西方法界さんとの対話

鏡の心、全機、道元、般若心経、定慧、動中の工夫など

 

* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it 

 

西方法界さんとの対話. 1

はじめに. 1

挨拶、いきさつ、そのほか. 2

山は山、水は水. 10

問題提起:[K10][K1. 10

足場の整理:[K12]とそれに対するコメント. 25

畢竟して何の用ぞ:[K1とそれに対するコメント. 32

あとがき. 48

 

はじめに

 

西方法界さんのひとりよがりの窓 http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/cat7633150/index.htmlという仏教ブログに2007年8月ごろ、いろいろなコメントをつけたことがきっかけになって、対話が始まりました。(注:私のコメントは、上記サイトの「宗教の窓のコメントという所にのっています。)

 

ここではそのときからの話しを受けて、西方法界さんの持つ問題点・関心事に対し私がコメントするというやり方で進めました。此処にのせた内容はその大部分が西方法界さんのサイトの「窓の外は空」というところにものっていますが、微妙なところもありますので、そのいきさつなどを含め、ここにもまとめておくことにします。(サブタイトルは流れにそって、感じで勝手につけたものです)

 

というわけで、このファイルは1)対話内容の整理の意味合い、のほか、2)不思議な縁で此処にこられた方の参考になれば、と願ってのものです。話しのいきさつで、禅に関する言葉が説明抜きにいろいろでてくるかもしれませんが、(興味があれば、Googleでチェックされるというやり方もありますが)ぱっと、直観で読んでいただくのもよいかと存知ます。ことによると、内容(の理解)と言うより、プロセスにも意味合いがあるということかもしれません。

 

対話はE−Mailで行いましたが、一部、必要ないと思われるところは削除した後、西方法界さんの了解を得たうえでここに紹介するものです。もしコメントなどありましたら、私のトピ主となっている掲示版、私のHPのゲストブック、あるいは、西方法界さんのサイトへコメントいただければ幸いです。

 

2007年10月6日 洲崎 清記

 

挨拶、いきさつ、そのほか

 

洲崎清様

 

西方法界です。ブログでは、いろいろお世話になります。

 

あらためて御挨拶致しますと、、、ブログをはじめた動機は、宗教ではなく、パソコンの記事でありました。本年初頭の時点で検索しても解決策のない事柄で、手許で解決したものが三つほどあったものですから、それを公開しようと思い至りました。ところが、そう思い立ってみると、私にはパソコンの記事など、そう書くべきものがなく、他方、この歳になってくると、自分のみで宗教を追求するだけでなく、なんらかの社会的役割を果たさなくていいのか、という従来からあった思いが自然と働き、それなら宗教を中心し据えたブログにしようか、ということになりました。

 

ただ、私の現状を申し上げますと、「究極的な体験」を欠いている、悟りなき悟り型であり、坐禅はしておりませんし、どこかに書いておいたと思いますが、四十代半ばくらいからは、宗教のど真ん中で生きているという意識は、はっきりと継続しているものの、書物的探求心がすっかり消えてしまい、しかもそれと平行して、悟れるなら悟りたいという気持ちはないわけではありませんが、他方で、悟っても悟らなくてもいい、というように思うようになっているふしがあり、一通りの人生問題に悩まされることも今はない、というような次第であります。

 

   [注]但し、ブログの中では、悟りを中心に据えなければならないので、悟りをめざすというスタンスになっています。

 

したがって、ブログを始めるといっても、「さあ、やってやるぞ」というような『はりあい』もなく、なんとなくズルズルとここまで来てしまったという感があります。また、この半年間を見ると、量的にはほんのわずかのパソコン記事へのアクセスが、ほとんどで(これが想像以上に多い)、宗教記事へのアクセスは極めて少なく(これがまた想像以上に少ない)、私のブログの存在意義はあまりないのかな、という感もあります。

 

とはいうものの、自分でもよくわからないのですが、そういった表面的な意識の動きの底で、ぼんやりとしてはいるのですが、太く揺るぎなくブログを続けているエネルギーのようなものがあって、それで今のところは自然と支えられているような気がしております。

 

そういう意味からすれば、洲崎さんから見られると、鈍く感じられ、面白みがないかもしれませんが、逆に打たれ強い面もあるかもしれませんので、ビシビシやっていただいて一向にさしつかえありません。ただ、私から見ますと、私が少し鈍いということを別にすれば、洲崎さんとは結構波長が合ってしまうことが多いのではないか、という気がしております。

 

はじめの自己紹介としては、こんなところでしょうか。質問して下されば、何でもお答えいたします。

 

今後とも宜しくお願いいたします。

 

2007年9月8日   西方法界

 

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西方法界様

 

電子メールありがとうございます。以下簡単にコメントします。

 

>悟っても悟らなくてもいい、というように思うようになっているふしがあり、一通りの人生問題に悩まされることも今はない

 

1)まず:此処は大事な所なので、念のためにコメントするなら、もっと丁寧にチェックされたらどうかしら。。?

 

2)そのチェックの結果、やはり上でおっしゃられたとうりに、自らうなずけるのでしたら、是は大変なこととおもいます。

 

つまり、ひとつには気づいたら悟りもなかった、というのが悟りかもしれませんよ。

 

3)というか、早い話、そんなものどうでもよくって、

 

>一通りの人生問題に悩まされることも今はない

 

でしたら、一丁、出来上がりでしょう?!

 

4)ということで、1)で言った「一通りの人生問題」、というのの具代的な意味が何かわかりませんが、感情に振り回されないのでしたら(あるいは振り回されても、それがそうと見えて、ほおっておくと消えてなくなるなら)西方法界さんとわたしの「人生問題の処理の仕方」は似ているかもしれませんね。つまり、それが苦集滅道!じゃあないでしょうか?

 

>自分でもよくわからないのですが、そういった表面的な意識の動きの底で、ぼんやりとしてはいるのですが、太く揺るぎなくブログを続けているエネルギーのようなものがあって、それで今のところは自然と支えられているような気がしております。

 

是面白いですね。

 

> そういう意味からすれば、洲崎さんから見られると、鈍く感じられ、面白みがないかもしれませんが、

 

ところがどっこい、です。むしろそういうところに不思議が現成しているのを感じます。(わたしも似たようなもので、日本語のHPと掲示版で4年以上たってしまいました。)わたしの場合は、他人様がどうかというより私自身の修業のひとつのあり方という事です。(ただし、人との出会いの面白さとか、そのときの雰囲気によって遊び心もあります)

 

(ブログでのコメント)ホームページの記事を、、順番通りではありませんが、四分の一ほど目を通したくらいのところです。

 

そんなにですか?!これはおそらく西方法界さんがダントツで読まれているんじゃないかとおもいます。なんでもいいのですが、是はおかしいとか、チンプンカンなところ(是はたくさんあるかもしれません。。。)あるいは抜けている所などあれば教えていただきたいです。

 

実は掲示版もHPも、ある程度の所に来たようなのでこの辺で別のことでも考えようか、と思うこともあります。

 

。。。。というところで西方法界さんへの質問は別にありません。あのとき以来、先を読み進めていないので、また機会があったら続きを読むかもしれませんが、いつになるか今の所不明です。

 

あれやこれや、、、成り行き任せでいくのがいいかも知れませんね。

 

よろしくどうぞ!

 

洲崎清拝

 

==

 

宗教に目覚めた初期の三十代半ば前後は、本格的参禅を目指して(=当時は、接心に耐えられるようにという意識)、それなりに座禅に取り組んだのですが、3〜4年やっても、私は体が固く、四、五十分座った後、10分位の休みを入れて、もう一度座り直すと、もう二十分ともたないという有様で、そのうち痔のけが出てきて、結局参禅を経験することなく、座禅をやめてしまいました。その後は自分で公案を調べたり、禅には反しますが、三乗の法でゆっくり進めばいいではないか、などと思いながら、四十代半ばを迎え、後は既にお話したようなことになりました。

 

のみならず、いずれ『メッキ』は剥がれてくると思いますが、私には「わかるということからいえば、まだすっきりとわからないことがたくさんあります。」そのわからないことが、多少でもわかっていけばいいではないか、という思いがある(わからないと、なんとなく癪にさわる、という性格か?・・・これもほおっておけばいいのでしょうが)程度で、それ以上には内面からエネルギーが湧きあがらなくなっております。

 

感情や苦集滅道についての見方もそういうことだろうと思っておりますが、果たして、どの程度実際にできているか、しているか、

はい、そうですと答えるのは、ちょっとはばかられます。

 

どれもこれも、はなはだ煮え切らない言い方で恐縮ですが、実際中途半端なのですから、お許し下さい。

 

ところで、一つお願いがあります。

私のブログの『窓の外は空』カテゴリー内の[K−2]内にあります【第一の足場】(青原惟信の「山は山・・・」)と、またそれと同内容である、【第三の足場】(正法眼蔵・現成公案の「諸方の仏法なる時節・・・」に関して、洲崎さんの解説・理解的なものを読んでみたい、という気持ちがあります。

 

私は、一面に形而上学的思想的理解にこだわる傾向があり、そちらから捉えていった従来の理解と、他方洲崎さんとある程度共有していると思われる理解をどう統一していったらいいのか、という点が、まだ不鮮明です。自分の中では、かなり混乱しております。本当にはわかっておりません。上記カテゴリー内の[K−2]〜[K−4]までは、他人が見て必ずしもわかるようには書いてないのですが、形而上学的思想的な方向から何とかすっきりできないか、という模索(=見当)で、これ自体当てにならないものです(書いたときは、結構わかったつもりだった)。しかし、そういう角度からではなく、というか、どういう角度でもかまわないのですが、洲崎さんが何か書いて下されば、たいへん参考になるという気がしております。

 

書いていただけるとすれば、すぐでなくとも結構ですし、どこにどういう形で書いていただいても結構です。

文字でわかろうとしてもダメだ、といわれてしまえば、それまでなのですが、一応お願いしてみようと思い立ちました。

 

なお、洲崎さんのホームページの記事についても、お言葉に甘えさせていただき、お尋ねさせて戴く際には宜しくお願いいたします。

 

2007年9月11日  西方法界

 

==

 

西方法界様

 

>実際中途半端なのですから、お許し下さい。

 

達磨の「不識」もありますからね。

それと「未完成の完成」に安心がありますね。

 

>【第一の足場】(青原惟信の「山は山・・・」)と、またそれと同内容である、【第三の足場】、、、

 

このへんせっかくのことなので、[K−2]はコメントの部分も含めさらっと読みましたが、既に書いてあることを追っかけていろいろ考え始めると、どうもこっちが迷子になりそうなので、一番いいのは簡単に(出来れば2〜3行に)煮詰めると何が問題なのかを教えていただければとおもいます。ただ、興味があるのは、これらに関してのわたしの見方という事のようですので、ご参考になるかどうかわかりませんが、また非常に大雑把ですが、「一方を証するときは一方はくらし」について最近あるサイトにコメントしたもの(投稿したもの)にこういうのがあります。

 

ーーーー

suzakicojp

チョッと違う「わかり方?!」かも知れませんが、「一方を証するときは、、、」は、いわゆる色即是空の一方づつを見ているというような気がします。

 

従って、「即」が鍵なわけで、これは「水と月」の例で言っているように、水は水、月は月、ではなく、本来は水と月の関係を見て取るべきところ、修行中はなかなかそこまで行かない。そこで「豊倹より跳出」しなきゃいかん、といったことを言っているようにみえます。

 

四智に、大円鏡智というのがありますが、この「鏡の心」つまり、いってみれば意識・無意識の、豊倹(有る無し)を跳出するのだから、無意識がはたらいて、しかも有るを意識しないといけないというわけです。(私のHPにこの辺に付いて調べを入れたファイルを乗せておきました。2007年前半ごろです。ご参考まで。)

 

洲崎 清拝

 

――――

 

ただ、これに対する反応はちょっと意外だったのですが、このはなしは愚さんとか少林窟の井上老師と話したときにわたしが感じた「難点」と似ているようでもあります。つまり、いってみれば空、即今、如、見性体験で、仏性の現成「奇哉!一切衆生皆倶如来智慧徳相。。。」(釈迦の悟りのときの言葉)というわけとおもいますが、どうもその体験を重要視しすぎてはいないか(つまり悟りにとらわれてないか)と言う感じです。大拙もいうように確かに悟りは禅の存在理由といっていいでしょうが、例の趙州がさらに参ずること30年、というやつで、そこからさらに引っかかりをとらないと、悟りくさいということになるようにおもうのです。(これは最近習った言葉でー上の。。。の部分、つまり:「只因妄想執着不能証得」にあたるかな?)

 

そこで今気づいたのですが、上の投稿では、

 

>色即是空の一方づつを見ているというような気がします。

 

と書くのではなくて

 

”色即是空「と空即是色」の一方づつを見ているというような気がします。”

 

と書くべきだった(自分ではそういうつもりで書いていた)かなともおもいます。

また言い方の難しい所ですが、最初の色(色即是空の色)と次の色(空即是色の色)は即非で意味合いが違う。すると、色全機というようなわけで活句をはたらかせよ、というところから例の趙州の「はたらき」がーありがたいことにーいろいろでてくるとみえるわけです。

 

いずれにしろ、(おなじことですが)、

 

>この生命に直入

 

したあと、その働きがどうなるか、あるいは

 

>全体生命に没入し

 

て、どうか?ということで、没入しただけだと、かえるがぼちゃん、と水にとびこんだまま、あがってこないのじゃあどうか、という感じがするのです。その働きはほっとけばいいようになるよ、というのなら、それはそれでいいかもしれませんが、この辺のいききをにらんだのが、中道(の意味合い)とみれるわけで、そこに良寛の「裏をみせ、表を見せてちるもみじ」あるいは「一方を証するときは、、、」のいわくいいがたい意味合いが見てとれるようにおもいます。まあ、簡単に言えば焦点の置き方の違いかな、ともいえるかもしれません。

 

→おっとっと、そうじゃない。もともとその焦点の置き方が問題だというのでこの話しが始まったんだった!(そうそう、ちゃんとー即非でーひっくり返さないと、全体は見えないのだ!)

 

洲崎清拝

 

(注:上の一方を証するときは一方はくらし」にからんだポイントは後にでてくる洞山の5位にかかわる所とも見られます)

 

==

 

洲崎様

 

早速にありがとうございます。

 

のコメントと今回の洲崎さんからの私へのメール、私の「窓のそとは空」における[K2]〜[K4]。

 

これだけで、いろいろなことがたくさんあり過ぎて、しかもそれをどういう順番でお話しすればよいか、ちょっとたいへんです。とりあえず、いかのことだけにとどめます。書ききれない事柄は、流れに沿って、折々に。

 

まず、最重要問題から。今回の内容では私の問題は充分解決致しません。洲崎さんがお答えいただけるということがわかりましたので、幸い、私は7月にお書きになられたばかりの「透脱、鏡の心、大円境智、全機、ありがとう」(注:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html )が、たいへんよくまとめられており、非常に気に入っております。これを使うと、私のわからないところを浮き彫りにしつつ、私の疑問点を洲崎さんにうまく説明していただけるような気がしております。

 

少し、私が検討する時間を戴いて、自分でどこがわからないところであり、どういうところをお尋ねしたいかを自分なりにしっかりまとめて、改めて質問致しますので、それまでお待ち戴けますでしょうか。そのための自分のなかでの整理も必要です。時間は少しかかるかもしれません。

 

愚さんや井上老師との対話も既に拝見しておりますが、言語上のやりとりに対する認識といいますか、姿勢のようなものは、私は洲崎さんの感覚とほぼ同じで、特に愚さんなどは、なぜ、もうすこし親切というか、こちら(洲崎さん)の話そうとしていることにきちっと乗ってきて下さらないのか、乗ることが問題なら問題だとおっしゃらないのかが、私にはよくわかりませんでした。

 

。。

 

以上、「透脱、鏡の心、大円境智、全機、ありがとう」と、私がまとめる質問という形だけでやった方が無駄がなさそうに思いますので、宜しくお願いいたします。

 

2007年9月11日   西方法界

 

==

 

山は山、水は水

 

(注:ここからは、西方法界さんが、私のHPの「透脱、鏡の心、大円境智、全機、ありがとう」

http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html を読まれてからの話・問題提起になります。)

 

問題提起:[K10][K1

 

洲崎様

 

  準備を進めて行ったところ、どうにも身動きのとれないところに陥ってしまいました。

 

 

「透脱、鏡の心、大円境智、全機、ありがとう」と私の感覚を材料にしながら、

青原の「山は山・・・」で、ひととおりの辻褄の合う理解を作り、

それを元ににして、洲崎さんにコメントして戴くようにしようという方向で

組み上げていったのですが、それで出来たものが現在「窓の外は空」内の[K10]にあります。

ところが、現在出来上がった骨格部分だけでも、洞山の五位と比べてみると、メチャクチャです。

まだ、にくづけすべきものを相当残しておりますし、そのにくづけすべきものをどうにくづけしたらいいのかも

混乱しており、完全に暗礁に乗り上げてしまいました。

 

[K10]をざっと御覧になって、お感じになられたことを簡単にメールで戴けませんでしょうか。

 

2007年9月15日   西方法界

 

==

 

西方法界

 

以下は[K10]のコピー。ところどころにわたしのコメントをカッコ内((。。。))につけておきます。

感じだけで書きますのでかなり無責任。主観の世界(あるいは主客同一の世界?!)の話となるかも知れません。これを妙の世界と取っていただければさいわいです。

 

ー洲崎

 

ーー

 

[K10](再参究)山は山、水は水

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           はじめに

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洲崎清さんに西方法界の記載のおかしなところにコメントを戴き、訂正・補充・展開していただくような形で、参究を進める。その際、洲崎さんの以下のホームページが土台に使われている。

 

「透脱、鏡の心、大円境智、全機、ありがとう」

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html 

 

なお、洲崎さんは、参禅ではなく、ヴィパッサナで見性体験相当の経験をされた方であります。

 

((→は気をつけないと問題をかもしだすかもしれません。体験は大事とおもいますが、それにとらわれると私自身を含め、どうにも厄介なことにもなると感じております。念のため))

 

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事前の関連事項(視野に入れて=頭の隅に引っかけておいて下さい)

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即非の論理は、「存在の論理」でもあり、また「自覚の論理」でもある(秋月「絶対無と場所」P141・P151・P214など・・・宗教情報の窓参照)。

そこで、以下の参究の過程で、「色即是空、空即是色」という言葉が出てきた場合には、

「自覚の論理」として問題にされていると思ってよい。

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また、下記のテーマにおける従来の参究[K2]〜[K4]では、二回(入処体験と休歇体験)ということを前提にしたが、通常禅では見性体験とだけ言われるので、この二回の体験という前提は、ここでははずして参究する。

 

((この見方は面白い所とおもいます。定慧と言う見方は充分ありうるのでしょう。また定即慧だと道元的かもしれません。言い方・聞き方の難しい所ではありますね))

 

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             参究テーマ

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〔パラダイム1:無明底〕  

((→通常の意識の働き。頭だけが働いて深みがない))

 

   『 老僧(わし)は、30年前にまだ禅に参じなかったときに、

         山を見たら山であり、水を見ると水は水であった。』(青原惟信)

 

       『 諸方の仏法なる時節 

             すなわち迷悟あり 修行あり 

             生あり 死あり 諸仏あり 衆生あり』(正法眼蔵・現成公案)

 

〔パラダイム2:入処(にっしょ)底〕 

 

((→般若心経だと、行深般若波羅蜜多時、、、無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。といったところでしょうか。即非の意味合いがここにあるようですね。一回とことん、ひっくり返す返るといった具合。だから是は意識の届かないところでの働きの体験。))

 

    『 そののち親しく禅匠に相見(しょうけん)して「一つの入処(にっしょ・見性体験)」

     があって、そのとき山を見ると

                山は山でなく、水を見れば水は水でなかった。』(青原惟信)

 

       『 万法ともに われにあらざる時節 

                まどいなくさとりなく 

                諸仏なく 衆生なく 生なく 滅なし』(正法眼蔵・現成公案)

 

〔パラダイム3:休歇(きゅうけつ)底〕  

 

((→無事はいつでも、何処でも無事でしょうから意識が働いているときにも、それが2でいう意識のとどかない所の体験(空、平等、無の体験)に裏付けられている。→つまり安心、無事、の状態。だから意識が働いていて、無意識の意識がその意識の立場を正しく、言わば智慧の眼を持って認識できるわけで、法に従った行い、見所が見出される。絶対矛盾の自己同一。困ったが困ったのまま、困ってない。。という困ったであるがまま・無事。→ああよかった、ありがとう。

 

これが般若心経だと、以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。 つまり、得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。))

 

  『 そして、今日「一つの休歇(きゅうけつ)の処(一切解決の無事の境地)」を得てみると、依然として山はただ山であり、水はただ水であった。』(青原惟信)

 

   『 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに 

                正滅あり 迷悟あり 生仏あり』(正法眼蔵・現成公案)

 

〔パラダイム4:愛惜棄嫌底〕  

 

((→これは業の根っこは深いよという意味合いとおもいます。3までいった人へ付録みたいなものでしょうが、3からの修証が大事と言うことを、つまりさらに参じること30年、の意見合いを指しているのではないかとおもいます。))

 

    『 しかもかくのごとくなりといえども 

           華は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり』(正法眼蔵・現成公案)

 

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                       参  究

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〔パラダイム1:無明底〕

 

 [西方法界]

      ここは、我々のごく普通の日常底です。富士山が見えると、山だ、と思います。

   それが、「山は山、水は水」ということで、全く理解の上では問題なし。

      現成公案の方も、むずかしい仏教語を並べているだけで、おなじこと。

 

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〔パラダイム2:入処(にっしょ)底〕

 

  [西方法界]

  [2−1]N

    ここからが問題です。

     ここは、いわゆる大死一番した見性体験で至るところとされていますが、その体験を欠く私からすると、坐禅の状態(定)の延長線上に見当をつけて描くことしかできません。描かれたものは、そのものではないわけですが、

     一応そこはお許し戴かないと、話はここまでということになってしまいます。 

 

((ここでこの定の意味合いがどうかという感じが少しあります。つまり、(A)普通に言う無心あるいは三昧と、、、(B)なんというか父母未生本来の面目との対面の体験、のちがい。(A)は(B)によって深まるというのがわたしの感じです。))

 

   [2−2]N

    その上で、ここは、ただ『ワンワン、チュンチュン』だけ、

    ただ一面の『ワンワン、チュンチュン』だけそれだけのところとします。主客未分、分別知以前のところですから、「ワンワンが聞こえる」ではダメ、「ワンワン、声が・・」もダメ。「ワンワン」ただそれだけ。「チュンチュン」ただそれだけ。「見たり聞いたりする私」もいない。見聞きする対象としてのワンワン、チュンチュンもいない。ワンワンを識別判断(分別)した犬もいない。

    チュンチュンを識別判断(分別)した雀もいない。

    だから、犬はまだ登場しない。雀はまだ登場しない。そこで、犬は犬ではなく、雀は雀ではない。山は山ではなく、水は水でない。その意味で、「真っ暗なところだ」といわれる。                       

 

    これが、自覚の論理としての「空」というところ。

         自覚の論理としての「色即是空」が現実化したところ。      

 

((空はいいけど即の意見合いこの時点ではでてこない(つまり定→慧に時間差がある)のではないかなむろん是はわたしの経験からの話しですが。。。3の時点であるいはその後しばらくたってから、気づくようにおもいます。))

 

    この意味では、「色即是空」は、無明底から大死底に至ったという程度の意味。  

 

((もういちど:こういう論理というか智慧は後で、ああそういうことかと気づくまでわからないようにおもいます。つまり2は意識の働いてない例えば犬の世界での犬の体験と言う感じです。))

 

       [注] 「宗教の窓」では、事柄をある程度対象化・実体概念化して扱った。

          ([S9]参照) しかも、対象化している以上「存在の論理」としての体裁は、具えている。そのレベルで言えば、Aだと思っていた(個としての)私は、実は非A、すなわち、無限の宇宙・永遠の命(あるいは、その現れ)である、と捉え、その無限の宇宙・永遠の命(あるいは、その現れ)=超個に成りきったところ、大死一番してそれになりきったところが、このパラダイム2だ、ということになる。    

 

((これは意識が2の体験の後、今まで見ていた、思っていた世界が何か途方もないものに裏付けられていた(←無論、そっちが表だよと言う見方もあります)という気づきがあり、それを言葉にすることはできないが、意識の働きがよみがえった時、その体験を仮に言葉を使って言うなら、「無限の宇宙・永遠の命(あるいは、その現れ)である、と捉え」られると言う具合ではないでしょうか))

 

            しかし、ここではそれではダメだ。ここはそんな対象概念を使うレベルより、もっと「そのもの」に接近しようとしているのだ。

「そのもの」は、不立文字・教外別伝の体験だから、

 

((「そのもの」は、不立文字・教外別伝の体験→しかり))

          

最終的には「そのもの」自体でなければならないが、ここでは、それを曲げてせめて言葉を使わせて下さい、ということで、しかしギリギリのところまで「そのもの」に迫ろうとするレベルで参究している。

           

        

   [2−3]N 

       [2−2]Nまでは、「体験」のない私でも書くわけですから、これから先のところに入ります。  

 

((書くのは良い。理屈を進めるのは良い。体験の裏づけが取れていればさらに良い))

    

実際の定(坐禅)では、上記のような「ワンワン、チュンチュン」状態と、主客や分別が出てきてしまう状態が混入するわけですが、

                

((この混入が明確になるかが修業の眼目。一筋縄ではいかない。そこで、定というのは混入のないとき、と見るべきで、それがある意味でしっかりした基盤(のない基盤)となったとき、混入→智慧を持った対応ができるようになる。座禅はそのためのもの、というのでどうですか?))

       

純粋な定の状態が続くに至ったとして、それと「体験」の状態とは違いがありますか。                                  

 

((ここ意味不明。定を体験と離してみておられるとしたらそれは何故??

 

それとも「純粋な定の状態が続く」のと見性体験との比較か?

もしそうなら、例えば道元の「坐禅=仏」の意味合いを探っているのでしょうか。

 

仮にそうだとすると、それは定と慧(あるいは悟り)の関係のはなしで、無事と言う意味から言うと定=慧でも定→慧でも同じようなものと割り切ってもいいようにおもいます。ちなみにわたしは毎日一時間ほど座りますが、たとえていえば、そこでいたる定の境涯は長年培った、あるいはその日に作った業の悪いニューロン回路を自然の自己組織性によって正す、といった意味合いもあるようにおもいます。いってみるなら、どかんとくるのが見性体験でしょうが、きめ細かく丁寧にほぐすというのもやはり大事かとおもいます。))

 

         おそらく、ここで、「覚」あるいは「見」がある、ということになる。

 

((「覚」あるいは「見」はそこでの色と空の構造、意識と無意識の「構造」がわかる、従って例の無事あるいは苦集滅道の「プロセス」が体得されるという意味とおもいます。そうでなくある種の体験、現象を持って悟りと見る人もあるようですが、それは私のみかたではおかしいだろうと思うのです。というのもそんなのは普遍性がないから。

 

さらにいえば、ある老師は「大拙の悟りはおかしい、彼はさとってない。というのも悟りとは彼いうように現れるものではないから」、などと言ってましたが、上に書いたように現象を追っかけてどうのこうのいうのはどうかとおもうわけです。

 

鐘の音で悟るとか、その後、飛びあがって喜ぶとか、いろいろありますが、そんなことは言わばどうでもよくて、あるいは人格に現れてない現象のみに重きを置いた悟りなんて、何の意味もないとわたしはおもいます。釈迦も達磨も修業中です(→修証一等)

 

ついでですが、あるとき中山さんと悟り談義をしましたが、彼はそういう「これ」と言う体験はしてないということでした。ところが彼の書くこと、言うこと、日常の挙動はわたしの目で見る限り、かなり深いレベルにいたっていたと見えるわけで、頭が下がるわけです。))

 

    洲崎さんの記述

《この見あるいは覚が、目覚めであり・・・・・透脱はもちろん身心脱落につながるわけだが、私なりの感じを表現すると、透脱はからだの中が透明になって、感情、こころの癖の働きがよく「見える」ということ。

・・・・・いってみれば透明な体に、意識の映像が映るというようなもので、・・・・

大拙の使っていた言葉で言えば、第一系列と第二系列の連絡、うちと外を一目でみるというエッカートの眼にあたるということだろう。》

 

((→是が智慧のでる場、境涯、全機現のあり方、自在のあり方、と見えるわけです))

 

主客未分・分別発生前の働きのところで自分という働きを「止」めて、その状態を保つことが「定」である、と考えられる。

 

((是が「自分という働き」を止めないでも、しかるべく・正しく見える、というふうに変わっていく。あるいは定のおかげで、自分が引っかかったなら、つまり我が出たなら、それがそうと気づく→対処しない対処ができる、智慧がでる、という風になるということでしょう。→動中の工夫))

 

この「定」というところは、第六意識のすべてを働かせず、受動的意識、すなわち、そこに映る状態をただ見つめるだけ・それ以上には働かせない状態である。

積極的意識、すなわち分別作用=認識作用・判断作用などを一切働かせない状態である。

 

((念のため:働いても取り合わないの意→仏の家に投げかける。是が上手くなると、融通性がでて「ほどけ」てくるんでしょうね))

 

そこで、受動的意識は、前五識と無意識(第七末那識・第八阿頼耶識)から送られてくる情報を全く加工・変換せずに、そのままに映し出す。

 

((そうそう、是がいわゆる坐禅でありヴィパッサナ・止→観も似たようなものです))

 

そこで、この受動的意識が(大円鏡という)鏡と考えられる。

 

((鏡はその働きがあるので、つまり鏡はその鏡たる所以があるので、このとことんの受動が、つまりとことん修業してああそうかという、その働きのもとを仮に鏡の比喩で代表させたというような意味合いかとおもいます))

 

そして、(大円鏡という)鏡(=受動的意識)に、前五識と無意識(第七末那識・第八阿頼耶識)から送られてくる情報が映っている状態の中で、外的な刺激によって送られてきた情報が投影されて、分別の世界ができあがっていくあたりの事情を受動的意識がはっきりと自覚したとき、いわゆる「覚」体験が生ずる、と考えられる。

 

((「そして(大円鏡と、、、、はっきりと自覚したとき」が常にそうかどうか、常に目覚めているかどうか、が、あたりまえですが、本来の修業の眼目とおもいます。

 

つまり「覚」体験だけでなく、「覚」者として常に「覚」しているかどうか、でしょう。そうでないと、落し穴はいろんな所にありますから、ぼんやりしていると引っかかる、ということになるということです。→修証一等。事にあって常に無事かどうかです。))

 

  この、「覚」が成立したところは、「ない、ない」「真っ暗闇」「スッカラカン」という、

入処底のイメージとは一見異なるようでもある。なぜなら、見えるものがあるといえば、あるからだ。

 

((そうそう。要は引っかからない、というと語弊があるかもしれませんが、意識と無意識が全機している、色即是空、空即是色が自在。中道を見出す智慧が働く、といった意味合いとみます))

 

  しかし、分別・認識作用が停止されているならば、やはり、山は山でなく、水は水でない、ということがいえる。

 

そして、ここまでが自覚の論理としての「色即是空」であり、その実体は第二系列(そと)だけだったパラダイムから、第一系列(うち)の成立、ないし、第一系列(うち)の方から第二系列(そと)を見るというパラダイムに移行したということ。大円鏡智。

 

((あそうか、まだパラダイム1なのか。覚がでたので、もう終わったと思ってた。

 

やれやれ、ひとまずお茶でも飲んで休憩しよう!

 

1,2,3,4と分けるのはいいのだが、わけて細かい所をつめるとややこしくなる感じだな。というのも、一息にわかる、というのがもともと覚の正体だろうからね。

 

ま、それはそれとして。。。お茶、お茶!))

 

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              パラダイム2:入処底での練習・修行

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ところで、碧眼録41則に次のようにあります。

 

  趙州 投子に問ふ、

        大死底人 却って活する時如何。

        大死底の人が生き返ったら、どうなるのか。

 

  投子云く、

        夜行を許さず。明に投じて須らく到るべし。

         夜道を行くのはよくない、必ず明るくなってから出かけろ。

 

((これは岩波の碧巌録二巻p。108によると:注)夜中に行くことは禁ずる。しかし夜明けには到達していなければならない。とあります。私が前にこれを見たときの言葉がわたしのHPにあって、それは次のようなものでした:

 

そのままですべてがととのってます、というようなものだね。
あるいは、行こうとする前にもう着いていますというようなものとするかな。
みんなほとけになるまえに、既に仏さんなんだね。
感謝、祈り、感謝、祈り!

 

いま見直すと、まあそれでいいかな、という感じ。

そこで「夜道を行くのはよくない、必ず明るくなってから出かけろ。」ならどうかというと、まあ、当たり前のことをしなさい、といった感じに取れます。))

 

正(真っ暗なところ)から、生き返って、もう一度明るいところ(偏)に戻らなければならない、ということですね。

 

すなわち、なしなし底(真っ暗なところ)に留まっては、「働き(用)」がない。従って、ここは、まだ途中だということ。「空即是色」とまた、色の世界に戻らなければ「働き(用)」が出てこない。それは、そうですね。受動的意識のところに「止」っていたら、積極的意識の能力(分別・認識・判断等)、すなわち、前五識や無意識(第七末那識・第八阿頼耶識)から

送られてくる情報を積極的意識を通して働かせることができなくなり、宝の持ち腐れになってしまう。

 

そこで、もう一度そこに生き返ってくる。戻ってくる。「体」から「用」へですね。

 

((そうも取れますね、、、だけど、、))

 

ここは、洞山の五位を持ち出すのが、わかりやすいのか。

 

((この辺考えすぎかなと言う感じもあります。つまり、理屈の後ズケ、というような感じ。でもこのところ一回さらっと読んだ後またゆっくり読みなおすとああそうだなといえるようでもあります。

 

あえて言うなら、いわば柔軟体操を例に取れば、まずいろいろな形をまなんで体のしこりを取る。そのあとそれらの形が自在に働くように動中の工夫をし続ける、といった所でしょうか。))

 

まずは、正中偏(正の中に偏がある)。「正」が、ないない底(真っ暗)のところ、「偏」は主客分別の世界です。したがって、正中偏とは、第一系列(うち)の中に第二系列(そと)がある、です。または、正中偏は、第一系列(うち)の中から第二系列(そと)が出てくる(のを見る)、ということになる。正(定)に身を置きながら、そこから偏が出てくるあたりの事情を見て取る練習をする。いわば、静中の観察の工夫か。

 

((止観の一種ですね。ただ練習・修業ではなくてこれはそのまま修証でしょう。))

 

そして、次は偏中正。

    偏に返る=積極的意識を働かせる。

    積極的意識を働かせながら、積極的意識の中で受動的意識(=鏡)が

『切り離されて(?)』働くように練習する(無明底の場合と違ってくる)。=動中の工夫

 

((なるほど、で、普通は切り離されているんだけれども、連絡がある、で、この働きが智慧につながるかですね。これも練習→修証でしょう。で、それが出来れば一丁上がり!無明が光に照らされる!))

 

偏(積極的意識)の中に、正(受動的意識)がある(切り離されて働く=見えるようになる)

 

((これが理屈でなく、そうなのなら、「切り離されて働く」のが慧・正思につながるのではないでしょうか。))

 

第二系列(偏=積極的意識)の方から、第一系列(正=受動的意識)を見ようとする。

((みようとしても見えない。みようとするのをあきらめると見える、直接体験がある。無意識の働きをそのまま知る。西田の純粋体験か。。。な))

 

第二系列(偏=積極的意識)の中に、第一系列(正=受動的意識)を見ようとする。

((是はできないんじゃないかな。→絶対矛盾の自己同一。))

 

第二系列(偏=積極的意識)と同時に、第一系列(正=受動的意識)を見ようとする。

((これも見ようとすると、歪ができて、かえって見えなくなる。だから第一系列と第二系列が絶対矛盾の自己同一のまま、あるがままに自ずから然りの関係に収まる。だから苦が苦のまま苦でない。それを苦というという即非。→一件落着。))

 

正中偏と偏中正を切り替えれば、それが回互する、ということになる。

 

((なるほど。。。鏡みたいなものだな。。。だからダイナミックに、というわけだ。だけど、これはパラダイムの1,2,3,4すべてをひっくるめた意味でダイナミックにと受け取るべきでしょう?))

 

〔パラダイム3:休歇(きゅうけつ)底〕

 

  『 そして、今日「一つの休歇(きゅうけつ)の処(一切解決の無事の境地)」を得てみると、

                依然として山はただ山であり、水はただ水であった。』(青原惟信)

 

   『 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに 

                正滅あり 迷悟あり 生仏あり』(正法眼蔵・現成公案)

 

正中偏と偏中正を切り替え=回互が極まり、完成してくると、

《第一系列と第二系列の連絡、うちと外を一目でみる》

 

((ああ、これわたしの書いた言葉か。 

そう、一目でみて自在→随所に主となれば立処皆真なり!、となりたいね、というところです))

 

正・偏どちらにもかたよらずに、「目で・同時に・平等に」ということは「入り混じった状態で」見ることができるようになる。これが、宝鏡三昧。平等性智。

 

そこまで到達した段階が、[パラダイム3:休歇底]ということ。

自覚の論理としての「空即是色」が完成したということ。

 

((うーん、このへん微妙。。。なにかいうといろいろ引っかかりそう。。。

 

ま、とにかく、1,2,3,4、をダイナミックに、あたかもウシワカマルがひらりひらりと弁慶との立ち回りをするように、完成は完成でないそれが完成だ、ぐらいの柔軟性で、対処しない対処されたらどうかなとおもいます。何しろ問題は頭・言葉での理解でなく実践ですからね。))

 

ここでは、積極的意識が活動状態にあるから、分別認識作用が働き、

ワンワンは犬と識別され、チュンチュンは雀と識別されている。

すなわち、山は山であり、水は水である。すなわち、明るい世界である。

 

((ということで、、、結論をいえば、1,2,3,4があたかもいろいろな角度から見える、そして知と行が無基底の基底から、、、おのずから、、、何をすべきか、しないべきか教えてくれる(→智慧)といったものかとおもいます。五位でも唯識でも四料揀でもなんでも同じ意味合いではないかと。まあそういっちゃ元も子もないのかもしれませんが。。。

 

以上、言葉足らずかどうかわかりませんが、とりあえず感じたままを書き連ねました。意を汲んでいただければさいわいです。))

 

==

 

洲崎様

丁寧なコメントありがとうございます。
いかに自分がわかっていないかが、よくわかります。
ただ、言葉ではどうにもならないものの、問題のあるところがどちらの方向らしい、ということが、それなりに限定され、いろいろな点で、いままで迷い込んでいたところは、問題ではないということがわかるという意味では、たいへん役立ちます。
殊に、私の場合は参究時にあまり思弁的な方向に足を踏み入れないようにした方がいい、行きづまったら、そこであまり深追いしないようにした方がいい、ということを既に学びました。 というより、行きづまったら、
行きづまったで、南無阿弥陀仏でしょうか?

ただ、他方で、私は、「雰囲気として」『問題』の近くあたりで、『それらしいあたり』をぼんやりと感づいている、というくらいの位置にはいるかな、とも思えました。ただ、肝心の「非連続」のところを体験的に跳び越さないことには、深く微妙で有機的で逆説的な大構造を全体として把握しようがないわけですから、ウーンとうなっているほかはありません。

ところで、今回のメールの内容に対して、もう少し時間をかけて再質問したいところが明確になりましたら、お願いいたします。既に五〜六回は読み返しているのですが、現在の自分なりに受け取り消化し反応するまでに、時間のかかる体質ですので、どうしてもそうなってしまいます。
ただ、最初にも申し上げましたように、たいへん丁寧にコメントして戴けるので、たいへん助かります。
宜しくお願い致します。
とりあえず、お礼まで。

2007年9月15日   西方法界

 

==

 

西方法界様、

 

>行きづまったら、そこであまり深追いしないようにした方がいい、ということを既に学びました。 というより、行きづまったら、
行きづまったで、南無阿弥陀仏でしょうか?

 

南無阿弥陀仏か、あるがままにうけとめるか、そっとおいておくか、いじらないか、ただみつめるか、絶対の受動でほとけの家になげかけるか、定・慧か、、、、

とにかくほっとくと答えは出るようですよ。

肝心の「非連続」のところを体験的に跳び越さないことには、深く微妙で有機的で逆説的な大構造を全体として把握しようがないわけですから、ウーンとうなっているほかはありません。

 

大構造でなくてもっとシンプルかもしれませんね。シンプルを言葉に置き換えていじるといろいろとめんどくさくなるということかもしれません。やはり難しくなったら仏の家に投げかけるんでしょうね。

もう少し時間をかけて再質問したいところが明確になりましたら、お願いいたします。

 

わたしの言葉使い、あるいは体験ベースが、いいか悪いかと言うこともあるかもしれません。お気をつけください。

 

(ただ、わたしがこの件を一晩ほっといて、ふと思ったのは)五位はいったんほっといたらすっきりするのではないかなという事です。それで残りをとりあえず納得いくようにまとめることができればいいのではないかとおもいます。ちなみに安谷白雲老師による五位の本(これは前角老師にいただいたものです)によると道元は(知っていても)五位を使わなかったようですよ。

 

(注:この私の返答のはいったものを、西方法界さんはそのまま[K1とよんで、HP:http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/cat7166614/index.html に乗せているようです。)

 

==

 

足場の整理:[K12]とそれに対するコメント

 

(注:この私の返答を、西方法界さんはそのまま[K1とよんで、HP:http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/cat7166614/index.html に乗せているようです。)

 

 

洲崎様

次の[K12]の準備ができましたので、お願い致します。
これは、内容を発展させる前に、しっかり整理をして足場を固めた方がいい、という結論に達し、
それだけにとどめたものです。

コメントが必要な場合は、メールでも、ブログのコメントでも、どちらでもかまいません。
いずれにしても、最終的には[K12]本文の中に[K11]と同様な仕方で、組み込みます。

確認・整理のみですから、短刀直入で結構です。
宜しく、お願いいたします。

2007年9月18日  西方法界

 

==

 

西方法界様

 

[K1の時点では、、、

感じだけで書きますのでかなり無責任。主観の世界(あるいは主客同一の世界?!)の話となるかも知れません。これを妙の世界と取っていただければさいわいです。

 

と前書きしてコメントを書いたわけですが、しっかりそのあとをチェックされたようなので、無責任すぎたかどうか、むしろこっちが、にっちもさっちも行かない所に入るかなと言う感じもありますが、それはそれ、しかるべく発見するものもあるかもしれません。今となっては、あまりいい加減過ぎなかったことを祈るのみです。

 

ということで、以下は[K1]のコピーです前回同様、ところどころにわたしのコメントをカッコ内((。。。))につけておきます。

 

――

 

[K1](再参究)山は山、水は水(3)−−[K11]を受けての確認・整理

 

[前置き]
前稿[K11]を受けて発展させる前に、本稿で[K11]の成果の確認と整理をしておきたいと思います。
錯綜しないように、本稿はそれだけにとどめ、内容の発展・展開は次稿以後とします。

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まず、当初の参究課題「山は山・・・」の問題にこだわるのは、適当ではなくなってまいりました。また、その問題は一応の成果を見たようにも思います。

そこで、参究の同一性を示すために、同じタイトルにしてあるものの、本稿では[K11]の中で自然に出てきた流れのままに進みたいと思います。

なお、引用も含め、どの稿のものであれ、洲崎さんの発言は青い字、西方法界の発言は黒い字および緑の字(こちらは、注などの整理用などに使う)にいたします。

---------------------------------------------------------------

次に、私、西方として、洲崎さんから戴いたコメントの中で、了解でき、問題ないものを明確にしておきます。
  全般的に洲崎さんのコメントの中で、私が積極的な意味で、おかしいとか、違和感を感ずるところは、何もありません。わかるか(わかり方のいろいろなレベルは別として)、曖昧か、よくわからないか、のいずれです。その中で、洲崎さんの方から見られて取り上げる必要があると思われるかどうかは別にして、私の方から、とりあえず、そこはそれで納得したということで、済ませられるものを確認しておきます。

〔パラダイム2:入処底=大死底〕と〔パラダイム3:休歇底〕を般若心経に対応させて下さったのは、言われてみると、「あ、そうだ、そうだ。」今まで、意識しませんでした(般若心経が読めていない)。感動!
どのパラダイムかを指し示すには、参究課題の用語法は便利ですが、対応関係がはっきりしましたので、実質的な内容を論ずる上からは、般若心経に結びつけた方がいいですね。そこには、明確な論理も示されていることですし。ああ、もう一度感動!

 

((そういう発見は「わかって」(?!)→つまり「こっち」をすすめないで、わかってくれば来るほど言わば智慧がはたらいて「むこう」から教えてくれるようですよ。そのタイミングというか「場」(これが安楽の場といったものでしょうか、、、空でもいい。)、に慣れると、それがいわばニューロンの間にしみこんで(→無意識の意識)、いろいろな状況において作用(はたらき)がでてくるようにおもいます。例えば、お経などを直観で読む、というのはその辺に対応するのかもしれません。

 

一方、わかったような言い方をする人の言う事で(ところで是はもちろん私自身によーく聞かせるべき所でもあります。)、おかしい所に出会うと「あ、この人本当にわかって言っているのかな」、というように別の意味で智慧が働くという気もします。すると、、、私の場合よくあるのですが、まあ、それはそれとしてほおっておこう、というようなことにもなるか、とおもいます。(ほおっておく(受動―定)、というのがそういう場における薬の役目をするのかもしれません。いじると傷が大きくなるということもおうおうにしてありますからね。

 

さらに言えば、というか、是が大事なわけですが、日常一般の生活をしている上で、「その」納得した所の「もの」(これを絶対矛盾の自己同一の場というかな)が、いわば自動的に(自ずから然りで)働くというものではないでしょうか?これはいかんせん不思議です。(←これ当たり前―こっちを進めているんじゃないからね)))

なお、〔パラダイム3:休歇底〕のところで、同時記載していただいた、無事(休歇)のお話は、そういうことだと思いますが、話の根幹に関わることですので、今後も話題にすることとしておく。

〔パラダイム4:愛惜棄嫌底〕
  これは、洲崎さんのコメントで納得です。洲崎さんのホームページのどこかにも書かれておりました。本来、〔パラダイム3〕まで行ってから、出てくることでしょうが、見当として、納得。

碧眼録41則の私の参照文献は、[K11]の該当個所に、事後の注として記しておきました。まだ、別書籍を調べておりませんが、ここは当面全体の話の筋に影響しませんので、
このままで。

洞山の五位を持ち出すのは、特別の必要がない限り、やめることにいたします。
但し、そこで洲崎さんがコメントして下さった内容は、引き継ぐということで。

 

((あのときの内容は又の機会があれば、もっと丁寧にやりなおすべきでしょう。というのも、アレを書いたときは「もう終わった」と思ってたら五位が出てきたので、ちょっと疲れ気味でしたから。ただ、五位は室内での最後の調べに使うという記述が安谷白雲老師の本にあったように記憶しています。))

それから、動中の工夫のおおまかな位置づけも、いいのかと。その具体的内容については今後も話題になるでしょうが。

簡単に確認できることは以上です。それ以外は、以後何らかの形で取り上げられ、触れられていく事柄とし、必要な整理・確認はその流れの中でする、ということで。

------------------------------------------------------------------
最後に、用語の定義・確定の問題。

  悟後の人の場合、自分の中に参照すべき体験があるので、用語の意味を基本的に取り違えることはないと思いますが、未体験の者にとっては、体験者にとって当たり前過ぎることですら、わからなかったり、意味を取り違えたり、とんでもない勘違いをしたりすることにつながります。

 

((注:私は悟りは現在進行形で見るべきものという感じでやってます。道元の言葉、「悟りに大迷なる、、」を持ち出すまでもなく、特に私自身にそう戒めております。まさに「迷いに大悟する、、」でなければ何の意味もないとおもいます。これはどこかで言った(十牛の図、五位、四料揀など)ダイナミックに見る、いろいろな角度から調べをいれる、というところに相当します。

 

「悟り」(この言葉はあまり好きでない)に関してひとつ思うのは悟りに大も小もありそうで、定の話しにもつながりますが、「ほどけかた」(あるいはそのまえの定まり方)の程度に差があるように感じてます。「どかん」でも「どかん」の程度に差があり、その差は日常生活でいかにその人が智慧・慈悲ある生活をしているのか、そこにみなければなんの意味もないと思っております。

 

話しが長くなりましたが、上のような理由で「体験者!」の間にもコミニュケーションの難しさはあるように感じてます。この辺、大拙のいう禅者の独善と言うのが物騒という感じです。彼の言う禅は思想までいかないといけないというのは、そういった面からも納得できる所です。))


そこで、「座禅」、「定」、「見性体験」、「覚(見)」の意味(定義、少なくとも、ここで使う定義)をもう少し、整理し明確にしたいと思います。

 

まず、「定」は特別ことわらない限り、分別的認識・判断その他積極的意識が混入しない、純粋なもの、これに対して、「座禅」は定に至ろうが至るまいが、普通に我々がするような意味とします。そうすると、「定」に至ること自体、そうたやすいことではありませんから、「定」に入り(「止」)、その状態を保つということも特別の「体験」(定体験)として位置づける。

 

((定=非思量、かな))

  [注][K11]で、意識を受動的意識と積極的意識に分けたのは、私、西方によるのであって、公的権威の裏付けはない(あるかもしれないが、私は知らない)。
     なお、「受動的」の反対語は、「能動的」だが、「積極的」で通す。


次に、「定」に二つを区別するという問題と「見性体験」

[K11]における洲崎さんのコメント
((ここでこの定の意味合いがどうかという感じが少しあります。つまり、(A)普通に言う無心あるいは三昧と、、、(B)なんというか父母未生本来の面目との対面の体験、のちがい。(A)は(B)によって深まるというのがわたしの感じです。))

従来、私は(A)の方(ただ一面の「ワンワン」)を「定」といい、(B)が、「見性体験」である、と思っていたのですが、それではいけないのでしょうか。

 

((そういう言い方のほうがいいかもしれません。))

そうだとした場合、(B)の「見性体験」の最中、すなわち、父母未生本来の面目との対面の最中も、受動的意識のみの状態で、積極的意識は停止されている、という点は、変わらない、従って、「見性体験」は特別な「定」の状態である、というように見ていいでしょうか。

 

((定と慧でみると、、、定慧一等とか定慧不二というのがありますね。定(の場)において慧(不思議な働き)が出て、前に言ったように業の悪さをするのが無効化される、といった感じのもあるようですね。例の鏡の心も何かが映っているだけで、それにー自我が絡んでー重きを置かないから、、、ひっからない→夢の如し、というのも慧の出方のひとつとみれる様でもあります。又、定慧の構造・プロセスの体得と言うのにつながるとも見えます。

 

「見性体験」というのを取り出して考えると、それは定→慧の出方の大きいもの、といった感じかもしれません。智慧でも例の四智のとうり、表現はいろいろあるし、この出方も人のそこまでの業による歪の具合によって「ほどけかた」がいろいろあるかもしれない(注:こういう言い方をするのは私だけかもしれません)ので、ややこしいかもね。まあ、あまり考えずフィーリングでいったほうがいいかもしれませんね。

 

そういえばこういうのが見性あるいは悟りと思っていたところに悟りはなかった、と誰だか言ってましたね。道元だったかな?私が思うには(←是危険です!)日常こうなるのでは、という結果から言うとそれは「定慧が出やすくなる体験」「迷いが迷いとすぐにわかる→そして対処しない対処のできるーようになる体験」「危うい所には近づかなくなるような体験」「安楽になり、物事にあまりこだわらなくなる体験」で、そのためにはそれはまた、「無意識の意識、無分別の分別につながる知覚・感覚が鋭敏になる→覚あるいは鏡のこころにつながる−体験」といった感じです。

