
サティ(気づき)について
―ヴィパッサナ・動中の工夫・鏡の心―
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
(これはことによるとつかえません。そのときはこちら↓でお願いします)
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso
付録―2:ヴィパッサナにおける動中の工夫と静中の工夫(山下良道氏)
ヴィパッサナ(ゴエンカ氏)を8年間やり、日常の坐禅など工夫をつづけるほか、10日間のコースを6回と8日間のコースを8回おえ、かなりいろいろなことが明らかになった。そこで「ヴィパッサナの勧め」とでもいうべきファイルをまとめようと思い立ったが、ゴエンカ氏のやり方にかぎらず、他のヴィパッサナのやり方もあるのでそれを調べてみたら、いろいろと面白いことがわかってきた。
そこでこのファイルでは禅との関係も含め、ヴィパッサナの全体像と言うべきものを私なりにまとめようと試みたわけである。この辺について、修行体験のない人は読んでも検討がつかないという可能性があるかもしれない。また私の体験・見方がまだいたらないところもあるとも思うが、それはそれなりに、ここにまとめたものが、なにかのよいきっかけになるということも考えられるので興味のある方に読んでいただければ幸いとするものです。
(注)グリーンヒル瞑想研究所のサイトで見つけたいくつかの体験例(部分)を以下に転載しましたがその転載願いを9月25日付けメールで許可していただきましたことに深く感謝いたします。
2008年9月28日 洲崎 清
グリーンヒル瞑想研究所地橋氏のHP(http://www.satisati.jp/index.htm )を読み、氏の歩行瞑想やサティ(気づき)を入れるというやり方をいろいろ試してみてゴエンカ氏のヴィパッサナから体得したものと対応させながらそのとき得られた感じ・印象(修証の経過)をここにまとめておきます。
私なりにまとめを一言で言うと、どちらも『サティ(気づき)をいれ現在、あるがままの姿、感覚をそのまま認識するというのは煩悩の消滅につながる。これはまたはピティ(法にそっているという喜び*)にもつながり、智慧の発現につながる。』というもの。 (*注:Piti, あるいはRaptureを私なりに、「法にそっているという喜び)と解釈しています。法のはたらき、あるいは法にそっているということに気づくという機関を人がもっているということの不思議です。)
このやり方は従来私がいう「対処しない対処」という意味あいとおなじ。あるがままそのときそのとき起こっていることを「知覚を鋭敏に平静な心」を持って受け止めると智慧が働き、またその心そのものがいわば安心・平安の境地というわけ。したがってサティを入れるというやり方とゴエンカ氏のヴィパッサナとねらい・効果は似ているように思える。
ただしサティをいれ、そのとき現れている現象をラベリング・言語化(確認)する、というのは地橋氏も言っているとおり、このやりかたが機械化(たとえば意識的に先取り)され、あるいはマントラ(心の癖)化されると意味がないというのはまさにそのとうりで、いわば心の働きが散乱しないよう、まずはそのときそのときおこっている現象にとにかく「集中」する(いわば心を散乱しないようおさえこみ、智慧をはたらかしめる)というところが大事といえる。
ところで、なぜそれが上でいう効果にむすびつくかというのが不思議なわけで、その説明は氏のHP には見つからなかったが、私の見るところではこうなる:
つまり、サティをいれるということは、意識の働きを「今・ここ」でおこっていることにあわせ、そのとき煩悩が働いているのなら、その煩悩をあるがままに受け入れ、直視し(そのはたらきがいわばMultiply・拡散しないように限定して)無意識から生命の働き=法の働きが働くようにするということになる。つまりこれは道元の言う「仏の家に投げ出して、、」の意味あいで、生命体の本来の働き(仏性)が現成するというのをねらっているわけだ。
「ただわが身をも、心をも、はなち忘れて、仏の家になげいれて、仏の方より行われてこれにしたがいもてゆくとき、力をもいれず、心をもついやさずして仏となる」−道元
この辺に関して以前にHPに載せたもので煩悩の冷凍→破壊(「煩悩爆破」)というやり方をまとめたものがある。端的に言えば定→慧。つまり「知覚の鋭敏化+平静な心」において「自己組織性」(→智慧)が働き、その自ずから然りの働きが、煩悩というつまらぬ生命力の無駄遣いがなされないよう、無意識からの働き(無為)におまかせするのである。
禅で言う非思量がここでいう「冷凍」の意味合いで、意識(こころ)のかってな一人歩き(→煩悩・モンキーマインド)を抑え、目の前の問題状況の観察をしつづけると(サティ:気づき→観察)、おのずから解(智慧)が得られるというわけだ。
ここでもう一度ことばの意味あいをはっきりさせるなら、サティ(気づき)は要はヴィパッサナのポイント、『平静な心で、そのときそのときに心の動きを含め、「自分」の内外で起こっている現象をあるがままに知覚・確認する』、ということだろう。
ネットで調べたところでは、スマナサーラ長老は『サティの実践というものは、その瞬間その瞬間で、現れては消えてゆく感覚を確認することです。』としています。(http://www.j-theravada.net/qa/gimon20-21.html#ppqa20 http://www.j-theravada.net/qa/gimon12.html 参照 )
そこでサティを入れるというのは、ひとつにはほおっておくと時として悪さをしかねないこころ(一般にいう意識)をそのときそのとき「今に縛り付ける」あるいは「冷凍」、つまり「心の放逸な癖によって勝手なことをしないようにじっと動かさない」という意味があると思う。
サティを入れるという感じを私なりにしばらく試してみて、「煩悩爆破」ということで何年か前に書いた、その体験(そのときの感触)によく似ていることが明らかになった。以下は、そのとき心の「垣根と莫妄想」という題で書いたものをもとにまとめたものである:
「創造性開発の原理原則」と言う本で中山正和さんは垣根に入れるという表現をしていた。いわく、「妄想する時にはイメージ記憶を垣根で囲ってしまう事が出来ず、いつまでたっても記憶の自在性を確保する事が出来ない。」−つまり智慧がでない。http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/zakkichou-1.html#_Toc137884723
怠け禅といって座らない禅を勧めていた中山さんが(公案によるとは思うが)どうやってそういう見地にたどりついたのか興味深いがそれはそれとして、そのときの体験をかいたもののまとめをここにも載せておく。(ただしこのやり方を試したときは私は禅やヴィパッサナ(ゴエンカ氏)の修行などをすでにかなり進めていたので、私の体験がそのまま他の人にもあてはまるかどうかというのは不明。):
―妄想がそのままその瞬間に凍りずけになっちゃうわけだ(から面白い)。
―これをいろいろな状況で試すとピタット決まるのがほとんどみたいだが、決まる時には「凍りずけ」で、思考がそのときピタットストップし、又その瞬間に周りの状況がピタットわかる(知覚が鋭敏)といった具合。
