「これで禅のすべてが尽きる」

 

― 尽きるとは尽きていないということ −

 

     HPに戻る:www.suzakijpn.has.it

または:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html

 

 

はじめに. 1

大拙いわく「これですべてが尽きる」. 3

「すうっと通る」「それでどうなのか」. 4

秋月龍眠氏の本から:「覚」と空病. 5

何を読んでもはっきりするわい. 7

尽きるというのは、尽きていないということ:大智と大悲. 8

ヴィパッサナと禅. 10

それでどうなのか. 11

終わりに. 12

 

付録―1 妙好人より:「馬鹿の大馬鹿」 13

付録―2 釈迦も達磨も修行中. 14

付録―3 浄土宗(真宗)からのチェック. 15

付録―4 弥陀の本願、真宗と禅. 18

付録―5 中山正和さん. 20

 

はじめに 

 

ふとしたことで手元にあった秋月龍眠氏の本「世界の禅者―鈴木大拙の生涯」を読んだら、あるところが目に飛び込んできました。そこには「ひじ外に曲がらず」の句で禅がはっきりした、「これですべてが尽きるではないか」という大拙の談が載っていました。 

 

この本は何年も前に読んでいたのですが、今回その話の流れを読むと、あたかも私の修証の過程を見るようであり、「ああ、そうだな」といった感じがありましたが、不思議なことに、もはやこれといった大きな感激はありませんでした。

 

大拙の場合は無字の根源に徹したのが渡米前の臘八の接心。(1896年ごろ)そのあとラサールで「ひじ、外に曲がらず」に契当して大悟したのが明治31年ごろ(1998年ごろ)とあります。

 

私の場合、見性に相当する体験(バンガ:ヴィパッサナによる存在の根源の体験)2000年11月、(http://www.geocities.com/suzakico/vipassanareport.html に英語ですが体験の経過、内容が書いてあります)、

そのあと大拙のいう大悟に相当するとおもわれる体験が20073月ごろにありました。(http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html これは日本語で私の「体験」の内容を透脱、鏡の心、に絡めて書いてあります)

 

「ああ、そうだな」でとめておいて、さらにここになにかを書くという意味はあまり感じなかったのですが、すこしたって、やはりひとつの区切りをつけるためと、十地経との関連で大智・大悲の働き(発菩提心;四弘誓願、、、)への橋渡しの意味からも、ここにまとめをしておこうと思いました。

 

ただ注意したいのは、体験を話す、あるいは書き物に残すと、それを読んだ人が、たとえば悟りに迷うというように体験あるいはそれを書いた言葉(のイメージ)を追っかけるという可能性があります。こればかりは追っかけるとつかまらないにもかかわらずです。また言葉で何かを書いて話を伝えようとすると、その言葉の指し示す体験(境涯)とのつながりがうまくできない場合、これもつまらない議論あるいは疑惑などに落ち込むことがあると思います。この辺は難しいところですが、秋月氏がこの本を書いたように、少なくとも読むものの進むべき道を確認するというポイントでは、意味はあると思うし、確認ということでなくても法にそった道を歩むための何かのヒント、きっかけになれば、それはいいとしないといけないのでしょう。

 

釈迦の悟りを開いたときの言葉で「奇哉、奇哉 一切衆生皆倶如来智慧徳相 只因妄想執着不能証得」(奇なる哉、奇なる哉、我れ心の眼を開いて見れば、山川草木は悉くすでにさとり、一切衆生は悉く仏性をもっていた。ただ妄想、執着のためにそれを証することができない)というのがありますが、ここにありますように、妄想、執着のために、、、下手をすると言葉に引っかかってむしろああではないか、こうではないかと迷いをかもし出すところでもあり、注意が必要と思うものです。

 

また、ここを道元にいわせれば、「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」(大悟)であり「悟上に得悟する」か、「迷中になお迷う」か(現成公案)ということでしょう。大涅槃経で釈迦が言う「私は法の道を歩んだ」という意味あい(正理と法の領域のみを歩んできた。−p。150岩波)、これが基本であり、すべてだと思っております。

 

いずれにしろ、ここに書いたものが何かの縁でここを訪れた人のご参考になれば幸いです。

 

                                                                  2008510日  洲崎 清記

 

大拙いわく「これですべてが尽きる」

 

以下、秋月龍眠氏の本「世界の禅者―鈴木大拙の生涯」p。149〜より:

 

『鈴木先生の場合、「アメリカに行けばもう参禅できぬ、、、」というせっぱつまったとき、いわゆる「窮すれば変ず、変ずれば通」じたのである。すなわち、、、「自他不二」の天地と一体の自己を体得したのである。

 

先生は語られた「アメリカにわたる前の年の臘八の接心で、まあ“これだ”ということがあったわけだが、そのときはまだ無我夢中のようなものだった、というてよい。アメリカへ行ってラサールでなにかを考えていたときに「ひじ外に曲がらず」という一句をみて、ふっと何かわかったような気がした。“うん、これでわかるわい。なあるほど、至極当たり前のことなんだな。何の造作もないことなんだ。そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ、不自由(必然)が自由なんだ”と悟った。。。

