
禅体験と禅意識
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html
このファイルは「論理と禅の体験」のつなぎにかかわるところ(これを身心一如とみてもよい)で、修・証のポイントを、いろいろな例を参考にしながら、私なりにまとめたものです。私の仏道参究の総まとめ、といった意味もあります。
「禅体験」:私の見る限り、すべての人はこういう体験を少なくとも幼少のころには持っていたのであり、今も持っているのだけれど、あたかも雲にかくれてというようなもので、その意味あいがあたかも忘れ去られていると感じます。別の言い方をするなら、この体験は後でくっつけられた意識(業でもよい)の働きに妨げられない、人(生物)としての根源にある体験といっていいでしょう。
「禅意識」:無意識の意識、無分別の分別、鏡の心、、、言葉はなんにしろ、禅体験をふまえた意識、そういう境涯があるということ。これは安心の境涯であり、大智大悲の働く境涯であるといっておく。そしてこの「意識」のありかたは正しい道を見出して(仏道を)歩むということの基本にあるものでしょう。
こういったものが先人の言動、語録、お経などに、いろいろな形で現れている。その根っこがなにか、あるいはそれらはどうつながっているのか、全体はどうか、こういったものを言い表すのはなかなか難しいかもしれないが、これに迫ることは出来る。そしてその色々な形、表現を洞察し、根っこの体験とそれをふまえた心の働き、を確認しよう、修証しよう、そして正理と法の道をあゆもう、というのがこのファイルのねらいです。
* ついでに、付け加えておくと、身心に歪があるまま毎日を過ごすと、それはいわば我々において法が正しく働かないということと同義であり、歪=ストレス=煩悩であり、智慧がはたらいていないので、更にストレスがたまるという、悪循環に入るということ。解脱、自在、悟り、仏道を歩む、というのはそういう意味においてもよく洞察すべきことと思う。
ここに書いたものはヤフーの掲示板、瞑想と言うトピ、に散文的に書き進めたものを読みやすいように編集し、まとめたものです。ここにこられたかたの参考になれば幸いです。
2009年12月16日 洲崎清 記
* 付録に真宗関係のものも参考までに追加しておきます。言葉、思想などはそれとして、ヴィッパサナもそうですが、「宗教」体験そのものには共通の基盤があるように感じます。
動中の工夫(正理と法の道を歩む)の基本、あるいは静中の工夫となる基盤ということで「禅体験」という題で少しまとめをしておく。使われる言葉はいろいろあるが、ある体験を下にこれらをチェックすると、いろいろな表現があたかも月を指し示す指の如くひとつにつながって見えるのである。
まず道元を例にとると、こういうのがある:
「如浄は道元をして 坐禅のとき、心を左の手の上におかしめることを教えた。。。道元は素直にこの観法を実習した。そしていくらかの期間を経て如浄に報告した「教えのようにやりますと、両手ともに打失して心の置き所がなくなりました。」と、そのとき如浄、、いわく「それなら、これからはお前の心をしてその全身に充実せしめよ、全身のいかなる部分にも空虚のところのないように充実せしめよ」と。。。。
この修練の結果、、彼は一日、、如浄にいわく「仰せの如くに、心を全身の隅々にまでいきわたらせました結果は、身心ともに脱落してしまいました。日輪が大空に照り渡る如く、その輪相もまた見えないのです」と。如浄、是を聞いて「汝今日真箇の解脱、大禅定にはいれり、真実護持して打失するなかれ」p69−70、大拙全集一巻
これが(左手、云々は別として)私のヴィパッサナの体験とつながっているようで面白いのだ。ちなみに「全身に充実」→「身心脱落」の意味あいはヴィパッサナ(ゴエンカ氏)でいうバンガという体験と同義と見える。脱落の感じは業の根っこが抜けて体がエネルギーが湧き出て活性化し楽になったという感じ。
大拙は:「薬山の場合は「皮膚脱落して一真実のみある」で、、道元の道得底にはものたらぬものがある。」「只管打坐が身心脱落ですんでいては、どうしても黙照足らざるを得ない」「大機大用をいうものからみると、なんだか物足りないという観をまぬかれぬ」(p。71)という。そしてその意味あいもよくわかる。つまり、受動で能動にどう出るのか、というところ。
大拙が「道元は如浄の伝統に忠実であった」(p。71)というのも、あたかもヴィパッサナの伝統とつながっているようなのだ。(悪くいうなら、小乗→黙照→ブラックボックス→滅、の意味合いで、早い話「悟り」の意味あいが違うのだ)
ただ、それはそれとして、「禅体験」というのでみると、体験そのものはぴたりとくる。別途、HPに「禅のすべてが尽きる」、と言うファイルにまとめたが、「大悟」、、というか、こういった体験を突き抜けないと、、いわば体験にとらわれる、、、いかだを担ぐ、と言うことにもなる。
(ちなみに大拙の引用の元はどうも正法眼蔵随聞記らしいが、ぱらぱらと見ただけでは見つからなかった。どなたか知っていましたら教えてください。)
盤珪の禅体験というのでおもいうかぶのは彼の和歌:
「古桶の底ぬけはてて、三界に一円相の輪があればこそ。」
(p。180盤珪禅師語録ー岩波)
彼の場合は、もはや「死ぬばかり」と思ったときに、「ひっくり返って」不生ですべてが整うという体験をしている。桶の底が抜けるというのは、身心脱落につながるようでもあり、境が消えた(→さらにいうなら梵我一如)という境地を示していると思う。
ただし、体験の後、自分の見所を確認しようと何年も日本中を巡り歩いたという点は、道元の正法眼蔵での参究の経過と似ているようだ。つまり受動の能動に出るという意味あい(→不生、無意識の意識)が「わかる」・「確認する」のに時間がかかったようだということ。(是は私の場合も同じ。ちなみにヴィパッサナでは体験そのものにあまり重きをおかないので、私の場合は、語録とか大拙そのほかの本など、念には念をいれるチェックをするということで、結構時間がかかった。また動中の工夫にむすびつかないような体験は何の意味もない、と思っていたという背景もある。)
そこで禅体験と禅意識という風に、あるいは体と用(定・慧)というように両者のつながりがみえないと中途半端ということになるように思う。究極には動中の工夫においてこれらがちゃんと反映されているかどうかということだと私は見る。(曹洞宗の場合、只管打坐重視のマイナスの面だろうか、あいにくダイナミックでなく、静的な見方が強いように思う。)
ちなみに盤珪の場合、説教をするにおいて彼自身の脱落体験を強調せず、不生ですべてが整っており、余計な道具(つまり公案・坐禅などの修行)はいらない、と言っているが、そこに日常の実践を中心にし、修行の無駄がないように、一般の人にわかりやすいように、、という彼の大悲大智が感じられる。また、大拙がそうみたように、私も確かにそういう見方が正しいと納得できる。(注:盤珪のいうようにそれ(不生のまま)が近道というのは、わかった後で見直すと、そのとおりでいいのだが、ひとによってはそこにいたるための道具(方便)があってもいいとも思える。)
盤珪の禅体験は、彼が説教でいうように「誰もがすでにやっているものであり、鳥の声を聞けば、考える前にそれがそうとわかる」(意訳)、という、言い方をしているが、これはまさにサティ(気づき→無意識の意識)の原点であり、ヴィパッサナのポイントと同じというのが面白い。ただ盤珪の場合、いわゆる悟りも動中の工夫もみなまとめて不生でととのっているというのが、いかにも彼の独創であり、まさに新鮮、直載と思う。(ただし、「道具」をもとめるものにとってはそれがあまりに簡単、つかみどころがないとうつることもあろう。)
盤珪が自ら言うように、不生は彼自身がすでにある修行を進めてみいだしたというものでなく、彼自身が死に物狂いの苦労の上に見出したものということだが、その「やり方」がたとえばヴィパッサナと密接につながっているというのは、まさに不思議なところだ。ただし、ここでは「禅体験」をいろいろな角度からみているわけだが、こういう体験こそ道元のいう自受用三昧で、だれもがもっているもの(もともとある;不生)だから、探求をすすめれば、だれでもしかるべきところに落ち着く、ということだろう。
ということで、私は盤珪の不生に非常な共感がもてるが、現実の話としては、いろいろな宗派、祖師方の表現や修行のやり方もあり、微妙ではあるが、いい悪いはとにかく、まあ現状はそうなっているのだと実践的にみるというのでいいだろう。なにしろ同じことを聞いても、受け取り方は千差万別なのだから。
なにはともかく「禅体験」ということではここに共通なもの(基盤)がある(、、ようだ)というのがここでのポイントである。
禅体験というので寒毛卓豎(かんもうたくりゅう)という記述が大拙全集一巻p。371にある。いわく:「禅意識を、、生活のうえからすれば、寒毛卓豎、という如き心理状態が経験される。但し我らの日常生活はこの状態でいつもいるのではない。」とある。
そこで寒毛卓豎を辞書でしらべると、おそろしさに身の毛がよだつ、とある。
これがヴィパッサナでいうFree Flow(体の中が透き通った感じにエネルギーがすっと流れるーバンガにつながる)というのとつながっている感じがするのだ。言い方としては「おそろしさに身の毛がよだつ」というより、私の場合「鳥肌が立つ」、、「体中の細胞が連携して踊る」、、といった感じがあるが、まあ似たようなものだろう。道元のいう「透脱」もその感じに近いと思う。(これが六識;だれしも法を感じる器官をもつ、というのとつながっていると思う)
一方、大拙のいう「日常生活はこの状態でいつもいるのではない。」、これもわかる。私の場合、ほとんどいつでもFree
Flow(~脱落)の感覚は、みいだそうとおもえば、みいだされるものの、それがなくては、仏道として話にならないが、一方そればっかりでは中道の意味あい、つまり娑婆で頭を使って迷い迷いしながら人として生きるという意味あいから外れるのではないか、というのが今の私の見方だ。(注:このぎりぎりの感覚がHPのファイルにのせた「鏡の心」につながる)
この辺についての話は、どういうわけかあまり見聞きしない。もちろん微妙なところではあるが、例の盤珪の「鳥の声」云々・「サティ」(サティについてもHPにファイルに載せてあります)、そして無意識の意識にもつながるところであり、(バイオフィードバック的な意味あいもある)盤珪が言うように、「そこ」(不生)に気づくというのは、とても大事なところと思う。
論理というより、体験の話なので、一般には二義的に見ているのかもしれないが、私は心(一般にいう意識の働き)が「根っこ」につながっているかどうかの意味があり、大事と思うし、身体の感覚はここでは詳しくふれないが、ヴィパッサナの肝(→Awareness
and Equanimity:鋭敏な知覚と平静な心→鏡の心)でもあるので、こういった感覚・体験に注意を喚起したいところではある。
(注:ところで大拙はこのあと禅意識、無分別の分別、に言及している。要は禅体験と禅意識のつながりをしっかり見ないといけない、というところだ。体験がどうであったかというのはそれとして、日常に「働き」(用)がいかにはたらき出るかがかぎなのである。それがすべてといってもいい。)
これは英語のTwo Zen Classicsという本(無門関と碧眼録の英訳)から、
公案、趙州の無についてのコメントでこういうのがある:
84,000の皮膚の毛穴:The breathing in Zazen practice controls
the pores of skin, the circulation of the blood, and even the activity of the
capillary vessels(毛細血管).Zen breathing and posture
control skin sensation, which in turn controls the peace of both heart and
mind.