―「凍りずけ」は、妄想の論理とそのときいじ繰り回しているイメージをそのまま、瞬間冷凍してしまうということ。いわば本当に一息、あるいは即、一瞬、そのまま、である
―「冷凍」と禅でいう非思量は同義とみられる。
―そのとき、即今が取り戻され、煩悩のプログラムに犯された脳の回路がショックを受ける。「冷凍」の処理はそれまで動いていたものがその瞬間にとまるわけだから、いってみれば「なんだなんだ!」「どうなっているんだ!」と、体に非常事態が宣言されるといった感じ。
―それは又、絶体絶命の体験でもある。動けないとにっちもさっちもいかない。苦しいとおもう間もない。唯じっとそのときの状況をあるがままに受け止め、絶望と一緒に成る。
―煩悩を爆破する(解消する)というのは冷凍して(非思量して)じっとしていれば、自然とそうなるという話しなのだが、言ってみれば大きな爆破は禅でいう悟り・見性ということに成る。
―何もしない(あるいは出来ないようにもって行く)、すると自然と歪、隔てが取れて体、心がいわば統一されるといった感じ。べつに頭でいじる事をしないのだから、自然治癒力が働いて、傷(煩悩、苦しみ)が治るわけだ。
―是が日常の場合(動中の工夫)においてどうなのかと言うと、いわば小さな爆破と言うことになる。まあ、無駄な頭の使い方が減るわけだから、生きるという事にそってなすべきことがわかり、智慧が働くから、生き生きの世界が開けてくる。
(以上の原文は創造性雑記帳という題でHPに載せてあります:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/zakkichou-1.html#_Toc137884724 )
(うえのもののあと、冷凍、心の垣根、意、煩悩爆破、脱落、全機という題でまとめたものもあります:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/zakkichou-1.html#_Toc137884730 )
そのときの中山さんの垣根で囲ってしまうと言うやり方の検証もそれながら、サティを入れるというのをこの一週間ほどとことん進めてみると、ラベリングもいいが、ラベリングなしのサティ(つまりことばを介在させないで一秒間に何回ものサティがなされるという感じ)をして全身の知覚が鋭敏に成った状態は、ゴエンカ氏の第一回目の10日間のヴィパッサナ・コースでのバンガ(身心脱落の体験、〜見性)体験のあと体が新しくなった感じ(10日間ほど体が喜びに震え、宙に浮いているよう)とも似ていると思う。
そのときは、業のお荷物を降ろし、そのあと体の知覚が鋭敏になったという経過があるので、その効果はよく知っているのだが、ここでいうサティをいれるやり方はかなり動中の工夫(つまり日常浮かんでくる煩悩を消し去るということ)に役立つわけだ。ひとことでいうならサティを入れるというのはそのときそのときのこと・ありかたをあるがままに気づいているということなので、これが発展すると以前にHPにまとめた「鏡の心」に相当するのだが、「鏡の心」の意味あいはサティを入れようという「意志」なしにおのずからサティが勝手にどんどん入っている状況という意味あいがある。
(鏡の心についてはここを参照のこと:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html
ヴィパッサナとの関係はこの付録にも載せてありますが、端的にいえば「鋭敏な知覚+平静な心」=鏡の心、とみられるでしょう。常にそれが働いているかどうかが鍵というわけです。)
(サティ・動中の工夫はまたWilbro氏の観想の方法:http://www.geocities.jp/suzakicojp/guide.html
とも通じるところがあると思います。これについては後述します。)
ところで白隠が「動中の工夫は静中に勝ること百千万億倍」にも相当すると言っていますが、まさにそのとうり。この辺のところを体得し、日々の行動に生かすというのが法の道を歩むものとしての大事なポイントでしょう。特に白隠の場合を調べてみると彼の見性体験を踏まえた後に行き着いたのがこの言葉・心境と思います。これは釈迦のいう「正理と法の領域のみを歩んできた。これ以外には〔道の人〕なるものも存在しない。」という言葉とも通じるのでしょう。
グリーンヒル瞑想研究所、地橋氏のサイトから見つけた体験例(一部)と私なりの感想・コメントを下に示します(http://www.satisati.jp/index.htm ):
〔ケース1〕40代女性 東京都 (www.satisati.jp/5-0page.htm より )
次の日、またこの恐るべきお店へ行くことになりました。
。。。 昨日の記憶が蘇り、またパニックを起こしそうになりました。。。
しかしよい解決案が浮かびました。
「そうだ、この状況をヴィパッサナーで乗り越えよう。先生はいつも『苦受(苦痛)が多いときほど、ヴィパッサナーの修行にはよいチャンスなのですよ』とおっしゃっている。それなら、ここでサティがどれだけ入るかやってみよう」
と、意を決してそのお店に入っていきました。
まず、看板を「見た」「嫌悪」とサティを入れ、地下の階段を踏みしめながら「右、左、右、左」と下りていきました。
ドアの所で、「(頭上の電気のスイッチを)押した」
「(カギを)入れた、回した」
「(ドアに)ふれた」「(ドアを)開けた」
。。。((長いので略))。。。
「右、左、右、左」
と、サティを入れながら階段を上って来ました。
昨日のパニックが嘘のように、驚くほど心が静かでした。
昨日は、見たことにも、考えたことにも、五感にふれたことに全くサティが入らなかったため、心がすぐさま妄想の世界に没入してしまっていたようです。
この体験を通してそのことがはっきり分かりました。
ちはし先生が
「ブッダは、人の心は、三毒に冒されている、とおっしゃっています。
三毒とは、貪り、怒り、無知の心です。
どんな人でも例外なく三毒の心を持っていますが、あなたの場合は、傾向として『怒り』のタイプかもしれませんね。物事に反応するときに≪対象を嫌う心≫が反射的に起ち上がりやすい傾向があるということです。そういうクセをつけただけのことですが。
不快感→嫌悪→怒り・・・・と、不善心が成長していきますので、なるべく早い段階でサティ(気づき)を入れて見送ってしまうように努めてください。≪怒りの心≫と戦ったりせずに、ただ『怒り』『怒り』と気づくことによって手離していくのがヴィパッサナー瞑想なのです」
と、ご指導いただいたことを思い出しました。
その時は「私はそんなに怒りや嫌悪が強いかしら?」と半分疑問だったのですが、今回の経験で自分の心に潜んでいる「怒り」や「嫌悪」が、これほど自分の心と身体を苦しめるものなのか、ということを仕事の現場で体験させていただきました。
そして、とっさに反応してしまう『怒り』や『嫌悪』にいつでもサティが入るようになれば、苦しみのない人生が本当にあり得るのだということ。そのためにもしっかりヴィパッサナーのトレーニングを積ませて頂きたい、と決意を新たにするきっかけになりました。
(感想・コメント)
>なるべく早い段階でサティ(気づき)を入れて見送ってしまうように、、、
はまさに真実のポイントと思う。こころが拡散、ないしMultiplyしないうちに、じっと見きわめてサティを入れる(対処しない対処をする)と言う具合!