 

それからは何を読んでもはっきりするわい。いままでとはまったく別の境涯が出てきたわけだ。。。森本(省念)さん式にいえば“無字がつぶれて”そういう形でそのとき改めてわしの自覚に入ってきたわけだ。。。」

 

先生はまた別の機会に、私の問いに答えて、みずからこの「ひじ、外に曲がらず」の句を説明して、「外から客観的に見る限り、人は業の支配から逃げられない。いわゆる“不落因果”で“因果歴然”の世界、必然の世界がそこにある。しかしこれを内面から見るというと、ここに超然とした那一著が厳存する。その必然の中に“自由”の世界があるのだ。いわゆる“不昧因果”で、そこに真の自由の世界、主体的創造的な世界が開けてくる。ひじは外に曲がらないー“花は紅で、柳は緑”だというのだ。まことになんの造作もないきわめて端的な、それはまったく自明の真理なんだ。“なあんだ、当たり前のことじゃないか”そこに臨済の言う“黄檗の仏法多子なし!”という仔細がある。ひじは外に曲がらないところに、その不自由な必然のところに、真の自由があるというのだ。。。西田のいわゆる“行為的直観”の立場から言うと、そこに本当の“自ずから”なる自由がある。

 

キリスト教でも、神の僕の信仰に徹したとき、そこに“キリスト者の自由”があるというだろう。真宗の妙好人の立場もそこからだ。室内で“無字”を見たときよりも、ラサールでこの体験があってから、ほんとうに“禅”がはっきりした。これですべてが尽きるではないか!」と力強く結ばれた。

 

これを筆者流に解説すると、このとき始めて先生は“真に”「無字」を徹見し、いわゆる「無字の根源に徹せられたということができる。しかし、ここではまだ先生の悟りは「大智」の面が強くて、後年先生が口を極めて主張される「大悲」の面までは、まだ徹しておられない。

 

ちなみに「ひじ、外に曲がらず」の句は、、、円覚寺の接心での見性体験の更なる徹底として現れたものであるが、先生自身後に解説されたところでは“自由”と“必然”の「絶対矛盾的自己同一」であり、すなわち先生が後年に「即非の論理」として思想的に表現されるにいたる原体験の、若き日のより端的な言詮として注目すべきであろう。』

 

 

「すうっと通る」「それでどうなのか」

 

ここで一息いれて上の文をもう一度みると、、、すべてがちゃんとすんなり通るのです。まあ私の場合何年もかけて大拙の書いたものなどを読んでいるから、上でいう意味あいがあたかも木の根っこのように微細なところまでつながってくるというようなものなのでしょうが、それだけでなく、いろいろな公案や禅林句集の言葉、祖師方の言葉、ヴィパッサナでの表現も、中山さんのHBCモデルも、友人Wilbroさんのガイドも、西田の絶対矛盾の自己同一も、妙好人の言葉も、お経の言葉も、みな一緒にすうっと通るのです。

 

透脱、鏡の心、大円境智、全機、ありがとう」と題して、ここ→ http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html に、私の「体験」の内容を透脱、鏡の心、に絡めて書きましたが、そのときにそれまでばらばらになっていたものがある契機に、ぴたっときまったように、上の「これで尽きる」というのが、そのままにそうだ、という具合です。*

 

そして「すうっと通った」感じが、「ああそうなんだな」「ごくろうさん」といった感じと一緒になって、だからうれしいということでもなく、(というのもうれしいという当体が“いて・いない”わけですから)ただその境涯にじっといる、といった感じで、「そこ」にじっとしていると、大悲が沸いてくる、、、というかなにか不思議な力が「私」をとうして沸いてくる、あるいは私がそれを共有するといった境涯にいるのを感じます。これはまた私の存在の深みからの働きを感じるということで大拙に言わせるなら、無分別の分別の意味あいでしょう。つまり第一義からの連絡が(そのときは)できているということです。

 

それともうひとついえるのは、「だからどうなのか」あるいは「それでどうなのか」ということですが、この「境涯」をもって(静中の工夫の進めながらも)動中の工夫をとことん進める、つまり法の道を歩む、ということに尽きるということになるのでしょう。 (もっとも、ここをこまかくいうと尽きているということは、それこそ即非で「尽きてない」ということで、そこからいろいろな働きがでるわけですが。。。それはひとまずおいておくことにします。)

 

 

* 2007年のニュージーランドの旅のジャーナルでの書き込み(21719日):

 

湖畔にて、柳の影の星明り。

星明り、無の爆発する音を聞き。

 

私は風。

私は水の音、鳥の声。

空の星、山の岩。

川にすむ鱒。

風に揺れる草の穂。

透き通って、輝いて、

燃えている。

 

http://www.geocities.jp/suzakicojp/NZ3.html

 

