
ニサルガダッタさん:「私は在る」
―禅、浄土教、Thy will be doneなどとの不思議な整合!―
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html
付録―2 鈴木大拙: I am that I am「われあり」
付録―4 鈴木大拙: I am that I am「われあり」と禅の悟り
付録―5 ヴィパッサナとニサルガダッタさん:身心をこえて。。。
ふとしたことでネットでニサルガダッタさんという、ボンベイの貧困のなかで育ち、無学といわれている人(1897−1981)の言葉にぶち当たった。表現が多少違ってもなんでも、、直観はぴったり!おもわずニュージーラドへの旅を前に数日間ひきこまれてしまった。
こういうことはあまりないのだが、旅の直前でもあり、急遽、ここにこれまでのところをまとめておくこととする。(原文はヤフーの掲示板、創造性のトピなどにのせたものです。)
彼の英語の本も3冊ほどネットで見つかったので(無料ダウンロード済み)、後日丁寧にしらべたいが、とりあえずここまでのところをまとめ、もし興味のあるひとがいるのなら、何かの参考になれば、と思うものです。
2010年12月11日 洲崎 清記
*(注)ところで私のコメントは禅とか真宗などの色合いがついているとも思いますが、そういう「形」にとらわれず、(あるいは意味不明のところはスキップして)素直にいおうとするところを「感じ取る」ように読む、というのが正解と思います。
ネットにこういうのがあった(対話の形になってます)
http://now.ohah.net/pari/mm/vol333.html
『> いちばん手っ取り早く「錯覚」から抜け出る方法は、
> この「真我」と「現象(幻想)」という対立概念の中で
> 真我に至ろうとして運動している
> 心・マインドの「動きそのもの」を感じてみること
> なのかな、と感じました。
ほお。』
==
これ鏡の心。あるいは無分別の分別。般若の知慧の働く場。
浄土真宗なら廃立、、、自力を立てない、ということ。
ヴィッパサナならクリシュナムルティならChoiceless Observationとなるな。
ただし、
> 真我に至ろうとして運動している
は、そうであってもなくてもなんでもいい。
(真我、、という「もの」をこしらえると、話がややっこしくなる。
これは悟りに迷う、というのと同じ。)
そのあとこういうのもある:
『> (マインドの動きを直視するのは楽じゃないかもですが…)
> 真我も無我も幻想も、全て頭(マインド)が
> 認識・対象化をもくろんだ断片なので、
> 全部ひっくるめ、
> 観念の精力的なダンスをあるがままに放っておきながら
> じっくりとトレースすると、そのダンスはどう変化するか。。
もしそんなことができたら……“観念の精力的なダンス”は
減速するでしょうね。』
==
そう、それがおきるというのが不思議ですね。
これが業の根っこを取るというのにもつながる、
あるいは知慧を働かす(向こうから自動的に働く)の意。
そこでその風景を私は仮に「鏡の心」とあらわす。
これを目覚めている、あるいは第三の目を持つ、というふうにいってもいい。
(ただしかりにこのところが論理でわかっても
それにともなう実践ができなければ意味がない)
このところは以下の引用ともぴったり:
『> 質問者: マインド(心)の仕事とは何でしょうか?
>
> マハラジ: マインドはハートに仕える妻であり、
> 世界は明るく幸福であるための彼らの家なのだ。
>
> 質問者: 私はまだ理解できていません。
> 解放への道に何も立ちはだかっていないのなら、
> なぜそれは今ここで起こらないのでしょうか?
>
> マハラジ: 解放への道には何も立ちはだかっていない。
> そしてそれは今ここで起こることができる。
> だが、あなたはほかのことにもっと興味がある。
> そしてあなたはその興味と闘うことはできないのだ。
> あなたはそれとともに行き、
> それを見抜き、それが判断と称賛の誤りであることを
> それ自体が自ら暴くのを見守らなければなならないのだ』
ハート云々、、は無意識の意識、鏡の心につながるわけだ。
*注:鏡の心はHPに載せてあります。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kagaminokokoro.html
また、それは、以下の文の意味するところそのまま、でもある:
『結局、人生のあらゆる瞬間において、あなたはあるがままのあなたなのだ。
だが、けっしてそれを意識したことはなかった。
おそらく眠りから目覚める瞬間を除いては。
あなたに必要なことは存在に気づくことだけなのだ。
言葉としての表明ではなく、ひとつの常在の事実として。
本来のあなたである気づきが、あるがままのあなたへと目を開かせるだろう。
それはとてもシンプルなことだ。
最初に、あなた自身との絶え間ない接続を確立しなさい。
すべての祝福は自己覚醒のなかへと注がれる。
観察の中心として在ることからはじめなさい。』
==
ここでは、存在=ハート、とみればよい。
(注:上記の文を知でおってはならない!