The quietness of absolute samadhi comes from pacified skin sensation. This is
very important point to keep in mind. Never neglect it. Beginners will not
understand, when they start to practice, how to control their breathing and
pacify the skin,...(p.29)
ーー
これもヴィパッサナでの体験とマッチする。前述の寒毛卓豎ともつながっているだろう。ただ、いわば無意識の意識で、その知覚はあっても、気づかないというのが一般で、したがって、坐禅・ヴィパッサナでそこのところを修・証するというわけだ。
上の表現では、呼吸と姿勢により、この皮膚の知覚に気づくというのが身心の安心につながるとしている、、と読めるが、ヴィパッサナではこれらの無意識を知覚するということが身心の連絡(身心一如)につながるとしており、後者の表現が正しい・正確といえよう。
要は、こういった知覚→直接体験にもとづく「理解」「知見」が大事なのだが、一般には頭が先走りする(→業の働き)ので、そういった迷いの境涯を、「無意識の働き」の正しい・直載な、そして、あるがままのありよう、を直接「知れ」「認識しろ」、、、(これがまあすべてがひっくり返る、といった感じにつながるわけだが、、、)というわけだ。
つまり、このことが無意識の意識、無分別の分別、悟り、、、のあり方ということだ。(ちなみにこれは、誰の教えも受けず、苦労して自ら見出したという盤珪の不生の説明でも同じということになる。道元のいう自受用三昧もそこを見ているのであろう。つまり人としての構造は同じと言うこと。)
わたしゃ、わからん、
なんにもしらぬ、
つみもしらんが、
おじひもしらん、
しらぬまんまで、
なむあみだぶつ
p。328鈴木大拙全集より
ここに載せた才市の言葉は禅体験というより、禅意識に近いかもしれないが、いうなら禅体験におけるこころの動きが、知らぬ、わからぬ、それでいて安心、という体験を、、、つまり絶対の肯定、絶対の他力、という体験の様子をうまく表していると思う。
要はそのときは任運騰騰、、、というわけだ。
ただし、往相回向という言葉で上の感じを表したとすると、環相回向、、というふうに、それがそのまま突き抜けて、娑婆でのはたらきに現れ出るという、、、つまり、「頭を使う」大智大悲が娑婆ではたらくというところにはいたってない、と言うことだろう。
もちろんそれが悪いということではまったくないが、いわば幼児が、母親に抱かれて、、、という感じがするわけだ。彼が(阿弥陀に)救われている、と言うのはこの文ひとつをみてもまぎれない、とわかるだろう。
これは左脳を脳溢血で一時的に失った脳科学者(女性)の体験。彼女の場合、禅による体験ではないが「体験の内容」は是までみてきた禅体験・脱落体験とつながっており、最近読んでいた盤珪の説法を彷彿と思い起こさせるし、私のヴィパッサナの体験ともマッチする。
ふと思ったのは、中山正和さんが生きておられたらこの体験談から彼のHBCモデルの確認、悟りの構造の確認、ができてさぞ喜んだだろうな、というところ。
是はトークショウのサイト、
http://event.oprah.com/videochannel/soulseries/oss_player_980x665.html
から抽出したもの。:
All is energy flow.
I feel blessed.
It was clear that I was miracle.
I was like a life's force power.
All cells working with potential.
There is inner peace. I am LIFE itself. Pure innocence.
Sensory perception is heightened.
ついでに。もうすこし細かな彼女の体験の説明(上記コメントを含む)もここに載せておく(注:別途HPにテイラーさんのファイルをまとめてある):
part 1
Before, body served the brain.
I surrendered.
I am fluid.
I feel trillions of individual cells.
We are miracle of life.
I was as big as universe. - no boundary...
There is oneness. You are part of me.
It is a state of nirvana.
I was essentially God.
All is energy flow.
I was not separate from God.
I was just visiting here.
I feel blessed.
part 2
There are two kind of people:
One brings energy; the other takes away energy.
With my intention, I take responsibility of energy.
part 3
It was clear that I was miracle.
no fear.
I was like a life's force power.
All cells working with potential.
Thinking takes lots of energy.
Willingness to try is everything. (to recover the left brain )
If I do not try, it(the left brain) may never come back.
Reborn, start from scratch.
I lost emotional package, suffering, etc. All garbage, wiped out.
Emotional pain in physical - it grips the chest tight. tense...
Sadness has a physical feeling.
Past has no power to your 'now'
It is freedom not pick up old baggage.
I know I am as big as universe.
You are not your thought.
Find what feels like inside of your body. All of you can do this at any time.
Silence the brain chatter. Focus your mind on the other
part.
part 4
I am in relation to other, connected.
There is inner peace. I am LIFE itself. Pure innocence. Celebrate all the time.
It is the attitude of the gratitude. Feel fortunate to be here.
Only important moment is now. This is glorious experience.
I do not need to meditate. Just not to listen to that chatter.
The rest is peace, so just tune in.
Allow to let go ego aside, just focus now.
Data does not matter, just neurons. Choose the circuitry.
How I treat/ deal with people is key.
Kindness is what matters.
Death does not seem significant although I do not know until I get there.
I believe it is peaceful - as there is no neurons (chatters) there.
Take responsibility of your voice (brain chatter).
Sensory perception is heightened.
Pay attention to the feel of the body.
(When you get upset, just observe. ) After 90 seconds, anger will be gone - it
is just a chemical reaction.
You can choose and refocus your mind.
Pay attention to your thought; you are not that thought.
ーー
"[Different religions] are ultimately getting to the same consciousness,
which would be that right hemisphere, a celebration of what we are. … So, it's
the left hemisphere story that gets you to that place. I am not attached to the
story, I am not attached to anyone's story. I think whatever story it is,
great, if it gets you to the same final destiny then that's a beautiful
thing."
ー http://abcnews.go.com/Health/Story?id=5226183&page=4 より
これはTaylorさんのサイト:
http://www.drjilltaylor.com/world.html
エックハルトの一隻眼は内と外とを一目に見るという。内とは心であり、外とは万物である。あるいは内とは神であり、外とは自己である。
あるいは、内とは無分別であり、無心であり、外とは分別で、こころである。内外を一目に見る一隻眼は無分別の分別、無心の心である。
ーp。132、大拙撰集1
この表現は禅体験をあらわすといってもいいが、いわゆる「本来の自己」を知るという境涯をこえて、その体験をふまえた身心のありようをあらわしたもの、つまり禅意識も含めた表現だろう。
このエックハルトの眼があって見るものが見られるものと気づく。是が私の見る「鏡の心」の意味あい。(ちなみにヴィパッサナの場合のフリーフローもここまで行かないといけない。つまり、そこにもうひとつの無門関ーこれを定慧と対応させてもいいだろうーがあるといったようなものだ。)
なんともまあ、目の前にあって、あるいは見ていて、気づかぬことがある、という、ともすれば(是がほとんどすべての人であろうが)ややこしい、かといって微妙であり、あるいは盤珪の言うようにそのままで整っているという境涯というわけ。だからこそ例えば盤珪の不生に気づかないといけないということになる。これを第三の目といってもいい。
ただし禅に見性があるが、性を見るだけでは、その体験は日常に生きてこないのである。
24歳の春、越後高田の英巌寺で、、修行していた折に、死を覚悟の一大坐禅を続けて14日目の早朝に「澄み切った空のかなたより、ボーンと響いてくる寺の鐘の音が、心魂に透き通る」のを感得して、はっと眼を覚まし、身心が天地に溶け澄んで、満ち広がり、天地と自分の境がなく、天地とともに澄み渡り、みち広がっている大きい大きい自己を体感して、一大安心と歓喜をおぼえ、「天下でこのような大きい悟りを得たものはあるまい」と思い、師匠や同僚に告げるのですが誰も相手にしてくれません。お前たちにはこの私の悟りがわからないのであるといい、ますます超然として、人を人とも思わなくなったのであります。(p。22白隠禅師健康法と逸話)
その後、正受老人に会い、更なる体験をし(→眼に入るもの耳に聞くものがすべて今までと異なり、、、心の中は広々として、限りない空感と自由自在境にとけいっておるのです)、悟後の修行をおそわるが、動中の工夫がうまくいかず、理解と行動の一致、知見と実践との分裂に苦しみました。(p。23−5)
そのあと白幽から内観の秘法とナンソの法(是がヴィパッサナに似ている)を伝授される(p。65)
ーー
鐘の音がきっかけでの体験というのは一休の話(からすの声がきっかけとなった体験)と似ている。その後、正受老人に会い、更なる体験、、というのも、禅体験としてはその前の体験と似ているようだ。
但し体験と禅意識とでも言うべきものが呼応しないと、悟りの体と用の意味あいがしっかりしないだろう。(この辺HPに、「これで禅のすべてが尽きる」という題のファイルにもまとめてある:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html
)
いずれにしろ、この白隠の体験は道元の身心脱落、盤珪の桶の底が抜ける、あるいは私のヴィパッサナのバンガ体験とにているようだ。要は絶体絶命に陥ると、必ずや、何かがひらめいてそこにあったひずみが(いわば生体の自己組織性によって)解ける、といったもの。つまり体中の細胞がそれこそ全機現で、すべてが生き生き溌剌と、喜びに震える、といったもの。人の構造は(頭・論理の使い方→煩悩・業、によってそうなるのだが、)もともとそう出来ているものと思う。
白隠は「大悟十八遍、小悟その数を知らず」とかいっているが、動中の工夫におけるリリース(脱落)もある意味では小さな悟りであり、それもいれるなら小悟は無数ということだろう。
念のために言うと、禅体験はその体験にいたるプロセスを「体得」して、、つまり、悟りの「用」の意味あい(→是を悟後の修行といってもいい)がわかって、どうかというもので、それがわからないと、上で見た白隠の最初の体験のように、「体験」はあっても、それだけでは、しっかりとは、「わかってない」ということになるというわけだ。それは白隠が後に禅病になったということでも明らかだろう。(要は体験を求めてはいけないということ。法をもとめるものは、法を求めてはならない(維魔)である。)