秋月龍眠氏の本から:「覚」と空病

 

ということで、さらに秋月氏の本からの引用を進めます (P.153〜):

 

『これは先生自身の明確な禅意識の第一歩であった。。。

およそ見性とは何人にとっても、まず平等無性の経験として意識される。なぜなら、われわれはそのとき始めて差別有相の経験界のほかにこういう「法身無相」の世界があることに契当するからである。「自性すなわち無性」と悟るのがそれである。そのとき人はともすれば、この「無性」に執着し。いわゆる「平等」の見に堕して「法身金鎖の難」に陥るをまぬがれない。そこで正師は、この弟子の法執をとらんがために苦労する。さらに「百尺竿頭に進一歩」せしめて「平等即差別」「無性即因果」の理に徹しめんと努力するわけである。

 

鈴木先生はアメリカで師なしで、自らの現成公案によって、このことを一人で行じられたわけである。ある禅匠は修行者が「無」字の公案になりきって“大死一番”するとき、“無をなぜ無というか”と拶して、“絶後に蘇息”させるのを常とされた。この拶処で打成一片の大死底から“一気吹き返す“ところに真に「禅的絶対主体」の確立があるというわけである。そこに真の般若の自覚がある。ここまできて始めて本当の“悟り”(覚)といえるのである。』

 

――

 

上の記述で思い出すのが愚さんとの対話です(HPに載せてあります)。何回かの対話のあと、すでに空病についてというファイル(http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kuubyou.html )にまとめをしたのですが、上の『「平等」の見に堕して「法身金鎖の難」に陥るをまぬがれない』という記述がやはり当てはまるように見えます。

 

愚さんはその後、禅というヤフー掲示板のトピで「空病になったらいいではないか」とまで言ってましたが、まさに「法身金鎖の難」といった感じで、私との対話ではどこにも行かない(行けない)ところまで行ってしまいました。この辺は物騒なところなので、興味のある方は「空病について」のファイルをご参考ください。

 

ただ上の秋月氏の文を読んで面白いとおもったのは、『“無をなぜ無というか”と拶して、“絶後に蘇息”させる』というところです。これが大拙だと、上で言ったラサールでの体験、私の場合はこれも上でいった2007年のニュージーランドでの体験(もっともそれ以前にもその「感覚・直観」はありました)につながるようなのです。十地経だと第1地の初歓喜地から展開した第6地の現前地(直面している境地という意味)に相当するようでもあります。(http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html#_Toc193952116 参考)

 

「それからは何を読んでもはっきりするわい。いままでとはまったく別の境涯が出てきたわけだ。。。森本(省念)さん式にいえば“無字がつぶれて”そういう形でそのとき改めてわしの自覚に入ってきたわけだ。。。」というところで、これは「無字がつぶれる」というのも同じ意味あいでしょう。

 

また、これに関して、同じ趙州の無について愚さんとの対話で「あるでもないでもいいではないか」とか、「まだ先がある」とか(最初の対話)、そのあとの対話でも「外にでるでない」など私がいろいろな角度から言った内容が、上の“無をなぜ無というか”というポイント、つまり平等の見に堕しない、つまり「無字がつぶれる」と同じとみえるのです。これは少林窟の井上老師との話でも出ましたが、今にもとどまらない、無にも、平等にも,空にもとどまらない→中道、というポイント、つまり智慧を働かせて「人」として法の道を歩むというのが出てくる、すると動中の工夫でも対機説法でもなんでもこなせるようになると見ます。

 

(この辺は往相、環相、大拙のいう円環運動、カビールのブランコ、色即是空・空即是色、平等即差別、不落因果・不昧因果、エッカートの目などにつながるところですが、とりあえずそれはそれとしておきます。ただあえていうなら、往で(無を見て)ひとまずご苦労さん、ありがとう、環で(無我がつぶれて)つなぎができてさらにご苦労さん、ありがとう。そのあと大智大悲を働かせて(というか、大智大悲が沸いてきて)、現在進行形でさらにさらにご苦労さん、ありがとう→中道といった風に感じます。)

 

何を読んでもはっきりするわい

 

>「それからは何を読んでもはっきりするわい。いままでとはまったく別の境涯が出てきたわけだ。。。」

 

という大拙の言葉にもどって、これは確かにそのとうりだなと思えます。つまり、先に言ったように、

 

>いろいろな公案や禅林句集の言葉、祖師方の言葉、ヴィパッサナでのねらいも、中山さんのHBCモデルも、友人Wilbroさんのガイドも、西田の絶対矛盾の自己同一も、妙好人の言葉も、お経の言葉も、みな一緒にすうっと通るのです。。。というところです。

 

過去数年、ヤフーで作ったいくつかのトピでの調べはこの修証の意、つまりすうっと通るということの確認であったのですが、この機会に思いつくままにいくつかの例をここにあげてみます。

 

―公案 

無門関で第一則、趙州無のあと第二則、百丈野狐、が出てくるのが、うまくできているということ。。

趙州の相手によって仏性無しと仏性有り(真字正法眼蔵)とこたえる意味あい。

 