知を超越する、というのがここでのポイント)
「あるがままのあなた」、、に気づくのが
ハートであり、鏡の働き、般若の知慧、
とらわれない(第三の)目をもつ、といった意味合い。
このあと、前の投稿の中にあった、ニサルガダッタさん(Nisargadatta Maharaj)の「私は在る」という本からの引用が鏡の心とぴったりという感じを受けたのでさらに調べてみた。まずはここ:
http://now.ohah.net/pari/mm/vol234.html#2
(注:原書は: I Am That:
Talks with Sri Nisargadatta、とのこと)
「私は在る」という感覚のなかにマインドが動じることなく定まったとき、
表現不可能な、しかし体験可能なひとつの境地へとあなたは入っていく。
何度も何度も試みることだ。
そうすれば、「私は在る」という感覚は、つねにあなたとともにある。
ここでいう『「私は在る」という感覚』が、私のいう鏡の心にぴったり!
==
質問者 では、私とはいったい何なのでしょうか?
マハラジ
あなたが何ではないか、ということを知ればそれでいい。
あなたが何なのかを知る必要はない。
なぜなら知識とは既知なるもの、知覚されるもの、あるいは観念としてしか
表せないため、自己知識といったものはありえないからだ。
それゆえ、あなたが何なのかということは、完全な否定においてしか表せな
い。
ーー
此処のところを鏡の心であらわすと、
鏡の前にある影像、、、これにとらわれると
鏡がなくなるのだが、、
そのとらわれにからまった「あなた」を
「あなた」自身とおもっているのでははなしにならない。
それでそのあなたが「完全な否定」されたとき
本当のあなた(鏡の働き)があらわれでる、ということになる。
(→般若即非→智慧)
==
ちょうどそれぞれの花がそれ自身の色をもっていながら、そのすべての色は
同じ光源をもとにしているように、数々の体験者も記憶においては別々であ
りながら、本質においては同一の分割不可能な気づきのなかに現れる。
この本質こそが根源、基盤、そして時空を超えたすべての体験の「可能性」
なのだ。
ー
『同じ光源』、、が「鏡」、、といったものだ。
それは対象を照らし、その対象のなんなるか、を知慧の働きによって
あらわしめる。
『時空を超えたすべての体験の「可能性」』、、は悉有仏性におなじとみれる。
==
質問者 どのようにしてそれを得るのでしょう?
マハラジ
それを得る必要はない。
なぜなら、あなたがそれなのだ。
あなたがそれに機会を与えれば、それがあなたを得るだろう。
非実在のものへの執着を解き放ちなさい。
そうすれば、実在はそれ自身へと即座に速やかに入りこんでいくだろう。
自分自身の存在をあれやこれや想像するのをやめることだ。
そうすれば、あなたがすべてのハートであり、源泉であるという認識は明ら
かになるだろう。
それとともに選択でも、偏愛でも、執着でもない、すべてのものを愛すべき、
そして愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。
ーー
『 それを得る必要はない。
なぜなら、あなたがそれなのだ。』
まさにそのとうり。もともとある。絶対!
『あなたがそれに機会を与えれば』
これは、無意識を意識するということ。
大雑把に言えば無心というのでもよい。
(あるいは絶対に身を任す)
『愛する価値あるものへと変容させるひとつの力、大いなる愛が現れる。』
これまた悉有仏性、、、
あるいは涅槃を意味している、、と読める。
*ところでこの本のタイトルでもあるI am that I am について、
大拙はどこかで書いていましたが、、、さすが!
やはり名人が(知慧の眼で)洞察するポイントは同じ!
ということになったようです。
根っこは同じだね!!!
感謝、祈り、感謝、祈り!