ちなみに、この辺のところは真宗でいう往相回向、環相回向と対応する。つまり行ったら、ちゃんと帰ってくる。大拙の言う円環運動である。
臨済も、というので臨済録から、禅体験の形容といったものを目に付くままに、引っ張り出してみた。まことにありがたいものである。こういい、ああいい、紛れがないようにとしつこいばかりに言葉を継ぐ。豈にしいて是非すべけんや!である。臨済にかぎらず祖師方が是でもか、是でもか、とその境涯(禅体験)をつたえているのだ。
コメントは本来必要ない、あるいは「気づき」の妨げになるかもしれないということを覚悟の上、以下適当に書き記しておく。
「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている。まだ是を見届けておらぬものは、さあ、見よ、さあ、見よ!」
(p。21臨済録ー岩波)
つまり考えてもダメ、というわけだ。法を知覚する意識(六識)を見よ(体験せよ)!である。
「いかなるときもむやみにああこう分別するな。わかるというも、わからぬというも、すべて誤りだ。」(p。27)
これはなんとなく薬山の非思量を思い浮かべさせる。
「今わしの面前でこの説法を聞いているものこそがそれだ。(君たちは是を信じ切れない為に外に向かって求める。)」(p。35)
面前聴法底是なり、というやつだ。盤珪の鳥の声でもおもいだしたらいい。
「現在のこのさまざまな働きに何のかけているものがあろう。この六根からでる働きは、かって途切れたことがないのだ。(もしこのように見てとることが出来れば、これこそ一生大安楽の人である。)」(p。35)
不思議な働き、働きさまありがとう!である。
「心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼に働けば見、耳に働けば聞き、鼻に働けばかぎ、口に働けば話し、手に働けばつかえ、足に働けば歩いたり走ったりするが、もともとこれも心が六種の感覚器官を通して働くのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。(わしがこのように説く目的はどこにあると思うか。君たちがあれこれ求めまわる心を止めることができずに、古人のつまらぬ仕掛けに取り付いているからだ)」(p。41)
感覚器官を通してというのは、なんとなく道元の透脱を思い浮かべる。一心が無、は南泉の「太虚の廓然として洞豁なるが如し」(平常是道)につながる。
「何事もしない人こそが高貴の人だ。絶対に計らいごとをしてはならぬ。ただあるがままであればよい。」(p。47)
そのとうり。(笑)
「一体法とはなにか。法とは心である。心とは形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている。」(p。48)
同じ。十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている、というのがありがたい。悉仏有仏性、、の働き、といったものだ。
「仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。くそをたれたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人はわらうであろうが、智者ならそこがわかる。。。君たちは、その場その場で主人公となれば、己のありかはみな真実の場となり、いかなる外的条件もその場を取り替えることは出来ぬ。」(p。51)
だから主人公、というわけだ。主人公=本来の自己(の働き)
「わしの見地からすれば、仏もなければ衆生もなく、古人もなければ今人もない。得たものはもともと得ていたのであり、時を重ねての所得ではない。もはや修得の要も証明の要もない。得たということもなく、失うということもない。」(56−7)
盤珪の不生そのまま!探すな!
「仏や祖師は何事もしない人なのだ」(p。76)
是が愉快だ。(かなし・ありがたい、という感じもある。)
「君たちの働きに何がかけていてどこを補わねばならぬというのか」(p。82−3)
もともと、そうできているし、その働きは絶対そのまま、、といったものだ。
「君たちがもし仏を求めたら、仏という摩のとりことなり、もし祖を求めたら、祖という摩に縛られる。君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。あるがままに何もしないでいるのが最もいい。」(p。85)
何もしない、、というのが非思量、不生、只管打坐、自ずから然り(自然法爾)、、云々とつながるのだね。私のいう「対処しない対処」、、でもいい。
「無心であれば煩悩の拘束もない。姿形を弁別する要もなく、するりと一発で道を体得できる。」(p。92)
するりと一発、が愉快ではないか。即!の意味あいだ(煩悩即菩提)即側かっているなら、鏡の心もそこにつながって来る。真宗なら極速。
「ほかならぬ君自身が現に今見たり聞いたりしている働きが、そのまま祖仏なのだ。」(p。100)
盤珪さんもこれを聞いたら喜ぶだろう。不生の仏心そのものだ。
「君たちの一念心の動きが静まった場合、それを悟りといい、それが静まらぬ場合、それを迷いというのだ。」(p。104)
これは道元なら「万法すすみて自己を修証するは悟りなり、迷いを大悟するは諸仏なり」、、云々とおなじ。
。。きりがないのでこの辺にしておこう。
まったくもってこういうのを読むと、祖師方の大合唱をきくようだ!あるいは連中の指がみな中空にかかる同じ月をさしている、というわけだ。
ヴィパッサナ(ゴエンカ氏)は道元の只管打坐とどことなく感じが似ている。まずその似ているところを、おもいつくままに羅列してみる。
1)坐るということ、そしてその手法・形に修行の主眼がおかれている。
2)道元は只管打坐、ヴィパッサナは五感の知覚に鋭敏に、かつ心を平静に、という二点。外乱をすくなくするために、戒を重んじ、静かな環境で身心ともにどう働いているのかを知覚・認識・体験する。
3)身心の働きが静まった、あるいは煩悩・迷いの静まった境地で、身心のあるがままのありかた、を直接体験・純粋体験する。
4)道元では身心脱落、ヴィパッサナではバンガの体験がある。それはあたかも身心のひずみが個々の細胞レベルで解きほぐされ、生体の本来の自己組織性によって、正しく再編成され、いわば存在の根底からエネルギーが放出され、身心に行き渡る如くである。
5)修行は坐るということだけでなく、行住坐臥において只管の働きを無心に進めるということ。修=証ということで手段=目的という、いわば歪のない(法にそった)身心のあり方を体得するということ。
ヴィパッサナの場合、「鋭敏な知覚と平静な心」がすべての基本であり、それがまた目的でもある。これは道元のいう修証一等とつながるようである。行住坐臥すべて禅、ということ。外見にあらわれる形、教義第一ということではない。
ヴィパッサナでは煩悩の根を抜くという手段・手法とその(科学的)裏付けを説明する。煩悩の根は深いので、釈迦の悟りに達する為には一般に10日、20日、40日、90日コースなど、しかもそれらを繰り返すなど、長期間の修行が必要とされる。ヴィパッサナで言うバンガは一里塚としてとらえられ、究極には、身心、あるいは物と心というフレームワークを超えた(滅した)状態に達するということをみており、是が「釈迦の悟り」であるというわけだ。したがってこれは日本で一般に言う禅の悟り(大拙なら無分別の分別)とは異なっている。
ところで、、ここは微妙なところだが、無我の体験、あるいは自分が宇宙とひとつになった体験、というようなものは、普通一般の次元での体験と異なったもので、これを根源的な体験とみてもいいと思うが、それだけでは、それがいかに素晴らしいものであっても、いわば無意識の働きを体験し、垣間見たといった段階にとどまるだろう。法にそって「生きる」という姿に表れてこなければ、そんな体験は何の意味もない。
したがって身心脱落も、大拙のいう「無分別の分別」ないし「無意識の意識」とは異なり、それが、前述の「道元の道得底にはものたらぬものがある(*注)」という言い方をしていた、というところにつながっていると私は思う。「無意識の働き」を「意識」し、その「連絡・はたらきの意味あい」がわからないといかんというわけだ。
(*注:「道元の道得底にはものたらぬものがある。」「只管打坐が身心脱落ですんでいては、どうしても黙照たらざるを得ない」「大機大用をいうものからみると、なんだか物足りないという観をまぬかれぬのである」(大拙全集1巻p。71)ただし、もっともその点を補完するのに正法眼蔵があるのだろう。大拙いわく「只管打坐の道元と「正法眼蔵」の道元は、明らかに悟りの両面性を象徴しているといってよい。」(p。473、大拙1巻)ここで「悟りの両面性」=鏡の心、といった意味あい。)
ゴエンカ氏のヴィパッサナでは鋭敏な知覚と平静な心(awareness and equanimity)と、表現しているが、そういった「境地」を「つかむ」(是はもともとあるのだが、、)というポイントがわからないと、大拙のいう、「「閑坐無為」「四禅八定」というインド的流になる」可能性があるということだろう。(p。489、大拙全集1巻)
(ここが微妙なのだが、ヴィパッサナのコースの先生方(アシスタント・ティーチャー)は、指導のねらいが、どちらかというと手法に焦点が置かれ、上で言ったポイントの指導が弱いと感じる)
注:四禅八定についてはここを参照:
http://homepage2.nifty.com/zkikou/shugoukikoubanasi/6.sizenhachijyou.htm
ちなみに大拙のいう「看話禅の長所は悟りを活きたものとして取り扱うところにある。」(p。474、大拙1巻)というのは道元においての只管打坐で体を重要視するか、用を重要視するかといった違いをみているようで味わい深い。つまり、そういった意味でも道元(黙照禅)と看話禅の補完関係をみるべきではないか、というわけだ。
是は私の英語のHPに載せたもの。1999年のロスでの仏教大学のシンポジウムに基調講演をするのにこられるはずの玉城氏が直前に死亡されこの論文のみ届けられた。シンポジウムには当時花園大学長の西村恵信氏が玉置氏の代わりを務め、リトル東京で一緒にうどんを食べたという思い出が残っている。
その前に禅体験に関する記述を示す。
「そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、
私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。
何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。
私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。
いったいこの事実は、どういう意味を持つものなのか、その後ながい間の仏教の学習と禅定を重ねるうちに次第に明らかになってくるのであるが、その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか、それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ)
になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚が、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定するこ
とはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしよう もない。
悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みっづけ、
コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落
ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そういう思いに満たされた。」
以下は私の英語のHPから(もとは玉城氏の論文:1999年):
I was already 76 years old. I had lived my whole life seeking the truth. How
regrettable that I had not attained my goal!
In mid-December of 1993, when I was 79 years old, I suddenly realized that
"something" had fallen out and left me. It was not during meditation,
not during ordinary daily activities, nor when I was in a stressful situation. It
just happened. What was that "something?" Upon introspection I
realized that it seemed to be my desirous attitude. That is to say, my desire
for the appearance of the Dhamma when the Dhamma did not become apparent, was
gone. My desire had vanished.
。。。
After my return to everyday life after meditation, the Tathagata continues to
accompany this ignorant and self-attached man. Awake or asleep, I am always one
with the Tathagata. And on some auspicious occasions, Amida Buddha appears. In
times of joy, in times of pain, it is Namu Amida Butsu. No matter where or
when, the Tathagata fulfills all needs.