―禅林句集の言葉、

好きな言葉で「竹影掃階塵不動 月穿潭底水無痕

 

―祖師方の言葉、

趙州「真っ先に地獄に落ちる」 

 

―ヴィパッサナでの表現

Awareness and Equanimity (後述)

 

―中山さんのHBCモデル

「無意識が働いてしかも(あるを)意識しなければなりません。」

 

―友人Wilbroさんのガイド

ついに到達すべきところに至り、真の自己に出会い、悟ったなど、という思いは前にいった問題状況のあり方の再構成をするということであり、それとともに『観想の状態』は消えてしまうのです。

 

―西田の絶対矛盾の自己同一

煩悩即菩提、横っ飛び、あるいは頓の意

 

―妙好人の言葉

「煩悩を残してくれてありがとう」

 

―お経の言葉

維摩経「衆生病む、ゆえにわれ病む」、「法を求めるものは、求めてはならない」

 

―そのほか

カビール「有心と無心の間にブランコがある

大拙「エッカートの一隻眼は内とそとを一目に見る。。内とは心であり、外とは万物である。あるいは内は神であり、外とは自己である」

中山「公案は解くばかりが能ではありません、何のために解くのか?その本義を忘れてはならない。」などなど。

 

 

ただし「何を読んでもはっきりするわい。いままでとはまったく別の境涯が出てきたわけだ。。。」、あるいは「すうっと通る」はそれとして、、、そう思い込むとこれがまた引っかかりに成るというのはよく身に知らしめてないといけないでしょう。つまりあくまでもその「働き」を現在進行形で進めるということ。あくまでも「釈迦も達磨も修行中」です。

 

尽きるというのは、尽きていないということ:大智と大悲

 

ということで、ここでもう一度、前述の秋月さんの文にもどって、大智と大悲に焦点をあててみます。:

 

>これを筆者流に解説すると、このとき始めて先生は“真に”「無字」を徹見し、いわゆる「無字の根源に徹せられたということができる。しかし、ここではまだ先生の悟りは「大智」の面が強くて、後年先生が口を極めて主張される「大悲」の面までは、まだ徹しておられない。

 

つまり、「すべてが尽きている、、」はいちおうはいいとしても、人として生きるべく法の道は「尽きていない」、(即非)ということです。これはだいぶ前から私が感じていることですが、悟りというものは現在進行形でなければ何の意味もない、大智大悲が日常に働き出なければ、何の意味もないという意味です。

 

空病あるいは悪平等の場合も同じですが、何でも尽きている、となると、白隠が言うように「もはや悟った大隙(おおびま)あいた おらはこれから心の儘じや 殺生偸盗(せっしょうちゅうとう)も気遣(きづか)いないぞ 五逆十悪、好ひなぐさみよ 因果むくひも無ひからと邪見断無のわがまま悟り よその見る目も恐ろしや 励み求めし見性の法は いまは地獄の種となる」ということではまずいだろうというわけです。(→ですからたとえば「嫉妬して人殺しをするかもしれません」(愚さん)ではどうかということです)

 

見性ばかでは乳房(ちぶさ)が細ひ 細ひちぶさじゃ好ひ子は出来ぬ よい子なければ跡絶へる 隻手音声もとめ得ておいて ここで休すりや断見外道」とも言っています。

 

一方、十地経を見ると第一地の「見性:宗教体験」をしたあと第二地の離垢地で「十悪」がちゃんとでてくるのですが、白隠がこの十悪を上で戒めているというのが、さもありなんというところです。悟後の修行が大事というわけで、これは基本的には戒定慧のプロセス、中道ですが、道を深めるという意味あいでは、ひとつには十地経がそのアプローチを示しているように受け止めております。つまり、これは当たり前ですが道に終わりはないということです。

 

ところで大智も大悲ももともとある働き(仏性:法)でしょうが、大智が深まると、大悲が自ずからどんどん沸いてでてくる、というふうに私は感じております。

 

このポイントをよく表している言葉で大拙のよく言った言葉(もとはフランスの箴言ということ)があります。いわく「すべてを知るものはすべてを許す」。大拙は「これがわかれば、あとは何もいらない」とまでいっています。

 

また最近思い至ったものにキリストの言葉があります。それは彼が貼り付けにされるに際して言ったという言葉ですが、「Forgive them for they do not know what they are doing.」(許しなさい、彼らは何をしているのかわからないのです)というものです。

 

釈迦の悟りの言葉:「奇哉、奇哉 一切衆生皆倶如来智慧徳相 只因妄想執着不能証得」(奇なる哉、奇なる哉、我れ心の眼を開いて見れば、山川草木は悉くすでにさとり、一切衆生は悉く仏性をもっていた。ただ妄想、執着のためにそれを証することができない)と比較すると、上のキリストの言葉は、あるいはその先をいっている(→大智・大悲)のではとさえうけとられます。無論、釈尊の場合はこのあと梵天勧請→初転法輪、、、と進むわけで、いろいろな形で大智・大悲が現われ出たということでしょう。

 

 

ヴィパッサナと禅

 

ここで上で言ったこととヴィパッサナがどうつながるのかについてすこしだけコメントをしておきます。まずはゴエンカ氏の言うバンガの説明です。私はこれを見性に照らし合わせて「ヴィパッサナによる存在の根源の体験」と表現しました。

 

Solidified, intensified emotion and solidified, intensified sensation both dissolve into nothing but vibration.  This is the stage of Bangha – dissolution – in which one experiences the ultimate truth of mind and matter: constantly arising and passing away, without any solidity.