==
〔ケース2〕男性 千葉県 (www.satisati.jp/yorokobi.htm より)
次の例もラベリングのやり方についての事例(ラベリングは修行が進めば必要ないように思うが、特に初期の心の大きく振れるような段階ではこういうのが役に立つということだろう):
「怒っている。」 「怒り。」とサティを入れてもイライラが静まらない。
家族とちょっと口論になってしまい、イライラを止めようとサティを入れたのだが、ほとんど変化なし。
そこで、もう少し心をよく見よう、と思ってラベリングの言葉を変えてみる。
「・・・自己嫌悪している。」 「・・後悔!」
この「後悔。」というラベリングが入った途端、さっと心が静かになっていた。
どうやら、怒り→なんでこんなくだらない事で怒っているんだ→後悔→イライラという一連の反応を起こしていたようだ。確かに毎度、毎度、決まりきったラベリングでは駄目、というのは本当だと実感した。
(感想・コメント)
>怒り→なんでこんなくだらない事で怒っているんだ→後悔→イライラ、、、:
で「怒り」で即座にサティが入っていればそこでとまっていたものの、タイミングを失って、こころが後悔、、、にいたったところでやっと追いついて「後悔」と言うサティが入ったと見える。そのときそのときの状況に遅れないように(即事的に)サティを入れるべし、と言うことだろう。
>さっと心が静かになっていた:
これは、いわば意識と無意識、心と体の間の障壁・ひっかかりが取れて、すっとするといった感じがあると思う。スポーツならいわゆる「ゾーンに入る」という感じに似ているだろう。物事がうまくいくときは心も体も無駄がないので「快感」が伴う、と言うことだろう。これは法の働きを体で感じる「意識」(6識)と言う意味あい。自ずから然りでストレスがたまらないからゆったり・淡々というのが私の体験。またストレスがたまってもこれは静中の工夫・坐禅―ゴエンカ氏のヴィパッサナでは体の知覚のスキャン―でリリースできるということになる。
なおヴィパッサナと私自身の修証の進めかたということについては「十地経を読む」というファイルにまとめてあります:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html
==
〔ケース3〕大学助教授、54歳
(http://www.satisati.jp/5-0-0page.htm より)
次の体験は私の言う「鏡の心」(知覚+平静な心)の一例と言える。
一人の学生がだいぶ遅刻して講義中の教室に入って来て、目の前を横切っていくのに感情が波立たないのである。本当は<見た。見た>とラベリングできれば完全なサティになるのだろうが、そうできた訳ではなかった。
しかし遅れたうえに何を勘違いしているのか、堂々といった風情で図々しく着席するのが目に入っているのに
『礼儀を知らないな』とは思いつつも
<来た>
<歩いている>
<あそこに座った>
と平静で観察している自分を見ているのである。
(感想・コメント)
この場合は流れに沿って、と言う感じ。ぴたっぴたっとサティーが入るから引っかからないで淡々としている。「我関せず」といった感じ。あるいは「我」=別人といった感じ。とわいえ知覚は即事的に鋭敏に働いている。
以下は私のHPに載せたWilbro氏の「観想の方法」http://www.geocities.jp/suzakicojp/guide.html からの抜粋。ともに同じところを観ていることがわかる。
>解決法は、まず、我々が不注意であるということに気づくように、我々自身を目覚めた状況(気づきの場)におくことにより始まります。これはまた、目の前に起こっていることに我々がなんらかの反応・反発をしているということそのものに、注意を払うというわけです。
>そのようにすることにより、我々は“ものごとが起こった後で”(つまり『事後的』に)注意を向けるのではなく、“ものごとの起こっているその流れにそって”(つまり『即事的・渦中的』に)、そこで何が起こっているのかに注意を払うのです。
>ここで、そういった内観(つまり、今ここで、何が起こっているかというところに注意をはらうこと)から生み出される智慧によって、我々は(我々自身のおかれた)問題的な状態(つまり、たとえば煩悩や心理的葛藤など)から離脱し始め、その過程で、何が(本当の)問題であるかに気づくというわけです。
要は「平静な心で知覚を鋭敏に」観察、というわけだ。鏡の心についてはHPに載せてあります:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html
==
〔ケース4〕女性 東京都 (http://www.satisati.jp/yorokobi.htm より)
次の例は、自分の心を平静に保つだけでなく、さらに慈悲の願いに結びついている。
「怒り!」
無意識に絶妙なタイミングでサティが入った。
その途端、シャボン玉がパンッとはじけるように一瞬にして怒りが消え去り、驚いたことに暖かいやさしい思いが溢れてきた。
「あの人は夜勤明けで疲れていたんだ。」。。。
これらのことは一瞬にして起こった。初めて参加した短期合宿終了翌日の朝のことである。そしてその一瞬ののち、「サティが入るってこういうことなのか!」「サティがバシッと入るとこんなふうになれるんだ!」ということをその時初めて自分自身で認識できたのだ。
(感想・コメント)
自分の状況が明確に把握されると、判断が正しくなる、、、といったもので、周りの状況の判断もより正しくできるということだろう。観察の枠・視野が広がって相手の立場に立って物を見るというところまで進むと、自分のひずみを取るというだけでなく、まわりの問題・ひずみの解決まで可能になるということだろう。
ここでみてきたように刻々と変わる状況のなか、心の動きを煩悩に陥らずにいかに正しく働かしめるか、というのは禅でいう動中の工夫につながる。これはまた意識・無意識の関係を正しくし、生き生きと生をまっとうするというところにつながる。
無意識の働きが活性化すると、(過去に培った心の癖・サンカラ・悪業の排除というのが大きな課題としてあるわけだが)「生きる主体」が働いて余計なことはしなくなり、あたかも第三の目が開いたかのように、つまり目覚めたかのように感ずることがある。あるがままに物事がよく見え、洞察力が高まり、すべてが「自然」に生かされていると言う感じがあり、そのままでありがたいと感謝の心がわいてくる。
無論すべては無常であり、なにかわかったというのはそのまま落とし穴を自ら作るということにもつながる。もともと煩悩というのはそういう落とし穴が気づかないうちに培われてできた余計な心の癖によるとみるべきである。
だからその辺をよく見極め、あたかも身心のお風呂に入るようにときどきは丁寧に心の深部まで垢を落とすというのが実践的な見方と言えるだろう。ちなみにこの比喩は地橋さんも使っていたというのが面白いが、実際そういう生き生きとした感じ(→禅でいう全機現)がするのである。
動中の工夫がいかに垢を落とすのか、あるいは静中の工夫(座ってやる瞑想)がそれにどう寄与するか、ということがあるが、マッサージをいろいろな角度からするのが効果的であるように、両者のバランスを取って進めるということだろう。(無論はじめはそのバランスがよくわからないというところから始まるわけだから、ここの洞察がうまくできるというのはかなり修行の進んできた場合にしてはじめていえるのだろう。キャッチー22−パラドックス−である。)
いずれにしろ、サティをいれ、智慧がそこで働けば1)意識に上ってきた問題(煩悩)の解決に役立つであろうし、2)その問題(煩悩)が根っこから取れれば、その下にある問題(無意識の中に横たわった心の癖、サンカラ)にも同様に、対処しない対処をすすめ、つぎつぎと根っこをとるという風に進められるであろう。ただ、このでみたやり方が静中の工夫(たとえばゴエンカ氏のやり方)とどう効果が違うかというのは微妙なところであり、一概にいえないかもしれないが、両方を使って進めるというのはそれでいいように思う。
(禅でいう公案による修行も似たような効果を発揮すると思う。それについてはここでは深く言及しないが一言で言えば、「無意識の意識」の働きの活性化ということである。)
ゴエンカ氏の言う方法と究極的には同じと言う直観があるし、私自身試してみて体験的にもかなり似ているのではないか、という感じがあるが、さらに地橋氏のグリーンヒル瞑想研究所のコースに行った人の体験談をよむと大変参考になる。たとえば次の例は坐禅での修行(上でいう静中の工夫に相当):
〔ケース5〕主婦 東京都 (http://www.satisati.jp/5-1page.htm より)