簡単にコメントするなら、彼の場合は禅体験が禅意識につながらず、動中の工夫がうまくいかなかったということで、それは上の76歳のころの体験談から明らかだろう。これは逆説的な話となるが、そもそも彼は「それ」を求め続けたというところに問題が見られる。要は、求めたら求まらない、と言う(誰しもが陥る)落とし穴があるのだ。
ひよんないきさつである人の投稿に答えるのに、禅のトピにこういうものを載せることになったので、ここにコピーしておく:
「体験」についてなにか言うというのは、かえって間違った方向に人を向けるという危険もあって、あまり言いたくないし、以下にかいてあることを読む際には「十分な注意」が必要と思っていますが、、、
私の「体験」はそれを形容するなら、梵我一如、桶のそこが抜ける、身心脱落、あるいは「私という存在=光(プラズマのエネルギー)」といったもので、英語ですがここに書いてあります:
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/revisitingvipassana-2000.html
ついでに、これ↓は、普厳菩薩の絵と、それについてのコメントをまとめたもので、これらの絵からは、私の感じた、梵我一如の感じ、宙に浮いている感じ、身心が不思議なエネルギーとなって溶けた感じなどが感じられ、この絵をみたとき、私の体験と同じ体験をした人がいるのだな、と思いその背景などをネットで調べたものです。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/fugen2.html
このときの体験(2000年)は、いまでも鮮明に記憶に残っているもので、それまでしょっていた業の荷物が吹っ飛んでいったというようなそれこそLiberation(→解脱・脱落・自在の境地の体験)であり、生き生き(全機現)、の感じですが、私はその体験自体は、あまり重要視していません。(これは、そこに行き着くのに多少苦労があったのですが、、、)要は体験などにとらわれるのはまったく意味のないこと、というのがその理由です。
その後、業のお荷物を捨て、煩悩の根っこを抜くという、こういった体験の意味あいが、いわゆる禅意識、とでも言うべきもの(→大悟といってもいいでしょうーつまり「悟り」の意味合いがはっきりすること)につながるのは2007年のことです。その辺の様子はここに書いてあります:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html
この辺のいきさつを読めば、私が「日常のありかた」、「動中の工夫」をしつこく強調するのは、体験がどんなに素晴らしいものであれ、それが日々の挙動にまぎれなく現れない限りにおいては、何の意味もない、ということが明らかになるでしょう。
また、そこが見えているから、私はこういったわけです:
「もともと悟りは迷いに対してあるものが、
悟りを悟りと対象化(あるいは固定視、イメージ化)すると、
これはとらわれにつながるのだが、
本来の汝自身を知れ、、という
いわば自らの動きを照らすという意味での鏡(→智慧)の働きが
本来の役割を果たさなくなる。
悟りの体と用の意味あいがわからないと、
いろいろとちぐはぐなことになるわけだ。
つまり哲学的な形容はいいとしても、
もともとの用、つまり大本での働きが忘れ去られるのなら、
それは本末転倒というものであろう。 」
ということで私の見る限り、究極のところは、、、釈迦の旅が最後に近づいたときにいったという、次の言葉に照らし合わせてどうかということに集約されると思っています。:
「私は出家してから50余年となった。
正理と法の領域のみを歩んできた。
これ以外には道の人なるものも存在しない。」
(p。150−1、岩波ブッダ最後の旅)
*ついでに、これ↓もご参考まで。宗教の究極のポイントという題でまとめてあります。
たかが30年ほどではあるが、私のこれまでの禅・仏教の(たて、横、斜めの)調べと私なりの修証をここで総括するなら禅、仏教、そして宗教の究極、つまり人間を人間の苦から救うこと、というのは上で見てきたことに尽きている。キリスト教は詳しくは知らないが、エックハルトやトーマス・マートンや聖書を読む限りでは、その根本において見ているところはほぼ同じとおもう。
つまり人間と(全知全能の)神との関係は人間の意識(→間違った頭の使い方が煩悩を生み出すという意)と不生との関係に同じだろう。原罪によりアダムとイブがエデンの園から追い出されるということは、仏教では「無明→迷い、煩悩」の有様を描いているようである。そして神を見出す、そして救われるというのは、盤珪のいう「不生ですべてが整っている」と言うことと同義と了解できる。もちろん、救われるためのプロセスとしては、我(我執)は「神に、、」、あるいは道元の言葉なら「仏の家に」、、なげいれるということだ。
是はまた般若経の五蘊皆空(あるいは色即是空)につながるし(→無常、無我の体験)、それが阿弥陀仏への帰依とつながるなら南無阿弥陀仏でもいい。ただ真宗(あるいはキリスト教)は情の傾向(←原罪などにみられる、いかんともしようもない罪悪感から究極的にはゆるされるということへの感謝の思い)が強いのに対し、禅は知に偏っているようである(つまり温かみ、やさしさがあまり感じられない)。これは禅において、おおもとの智とその働きを身をもって体験するのと、真宗(あるいはキリスト教)において無限の慈悲、大悲に救われるという体験をするというその体験の性格の違いだろう。
私個人の体験では、究極的には我(が)をすっぽりと仏の家になげいれて、したがって絶対の他力(仏の側から行われる)で救われているのであまり上で言う違いは感じられない。つまり自分が自分を救おうとして救われたのではないので、ただ、ただの感謝の気持ちがあるのみだ。(どこかで大拙も「禅は自力と言うが、結局は他力だ。」という意味のことをいっていたと記憶する。)またこれは道元の言うとおりである。いわく:
「ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」−道元(正法眼蔵:生死)
究極的には「絶体絶命」(つまり論理・知性の範疇)を超えて、苦からの解脱・智慧の働きを体験するのであるから、たとえその過程が「ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて」という、我が落ちる(→無我)といういかんせん「微妙な」体験(→身心脱落)であっても、釈迦の梵天勧請の話であらわされているように、その体験をなんとか人と分かち合いたい、なんとか衆生を救いたい、という思いが自ずから湧き出てくるのだろう。これが四弘誓願に集約される菩薩の願いであり、無縁の慈悲であり、キリスト教なら無償の愛ということと思う。
、、とここまで書きおわったら大拙のこういう文が見つかった:
「何か悟りというものでも諦認したとするなら、その諦認から本願が自ら湧き出さなくてはならぬ。それが湧き出ぬような諦認なら、それは嘘である。。。独善的なものには真実はない。それから、この真実は力―いかなる形態のものでも、力で人の上に加わるものでは断じてないのである。真実は大悲である。無縁の慈悲である。。。それゆえに真実は各自の中から開けてくる。各自の中に動き出すものである。。。弥陀の大悲は力ではない。外から加わるものでない。自己の中から湧き出るものである。」 (大拙全集1巻p。190)
無分別の分別、無意識の意識、全機現、中道の意味あいの身をもってわかったという、そしてその境涯が働いているという心的状況を禅意識と呼ぶこととする。
(大拙による定義は大拙全集1巻p、356:禅意識=無分別の分別)
その働きが日常にあらわれ、(つまり動中の工夫のしかるべく働いている状態)いわば自ずから然り、心の欲するところに従って矩をこえず、、、が体得されるのを真に禅的な境涯としておく。これにいたるのが趙州の大悟の後、更に参ずること30年というやつだ。(注:十地経でもその経過があらわされている、HPにファイルがあります)
そこで、禅体験があってもすぐ禅意識に結びつくということでないというのが私の場合の経過であり、前の投稿の秋月氏の場合も同じ、大拙も同じとみると、(大拙と私の場合はHP「これで禅のすべてが尽きる」、のファイルに書いておいた)禅体験があっても、それだけではその「意味あい」が納得できないので、さらにもうひとつ障害を越えないといけないということになる。
これは悟りの体験があっても、それだけでなく、その体験の後で何がどう起こったかを「正しく納得する」、という意味合いと思う。それがうまく出来ないと、たとえば、「体験」に迷う、「体験」を追いかける、あるいは「大悟に大迷する」(道元)といったことになる。
そうならないために証(悟り)の内容・プロセスのチェックが大事ということになる。(そうでないと「悟った」と思って、躍り上がって喜んで、元の木阿弥というようなことにもなる。(玉城氏の例)
ということで「しっかりした」チェックが必要というわけだが、いい加減な老師につくと私はこれがちゃんとできないということになると思う。特にはじめはこれの判断が難しいと思う。そういうこともあって、大拙はあれだけの本を書いていろいろな角度をチェックし、、お経、語録などを追いかけて禅や禅以外の事例までチェックし、更に今後の展開をみたということだろう。
もうひとつややこしいのが、意識(頭)での禅意識の理解と禅意識との関係。大拙はここのところを秋月氏にこういっている(前投稿からこの部分だけ再コピー):
「無分別の分別だが、このようなものが別に何かあると考えるべきでない。あるかと考え始めるときに、すでに「無分別の分別」を失却している。そのようなことを言うのは、論理的意識の上に出して、思索上の話題にするときである。」(P.250)
つまりわかったら忘れろ、というようなものだ。
これはたとえばサーフィンをしていてあるテクニックを実施するというとき、その頭で覚えたテクニックを一々思い出していたら、実施が出来ないというのとおなじようなものだ。事このことにおいては、自ずから然りにその働きがでるまで修行する、修証する、ということが必須なのである。
(仏道のみならず、どんな「道」も実はおなじではある。。つまりここの意識・無意識のやり取りを大拙は円環運動といい、往相回向・環相回向を繰り返すといった意味あいがそこにある。→動中の工夫とつながる)
盤珪「生死を不生から離してみるところに迷いがあり、不生の場に戻るときに悟りがある」(大拙全集1巻p。484)
だからあってない、なくてある、というようなものだ。
無意識の意識、無分別の分別だ。鏡の心だ。 お釈迦様の手の平だ。
それで、、、(同じことをいっているのだが)
「生死のままの不生、不生で生死するということになって、始めて盤珪の不生禅の信義がつかまれるのである。」(p。488)
これが道元の「この生死は仏の御いのちなり」と同じ意味あいということだ。