 

(そのとき凝り固まったあるいは強い感情ないし感覚は微妙なヴァイブレーションとなって溶けてしまう。これがバンガー―溶解―というもので、そのとき心身の究極の真実を体験することになる。つまり、そこには凝り固まったものはまったくなく、常に(ヴァイブレーションが)湧き出てあるいは消え去っていくのみである。)

 

This bhanga is a very important station on the path, because only when one experiences the dissolution of the mental-physical structure does attachment to it go away.  Then, one become detached in the face of any situation.  (p.92-3 The Discourse Summaries of S.N. Goenka)

 

(このバンガというのは法の道を歩む上でとても大事な段階である。というのも、この心身の枠が溶けてしまうという体験によってのみいわゆる執着が(その根っこから)消え去るのだ。これによってどんな状況におかれても執着しない(こだわらない)ということができるようになる)

 

最初のパラグラフは応無所住而生其心、あるいは桶のそこが抜ける(→見性)を、二つ目のパラグラフは心身一如と、私の言う鏡の心を指し示していると思います。またヴィパッサナではAwareness and Equanimity、つまりなにがおこっているかを知覚し、それと同時に平静さをたもつ、といいますが、ここで気づくのは、この表現はまさに鏡の心(→大円鏡智)を指し示していると見えるわけです。

 

「すうっと通る」というのの例ですでに言いましたが、禅林句集の「竹影掃階塵不動 月穿潭底水無痕 (ちくえい、かいをはらって、ちりうごかず。 つき、たんていを、うがって、みずにあとなし)の表現はこれとまさにぴったり、といった感じです。

 

ついでに、これは神秀「身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し。時時に動めて払拭し、塵埃を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ」を通り抜けて、慧能「菩提本(もと)樹無く、明鏡も亦(また)台に非ず。本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹かん」とぴったりといった感じでもあります。

 

ヴィパッサナの体験でありがたいのは、もっとも禅でもなんでも本来同じはずですが、こういうのが理屈でなく体()から考えずにわかるというところです。智慧の光が内から照らすという感じ。またそうでないと、動中の工夫におっつかないというのはいうまでもありません。知的にわかったと思っても、身につかない限りはなんともならないのです。

 

そういう意味で、公案、止観、只管打坐、妙好人、お経、、、など、いろいろな角度から調べを入れるというのは、智慧を働かせ(→修証)物騒な問題を回避するという意味もありますが、いわばともすると気づかない、こころの影の部分もチェックしながら確認しながら進めるという様な意味で時間はかかるものの(こればかりはいかんともしがたい:丁寧に、丁寧に、、!!)知行合一を進める役に立つ様に思います。

 

それでどうなのか

 

ということで、ここで私として「それでどうなのか」をまとめておきます。

 

1)いろいろな角度から何年もかけてチェックしてきましたが、時間はかかったものの、こればかりは丁寧に進める(進まる)しかしょうがなかったようだし、これからもやはり「丁寧に!」ということ。

2)幸い、ここまで紛れはあまりないようで、幸い大きな問題に遭遇したということもないし、歩むべき道の方向もある程度みえるように思う。

3)また見えなかったらどうするかも、ある程度は体得しているように思う。。。つまり自ずから然り。ただし油断は禁物!!

4)禅もヴィパッサナ(止観)も共通の点はあるのですが、十地経などを調べると究極のところはヴィパッサナ一本で話が通るという感じがしますが、やはり大拙さん、そのほかいろいろな人が大事な道案内の役目を果たしてくれているということです。 

5)感謝、祈り、感謝、祈り!