座禅をすることにしました。座り始めて、すぐに眠気が出てきたときは
「ああ、コーヒーを飲まなかったから、しかたがない」
と思い「眠気」とサティを一つ入れました。その時、心の中で
「どうせお茶を飲めなかったのだから、せめて眠りの甘さだけでも味わってやろう」
と思い眠気の甘さを味わうように「眠気、眠気、眠気」とサティを入れました。すると、眠気は霧が晴れるようにスーと消えていきました。
そのときは何の感動もなく「なんだ、取れてしまった」と思いました。少しすると、また眠気が出てきたので「シメ、シメ、また味わってやろう」と「眠気、眠気、眠気」とサティを入れました。眠気は前と同じように、スーと消えていき、以後、その座禅が終わるまでは再び出てくることがありませんでした。
私はやっと、睡魔に勝つことが出来たうれしさに調子に乗ってニヤニヤと、
「もうこれで、この合宿に来た目的は達したようなものだから帰ってもいいぐらいです」
と、面接の時にポロッと言ってしまいました。すると先生は、突然、座り直して、気迫に満ちた目で私を射るように見すえて、
「とてもいい経験ですね。でも、それで目的をとげたと思い、家に帰っても、ドウッカ(苦)がなくなる訳じゃありませんよ。灰かぐらのようにドウッカ(苦)にまみれてただのたうち苦しむか、サティで平然とドウッカをドウッカと感じないで静かに生きていくか、二つに一つです」
http://www.satisati.jp/5-1page.htm
(感想・コメント)
私なりに解釈すると、上の場合眠気は、自然の眠気と言うより怠惰な感情(煩悩)が眠気と言う形に表れていたとみるべきなのでしょう。だからそのあり方を直視すると、煩悩の正体があたかも智慧の光に照らされて消えるように、煩悩=怠惰=眠気が消えていったという風に見えます。あるがままをあるがままに直視する(対処しない対処)と智慧が働くというわけです。
ゴエンカ氏のヴィパッサナの場合、サティを入れるという方向付けは特にせず、体ないし息の知覚を鋭敏にすることによっていわば自動的にサティがはいる、つまり今・ここで何が起こっているかを鋭敏に知覚する、ということをアーナパーナを修行することによって体得する、ということと見られます。
いろいろ参考になることが書いてあります。転載の許可をいただくのに手間がかかりそうなのでここにはコピーはしませんが以下のサイトを御参照されるのがよいと思います:
http://www.j-theravada.net/qa/gimon12.html
http://www.j-theravada.net/qa/index2.html#01
これもネットで見つけた体験記です:http://www.satisati.jp/5-0-1page.htm 山守さん(31歳、神奈川県)は地橋さんのグリーンヒル瞑想研究所での体験をもとに日常出会った問題にサティーをいれ工夫を進める過程を丁寧に書かれています。大変よく書かれており、まず読みながら私なりのコメントをつけましたがすべてをここに載せるには長すぎるのでポイントと思われるところのみ以下に示します。
―動中の工夫の様子がよくわかる。また、テーマを絞って随感することによる効果がわかる。
―即興で生きるというのはいわば「心の欲するところに従って矩を超えず」であるから、これは容易なことではない。たとえば私の「十地経を読む」のファイルを参照。
―煩悩=貪瞋痴の根っこは自我!我欲、あるいは十悪=殺生、偸盗、邪淫、 妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、愚癡のどれかなのだろう。
―欲がどこから来たか、、、その根っこを引き抜くというのは、そのありのままの姿を作為を入れずに「あるがままに見つめる」、、、ということ。
―即興→応無所住而生其心、柔軟心。仕組まない。あせらない。お任せ。
―余計なことはしない=かかわらない。自ずから然り、こつこつ・たんたん、余計な価値観にはこだわらず=お荷物をしょわない。=流れに乗る。お任せする。
―あるがままをあるがままに観、あるがままに受け止める。ただし、あるがままだから受け止める主体もあえて探す必要もないし、この先どうなるかを考えることもない。それがあるがまま=定。
―心の随観:問題意識を持って、心を自在におく→自己組織性がはたらいて智慧が出る。=公案を解くようなもの=心を自在に置き、浮かんでくるアイデアをチェック、当てはめてみる。
以下にまとめをしておきます
まず煩悩は心と体の両方に現れるということ。(→身心一如、五感の知覚が鍵)その煩悩にとらわれない、あるいはその煩悩の根っこを抜くためには、そのとき何がどうなっているのか(「わだかまり」など)を敏感に知覚するというのが大事。煩悩が消えたとき(「サッとひいた」など)を観て取れるのも大事。(→無常の体験)ともにその感覚を心身のあり方から即座に、敏感に感じられるようになっていないと、ヴィパッサナのねらいは基盤から崩れるということに成る。
簡単に言えば、山守さんのやり方は、1)あたえられた目の前の自分自身の問題(〜公案)をとくやりかたを取っているようだが、ゴエンカ氏のやり方は、2)対象がなんにしろ(「もやもや」など)からだの感覚そのものをダイレクトに、ただ観察することによって「処理」するやり方(つまり原因は問わない)である。
ところで普通公案をとくというのは、問題意識を持ち、非思量で自ずから然りの、無意識の働き(つまり記憶の自己組織性)を使ってしかるべき解を見出すということといえよう。ところが盤珪もいうように公案のもつ問題は「問題」を(それが究極ではそうでないにしても)いわば作為的に作っているとみなされるところにある。
それにたいして山守さんがここでやっているのは、「今・ここ」での心のうごきを観ずることによって、そこでみいだされた問題・テーマに対しての解を、「今・ここ」(非思量)の状態をさらにつづけることにおいて、ぽっぽっと出てきた無意識からのメッセージ(これもサティーを入れる)を「当てはめて」みてそのときの身心の整合具合(→もやもや・わだかまりか、すっきり・サッと引いたか)をチェックすることにより解を見出す、と言う(いわば対症法的)やり方になっている。
これは、あたかもあるテーマ(問題)をあたえ、ひとりでブレインストーミングをするような、あるいは意識された問題提起を無意識がうけとり自己組織性で出てきた答えをあたかもキャッチボールをするごとく意識に投げ返す、といった具合である。(注:この辺のメカニズムについて、地橋さんの本を読めばもっと詳しく書いてあるのかもしれないが、あいにく私は読んでません。)
1)と2)と、それぞれ一長一短があるようだが究極的には心の「扱い方」(意識・無意識のやり取り)をマスターしたものにとってはこの違いは大きなものでなく、山の登りかた(山の登り口)がちょっと違うといったところではないかと思う。
ところで前述の冷凍、煩悩爆破のやり方(つまり中山さんのいう「イメージ記憶を垣根で囲ってしまう」というやり方)は「悩んでも解決しないことは悩まない」(→莫妄想)という「意志」が働いているようだ。同じようなことを経営コンサルタントの大前研一さんもいっているが、般若の智慧でスパッと切るというわけで、はやいはなし苦集滅道とはこのことという感じもある。
これができれば頭の使い方が法にそったものになるから、心のフィルターがとれるので真実の姿がよく見え、勘もはたらく、判断はまぎれがなく、智慧がでるということになる。ある意味で言えば、苦集滅道はかつて培った心の癖を直すという(後ろ向きな、いわば心の病を治す)ものだが、これが(前向きにも、つまり、心を健康にし)頭をうまく使って働かす、ということになる。(→禅には、「趙州の12時を使う」と言う公案がある)
ただしここでいうことが理論的に(つまり頭で)わかっても、これは心の癖(サンカラ)にかかわるものであり、自分の心の癖はその性格上、自分ではわかりにくいという構造になっているし、よい癖も悪い癖も、癖はほおって置くと自然と身につくものだ。したがって、ここを収めるべく修証は人として生きている限り続くというわけでこれは道元などの言う修証一等の意味するところと同じとみる。(→禅では「釈迦に会ったら釈迦を殺せ」というわけだ。わかってなかったということはわかった後でないとわからないのである。気づいてなかったというのは気づいた後ではじめてわかるのである。)
この辺は微妙なところだが、1)、2)の方法と、「冷凍」「煩悩爆破」のやり方、Wilbro氏の観想の方法、などもふくめ、ひとつのやり方だけでなくある程度使い方を習熟したなら、状況によっては他の方法も実践的に使うということもありうるのではないかと思う。うまくっているかどうかをチェックしながら「智慧」を使って実践的に対応するということになる。
