということへの感謝の思い)が強いのに対し、禅は知に偏っているようである(つまり温かみ、やさしさがあまり感じられない)。これは禅において、おおもとの智とその働きを身をもって体験するのと、真宗(あるいはキリスト教)において無限の慈悲、大悲に救われるという体験をするというその体験の性格の違いだろう。

 

私個人の(見性)体験では、究極的には我(が)をすっぽりと仏の家になげいれて、したがって絶対の他力(仏の側から行われる)で救われているのであまり上で言う違いは感じられない。つまり自分が自分を救おうとして救われたのではないので、ただ、ただの感謝の気持ちがあるのみだ。 (どこかで大拙も「禅は自力と言うが、結局は他力だ。」という意味のことをいっていたと記憶する。)またこれは道元の言うとおりである。いわく:

 

ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」−道元(正法眼蔵:生死)

 

究極的には「絶体絶命」(つまり論理・知性の範疇)を超えて、苦からの解脱・智慧の働きを体験するのであるから、たとえその過程が「ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて」という、我が落ちる(→無我)といういかんせん「微妙な」体験(→身心脱落)であっても、釈迦の梵天勧請の話であらわされているように、その体験をなんとか人と分かち合いたい、なんとか衆生を救いたい、という思いが自ずから湧き出てくるのだろう。これが四弘誓願に集約される菩薩の願いであり、無縁の慈悲であり、キリスト教なら無償の愛ということと思う。

 

、、とここまで書きおわったら大拙のこういう文が見つかった:

「何か悟りというものでも諦認したとするなら、その諦認から本願が自ら湧き出さなくてはならぬ。それが湧き出ぬような諦認なら、それは嘘である。。。独善的なものには真実はない。それから、この真実は力―いかなる形態のものでも、力で人の上に加わるものでは断じてないのである。真実は大悲である。無縁の慈悲である。。。それゆえに真実は各自の中から開けてくる。各自の中に動き出すものである。。。弥陀の大悲は力ではない。外から加わるものでない。自己の中から湧き出るものである。」 (大拙全集1巻p。190)

 

 

他力の意味あい、気をつけるべきこと

 

他力というと任せて自分はなにもしないでいい、というイメージがあるかもしれないが、それはそうでなくて、他力というのは「自」を「仏の家に投げ入れる」(道元)、ということで、他(阿弥陀仏、あるいは神)に「頼む」という「自」があってはならないということをとことん身にしみないといけないだろう。 そういった意味で(禅も真宗もキリスト教も)本当の意味での宗教はすべて他力と思う。

ただここで気をつけないといけないのは、いわゆる盲目的従属性(Blind Faith)というやつで、ある種の「観念」のとりことなり、いわば頭の閉回路(→固定観念)におちいることがあるということだ。これはオカルトの例をだすまでもなく、本来働くべき智慧と論理(知性)が魔に犯されるといったもので、本来は「無意識の意識」「無分別の分別」の智慧が働くべきところがそうならないということになる。(もっともそれがうまく出来ないというのがもともとの問題ではあるのだが、閉回路に入り込むと周りの意見を聞く耳もたず、ということにもなる。) 

 

あげくの果てに、禅、仏教、あるいは宗教と言う名のもとにとんでもないことが行われる。いい加減な「指導者」がいるのは論を待たないし、めくらがめくらを先導する、あるいは自分なりの論理で宗教を悪用するといったことが目の前で行われる。だから、権威や名声もうのみせず、むしろ親の仇にあったかのようにいろいろな角度から吟味しないといけないのだ。経でも、語録でも、人でも、何でも同じことだ。(無論、私の書いていることも同じ。)一歩間違えれば物騒なことになる。

 

前述、中山氏のところでコメントしたように人間は左脳と右脳のつながった脳を持っているので、その全機現を、、つまり能力をフルに使う」べきなのだ。(注:右脳左脳でなく意識・無意識、あるいは身心でもよい。)さもないとカントのいう「直観のない概念は空虚であり、概念なき直観は盲目である」あるいはアインシュタインのいう「宗教のない科学はびっこであり、科学のない宗教はめくらである。」といったちぐはぐなことになるわけだ。(ちなみに、左脳=概念=科学: 右脳=直観=宗教と見てよい。)また自分自身もまわりも状況は刻々変わるのでこのことのチェックは現在進行形ですすめるべきなのだ。ところで、このバランス・連絡をちゃんと取りながら進むというのが「中道」の意味あい、つまり智慧を出して、全機現で、、、法にそって歩む道、というように私は思っている。「動中の工夫」ももちろんそこをみている。

