海野大徹と海野アリスさんとの出会い

 

― 真宗、念仏、妙好人、禅、大拙、など ―

 

 

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ないしhttp://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html 

 

 

はじめに. 1

丁度よい. 2

鈴木大拙. 2

南無阿弥陀仏. 3

禅と真宗. 4

妙好人と鏡の心. 5

ポッとでる念仏. 6

自分の心を見つめるということ. 7

ありがたさ. 7

厳しさ. 7

聞法. 8

ひとり、弥陀といっしょ、、. 9

アリスさん:特別クラスでの教育など. 10

 

はじめに

 

これも不思議な縁なのでしょう。サンタモニカの真宗のお寺に数ヶ月に一度ほど、この4−5年、主にお年寄りが集まる勉強会に遊びに行く、、(私が行くと皆さん喜んでくれます。。。おっと、私もお年寄りか!!! (^_^)-、、、のですが、そのとき海野さんがこられると聞いて会いに行きました。

 

(ありがたいことに、そのサンタモニカのお寺では教行信証(現代語版)などをUsukiさん(龍谷大学出、53歳ぐらい)という住職のかたから借りることも出来ました。

 

海野大徹(ウンノ タイテツ)さんは仏教伝道文化賞を受けておられるかたで、アメリカのスミスカレッジで20+年も教鞭を取った後、今オレゴンに奥さんのアリスさん(日系人2世?)とお住まいです。たしかカリフォルニア・バークレーで学士、東大で修士と博士をおさめられたと思います。仏教・真宗関係の本を何冊も英語で出版されています。たしか大拙の本も訳されていたはずです

 

生まれは真宗のお寺だったようで、家は貧乏だったそうで、父親は龍谷大にもいけず、開教師となり、1935年にハワイに行ったとのこと。現在は息子のマークさんもオレゴンに住んでいて、彼も真宗関係の本を出したり教鞭もとっているようです。

 

海野御夫妻は9月19日サンタモニカとは別のお寺(SFV)こられ、午前午後とお昼もはさんで6時間以上もお話を聞いたり対談することが出来ました。

 

丁度よい

 

 お前はお前で丁度よい
 顔も体も名前も姓も
 お前にそれは丁度よい
 貧も富も親も子も
 息子の嫁もその孫も
 それはお前に丁度よい
 幸も不幸もよろこびも
 悲しみまでも丁度よい
 歩いたお前の人生は
 悪くもなければ良くもない
 お前にとって丁度よい
 地獄へゆこうと極楽へゆこうと行ったところが丁度よい
 うぬぼれる要もなく卑下する要もない
 上もなければ下もない死ぬ月日さえも丁度よい
 仏様と二人連の人生
 丁度よくないはずがない
 丁度よいのだと聞こえた時
 憶念の信が生れます
 南無阿弥陀仏    
                     藤場美津路

作者はネットでは藤場さん、海野さんによると前川五朗松、、という人ということです。

 

この詩、「丁度よい数年前見かけたもので海野さんの母親がなくなる前に大徹さんにあげた、といういわくのもので、その日のお話はこのからはじまり、大拙との出会い、とか妙好人の話、禅と真宗の話など、奥さんのアリスさんも加わって、大変面白い・ありがたい思いをしました。

 

ちなみに同じようなところをみて妙好人、おその、には「はい」「お差支えなし」があります。まことにありがたいものです。ご参考まで:http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/myokonin-nimanabu9-12-2003.html 

 

あ、そうそう、マルちゃんには「とほほで行こう」というのがあります。http://blogs.yahoo.co.jp/marucyan1 

 

以下にいくつか興味ある話を書き留めておきます:

 

鈴木大拙

 

―大拙との出会い:海野さんは大拙とはサンフランシスコと東京であっておられ、なくなる少し前にもご夫妻が当時、鎌倉の松ヶ丘文庫におられた大拙に会いに行ってます。

 

岡村美穂子さんをよくご存知ということなので、美穂子さんには先日電話をして海野さんのこと、禅と真宗の話などを例によって一時間以上もしました。別途まとめます。

 

―大拙とSFで最初に会ったとき、「ひじ外に曲がらず」、の公案の話があり、制限の中で自在に生きるという意味あいの話を聞いた、と海野さんはいってました。この公案は大拙が「大悟」(この言葉の意味合いは釈迦の悟りとどう違うのか、あるいは違わないのか、など微妙なところですがここではそのはなしは置いておきます)したときの公案です。(http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html 参照)