これは釈迦がいろいろと対機説法をしたというところからみてわからないではない。ただこれを初心のものが混乱したままいろいろなテクニックをやる、あるいはまぜこぜにする、というのは無意識にかかわることは注意しないといろいろ問題をかもし出すということもあるだろうから、そう勧められることではないだろう。
ここでひとつ思い出すのはウ・バ・キン氏がヴィパッサナをビルマでやったときにはビルマの僧侶はうける対象外としたということ(があるらしい)。この原因はわからないが、異なった修行を混ぜることによる問題もあるかもしれないし、やり方・教え方・ねらいの違いなどで難しいところがあるのかもしれない。(山守さんの場合のテーマ(問題)を決めて随感をするというのはサティ・パターナでいう無常を観るということから離れるからそういう意味ではゴエンカ氏のヴィパッサナとは異なるといえよう。)
ところで私の場合、30年近く前に大拙の本に出会って以来、禅にはいり、参禅して公案をやったり、中山さん、Wilbroさん、と出会い、8年前からヴィパッサナ(ゴエンカ氏)の修行をし、真宗やいろいろなお経などもチェックし、これらの流れが一点を指し示しており、それがようやく体験的にも「わかる」(感じがする、共感がもてる)というまことに不思議で面白い経過をたどってきたわけだが、人としての構造は変わらないから修と証は依然として続くわけであり、法の道と言うもののありがたさとともに、その深さのはかりしれないことにこれまた不思議な感じを持つものです。
今振り返ってみるとポイントはいかにも簡単なことでありながら、それまでに培ってきた心の癖をひっくり返すという意味あいがあるので、もしこれを読んで何か意味あいを感じる人があれば、なるだけ早い機会に少しづつでもこの道を歩む覚悟を決め、修行・努力を始めるというのがいいのではないかと思うわけです。
マハシ(ラベリング)とアーナパーナについてネットでこういうものがありました:
「 アーナパーナをやった場合に日常生活をどう生活するのかとなると、常に“吸う、吐く”で飛んで行った思いを戻してくるものとして使えます。マハシの場合はそこにラベリングをするのですけれど、アーナパーナの場合は、飛んで行った先でなく、戻ってくる場所を提供するのです。」
これは思いがでできてそれにとらわれないためにアーナパーナを使う工夫について:
「アーナパーナをして、入息と出息を見続ける。これを絶対に手放してはだめです。これをしている限り、湧き起こってくる思いを見ることはできます。これを忘れたら思いの世界に入ってしまいますよ。そしたら世間とまったく同じことだから。だから瞑想の最中にいろんなことが起こってきた時にどう見るかと言うと、アーナパーナを手放さない。そこがキーポイントになってきます。
入息と出息を見つめた上で、湧き起こってくる思いを外から見るしかないでしょう。それを忘れると、思いの世界に入ってしまって、どうせ見られないです。余りにも辛すぎて。
アーナパーナさえ手放さなければ安全地帯にいるのです。安全地帯にいるからこそ見られるのです。」
ついでにこれは一般論:
「自分の思いの世界といっても、空気みたいなものでずっとその中で生きているから自分では見えない訳です。当たり前のものになっているから。そういう作業をしていくと自分自身が、自分の作った世界の中で生きているというのが見えてくれば、そこで、初めて、自分の世界で生きている限り解決が付かないと分かりそれを捨てることができる。。。
だから、(思いを)捨てるといってもいきなりは無理なのです。無理なのだけれども、捨てるということを強調しているのは、心の世界にいる限りどうにも解決が付かないのだという覚悟を持って欲しいということ。だからと言って、パッとは出られないのです。なぜかと言うとこの世界でずっと生きてきているのだから。ずっと生きてきた痕跡というか、癖ですね、例えば、タバコを20年吸ってきた人が今日から止めますといってもすぐにはやめられないじゃないですか。やめたとたんにすごい禁断症状を起こすわけです。。。
仏教の場合の怒りとか、貪りは、あるものに対して貪りや怒りを持つという、そんな単純な話ではないのです。そうではなくて、貪って執着している対象が存在しないのに、実体があって存在するかのように我々は思い込んで、それに対して執着を持ってしまうのです。。。
仏教というのは執着を持ってはいけない、貪ってはいけないと言うという単純なものではなくて、あなたが執着している対象そのものが実は幻なんだ、実体のないものなのだ、という、だから執着や貪りが意味を持たないということです。。。
確かにトラウマ的な重いものもあります。非常に深く傷つけられたことがあれば、それは重いです。そうするとその後の人生に決定的に影響を持つだろう。だけどもそういうものですら見ていけば実体のないものとして見えてくる。見えてきたらそれが自分の人生を支配することはもうないです。」
動中の工夫と「今、ここ」の意味あいについて:
「思い(煩悩)から解放されるためには逆をすればいいわけです。要するに「今、ここ」って言う場所に戻ってくればいいのです。というのは思いっていうものが「今、ここ」から皆さんを連れて行くとしたら、思いから解放されるためには「今、ここ」っていう場所に戻るっていうのが基本なのです。だから「今、ここ」っていうのがずっとスピリチュアルな伝統の中で言われ続けてきたっていうのは、ただ単に日常生活を大事にしろとか、そういうレベルの話じゃなくて、「今、ここ」っていうものの中に全てが入っている。要するに解放されたものが「今、ここ」の中にあるってことなのです。」
「思いの正体に気付けば、この世の苦しみはみな自分の心が作り出しているということが見えてきます。そのような気付きを得ると、日常生活での意識のあり方も変わります。普段は、悪いのは誰々だ、あいつのせいだ、などと思っていますが、本当は自分の心が苦しみを作っているとわかるのです。問題が自分の心にあるということは、問題解決の主導権は自分の手の中にあるということです。」
(山下良道氏、滞在記番外編3http://www.geocities.jp/sudhammacara_bk/ により、転載許可を申請しましたがメールが届かないようです。差し支えあるようでしたらご連絡お願いします。)
ここを私なりにコメントすると:
1)ラベリングすると(冷凍→)止→定慧で解決がある。冷凍するといきようがないからしかるべきところ(今、ここ)に戻らざるを得ない。そこに解決がある。
2)アーナパーナで戻ってくる(あるいは離れない)ところは静寂と鋭敏な知覚、つまり「今、ここ」を離れない。そこで無意識の意識が働いているのならいつもそこに解決がある。
これらがなぜそうなるかというと生きるという働きは創造の原点の働きなので、そこに意識が結びつくとそこから答えが出る(→定慧)ようになっているということ。
ラベリングは瞑想のはじめの段階、あるいはきっかけではやることもありうるか、と言う程度でそれにあまりに(機械的に)とらわれると、本来のヴィパッサナのねらいである微妙なところが見えてこないように思います。ラベリングではとてもおっつかないというスピードあるいは微妙な知覚の気づきがあるわけですから。ラベリングなしであるがままに与えられた情況が気づくことができるなら、それがいいと思います。
両方するか、選ぶか。。。時に応じて片方をつかうか。それは技の習熟の程度などによって決めていけばよいように思います。また、はじめにどちらからやるかは、その人の性格・好き嫌いなどによって決まるものと思います。
但しバンガの体験はもとより、ADDの人、麻薬の人、マイグレン・の頭痛が治るなどというヴィパッサナ(ゴエンカ氏)の効果もあるわけですが、こういうのは根っこが深いからラベリングではなかなか追いつかないのではないかという気もします。とはいえ、ラベリングが一秒間にものすごいスピードで何回もという言葉でおいつかないレベルのサティになるということなら、それはそれで不思議な効果がでてくるかもしれないという直観はあります。
バンガについてはこれをご参考まで:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html#_Toc207425481
以下のものは山下良道氏、滞在記番外編1からの抜粋です。ご参考まで。アーナパーナで息を観る瞑想について書かれていますが、「サティを入れる」と言うやり方にも適用できるでしょう。また、これは動中の工夫でもそのまま適用できます。まさに真髄です。
