
つれずれなるままに
―正しく幸福に生きようという問題意識をもちながら、―
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html
正理と法にそって、なにかをなすというのは、あれこれ丹念に調べを入れ、自他の言動から学び、理法と実践の統合を考え、自ずから然りの域に達するまで熱意をもって進む、というような按配ではないかと思う。そもそもなんの道であれ、名人はそういったやり方などを工夫し、とことん工夫し続けて「できあがる」ものではないだろうか。(→未完成の完成)
禅とか仏教、、あるいは芸術、経営、何をとっても奥底がない、極めるということはなかなかなものでないが、そもそも人生をしかるべく生きる、というのと見合って、しっかりとした「基盤」を見出し丁寧に進むべき道を確認したいものである。またそれがそう簡単に見つからないようになっている、というところに人生の妙を見る、というのもまた面白いではないか。
このファイルは「つれずれなるままに」と題したが、2010年4〜7月、ヤフーの掲示板「くつろぎ」のトピに、その時その時の目に留まった事柄、それと関心事、日常の出来事などをわたしの人生の流れにそって書き綴ったスナップショットといったものだろう。一人一人の人生はそれぞれの味があり、いったいになにかをわかりあうということは可能かどうか、これはわからないが、これを読む人がおられるなら何かの参考にでもなれば幸いです。
*読み直してみると、このファイルには天命、幸福、自在、自由、法の働き、智慧、慈悲、、といったものが、「ただしく生きよう」という潜在意識をもとにはたらいていたように思われます。ところどころ話題が分断しているようにみえるかもしれませんが、そういった場、視点を了解されると話がつながって見えてくるかもしれません。理も大事、行も大事、、、それらの人格への統合・行為の現成、もちろん大事ですね。すべての人が幸せでありますように!
2010年9月28日 洲崎 清 記
花が咲くのだって、木の実が実るのだって、鳥が鳴くのだって、蜘蛛の巣が太陽に光るのだって、
サーフィンをするのだって、ジャズを演奏するのだって、、、禅に生きるのだって、あれもこれも、、みなみな、、芸術、、(悉有仏性)だ。
今日ふとラジオで聞いたミルトジャクソン、、、大学のころバンドを組んでジャズを演奏していたのが懐かしい(私はサックスとフルート。ほかはヴァイブラフォーン、ギター、ベース、ドラムの5人)東京に住んでいたら昔の仲間とセッションしたいなあ。伊豆の今井荘ですごした気ままな夏がなつかしい。
Django - MJQ
http://www.youtube.com/watch?v=UmpLtYmSlvM&feature=PlayList&p=C6650872934732BF&playnext_from=PL&index=1
Swinging Bach...
http://www.youtube.com/watch?v=xmdDmnHKQvk&NR=1
ところで「ヴェーサーリーは楽しい」、、と仏陀が言ったという。。。(p。91仏陀最後の旅:涅槃経)これ、おもしろい。「王舎城は楽しい。鷲の峰という山は楽しい」、、(p88)、とも言った。「バニヤンの樹、、、がけ、、黒岩、、、鹿園、、、は楽しい」(p。90)とも言った。。。とある。なんだかわかるようだ!外ではチッチッと鳥が鳴いています。(Sadhu..Sadhu...)
芸術、、、音楽、、、共鳴、、、全機現、、、ヴァイブレーション!!!!!
是、、是、、是!
文字はいらないね!
ところで、、、Constant state of adaptation...compose life
around jazz philosophy...という言葉を聴いた。(ーテレビのジャズ番組で聞いた対話から)
何かをおいかけるんだけれど、こっちを立てて、おいかけるのでもない。。→無意識の意識。
それは主体性(You=desitiny)、、あるいは主客一体といっていい。これはサーフィンもおなじであり、、ピカソのペインティングもおなじ。人生の旅、、もその表現。そして外で聞こえる鳥、、、の声。仏性だね。そしてこれが華厳ともつながる。
と言うところで一般にいう人間世界を振り返って見ると、、(外から決められた)枠に「自ら」をたんに当てはめるというような人生はつまらない、創造的でないのではないか。そこで智慧がいるのだ。根底にある生のエネルギーがいかに全機するか?
そのためにも枠があるなら、その枠、、、そしてその枠を作り、その枠の中で働こうとする業の働き、、そういったものに気づかないと、これがどうかだな。
スペインの友達からお呼びがかかって今回は20年ほど前に出版した私が書いた本のスペイン語版の新装改訂版を出すから、それにあわせてセミナーをしにきてくれという。ロシアからも6月にお呼びがかかっていたのだが、今回は気乗りがしないので結局辞退することにした。それでそのスペインのセミナーだが、これがトヨタ方式(トヨタ生産方式)についてのもので、いまさらと言う気もしていたのだが、だんだん出発の日が近づき、プレゼンテーションの準備もしないといけない。
そこで思ったことがある。それは友達、、人、組織の「原点のはたらき」、、といったものだ。どういうことかというと、準備をしているとすでに他界した人たち、お世話になった人たちの「ヴィジョン」「生き様」が、ポッポッと出てくる。ありがたいものだ。
スペインの友達も20年以上の付き合いがあるので、やはりお互い励ましあう、と言うところがある。一方、会社組織のことを考えるとこれまたいろいろある。ひとことでいうなら、形か本質か、、、といったもので、そこで働く人が言われてやる、仕組みに従っ
てやる、、と言うその上をいかないと、つまらない。人間性を発揮した経営、指導、切磋琢磨、、といったもの。これが原動力にならない限りそんな改善活動は根無し草だ。ということで、上で言う「原点のはたらき」、原動力。この「ぎろり」としたところにふれないと、話はうわべをなぜただけで心に訴えるものがない、と言うことになる。
セミナーでいったいそんな話ができるかというと、これはわからない。前回のロシアのセミナーはかなり評判がよかったのだが、それは相手の状況にもよることだ。今まで何回これが最後と思ってスペインなどでのセミナーにあたったが、まあ一期一会というのはそういうことだろう。そういう心構えでことにあたって、どうかというわけだ。
同じ意味あいで、サーフィンで一つ一つの波、あるいは一刻一刻、一日一日、の過ごし方というのもあるが、、、、まあ、お手並み拝見、ということになるな。そしてそういうことの積み重ね、縁で、また妙・不思議が展開すると言うこともあるということだろう。
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* 別途まとめた今回のスペイン紀行記(写真入り)はこちらにのってます:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/spain2010.html
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昨日スペインから帰って、今回の旅行を振り返ってみた。(以下の部分は上の紀行記と別)
面白いもので、セミナーはトヨタ方式(無駄の排除)。以前に何回かやったものを今回、何年もたってまたやったわけだが、それでもいろいろな人の声(ハート)が私という媒体をとおって、いかに生きて働きでるかと言うところだ。聴衆の中には、これまで何度もやったセミナーにかかさず聞きに来た人もいる。聞くほうも一所懸命と言う人がいるようだが、やるほうは、、というとおなじような話でも不思議なもので、熱意が沸いてくる。
、、というところで、もう一度かんたんに振り返ってみると組織の全機現ーーーこれが無駄の排除につながる。そして無駄というのは各人の煩悩が目前のものをフィルターをかけて、あるいはバイアスをかけて見るような意味あいがあるなので、智恵をだすにはそこのところを原点に戻って、、と言う意味あいがある。こころのおき方が大事、というわけだ。
ところで1990年代に米国ケンタッキーのトヨタの工場を訪れたとき後にトヨタの社長、会長になった張さんとの面会を待っていて、ふとそこにあったパンフレットにあるこういう言葉が目に付いた。いわく:チームメンバーが意義を感じないような仕事は、会社はそれをさせることはない、、、(Team
members are not asked to do the job that they do not find meaningful.)