ついでだが、ここにきて中山さんのHBCがわかれば(HBCは私のHPのどこかにも書いておいた)、このことがわかるという意味あいがあるということになる。御いのちはHBCでは宇宙のプログラム(X)で根っこの働き:仏性である。あるいは盤珪においては不生。したがってみな同じポイントを指差しているということ。
それで、是がまさに禅意識と通じるということになるわけだ。
(ただし悟りの体と用がわからないと、この意味がわからないということではある。。)
「自性または仏性の清浄を看たり、それに著したりしては、清浄縛をうけて、性の本当のすがた、即ち働きがわからぬ」p、333大拙全集二巻
ーー
是まさにそのとうり。ここ(清浄縛)でひっかかるのがまたひとつの落とし穴。
それで思うのはヴィパッサナでは「鋭敏な知覚と平静な心」(→鏡の心)を強調するから一応は清浄縛をうけないように、、ということだが、一方、コースを10日→90日などと展開するのは清浄縛の意味あいに落ち込むという可能性を残しているということだろう。
このへん、無目的の目的、未完成の完成、、といった即非・中道の意味あいを知って(→はたらきの体得)「正理と法の領域を歩め」(釈迦:涅槃経)ということだ。
ここでは、はたらき(用)ということで禅意識(→目覚めているということ、般若の智慧の働きの有様)をながめているわけだが、全機現つまり脳の右と左をうまく使うという風にそのはたらきをみると、これがぴったりだ。
即非も鏡の心も、ジルボルトテイラーの表現も、盤珪も、真宗も、無意識の意識も、中道もみなこれで説明できる。エックハルトの眼もまたしかり。
つまりどっちから看るかで表現がいろいろあるわけだが、(たとえば神秀と慧能、往相と環相、色即是空と空即是色、修と証、など)その全体構造がわからないとピンとこないのだ。本来唯識(五位、四料ケン)はその辺をまとめるべくあるはずだが、やはり動中の工夫と同じでいわばレーダーがうまく働いてないと地図が仮にわかったとしても(脳の、あるいは身心の)運転が出来ないということになる。
逆に言えば、「これ」が出来れば後は何もいらない。教義などは後付け、確認のため、ということになる。
(また「これ」が出来ないなら、やはり歪やしこりのあるところを見出して、丁寧に「マッサージ」「鍛錬」(→歪、しこりを取る)というわけだが、こればかりは指導者がよっぽどしっかりしているか、あるいは自分で自分を手術する、(〜ロボットがそれ自身の不具合を直す)といったものであり、生体の自己組織性(本来の働き:仏性)を活性化するというようなものだから、まあ、縦横斜めにチェック(修証)を進めるというのがしかるべき姿と思う)
本の整理をしていて中央公論社の大乗仏典をぱらっとめくったら、中道についての記述が目に付いた。おそらく十年以上も前に読んでいたのだろう、アンダーラインがある。
本件でもおもうのだが、仏の教えは根本のところは(体験ベースでは)簡潔という感じだが、その表現は微妙を極めるということもあり、ともすると間違えやすいものとも思う。
とにかく、中道については私なりの見方を書いたことも以前に何度かあるが、従来その見方にぴたっとあう表現(つまり中道そのものについて説明してあるもの)がお経などに見当たらないのを不思議に思っていた。
つまり、一般にいう苦行をすてるという意味での苦楽中道という意味あいは、いパ抜けはするかもしれないが、「悟り」の見地からいうとあまり意味がないと思っていた。
(たとえば、ここに書いてあること↓は私にはピンと来ない。)
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html
(というので思い出したのだが、対話↓が過去に上の著者とあった。)
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/dialoguewithphilosophers.html
ところが上記の本「中正と両極端の弁別(中辺分別論)」(p。399−400)に私の感じとぴったりの記述があった。
ちなみにこの書は「揄伽行(ゆがきょう)唯識派の基本的論書のひとつとみなされているとのこと。著者はマイトレーヤ(弥勒)に帰せられているが、学界ではこのマイトレーヤを歴史上の人物とする見方とアサンガ(無著(むちゃく))を事実上の著者とする考え方の二つがあり、これにヴァスバンドゥ(世親)が注釈したのがここに訳された「釈論」である」と言う。(大乗仏典p。398)以下にその本からの引用と私のコメントをしめす:
ーー
『虚妄なる分別はある。そこに二つのものは存在しない。しかしそこに空性が存在し、その(空性の)中にまた、かれ(すなわち虚妄なる分別)が存在する《1・1》』(p。399)
上の文(これは弥勒ないし無著によるもの)が出だしにあるのだが、私にはこれが悟り(の内容)を示して、それでまぎれがない、という感じ。
『それゆえに、すべてのものは空でもなく、空でないのでもないといわれる。有であるから、無であるから、また有であるからである。そしてそれが中道である《1・2》』(p。400)
これ↑ですべてが明確だが、このあとそれに付いての世親による注釈がある:
「、、、すなわち、すべてのものが一方的に空なのでもなく、一方的に空でないのでもないこと(が中道)である。このようにして(この所述は)、般若波羅蜜多経などの中に「この一切のものは、空でもなく、また空でないのでもない」と述べられていることに一致するものである。」(p。400)
ここで「空でもなく、また空でないのでもない」、は色即是空、空即是色、あるいは五蘊皆空、、、につなげてみればよい。
要は中道は、般若即非、絶対矛盾の自己同一、鏡の心、、、そして、いわゆる、禅意識につながるものだろう。これが以前からそう思っていたものですが、ここにきて「ぴったり」という感じ(確認)を得たということ。(注:もっとも、、、得たというのは得てない、だから得た、、、ではあります。これは臨済の得たと言うことは得なかったということ(臨済録、p。127)道を求めようとすれば道を失う(臨済録p。140)に同じ。)
そしてこれが「正理と法の領域を歩め」(釈迦:涅槃経)ということだ。
こういうのもネットで見つかった。:
「是の如く般若波羅蜜多は能く中道を示す。失跡者をして二辺を離れし
むるが故に」 (『大般若経』)
「是の二辺を離れ中道を行ずるを般若波羅蜜多と為す」
これはそのままわかる(→五蘊皆空、色即是空・空即是色など)のだが原典が見つからない。岩波の般若心経・金剛般若経をパラパラ見た限りでは見当たらなかったがいちおう上のものをここにメモとして残しておく。
本来、中道は般若の智慧(無意識の意識)によって「見出される」といったはずで上はそれと相当すると思うし、即非、あるいは鏡の心という意味あいで「理解」されるべきだろう。(また、動中の工夫は中道の実践を意味するということだ。)
真実はいろいろな角度から見ることによって明らかになる、という釈迦の言葉があるとゴエンカ氏はいっていた(これももとは不明)が、それも上で言ったところを見ているのだろう。
一般の人に禅意識、つまり無分別の分別、無意識の意識、あるいは般若の智慧を説明するには、「考えずにわかる」という表現がいいのではないかと、ふと思った。
これだと盤珪の不生(不生の仏心)も、、サティも、、自ずから然りも、直観(→悟り)の意味あいも、、無意識の意識の意味あいもかなり網羅されているように思う。
もちろん丁寧な説明は必要かもしれないが、その辺は一般の人や禅者の例を挙げて説明すれば何とかなるように思う。
究極には、「禅体験と禅意識」という視点で大拙のすべての仕事をまとめることができるように思う。彼の生涯の仕事は、ある意味では「そのこと」を丁寧にいろいろな事例を集め分析し(禅以外の領域も含む)、歴史的にも展開を調べるなどしたわけなので、あのたくさんの本を十分消化しそれを「クリスタライズ(結晶化)」する、、そういうことができるか、、というわけだ。
まあ彼のやったことは、やたら難しいことで、そのやたら難しいことをまとめるなどというのは不可能に近いようにも思うが、そういう努力があってもいいと思う。
中山さんは中山さんなりにやったように、、、ということだ。
これは正信偈にある言葉。真宗、教行信証などをチェックしていて見つかった言葉だが、上記のポイントとぴったり。これもまぎれなし。
ただし、ついでに真宗についてここで一言言えば、教行信証のはじめにある弥陀の本願、これがぴったり来るかと言うのが信心決定と言うことと思う(この辺に関しては別途HPに教行信証についてのファイルをつくった)が、上述の禅意識、あるい中道というみかた、「正理と法の領域を歩め」(釈迦:涅槃経)と言う言葉の意味あいと、比較すると、端的に言えば、受動から能動、つまり使える頭は使う、と言う意味あいがややうすいのではないか、と言うことがひとつある。これは大拙も似たようなことをいっていた。
大拙は「ひじ外に曲がらず」の公案で「悟った」というが、なるほど、と思わせるものがある。私なりにそれを一言で表現するなら、制限されたもの、つまり有限のなかに、自在、あるいは無限がある、といったものだろう。そしてそこが読み取れるなら、無分別の分別、煩悩即菩提、色即是空、鏡の心、無礙の一道、そのほかなんでも、スーッと通るだろう。そして、さらにいうなら、そこがしっかりしているなら、みてくれ、形(いかだ)はあまり関係ない(こだわらない)というところまで行き着くだろう。
ふりかえってみると、私は32歳ごろ、はじめて大拙の本にあって以来、彼の全集などをふくめ「大拙(の目指したところ)」に参究して20年以上かかったわけだが、彼の体験、禅意識の内容は彼の書いた本、話した事柄、に色々な形で表現されているので、それらを調べ、その全体像とそのもととなる根っこの体験の意味あいがよみきれる、、、あるいは納得できるなら、、禅、あるいは仏教というもののあるレベルでの確認は出来たといえると思う。(HPの「これで禅のすべてが尽きる」と言うファイル参照)
ところで公案そのものにも弊害はあるようだが、大拙のようにしっかり、まぎれない境涯を「つかんだ」例もあるということだ。彼の例のように公案は法の働き、をいわばダイナミック・動的に領解するというような良い面もあるということだろう。只管打坐だけではなかなかそうも行かないかもしれない。
一方、公案でもなんでも、いわゆる「道具」はいかだのようなもので、それ自身はいいとしても、「使い方」「受け取り方」が悪ければつまらないことになると思う。というのも問題は入り口(道具)ではなく、むしろ、使うほう(こっち)が勝手に門、関、、をつくっている、ということであり、そこを抜ければ中身は本来同じともいえるだろう。ただ、とかく誤解があるから、色々な角度からつっこんで確認するというのが大事と思う。いままでHPでやってきたことはその為であり、このファイルは、ある意味でそれらのことの私なりの総まとめ、というようなものだ。
禅体験、禅意識、、中道、般若の智慧、、、などにからんでいろいろかいてきたが、すべてをひっくるめて一言で現すとこうなるという感じがある:
つまり肝のところを、妙好人の例を参照しながら言うと、、、
「自力も他力
機法一体
ありがとう。」
、、となるだろう。
(つまり自力も畢竟は他力!