こういう「見方」「やりかた」になれてない人にとってはあまりに簡単に過ぎるように思われるかもしれませんが、私のいう「対処したい対処」あるいは前述の「煩悩爆破」と言うのとまさに同じポイントです。効果は必ず現れるはずです。
「○否定的な思いをただ見つめる
ネガティブ(否定的)な思いが出てきたら、それをただ見つめてください。普段、私たちはそれをちゃんと見ていないのです。ちゃんと見ずに、ごまかしてごまかして心は変なふうにねじれていくのです。パチンコに行ってごまかしたり、誰かに八つ当たりしたり…そんな自分自身をさらに苦しめるようなことしか我々はやらないのです。
仏陀の例えを使えば、体に当たった一本の矢にうまく対処できなかったために、全く同じ場所に第二、第三の矢をどんどん自らが撃っているような状態であり、それは耐え切れない痛みなのです。第一の矢をうまく処置できていたら、もうそれで済んでいたはずなのに。
たとえば怒りが生じてきたとします。それに突き動かされて人にひどいことを言ったり、やったりすれば、相手にひどい物を投げるのですから、それは必ず自分に帰ってくるのです。相手は恨みを抱きその場で仕返しするか、さもなくば機会をうかがって後で復讐するでしょう。毒を投げればかならずそれは戻ってくるのです。最悪の事態となります。私たちはそういうことばかりやっているのです。
赤ん坊が泣き出したら(煩悩がいたずらしたら)、ただそれを見つめてください。何も他のことをする必要はありません。ただ見つめるだけです。見つめるとはどういうことかというと、根本は、抵抗しないということです。抵抗しないということは、受け入れるということです。今、抵抗せずに受け入れるということが、よくスピリチュアルな世界で言われています。例えば、雑音があるとしましょう。しかしこの世の中には、本当は雑音なんてありはしないのです。ある音に対して「うるさい!」と抵抗したとたんに、中立的だった単なる音という刺激が、雑音―嫌な音になってしまうのです。
我々は雑音というものがどこかに存在していると思っていますが、そんなもの本当はどこにもありません。心が音に抵抗するから雑音として感じられるのです。同様に、ネガティブな思いが心に起こってきたら、それと戦わないことです。仏陀は、「怒りがある時には、ただ怒りがあると見よ」とおっしゃいました。怒りと戦えとも、無視しろとも、押さえつけろとも言っていないのです。
見るということはどういうことかというと、抵抗せずに受け入れるということです。受け入れなくては正しく見られないのです。そのようにして受容していく、それだけで良いのです。」
(注)上の文は瞑想中(たとえばアーナパーナ)でも日常の場合でも同じ用に適用できるでしょう。
ついでにこれ↓も付け加えて起きます(心の動きをサティする→動中の工夫ということの「意味あい」がわかると思います)
「○この世苦しみはみな自分の心が作り出している
問題は心配というのは皆さんの心が作ってるのです。客観的な心配の原因は、確かにあります。あるけれどもそんなこと言い出したらきりがないでしょう。私たちの体は、どうせボロボロなのだから。こんなか弱い体なのだから、どうせみんな病気になるし、年とって死んでいくのです。だからそれを心配したらきりがないわけです。だけども問題はその心配の原因を外に求めて、それさえ取り除けば自分は心配から解放されるっていう妄想ですね、それが本当に妄想だって気づくことが第一歩なのです。心配っていうのは自分の心が作り出している。そこを押さえてください。
そういう風に、この世のほとんど全ての苦しみは我々の心が作り出している。我々の考え事が作り出している。我々が自分の作った世界の中にずぶずぶに入っちゃって、そこで苦しんでいる。だけどその世界、ずぶずぶに入っている世界自体は皆さんが作り出したのです。皆さんの心が作り出したのです。そういう苦しみの世界が客観的に存在してるわけじゃなくて、皆さんの心が作っている。要するに自分の心が作ったのだという所をまず見ないことには始まらないのです。
それはもう簡単に分かることではないから、よく考えてください。要するに考え事っていうものが、そういう風にして人間の全ての苦しみを作っているっていうことを本当に見極めてください。」
――
以下のものは静中の工夫です。これもアーナパーナの場合について書いてありますがヴィパッサナでいうサンカラ(心の悪い癖・業)をとる(つまり煩悩の矢を抜く)というところにつながります。
「○フタをしていたものが全部外れて出てくる
坐禅による足の痛みなど、たいした問題ではないのです。リトリートで辛いのは、今まで自分がごまかしていた問題が全部出てきてしまうということなのです。だからリトリートのしがいがあるのです。ゴミ掃除しに来たのに、ゴミが無くては話にならないでしょう。さて、掃除がうまい人というのは、どこにゴミがあるのかわかっている人です。部屋がぐちゃぐちゃでゴミだらけな人は、もうどれがゴミなのかもわかりませんから、片付けられないのです。しっかりと瞑想していく時に一番大事なのは、現れてきた心の問題を大事にするということです。赤ん坊が泣くということは、とても良いことなのです。赤ん坊なのに泣かないなんて怖いでしょう。おしめが濡れているのか、お腹がすいているのかもわからないのですから。
瞑想していれば、色々とネガティブな思いが出てくるでしょう。ふだん30分くらい瞑想しているだけでは、なかなか出てこないと思いますが、リトリートなどで1ヶ月も2カ月も朝から晩まで瞑想していると大変です。カリフォルニアでも、瞑想に耐え切れなくなって、バッと坐禅堂から逃げ出してしまう人もいました。その人に後で話を聞きますと、今日は調子良いなと思っていたら突然耐えられなくなってしまったということでした。何か心の問題が吹き出てきたのを見るのを恐れたのでしょうね。でも、その人も2ヶ月のリトリートで根本的に変わりました。ですから、そういう問題に直面するのは仕方がないことだし、また良いことなのです。
だって問題があるのですから。問題に直面したら、戦わず、無視せず、「智慧と慈悲」で対応するのです。そうすると、変わります。赤ん坊は泣き止みます。それがない限り、いつまでもいつまでも泣き続けるでしょう。1時間後までも、明日までも。」
「さて、瞑想し続けると現在性に安住することができます。絶えず現れる思いを手放して呼吸にもどり、「今、ここ」に落ち着くことで思いが作り上げた夢の世界から解放されます。すべての思いを手放した、ありのままの現在である「今、ここ」はいつも平和で、喜びに満ちた、静寂ですばらしい状態です。
思いの世界に沈んでいるときには、なにかネガティブ(否定的)な感覚を感じると思います。しかし、呼吸をただ見つめ、吸っている、吐いている、と気づいていくと、スッと解放される感覚を味わうことができます。たった1分でも思いから解放されて、「今、ここ」に安住できれば、それがどれほど平和な状態なのかを知ることができます。」
注)上の括弧「」内は山下さんのサイトからの抜粋です。
――
ここで注意しないといけないのは、初心の人の場合:
1)上の話を頭でわかっても何にもならないということ。
2)修行を進めるのは、いわば心の癖との戦いだから時間がかかるということ。3)要領・コツをつかまないと、途中まで行って疲れてやめてしまうということにもなりかねない。あるいは潜んでいる心の癖で「もうやめよう!」という悪魔の言葉に引っかかるということ。
だからある時間はコミットし、とことんやらないとなかなかブレークスルーというか、コツをつかみ、それを徐々に育てるということには成らないおそれがある、というわけです。修行をただしく習得し、それを継続するということが成功のひとつのかぎなのです。
他のファイルにも書いてきましたが私がこれまで8年ほど修行してきたゴエンカ氏のヴィパッサナの特徴をすこしここに書きとめておきます。
―まずアーナパーナについて:ゴエンカ氏の10日間のヴィパッサナ・コースではアーナパーナを3、5日やった後にヴィパッサナをやります。アーナパーナでは繊細な息の出入りを観察することにより、知覚を鋭敏にし、また心をひとつのことに集中できるように修行します。(上で見てきたサティは息のほかいろいろな知覚・心の動きも対象にしていますが、ゴエンカ氏のコースを修行した人は簡単にラベリングすることなく入っていけると思います。)
―初めての人は10日間のコースからというのがひとつの特徴です。私の体験に照らしてみるとこれはまことに的を得ており、業の根っこから根こそぎとるといった感じのバンガの体験を得たのが一回目のコースの8日目の午後ですので今だに大変ありがたいという思いを持ってます。ただし修行のすすみかたは人それぞれですので、一概にどうこうと言えないとは思います。