 

ただし修業はきりない。業の根は深い。→これ、あたりまえなのでしょう。))

次に、そうだとすると、「覚(見)」も二つの意味があり、

@「見性体験」の最中も、受動的意識で「それ(父母未生本来の面目)」を捉えている(分別知を介して、言語化・思想化はしていなが)のであるから、この段階で、「覚(見)」が成立している、とみる。なんと呼びましょうか、「主客未分段階での覚(見)」とでもします。私は、普通「覚(見)」という場合は、基本的にはこちらをいうのだと思っていました。

 

((うーん。人によってそういう言い方をするかもしれません。。。それはまたその後も「覚―物事がありのままにわかる―をもたらす体験」、と言うことかもしれません。

 

覚者ということばがあるように、普通、覚はあるがままを見る、何が起こっているのかありのままに、正しくわかる、といった智慧の働いている状態―此処で定がベース(場)となっている―と感じます。覚は、感覚・知覚が鋭敏になった状態で、これが法を知る感覚と言う意味での意識につながるかなと見えます。例の光明も視覚に訴える感じで、これはまた無意識の意識の感じー今此処での働き・直接体験がそのままに分かるーと言うのとつながっているようでもあります。 

 

私は何か特別な体験がどうかというのより、日常でどうかということを重視(本来そうなるべきと思う)しますから、その「体験」は前にも言ったとおもいますが、それを重視する、あるいはあまりにこだわると、弊害があるように思っています。それが、どんなに不思議な光に満ちていたとしてもです。素直=自ずから然り、が自在でいい、楽でいい、また、そうあるべきと言う感じです。

 

「主客未分段階での覚(見)」はそれでいいのですが、それは、又前に戻って、定と一緒と言うようにも見えます。

また、

大疑―大定―大悟 (どかんーーうーん)

小疑―小定―小悟 (あ、そういうことか)

 

など、いろいろあって深まっていくということかもしれません。人に因ってそんなことない、一発で煩悩はみんな切れるんだとも言うようですが(久松真一だったかな)私は会ったことがないから、ほんとにそうかいな、と思うだけで、むしろ大拙のわしは煩悩だらけだ、(と〜悟っている)というほうが、素直でいいなと思えるのです。ところで、大拙さんにも私はあってないですが、美穂子さんとの対話もふくめ、いろいろな角度からとことん調べてきましたので、あったような気がしてます。))

A「主客未分段階での覚(見)」は、(受動的)意識が捉えたのですから、言語化・思想化はされてはいないが、主体には、体験的記憶として残る。主体が、積極的意識の活動状態に戻った段階で(「時間の経過のある、なしは問わず」)、「主客未分段階での覚(見)」に基づいて、言語化・思想化された形式での気づきが生じる。あるいは、言語化・思想化された形式に表現することによって気づく。これを「分別知的気づきの覚(見)」とでも言っておく。


私から、見るとこういう感じに整理されるのですが、いかがでしょうか。

 

((主客未分だと受動=能動かもしれませんよ。それで、これ梵我一如というのかな。

 

ここでもうひとつついでに言うと、言葉、定義は本来、なにか体験の後に付いてくるもので、その前にあると迷いのもとになる可能性が大きいと知って進むべきでしょうね。例の八正道でも只管でも定でも慧でも、、、、わかったものはわかるがわからないものはわからないというーこれ、英語でCatch−22といいますー構造になっていて、「体験した」ものがやもうえないで苦肉の策で使った言葉といった感じでもあります。(活句、問答、公案、あるいは仏語というのもCatch−22ですね。)

 

そういう意味では仏の言葉はおそらくみな方便なんですね。いや、言葉自体そういうものである、というのが色即是空でしたっけ、、、無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。。。。。ぎゃてーぎゃてー。。。

 

以上。ご参考になれば幸いです。))

追伸

定に関して:

そういえば禅定のレベルに1〜8禅というのがありましたね。悟りには四禅まででいい、という話しを記憶してます。是は定のレベルにいろいろあるという感じとあっているので、念のためここに連絡します。

 

ところで今ネットで調べたら初禅から四禅まではあっても八禅(滅の意だったかな?)は見当たらなかったです。この辺、以前はすこし興味があったのですが、今はチョッと疎くなってます。只、例のアビダルマで心の種類を〜50だか〜150だかにわけているのもそうですが、なんやかや、あまりやりすぎるのも本末転倒といった感じでもあります。

 

==

 

畢竟して何の用ぞ:[K1とそれに対するコメント

 

(注:この私の返答のはいったものを、西方法界さんはそのまま[K1とよんで、HP:http://hokkai53.cocolog-nifty.com/blog/cat7166614/index.html に乗せているようです。)

 

洲崎様

 たいへん遅くなりましたが、[K13]が完成しました。宜しくお願い致します。

2007年10月4日 西方法界

 

==

 

西方法界

 

例によってコメントを((括弧))の中に書き込んであります。

洲崎

 

[K13](再参究)山は山、水は水(4)−−[K12]までを受けての展開

[K12]までを受けて先に展開します。  

  [注] 引用も含め、どの稿のものであれ、洲崎さんの発言は青い字、西方法界の発言
          は黒い字および緑の字(こちらは、注などの整理用などに使う)にいたします。


------------------------------------------------------------------
その前に、今までのところで一つ重要なことが気にかかっております。
私は、「定」について、受動的意識だけは働いている状態としました。このように前提しないと、私としては話をうまく進められないからです。しかし、この点については、以下のような問題があります。

すなわち、[K10]または[K11]で、次のように書きました。

 『主客未分・分別発生前の働きのところで自分という働きを「止」めて、その状態を保つことが「定」である、と考えられる。
この「定」というところは、第六意識のすべてを働かせず、受動的意識、すなわち、そこに映る状態をただ見つめるだけ・それ以上には働かせない状態である。
積極的意識、すなわち分別作用=認識作用・判断作用などを一切働かせない状態である。
そこで、受動的意識は、前五識と無意識(第七末那識・第八阿頼耶識)から送られてくる情報を全く加工・変換せずに、そのままに映し出す。
そこで、この受動的意識が(大円鏡という)鏡と考えられる。』

ところが、般若心経だと、行深般若波羅蜜多時、、、無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。

すなわち、「(受動的意識だけは働いている)定の時(”こう言ってしまっていいのかに問題がある”)」、その極限のところでは、(受動的意識も含めて)意識というものもない、ということが(定の結果として)「わかる」、とされる。
『その極限のところ』が、『行深般若波羅蜜多時』であり、意識を突き破って無意識の状態に入ってしまったということになる(これが見性体験)と、ここは、「(受動的意識だけは働いている)定の時」ではまずいことになる。受動的意識が働いて、それに映っているでは、まずいことになる。しかし、それでは、意識が完全になくなってしまっているのに、『どこでわかるのか』。それとも、受動的意識はありながら、意識を突き破って無意識の状態に入り、それが受動的意識に映るのか、映れば、それは最早意識であって、無意識ではないのではないか。とにかく、厳密に考える(=勝手な想像)と、わからなくなります。

  [注]そうである故に、「色(意識)即是空(無意識)」、絶対矛盾的自己同一、
     とでもいうしかないのか。?


((意識も無意識も働いている全機現、と見ます。此処を大拙は第一系列と第二系列の連絡といってます。ただし意識はおっしゃられるように受動的(=我をすすめない)で、確か大拙がどこかで馬に乗った時のことを例にとってを書いていたとおもいますが、たずな、つまり意識による作為、はあまり使わないような状況、という意味のことだったと記憶してます。

中山正和さんは「道元さんの安楽説法」と言う本で「無意識が働いてしかも(色・ものが)あるを意識しなくてはなりません」といってます。(→エッカートの眼に対応)つまり主導はいわゆる主人公、本来の面目、で(分別)意識の然るべき役割が正しく働いているということ。そしてそうなるのが法にそった生き方だと、体験をとうして気づく(智慧の働き)というのが、般若心経のでだしの部分(色即是空など)と見えます。そこで、、、

>行深般若波羅蜜多時、、、無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。

ですが、ここは丁寧にわけて、「是故空中」の前までは(色即是空など)を照見した(智慧の働き)と言う結論、と読めます。つぎに「是故空中」の後の無色。無受想行識。。。は、「空中」というというときにはそういうこと(無、、、)であった、と言う「空の体験」の確認をしているのだとおもいます。つまり空の(体験の)中味は無ということ。(だから、後で気が付けば、ものがあってない、というような絶対矛盾が生まれ、それがそのまま自己同一しているという「確信」がある、ということとおもいます。)

そのあとの「以無所得故」以降はこの修業によって、心無ケイゲ、云々、つまり「問題はもともとなかった」(→究竟涅槃:私の言葉では、くつろぎ)といっているようです。したがって般若波羅蜜多の修業が証につながるというわけで、修・証は切り離せないということでしょう。これはまた、上でおっしゃられた「即」と「自己同一」が智慧の働きで、ああそうか、と(その行深般若波羅蜜多のとき)わかる(→定慧)というわけでしょう。(これはまた絶体絶命を通り越しての、つまり分別意識をつきぬけての体験だから、理屈ぬきで、そうならざるを得ない、ともいえます)

ただ、ここで念のために言い添えておくと、色即是空(の即)と空即是色(の即)はいみあい(働きの方向)が違うというようにみえます。)


意識が完全にない場合というのは、「寝ているとき(夢を含む)」か「気絶しているとき」。もっとも、夢というのは、「映っている」といえば、映っているのですね。しかも、記憶している(忘れることもあるが)。
   しかし、座禅は、居眠りを嫌い、「しっかりと、めざめていなければらない」とされています。とにかく、厳密に考えると、わからなくなりますので、言いだした私としては、一応以上のことを承知した上で、意識の働きを止めながら、このめざめていなければらない一点を受動的意識と表現して使っている、ということを、留保条項としてつけ加えておきたい、と思います。

((上で言ったように、全機現、エッカートの眼などはこれを見ているということです))

従って、どうもこれではまずい、と言うことになってきた場合には、ここが「動く」かもしれません。ちなみに、これは整理・確認をした前稿[K12]に入れておくべきでした。
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ところで、私が、自分の未体験領域の事柄について、いろいろお聞きし、自分なりに確認・整理をしている間に、洲崎さんからはそればかりではなく、それらに関連する、かなり広範な事柄についてのコメントを戴いております。

((>未体験領域:未体験ではなくて、体験されていながら気づいてない、ということかもしれません))