*ところで浄土教と鏡のこころ、ということで、かんがえてみると、
大まかに言えば、それは阿弥陀の本願に照らされる、ということになるのだろう。
廃立、、自力をたてない、と見るその本体イコール鏡の心、といったものだ。
==
以下の引用元:
http://now.ohah.net/pari/mm/vol248.html#2
http://now.ohah.net/pari/books/I_AM_THAT-index.html
質問者 それでもあなたは違います。あなたのマインドはいつも静かで幸福
なように見えます。そしてあなたのまわりで奇跡は起こっています。
マハラジ
私はそんな奇跡など何も知らないし、自然がその法則に例外を許すとも思え
ない。
すべてが奇跡だとするなら別だが。
私にとってそのようなものは何もない。
ただその中ですべてが起こる意識が在るだけだ。
それは皆の体験においてまったく明らかだ。
あなたが注意深く見ていないだけだ。
よく見てみなさい、私が見るように。
質問者 あなたは何を見るのでしょうか?
マハラジ
私もまたあなたが見ているものを今ここで見ている。
ただあなたの注意の焦点が間違っているだけだ。
あなたは自分自身を自覚していない。
あなたのマインドは完全に物や、人や、観念に占有され、けっして自分自身
とともにいない。
自己に焦点を合わせ、自らの存在に気づきなさい。
自分がどのように行動しているのか見てみなさい。
行動の動機と結果を見守りなさい。
あなたが自分のまわりに、不注意によって築いてきた牢獄を見てみなさい。
あなたが何ではないかを知ることによって、あなたは自分自身を知ることに
なる。
拒否と否定を通してあなたは真我へと帰り着く。
ひとつ明らかなことは、真我とは想像されたものではない。
それはマインドの産物ではないということだ。
「私は在る」という感覚さえ継続しない。
それはどこを探すかを知る有用な指針ではあるが、何を探すのかには用をな
さない。
ただよく見てみなさい。
ひとたびあなたが、これが自分だと指し示すことができるものは何もなく、
「私は在る」ということ以外に自己を語ることができないと確信すれば、
「私は在る」という指針の役目は終わる。
もはやあなたは、自己が何なのかを言葉の上に置き換えようなどとはしない
だろう。
必要なのは、自己を定義しようとする傾向を捨て去ることだけだ。
すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。
私たちの唯一の違いは、私は私の自然な状態に気づいているが、あなたはそ
れを見失っているということだ。
あえてそう思わないかぎり、装飾品として加工された金が、金粉の金より価
値があるわけではないように、私たちも異なるのは外見だけで、存在におい
てはひとつなのだ。
真摯(しんし)に日々それを求め、尋ね、問い、その探求に生涯を捧げるな
らば、私たちはそれを見いだすだろう。
『I AM THAT 私は在る』(p25-27)
==
> 拒否と否定を通してあなたは真我へと帰り着く。
ひとつ明らかなことは、真我とは想像されたものではない。
それはマインドの産物ではないということだ。
「私は在る」という感覚さえ継続しない。
あえていうなら、空、といったものだな。
五蘊皆空。。
> すべての定義づけは、身体とその表現にしか当てはまらない。
この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力するこ
となく帰り着くだろう。
私たちの唯一の違いは、私は私の自然な状態に気づいているが、あなたはそ
れを見失っているということだ<
ここで身体というのがあおもしろい。
ヴィパッサナでは意識の動きを身体で感じ、
それにとらわれない(Equanimity)、というが、
>この身体への固執が消えれば、あなたは自然なあるがままの姿に努力することなく帰り着くだろう。<
は、そのままでそのとうり、ということ。
身心脱落でもいい。
それにしてもここでは我という言葉を使っていないということ、、
これも面白い。
質問者 結局ひとつのものが、ほかのものにとって唯一の原因だとす
るのは、まったく間違いだということがわかります。しかし、実際
の人生では、結果を見込んで行動を起こすのが私たちのつねなので
す。
マハラジ
そうだ。
無知のために、そのような行動はいたるところで見られる。
全宇宙がそれを起こさないかぎり、何事も起こりはしないということを人び
とが知るなら、彼らはよりわずかなエネルギーでより多くを達成するだろう。
質問者 もしすべてが原因全体の表現だとするなら、ひとつの達成に向けて
の目的ある行動などというものがありうるのでしょうか?