「自ずから然り」で一本筋が通るわけだ。
有限即無限、といったものだ。)
それにしても、ここに気づく(〜悟る)
そしてそれを日常にあらわしめるというのは
大変なものだが、、
そこに気づけば、
あたりまえでもあり、
あたりまえでもなし。
そこで才市はいう、
「臨終まつことなし、
いまが臨終
南無阿弥陀仏」
ーp。172妙好人
あるいは
「これ才市、喜びは、あてにはならぬ、
消えて逃げるぞ。
にげぬお慈悲は親の慈悲」
ーp。196
ついでに、、、これも:
「地獄地獄とくちではいえど、
こころひとつにならぬからよの、
こころひとつになることは
「はい」といただくばかりよの」
ーp。86
感謝、祈り、感謝、祈り!
これ↓もまた同じところを丁寧に示している。要はこだわるな、執着するな、ということなのだが、、:
そのとき魔界行不汚菩薩は、、いわく:
「一切の凡夫は憶想分別したり、顛倒して相(個物の実在)に取著するから縛を覚えるのである。念を動かして戲論するから(即ち意識面の千波万波を最後のものと考えて、それから分別し論理するから)縛を覚えるのである。見聞覚知(の世界のみに彷徨しているから)縛を覚えるのである。
ところが(実際の体験から言うと)縛者も解者もないのである。それはなぜかというに、諸法は無縛で本から解脱している、また無解で本から無縛なのである。一切は常解脱の相で、愚疑というものなどある理屈がない。如来の説法はこの義を根本としているのである。それで元来繋縛とか解脱というものはないのであるが、縛を覚える限りは、解はある。この解をもとむるものは、勤心精進すべきであろう。
お前たちは魔界にいてどうして解脱が可能かと思うであろうが、解脱はそのいわゆる魔縛なるものを壊すことなしに得られるのである。魔縛とは六十二見(即ちその当時インドにはやった各種の世界観、人生観、あるいは現在なら、、各種の哲学、理念、信仰など)をいうのである。これらの諸見はそのままにしておいて、そして解脱が可能なのである。なぜかというに、これらの諸見はもともと従来するところがなく、またどこへどう去って行くというものでない、諸見には去来の相がないからである。
有無は分別から有るのだから、分別を離れると自ら魔縛の解脱がある。諸見は無諸見であるというのが正見である。正見は正邪とか作受とかいう対立を離れたものである。またそこには内外中間などいうものもない。こういう風に諸見を見て、またそこになんらの念をも存しなければ、魔縛自ら解け去るのだ。」
p。369−370大拙全集2巻(もとは首楞厳三昧経)
ーー
上のもの、私のいう「鏡の心」も同じ所を見ている。
妙好人、才市のいうのも同じだろう。
さいちよい、へ。たりきをきかせんかい。
へ。たりき、じりきはありません。
ただいただくばかり。
(才市のノートから、p。36、妙好人)
また。この「一面の他力」、絶対の働きを
慧能の「本来の自己」とみてもいいだろうし、、
盤珪の「不生の仏心」とみてもいいだろう。
般若心経の「五蘊皆空」も維魔の「無住」も皆同じだ。
表現に違いが有っても、いわんとするところは同じだろう。
ちなみに維魔は「法を求めるものは法を求めてはならない」というが、
逆に言えば、法がわかったということはわかってないということであり、
いかにしても真の法がわからないということが、法の正しいわかりかたであろう。
(この辺のことはHPに載せた智慧の見出し方:最上のこと、と言うファイルとつながるhttp://www.geocities.jp/suzakicojp/chie.html )
(慧能、妙好人,盤珪、、がもっとも純粋な「形」で「全体作用」(←仏性の働き)を「見ている」と思うが、とりあえず、今はそれはそれとしておく)
シナ民族はインド民族の如く思索とか瞑想とか言うものにのみ憂き身をやつすことを喜ばないのである。。。即ち禅は生活そのもので、それから遊離し、抽象せられたものではないのである。知行合一のところに禅がある。。。
仏教がインド性を離れない限り、禅定なるものはその独立性を失わずにいたであろう。そして禅の発生はまだまだ遅れたことであろう。慧能で始めて禅が成立したという意味は実に彼によりて定と慧とがひとつにせられ、体と用、抽象と具現、一般と特殊、全と個、心と物、空間と時間などいうものが、渾然として絶対への姿を取り戻したということになるのである。
大機大用の働きなどいうものは、定と慧をはなしたり、心と身即ち筋肉とを離したりするところには生まれないのである。。。禅は慧能の生活態そのものから生まれるべきであった。 P。355−6大拙全集2巻
ーー
「そこ」にいたって、もとにもどったというようなものだな。
つまり、、
生まれ育って、、
「そこ」(エデンの園)を離れ、
あれこれ探検し、迷い、
そして「楽しみ」「葛藤」「かなしみ」「煩悩」に遭遇し、
いったいどうなっているのかと、
「根っこ」を探し始め、
とことん調べ、、修行し、
不思議な縁で
「根っこ」に遭遇し、
脱落・感謝し、
ところが「根っこ」をみつけたというので
そこにいたった(修行の)「形」(←いかだ)を大事にし、
さらに、いろいろと調べを進め、
その「形」を超える、、、
「いかだ」を捨てる、、、
という「所」に至る。
「そこ」(これが無住なのだが)にいたって
はじめて
人として、、随所に主なり、
自在、、、というものが
「わかる」ということだな。
無論、「わかる」というのは
「わかってない」ということだ。
またこれは、いかだは捨てる、ということによって
いかだ(究極には大智大悲)が手に入る、、というようなものだ。
これはまさに不思議・おもしろい、、
かつ、うれし・かなしい世界、、
であり、、、(というのも二つの世界を同時に見るから:エッカートの目)
またそれがそのままに
そうでないということ(不思議)であり、
そのまま解決している(解脱)ということであるが、、、
大機大用の働きに身をゆだね、、
人としての道を歩むということ。。。
これは大悲大智の働きによって、、
絶体絶命をこえ、、
その中道という不思議な道を歩む、
つまり、人として正理と法の領域を歩み続ける、、
ということだろうと思う。
つまり、、
「心は万境に随うて転ず。
転処実に能く幽なり。
流れに随うて性を認得すれば
喜びもなくまた憂いもなし。」
まあ誤解しやすい、かといってありがたい、、微妙なところだが、、
こればかりはしょうがない。
というところで、、
気が付けば、
外ではカラスがカーカー、、とないている。
空は青く、太陽が暖かさを運んでくる
豈にしいて是非すべけんや、!
「見はじっとみるのではなくて、動きそのものである。
即ち見と性は同一物でなくてはならぬ。
見のほかに性なく、性のほかに見なしだ。
慧能の見には能見も所見もない、
唯一個の「見」の一字、これに彼の体験の全部がはいっているのだ。」
P。390大拙全集二巻
ーー
見性を対象化するとすでに
はるかかなたに離れてしまう。
定慧一体も修証一等もにたようなものだ。
言葉を使うとわけるということになるが、
分けずに一まとめでどうか?!ということだ。
サーフィンするのにあれこれ一々分けて考えていたら、
ムカデがあるくのに一つ一つの足の動きを一々考えていたら、、
いったいどういうことになるかというようなものだ。
まるごとつかまないとどんどん逃げていく。
だから理屈とか頭の使い方というのは、、
大雑把に言うなら、コツがいるというようなものだ。
これを表現して、無心とか無住とか無意識の意識とかいうのだ。
「慧能の見体験は歴史的に考えて三つの方向に進展したようである。。。第一を行動的方面といい、第二を知的といい、第三を観照的といっておく。」 p。392大拙全集二巻
ーー
五位でも四料揀でも四照用でも、いろいろな方向から見ることが出来れば(真実が明らかになり)柔軟な働きがでる、というようなものだな。
いろいろやってひとつも物にならないというのもまずいが、ひとつだけやって、角が取れないというのもまたどうか、ということ。
米国ジオシティーの閉鎖にともなって、英語のHPを整理していたら懐かしいのもいろいろあるが、こういうのもでてきた(注:あいにく、これらはアーカイブでないとみられない。すべて英語。):
http://www.geocities.com/suzakico/behavioralaspects.html
http://www.geocities.com/suzakico/variousawakeningexperiences.html
http://www.geocities.com/suzakico/awakeningexp2.html
2003年に書いたものだが私の体験を他の人の体験と比較するなど、このころ一生懸命にチェックしていたようだ。
本当の大乗の修行は(生死相続を)断ずるのではなくて、断じて、断ぜず、否定してしかも否定に了らずというところになくてはならぬのだ。
即ち意欲の動物性を転じて本願慈悲の人間性に化せんとするところに大乗菩薩の本領があるのである。 −大拙全集二巻、p。367
ー
これなのだな。ヴィパッサナでの90日コース云々と断じて断ぜずの大乗の分かれ目は。
どうりで私も何年かとまどいがあったわけだ。
とくに慧能や盤珪(臨済も趙州も)そしてそのポイントを書いた大拙さん。やはり菩薩なのだな。
(とわいえヴィパッサナそのものがまずいということでもない。
方向付けーつまりバランス・中道ーに注意しろ(智慧を使え)、ということだ。)
「禅体験だけでは悟りはなりたたぬ。禅意識というものがなくてはならぬ」
ーp。109思い出の小箱からー鈴木大拙のこと
それが禅思想につながる、、、
それはそれでいいんだ。
けれど、、、
結局は、どういかすか。
おのずからしかりで、、そういくか、、
お手並みいかん、となるが、、、
不思議のなかの不思議。
面白いといえば面白い、
難しいといえば難しい。
簡単といえば簡単。
さあさあ、、お手並み拝見。
はいはい。
ありがとう。
真宗、ヴィッパサナ、禅とそれぞれ異なったもののように見えるかもしれないが、根っこは同じと言う感じがするというのは面白いものだ。というのも、それらの元をただせば、みな「覚」(目覚め:悟り)という体験に基づいているからだろう。(注:「覚」は「安心」でもよい)
この辺についてはすでにほかのファイルにも書いたが、ここでは名号(南無阿弥陀仏)とヴィッパサナが「無意識の意識」(無分別の分別:目覚め:悟り)という仏道の基盤において、共通である(とみられる)ということを書いておく。
私なりにいうと、名号は阿弥陀の本願(すべての衆生はそのままで救われる、と言う願い)に帰依する、という意味あいで、名号を唱えるということがその確認であり、それは本願=信(疑うことのできない最後のところ)に基づいている、ということだろう。
名号をとなえるという、というと、真宗(浄土宗)になじみのないものには意味がない(ばかばかしい)とおもうかもしれないが、ところがどっこい、宗教的にみると大変な意味あいがあると思う。ここではその意味あいをヴィッパサナとつなげて調べてみたい。