 それらについて、後追いしていくより、帝釈網の一点をつまみ上げるごとくに、私の一番関心のある一点にまず飛び込み、そこを問題にしていく過程で、必要に応じて話を戻していくような進行にしたいと思います。

その一番関心のある一点とは、維摩経にいう『直心、是道場』というところであり(もっとも、これは定も、動中も含むが)、西田幾太郎のいう「(絶対無の)場所」というところでもあると思いますが、今までの話の流れからいうと、動中の工夫が問題になる、その場所というところです。

すなわち、[K11] 中に以下のようにあります。

         主客未分・分別発生前の働きのところで自分という働きを「止」めて、
         その状態を保つことが「定」である、と考えられる。

      ((是が「自分という働き」を止めないでも、しかるべく・正しく見える、というふうに
         変わっていく。
    あるいは定のおかげで、自分が引っかかったなら、つまり我が出たなら、
    それがそうと気づく→対処しない対処ができる、智慧がでる、という風になる
         ということでしょう。→動中の工夫))


この場所です。

この場所は、私のような未証拠者からしますと、私たちが、「ある事態」に直面したとき、@それをどう受け止め(受動局面)、Aそれに対して、どう反応するか(能動局面)、という場所(瞬間かもしれない)です。

実は私は、「悟後の」動中の工夫というだけではなく(そちらは洲崎さんから既にコメントを戴いており、また今後も戴くとして)、私のような未証拠者であっても、この場所を未証拠者なりにしっかり意識をして、修行すべきであり、またある程度まで修行できるのではないかと、思っております。

((これはまったくそのとうりとおもいます。また。「悟った」という人(う〜。いやだね〜)も、悟ったとはいえ、(そんなことに重きは置くのはおかしいとは前にいいました)、このポイントは例の道元の「華は愛惜に散り、、」というやつで、なまじっかなことでは行かないと私は思ってます。馬と乗り手の関係は切っても切り離せない、というふうに見れるからです。))

そういう意味で、「悟後の」動中の工夫の場所を取り上げ、そのあたりの事情を探りながら、未証拠者なりにできる修行でなにか役立つものがあるのかを同時に探ってみたい、と考えております。

((これ、いいポイントをついているとおもいます。ところで私の英語のHPにこういうのがあります: http://www.geocities.com/suzakico/wilbro99guidehtml.doc (WORDファイル:The Way of Inquiry))これは何年も前にWilbroと言うアメリカ人の人と会った際におそわったもので、英語ですが、動中の工夫を「悟り」と関係なく(つまり、そういう言葉はつかわずに)まとめてあるものです。今回、またぱらっと読み直してみても、鏡、静かに観察する、などという言葉もあり、非常に懐かしく、またポイントを鋭く突いています。

一部分をここに載せておきます:

When you find yourself caught up in worry thoughts, don't try to turn your minds off; instead, let the thoughts go on and become the observer of them. Discover how this allows you to disengage from them, and how they will spin on their own for a time, then die out. When you stop feeding them, they starve and wither away.

注:「Caught up」とは心がひっかかったという意味。

私はこれ(The Way of Inquiry)を何十回も読みましたが、動中の工夫の件にあわせ、とことん突っ込んで見るといいとおもいます。あいにく日本語への訳はありません。))


この場所において、外の世界だけに気を取られるのではなく、@Aをしている自己の内面に注意を向け、よく観察し、そこである種の実存的な反応(慧に基づく自然法爾的反応が理想だとしても)をする、ということは、程度の差こそあれ、可能ではないか、あるいは、多かれ少なかれ、やっていることである、と思うからです。
どちらかというと、ヒステリー的性格の人はこのポイントを通過しやすく、神経症的な性格の人は、ここでよく立ち止まる傾向があるように思います。

とにかく、こここそが『現実の歴史的世界の中で、かつ現実の歴史的世界の中へ、』我々が働き出す場所であり、それ以外にはどこにもそんな場所はありません。
というか、重々無尽の因縁によって、ここに「ある事態」が生じた。そこで、我々の@Aが加わる。それも因縁と言えば因縁ですが、自由主体の行動だともいえます。その結果、新たな因縁が生成する。間に挟まる「我々の@A」が、プラス要素を加えるか、ゼロか、逆にマイナスを加えるか、そのいずれかで、新たな因縁が生成してくる。そういう意味において、我々の一挙手一投足は、大げさに言えば、宇宙の隅々にまで影響することになります。

洲崎さんは《人格に現れてない現象のみに重きを置いた悟りなんて、何の意味もない》、《日常生活でいかにその人が智慧・慈悲ある生活をしているのか、そこにみなければなんの意味もない》とおっしゃられる([K11])。まさに、同感ですが、その場所というのが、上記@Aの場所である。ここに、すべてが集約され、ここからすべてが始まる『永遠の今の場所』であり、また、そここそが、我々が輪廻し、そして地獄・極楽が現れる場所である、と思います。
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「ある事態」に直面したとき、@それをどう受け止めるかという局面(受動局面)では、私は大拙先生のいっておられます絶対受動性ということなのではないか、受動局面では、絶対受動するべく修行するという方向ではないかと思っております。他方、Aそれに対して、どう反応するかという局面(能動局面)では、絶対能動性ということで、内容的には自由自在という意味です。
  ただし、このような用語を自分では使いますが、実質的には『応に無住のところから、その心を生ずべし。』ということ、あるいは、洲崎さんがよくお使いになっておられる定ないし慧ということ([K11]で洲崎さんからコメントを戴いているように、定慧不二ということで、定と慧の区別をうるさく考えずにいく)を背後においた上での用語です。無住のところ・空というところが(基底なき)基底となって、そこから出てくる受動性・能動性です。

((受動性・能動性は簡単にいうと、戒定慧でもいいし、自ずからしかり,でもいいでしょうね。無論、内容が問題(→究極は知行合一)で、そのために突っ込んで調べるというわけでしょう。))
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そこで、まず受動局面の問題からですが、[K11]の鏡に関する話のところで、洲崎さんから次のようなコメントを戴いております。

((鏡はその働きがあるので、つまり鏡はその鏡たる所以があるので、このとことんの受動が、つまりとことん修業してああそうかという、その働きのもとを仮に鏡の比喩で代表させたというような意味合いかとおもいます))

ここでいわれる『とことんの受動』が、絶対受動性ということで、ここでエックハルトの内と外とを同時に見る目をどれだけもてるかが、問題になると思います。

『外を見る目』の方が、論じやすいので、こちらから入ることに致します。

一つは、可能な限り、「色めがね」をはずして、事実を見ると言うこと。
ということは、一切の「色めがね(分別)」をはずすこと。いかなる見方もまじえないで、ただ見ること。
もう一つは、一即一切、一切即一という事物構造を見ること。無限の縁の連鎖に眼差しを向けること。
この二点ではないかと思います。

((「無限の縁の連鎖に眼差しを向けること」。。。は面白い表現ですね。確か空の話しでそういう表現をされていたと覚えてますが、そのときもおもったのは、無限の縁の連鎖に眼差しを向けること、は、いい加減な判断を働かせない、という意味合いがあるということで、無心、無我、の境地にいたるーつまり「場」につながるーようですね。

で、もしそうならば、外を見ながら、内がただしく整理(あるいは外と内が連絡)される(→応無所住而生其心)といった感じがありますね。))

『内を見る目』は、そのことが同時に『外を見る目』にも影響を与える。
「定」の修行は、そのままその「証」として『内を見る目』を深める。


((そうだね、いつまで外ばかり見ていても、「畢竟して何のようぞ?」、「その意味合いは何なのか?」があるからね))

そのことは、既に洲崎さんから、以下のコメントを戴いている。


  ここは、自分の自我の動きというか、自我の発現をどう捉えられるかが最大の問題になる。正念相続の困難さが問題にされていることからして、証拠者でもここは同じということにしておく。ただ、洲崎さんのコメントのように、証拠者は《こころの癖の働きがよく「見える」[K11]》という段階にある、という重大な差異(見性体験の眼目の一つ)があることを確認しておきます。 

とはいえ、先にも述べたように、未証拠者は未証拠者なりにこの問題に取り組むべきであると私は思っています。どの程度まで可能かということで、私の場合を例にあげれば、「宗教の窓」に書いているように、我々の「認識中枢および指令中枢には、根本的本質的な欠陥がある」ということを体で感じている、というところまでは来ています。そして、自我については、[S18]で記載したように、何故に自我が問題であるのかということに関する意味(自我は実相に反するのだということ)を分別知上で自分なりに解明し、それなりに納得しています。このことは、自我超越に向けての支援機能があるかと思われます。

((そうだそうだ!!!これ発菩提心というのかな、、、名前はなんであれ、

ところで、「発心、修業、菩提、涅槃は同時の発心、修業、菩提、涅槃なるべし。。。一発菩提心を百千万発するなり」(発菩提心)という道元の言葉がありますね。))

また、自我の発現をどのようにして捉えるかという工夫もあるかと思います。私は、従来『宗教の窓』で記載しているように、「ケチな根性」「娑婆っけ」などの包括的な捉え方や「評価を気にする心」「プライド」「自尊心」などのやや具体的な捉え方などがその例になるかと思います。最終的には「見返りを求めない心(無功徳・無功用性)」なども問題になります。

 しかし、そうはいっても、「自我からは自我を捉えることができない」のであり、無我的立場に立って始めて、自我を捉えることが出来るということだと思います。どの程度に無我的であるかということが、どの程度に自我を捉えることができるかを決定づけています。従って、こうした取り組みは、空に対する実存を伴うことが必要不可欠とします。結局、根本は、いかに自分を空ずるかということになるでしょう。

((これでひとつ思い出したのが、「Choiceless Observation」(→いわば内観)と言う言葉です))

「捉える」と同時に重要なことは、捉えた上で「切断する(『相手にしない・ひっかからない』)」ことです。洲崎さんは、ここを『業の悪さをするのが無効化される([K12])』という言い方で指摘されました。この切断=無効化ということも無我的立場において始めて可能になると言えます。

実は、ここで(=絶対受動性において)始めて我々は、「(自我の)色めがね」をかけずに、物事をありのままに見ることが出来るようになる、と考えられます。

[K12]での洲崎さんのコメント

『覚者ということばがあるように、普通、覚はあるがままを見る、何が起こっているのかありのままに、正しくわかる、といった智慧の働いている状態―此処で定がベース(場)となっている―と感じます。』


覚者にして、始めて絶対受動性が完全(不完全の完全)に発揮されることになります。

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 さて、自我の切断=無効化まで至れば、次はAの能動局面において、絶対能動性を問題にする局面になります。