 

苦を滅(解脱)し、しかるべき幸せな生をまっとうするのに、(そしてそのために心身の正しい使い方を習得・修証するということで)入っていった宗教で、その正しい道がわかる前に迷子になってしまうというのがここでの問題なのである。釈迦が真実はいろいろな角度から調べることにより明らかになる、といったということだが、指導者の話、本の内容、彼らの行動、修行の内容、ありかたなど、念には念を入れ、いろいろな角度からチェックし、吟味し、法にそった正しい道を歩むよう常に心がけるということだろう。落とし穴はいろいろあるのである。目覚めているのならまだしも、迷いの衆生が正しい道を見出すというのはよほど気をつけてないといけないということだ。

 

自分の論理を先行させることなく、あるいは信頼できる人の言葉もうのみすることなく、偏見、とらわれを超え、「あるがままに見る」そして「智慧を見出す方法を体得する」というのがその禅・仏教の基本だろう。中山正和氏はこのやり方はまさに科学者の問題を解くやり方と同じというが、その基本のところを釈尊が説いたのではないか。だから、めくらとならぬよう、こういったことの検証は常にー現在進行形でー行わないといけないのであり、法が人(人格)に生きているかどうかはそういった意味あいがあるということだ。

 

ということで、念のために前述した中山氏のコメントを再掲載しておく:「お釈迦様、、は、、理性の使い方を教えているのです。。智慧を出しやすいようにするためにイメージを自在にしておくことを忘れるな、それが前提条件だというわけです。そうしないと、理性をはたらかせたつもりでも、その理性は本当の理性としての働きはしていないのです。」(禅と脳p。87)

 

*この「イメージを自在に」、、が無意識を意識すること(全機現)であり、公案のねらいであり、般若心経なら五蘊皆空(無常・無我)、盤珪では不生、ヴィパッサナならサティ、薬山なら非思量、道元なら只管打坐(仏の家に投げ入れる)、あるいは本来の意味の他力につながるのだが、その辺については別途まとめたい。  

 

 

おわりに

 

1)禅・仏教はその存在理由をいかに(論理的に)説明できるか、

2)それは、いかに社会とつながるのか、

、、という問題提起をもとに、私なりの回答を試みたのだが一体、「答え」は読者に納得できるものであったのだろうか?

 

ここにいたって、さらに丁寧に考えてみると、上の「問題」は、言葉を変えれば、苦からの解脱そしてしかるべき生き方を見出すということが論理的に説明できるか、ということと同義であり、これはまた「正理と法の領域をあゆんできた」(涅槃経)という晩年の釈迦がいったといわれる言葉につながるはずで、真の意味での回答は紙の上に書き留められるというようなものではなく、われわれが日常生きていくというそのことの中にこそあらわれ出るべきものだろう。 

 

つまり、人として生きている限り、刻々我々の行為、あり方、考えの内容に「そのこと」(つまり「問題」に対する解答:正理と法)がしかるべくあらわれでているかどうか、ということだ。

 

ただ、このファイルで試みたように、このような問題を考える機会をもち、できるだけの努力をし、自分なりに答えをまとめるということ。これは自らを振り返り、頭の整理をするという意味合いもあり、その過程を「正理と法にしたがって」すすめていくことにこそ禅・仏教の意味あい、そして自利利他(←社会とのつながり)、という解も見出されるのではないかと思う。

 

そしてそのことこそが、ここまで探ってきた「プロセス」であり、「手段=目的」「自ずから然り」という「歪」「葛藤」のない「正理と法にしたがった」「ありかた」が、そこに見出されるのではないかと思うのだ。

 

また、それを進めるということが「正理と法の領域を歩む」ということであり、「戒定慧はおのずから現れ出る」、、、となるのではないだろうか?