ポイントは覚(目覚め:真宗の言葉では浄土にうまれる)ということだが、ヴィッパサナにアーナパーナ(随息観)というのがある。それは知覚を鋭敏にして繊細な息の出入りに常時気づいておれ、と言うもので、簡単に言えば、身心一如。つまり息をとうして自らの無意識と意識の連絡に気づいていることにより、心の葛藤がそのとき葛藤となっている対象にとらわれることなく、息(〜体:無意識)の感覚で明らかになり、それをあるがまま受け取る(観ずる)ことにより、智慧が働き、苦から離れられる(苦集滅道)というもの。
(ちなみに、そういった感覚(目覚めにつながる感覚:六識)は、あっても気づかないというのが一般で、それに目覚める、というのがヴィッパサナのねらい。ただし、この辺は頭でわかっても、体得しないなら何の意味もないといっておく。)
それでは名号がどうかというと、、、名号を唱えるのは、自力でなく、阿弥陀が唱える、と言うところを見ているわけだ。というのも名号(のねらい)は機法一体なのだから。
つまり、名号をとなえるという行為は、無意識の意識、ということであり、上でみたヴィッパサナ(アーナパーナ)と同じ、ということになる。つまり名号を唱える境涯は無意識の意識の境涯と同じであろうというわけだ。(注:無意識の意識は如来:如が来る、におなじ。そこにおいてすべてがあるがままに、しかるべく、、自ずから然りで、ととのっている、という智慧が働く。)
たとえば妙好人、才市にこういうのがある:
名号ふしぎの信心をもらいきり
信心、不可思議、わしがもの、
なむあみだぶつ
これを読むと、名号=信心=不可思議=なむあみだぶつ=機法一体(法に帰依、法が働き出る)、、、というのがわかり、それがそのまま、無意識の意識、無分別の分別、覚、、、ということであり、苦集滅道でもある。とわかる。
したがって名号を唱えるというのは、はたのものの目には、単なるひとつの「形」というふうにしか映らないが、この「形」が形でなく、自ずから然りで、上に述べた心的(身心的)状況が満たされたとき、それはヴィパッサナにおけるプラクティス(注:自力によるものではない、つまり機法一体)と同じ、ということになる。
そこが「わかれば」、、つまり体得されれば、難しい議論はそっちのけで、仏道が(体で)あきらかになった(〜わかった)といえるだろう。そしてそれが法にのっとった、「正しい」あり方、ということであろう。(その境涯は、もちろん禅体験、禅意識ともつながっているということだ)
あいにくこの辺の話は体得したものにしかわからない話(注:「体得」というのを丁寧にいうなら、我のフィルターがなくなったという意味あい)ではあるが、ここに書いておくのも、ひょっとすると何かのきっかけになるかもしれず、まったく意味がないということでもあるまい。
2009年12月19日 記
以下のものは鈴木大拙全集6巻にある「真宗概論」から、面白(肝)そうなところを取り上げたもの。ちなみに、これは大拙の最晩年(〜93歳)、大谷大学での三日にわたる講演をまとめたものであり、禅、真宗ほか幅広く仏教を調べた大拙の、いわば総まとめのような意味あいもあるように思う:
「お経に正覚とらじ」、とある(p381)、、、悟りと言うのが何かと言うと、なかなか、難しい。。。さとりに連想してでる言葉は光、ですね。光明と言うものを考える。(p382)
正覚の世界といえば、光明の世界である。(p384)それは必然の関係というものではない。。。が、とにかく、明るいということ、わからぬものがわかるようになったということは、明るくなったということですね。(p385)
仏が正覚を成じた。その正覚の道場と言うか、そこにあるものが、みんな金か銀かの 、、、結構な宝石類に変わってしまった、そういう光を放つようになった。(p388)
無数の仏、無数の菩薩がでてきて、、、仏の徳をたたえるというか、、正覚というものをほめるというか、、、、仏の道場はちょっと考えられないほど大きい。それが正覚の世界だということになる。(p390)
正覚と言うものは、、無限の世界だとなると、、何でもかんでも入ってきてかまやしない。。。それは不可思議、付可説と言うほかないわけなんですね。(p391)
正覚成就ということになると、時間と空間というものが、一念の間に収まってしまうことを自覚した体験だと、、、(p396)
教行信証の中に「極速円満」ということがかいてある、、この極速円満ということは、一念、、時間と空間がひとつになって、もうなくなってしまった。そこに永遠がでてくる。そういう体験を言い表した言葉が極速円満。(p397)
このように、畢竟、仏は光明である。仏の体は正覚であり、そして正覚は光明である。。。無量寿というけれども無量光と言うほうがいい。(p。398)
それでこの仏教の根本というものは、大智ということと、大悲ということ。。。これがなかったら仏教はなりたたぬ。(p399)
そこでですね、人間というものは考えるのであるが、又、考えると困ると、、、(分別を離れた世界との)矛盾が出てくる。(p402)
無分別になっていればいいんだが、(p403)、、、人間というものは、本当に厄介に出来ているので困る。(p405)
考えるから、自分は存在するんだと、、その自分というものをどうみるか、、、(p405)
清澤さんは「自分というものは絶対他力である、、」と。。。如来の本願力というものによって動いて、因縁の結果で自然に今ここへ出たんだ、それが自分だ、とこういうことになる。(p406)
その自分は他力にたいした自分でなしに、他力とひとつになった自分だということになる。。。自が他で、他が自に成る。一で二、二で一、、こういうことになる。(p413)
疑うことの出来ない最後のところ、、、になってくる。その最後のところのものを正覚という。それが光だと、、これをさとりといってもよし、信といってもよし。(p413)
それから、ことに面白いことは柔軟心ということがある。「浄土論」などのなかにもでてくるが、、、道元禅師のいわれた柔軟心ということは、いわゆる身心脱落、脱落身心を体験した、その生活そのものを柔軟心と言う。。。だから禅宗のほうでもいう。(p414)
華厳経の、、極楽の描写のところにも「虚無の身、無極の体」とかいてあるが、その前のほうにも、みんな柔軟心を持っていると書いてある。。。みなが柔軟心をもつというと、、、ちゃんと「自分(I am)」というものがある。。。すべてを入れることが出来る、、、そこに「天上天下唯我独尊」と言うものがある。それを名号というですね。(p416)
そして、、阿弥陀如来の「如来」と言う字がまた、、面白いと思います。。。如にして来たり、如にして去る。。。去来する。(p418)いつも転変して限りなく変化するという意味にとって、、いいだろう。(p419)
それで阿弥陀如来、、を大智、、大悲に、、あてると、大智大悲の働きがでてくるというと、、それが阿弥陀如来という名号になる。。。その名号になるというのが,よっぽど大事なので,、名そのものになるんだと(p420)
名を唱えるということは、その名を生きていくということの意味になる。。。名号が即ち実際で,実際が即ち名号である。。。(p421)
それで私はよくいうんだが、、庄松や才市と言うような妙好人、、、、そのひとのいう南無阿弥陀仏はそういう言葉を唱えるんじゃなくて、それになって出るんですね。(p421)
これを禅宗的な言い方をすると、、、「流れに随って性を認得すれば、喜びもなく、又憂いもなし」、とこういうが、そこに一句加えて「喜びもあり、又憂いもあり」というとそれ全体が生きてくる。だから名号というものは,じっとしていない。(p422)
自分が名号だということ、そこにひとつの自覚が出る。その体験を私は横跳といいたい。違った面にわたりが付くというのが横跳である。(p425)
だから、、とまっているのではない、違った面へうつる瞬間を横跳という。(p425)
そうするというと、鶏が「ケケココー」とないた、その「ケケココー」が南無阿弥陀仏である。そして聞いた自分が南無阿弥陀仏になったと、こうすると、なにもかもあれもこれも南無阿弥陀仏となる。。。お経にかいてある、、色々のありがたいこと、、、みんな仏の声である。(p426)
これが大無量寿経にせよ、阿弥陀経にせよ、極楽の形容にそれがでておる。。。極楽全体、、それをひっくるめて南無阿弥陀仏ということにしてしまっても差し支えない。(p426)
千差万別の中に一があり、一のなかに千差万別がある。一即多、多即一。(p427)
それで南無阿弥陀仏は、、エッカルトのIs-ness(如)もアラー(I am)も、極楽で声がするというのも、池に水が流れる音がするのも、みんな如を歌っている。如そのものである。このIs-nessというところに自覚が開けてこぬとだめだが、そこにとどまってしまうと、本当の仏教というものでなくなる。そこに往相回向というものを、一区切りつけてよかろうと思う。(p427−8)
それで大行と大信と言うことが往相ですね。そして環相に出てこぬといけぬのだが、、、自在無礙、、、菩薩の行為は、、遊戯自在的なものでなければならぬ。。。そうなるというと、菩薩の生涯というものは、無功用・無功徳になる。無功徳であるが、功徳限りないものになる。無功徳のところに万徳円満、功徳円満、不自由なところに自由がある。そこに詩がある。(p429)
ノーベル賞をもらったフランスの詩人が、、「近代人の短所は有限、、と無限、、との間に、十分の関係が付いていない」とありました。それが甚だ面白いと思います。(p429)
遊戯自在、、教行信証を読むと、そういうことが書いてある。。親鸞聖人がおられると、、おおいにそれを話してみたいですね。(p431)
これは回心体験で禅体験じゃあない、ということかもしれませんが、、、それはそれとして、、以下の例を読むと、いわゆる禅体験と非常に類似していることがわかります:
http://homepage3.nifty.com/keko-kai/kekousi/houwa/50-3houwa.htm
増井悟朗師の法話 『後生の一大事(8)』より
松並氏、昭和12年(29歳)1月15日、主人と共に西本願寺の報恩講に参詣。同夜、主人は総会所の説教に、氏は一人宿屋にて念仏相続。翌16日、氏はただ一人比叡山に登る。その故は、当時の氏は、昼夜不断(同輩のいわく、夜寝ている時も口は動いていたと)のお念仏相続であった。しかし人様のように慚愧の心もなく、また歓喜の心もなく、ただ口の動くままのお念仏であった。こんなお念仏でよいのか、間違った念仏かもしれん、という疑問があった。その疑問を、人にも質問せず念仏していた。そんなわけで、その解決を求めるために「叡山黒谷の経蔵に入って、妄念を断ち、静かに徹夜念仏したならば、この疑問も晴れるであろう」との希望を抱いて登山す。なぜなら、自分が今お念仏できるようになったのは、御開山聖人の御恩。その親鸞聖人のお念仏は、法然上人のおかげ。その日本での念仏の元祖法然上人は、この叡山黒谷の報恩蔵において、善導大師の