 

要は、尽きるというのは尽きていないということで、動中の工夫をとことん進め、大智、大悲の働きが、「己の心に従って矩を超えず」というように自ずから然り、十地経でいうなら8,9,10地というように、、、進んでいくということでしょう。

 

また、これはそのとうりだと思うのですが十地経にこうあります:

「そして菩薩は一刹那も道の成熟から離れない。歩いている時も、たっているときも、座っている時も、寝ている時も、夢の中でもこの完成から離れない。

 

さらに菩薩は第一地から第七地までの過程をすべて省みて、自己反省をしています。しかも第一地から第七地までのすべての菩薩行が、今度は第八地から第十地までではなくて、究竟際まで、ずっと果てしないかなたまで、無功用に完成されなければならない。ということは、決して第十地では終わらないということを意味しています。」 

 

つまり、従来からやってきたチェックアンドバランス、調べ,修証は今後もおこたらないようにというように思います。いろいろと状況が変わりますつど、それまでの経過に安堵する、ないし傲慢になるなどということなく、元を何度でも何度でも丁寧に確認して進むということだと思います。大智が進むと大悲が沸いてくるという感覚はありますが、ここへんのところは、いかんせん先走りするということなく、それこそ自ずから然りで、、、進めたいと思っております。

 

ということで釈尊の臨終の言葉の確認をしておきます:

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』」

 

終わりに

 

もともとネットでHPを設けていろいろな調べをまとめていく、あるいは掲示板あるいはトピを作って何かを書いて載せるというのは、まず自分自身に誠実でありたいという願いと、書き物にしておくといろいろコメントもいただけるだろうという思いで始めたものです。そうは思っても(ここで話しは飛びますが)たとえばウチのワイフにお前は傲慢だといわれることもあるわけですから、ここでもそういうふうな感じで受け取られるかもしれません。

 

どこかで縦と横ということを書きましたが、縦を法にそった生き方に誠実にありたいという軸、横を回りの人との対話など社会性の軸としますと、縦を中心に見るあまり、「自分」のことばかり考えていると見られることもあるのではないかと思いますが、気づかずにひょんな縁でこれを読む人に失礼をしなければよいがと願うばかりです。

 

私自身はこれからも、いろいろ参考になるものを検討し、私自身書いてきたものも見直しながら、知行合一をねらって道を歩みたいと思っています。

 

最後に、微妙なところではありますが、これを読まれる方がおられましたら何かの参考になれば幸いです。

 

感謝、祈り、感謝、祈り! 

May all beings be happy!

 

 

 

付録―1 妙好人より:「馬鹿の大馬鹿」

 

下のものは大拙の本、p。52−3「妙好人」からの抜粋です:

 

才市が楽しみや、なにがもと。

妄念のくよくよがもと、

これにできたが、なむあみだぶつ。

その故に、貴方たちでも、

妄念をみて、くやみなさんな。

くよくよみて、くやむものは、馬鹿の大馬鹿。

 

これは妄念のくよくよから、「南無阿弥陀仏」が生まれることを直説したものである。「くよくよ」にとらえられて、悔やんでばかりいて、これから一転機をつかむことのできぬものは「馬鹿の大馬鹿」だと喝破する才市。いかに自らの転換の鮮やかであったかを物語る。。。煩悩のゆえに菩提がある。菩提が得られても、煩悩はなくならぬ。妄念がなければ正念は生まれぬ。が、正念は必ずしも妄念のソウ絶を意味せぬ。妄念をそのままにして、しかもそこに正念がある。ただ妄念はその根っこを失ったということになる。

 

今までは、定着し、固結していたものが、急流に鞠を打することになったのである。正念は妄念を離れてあるのでない。菩薩は空を学して空を証せぬというも、その意はまた実にここにある。それで、妄念にくよくよするは「馬鹿の大馬鹿」であるが、妄念は人にわたせるものでない、それで、弥陀の誓願は自分ひとりだということになる。

 

――

 

以上が妙好人における煩悩即菩提の消息といえよう。

 

ついでに才市の言葉をもうひとつ、ふたつ載せておく。般若の智慧が光り輝き、大悲がはたらくさまを、言葉をついやすることなく、いとも簡単に書いているではないか。感謝、祈り、感謝、祈り!:

 

闇が月になることは、できぬ

月に、照らされ、月になる。

才市が仏になることはできぬ、

名号不思議にてらしとられて、

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ  (p。50−1)

 

あさましはなあ、あさましであっても、お慈悲があるからなあ、

そうしてお慈悲が即ち歓喜なのであるからなあ。

自分は邪険ものであっても、地獄ものであっても、

お慈悲のかたへ引かれているものなのだ。

それであさましがでたり、喜びの歓喜がでたり、

あれかと思えばこれ、これかと思えばあれ、

自分のほうという立場からすると、なんだかかんだか、

ちんぷんかんぷんで、わかりやしません。

が、このわからぬところで、この世を暮らしていく自分には、何もかもらくらくだ。

法のまっただなかで暮らす法縁にあった自分にはいづれもがらくらくだ。   (p。61)

 

 

                                              ― 2008年7月12日記

 

付録―2 釈迦も達磨も修行中

 

これは前述したところだが、もう少しつけたしをしておきたい。そうでないとなまじ悟ったとかいって禅者の独善といった、はなもちならないことにもなりかねない。知が進むと行とのギャップができるというところだ。

 

要はわかったということは、わかってないということ、という即非の論理だが、たとえ見性体験があっても、それにひっかかっていわば「原点」、素直な心をうしなわないように、と言う意味あいがある。「釈迦に会ったら釈迦を殺せ」と言う物騒なことばも、いわば頭で何がしかがわかって説明ができても、日常での行動が追いつかないという哀れな状況に陥らないようにという意味あい。