あたりまえのことだが、回答(智慧)は各人が見出し、それを現在進行形であらわしめる、ということでなければ意味がないわけであり、お経でもなんでもどんなに尊いものでも単に知識として記憶したり、拝んだり、理屈をこねるというだけではどうなのかということだ。

ただ、ここまで書いてきたことは私には納得できても、これを読んでいる人には論理的な説明になってない、と受け取られるということなら、

1)答え(智慧)は宗教・禅には見出されない(探すと見つからない)、、あるいは

2)宗教の存在理由は論理的には説明できない、、(不立文字)

ということかもしれない。

宗教には論理の範囲をこえた、他の何によっても得られない「真理」あるいは「ありがたい」ものがあるからこそ、大拙の身長大の著書も、たくさんのお経や宗教に命がけで取り組んだ人もいるのだと私は思うが、それはそれとして、なにはともあれ、、

無常の風に吹かれる中で、、、

正理と法の道をみいだし、

しかるべき生をまっとうされますよう!

 

お祈りもうしあげるものです。

 

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

 

付録

 

くつろぎの世界:Beatles: Let It Be

 

いろいろ硬いこと?を書いてきたようなので、ビートルズの演奏(Youtube)でくつろいでください:

 

Yesterday...
http://www.youtube.com/watch?v=ONXp-vpE9eU&feature=fvw 

それと、


Let it be
http://www.youtube.com/watch?v=GDlCcGBtGd0&feature=related

ただ、、おもしろいのは、
この二つの間に、転換があるようですね。。。(^_^)-☆

 

つまり、Yesterday でどうにもならないという問題を振り返っているとすると、Let it be 対処しない対処、、、動中の工夫とおなじだ。

 

When I find myself in times of trouble

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

Let it be

And in my hour of darkness

She is standing right in front of me

Speaking words of wisdom

Let it be

 

Let it be, let it be

Let it be, let it be

Whisper words of wisdom

Let it be

 

And when the broken hearted people

Living in the world agree

There will be an answer

Let it be

For though they may be parted there is

Still a chance that they will see

There will be an answer

Let it be

 

Let it be, let it be

Let it be, let it be

there will be an answer

Let it be

Let it be, let it be

Let it be, let it be

Whisper words of wisdom

Let it be

 

Let it be, let it be

Let it be, let it be

Whisper words of wisdom

Let it be

 

And when the night is cloudy

There is still a light that shines on me

Shine until tomorrow

Let it be

I wake up to the sound of music

Mother Mary comes to me

Speaking words of wisdom

Let it be

 

Let it be, let it be

Let it be, let it be

There will be an answer

Let it be

Let it be, let it be

Let it be, let it be

Whisper words of wisdom

Let it be

 

そう、答えはもともとあるのです!

 

釈迦はいいました:「奇哉!一切衆生皆倶如来智慧徳相 只因妄想執着不能証得」(奇なる哉、奇なる哉、我れ心の眼を開いて見れば、山川草木は悉くすでにさとり、一切衆生は悉く仏性をもっていた。ただ妄想、執着のためにそれを証することができない)

 

そこで、、我々がなすべきことは、ただ、じっと心を澄ませて、知覚を鋭敏に、あるがままをそのままに、、ということです。すると、如(あるがまま)がむこうから来るのです(→如来)。それが、答えはもともとあったと気づくということです。 

 

だからあなたは、そのままで、なにもしなくていいのです。

 

ところが、なにもしないのでなく、そこでなにかする、心を動かす、というのは我のはたらき、今まで積み重ねた業の働き、というようなものです。だからそうなったら、それもそのままに、じっと心を澄ませて、知覚を鋭敏に、あるがままをそのままに、、ということです。すると、如(あるがまま)が来るのです(→如来)。

 

なにもしないといずれ答えはむこうから来るが、来い来い、と我を進めて思いつめてはいけない。

 

そして、そこに見出された答えに気づいたなら、ただ「ありがとう」と感謝すればいいのです。

 

答えが見出されなくても「そのまま」に感謝です。

 

そしてとことんの感謝ができたら、「祈り」が生まれてくるでしょう。

あるいはなすべきことがわかるでしょう!

 

 

 

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