マハラジ
達成しようとする衝動自体も全宇宙のひとつの表現なのだ。
それは潜在するエネルギーが、ある一定の地点で現れたことを意味するにす
ぎない。
時間という幻想が、あなたに因果関係について語らせるのだ。
過去と未来が共通のパターンの一部として、永遠の今において見られるとき、
原因と結果という概念は効力を失い、創造的自由が現れる。
==
>達成しようとする衝動自体も全宇宙のひとつの表現なのだ。
これにのってぷかぷか、というのが浄土教。
一方、四智には成所作智、、、、というのもある。
> 時間という幻想が、あなたに因果関係について語らせるのだ。<
時間、生死、などという枠、、これがどこから来たかが「わかれば」、
(そういえば、「あなたはどこから?」ともいっていた)
知慧はその働く場を失っていない、ということになる。
> 過去と未来が共通のパターンの一部として、永遠の今において見られるとき、原因と結果という概念は効力を失い、創造的自由が現れる。<
共通のパターン、、、云々、というのは、「(法の)流れに乗って」といったかんじだな。
そのものがそのものになって、「全宇宙のひとつの表現」となれば、、
「創造的自由」そのものとなる。(浄土教なら阿弥陀の本願に乗る、、といったものだ)そこでは我、、、というものは霧散している。
==
マハラジ
欲望は多くの要因のなかのひとつだ。
あらゆるものには無数の因果の要素がある。
しかし、そのすべての源はあなたの中にあり、それは愛と力と光をすべての
経験に与える至高の実在なのだ。
だが、この源が原因なのではなく、またどの原因も源ではない。
それゆえ、私はすべてのものに原因はないと言うのだ。
あなたはどのようにしてものごとが起こるのか、その由来をたどってみよう
とするかもしれない。
だが、なぜものごとがあるがままなのかを見いだすことはできない。
ものごとはあるがまま在るのだ。
なぜなら宇宙はあるがまま在るからだ。
『I AM THAT 私は在る』(p30-32)
ーー
>私はすべてのものに原因はないと言うのだ。<
因果を断ち切れ、、というようなものだな。
そしてそのものになれ!
すると、、創造的自由が得られる(得ようとして得られるのではない)
> あなたはどのようにしてものごとが起こるのか、その由来をたどってみよう
とするかもしれない。
だが、なぜものごとがあるがままなのかを見いだすことはできない。<
十二因縁とおなじだね。ご苦労さん!!!
それで、、明けの明星!!!
> ものごとはあるがまま在るのだ。
なぜなら宇宙はあるがまま在るからだ。<
ただそのまま、あるがままをうけとる、、、
受け取るという、、意識もないままに、、、うけとる。
なぜか、、?
そこに宇宙創造の知慧が働いているから。
ははは。
==
マハラジ
それは不変ではない。
知る者は知られるものとともに現れ、ともに消えるのだ。
その中で知る者と知られるものが現れては消えていくそれは、時を越えて在
る。
不変あるいは永遠といった言葉は当てはまらないのだ。<
まさに鏡そのものだな。
質問者 眠りのなかでは知る者も知られるものも存在しません。何が身体に
感覚と受容力をもたせるのでしょうか?
マハラジ
知る者が不在だったと言うことはできない。
ものごとや思考の体験がなかった、それだけだ。
しかし、体験の不在もまた体験なのだ。
それは暗室に入って、「何も見えません」と言うようなものだ。
生まれつき盲目の人が暗闇の意味を知らないように、知る者だけが知らない
ということを知っている。
眠りは単なる記憶の喪失であり、生は続いていく。
これまたおなじ。
何かを見いだそうとするとき、あなたはどうするだろうか?
マインドとハートをそれにとどめておくのだ。
それに対する関心と、確固とした記憶が必要だ。
覚えなければならないことを覚えること、それが成功の秘訣(ひけつ)だ。
真剣さがそれをもたらす。
これはいわば知慧の原理。
すべての恩寵(おんちょう)はあなたの内側からやってくる。
内面に目を向けなさい。
あなたは「私は在る」ことを知っている。
自発的にそこへ戻ってくるようになるまで、もてるかぎりの時間をそれとと
もに在りなさい。
それ以上やさしい方法はないのだ。
ここで
> 自発的にそこへ戻ってくるようになるまで、もてるかぎりの時間をそれとと
もに在りなさい。<
、、がキャッチー22だな。
(つまり、求めたら求まらない)
ただ「それ」と一緒にあればよい。
マハラジ
私たちは感覚や行為といった外側の世界は知っているが、思考や感情といっ
た内なる世界のことはほとんど知らない。
瞑想の初歩的な目的は、私たちの内なる生をより身近に自覚することだ。
そして究極の目的は、生の源である意識にたどり着くことだ。
付随的にだが、瞑想の修行は私たちの人格に深く影響を及ぼす。
私たちは私たちが知らないものの奴隷だ。
知るものに対しては私たちが主人だ。
何であれ、私たちの欠点や弱点を発見し、その原因や働きを理解する、知る
ということ自体がそれを克服するのだ。
無意識は意識層にもちこまれることによって溶解する。
無意識の溶解はエネルギーを解き放つ。
マインドはそれを適切だと感じ、そして静かになるのだ。
これは知慧の働きをそのまま描写している、といった感じだな。
質問者 静かなマインドは何の役に立つのでしょうか?