『一心専念弥陀名号、行住座臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故』(観経疏)
の文で獲信され、聖道自力の門を捨てて、他力念仏の門に入られたのである。叡山黒谷こそ、実に思い出深き有縁の地と思い定めたからである。
寒さ厳しき真冬の叡山は、訪れる人もなく、道を問う人もない。初めての登山なれば、全く黒谷への方角もわからず、お念仏しながら、足の動くにまかせて歩いた。フト足の止まった所に堂があり、そこが黒谷であった。午後3時頃。雪は一尺程も積もっていた。堂守に経蔵を開けてもらい、決死の覚悟で入堂。出られぬよう外から錠をかけてもらい、一本の線香の火のみにて、他に全く火の気のない板の間に座して、一心不乱に念仏す。
最初1、2時間は事もなく過ぎたが、厳寒の候とて、山の寒さは身を刺すごとく、夜の更けると共に、その苦しさは言語に絶す。しかし、いよいよ励んでお念仏していると、下界での予測とは正反対に、妄念妄想が、恐ろしく次から次へと出てきて、気も狂わんばかりであった。何故このように苦しんでまでも、念仏せねばならぬのかとさえ思われた。(世間の人は、寒さにあえば、御開山の越後ご流罪のご苦労をしのぶというが、それは、我が身に温かさが残っている内の思いである。極寒に会えば、とてもそんなことは思えぬ。)
だんだんと夜は更け、苦しみの中より、ますますお念仏に精進すると、妄念妄想が全部出尽くして、胸中が空の気持ちになった。その時、不思議にも自分自身の口より、
「慚愧(ざんぎ)も嘘、歓喜も嘘、御恩の恩の字もない。まさしく逆謗(ぎゃくほう)の死骸とは見えたり!」
との言葉が、突然ほとばしり出た。その声に勢いづけられて、いよいよ勇み念仏す。
ややしばらくして、急に頭の中に電光がひらめき、雷電の轟(とどろ)くがごとく、「クワッ」となって、声ともなく、念ともなく、不思議の感得あり。
「本願の念仏には独り立ちさせて、すけさせぬなり。歓喜も約束ではないぞよ。慚愧も誓いではないぞ。たとえ一声 も南無阿弥陀仏と称える者、必ず間違わさぬは、弥陀の誓いであるぞよ!」
とのお言葉。それを聞いて、寒さも苦しさもすべてを忘れて、一心不乱にお念仏していた。
すると、またしばらくして、非常な苦しみが身に迫ってきた。その苦しさが約30分ほども続き、それを乗り越すと、また少し楽になって、夢中にご相続ができた。深夜に、また不思議の声あり。
「それそれ、南無阿弥陀仏が弥陀じゃぞや。声が弥陀じゃ ぞや。声となって、お前を迎えに来た。弥陀直き直きの 迎えでも、もの足りぬかや!」
と。その声を聞いて歓喜の極。最早やジット座っておられず、板床に伏して感泣する。
すると今度は、自分の口より、次の言葉がほとばしり出た。
「天に踊って喜ばん、この度弥陀の本願に会えること。地に伏して喜ばん、この度弥陀の本願に会えることを!」
すると、また不思議の声あり。
「このような事があったので、これで往生と思うではな いぞよ。往生は誓願の不思議、弥陀の計らいであるぞよ!」
と感得し、もはや言葉もなく、すべてを忘れ、いよいよ強盛に念仏して夜を徹す。そして喜びにあふれ、翌朝下山す。
これまで10年余の念仏は、自分自身では、自力の念仏と思っていなかったが、今にして思えば、私が称える念仏、自力の念仏であった。他力念仏と思いながら、実のところは自力の念仏であった。永年の間、私は称えることにこだわっていた。もっと称えねばならぬ、ならぬと、常に心に重荷を負っていた。しかし叡山の感得あって以来は、もはや心の重荷は全く氷解。称えねばならぬという気持ちさえも無くなって、誠に誠に、気楽な、口の動くままのお念仏に入って、今日に至る、と。
(注)上の体験談で、「このような事があったので、これで往生と思うではな いぞよ。往生は誓願の不思議、弥陀の計らいであるぞよ!」と言う言葉、これがありがたいと思う。
禅者の高慢、増上慢が目に付くことがあるが、禅を志すものは、これを良く身にしみて納得し、素直、謙虚が自ずからあらわれでないない悟りなどと言うものは、ありえない、と知るべきだろう。
2009年12月21日 追記
>釈迦は慈父(じふ) 弥陀は悲母(ひも)なり
、、と言う言葉が真宗にあるようだ。
これを読んでの私の直観は:
A:おのずからみいだすのだ。− 慈父
B:そのままでこっちにこいよ。− 悲母
聖道門、浄土門というので前に書いたものとつながるので、調べてみると、おもしろいことがわかった。上のものの原文は「唯信鈔文意」とのこと:
「この信心のおこることも、釈迦(しゃか)の慈父(じふ)、弥陀(みだ)の悲母(ひも)の方便(ほうべん)によりて、おこるなり。」
現代語訳は:
「この信心が起こることも、慈父のように教え導いてくださる釈尊、悲母のように包んでくださる阿弥陀の大いなるはたらきによるものである。」
―
そこには、、妙とか不可思議とか、、
ありがたい、、、
無限の慈悲に包まれるという感じ、
赤子が体に力みなく、ゆったりと、、と言う感じがあるが、、
そういうものを言葉にすると、「釈迦は慈父(じふ) 弥陀は悲母(ひも)なり」となるという不思議かもしれない。これは一言でいうなら機法一体ということだが、上のAとBの見方は以前に書いたもの(*)につながる。それをここに再掲する:
「今」をA、「浄土に生まれる」(つまり浄土で悟りを得る)をBとすると、、
A−−−>B となる。
そこには本当は時間はないのだが、、、それはとにかく、、
禅に代表される聖門道はA→Bをめざす
浄土門はBがあって(誓願:約束)Aにいる凡夫をひっぱる、、
というふうにいえるかとおもう。
それで、、
聖道門は「正理と法の道(領域)を歩む」
浄土門は「弥陀の本願、大船に乗る」
となるようだ。
聖道門は、最初は「羅針盤」(智慧のでるもととなるチェックのメカニズム)が不明なのだが、その仕組みが「わかった」なら、おっとっと(煩悩)、をチェックする「羅針盤」をもとに道を歩む。(逆にその仕組みがわからないなら「正理と法の道(領域)を歩む」ということのチェックが出来ない)
浄土門は最初は信心決定。信心決定後も相続というのがある。
(信心のあるなし、つまり全存在をあげて本願を感じる(一体化する)かどうか、、、これが道を歩む、、というか摂取されることのチェックとなる)
どちらもチェックはこっちをすすめていては(つまり自力では)できない。
要は有難さの認識、気づきの具合、智慧の働き、、といったものがどうかということだが、、全存在をあげて「それ」(本願)、「その働き」(法の働き)を知覚しているのかどうか(つまり目覚めているのかどうか、根本の原理にそって生きているのかどうか)、ここに聖道門、浄土門に共通のものがあるようだ。
このように見ていくと、聖道門、浄土門、両者ともに「同じ根っこ」にもとずいた道を歩んでいる、、ようにみえる。
* http://www.geocities.jp/suzakicojp/michio-5.html#_Toc247456833 参照
――
ということで、唯信鈔文意などというもの、随分面白いところをみているひとがいるんだなあ、と共感を覚えて更にそのサイトを調べると、私が思っていたのとぴったりの「浄土」の見方があった(これは大拙も同じだろう):
『「浄土」と聞いて、多くの人は死後の世界としてこの言葉を理解するのではないだろうか。むしろ、死後の世界ということであれば、キリスト教の「天国」という言葉のほうが、現代においては馴染(なじ)むのかもしれない。宗教の違いはあっても、あえてそこに共通した概念を見いだすならば、それは未だ誰も見たことのない理想郷である、ということになるだろうか。
しかし、親鸞の浄土観はそれとは異なるようだ。死といういのちの厳粛なる事実を希釈する、すなわち慰めの場所としてイメージされる「浄土」に対し、親鸞はもっと積極的な意味で<浄土>という言葉を使い、展開させてゆく。「大涅槃」と言い、「法性(ほっしょう)のみやこ」と言う、そこに一貫するのは現世をつらぬく《如来の大いなるはたらき》である。
相対概念として語られる、浄土と穢土。しかし、それは別世界であって別世界ではない。穢土を包み込んで用はたらく<浄土>。その境は何かと言えば、穢土に執着してやまない自我心の“翻ひるがえり”である。(嘱託研究員 法隆誠幸)
』
http://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report08_bn06.html より
私はこの辺はあまり調べてないが、親鸞ははじめに聖道門をやってから浄土門に入っていったようだから、上の見方はそこにつながりがあるのではないかと言うこと。私なりの見方:A−>B、、が親鸞においてもひらめいたのではないか、とみえる。
この辺は私が教行信証を読んだときに「ひらめいた」ポイント、つまり「本願=発菩提心」とマッチしている。(くわしくは、次を参照:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kyougyousinnsyou.html#_Toc244225342 )
そしてこれは大拙の言っていることとも同じだろう。たとえば:
『一心の悲動、即ち大慈悲の本願ひとつにぶつかれば、極楽往生は必定なのである。。。
浄土は東西南北上下十方にある。西方ばかりと考えるのは各自の勝手だが、、、浄土はこの娑婆にいる我ら衆生が、、各自、、かつぎまわっているところのものである。娑婆を離れて浄土があると思わせるのは方便智である。浄土と娑婆とひとつだというのでなく、娑婆を浄土に、そのまま、いれると、何もかも浄土になるのである。
第一、浄土は「究竟して、虚空の如く、広大無辺」だというからには、娑婆も、地獄も展開も、みなその中に入れておいていいではないか。弥陀の光は盡十方で、無礙光だというからには、その光は娑婆の上にも限りなく、照りわたっているではないか。浄土だけに光っているような、そんな光明は、浄光でもなく、、荘厳光でもない。。。わざわざ浄土までいって拝まなくてはならぬことはない。。。
各種の「妙荘厳」は娑婆でのみ教授せられるべきものである。。。娑婆即寂光土としておけば自然法爾である。
妙なことには、娑婆即寂光土でも、それが信受せられぬものには「浄華台」はどこにあるか、暗中模索である。十方に聞こえる微妙な梵声にしても聾のごとく唖のごとくである。
そこで信受であるがこの字の意味がなかなかにわからぬ。是がわかるとき、娑婆が浄土で。煩悩が菩提であるということがわかる。』(鈴木大拙全集六巻、P.324−326)
、、、ということで、あれもこれも、ぴったり、ぴったり。
と言うことで。この辺はいくら書いてもきりがない、、、無量、、、無辺、、、なので、いつまでも、とまらなくなるから、ここにて終わりとします。
感謝、祈り、感謝、祈り!
―2009年12月22日
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html