 

その時はなにがなんだかわからなかったといってましたが、その意味あいを一般にもわかりやすいようにというので海野さんが、ひとつ例として説明していたのが、「車を運転するときに、まあ運転するほうはどこにでもいける、けれど信号など、道路の制約、法令などには従わないといけない」、、、というものです。

 

(S:本来は公案は解説しない、というのがその生命ですが、それはそれとして、その時には確認はしなかったですが「中道」の意味あい、さらにいえば「正理と法の道をあゆむ」(釈迦)あるいは「随所に主なれ」(臨済)の意味あいがある、と私はみています。趙州の「12時をつかう」、あるいは大拙がいっていたひとつの例では労働者の場合なら「機械をつかう」、機械につかわれるのではない。。。という意味あいでもあります。)

 

南無阿弥陀仏

 

―このところは真宗では南無阿弥陀仏。つまり、人としての制約の中で、自在を見出し、しかるべく生きるということをみいだすということ。あるいは有限である我々は業からなかなか抜けられないが、それはそれなりにわれわれ自身であるというそのことを十分に働かしめることができる、という説明をされていました。また、その状況・ありようをEmbraceする(つかむ〜そのものとなる)、、という表現でも説明していました。

 

(S:前述のコメントにつながりますが、これは動中の工夫の意味あい、あるいは中道もぴったりといったところです。また、これは道元のいう全機現につながるところであり、南無阿弥陀仏なら、南無、つまり、、有限が 阿弥陀仏(無限)に身心をなげだす。という意味あいでしょう。真宗はその連絡を見る、というのに信心決定がある(→上の大拙の例なら大悟)、ということでしょう。

 

但し、大悟という「言葉」を真宗では認める、認めない、は別としても、、ということです。なにしろ言葉は方便、限界があるというようなものだからです。だから、この辺がわかれば南無阿弥陀仏はそのままで禅の公案になっている、といってもいいわけです。ことによると真宗の人が聞いたら怒るかもしれませんが、逆にいえばそんなことで怒るようでは、、どうかな、、というものです。)

 

―ところで、海野さんはメッタ(大悲)という名前の犬を飼っているそうです。アリスさんの言うことはよく聞くとのことですが、大徹さん(ご主人)の言うことはまったく聞かない。けれど、この犬が大徹さんの先生だ、というわけです。というのも、これはここまでの話とつながるわけで、また「丁度よい」という詩ともぴったり。要はそれぞれはそれぞれがそのままでユニークであり、丁度よい。あなたはそのままのあなたでぴったり丁度よい、、ということです。

 

―「丁度よい」の歌では最後の行の(これでよかったといただけたときに)「億念の信がひらかれる」のが自力でないというところ。阿弥陀から与えられたとなる。それで毎日の生活がそのままでよかった、となる。ただし自力をやらないと他力は開かれない、わたしは自力から離れられない、と海野さんは言ってました。

 

(S:実はこれを聞いたとき私は「びっくり」したのですが、これは大拙の「私は煩悩だらけ」、才市の「慙愧と歓喜」「引き潮と満ち潮」に対応しているのか、とも思います。つまり、他力がないとそういう言葉はでてこない、ということ。これは孔子の「心の欲するところに従って矩を超えず」、からは程遠いのかもしれないが、そのへんがどうなのかは本人の問題でしょう。ちなみに大拙は晩年、ある人(たしか志村さん)に「今幸せか」と聞かれ、「幸せだ」とはいっていたようです。(注:この幸せの意味は、何にもよらない、という境地での「幸せ」と私は思っています)

 

私もまあ、求めるということがだいぶなくなったということもあるのでしょう。ほとんどなにもしないでいて、そのままの「幸せ」という感じがあります。ただ、いつも、というわけではない。けれど、いつもでないからこそありがたいというわけです。雰囲気的には脳天気?というやつかもしれないですが、それにしては丁寧に仏教、禅、真宗などを調べ、実践に結びつけること(修証)が好きです。。。まあ、これもひとつの(法の)大きな流れにのる(のろう、のされられる)、という意味合いかもしれません。。  (^_^)-) 

 

禅と真宗

 

海野さんはこういう言い方で禅と真宗の違いを説明されていました:

 

イメージとして禅は(公案禅)赤ちゃんがはいはいしていて、こっちまで来い、といって、赤ちゃんがあるところまでくると、ああ、よかった!という感じ。

 

(S:これだと自分の力で、、という感じを得て、ことによると謙虚でなくなる、ということではないかと思う)

 

真宗はそういう、途中で、よかった、というのがない。赤ちゃんがくると、自然に下がって行く。だから大変。何かにはめる、、というのでなく、そのうちに、、阿弥陀から力がきてると気づく。だから、何かがわかる、というイメージでなく、「わからせてもらった」という(他力の)イメージ。

 

(S:これは謙虚、ありがたい、、だろう)

 

(S:私の場合はヴィパッサナと禅というような歩みできているので、禅一本の人より、救われた・ありがたい、、の感じが強いかもしれない。それと、理屈を超えたところをみるなら、禅でも真宗でも、ある境涯に進むといつも体がゆったり、力が抜けている、、となるのではないかと思う。禅の言葉をつかうなら随所に主なり、で心は穏やか、鏡のよう。体はしこりがなく柔軟・透明・力が抜けているという感じ。時々波があるが本体の海は静か。)

 

妙好人と鏡の心

 

いくつかの妙好人の詩()を紹介されたのでそれをここに書きとめておきます:

 

S:あ、そうそう、私が一番感激したのを最初に。。。:

 

「み仏に心のすみすみまでも、照らし出されて涙こぼるる」 

―森脇氏(男性)

 

S:まあ、これがビン!ときてありがたかったのですが、まさに私のいう「鏡の心」にぴったり!これについて海野さんからの説明は覚えていないですが、私の感じを書くなら、こうなるでしょう:

 

「それまでは、自分の心の動きがわからないまま、引っ張りまわされていた。いわば業の奴隷になっていたという感じ。それがある機会を経て心が智慧のひかりに照らされているということに気づいた。その感じは心が「おっとっと」と何かにひっかかる前に何がどうなっているか、あるがままにわかる、という感じ。そしてそのまま事にかかわらずにじっとしていることによって煩悩・悩みから抜け出す、落とし穴に落ちない、、というコツが「かなり」体得されたということです。

 

そしてそれは安心、すでに救われているということ。というのも、そのような気づきは自力では起こりえないから。それで、ありがたいという感じが湧き出てくる。さらに不思議で面白いのは、このありがたい感じはいつまでも消えてなくならないということ。というのも救われる、智慧が出る、というのは、そこここ、でおきるから、ありがたさがそのつど確認できるわけです。(→動中の工夫に対応)つまり、このことはきりがないのです。いわば有限な人間であるがゆえに無限との接点でそういう智慧や感謝・祈りの火花が飛ぶ、というようなものです。」

 

ちなみに海野大徹氏の言葉が配布の雑誌のにコピーあったが、それにはこう書いてある:

 

「このような自己を見つめる目は、大悲に摂取されたもののみに与えられる自然の働きである。森脇氏はそこを現している」 −仏法東漸、p。114

 

森脇氏は男性なのですか、と大徹さんにきいたら、「そうです、でも(妙好人は)一般には女性のほうが多いです」とこたえておられました。それと「妙好人というのは回りの人が信仰が普通の人に比べかなり深いというところをみて、そう名づけるのであって、本人が「私は妙好人です」とは名乗らない」、といってました。「また最近は教育が進んできたので知識が発達してきて、おかげで素朴、朴訥ないわゆる昔の妙好人のような人はあまりいない」とのこと。

 

ポッとでる念仏

 

これは松田ハル(ハワイの人といっていたように記憶してます)さんの詩:

 

「おろくじにいだかれて不足いうまじと、おもって又も不足いうなり」

 

つまり、そういうふうに不足を言っている自分を見る「何か」があるわけだ。そしてそういう時々に念仏がポッポッと(かってに、自動的に)でる、とアリスさんはいう。そしてそのポッとでるのが「よろこび」ということ。

 

(S:上の例では不足を言う自分がいわば鏡に映ったように、、、あるがままに見える、といってもいいと思う。それがここでのポッとでる念仏の意味あい。)

 

ひとつの例をあげて、ある人が亡くなって苦しいと感じていた。すると、ただ海に浮いているときにどこからもなく突然出た念仏がうれしいという。

 

(S:念仏がぽっとでるというのが凡夫が阿弥陀につながっているというのの確認となり、あるいは阿弥陀の働きを思いおこさせるのだろう。そしてそれは、そのまま、あるがままでの救いであろう。これはまた無意識の意識、というようなもので、念仏がでる、というのが「鏡の心」の働きに気づく、というのに似ている(対応する)ようだ。すると、らちが明かないと思っていたのが、そのままでらちが明く、ということに成る。だから、うれしい!

 

そのポッとでる、その時に「動中の工夫」が進められている、(→法の働きが確認される)ということになる。またそういうこと(修証)によってのみ、「宗教」がいかされるのであって、言葉、教理などの中には真に生きた宗教はない、といったらいいすぎであろうか?―――もっとも私はそれはまったく言い過ぎではない、とおもっているのではあるが。。。

 

それはともかく、こうみると真宗も禅もなんら違いがないといえるのではないか?!そして、更に言えば、わかってしまえば、その境涯においては、言葉や教義や理論(→いかだ)はまったく関係ないのだ。だから釈迦はいかだを捨てろ、つまり、いかだにとらわれるな、という。(←というのも智慧の本体の自在性がとらわれることによって失われるから)

 

早い話が、お経や祖師方の語録云々は(大悲大智の)体験が先にあって、その後に、その現れとしてできたものなのだ。(注:この点については「禅と分別」のファイルを参照まで:

http://www.geocities.jp/suzakicojp/zenntofunnbetu.html )

だからそれなりの「体験」があれば後はお経や祖師方の語録などの解釈が、いわば読まずに出来るわけで、言葉に迷わないという智慧が働くのだと思う。だからお経や祖師方の語録などはその「体験」内容の確認のためにある、と見てもいいわけだ。)

 

アリスさんはトンボを見ていたらとか、波をみていたらポッと念仏が出たという人の例もあるという。一方、アメリカ人で普通キリスト教だと理屈がいろいろあるのが、真宗はそれがないのでかえって、美しい、わかる、、、というように表現するひとがあるとのこと。

 

「今朝も、また 目をこすりながら小言いう、六字とびでて目までさめたり」

 

「年取れば、体も弱る、気も弱る、弱らぬものは煩悩ばかりか。」

 

自分の心を見つめるということ

 

これは再び森脇さんのもの:

 

「法蔵の修行の場所はどこにある、みんな私の胸の中に」

 

(S:それまで外が気にかかっていたのが、ひっくりかえって、心のあり方に目が向き、そこに注意を払うというのが修行、、と気づいたのだろう)

 

ありがたさ

 

これは中村宏一さんのもの:

 

「南無阿弥陀仏のいのちが我がいのち、ひとつのいのちになるぞうれしき」

 

厳しさ

 

牧之段ミツヨさん:

 

「我が機をば、正客なんて大威張り、良心とては微塵ないくせに」

 

「かりそめに良心みつけしその時は、仏見放すときにこそあり」

 

聞法

 

蘇木ナミさん:

 

「南無阿弥陀仏ということは

子供のときからきくけれど、

唱えたばかりじゃあたすからぬ

信じて助かることと聞き

信じにゃならんと聞き違え

助かるおおせを後にして

信じることを先にして

聞いて助かる機に迷い

聞けばわかると思い込み、

聞けども聞けどもわかりゃせぬ

聞いてくれぬに気が付いて

聞いてもわからぬことが知れ

聞くより先にお助けと

聞いて驚くときはある

ああ有難や 南無阿弥陀仏

わかって助かるわけもなく

わからで迷う世話もなし

安きを安きと知るでなし

安きも知らぬ機の安さ」

 

 

S:やはり、、

「聞いてもわからぬことが知れ」は絶体絶命、、、すると突然、、、

「聞くより先にお助けと」は向こうから助けが来る、、、その瞬間、、、

「聞いて驚くときはある」はそこが抜ける、光明に会う

「ああ有難や 南無阿弥陀仏」

、、だろう。

 

但し、その後、、

「わかって助かるわけもなく」=あたまでわかって助かるなどということはない

「わからで迷う世話もなし」=わかろうとかえって迷うのも馬鹿(必要なし)

「安きを安きと知るでなし」=簡単なのだが、そこがそう簡単にわからない

「安きも知らぬ機の安さ」=それのわからないのはいいかげんな自力のせいだ。

 

だから機法一体=タノム機とタスクル法が無阿弥陀仏で、タノムがきえてひとつとなるという消息・境涯=信心が鍵、ということだろう。

 

ところで、こういうのは本来はよけいな解説をしてはいけないのだろう。つまり味わうだけあじわう。そして自ずからそこに気づく、、というのがどうかということだろう。ごめん。

 

 

ひとり、弥陀といっしょ、、

 

中村宏一さん:

 

「独りいて、ものを言わせる南無阿弥陀仏、人は知らねど弥陀とわが身」

 

S:これは、「私の言動は弥陀から出たものだ。この境涯をわかってくれるものはなかなかいない。ただ自分の中に弥陀がいてそうさせるのだ。」、、というふうに読んでおこう。

 

というところで私 (→ 私ってだれ?  (^_^)-) をふりかえってみると、、、まあ、そういう感じもあって私は私のHPなどにいろいろ書いて貼り付けているのかもしれない。他の人は自己陶酔に陥っているというかも知れないが。  (^_^)-

 

そう、人は知らねど、、、どこかで誰かのために、、というので、ここで出あったいろいろな詩を残した人もそうだが、大拙はあんなにたくさんのもの(→人類の遺産)を残したということもあるのだろう。「こうしておけば何かの役に立つかもしれない」という彼のひとことが思い出される。

 

また、「なに」が彼をそうさせたかというのも、これが途方もなく不思議・面白いところだ。

 

おかげで、私のように不思議・ありがたい思いをさせてもらっているのが、、いるのだ。  (^_^)-☆)

 

そしてこういうのが、更に又不思議な機会を生み出すことはない、、と誰がいうのであろうか?  (^_^)-

 

まあ、そうであったなら、それはそれ、、ということだ。あほうがどこかに一人いて、独り言を言いながら、にこにこしている、というのもまた、不思議・面白い・愉快・一興ではないか!  (^_^)-

 

アリスさん:特別クラスでの教育など

 

アリスさんは何年も特別クラス(勉強にみんなについていけない人に対する教育:応対は一対一でおこなうとのこと)を担当したらしいが、その仕事と真宗のつながりについていろいろ面白い話を伺った:

 

―真宗はある意味ではわかるというのは難しくないが、その内容を生きるというのはチャレンジングだ。

―念仏がポッと出るというのは意識外(無意識)からという感じ

―その仕事は念仏の修行そのもの、という感じということ。

―すべてのことに全責任を取るという風に納得して事にあたる、ということ。。

―子供(ハイスクール・レベルだったと思う)に面するときには自分が無(Empty)でなければならない。

―自分の言動に信頼を置くということ。(信)

―早い話からだのしぐさから(ボディー・ラングエッジ)彼らは敏感にわかってしまう。

―親身になって、相手と一体感をもって(emotionally holding hand)応対しないといけない。

―一対一というのは、私自身が法の鏡(〜坐禅の心境)となるという意味あいがあるようだ。

―彼らに対してえらそうなことを言ってはならない(Don’t talk down to them

―そんなこんなで、連中から実の母親、のようだといわれることもある。

 

大徹さんは話しを何度も繰り返す癖があり、どちらかというと、アリスさんといろいろお話をしたのだが、たとえばこの教育の話しは私が経営コンサルティングである組織内でもいろいろな人に応対したときのその姿勢と非常に似ているという感じ。つまりそういう姿勢に基づいた交流の過程を通って、究極には個人個人の主体性・動機が引き金になって個人や組織全体が改善していくという過程と似ているということで、まあ教育、対人関係などでここで言っているポイントがそのまま適用できるということなのだろう。(法はどこででもあらわれでる・働きかけるということだ。ただし、こちらの姿勢が大事ということ。) 

 

ちなみにアリスさんはある期間、鎌倉で安谷老師に参禅し、公案をやったほか、お茶、合気道などもされたということです。

 

そのうち電話でいろいろお話できそうなので楽しみにしています。ありがたいことです。

 

 

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