―ゴエンカ氏のコースに出ようと決心したのは、本を調べたり、ゴエンカ氏のセミナーに出たり、いろいろなチェックをしたところ実に理にかなっており、それまでいろいろ調べてきた禅の見方とも会うようであり、用心深い私もこれなら、ということで試したものです。修行の進め方が理にあっているのみならずコースの法話は何度聞いても当を得た深みのあるもので、毎年毎年聞いてもこちらが変わっていきますので、得るところが大というわけです。
―ゴエンカ氏は釈迦以来伝わってきたこのやり方をウ・バ・キン氏から踏襲しており、その修行の大きな効果のために仏教徒だけでなく、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教などほとんどすべての宗教人がこのやり方を試し効果をあげているということです。現在約50カ国、120箇所以上のセンターがすべてヴォランティア・ベースで運営されています。
―コースは施設も含めすべて過去にコースを受けた人の寄付で運営されており、ティーチャー、アシスタントティーチャー、サーバーなどだれもコースから収入を得るということはありません。法を広げるのはすべての人のためで、本来無料であるべきという釈尊のときからのサンガのあり方をなるべく踏襲しようと言うことでしょう。
―ヴィパッサナをやる前にゴエンカ氏はビルマでビジネスマンとして成功していた人であり、そのためと思われますが、宗教ということで時として見られるあいまいな管理がなされないよういろいろな工夫がされているのがありがたいところです。コースは基本的にはゴエンカ氏のヴィデオ、オーディオをもとにしてやっていますので、教えの内容に紛れがないようになっているというのもありがたいところです。個人的な問題はアシスタントティーチャーがサポートしますが、その対応の仕方もみな同じポイントを抑えているという感じがあります。
―ヴィパッサナのあくまでサイド・ベネフィットとしてですが、コースで聞いたものだけでもいろいろな効果が出ています。たとえばADD(Attention Deficit Disorder)の人が薬がいらなくなった。麻薬から足を洗った。マイグレンヘッドエイク(重症の頭痛)が直った。など。ただしそれらが目的でコースに来るという人はおそらく断られると思います。あくまでも修行の目的は法を学び、実践するというところにあるということでしょう。
―コースは一般に公開されていますが、刑務所でもコースが進められています。最近読んだ英語の本(Letter from the Dhamma Brothers)には米国アラバマ州でもっとも厳重な刑務所での10日間のコースの様子やその体験者の手紙などが載せてありましたが、その内容を読んで大変立派な変換を遂げた人がずいぶんでているのを知りびっくりし涙がでる思いをしました。インドの刑務所ではどこでもゴエンカ氏のヴィパッサナをやっているとのことです。
―ヴィパッサナ(ゴエンカ氏)体験記:
太田陽太郎氏は一回目のコース、5日目にバンガと思われる体験をされています。ご参考まで:
http://homepage2.nifty.com/yokido/10.meditation/meditation1.htm
ここではその体験後のコメントのみ示します:
『 ぼくはそのまま外に出た。真っ暗な庭にはすでに夜露がおりている。空を見上げると満天の星空だ。天の川もはっきり見える。スバルはすこしぼやけて見えるが、白鳥座やカシオペアがきれいに見える。とつぜん、涙があふれ出た。悲しいのではない、うれしいのだ。感動でからだがふるえてくる。こみあげる喜びに声を出して泣いた。
自分のからだはあの星空と同じように虚空なのだ。あの星空のように無数の星がかがやいていて、それらがめくるめくような速さで渦を巻いている。自分のからだは固体に見えるが、じつはガス体なのだ。 自分のからだであって自分のからだでない。自分の所有物と思っていたが、そうではない。神が貸し与えたものなのだ。それを、なんと自分は自分中心で生きてきたのだろう。すまない、申し訳ない。神様、ごめんなさい。いままでの自分の生き方を許してください。ほんとうにすみませんでした。そのことに気づかせていただいて感謝します。心からそう思い、涙がとめどなく流れた。』
*どういうわけか太田さんのやったコースは10日でなく9日になっていますがその理由はわかりません。
私のヴィパッサナ体験(あいにく英語です。8日目のバンガの体験も含めいろいろ書いてあります。このほかにも英語のヴィパッサナ体験レポートは4つ日本語ではひとつHPに載せてあります):http://www.geocities.com/suzakico/vipassanareport.html
私の見る限り禅はヴィパッサナあるいはサティと本来緊密なつながりがあるにもかかわらず、サティのねらいとも言うべき動中の工夫に関しての指導が禅では体系だってなされていない様に思う。つまり公案などで結論(いってみるならあるべき姿)は浮き出されているものの、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」のみでは片手落ちという感じがする。(この辺はHPにある「十地経を読む」というファイルもご参照ください)
白隠の場合も見性の後、「動中の工夫が静中の工夫の百千億倍」と言うことばを残し、「おにあざみ」という書に動中の工夫を説いているということがネットを調べてわかったが、その書の目次を読む限りあまり方法については述べられていないという感じがある。
これは私の直観であるが、一般には見性を重んじるあまり、動中の工夫がかるんじられているようなのだ。印可をもらったというある曹洞宗関係の人と話をしても、動中の工夫についてなんら見所がなかった。友達のアメリカ人で見性体験のある臨済宗僧侶も同じ。
あえて感じるままに書くのなら、禅が生き生きとその働きをあらわしめるのにそのようなことではならないと思う。要は禅は人格に現れなければならないということだ:
「教えだけではいかに真実でも決して十分でない。そこに尊いということがなくてはならぬ。道の広まるのは、その教えによるのではなくて、その人によるということはもちろんで、人格というものがそれに加わるというと、二と二は四になるものが、五になるという事実が生じてくるのである。。。。
ときどき、禅宗の人は,道と人は別物であるかのように説くが、それはまだ本当の道を知らぬのである。禅が一種の哲学組織なら、とにかく、そうでなくて宗教だと言うなら、最も人格の力を背景に持たなければならぬ。」
(鈴木大拙:「禅とは何か」http://www.katch.ne.jp/~hkenji/new_page_27.htm より)
(とくにこの部分について反論そのほかコメントがあれば是非、ご連絡ください)
知行合一というとたとえばお経の勉強と瞑想・坐禅というのがひとつある。それで2000年からこれまでヴィパッサナを続け、またヤフーの掲示板などに投稿したりHPに修証の経過をまとめたりしてきたが、すべては究極的には静中の工夫の更に進んだものとして動中の工夫に集約されるように思う。(お釈迦様はそれのさらに進んだものとして対機説法。禅の老師なら日常の行動すべてが公案の現われといったものだろう。大拙においては彼の挙動を岡村美穂子さんがすべて芸術といっていたところだ。)
ということで「動中の工夫」をここで再認識したいと思う。無論、いままで時に応じてやってきたので、それなりに効果はすでに感じているのだが、なんとなく、(生活の中での)動中の工夫とそれ以外の、お経を読むとか、ものを書くとか、坐禅をするというのとの間に、敷居ができているような感じもある。(これは動中の工夫以外の工夫は何かやっているという暗黙の了解が自分なりにあるのでそれとみあった心の癖ができ、やることがメカニカルに成りかねないという意味あいだ。)
ちなみに以前「十地経を読む」と言うファイルの「修証の管理項目 1」にこう書いた:
「動中の工夫がぴったり決まるということ。道からはずれる前にピンとわかって、溝に落ち込むというようなことはなくなるということをチェックする。私の場合、ヴィパッサナの毎日の修行の時間(これは原因系の管理項目)と横溝に落ちたら黒丸のマークを記録する(これは結果系の管理項目)という事をやっているので今後はそれの意味合いをよく認識して続けること。」
そこでサティ=動中の工夫というふうにみたいという感じがある。早い話、サティ(気づき)を「常に」入れ続けようというわけだ。あるいは鏡の心を持ち続けるというわけだ。無論これは本来そうあってしかるべき。