 

「釈迦も達磨も修行中」も同様。謙虚さ、素直さがなくなったら元の木阿弥。ほおっておくとつまらない心の癖(サンカラ)が作られ、視野をさまたげ、正しい判断、智慧の発現をさまたげてしまう。もともと心の癖はほおって置いてもできるものだから、それを日常、動中の工夫で処理し、(たとえばヴィパッサナのサティ、Wilbro氏の観想の方法など)また静中の工夫とあいまって、知覚を鋭敏に保ち、平静な心を失わずに、法の道を丁寧に進みたいところだ。

 

これを道元に言わせると「本証妙修」とか「修証一等」となるだろう。「妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。」とか『「道をみるもの、道を修す」知るべし得道のなかに修行すべし』ということ(弁道話)。あるいは「万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」(現成公案)である。

 

これらを要約すると、悟ったというのは悟ったということでない、というわけだ。そしてそこを「しっかりみて」ないと、いわば意識と無意識の連絡に歪ができ、万法すすみて自己を修証するという現在進行形の境涯から遠ざかってしまう。それだと「十地経を読む」というファイルに書いたが、「心の欲するところに従って矩を超えず」と言う境涯には程遠い、というわけだ。

 

                                              ― 2008年8月25日記

 

付録―3 浄土宗(真宗)からのチェック

 

以下のものはネットであったミチオさん(真宗)との対話で、禅にあまりなじみのないミチオさんに禅の修行の意味あい、自力と他力の意味あいについて、私なりの説明をこころみたものだが参考までにここにも載せておく。

 

一方、ミチオさんと対話をして思い至ったのだが、禅をある程度すすめたものはあるところで、真宗もしらべて見るとよいのではないかということ。(これは大拙の「禅→妙好人・真宗」、、という歩みとつながるところがあるようだ)

 

HPには別途、教行信証やミチオさんとの対話などのファイルをアップロードしたが、ひとことでいうなら、特に禅でいう「悟り」の「あり方」を、阿弥陀の本願と照らし合わせると:

 

1)大悲というものについての洞察がすすみ、、、底知れぬありがたさ、菩薩の誓願の意味あい、がふかまるようである。

 

2)一方、いわゆる禅者の独善、高慢、あるいは、体験を得たといって天狗になるようなもの、知に走りがちなものに対し、いわば仏教の多次元的、包括的、そして柔軟な見方がより深められるように思う。

 

いきつくところは、「すべてを知るものはすべてを許す」、、であろう。

 

――

 

(自力、他力というが)瞑想でも坐禅でも、公案でも
まったくはからわないところ、自ずから然り、を見ているのだよ。

ただただ、ただ、、、だ。

それが煩悩を断ぜずして涅槃を得る、と直につながる。

鏡の心でもいい。

それが悟りを、、とか体験を、とか、何かを、、、となると
狂ってくる。

だからバカみたいに簡単。

簡単すぎて苦労する。

修行と言うのは実は(何かを学ぶという)修行でないのだが、
何もしない、バカになれ、というのが出来ないのだね。

だから坐る、、、という、いちおうの形で押さえ込む。

ヴィパッサナでも背景は理論でおさえ、

あるがままをみる、というテクニックで進める。

ところが知にはしっていると。
それは、藁なのだけど、 (→おぼれるものは藁をもつかむ、、の藁)
後生大事にして、かえってとらわれてしまう。

そういうふうにしこまれてきたからね。
これも業だな。

だから、ただすわれといってほおって置くと自綱自縛で、
みんな一人相撲を取ることになる。

そこに自ら気づくかどうか、
これは知で追いかけても絶対無理。(笑)

そもそも計らわないというのは
自在であれ、と言うようなもので、
一生懸命そうなろうとする、そのことがすでに問題、、
これは自力だから。

自力で求めたら求まるわけがない。

自力でわかった、というのは
わかってないということ。

そこに気づくかどうか、
ということで、
絶対のはたらきに気づくかどうか、、

こんなことは理論では誰でもいえる。

問題はそんなレベルのことではない、と言うこと。

要は自力、、、絶体絶命、、、絶対の他力、、、
そこをみているのが禅。

ただいい加減なところで押さえが利いてないと、
物騒な、ばかばかしいのが出てくる。

みんなで悟り合戦、悟りごっこをする。

その一点において真宗は、大変にありがたいところを見ている、、
というのが私の感じるところであります。

まあ真宗においても物騒はあるのかもしれませんが。
そうあっても不思議じゃあないな。

知、はからいに絡んで、曲解というのが
おそらく出てくるのだろう。

これまた人間の業なのでしょう。

仏も無数、煩悩も無数、、、
ご苦労さん。

いやありがとう。。。

 

 

付録―4 弥陀の本願、真宗と禅

 