まず、ここで最初に確認しなければならないことは、絶対受動性(「捉えた上で切断=無効化うること」)が確立しないと、絶対能動性は問題になる余地はないということです。絶対受動性が確立して、始めて絶対能動性へと進むことが出来ると言うことです。

((そうですね、で、自ずからそうなっちゃうんでしょうね。「万法進んで自己を証する」でだから不可思議法門あるいは安楽の法門ともいわれるのでしょう。求めたら求まらないので、お任せですね。

ここで、「そんな馬鹿な」、という考えがおきたとしても、、まあ、ほっとくんでしょう。すると、智慧がでるようになってるようです。自然というのはいわば法そのもので、上手くできているんですね。))


  無明底においては、事態を自我的に受け止め、「(自我的に)なんとかしようと、もがきます」。「(自分の勘定・計算において)はからい」ます。私の言い方を使うと、『実相遊離的、実相乖離的、実相攪乱的、実相反逆的』です。
 
絶対能動性は、無我的であり、慈悲的です。要するに、自我の拘束から解放されています(解脱)。それ故に、必然的に『大用現前軌則を存せず』『一目でみて自在→随所に主となれば立処皆真なり([K11])』ということになり、自由自在です。十界における三悪道は、自我的方向に社会規範を踏み外しますが、菩薩・仏は、無我的・慈悲的方向に社会規範(分別)を踏み外すこともあります。しかし、私の言い方を使うと、『実相回帰的、実相調和的、実相適合的』です。


洲崎さんが、[K11]で、『鏡のこころ、(体から来る)智慧(つまり何がどうなっているのかわかるということ、だから何をするべきか、しないべきか、が「わかる」ということ)とコメントされているところが、働いてくる場面です。
言い換えれば、「慧(無心・無我=空の働き)」が働かなければならない局面です。

あるいは、((是が・・・・・・・・・、しかるべく・正しく見える、というふうに変わっていく。あるいは定のおかげで、自分が引っかかったなら、つまり我が出たなら、それがそうと気づく→対処しない対処ができる、智慧がでる、という風になるということでしょう。→動中の工夫))[K11]です。

また、((・・・・・働いても取り合わないの意→仏の家に投げかける。是が上手くなると、融通性がでて「ほどけ」てくるんでしょうね))[K11]

さらに、『「こっち」をすすめないで、わかってくれば来るほど言わば智慧がはたらいて「むこう」から教えてくれるようですよ[K12]』

ところで、ここでは、二つの側面の問題があると考えられます。すなわち、「慧(無心・無我=空の働き)」として、『いわば自動的に(自ずから然りで)働き([K12])』が出てくるという側面が一つです。各人の到達点の範囲内の次元からは、自然法爾的に慧の働きが出てくると言えます。

他方、各人の到達点の限界面の外(未到達次元)に対しては、宗教的実存(空への実存)が問題になるのではないでしょうか。道元さんの不断の「発菩提心」や「釈迦も達磨も修業中です(→修証一等)[K11]、修業はきりない。業の根は深い[K12]」ということ」、あるいは、西田(幾太郎)先生が、「場所的論理と宗教的世界観」で示されているように「我々は、自己を否定して(自己の死において)逆対応的に絶対者(絶対無=空)に対し、そこから逆限定的に、自己の中に自己を表現し、自己表現的に『自己を形成しなければならない』(西方が多少文章を組み替えている)。」とおっしゃられる場合の『自己を形成しなければならない』というようなところにも、それを感じるのですが、いかがでしょうか。

((そのとうりとおもいます。上でいった、馬と乗り手の関係は切っても切り離せないで、まわりの景色は変わるし、坂も急になるかもしれないので、、、畢竟、分別意識がついてくる以上は、乗り手は馬にはなりえないのじゃあないか、というのが私の見方で、だからこそそこから中道(→法にそって生きる智慧)と言うのが出てくると見ております。

「自己を否定して、、、自己の形成」が前に言った「人格に現れなければ意味がない」に対応する、ということかもしれませんね。))

さて、このような意味で宗教的実存が問題になるとすると、Aの能動的局面でも実存的な課題を設定することが問題になってきます(道徳的課題ではない)。我々は、様々な経典その他の中に、そういった課題を見いだすことができますが、私はこういう包括的な課題を設定してみました。『私は、(どの程度に)世界を愛することができるか。』 

((ああ、公案みたいなものですね!いまここで見せてみろ!ですな。))

((でも「課題を設定」するのもいいですが、実践的な意味で、課題はすでにそこいらじゅうにある、と言うことかもしれませんね))

能動的局面に関係するこの種の課題は、受動的局面(@)とは異なった自我の把握に役立つことと思われます。聖書の例、すなわち、ユダヤの敵国であるサマリアの旅人が、負傷したユダヤ人を親切に助ける話、いわゆる「よきサマリア人の譬え」を使わせていただきます(ルカ伝10−25)。受動的局面では、このサマリア人は、「敵国のユダヤ人」が負傷している、という事態に直面します。それはそれとして、絶対受動したとして、能動的局面で「このユダヤ人を助けようとした(世界を愛する)」とき、『「油」と「酒」と「包帯」を使って、傷の手当をし』、『自分のろばに乗せて宿屋に連れていき、介抱し』、『銀貨二枚を宿の主人に渡して、介抱を依頼した』。そこには、それだけの経済的・労力的・時間的負担があり、またそのことによって、自国人からどう見られるか、というような問題も考えられるだろう。すなわち、Aの能動的局面でどう働き出すか、あるいは、どう働き出せるかについては、@の受動的局面とは異なる『自我の絡み』に直面致します。逆に言えば、こういう形で、自我というものと向き合うことになります。

ところで、ここで、この宗教的実存の仕方がたいへんむずかしい。
なぜなら、単に「こっち」を進めるのではない。そうしたら、必ず自我的になってしまう、という問題がある。洲崎さんの言われるように、『仏の家に投げかける』ことによって、「あっち」から、ということになってこなければならない。西田先生的に言えば、『自己を否定して(自己の死において)逆対応的に絶対者(絶対無=空)に対し、そこから逆限定的に』でなければならない。そうしてみると、別途、『宗教的実存』と言ったことは問題であり、結局は先程の、『いわば自動的に(自ずから然りで)働き([K12])』が出てくる、自然法爾的に慧の働きが出てくるという問題一つということになってくるのでしょうか。私の理屈は、ここで破綻するというか、もうこれ以上に進めそうもないところとなります。

((んんんん?それがまさに絶対矛盾、、、、の場で、、、すね。禅(すべて)はそもそも、そこから始まる、、、んでしょ?!))

『私は、(どの程度に)世界を愛することができるか。』 という命題に関連して、『空』すなわち『絶対無』についての西田先生の理解の問題があります。『絶対無』は、「相対」に対する「絶対」ではない、ということ。「相対」に対する「絶対」では、そこからは「愛(慈悲)」というものは、出てこない。「真の絶対(絶対無)=空」は、どこまでも自己に対し、自己に反するものを包み込むものでなければならない、とされています。すなわち、「相対」に対する「絶対」が、自らの絶対性を自己否定しないと、すなわちそこまで自我の超越が進まないと、「真の絶対(絶対無)=空」には至れない。『妙峰頂を下』らないと、「真の絶対(絶対無)=空」には至れない(ここが『如』というところか)。「イエスキリストは、この私の罪のために死んでくれた」ということが自分のものとなり、今度は「自分が、他者の罪のために死ぬことができなければならない。」 そのとき、Aの能動的局面において、我々は始めて『化身仏的に現成して働く』ことができるようになる、と思われるのですが、そういう意味での空への実存というか、そういうところまで自己を空ずることが、どうしても出てくるように思います。ただ、気が遠くなりますが・・・・・。

((気が遠くなって、何にもなくなって、、、、、お任せして、、、、定にはいって、、、を「話し」ていたんでしょう?

逆にいえば、いろいろな場面に遭遇して、そのつど、「気が遠くなって」いかに、というのもあるようですよ。死ぬ時には死ねばよい、気が遠くなったときには気が遠くなるのがよし、ということでどうですか?))

見当で書くついでに、もう一つ見当を重ねれば、絶対受動性・絶対能動性が相当程度に確立されてくると、「漢来たれば漢となり、胡来たれば胡となる」ことができるようになり、このことは、とりもなおさず「両刃鋒を交えて避くることをもちいず(自と他が出会ういかなる局面でも、絶対に、その出会いを避けるというようなことはしない。・・・大拙先生)」ということが可能となってくる、ということではないでしょうか。

((これが見当かどうかですね!つまり、そこに「信」がでるかというか、、、))

いずれにしても、こういった方向が現成することに応じて、『自我に使われずに、自己を使っている。自己を使い得たり。』という実感が湧いてくる、という気がしております。

((ここは畢竟、自ら、確認するところでしょうね。))

((以上、いつもどうりの読みながらのコメントですが、論理をはずして、感じでというか、「体」に信をおいて、受け止めていただければ幸いです。))

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洲崎様

  今回もたいへん勉強になりました。馬の例は、わかりやすく、ここは時間をかけて消化していきたいと思っております。

The way of Inquiry は、さっと英語のまま読んで理解するというわけにはいきませんので、ゆっくり訳しながら読もうと思っております。一応、パソコン内にファイルとして取り込みました。洲崎さんが、コメント中に抜き出して戴いたところは、禅でいわれることと全く同じで、抵抗なく読めますね(実践が問題ですが)。

ここでの短期的な参究は、とりあえずこれでひと区切りをつけ、終わりたいと思います。振り返ってみますと、私にはたいへん意味のあるものでした。自分だけでは、とてもこうはいきません。ありがとうございました。

いわゆる自己紹介は必ずしも十分な自己紹介にはなりませんので、今回の参究で一応その補完ができたのではないかとも思います。次回からは、この基礎の上にやりとりができるようになるので、部分的なところだけで済ませられることも出てくるのではないかと思います。洲崎さんのホームページもまだ全部拝見しておりませんし、そちらでの疑問・質問も出てくることかと思います。
ブログのコメントも含めまして、中・長期的には、引き続き御厄介になりたく、宜しくお願い申し上げます。

2007年10月5日   西方法界

 

あとがき

 

いろいろな道があり、いろいろな邂逅、出会いもあるものだ。願わくば、そこになんらかの「きらめき」があり、それぞれが行くべき道を丁寧にかつ確信を持って進みたいものだと思う。

 

もし、このファイルをごらんになる方がおられたなら、ここにある言葉が何らかのインスピレーションでも、もたらすことができるのなら幸いとするものです。

 

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

― 洲崎 清

 

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