そしてこれができれば十地経でいえば第8の不動地、自ずから然りの境地につながるというわけだ。ちなみに白隠の「動中の工夫は静中の工夫の百千万億倍」というのと十地経で「第7地から第8地への転換がもっとも困難である、、、」といっているのと対となしていると見られる。つまり現実に与えられた状況にたいする対処の仕方にいままでの修証の集大成があるということだ。
(ちなみに悟後の修行ということばを表題につけたのは、1)白隠の見性体験とその後、彼が動中の工夫を強調するにいたったという意味あいと、2)十地経に照らしてみて、私のバンガの体験と今ここに至った意味あい、をあわせ見たということです。ただもしそうだとすると、1〜7地までは進んできているということになるので、十悪など自分の挙動に対するチェックをさらに厳しくするという意味あいを感じるわけです。)
これはネットでの「煩悩の矢を抜く」と言うテーマに関する対話でたまたま書き留めたもののコピーです。(ヤフー:瞑想の掲示板、2008年7月)
こういう私自身の例があります(もっとも他にも山ほどあります。とにかく落とし穴はいろいろなところにあるということでしょう。)。
普段から私は危ういところには近づかないように、と気を配っていますが、それでも対人関係で問題になる可能性のある状況に陥ることはあります。そんなあるとき、ある状況に陥りました。意見が合わないわけです。そこで私なりの論理で話をしますと、反対の論理があり、更に別の話を引き出していわばアジテートして来るわけです。(こういうのはわかりやすい。。。)
するとそのとき例の鏡の心がはたらいて、あたかも心がとらわれないままに状況がありのままにみえる、といった風で、心おだやかなまま事態を乗り越えることができました。また、面白いもので、その状況に陥ったその真っ只中で、ふと次の釈尊の言葉が思い出されたのです。
>怨みに対し、怒りに対し、怨みをもって、怒りをもって報いるなら、その怨みや怒りは決してやむ事がない。これは永遠不変の法である。
(もとは原始仏典ですがそれがどこにあったか思い出せません)
このいわば当たり前の言葉が、今まで何度か読んでいた言葉が、その瞬間まさに光り輝いているのを感じたわけです。
この事例は「おっとっと」「よっとこどっこい」といった事例ですが、いくつかの反省点がありました。
1)原始仏典は読んでましたし、最近もぱらぱら眼を通していましたが、これを機会に「正しい遍歴p。75仏陀の言葉」も含めて丁寧に読み直したいと思ったものです。(薫陶と同じでお経などを丁寧に読むというのは体に染み付くという「ご利益!」がある、というものでしょう。)
2)言葉(知)から入る、というのと別に、私の場合はヴィパッサナの実践(行)をとうして、さらに禅の言葉などを頼りに、「鏡の心」に行き着いたわけですが、いままでも危ういところ(煩悩に押しつぶされるというようなところ、あるいはとらわれ)を乗り越えてきたところでもあり、この修行はやはり続けるべきと思ったものです。
修行は本来動中の工夫に集約されるのでしょう。知行合一で、一歩一歩丁寧に法の道を歩みたいと願うものです。
以前から盤珪の不生、あるいは仏心についてかなりの関心をもっていたが、今回サティについての洞察を進めてみると、どうもサティ(ヴィパッサナ)と盤珪の言うところと重要なつながりがあると思える。そこで以下に盤珪の言葉でサティ(あるいはヴィパッサナのポイント)につながると思えるところを岩波の本(盤珪禅師語録)から目に付くままに拾い出しておく。盤珪の言葉を説明をしようと思えばいくらでも出来るであろうが、もともと説明なしに気づくというのがポイントであろうからここでは盤珪の言葉のみのせておくこととする。
ところで盤珪の死後、その教えを継ぐものが出なかったようだが、だからこそヴィパッサナなどの修行(修行方法という「形」を残すということ)も大事と思われるのである。
―平生仏心でいるようになしやれい(p。11)
―不生の仏心で、今日生きてはたらき、一切がととのいまする(p。12)
―不生の仏心は霊明なものでござって、、、不断人々お留守なことはござらぬが、、、仏心を得しらぬによって、仏心のままでいずして、仏心をあれにしかえ、これにしかえているによって、何をきいても耳にはいらねわいの。(p。16)
―みなよく寝入っても、おるすでなさに人が呼び起こせば、返事をしておきますわいの。いつおるすなことがござるぞいの。(p。17)
―只今示しを聞いている時の如くにして、ふだん一切事をととのえてござれ。それ成れば不生の仏心ひとつでいるというものでござるわいの。我欲が汚さに、気ぐせを出かし、身のひいきをし迷います。仏心を退き、つい凡夫になりまするわいの。もとに凡夫はひとりもござらぬわいの。(p。17)
―昨日までも大悪人でござって、千万人のものに後ろ指をさされましても、今日従前の非をしりまして仏心でいますれば、今日からは生き仏でござるわいの。(p。18)
―盗むが業、盗むが罪でござるわいの。盗みせねば業も罪もありはしませぬわいの。(p。19)
―迷うは凡夫、迷わねばほとけで、別に仏で居ようよりほかに、近道はござらぬわいの。(p。19)
―皆身どもに打まかせて、身どもしだいにして、まず30日不生でいならはしやれたらば、それからあとには、自ずからいとむなふても、いやともに不生で居ねばならぬようになるものでござって、みごと不生でいらるる者でござるわいの。(p。12)
―不生の正法は、みな身のうえのひはんですむことでござる。(p。20)
―一切の迷いはみな身のひいきゆえに迷いを出かす。身のひいきさへせねば、一切の迷いは出来はしませぬわいの。(p。21)
―もとより念に実体はありはしませぬによって、移らば移るまま、おこらば起こるままに、やまばやむに任せて、そのうつる影にとんじゃくさへせねば、迷いは出来はしませぬわいの。(p。22)
―坐禅は仏心の安座が坐禅じゃ所で、常が坐禅でござるによって、勤めるときばかりを坐禅とは申さぬわいの。(p。26)
―みなの衆がこちら向いて、身どもがいうことをきいてござるうちに、うしろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずにいるに、カラスの声、雀の声が通じ分かれて、間違わずにきこゆるは不生で聞くというものでござるわいの。その如くにみな一切が不生でととのいまする。(p。33)
以上、盤珪禅は禅のもっとも純粋な形(→平常是道)を指し示しているとみれるのである。
―グリーンヒル瞑想研究所(地橋氏)のHP: http://www.satisati.jp/index.htm
―スマナサーラ氏によるサティの説明:
http://www.j-theravada.net/qa/gimon12.html
―疑問・質問に答えて(スマナサーラ氏):
http://www.j-theravada.net/qa/index2.html#01
―日本テーラワーダ仏教協会(スマナサーラ氏ほか):http://www.j-theravada.net/index.html
―山下良道氏のサイト(ビルマ森林僧院滞在記1〜3):
http://www.geocities.jp/sudhammacara_bk/
―日本ヴィパッサナ協会(ゴエンカ氏):http://www.jp.dhamma.org/
―ヴィパッサナ(ゴエンカ氏)体験記(太田陽太郎氏):
http://homepage2.nifty.com/yokido/10.meditation/meditation1.htm
以下のものは私のHPから:
―創造性雑記帳−禅の科学、戒定慧など―心の垣根と莫妄想・煩悩爆破について
:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/zakkichou-1.html
―鏡の心:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html
―Wilbro氏の観想の方法:http://www.geocities.jp/suzakicojp/guide.html
―十地経を読む−ヴィパッサナと私自身の修証の進めかたのまとめ
http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html
―私のヴィパッサナ体験(英語です)(このほか英語で4つ日本語でひとつあります。):http://www.geocities.com/suzakico/vipassanareport.html
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
(これはことによるとつかえません。そのときはこちら↓でお願いします)
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso