
11回目のニュージーランド南島の旅を振り返って
― エッセイ集 (特にホームレス、シンプルライフ、自在、智慧の働きなどについての考察)−
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
または:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html
修行と自己暗示:道を深める、コツが身にしみこむ:大智・大悲の自ずからの働き
11回目のニュージーランド南島への旅。今回は、旅の終わり近くに私が60歳になったので、これまでの人生を振り返ってのまとめを「私と宗教 ― 人生の旅路をふりかえって」という題で書きました。(http://www.geocities.jp/suzakicojp/watashitosyuukyou.html )
一方、般若経から華厳経への流れを調べていて、これまでの修行の延長、そして総括ともいうべき十地経というお経(玉置康四郎氏による解説文)をみつけたので、この旅を機会にとことんチェックしてみようと、丁寧に修証をすすめました。(そのまとめはここ→http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html )
前回(十回目)は写真集として旅のまとめをし、(http://www.geocities.jp/suzakicojp/NZ0.html )7回目は「風に吹かれて」という題で書き物にしてあるので、 (http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kazenifukarete.html )ここにはエッセイを少しまとめておきます。旅の途中と言うより、特にホームレス、シンプルライフ、自在、智慧の働きなどについて、帰ってからの思い・気づきなどが中心です。また今回の旅の写真集は別途ファイルを作ってあります。( http://www.geocities.jp/suzakicojp/nz2008picture.html )ご参考まで。
2008年4月 洲崎 清記
まずは読む人によっては頭が痛くなる(→あるいは頓珍漢)かもしれない話を出だしにまとめておきます。(これは私にとってはとても大事な気づき・発見なのですが、人によっては、ここはさっさと飛ばし読みされるのがよいかと思います。):
* 今回、家に帰ったあと、ひとつ思い浮かんだのは、旅はいわゆる異種のものの組み合わせ(これは創造性・智慧につながる)、ということで、旅の体験がそこまでの人生の体験、法の道などとどう組み合わされるかという、いわば弁証法的な、つまり智慧の発現のきっかけになっているということ。
* ただし、これは旅に限らずすべての体験はそういった意味合いで、なんでも、そのときまでの体験の、無意識の鏡に照らされて新たな意味合いが見出されるという、つまり法の道を歩むということにつながるといった見方ができると思う。言い方はややこしいが、戒定慧はそういう意味合いがあるということだ。(無分別の分別もそういう意味合いがある)
* だから旅でなくて夢でもいい。何か夢を見ると、その夢をじっくり思い起こすことにより、その夢が何かのヒントを与えてくれる、何かのメッセージを暗黙のうちに指し示しているという風な体験をすることが多いようだ。そう、味わいがでてくるという感じ。
* また、このことは個々人が生きるということと、禅なら公案、坐禅などとの関係にも見られる。つまりそれまでの生き方・体験・(いろいろな体験などが阿頼耶識に入り込んだものととりあえずいっておく)、がそういう修行をきっかけに、いずれは智慧、慈悲に結びつくようになっているということだ。これは不思議と言うほかないが、そういうプロセスがどんどん身につくと、例の四智もそうだが、、、いうなら、応無所住而生其心が、自ずから働く(→自己組織性)という感じがあるのだ。
* ただ、旅の場合、特にその旅がシンプルで、いわば雲水の生き方という感じで、、、無心を基にしていると、すべての体験が生き生き体験、といった感じで、、、人に会っても、そこで現われでる働き(智慧)は全機現につながるといったように感じられる。
* ちなみに今回は旅を進めながら、十地経を丁寧に読んだのだが、そういうお経も、、、私のその時までの生き方のベースに照らし合わされ、、、(→異種のものの組み合わせ)そこから不思議な働きがでて、智慧のある、法に従った道を見出すという役に立つように感じる。
* ただ、その智慧のはたらきの出る場と言うのがあり、、、それは定なのだが、例の鏡の心(大円鏡智―エッカートの目も同じ)につながるところであり、そこでの働きをここでは言い方を変えていっているようなものともいえる。つまり、色即是空、空即是色を智慧の発現のプロセスとして、、、いわば色=新たな体験(この場合は旅の体験)が鏡(ここに阿頼耶識的なものが入っている)に照らされて、止揚されるようなもの。つまり目の前の体験に引っかからずに、あるいはそのときの体験に執着せずにいることによって大智、大悲の働きが、その人のその場における生き方となって自ずから出る、と言うように感じるのだ。(ちなみに場=内観、あるいは止観の状態→エッカートの目=外と内を同時に見る、ということにつながる)
* ここで言ったことがらがいわば動的に発展すると、(というかもともとそうなっているのだから)例のジジ無礙、相即即入につながるようで、それこそ華厳の世界!!なんとも愉快ではないか!!!(そう、般若経も無論いいが、華厳経はやはり次元がひとつ違うようだ。というのも、いろいろなものの途方もない絡み合いが、、、そこにはあるから。ついでに言えば、盤珪さんのいう仏心がそこにつながるようでもある。)
* 最後に、さらに包括的に言うと、この異種のもの(体験、事象、意識、云々)の組み合わせと言うのは、もともと我々の存在の原点での働きにその「生命」(→創造性・智慧)が見られ、これが、いわゆる自ずから然りという根本の(宇宙の運行の)原理にぴたりとあうということだ。これは当たり前のことだが、人としては「そこ」をふまえて生きるというのがいかにも大事であり、また振り返ってみて、「そこ」の働きを直接体験できるということが、まことにありがたいという気持ちが起こる(→慈悲)ということにつながっているのだろう。
出会い:お互いに振り返りの機会を作ってみるということ。
経営コンサルティングをして、いろいろな会社を訪問し、(いわばサドン・デスの契約で完全燃焼をねらって)いつでも解約できるようなやり方で仕事を進めてきたが、今回の旅で四箇所で4つの家族と会って、なんだかそのプロセスと似ていると感じることがあった。
どういうことかというとお互いに顔を見合わせるのは年一回であり、次回はどうなるかはわからないので、お互いに一緒の時間を大切にする。また前回の出会いのあとはどうしているのか、という話が出る。お互い環境の変化にいかに対応しているのかということが興味深いのだ。たとえばゴア市のそば(ポマハカ)であったデイビッドとタムの家族の場合、前回の訪問で話したことがきっかけになって彼らの人生計画とでも言うものが変わり、もっとバランスの取れた生き方をする決断をし、実際にその方向に動いているということで私との話がその決断のきっかけになったと感謝された。
もともとこれらの人との出会いは自然のなか、あるいは辺鄙ななか、釣りや自然への興味がきっかけになって食事や宿泊に招待され、それが元になって毎年会うようになったわけだ。私が誰かどんな背景(タイトルなど)を持っているかとか、招待したからどうというようなことは関係なく、そのときその場所でのいわば分かち合いのこころ、布施の心が元になって招待されるのだから、相手はもともと、私にはほとんど何も期待していないわけだ。ただふれあいがあり、与えられたものをお互い、最大限に生かす (→全機)、あるいは味わうというような感情・意識が元になっていると思う。
私はいうならば、ホームレス、こじき、のようなものであり、車の中で寝て、不便な中で智慧を働かせて釣りの旅を続けているわけだから、シャワーでも、食べ物でも、洗濯や寝るところでも、なんでも何か分かち合ってくれるということに大変な感謝を感じる。ベッドはシーツの後始末(洗濯)もあるので普通は辞退して、車でねるのだが一緒のくつろぎの時間は味わい深く、とてもありがたいし、話ができる、あるいは心の通ったふれあいがあるということがお互いに楽しいし、うれしいのだ。
いつまでいてもいいよといわれたりすることもあるが、私もお手伝いしたり、魚がほしければ釣ってきたり、きのこをとってきたりして何かお礼をしたいということになる。ワインとか贈り物をもっていくこともある。グラハムとサラの場合は、家の留守番をしたり、動物の面倒をみる、子供と遊ぶ、庭の手入れをする、など何でも家族のように付き合う。一方サーフィンの板を貸してもらったり,彼らの場合だけは、離れの小屋を使わせてもらうことにして車では寝ないし、今回は三週間以上もいさせてもらったので、ワインをあげたり、食事に招待したり、贈り物(植木)をしたりもする。さらに仕事へのアドバイスもする、といった具合。
そうこうして意見の交換をすると、なんだか世間が広まり、自分の生き方というものへのチェックも進むということがあるように思えるのだ。もともと、旅をするというのはそういった意味合いが含まれているのだろう。仲のよい友達と久しぶりに会うというのに似ているかもしれない。もちろん、これはニュージーランドの旅ということに限らず人生の旅、一般にもつながるところであり、自然と一緒ということ以外にも、いろいろな発見、確認ができるからこそ、こうして何年も続けているのだろう。
旅・自然
旅をするといろいろな場面に出会う。もともと一箇所にとどまらないというのが旅の性格だから、そのときそのとき最善の対処をする、というようなものだ。これは自然のあり方というものの性格と同じだろう。
人生も旅だから、そういう意味合いは十分にあるのだが、一方惰性、習慣、業というものが「そのときそのとき最善の対処をする」という意味合いに影を落とす(影響する)というような気がする。(いわば、便利は不便と言うこととつながるのだ)
そこで道元は前後裁断というが、「いま・ここ」の場を失わないという意味合いはとても大事なものだと思う。もともと生きているということ(の実感)は「今。ここ」にしかないし、「そこ」からはなれてしまうと、生き生きの生というものも、ぼやけてしまう。
自然に親しむ、庭いじりをする、鳥の声を聞く、虹を仰ぎ見る、などはそういう「いま・ここ」の実感を直接体験させてくれる。無論、坐禅などをして、自らの体の無意識の働き(これも自然―法の現れ―である!)になじむ、親しむ、ふれあうというのも同じような意味合いがあるだろう。
バランスを欠いた人生と成らないために、(いろいろ工夫して)その辺の微妙なところを見抜かないといけないと思う。中道というもの、つまり智慧の働いた生き方の原点はそこにあるといいたい。
ソムナーでマークという人とキリスト教について(仏教・禅の見方から)の話をしたが、いくつか興味深い点が出てきたのでここに少し書きとめておく。
ー奇跡:「キリストが奇跡を起こしたが、現在の人はそういう体験をキリストから得る事ができない」、云々という話を彼から聞いて、「奇跡は今ここ、そこいらじゅうにおこっている」と私の感じを伝えました。生きているということそのことは奇跡であり、不思議そのものと思うものです。創造というのは過去にあったのという風に見るというのもあるのでしょうが(バイブル)今ここに創造が現在進行形で(奇跡として)進んでいるというのが私の感ずるところです。私が生きている、花一つが咲く、鳥がさえずる、、ということ、こんな不思議はないと感じています。
ー地獄:「神を信じないものは地獄に落ちる」という話について、これはほかの宗教の人についてということをマークが気にしているというのをきいて「地獄はどこか別のところにあってそこで(バイブル?で言う様に)焼かれるというものではなく、私の体験では神・信心のないもの・煩悩にさいなまれているものは、それがそのまま地獄と思うものです。」という見方を示しました。
ー大悲:キリストのはりつけでの言葉「Forgive them for they do not know what they are doing.」(許しなさい、彼らは何をしているのかわからないのです)を聞いて、「これはすべての人を許すということであり、他宗教の人もすべて含まれる。」という私なりの見方を示しました。大拙は「すべてを知るものはすべてを許す」がわかれば、ほかはなにもいらない、といいますが、それにつながるようですね。
―永遠に生きる:は感謝であり、仏教では、菩提、涅槃寂静という感じがします。
時は人為の産物であり、無為ではあるがまま、如、如来なのでしょうね。
(無論、言葉で摩り替えて納得したと思ったらとんでもないことでしょうけれど。)
―Thy will be done on earth as it is in heaven :生命のもとは創造性のもと。言ってみれば子供の素直な心が基盤にある。自ずから然り、というわけだ。妙好人においては南無阿弥陀仏と同じであろう。
ある禅僧が旅をしていたのであろう、死ぬときになって、そばにいた人にいくばくかの残ったお金を渡した後、自分で掘っておいた穴に入ってから土をかけてくれといって、さっさと穴に入って弔ってもらったという。
これがありがたい話として心に響いていたが、ソムナーを離れる前にいろいろな思いがつながってきた。
どういうことかというと、私も死ぬときはこの僧のようにありたいということ。すべてのお金、残ったものを布施して、もともとのゼロがゼロになって死ぬ。かといってそこになんらかの働きがある。なんだかありがたいではありませんか!
ところで、この話はNZにきて「旅の最後のほうになると車の中にあった食べ物などがどんどんなくなっていってそれが全機現を思い浮かべるようで面白い」と4年ほど前に来たときに書いたけど、その話とつながるようだ。また何か製品を設計するとき、すべてがいっぺんに寿命がきてだめになるような作り方がよいと昔大学で聞いた話とつながる様でもある。
彗星がどんどん燃えて、燃え尽きて光を放って消えていくように、、みんなみんなありがとう!で消えていく!そういう人生がとってもありがたいように思う。
余計なものは何もないような生き方、無論煩悩のようなお荷物は担がないような生き方。お荷物はしょってもすぐ捨てるような生き方。。。余計なものは食べず、食べるものはありがたく頂き、十分に咀嚼(そしゃく)、無駄をせず、完全燃焼(→全機現)するような生き方。
例の十地経もこういう生き方とぴったり合うのだと思う。
ありがたい、あいがたいといって生き、ありがたい、ありがたいといって物事を行い、ありがたいありがたいといって死ぬ。
これは、やっぱり、とことん、とことん、そういう風に進めて生きたいと思う!
*話は飛ぶが、ビル・ゲイツもウオレン・バフェットも、遺産を子供に自動的にあげないという点で、その辺の見方・やり方が多少似ているようでもあり、これも面白ではないか。
On April 1st, 2008, when I wrote the above poem, I was in South Island of New Zealand – near Waimea stream, close to the city, Gore. I slept in the car as I usually do in my regular fishing trip to this wonderful part of the world. There are more stories behind this poem as it may be the case for any poem. Yet, it is better left unmentioned. It is because each moment is simply to be lived most sincerely without any past or delusion overhanging on the moment of now – no matter how hard that may be.
2008年4月1日にこの詩を書いたとき、私はニュージーランドの南島―ゴア市のそばに流れるワイメア川のそばにいました。私は鱒釣りをするためにこの素晴らしい土地を訪れるときにいつもするように大自然の中に車を止め車の中で眠りました。この詩の背景にはほかのどんな詩もそうであるように、書ききれない部分がありますが、それの説明は必要ないでしょう。というのも、一瞬一瞬はただただ誠実に生きるべきであって、過去や煩悩などがーたとえそれがどんなにつらい、ないしは難しいことだとしてもーその今という瞬間における(法の)純粋な働きを妨げるようなことは意味がないからです。

The Expression of Our Universe
宇宙の働き
You know… it is miracle that we happened to meet like this…
as much as it is nothing short of miracle that we do exist in our universe.
君は知っているだろう。このように出会うというのはまさに奇跡ということを。。。
そう、それはこの宇宙に我々が存在するということが奇跡というのと同じようなものだ。
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Last night, I saw myriad of stars, Southern Cross, and the galaxy…
as I listened to the murmuring sound of the stream running nearby.
昨晩、そばに流れる小川の音を聞きながら、
無数の星、南十字星、そして銀河を見た。
I saw a falling star, and “Wow!” a sharp bright flash of star –
perhaps indicating a white nova ended its life some billions years ago.
流れ星も見たし、なんと言うことだ、星が一瞬、閃光を放つのを見た。。。
きっとそれは何億年も前にホワイト・ノバがその生命を終えたことを示しているのじゃあないだろうか。
This morning, eastern sky was painted in scarlet by the brush of the rising sun.
Suddenly, rain started falling quietly as if to wash away the impurities of my mind.
そして今日の朝、東の空は緋色に夜明けの太陽の刷毛で彩られていた。
と、雨が静かに降り出した。あたかも私の心の不純なものを流し去るためのように。
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For the last several years, I have been exploring the depth of my existence…
and have encountered most amazing discoveries of my life.
過去何年も私は私の存在の深みを探求してきた。。。
そしてこれまでの生涯になかったような、なんともいえない不思議に出会った。
I thought I would not find anyone to share my discoveries – in person
as it is perhaps too absurd – never mind talking about my life’s story.
私はそんな発見を誰かに面と向かって話すということはないと思っていた。
というのもそれはあまりにも突拍子もない。まして私の生涯の旅について話すなどというのはもってのほかだ。
It may well be the case that the very “core” of everyone’s existence…
cannot be shared with any other person… but only to be left as secret.
おそらく、もっとも深いところの存在の体験などというものは、、、
ほかの人とは共有できるなどというものではなく、秘密としてほおっておくのがいいのだろう。
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When the rain stopped briefly, I went out for a walk from my car…
and witnessed ever-fascinating work of nature.
雨がちょっとやんだので、車から出て散歩をし、
自然が、そのなんともいえない不思議な働きを表現しているのを見た。
Dews were hanging on the wire fence like a chain of pearls…
reflecting the morning sun in every single one of them.
露はフェンスの鉄線にあたかも真珠の首飾りのようにぶら下がり
朝の太陽のきらめきを反射していた。
Few rising trout were leaving the familiar circular marks…
over the gentle flow of the stream winding through the meadow.
何匹かの鱒が、この野原をくねくねと曲がってゆったりと流れる小川に
例の(流れてくる虫を食べたときに残す釣り人にとってはなじみの)円形の波紋を残していた。
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Bagpipes were singing aloud in the trees…
while a flock of geese were flying across the overcast sky.
バグパイプ(鳥の一種類)は林の中で鳴き、
鴨の群れはどんよりと曇った空を横切って飛んでいく。
Short brown grasses were standing straight up…
like a most disciplined military soldiers.
短く切られた草の穂はまっすぐに
あたかもよく訓練された戦士のように立っていた。
And look! Across the western sky, and over the rolling hills…
a huge rainbow was showing off its glorious semi-circular dome in silence.
すると、見よ!西の空、なだらかに連なる丘の上に
大きな虹が無言でその素晴らしい半円のドームを見せているではないか!
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Yes, we may look for the meaning in this and that…relations, work, and what not.
But why not let the meaning simply reveal itself on its own?
In other words, may we just leave the mind alone.. be with the moment,
and let the universe express itself through us and all…as it always does?
そうだ。我々はこれとかあれとか何にでも意味づけを求めるのだね。。。人との関係とか仕事とかそのほか何でもだ。
けれど、そもそも意味あいなどというものは、求めるというのでなく、そのままに、それが自ずから明らかになるものではないだろうか?
つまり、心などというものは、そのままにほおって置いて、その一瞬一瞬(とひとつ)になり、この宇宙がその働きを我々やそのほかのすべてを通し表現するということだ。。。いつでも(もともと)そうなっているように。
ホームレスということ
今回旅から帰って、近所の人と話していて、車に寝て風の吹くままの生活はホームレス、つまり、こじきのようなものだと話したら、そうじゃあない、それはエリート・ホームレスだ、と言われて一緒に笑った。そこで私の場合のホームレスということについて考えてみた。
車で移動し釣りをする。山に入って食べ物がなくなったら町に降り、買い物をしてまた山に入る。するとまあ、いろいろな不便がある:
ー冷蔵庫がないから、食べ物は限られてくる。魚を取ってたべるとたんぱく質は取れる。でもいつも食べるというわけには行かない。
ー水はピューリファイアーを使ってろ過すれば川から取れるが、やはり多少不便だ。
ー車のレイアウトはこういった生活に合うようになってないし、場所は狭いし限られたものしか持ってないから、智慧を働かせないと、ごみもたまるし、整理しないとすぐにごちゃごちゃしてくる。
ー洗濯は川でできるが、知り合った人に洗濯機使ってもいいよというと、ありがたい。
ーシャワーはソーラーのシャワーあるいは川で水泳で、だれもいない自然の中で素っ裸は気持ちがいいが、誰かの家でシャワーに預かると、とてもありがたい。
ー以前はなかったが、車で運べる簡便ないすやテーブルがあるし、コンロなどもありお茶だってのめるが、ゆったりとしたところで知り合いと食事をご馳走になったりお茶を飲むと、これまたありがたい。
ー雨が降れば車に閉じ込められるわけだから、まあじっと坐禅しているみたいなもの。その後晴れればうれしいのだが、雨の中、誰かさんの家でテレビを見たりネットが使えれば、それはまた便利だ。
ー車を止めるところが見つからないことはほとんどないが、町に下りるとそうばかりともいえない。トイレの問題もある。
ーなどなど
一方、「ホームレス」のありがたみもなかなかなもの:
ー自然を満喫!鳥の声、夕日、満天の星、魚、草花、新鮮な空気、いろいろな景色、いろいろな不思議。
ー人との出会い。好意が身にしみてありがたいということ。楽しい会話。自利利他。
ー風に吹かれて・気まま。時間や世間の拘束にかかわらない、自然の流れに乗った生活。
ー自らを振り返る時間・修行。修と証。
ー余計なもののない生活。無一物中無尽蔵。
ー創造性・智慧を使うということの喜び。
ーなどなど
ということで私の場合は、こういう旅をすることは人為と無為の接点(つなぎ)の確認(→智慧の働きの)というような意味があるようだ。フレッシュなもの、生き生きとしたもの、を自然から感じ、一方では人との出会いから人間の生活のありがたみもわかる。
いろいろな智慧が集まって世間の生活ができたというその確認というような意味合いだって感じられる。そしていわゆる中道の意味合いでのシンプルライフ(→法に沿った生き方)を見極める役に立つように感じるのだ。
便利ということの不便
車を拠点に生活すると上でいったように、いろいろな不便がある。キャンプもおなじだが、たとえば食事の準備、食事、かたずけでも家でやるのと違って制約がある。
そこで思うのが便利というのがありがたいということだが、かえって便利の不便というのがあるということ。便利になると、それがだんだん当たり前になってそのありがたみが消えていく。
これは進歩するものとして、創意工夫を進めてものごとが(いわば正しい習慣として身について)当たり前にならないと、その先が進めないというような意味合いがある。だから便利は便利だが、それが当然ということになると、謙虚さが消えるということにもなる。すると便利があだになるというか、我というものに結びついてちょっとした不便でもいらいらということにもなりかねない。
これに似たものとして言葉は便利だ、というのがある。言葉がないならいったい人間の生活はどうなるか?人間が淘汰されずにここまで来たというのは言葉、分別のおかげと言ってもいいのではないか?ところが、その言葉が下手に使われると、かえって問題を引き起こす。自分なりの論理、我、というものが芽生え、これまた謙虚さ、素直さを失う。
ということでそういった道具の便利さを認識し、またその道具の持つ問題というものもよく認識し、だまされないようにしないと、本来の道具の役割がわからなくなり、道具に使われるということになる。
そのためにはそういうものの原点にもどってみるということ。その原点での働きを確認すること。これが大事なのだと思う。
不便だといって文句を言うのでなく、不便というのは本当は(すべての働きの原点では)不便でないということも知らないといけないのだろう。人間として不便でも、鳥やけもの、草花などはそれなりに法にそって生きているといえないだろうか、ということだ。
便利を追求して、その結果、かえって大事なものを失うということのないように気をつけたいものである。
(ところで、話がとぶようだが、昔松下電器のある工場を訪れたとき、そこではロボットを使っていたが、新入社員などの教育ではロボットでなく、手でボルトをしめたりするというやり方も教えていた。そんなことは必要ないと思えるかもしれないが、ところがどっこい、深い意味合いがそこにあるのだ。表面を追いかけて働きの原点というものの意味合い、ありがたさを見失うようなことではならないのだ。)
ホームレス、雲水、シンプルライフ、春風駘蕩
便利、不便について考え、今の生活とホームレスの生活、つまり車で生活していた時をいろいろ比較すると、いろいろな発見があるようだ。
ひとつは出会った人達とのいわば純粋な関係。助けてくれるからこっちも助けるというわけではないのだろうが、そういう思いが自然にわいてくるというのがひとつ面白い。つまり自ずから然りでそういう働きが出る。
それはなぜかと考えてみると、いくつか気づくことがある。
―無一物というわけではないが、ものを持ってないで多少不便であるのを見てなにかできることはないかという気持ちが周りの人には自動的にはたらくようだ。
―私はというと、別に急ぐということでもなし、何か気づけば、できることがあればそれなりに何でも助けたいと思う。体を使うのでも、アイデアを話すのでも、無論喜んでもらうのは気持ちがいい。
―私にはいわゆるお荷物がない。情報は限られているし、家のようにあれこれ修理したりする必要もあまりない。かといって壊れて困るところは智慧を絞って何とかするという、純粋な働きだけがある。
―シンプルライフ。雲水のように風に吹かれて、といった感じだ。
―普通やることは限られているし、ネットや本、新聞、情報へのアクセスや人とはなす機会も限られていて、余計なことに頭を使うということがない。(注:これを書いたあとで気づいたのだが、、人によってはそのような生活は不便で我慢ができないということで、これはそう簡単ではないのかもしれない。)
―この辺を総合すると、ホームレスの行き方はありや蜂のような生き方であり、たとえば花とミツバチの関係を例にとれば、そこに自利・利他の関係、そして全機現をみてとれるように、なにかスカッとしたものがある。(生き方の原理がそのまま行動に現れる)また、猫がふっと来て、ふっと去るように春風駘蕩と言った感じがある。
まあ、原始的な生活に近いともいえるのだろう。もしそうなら、なぜそういった生活を私も含めた現代人は離れたのか?ヴァケーションもそういう意味があるはずだが、現代の生活に余計なものが入り込んでいるということならそれはちゃんと見抜かないといけないだろう。
つまり、不便だから智慧を使い、進化としたと思って、かえって自業自得、無縄自縛ではないか?
そもそも年寄りがシンプルライフを楽しみ、ごろごろしている(とはたで見える)のも、(その実は)自分というものを知り、なにか大事な智慧(の使い方)を知っているからではないか?
つまり、なにかわからないが忙しいということ、あるいはくだらない、つまらないということにはかかわらず、自らの限界を知り、自らの道をたんたんと生きているということではないか?
便利を求めて不便になる(悩む)ということ。これを頭の使い方に気をつける、という言い方をしてもいいが、生活のパターンを省みて、それをシンプルにするということも知っていいと思うし、そのためにホームレス、雲水、ありや蜂の生活、、、、なども参考になるように思う。
そう、ある意味では、何も(余計なことは)しないということはとても大事なのだ!!!(定慧の基本もそこにある。瞑想、坐禅もそのとうり、ホームレスもまた然りである。応無所住而生其心!自在に生きようではないか!大智大悲の働きそのものになって。。。)
ホームレスと言うことから自在、無目的の目的、、、といったものも考えてみよう。
もともと苦というのはなにか目的があってそれが達せられないときに(智慧が出ないで)苦しむ、といえよう。そこで自在な発想(智慧)がでると物事がうまくいく、あるいは自ら苦しみを作って悩むことはない、つまり苦は関係ない、いわば天下泰平,安心、くつろぎ、重荷をしょった人生を送らない、ということになる。だから智慧がない、智慧が働かないというのは、はっきり言うと頭の使い方が悪い、ということだ。
こういう言い方は無責任と見えるかもしれないが、いってみるのなら人の重荷を(特に心理的なものの場合)、、、かわりに負うことはなかなかできないので、ここでいう「見方」というのを修練しないと人生の味わいが、つまらないものになるのではないかということだ。
ただし目的があるのはいいのだ。それは人生を生き生き生きるという糧となりえる。いわゆるやる気があるというのは元気りんりんと言った感じ。いわんや自利・利他を目指すという場合は特にだ。目的と手段がピンと一致して、、、、あるいはピンと一致しないでも、何とかなるという意気込み(直感)があると、目の色が変わってくる。そこに妙の味わい、そして法にあった正しいことをしているという感じ・直観もあり得るだろう。(→すると成所作智がはたらくということ。無意識の意識もすべて発動して全機現だ。)
一方その目的が、回りに気づかずに我を主体に働くと、あるいは固定観念にとらわれると、融通が利かないということになる。そこでバランス感覚が必要だ。山ほど目的を持って、、、たとえば、いい車、景色のいい別荘、便利な台所、などなどみんなからうらやましがられたいとプライドをくすぐる。自分は苦労したのだからこれからは楽をしたいということも(目的として)あるかもしれない。頭がいいと人に思われたいということもあるかもしれない。俺は偉いんだとか、お金がたっぷりだとゆとりがあるからよい、ということでそれらが大目的になるかもしれない。偉大な人になるとか、テストで満点をとるとか、、、あるいは達成したというのがなんだか勲章をもらったようで、あるいは親にほめられたという記憶があってそういう感じを何度も繰り返したいという思いもあるのではないか?
これらのことは意識しないでもそう心のどこかに刷り込んでいるかもしれないではないか。。。。でもそういうのは、、、みんな見えない紐で、固定観念のように凝り固まって、自在性をうしない自らを縛るということになるということにいったい気づいているのか?
だから「私は悟っているのです」などという固定観念も含めて、どんな固定観念も持ってはいけない、、つまり一回は否定する、というような即非の境涯を身に着けないといけないのではないかと思う。この文章も含め「あ、これも固定観念?」と一回はずす!ということができるか?惰性に流れるあるいは業の奴隷になるということでなく、もっと主体的な、あるいは自在の見地からものを見、深いところから智慧を働かせて判断するということができるか?
経営コンサルティングをやって企業のいろいろな人にアドバイスをするというのも、ひとつにはそこにいる人の固定観念を一回はずして、根本からの見直しをするから、、、アイデア・智慧がわいてくるといえないだろうか。
そもそも智慧というのは固定した観念、業、悪い習慣を乗り越えるというとことに味わい、喜びがあるのではないか!喜びと言うもの、生き生きの生き方というものをこの際、とことん見直して見たらどうか?
だが、惰性で生きているとき、惰性で生きている、あるいはものを考えている、考えない、というのを気づくにはどうしたらいいのか?
とらわれているときにとらわれていると気づくにはどうしたらいいのか?智慧をはたらかし、しかるべく(法にそって、苦のわなにはまらずに)生き生きと生きるにはどうしたらいいのか?固定観念、悪業のはたらきをいかに処理するか?
ひとつだけ私の経験から言いたい。それはまず、とことんの熱意を持つということだ。すると方法は見つかる、そして道は開けるのである。
これがトヨタ方式の基本だが、こいつを人生に適用するとどうなるのであろうか?
整理整頓。物のガラクタ、情報のガラクタ。
これはシンプルライフの逆だ。天命、使命がごちゃごちゃして何がなんだかわからなくなる。
経営で言うとこれは方針管理というようなものだ。
ある意味で言うと便利になると智慧が働くなる。だからトヨタ方式では在庫を減らし、人を減らし、場所を減らすなどの制限を当てはめて智慧を引き出す。アメリカではトヨタ方式をLeanつまりやせた、すんなりしたというような意味あいの言葉を使って表現する。無駄がない、余計なものを担がない、智慧が出るようなシステムを作る、、など、人生をすっきり生きるというポイントとつながるところがいろいろある。
だから、、、同じことは我々の生活、そして我々のこころ(の乱雑さ)でもなされて然りと思う。そう、つまらないものばかり食って体重が増える、つまらないテレビを見て頭のなかが欲で膨れる。刺激ばかり求めてなにが正しいか、何が使命かわからなくなる、、、というようなものだ。戒というのはそういう意味合いもあるのだと思う。
無駄が蓄積されると全機現は遠くに去っていく。生き生きの生が去っていく。これでは便利がかえって我々の生き生きの生命を滅ぼすというようなものだ。
原点に戻ろう!
頭の使いかた
旅から帰って税金の申告などに手間がかかっているのだが、その過程で人の頭の使い方の意味合いというものをふと考えてみた。この問題は創造性あるいは洞察力、そして智慧というものとからみ、以前にも考えたところのものだが、ここで再度検討するというのも意味があるだろう。
頭を使って、無論、法律にそって申告するように私は工夫をする。(注:アメリカの税法は大分ややこしい)。一方、国は税金の取り上げ方をうまくするように工夫するわけだが、いろいろな問題があるからなかなかこの法律ですべてがうまくいくというわけには行かない。したがって税金の法律が常に変化するということになる。
そこで智慧が必要なわけだが、ある意味ではこれは進化(衆知をあつめる)というものにつながっているように思う。つまりこの例ではお金(税金)の流れが世の中でうまく流れ、究極にはすべての人が幸福になる事を狙っているといっていいと思う。ところが法律が複雑のなると、あっちでごっつん、こっちでごっつん、と申告するほうは法律の解釈などに時間はかかるし、なんだかこんなものに、と「ばかばかしくなる」ということもある。こっちが不注意で間違えてやり直しをする場合もあるので、そういうときは「がっくり」という感じもあるが、要はつまらないことに「いらいらしない」、「怒らない」、「(知覚を鋭敏に)平静を保つ」、あるいは「後悔しない」かどうかというわけだ。
そこで、一方では(1)「これまでの智慧の蓄積であるから、そのまま法律にしたがってやっていく」ということになるが、他方では、(2)「ばかばかしい法律なら改善しないといけない」とも思う。そのほかいろいろなケースがありうるだろうがそれはそれとして、話はかなり飛ぶが、法律など社会で進められているやり方にどう個人が対応するかということを考えると、ソクラテスの場合は(1)のケースにしたがって毒を飲んで死んだ、というのもわかるような気がする。一休の場合は(2)にしたがって則をこえてすっとんきょうなことをして、いわば大用現前規則を存せずで生きたとも見える。そしてどちらもそれなりに智慧が働いていると見える。また、ゲーテが「しなければならないことは(つべこべいわずに喜んで)やる」というようなことを言っていたと思うがこれも(1)に当てはまるだろう。そして釈尊のいう、「後悔はしない」というポイントはどちらのケースにも当てはまる智慧の働きを見ているのだろう。
次に現象学的に頭の働きを見ると、あっちにごっつん、こっちにごっつんと苦労しながら解を見出して道を進むというのは、木の枝を伸ばす過程と似ているようである。太陽、水、風などの影響を受けながら木が大きくなるのは工夫しながら進むという人間の成長に似ていて、これはまた人類全体の成長にもにているようだ。「迷いに大悟するは諸仏なり」(のプロセス)である。
そしてそのプロセスは戒定慧と見えるが、それが人においてうまくいかないで閉回路になると、これは煩悩(=不完全燃焼)であり、生き生きの生から遠ざかる。つまり全機現でなくなる。十悪、貪ジン痴などがその例だ。
そこで頭を使って考えるときに、そのやり方が法にそっているかということになるが、(私の場合はヴィパッサナなら)知覚がちゃんと働いて、呼吸も静か、落ち着いているかどうかがひとつの(無意識の意識の)チェック(鏡)の役割を果たすといえるだろう。(→鏡の心:大円鏡智、成所作智、、、)
人類が進化して、、、法律などが整備され、学問ができ、道徳も、常識も発達するというのは、これらを(状況によって変動する)戒の一種と見ると、これは木の枝の成長よりももっと複雑なのであろうが、根本的には同じ(構造)といえよう。
そしてその根本のところ(エンジン)だが、これが上で言った無意識の意識、智慧の働きの体得ということになるわけだ。そしてそのところがうまくいくと、(これが大変だが)宇宙の根本原理にもとづいて、我々が個人として、また社会として全機現で機能するという、、、ことになるのだと思う。
つまり、禅というか、智慧はどこでも機能できるということだ。そしてこいつの別の言い方をすると、「随所に主なり」、ということになる。そしてこれを我々の日常のことに当てはめて言うと、どんな状態に置かれても、「いらいらしない」、「怒らない」、「(知覚を鋭敏に)平静を保つ」、「後悔しない」ということになる。さらに言うと「好き嫌いも、、、そう四苦八苦(生老病死の四苦に「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)*」の四苦を加えた八つの苦)も智慧によって乗り超えて進む」ということだ。無明に光を照らし、さっさと乗り超えるのだ。
それで、この根本のところ、こいつが「己の欲するところに従って矩を超えず」といくかどうかということなのだ!
(* ネットで調べると八つ目の五蘊盛苦は「心身の機能が活発なため起こる苦しみ」、という風に説明しているのがあるが、「存在を構成する物質的精神的五つの要素に執着する苦しみ」、というのもある。これはいままであまり心に留めてなかったが、後者の説明はすべての苦とそれを乗り越えるヒントを総括しているようでなかなか面白いと思う。もっとも面白がっているだけじゃいかん、いかん! とにかく、この執着のポイントがわかれば(体得されれば)、それが心身一如、そして知覚の鋭敏さ(→無意識の意識)、そして五蘊皆空から智慧の発現のメカニズムを指し示しているように見えるのだ。)
(* ところで禅寺などで作務をするが、こいつを修行(ただしくは修証)とみるなら、今私がしている税金の申告も、整理整頓を進め、全機現を進めるという意味で、それこそ作務であるが、おっとっと(の間違い)、やごっつんこ(の閉回路、いきどまり、やりなおし)、があるので、さっさと動中の工夫を進めろということになる。したがって「随所に主なり」そして「己の欲するところに従って矩を超えず」をとことん身にしみて体得し、工夫を進めるということが肝要というわけだ。一方の作務は落ち葉とか洗濯など。他方は論理と数字という違いはあっても、根本のところ(エンジン)はなんら違いはないのだ。四苦八苦も智慧を働かせるということにおいてはその基本プロセスはまったく同じだ!!!)
十地経を読んでいるときに「まず成功すると思うこと」という言葉を例にして「自己暗示」ということの意味合いについて思いを寄せたが、今回、家に帰ってさらにその意味合いについて感じることがあったのでここにまとめておく。
悪業というのがあるということは善業というのもあるということなのだろう。今回の旅行では十地経を読んで離垢地のところで戒についての見直しをし、そのほか十地のすべての修行のポイントを丁寧に丁寧に時間をかけて進めていったわけだが、たいした例ではないが、帰ってからいろいろな場面に遭遇して、(十地経の)修行をとことん進めるというのは身にしみてくる、つまり役に立つ、という思いを深めた。(たとえば嘘というか作為的な言葉、あるいは行動をとろうとすると、いわば体が反対してそれができない、というような具合。狙いは智慧(法)の発現であるが、極端なことを言えば、禁煙あるいは禁酒などの悪い習慣を直すのに催眠療法が効くという例に似ているようだ。そしてそういうのはいい例だろうが、逆にそういう自己暗示的面があるから宗教には物騒なところがあるのは知ってないといけない。)
また上で「たいした例ではない」といったが、むしろたいしたことでなくてよい。つまりどんな小さなことでも気づくということが大事で、その一刻一刻の積み重ねがもっとも大事というように思うのだ。いや、法にそった道を歩むというのは、まさにそうにちがいない。なんでもつまらないことに引っかかるということ、こいつが次から次にさっさと解けなければ、大言壮語しても「畢竟してなんの用ぞ」、ということだ。
要は、これという修行を絶体絶命の感じ、つまりもう後がないという気持ちで進めると、この身につく(大小、ブレークスルーを体験する、コツがわかる、つまり意識が無意識に通じる)というのがより明らかになるようなのである。もっとも、そういうこと事体も自己暗示かもしれないが、正しいことを身に着けるということ!!!本心から願い、信、祈りの心で、大死一番、決断をもって進めるということ。これがそれなりに成功していくのを体験すると、言葉は何であれ、その工夫が苦から離れる、悪業からはなれる、あるいは自らの無明の底を見極める、そして生き生きと生きる、というのを体得するのに役立つようなのだ。
そして、これはやはり例のカラマ・ストラでいうところの、「うまくいくのなら進めよ。そうでないのならやめよ。」という実践的な教えとつながる。そう、うまく行っているのならどんどん進める、というのもまた智慧なのだろう。(→発心、発心、また発心である) そしてそれはある意味では十地経の一地から十地を、一息におさらいするというようなものだ。「己の欲するところに従って矩を超えず」に向かって、あるいはその確認、確認、また確認の道を進むというわけだ。
こういう体験は大分前のことになるが、たとえばヴィパッサナの最初のコースから帰って、その実際の効果を確認してさらに進めてきたというのと似ている。あるいはサーフィンでも何でも技が身についていく、無意識にその技が使える、というのに似ている。「継続は力なり」である。丁寧に丁寧に、あたかも大事な筋肉を鍛錬するがごとく、悪い癖を徹底して直すがごとく、修し、証していくのだ。
まさに、感謝、祈り、感謝、祈り、である。
ところで、この修証のアイテムに大拙の好きな言葉「すべてを知るものはすべてを許す」も入れようではないか!
修証すべきは、大智・大悲の自ずからの働き!これだ!!!
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では、これがわかったら何をするか?
答えは、、、生き生きと生きているものは、ひとつには実践的であれ、、、
外に、内に、(目の前の)できるところから進めよ!といったところであろう。
雨が降ったら傘をさせばよい。あるいは宮沢の賢さんのように雨にも負けず、、でもよい。
なにがどうあれ、、、答えはそのときそのとき、智慧をだし、状況を見極めて進めるということだ!
定・慧、定・慧、発心、発心、鏡の心、鏡の心、、、
基底のない基底、応無所住而生其心、、、自然、自然、、、
(南無、南無、南無大宇宙智慧慈悲自然発現法、、、とでもいうか!)
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