わたしのセミナーでは、たとえば、これを引き合いに出してマネージャーの仕事と言うものを考える、、、というわけだが、要はマネジャーの心が、、あるいはアタマがクリアでないと、重要な仕事と緊急な仕事の差別が出来ず、現場の働きが活性化されない。智恵がはたらかない、そしてそれはさまざまな無駄をかもし出す、、、というわけだ。
いいかたをかえるなら、組織の煩悩をいかに排除するか?そしてそのプロセスは?云々となるわけだが、これはもとより、個人個人のレベルでの煩悩の排除、、といったものに結びつく。それで今回はトヨタ方式の元祖、大野耐一(前副社長:故人)が私に色紙にかいてくれた言葉、「挑戦」「脱常識」をひきあいに出して話をしたのだが、、、、おもしろいもので、この漢字を書いて一字一字、言葉の意味あいを説明すると、結構話が通じるようなのだ。
そんなこんなでそこここでセミナーをやったあと、最後の晩に今回のセミナーをアレンジした友達と晩餐を取ったとき、そこに六つあった私の写真にこういう言葉をそれぞれ載せて、贈り物とした。
熱意
挑戦
脱常識
天命
悟り
幸福
それぞれに英語で意味あいを書いたわけだが、この六つがいわば正しい道を見出し、歩む、というところにつながるといってもいいだろう。
スペイン語では私の二つの本が翻訳されており、私の友達は20年ほども私と一緒に、いわばコンサルタントと言う仕事に意義を見出してやってきたわけだが、どうもこの辺で、仕事において心の原点の働きと道(松下さんなら人間道)というところに焦点をしぼって、なにかやるべきではないかと感じる。
人生に意義を感じる、、というやつ。そしてそれが我々の存在の原点とむすびつく、、、というような意味あい、、、これをちょっと、新しく本にでもというわけだ。
さあどうなるか?
誠がしっかりしているということは、「原点:いのち:X」と「意識」とのつながりが常時しっかりしているということ。そこでは自己組織性(自ずから然り:法の働き:智慧)が働き、頭、知能を正しく生かし、発展させることが出来る。(智慧・慈悲)
これはいわば動物系と人間の持つ言語系をしかるべく一致させ(身心一如)「法と正理の領域をあゆむ」(仏陀の言葉)ということだ。
人生を旅に例えるなら、これがその基盤にあるプロセス+原動力であり、フィードバック・フィードフォワードの機構である。そして、それは周囲との関係にもあらわれでて、不思議な世界を展開させる。(華厳)
これはもとより、「原点」の働きが現れでたもの、つまり法そのものであるから、つまりすべては、もとより「その」現れであるから、どうのこうのいうことはないのであるが、人というものは、そこに「意義」、とでも言うようなものを感じ取り、そのあまりに不思議なありさまに、ひれふすとでもいうか、(霊感を得る)あるいは感謝の念、そして更なる展開への祈り、とでも言うようなものを感じるようにできているようである。
誠というので孔子の言葉をいくつかネットから選んでみた。(あいにく英語です)
Sincerity is the way of Heaven. The attainment of sincerity is the way of men. He who possesses sincerity is he who, without an effort, hits what is right, and apprehends, without the exercise of thought — he is the sage who naturally and easily embodies the right way. He who attains to sincerity is he who chooses what is good, and firmly holds it fast. To this attainment there are requisite the extensive study of what is good, accurate inquiry about it, careful reflection on it, the clear discrimination of it, and the earnest practice of it. (すばらしい!私のイメージの天命とぴったり!!)
Sincerity is that whereby self-completion is effected, and its way is that by which man must direct himself.
To entire sincerity there belongs ceaselessness. Not ceasing, it continues long. Continuing long, it evidences itself. Evidencing itself, it reaches far. Reaching far, it becomes large and substantial. Large and substantial, it becomes high and brilliant. Large and substantial; this is how it contains all things. High and brilliant; this is how it overspreads all things. Reaching far and continuing long; this is how it perfects all things. So large and substantial, the individual possessing it is the co-equal of Earth. So high and brilliant, it makes him the co-equal of Heaven. So far-reaching and long-continuing, it makes him infinite. Such being its nature, without any display, it becomes manifested; without any movement, it produces changes; and without any effort, it accomplishes its ends
http://en.wikiquote.org/wiki/Confucius (よくできている!)
アップルのジョッブスも2005年ごろのスタンフォードでの卒業式でのスピーチでおなじようなことを言っていた(Follow your Heart=天命):
Steve Jobs: Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.
随所に主なり、はいわゆる幸福、、というものにつながるだろう。ただしここでの幸福は、娑婆でいう幸福の意味あいとことなる。つまり、、それはなにものにもよらない、、という意味あい。これが仏の教えだろう。
だから解脱、といってもいい。引っ掛かり(執着)がない、ということ。そしてこれが仏教で言う自由とつながる。つまり自ずからに由るということ。(だから娑婆でいう、何かから自由になるという意味あいではない)それで、この「自ずから」はなにかというと原点でのはたらき、、(真宗なら大船、、、)といったものだろう。
で、原点は、無住、、、基盤のない基盤(維魔経)ということだが、これだと一般の人はわけがわからないか?別の言い方なら、、天命に従うといってもいいだろう。
天の命に、そっているということ。正理と法の領域を歩む、でもいい。それがしっかりしていれば、、、そこには自由(自ずから然り)があり、幸福がある、と、こうなるわけだ。それで実際にそうなっているかどうか、、おっとっと、とひっくりかえってないか、そこをよく気づいて道を歩め、ということだ。
油断するなよ!知覚を鋭敏に心を平静に。。。無意識の意識で。全機!でね。
はい。
天命:しかるべき働き
そこで、ふと気が付くと人として、しかるべき働きがその人の置かれた境遇にそって、いかに正しく働きでるか、というのが問題になる。そしてこれが天命にむすびつく。この場合の天命は使命、、といったもの。(ことによるとこれは人によっては小乗→大乗を意味しているのかもしれない)
つまり、わが身、、、あるいは、おかれた境遇とか、これまでの人生の旅路を振り返ってみると、色々な落とし穴にはまったり、そこをぬけるのにもがいたり、、苦労したり、、、あるいは周りの人の苦労、苦悩、、、哀れなさまに、どうにかならないのか、と感じ入ったり、、、そういった、生き生きと生きるための障害、歪、、とでもいうもの、、、そして煩悩、これらをいかに乗り越えていくのかということ、そういった問題意識がこれから進むべき方向、という意味での天命、(〜使命)
というものに変わっていくようだ。
そうすると何か実践する・行為する、、、という、こいつにひとつ芯がとおるようである。なぜか?
それは私という個人の天命(この場合は使命)が大きな意味での天命(〜宇宙の行動原理)との整合をみいだし、いってみれば、周りに生きるものとのしかるべきハーモニー(→宇宙の全機現)を見出そうという、そういった働きが湧き出てくるからであろう。
これは又大悲の働き、、といういうようなものであろうか?とことんの、底知れぬ、やさしさであろうか?!
不思議なことに、、マザーテレサの例でもわかるように、その働き(天命にそってきるということ)そのものが利他=自利、、、、(つまり気づいてみれば自利)というように(も)なっているようである。
一方、これまで述べてきたところのものは、自利→利他、、(つまり、気づいてみれば利他)というようなものであり、これはまた秋月リョウミン氏が大拙についていっていた、見性→大悟→大悲、、という道筋、、、これを見ているようである。そして気づいてみれば、どちらも、「そこ」において筋が通っている(→天命)、、ということかもしれない。)
*そういえばヴィパッサナ(ゴエンカ氏)で10日のコースの最後にやる慈悲の祈りというのがあった。
慈悲の祈り
metta bhavana
" I pardon all those,
who might have hurt or harmed me
Knowingly or unknowingly, intentionally or unintentionally
By their deeds of body, speech or mind.