以下、「わが浄土観」:大拙全集6巻、p323-324より抜粋したもの。禅と真宗のつなぎが明確に表現されている。(別途まとめた「教行信証・禅・ヴィパッサナ」、と言うファイルにかいたものとつながっているようだ。http://www.geocities.jp/suzakicojp/kyougyousinnsyou.html )

 

 『一心、、は、、金剛経にいう

「過去心不可得、未来心不可得、現在心不可得」の不可得底を指すのである。。。

不可得底の無限の底には無限の動きを感ずる。。。

無限の動きをいだきながら、本体的には少しも動相を示さぬ。

 

一心は空でない、無限の働きである。

この動きを願とも悲願ともいう。

 

これは向こうから言えば弥陀の本願であり、

こちらから言えば凡夫の帰命である。。。

 

その動きとはいかなる性格のものか、、、

 

これを浄土論註のことばでいうと、

智慧と慈悲と方便と言うのである。

 

この三つの中、慈悲と方便とをひとつにして

大智大悲ーこれが一心だとみてよい。

 

この動き、働きと言うものには、知もなく巧みもない、、

と言うことを承知しておかぬといけない。

 

自然法爾で、阿修羅の琴のごとく、

鼓者も誰もいないで、妙曲が自然にそれからでるのである。』

 

ーー

 

ぴったし、ぴったし、

豈しいて是非すべけんや。

 

ぴったしぴったし、

そのままそのまま、

ありがとう。

 

やはり、そのとうり、

ちゃーんと、つながっているのだ。

 

つながっていないはずがない。

 

ただし、般若経は大悲、、があまり強調されていないようである。

 

往相的なところで手一杯。環相まで手が回らなかった、、と言うことかもしれない。

 

 

というところで、マザーテレサ、キリストはそこを突き抜けていた、、ということか。

やはり神業、、ということになるか。。

あの人、この人、
名人、神業、思い起こしてみるとみな向こうからの働きだわな。

えらいこちゃ。

やはり、悟りはなかった、、
とならないと、、
つまりとことん突き抜けていないと、

臨済なら、得たということは得たということでない、、

そして、「それ」が、、自ずから然りで、働きでないと、、、
にじみ出ないと、、、

独りよがり、独善、高慢、お子ちゃまの悟りごっこ、
と、こうなるな。

 

付録―5 中山正和さん

 

 

付録―3、4は真宗のもたらすありがたさ、大悲などについての洞察(→いかだはない)がおおきなポイントだが、自分のことで眼いっぱい、あるいは知に走りがちなものは、なかなかそういうところまで考えがいたらない(あるいは考えはいたっても日常気づかない)かもしれない。いわば声聞のような意味あいで、禅は大乗といいながら、やはり自分の頭の使いかい方をチェックする、というところから、と言うのが一般かもしれない。ヴィパッサナにおいてもメッタ(慈悲)の瞑想は10日間のコースならその最後においてのみ、やる、と言う意味あいがそこにあるのだろう。

 

そういういきさつがあったのだろうか、ふと中山正和さんの「道元さんの安楽説法」のでだしを読み直してみたのだが、最初の2〜30ページほどを読んでみると、ああ、中山さんやはり、ちゃんとわかっていたのだな、という再確認、、ということになった。

 

彼の場合は先ず自分を救うのが大事、といっていたのが思い出されるが、それにしても、彼なりにうまい表現で説明していたと思う。以下、適当にひろいだしてみる:

 

「仏道というのはな、ちゃんと目覚めていながら眠る方法を考えることなんやで」p。2

→これは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る。」につながる。

 

「夢中というたな。それが覚めてて眠ってた証拠や」p。3

→同上

 

「あるとないとを超越してしまうこと、、、あるとないを認めたうえで、その対立を対立でなくすることです」p。7

→これも同じ。絶対矛盾の自己同一。

 

「このように頭の理性から「いのち」の無意識まで、全部の脳を働かせることを「全機現」といいます」p。8

→知、、自己をすすめていたら、見えても見えないということになる。

 

「悟りを得ることが出来ても、いつまでもその状態でいられるわけではない、だから日常生活での修行を怠ってはならぬ」p。9

→これは動中の工夫、「正理と法の道をあゆむ」の意味あい。

 

「この法は、人々の分上に豊かに備われりといえども、いまだ修せざるには現れず、証せざるにはえることなし。(正法眼蔵・弁道話)」たとえ法を意識したところでそれを行動に表すことが出来なければ何にもならないのです。」p。12

→己の欲するところに従って、矩をこえず、、となれということ。

 

「無意識が働いていて、しかも「ある」を意識しなければなりません」p。18

→全機現!

 

などなど。

 

要は私のいう「鏡の心」につながるが、さらに気が付けば、その鏡は玲瓏な智慧の働き、、というのと、もうひとつ深いところにある大悲の働き、、が連動している、ということなのだろう。

 

尽きる、ということは、尽きるということでない、、、ということ。これはあたかもこんこんと湧き出る泉のように、無限の働きがそこにある、ということだ。

 

                                              ― 2009年12月10日記

 

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