I seek pardon from all those, whom i might have hurt or harmed
Knowingly or unknowingly, intentionally or unintentionally
By my deeds of body, speech or mind.
All are my friends, none is my enemy
All are my friends, none is my enemy
May all share my merits, my peace, my harmony,
my dhamma
May all be happy, be peaceful, be liberated.
May all beings be happy
May all beings be peaceful
May all beings be liberated, liberated, liberated
May I be free
Free from all the anger, hatred, illwill, animosity
May I generate Love and goodwill ,
peace and harmony
May I generate Love and goodwill ,
peace and harmony
May all beings share my peace,
share my harmony, share my merits
Share my dhamma, dhamma, dhamma
May all beings be happy, be peaceful
Be liberated, liberated, liberated "
ーー
慈悲を感じるというのは人間だけなのだろうな。
動物はなにもわからない。ただ、あるがまま。
他のものの痛みがわかる、無駄を見出す、
よりよく生きる可能性を知ることが出来る、、
創造性を発揮する、、というのも人間のみ。
エデンの園を追放されたのも人間、
煩悩をもつのも人間、娑婆をこしらえたのも人間。
しかし苦をいつまでも引きずり回す
あるいは(自らこしらえた)苦にさいなむ、、、
というのは天命ではないだろう。。
煩悩を断ぜずして涅槃を得る、、、というのも
人間にしか出来ない芸当だ。(それともそれは曲芸か!)
曲芸であれなんであれ、
「正理と法にそった道」(〜天命)を
しっかりみいだして(大智、大悲をみいだして)
しかるべく一歩一歩、丁寧に進むべきだろう。
慈しみ(スッタニパータ)
========
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべき事は、次のとおりである。
能力あり、直く、正しく、言葉優しく、柔和で、思い上がることの無い者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかな食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の家で貪ぼる事が無い。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生き物生類であっても、怯えているものでも強豪なものでも、ことごとく長いものでも、大きなものでも、中くらいなものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くにすむものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何人も他人を欺いてはならない。たとえ何処にあっても、他人を軽んじてはならない。
悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与える事を望んではならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものに対しても、無量の慈しみの心を起こすべし。
また全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく、怨み無く、敵意無き慈しみを行うべし。
立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この慈しみの心づかいをしっかりと保て。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
もろもろのよこしまな見解にとらわれず、戒めを保ち、見る働きを備えて、諸々の欲望に関する貪りをのぞいた人は、決して再び母体に宿ることがないであろう。
松下さんのこういう言葉があったのでここに掲げておく。これまで書いてきたこととのつながりが見られると思う。:
「成功というのは、この自分に与えられた天分を、そのまま完全に生かしきることである。それが人間としての正しい生き方であり、自分も満足すると同時に働きの成果も高まって、周囲の人々を喜ばせることにな
るのではないか。そういう意味からすれば、これを人間としての成功と呼んでもいいと思う。この人間としての成功こそが、真の意味の成功であると思う」。(PHP研究所刊「松下幸之助に学ぶ・生き方働き方」より)
「限りない生成発展ということが、自然の理法であり、社会の理法である。このことは見方を変えて言えば、お互い人間は、そうした限りない生成発展を願い求めているということである。
つまり衣食住をはじめとして自らの生活を物心ともに、より豊かで快適なものにしたいということを絶えず願っているのが、お互い人間の一般の姿である。その内容は人により時代によってさまざまであっても、よりよい生活を求めないという人は殆どいないといっていい。
そのような人々の生活文化の維持、向上という願いに答え、それを満たしていくところに、事業経営の根本の役割というか使命があると考えられる。」
(実践経営哲学、p。24)
この見方は、、、上で「物心ともに」、、といっているように、非常にはばひろいものと見られる。
会社経営にこういう使命を求め、、各人が見出し、衆知を集め、、、人生経営にも無論、この根本原理を反映させるということだろう!
いろいろな人の係わり合いという有機的なありように、こういう根本の見方をあてはめる、
(これがわたしのミニ・カンパニーの考えにつながるわけだが、、)そこにやはり華厳哲学につながるところがあると思う。
以上のこと、、、畢竟、、どういうことかというと、
(私の見方では)慈しみと、智慧と(幸之助のいう)限りない生成発展、、、これがひとつにつながっているということだろう。
つまりこれが菩薩行、、ということ。
ーー
四弘誓願(ウイキ):
* 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願
* 煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 煩悩は無量だが、すべて断つという誓願
* 法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 法門は無尽だが、すべて知るという誓願
* 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) - 仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願
*ただし、禅系の三宗(曹洞宗・臨済宗・黄檗宗)では、台詞が違う:
* 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
* 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
* 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
* 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
ーー
そしてそのプロセス(正理と法の道をあゆむ)に、、、幸福(生きる意義)が見出されるということだろう。
ということで確認し、そしてこれがまた(宇宙の意志に基づいた)熱意にもどるのであるが、(道元なら発心、発心、又発心)、要は、、、前述した、、、熱意、挑戦、脱常識、悟り、天命、幸福、、、これらがぴしっとつながるということだな。
(そう、これは、、法輪ー釈迦が説いた四諦・八正道ーとおなじようなものだ。)
注)八正道:正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定
(順序はちょっと違うが、、、まあどれもつながっているからね。)
ということで、、熱意をふるいたたせ、なすべきに挑戦し、脱常識をはたらかせると、悟りを得、天命を知り、幸福にいたる道(正理と法の働きに沿った道)を見出すことができる。これはまた、、すべてのものは縁起によってなりたていることを知り、どのような場合においても、自らがおかれた環境にそって大悲と大智の働きを働かしめることが出来る、、ということだ。
(注:こういうのが言葉の遊びということにならないように、ということだな。)
Youtubeから(英語)これはその一部:
http://www.motherteresa.org/tube/26vid_eng.html
HPはここ:
http://www.motherteresa.org/layout.html
天命というのでマザーテレサを、、と思っていたら、英語ではDivine Mission というのがそれにぴたり、と思った。ちなみに、1946年の列車の中で、自分の天命をマザーテレサは知ったという。その後、とくに一年目は、お金がない、迷い、一人ぽっち、といった問題で満ちていたということだ。それと、、、物質的な貧困は物質でまかなうことが出来るが、愛はそういうわけには行かない、世界中にカルカッタがあるのだ、、、とヴィデオでいっていた。
うーん!
(何度でも!)
「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉兆の判断をともに棄てた修行者は正しく世の中を遍歴するであろう。
修行者が、迷いの生存を超越し、理法を悟って、人間および天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎むならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
修行者が陰口をやめ、怒りと物惜しみとを棄てて、順逆の年を離れるならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何者にも執着せず、諸々の束縛から離脱しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
彼が生存を構成する要素のうちに堅固な実態を見出さず、諸々の執着されるものに対する貪欲を慎み、こだわることなく、他人に惹かれないならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
言葉によっても、心によっても、行為によっても逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナ(涅槃)の境地を求めるならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
修行者が『彼はわれを拝む』と思って高ぶることなく、罵られても心に含むことなく、他人から食物を与えられたからとておごる事がないならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
修行者が、むさぼりと迷いの生存とを捨てて、生き物を切ったり縛ったりすることをやめ、疑惑を超え、煩悩の矢を抜いたのであれば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
修行者が、自分に適当な事を知り、世の中で何ものをも損なうことなく、如実に理法を知っているのであれば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
彼にとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、願う事も無く、求める事も無いならば、(これが意味深い!応無所住、、、)彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
煩悩の汚れはすでに尽き、高慢をたち、あらゆるむさぼりの路を超え、自ら制し、安らぎに帰し、心が安立しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
信念あり、学識のある賢者が、究極の境地に至る定まった道を見、諸々の仲間の間にありながら仲間に盲従せず、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎むならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
清らかな行いによって煩悩に打ち勝った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きが無くなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
過去および未来のものに関してみだらなはからいを超え、きわめて清らかな知恵あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
究極の境地を知り、理法を悟り、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる生存の構成する要素を滅し尽くすが故に、彼は正しく世の中を遍歴するであろう」。
ーー
ここで、、
>正しく理法を知って、ニルヴァーナ(涅槃)の境地を求めるならば、、
というのがあるが、これが涅槃経での「正理、、(と法、、)」という言葉につながるようだ。
上で言う「求める」、、は四諦・八正道をいうのだろう。法を求めるものは法を求めてはならない(維魔)である。
老子をちょっと読んでいたのだが、こういうのがあった。元は英語版、37章
When there is no desire、all things are at peace.
調べたら、日本語の訳はなんと:意図がなくなれば静かになり、天下は自然に安らかになるであろう。元の中国語は:不欲以静、天下将自定(あるいは正)なるほど!
ちょっと考えると、英語版がいいようでもあるし、(私はこれをこの一日ほど味わっていた)
中国語版の定まる、、、正しくなる、、という意味合いもいい。
老子の道と天命は似たようなものと見ていいと思うが、仏教(悟り)とのつながりなどを見ると、なんともおもしろい!
すぐ前に出た:
>彼にとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、願う事も無く、求める事も無いならば、(これが意味深い!応無所住而生其心)彼は正しく世の中を遍歴するであろう。<
、、、ともあっている。
(それにしても表現も実践もここはいかんせん微妙なところではある。→中道)
本を書くというのはある意味で絵を書くというのに似ている。そこには強調したいところがあり、流れがあり、微妙なところがあり、かといって中心に芯が通っていないといけない。さらに全体としてのバランスも大事だ。人生を生きるもにているようだな。
前に書いた本(*)に人生は空白のキャンバスに絵を描くようなものだと書いたが、そういえば私のHPもある意味で言えば書きかけのキャンバスという意味があるようだ。そこには無論すべてではないが、いろいろな出会いがあり、インスピレーション、くつろぎの世界の体験、趣味、仕事、あれこれの思考、イメージの展開、確認、謎解き、などいろいろな景色が見られる。
そこで畢竟してなんのようぞ、と自らに問うなら、なんとこたえよう?
ひとことでいうなら、、過去は過去、絵にたとえるなら、タッチアップ(修正:反省)も必要かもしれないが、要は正理と法の領域をたんたんこつこつ、落とし穴に注意して丁寧にあゆもう!、、、とこうなるな。あとは見てのお楽しみ、だ。
*昔書いた本の表紙のこのイメージが丁寧に道を開くというそれだね:

Man's extremity is God's opportunity.
これだろうな。
Heaven helps those who help himself.
天は自ら助けるものを助けるというのもある。艱難汝を玉にす、、というのもある。
それで自ら助けるもの、これが自力だが、それがあるとき、天に助かる、つまり他力、とぴたっとあう。それが天命を知る、、というものだな。
で、天命がDestinyという意味合いだけでなく、(私なりの解釈をすると)八正道とみてもいいわけだ。正理と法の道を歩む、でもいい。
問題は実践だから上のことを理論で知っていても意味がないが、まあフレームワークとして覚えておいていいということだ。
あるいは、、そういったアイデアをもとに、、発心、発心、また発心、、でもいいだろう。(発菩提心)
「人を生かす経営」、という本のp177から。書き方そのものも、いわゆる矛盾を超えるという智慧の働かせ方にかなっている、というのが味わいのあるところでしょう。わたしなりに、そこでのポイントを、思い出しながらまとめておくと、、、:
まず問題、悩みがある、、これは人間たるものやむをえない。悩みがいくつあっても、それは一度にひとつしか解決することは出来ないだから一番大きなものに集中する、
問題に出会ったとき、真っ先に、悩まないと言うことを誓う(そうはいっていないが)ーつまりとらわれないということ。そして見方を色々自分なりに調べてみる(というふうな見方をする)何晩も眠れないことはあるがそれはしょうがない
そして問題は智慧が出ることによって解決されるものなのだ。
そしてそういうふうに一つ一つ問題を解決することによって智慧の使い方がわかってくる。だから問題、悩みを避けるということは意味がないむしろ生きるためにそうなっている、、、悩みはありがたいものだということだ。
さすが!柔軟心だね!
見方がやわらかい。
そして素直な心。松下さんいわく:
「なぜ私が「素直な心」の大切さについて、繰り返し述べてきているのかといいますと、
私は「素直な心」というものこそ、お互いの人間として最も好ましい生き方をもたらすものではないかと思うからです。
つまり、お互いの人間は、みなそれぞれに真の繁栄、平和、幸福、すなわち身も心も豊かに、仲良く幸せに暮らしたいと願っていると思います。いいかえれば、『よりよき共同生活というものの実現を願いつつ生きているのではないか』と思われます。
ところが、現実にそういう姿がスムーズに実現されているかというと、必ずしもそうとはいえないように思われます。その原因はいろいろあろうかと思いますが、基本的には結局、お互いの人間の生き方自体に問題があるのではないでしょうか。
つまり、みずからの願いというものを実現させるにふさわしい物の考え方なり心の持ち方,さらには態度、行動をあわらしていない、いわば木に登って魚を求めるような姿を一面に繰り返している。
そういうところに、お互いの願いが必ずしも現実のものになっていないことの一つの大きな原因がありはしないか、という気がするのです。
したがって、お互いの人間がみずからの願いを実現するためには、それを実現するにふさわしい考え方、態度、行動をあらわしていくことが肝要だと思いますが、その根底をなすものがこの「素直な心」ではないかと思うのです。すなわち、「素直な心」を根底にもってお互いが生きていくところから、人それぞれに願い求めている真のよりよき共同生活も逐次実現し、お互い一人ひとりの幸せもしだいに高められていくのではないかということです。
「素直な心」とは私心なくくもりのない心というか、一つのことにとらわれずに、物事をあるがままに見ようとする心と言えるでしょう。そういう心からは、物事の実相をつかむ力も生まれてくるのではないかと思うのです。
だから、「素直な心」というものは、真理をつかむ働きのある心だと思います。物事の真実を見きわめて、それに適応していく心だと思うのです。」
ーー
松下さんは何でも徹底的に、自分で考えるということ、これをした人だと思う。中山さんもそういうことを言っていた。それでみずから調べに調べを進め行き着いたのが「素直な心」だな。何でも掘り下げると、そういうところに行き着く、ということだろう。
おそのの「はい」もおなじようなものだね。なんとも、こころやすらむ、、といったものだな。無論、ポイントはその実践!
こういうのがあった。http://research.php.co.jp/kenkyu/report/pdf/k_kenkyu/0710_04.pdf
速読しかしていないが、私の見ているところと似ているところがそこここにある。
それともうひとつ松下さんの見方で気づいてさすが!、面白いと思ったのが、いわば天命として、もともと人間はPHPを成就する、、といった使命をもっている、、といった見方。
これは四諦とはちょっと違うが、、、(ただ八正道はその道をすすむと、、、そうなる、と読めないことはないが、)松下さんはそういう人間としての使命を念頭に、、、つまりそういったイメージを描いて、、、物心ともの豊かさ、、喜びを持って楽しく暮らそう、と祈り、訴え、、あるいは衆知を集め、そしてまた、そのために素直な心が基盤になる、、、という見方をしていたという感じがする。
こういうのがあった。
http://quote.robertgenn.com/auth_search.php?authid=72
このうちのかなりは手元の本にあるが、これでこれから検索が楽になる。
すべてに目をとうしたけど、なんとも愉快でもある。
とにかくご参考まで。
資料はアメリカ人(WILBROさん、と二人のユダヤ人、中国人、インド人、スペイン人の6人に連絡したあと日本人は?というので友人(西方さん)にも連絡しましたが、あいにくお忙しいとのこと。それで読まずにフィードバック、というようなもので天命についてのコメントをいただきました。ここにも紹介しておきます。
(資料―ドラフト:https://docs.google.com/present/edit?id=0AXM0rQonzcf1ZGN6cDMycnRfMTcyNmZmemdxOWd4&hl=en )
==
『天命』という言葉を与えられて、おまえはどう解釈するかと言われますと、現在の私には一応答えてみたいイメージがありますので、洲崎さんのおまとめになられたドキュメントに眼を通さないで書くことの失礼は重々承知の上で、以下に書いてみたいと思いますので、それでお許し戴きたいと存じます。
その内容は、宗教色そのものなので、メールに『あまり宗教色をださずに、一般受けできるようにまとめ(ようとし)た』とありますことと、調子があいませんが、私には宗教色そのものの内容しか関心がないものですから、それでご容赦下さい。
おそらく、洲崎さんのドキュメントを拝見して、それなりに理解したとしても(私には相当時間がかかりそう)、もし私がコメントするとすれば、結局その角度からのものになると思います。
------------------------------------------------------------------
『天命』という言葉を与えられて、まず最初に思い浮かぶのは、「阿弥陀如来の来迎」です。「阿弥陀如来の来迎」が、『天命』が下(くだ)るということと同内容だと思います。
私は、「阿弥陀如来の来迎」は「宇宙的意思が直観として飛びだしてくること」と理解しているので、阿弥陀如来とは、「宇宙的意思」のことです。天命のことです。従って、『天命』は「阿弥陀如来=宇宙的意思」です。
前後裁断された一瞬一瞬の現成が『天命』ですから、『天命』は我ならぬ我に他なりません。「万法に証せらるる」我が、『天命』です。「仏」が『天命』です。
従って、これは「自然法爾」、すなわち、「天の然らしむるところによりて、自ずからそう
なる」というように『天命』は下(くだ)るのだと思います。
キリスト教では、このことを「もはや、私が生きているのではない。私の中でキリストが生きている」(記憶で書いているので、表現が正確でない)と言うのだと思います。
道元さんの「ただわが身をも心をも放ち忘れて、ほとけのいえになげいれて[いくと]、
ほとけの方よりおこなわれて、これにしたがいもていく」
この、「ほとけの方よりおこなわれて」が『天命』です。
西田(西田幾多郎)先生の、「逆対応・逆限定」は『天命』が下るときの消息です。
『天命』は、表現のされ方によっては受動的なイメージがつきまといますが、西田(西田幾多郎)先生がいわれているように、「逆対応的・逆限定的に、自己表現的に自己形成」していくという積極的創造的イメージとセットになっています。
『天命』という次元は、本来、主客が解体消滅したところに成立するのであって、ただその消息を「ことば(俗諦)」で表現してなんとか伝達しようとするとき、多少主客を感じさせるような表現にならざるを得ないのだと思います。
鈴木大拙先生が、どこかで引用されていた禅問答で、
よく覚えていないのですが、
「和尚さんは、どうしてお茶をたてていらっしゃるのですか」
「ひとり、茶を欲しいという者があってな」
「なぜ、そのものにたてさせないのですか」
次が、どちらでしたか、わすれました。
「幸い、わしがここにおってな」でしたっけ。
あるいは、
「それでは、暮らしがたたんでな」でしたっけ。
とにかく、そこでの「ひとり、茶を欲しいという者」というのが、
『天命』ではないでしょうか。
==
以下、私の返信より:
ありがとうございます。
イメージはぴったり。
本のほうは、、、(前の本でのレッスンをふまえ)アプローチ・構成をいかに、というところに苦労しました。そこでひとつには宗教色の少ないと思われている人のコメントなどを多めにしたわけです。(ただしこれは私の通ってきた道筋とのつながりもすこしあります)
ただし松下さんの再再発見というのが今回の作業をすすめていてあり、それは中山さんの言うところにちかいのですが、さすがとことん考えていると感心しました。
お忙しい様子。ご苦労様です。また縁があればお願いします。
洲崎清拝
接点というまえに、まず松下さんの人生のたびのいきさつとしては、、あれやりこれやり、智慧を使って進めてみたら、
丁稚ー>会社経営ー>PHP->政経塾、、と展開。そしてその裏に「素直な心になる」、、というのがあり、一方、「全人類の幸福」、、、など人間観、宇宙観をみずから発見して、、つまり自分の体験をベースに、洞察して、、、ヴィジョン・使命を作り、、、そして組織をその方向に、、、とリーダーシップを発揮したということになる。(熱意を持って何度でも訴えた)
また智慧が、、、たとえば成功するまでやる、、、まず成功すると思う、、、など熱意とか、産業人の使命を知る、など天命というような言葉につながっているわけだが、あるときは好況よし不況よし、迷っても迷わない、悩みはひとつだけでいい(つまり智慧を出して解決、さらに先に進む)、などなど、と達観するにいたった。
そして、これらのことがらの背景には自らの体験、真実のデータをもとにとことん考えるー>智慧が出る、、、というのがあり、、、それが熱意、使命、などとあいまって、ああいう展開になった。大雑把に言うとそうなるかと思う。
ー
そこでそれが仏教ということでみると、、松下さんの言動はやはり菩薩の働き、、、ということになるだろう。仏教を習わず、、自ら智慧を見出し、一歩一歩進めながらやってきて、結論としてそうなった、、、とみると、、、これはやはり面白い。
戒定慧を身をもって体験し、、、生涯つら抜いた、、となるわけだが、、、まあ禅の修業を丁稚のときにやったというようなものかもしれない。「畢竟してなんの用ぞ」をとことん考えたのだろう。
ここでひとつ、、以前に岡村美穂子さんに聞いたと思うが、大拙は松下さんのことを、、どう見ていたか、というのがどうもわからない。当時は禅と商売・ビジネスは別、、とかんじていたのかな??一方、ダライラマ師は私の前の本に序文をくれたが、その辺プラグマティックに、、、洞察する、、という人は少ないということなのだろうか?
ここのところは私は敷居は感じないし、、百丈の「一日作さざれば一日食らわず」などともつながると思うが、、、たとえば前の投稿の「宗教色そのものの内容しか関心がない」、、、はどうなのかなというのがひとつ。それで、、、そっちのほうの敷居はいいとしても、、、一般の人と宗教の境、、、の敷居。。。これがどうか、、というのが大きな課題。
私はこれまで東洋と西洋のハザマ、、、をはじめあるいは組織内の敷居を(縦横に)つなげるということを見てきたわけだが、、、今回、、天命をキーワードにして、意識・無意識の敷居とみて、そこに連絡をみる、、、というように、本にまとめ、読者は気づいたらそういうところに導かれていたというような方便、、、こういう風に持っていければいいのだが。。。
メッセージを簡単に簡単に、、、構成も簡単に、、、しないと落ちこぼれがでて、うまくいかないだろう。それとさじ加減がどうか、ということにもなるのだろうな。とにかく丁寧に、じっくり考えて絵をかくというイメージですすめる、、ということかな。
ー
悩みを突き抜けていく、、、というところに人生の味わい、、生きがい、、がある。そこで、、、素直な心、、、熱意、使命(人類の幸福ー物心)につながる、、となる。一方菩薩の願いは:四弘請願:衆生無辺請願度 煩悩無数請願断 法門無尽請願学 仏道無上請願成。ともに素直な心が基盤。
そういえば松下さん、こういっていた:「素直な心になりましょうは仏教でいうナムアミダブツと同じだな。そういう唱え言葉でもあるわけや素直な心になれば神のごとき状態になるわけやな」
−P。110 「心はいつもここにある」(江口)
、、面白いのう
ふと思ったのだが
心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる
この言葉もとは、ウイリアム・ジェームスという説、あるいはヒンズー教というのもある。
これを今回もセミナーで引用したのだが、、、この当たり前のこと、知識で知っているというのと、
実践でやっているというののちがいがおおきい。松下さんはこのような言葉を知らずに実践していたという感じもある。
ところで私の解釈は、、、心が変わっても態度,行動は自動的にかわらない、、、ということもあるのではないか、ということ。たとえば、あーそうかと本を読んで思う。次の日、、、、もう忘れている。あるいは知識をためて評論家になって実践はしない、というのもある。だから、、松下さんのいう熱意、、、願い、、、成功するまでやる、、といった「力ずよいもの」、これがないとお題目、、ということだ。
そのためにもとことん考えるという、意味合い。これを身をもって知るべし、ということだろう。。。そしてそのもとに宇宙の熱意(意志)がしかるべく働いているかどうか、ということ、これだろう。
この本は、私は英語版しか持っていない。天命についての基本的な考えもあるので、今一度じっくり読み直してみようと思うが、ネットをしらべてみると、いろいろでてくる:
こういうのがネットにある:
松下幸之助の宗教家以上に宗教家のような内容の書籍。PHP運動の集大成と言える。松下幸之助はこの本を書き終えて「思い残すことはない」「もう死んでもいい」とまで言った逸話がある。
この本をしあげるまでに65回ぐらいPHPで音読した、100人以上の人にコメントをもとめた、、というのもどこかにかいてあった(あいにくどこかはおぼえてない)。グーグルで検索したら100回以上校正したとある。
松下さんと宗教についてもこういうのがあった:
1894年(0歳) 浄土真宗の家に生まれる.長屋には白龍大明神が祀られていた.
1918年(23歳) 創業時、白龍大明神を祀る.
1926年(31歳) 高野山初訪問.以降も五代音吉に誘われ、度々訪問する.
1930年(35歳) 真言宗の僧侶・加藤大観氏を相談相手にする.
1932年(37歳) 天理教本部を訪問.水道哲学を悟り、社の創業命知元年とする.
1937年(43歳) 加藤大観氏を家に招き、朝夕勤行を受け始める.
1938年(43歳) 高野山に松下電器従業員の慰霊塔建立.以降毎年9月に慰霊法要.
1939年(44歳) 光雲荘完成の際に天祖大神という神様を自ら考えて祀る.
1962年(67歳) 会長職就任を機にPHP運動再開.真々庵に「根源の社」を建立.
1967年(72歳) 京都PHP本社建設の際に「根源の社」を建立.
1981年(86歳) Panasonicの創業の森に「根源の社」を建立.
その他にもキリスト教、創価学会、立正佼成会等々との付き合いもあり、実に様々な宗教と生涯関わっている。
ーそのほか、、 「死もまた生成発展である」ともいったらしい。
ー幸之助の『新しい人間観の提唱』、、、を次のような言葉で締め括っている:
「まことに人間は崇高にして偉大な存在である。お互いにこの人間の偉大さを悟り、その天命を自覚し、衆知を高めつつ生成発展の大業を営まなければならない。長久なる人間の使命は、この天命を自覚実践することにある。この使命の意義を明らかにし、その達成を期せんがため、ここに新しい人間観を提唱するものである」
−−これがすばらしい!
それにしても、、松下さんにして60数回ほかの人と読み直し推敲・校正をすすめたということなのだから。。。。。なんとも、、、
熱意、とコツが身につくということ
今日サーフィンしながら考えたこと:
まず、必要は発明の母 Necessity is the Mother of Invention「必要は創造・智慧の原点」、、というのがある。まずニーズの確認があり、、それが狙いを達成する熱意を持つということ、につながる。要は、、、成功するまでやる、、である。ここでニーズはサーフィンをマスターする、でもいいし、仏道をマスター(人格に反映:四諦;大智大悲、、)でもいい。
ところで、ニーズというので、そのきっかけになるものがある。サーフィンなら、、、波と自在にたわむれ、ノーズライドをやる、、、でもいい、仏道なら、(本人の)苦からの解脱、でもいいし、智慧を自在に、、、でもいい。どちらも、修行を進めるということが大事、、、つまり体得が目的だが、その過程で、参考となるもの(本、先人の話、などなど)に親しみ、、、本人のすき好みの性格(インプリント)もあいまって、これやる、あれやる、、といろいろトライし、、、反省、自己観照をすすめる。そのとき周りの人(名人でもいい)、が、あれこれいう、、あるいはきく、しらべるということもある。そんなこんなで熱意を入れてやれば、碁や将棋も1000回やれば初段というようなもので、ある程度の進歩はみられるはず。
ただし、実践なしに頭だけ、、、知識だけ、というのでは、身につくというところには、なかなか至らないだろう。根本のニーズにかかわらず、頭の中に図書館を作ってもその使い方がわからないなら意味がない。サーフィンならチャンと水に入って、あれやりこれやり、「みずから」工夫しないといけない。これは「失敗のない成功は、ないとおもえ」(本田さんだったかな)というのにつながる。
ここで「身につく」、、というのを、ちょっと考えてみると、それは「名人」(マスター)の身の振るまいが、無意識に入っていき(〜薫陶)、それが必要に応じて、タイムリーに発現し、あたかも智慧が働くがごとく、柔軟な対応ができるということだろう。
そういうニューロンの回路ができないと、いざというとき役に立たない知識ばかり集めるという誠に効率の悪いことにもなるわけだ。こういう癖が人生にいかに累積的にインパクトを与えるか、と思うと、実に背筋が寒くなる。つまり、へたな教育をうけると、究極にはこれは本人の問題ではあるが、人生はどういうふうに問題に対応して道を切り開いていくか、という実践が根本にあるにもかかわらず、いってみれば、質問をくれないと答えが出せません、という誠に主体性のない人間ができるということにもなるわけだ。
試験でどんな立派な答案を書いても、実践で何の役にも立たないならどうする?たとえば、サーフィンの場合は波の変化に即座に対応し、ひらりひらり、、というぐあい、仏道の場合は自らの煩悩に即気づき、それにパッパッと対応(智慧が働く)という具合に手がうてないと、理論家というのでは間に合わないということだ。
だから、、上で:
>ここで「身につく」、、というのを、ちょっと考えてみると、それは「名人」(マスター)の身の振る舞い(言動)が、無意識に入っていき(〜薫陶)、それが必要に応じて、タイムリーに発現し、あたかも智慧が働くがごとく、柔軟な対応ができるということだろう。<
、、といったが、この発現のありさまを無意識の意識といってもいいだろう。要は全機現である。「今ここ」で即座に智慧が発現ということである。生きるというのは「今ここ」でしか、できないのである。
ところで、この実践のスキルをマスターする、つまり体得する、というのにからんでよく使われる言葉は、「反復は上達への道だ」(反復はスキルをマスターするということの原点)「Repetition is the mother of skill」である。もちろんただの反復もときにはいいかもしれないが、工夫しながら、反省しながら、あるいは衆知を集めるという形で、それでいて自分なりに何度でもやってみる、という自発性が大事だろう
そんなこんなで「、ニーズの原点を確認する、熱意を持つ、いろいろ挑戦する、工夫する、体験をどんどん進め、体験を反省・吟味する、成功するまでやる、要領を覚える、コツを覚える、(ー>マスター・名人になる)」というようなわけだ。
コツがわかった瞬間というのはそれ以前に培ってきた体験、心の癖がぜんぜん役に立たないので、くずれさり、あるいは目(心)にフィルターがかかっていたように読んでも聞いてもわからなかった名人の表現が、、あるとき、おのずからしかりというようなもので、自ら体験され、、ああ、そういうことだったのか、、と腑に落ちる、、そしてそれがだんだんだんだん、(応用問題もできるようになって)しっかりと身につく、、ということになるようだ。
そこでこの腑に落ちる、、というやつ、というやつ。これが開眼、、脱落、、、といったものだろう。そしてそれ(その体験)が誠にしっかりしたものならば、つまり、、その体験(ただし反復も必要)で、あたかも心身のニューロン回路がひっくり返る、(再配線される)わけだからそれ以後の行動、心身の働きは、、より法にそったものとなり、そのマスターした領域・分野においては、黙って座ればぴたりとあたるといったように智慧が状況に即しておのずから働くということになる。
おのずからであるから、努力しないでなすべきことができる・わかる、ということだ。
ーー
ここでもうひとつおもいうかぶことがある。それはそこまでの経過、、つまり熱意・一生懸命・わき目もふらず・挑戦・実践は無心の努力といったもので「心のありかた」が大事であったとあらためてわかるということ。端的にいえば、それは我をすすめない、素直ということ。実相(あるがまま)を見るということ。
論理は使うが論理で通り抜けられないところ、これをいわば無心、素直、で突破ということ。つまり(自分を進めないという意味で)むこうからの不思議な働きに気づく(智慧)、ということ、あたかもついていた、というか、どこからか魔法がという感じ、(これは誰しも大小の差こそあれ、そういう体験はしていると思う。水泳とか自転車ができるなどの例でもいい。つまりなにか難しいことに取り組んで、どうしてもできなかったのが、ふっと力を抜いてやったら、できちゃった、、というような按配。)それでありがたいと思うわけだ。
だから、そのときの無心、素直が本当に大事ということに気づいたなら、高慢な態度をもつということはないはずであり、現に名人は誰でも納得するような素直な挙動をする、感謝のこころを忘れない、というようにわたしは思う。つまり万法に証せらるる、のである。周りの人も、納得するのである。
ここまできて、はじめて、、、
心が変われば、、が
姿勢がかわり、
行動が変わり、
人格が変わり、、となり、、
運命が変わる、、、
(つまり天命に沿うー正理と法の道を歩む)、、となるわけだろう。
、、ということでこの辺がよく納得されたなら、心身が(法にそって)整理されたということで、おのずからしかり、と智慧が働くということは、論理的にあれがあって、こうなって、、、そこで、、云々、というのでなく、一目見てすべてがぱっとみれる、(無意識の意識)というようなもので、どこからでも話ができる。一方、体験も印象深い言葉も、ポイントが心身の中にニューロン・ネットワークで強く連携・確立されているというようなものだから、考えずに向こうから伝わってくる、答えが直観でわかる、、といったもの。
そこで本人はこの辺は簡単なのだが、いざこの内容を他人に説明するとなると、たとえば、自転車乗るのはどうしたらいいの、、と突然きかれても、、ちょっとこたえにくい、、、あるいは話が伝わらないというようにそこに初心者と名人のちがい・ギャップ、がある、ということになるわけだ。
だから、初心者に対して、時としだいによっては同じことを何度も言う、あるいは疑問に質問で答える、というようなことにもなるが、体験をもとにした(イメージ)記憶が違うから、話がすすまない、、、ということにもなりうる。
そこをみて、、松下さんがいうように、、まず熱意を持て、成功すると信じろ、、云々となるわけだ。 また、大拙がいうように、答えは自ら見出さなければ自分の(身についた)答えにはならない、というわけだ。
ーー
ところで、ここまでのところ、サーフィンして(波を待ちながら)考えたのはせいぜい数分
つまりかんがえたのでなく直観で上で言ったポイントのメモリーの連携が見えた、というわけだ。
だからずいぶん長く書いたようだけど、はやいはなし、ポイントはむずかしいことではない、上のポイントを確認して、やるべきことを見出し、やるべきは、何事もショートカットせずに、丁寧にやればいいと思うわけです。
http://research.php.co.jp/matsushita/writing/writing1.php
と江口さんの「心はいつもここにある」のなかから調べてみた:
1954〜1972 12冊 −1954は60歳
1973〜1984 26冊 −1984は89歳
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
合計 38冊
ただし社員用とか文庫化などのものは除く。
ちなみに松下さんは、、1894に誕生1989に94歳で死亡
人間を考える、、、は77歳素直な心になるために、、、は81歳の作である。
60歳以降、、、とくに77歳以降、やたらたくさんの本をかいている。
ところで大拙について前に調べたことがあるが、、、
英語 日本語 合計
〜42歳:5 4 13
〜72歳:15 38 49
〜96歳:11 65 76
ーーーーーーーーーーーーーーーー
31 107 138
両者とも60歳以降に著作が断然ふえているようだ。なぜかというと、、、頭の中が整理され、いろいろな見方ができるから、あたかも絵をどんどん描くようにイメージがむこうからわいてきた、というようなことになったのではないかと思う。
例の孔子の
吾十五にして学を志し、
三十にして立つ、
四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、
六十にして耳に従う、
七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)をこえず
これで70ぐらいになるとやることなすこと、、書くこと、、が向こうからわいてくる、、というようなものなのだろう。つまり、その辺の年になると、社会のニーズが手に取るようにわかり、自らのたくわえ(いろいろな体験メモリーなどが整理されている)が、いかにつながるか、ということで、、ようは智慧がおのずから働いて、このような著作(量)、、、になったということと思う。
自己を進めるのではなく、これだけは言っておく、書いておくというふうに、そう、天命というような働きがおのずから然りで、そうさせたということだろう。
* 注意しないといけないと思うのは、木を見てもわかるように若いときは柔軟でも、歳を取ると枝は硬くなり、もろくなるが、これはニューロンのネットワークの柔軟性にもつながる可能性があると思う。一般には年寄りは繰言がおおいというふうにも聞くが、赤子のような素直なこころが大事というわけだ。(→このへん気をつけたいところだ。中山正和さんが言ったが、やはり禅の公案を解説書を読まずに解くということなも心がけるべきだろう。それと、、ヴィパッサナは体から心のマッサージ。公案は心から体のマッサージ、ということかもしれない。)
(カッコ内は私なりのコメントです)
失敗の多くは、成功するまでにあきらめてしまうところに、
原因があるように思われる。
最後の最後まで、あきらめてはいけないのである。 (→精進)
---------------------------------------------------------------------------------
石の上にも三年という。
しかし、三年を一年で習得する努力を怠ってはならない。 (→智慧)
---------------------------------------------------------------------------------
いかにすぐれた才能があっても、
健康を損なってしまっては十分な仕事もできず、
その才能もいかされないまま終わってしまいます。 (→バランス感覚)
では健康であるために必要なことは何かというと
栄養であるとか、休養とかいろいろあるが、
特に大切なのは心の持ち方です。
(→素直、熱意)
命をかけるというほどの熱意を持って仕事に打ち込んでいる人は
少々忙しくても疲れもせず、病気もしないものです。
---------------------------------------------------------------------------------
こけたら、立ちなはれ。 (→忍耐、反省)
---------------------------------------------------------------------------------
「天は二物を与えず」と言うが、
逆に「なるほど、天は二物を与えないが、しかし一物は与えてくれる」
ということが言えると思う。
その与えられた一つのものを、大事にして育て上げることである。 (→丁寧に、育てる)
---------------------------------------------------------------------------------
すべての人を自分より偉いと思って仕事をすれば、
必ずうまくいくし、とてつもなく大きな仕事ができるものだ。 (→謙虚、我をはらない)
---------------------------------------------------------------------------------
現在与えられた今の仕事に打ち込めないような心構えでは
どこの職場に変わっても決していい仕事はできない。 (→ふらふらするな!)
---------------------------------------------------------------------------------
たとえ平凡で小さなことでも、
それを自分なりに深く噛みしめ味わえば
大きな体験に匹敵します。 (→丁寧に味わう)
---------------------------------------------------------------------------------
とにかく、考えてみることである。
工夫してみることである。
そして、やってみることである。
失敗すればやり直せばいい。 (→失敗したらやり直す)
---------------------------------------------------------------------------------
どんなに悔いても過去は変わらない。
どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。
いま、現在に最善を尽くすことである。 (→最善をつくす)
---------------------------------------------------------------------------------
人の心は日に日に変わっていく。
そして、人の境遇もまた、
昨日と今日は同じではないのである。 (→日に新た)
---------------------------------------------------------------------------------
悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。
おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。
あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。 (→あせらず、丁寧に)
---------------------------------------------------------------------------------
人類の生命は無限。
だからその未来は無限。
だから、まだまだお互いに進歩しなければならないのである。 (→道は無限にある)
---------------------------------------------------------------------------------
冷静ほど、
大事なことはないのである。 (→冷静に!!!)
(この冷静=平静な心だね。→Awareness and Equanimity)
(智慧の出るもとだ!)
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失敗すればやり直せばいい。
やり直してダメなら、もう一度工夫し、
もう一度やり直せばいい。
http://www.earth-words.net/human/matusita-kounosuke.html より
なすべきことをなす勇気と、
人の声に私心なく耳を傾ける謙虚さがあれば、
知恵はこんこんと湧き出てくるものです。 (→なすべきをなす勇気+謙虚=智慧)
---------------------------------------------------------------------------------
まず汗を出せ、
汗の中から知恵を出せ、
それが出来ないものは去れ。 (→汗をいとうな)
---------------------------------------------------------------------------------
一方はこれで十分だと考えるが、
もう一方はまだ足りないかもしれないと考える。
そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む (→もう一歩のところでゆだんするな)
---------------------------------------------------------------------------------
万策尽きたと思うな!
自ら断崖絶壁の淵にたて。
その時はじめて新たなる風は必ず吹く。
(→智慧は絶対絶命に面して始めて出る)
---------------------------------------------------------------------------------
世の為、人の為になり、
ひいては自分の為になるということをやったら、
必ず成就します。 (→これは黄金律といったものだ!自利利他)
---------------------------------------------------------------------------------
人には燃えることが重要だ。
燃えるためには薪が必要である。
薪は悩みである。悩みが人を成長させる。 (→これ↓が思い出される:
「煩悩を薪と為し智慧を火と為す、是の因縁を以って涅槃の食を成(な)す」.
『涅槃経(ねはんぎょう)』. 要は智慧を出して、、、ということだね)
---------------------------------------------------------------------------------
人の長所が多く目につく人は幸せである。 (→というのも成長というのはうれしいものだ)
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人は、あるところでは卑劣に行動しながら、
別のところで高徳に振る舞うことはできないのである。
その些細な心の緩みやごまかしが、全体を蝕んでいくのである。
人は騙せても自分自身は騙せない。
(→歪を持った生き方は健康によくない)
---------------------------------------------------------------------------------
人は何度やりそこなっても、
「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。
---------------------------------------------------------------------------------
人生における成功の姿は、
予知できない障害を乗り越え、
自分に与えられた道を着実に歩んでいくことにあらわれる。
---------------------------------------------------------------------------------
多くの人々の、わずかな工夫の累積が、
大きな繁栄を生み出すのである。 (→たんたんこつこつ)
---------------------------------------------------------------------------------
楽観よし悲観よし。
悲観の中にも道があり、
楽観の中にも道がある。 (→一色じゃあないね)
---------------------------------------------------------------------------------
人がこの世に生きていく限り、
やはり何かの理想を持ちたい。
希望を持ちたい。
それも出来るだけ大きく、出来るだけ高く。 (→大きく健康に育ちますように:全機現)
---------------------------------------------------------------------------------
志低ければ、
怠惰に流れる。 (→自らに鞭打つ)
---------------------------------------------------------------------------------
仕事が伸びるか伸びないかは、
世の中が決めてくれる。
世の中の求めのままに、
自然に自分の仕事を伸ばしてゆけばよい。 (→自ずから、、然り)
=====
特にこれがぴったり:
>世の為、人の為になり、
ひいては自分の為になるということをやったら、
必ず成就します。<
ーー>まさに天命のポイント!
>人には燃えることが重要だ。
燃えるためには薪が必要である。
薪は悩みである。悩みが人を成長させる。<
ーー>悩みを智慧でのりこえる!!!
松下さんはこれを生涯やり続けたのだと思う。
人生には損得を超越した一面、
自分がこれと決めたものには命を賭けてでも、
それに邁進するという一面があってもよいのではないだろうか。 (→道は開ける)
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人間というものは、気分が大事です。
気分がくさっていると、
立派な知恵才覚を持っている人でも、
それを十分に生かせません。
しかし気分が非常にいいと、
今まで気づかなかったことも考えつき、
だんだん活動が増してきます。
(→悲観せずポジティブに)
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人間は本来働きたいもの。
働くことをじゃましないことが、一番うまい人の使い方である。
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他人はすべて自分よりもアカンと思うよりも、
他人は自分よりエライのだ、自分にないものをもっているのだ、
と思うほうが結局はトクである。
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何としても二階に上がりたい、どうしても二階に上がろう。
この熱意がハシゴを思いつかせ、階段を作りあげる。
上がっても上がらなくてもと考えている人の頭からはハシゴは生まれない。
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十のサービスを受けたら十一を返す。
その余分の一のプラスがなければ、
社会は繁栄していかない。
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商売とは、感動を与えることである。
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商売や生産はその商店や製作所を繁栄させることにあらず、
その働き、活動によって社会を富ましめるところにその目的がある。
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売る前のお世辞より売った後の奉仕、
これこそ永久の客を作る。
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失敗することを恐れるよりも、
真剣でないことを恐れたい。
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誠実に謙虚に、
そして熱心にやることである。
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人間の知恵というものは、
しぼればいくらでも出てくるものである。
もうこれでおしまい。もうこれでお手上げなどというものはない。
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虫のいいことは、
なるべく考えない方がいい。
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自分の仕事は、
人の助けなくして、
一日も進み得ないのである。
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アイデアを生むと言っても、口先だけでは生まれない。
これもやはり熱心であること。
寝てもさめても一事に没頭するほどの熱心さから、
思いもかけぬ、よき知恵が授かる。
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ここでは経営に関するものが多いが、、、二つ特に目に付いたもの:
>失敗することを恐れるよりも、
真剣でないことを恐れたい。<
この真剣、というやつ、、、誠という感じもあるが、ある種の厳しさ、生死をかけた、、という感じ、、、
あるいは絶体絶命を見る、という感じ、これがぴたっときまっているかどうか、ではないだろうか。
>誠実に謙虚に、
そして熱心にやることである。<
これは、なにをやるにしても、極めつけ、だろうな。無我、、というのでもいいだろう
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