マハラジ
マインドが静かになったとき、私たちは自分自身が純粋な観照者であること
を知る。
私たちは経験と経験者のどちらからも身を引き、その間であり、またその二
つを超えた純粋な気づきとして離れて立つのだ。
自分自身を、「私はあれやこれだ」と想像し、自己同一化をもととする人格
は続いていく。
しかし、ただ客観的世界の一部としてだけだ。
観照者としての自己同一化は終焉(しゅうえん)する。
そうだそうだ。
これまた知慧の働き。
なんにもしないで見ていれば、、、
話は落ち着くべきところに落ち着く。
(「対処しない対処」である)
(ああ、、、なんということか
簡単すぎて、、というところでもある。
→とくに、むずかしく物事を考える人は注意すべきだろう。
次の質問もその代表例、といったところ)
質問者 サットヴァ(調和)は何の役に立つのでしょうか?
マハラジ
真理、善、調和、美、これらがいったい何の役に立つというのか?
それらがそれら自身の目的なのだ。
ものごとがそのまま干渉されず、避けられず、求められず、概念化されず、
ただあるがままに完全な気づきのなかで体験されるとき、それらは自然に努
力することなく現れる。
そのような気づきそのものがサットヴァなのだ。
それは人やものを利用するのではなく、それらを満たすのだ。
そこで平安、、、
涅槃といってもよい、、、
が訪れる。
(これはもともとあったものだが、
人間としての構造上、、、、
いったりきたり、というのがある)
質問者 あなたは私たちのように見たり聞いたりするのでしょうか?
マハラジ
そうだ。
私も見たり、聞いたり、話したり、行動したりするように見えるだろう。
しかし、あなたの呼吸や消化作用がただ起こるように、私にとってそれらは
ただ起こるのだ。
「身体―精神」器官がそれらの面倒を見、私は関わらない。
あなたが髪の毛の成長を心配する必要がないように、私も言葉や行動につい
てマインドを煩(わずら)わせたりしない。
それらはただ起こる。
そして私は気にかけない。
なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。
知慧の目がいつも開いているということだな。。。
おっとっと、がない、ということ。。。
しまった、、、あれあれ、、、もないのかな。。。
ひっかかりがない、、
うーん、それは可能かもしれないが、、
それを可能にするには生活がかなり、シンプルにならないと、、
うーん、、
どれくらいつづくか、、、
やってみるかな?!
==
念のためにもう一度、よみなおした:
> 私も見たり、聞いたり、話したり、行動したりするように見えるだろう。
しかし、あなたの呼吸や消化作用がただ起こるように、私にとってそれらは
ただ起こるのだ。
、、、
それらはただ起こる。
そして私は気にかけない。
なぜなら、私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。<
此処はやはり微妙。
(→へたをするとHPにのせた「空病」にからむ可能性あり。)
ちなみに大拙選集1巻、禅の思想のp。93に大拙によるこういう記述がある。(中道の意味合いもそこにみられるようだ):
『個の行為はーそれが宗教的であるかぎりーいつも個を越えたところから出なければならぬ。』
『個は超個によってあるもので、個自体として独立のものでない。これはしかし個を夢幻視するのでない。すべての行為は個の行為である限り、個はある、無ではない。』、
『個の行為は物理的・機械的・本能反射的行為ではない。個の行為は自由意志に基く創造性を具有している。此処に人間の尊貴があり、威厳がある。
個として自由意志の主体であるから、人間は自分を超えたものを意識することが可能なのである。そしてこの意識のゆえに人間は個々自分の行為に対して責任を負うことができるのである。
超個的主体の意志を本能的・反射的に行為するのでなくて、それと個たる自己との意識的矛盾をあくまで自覚して、しかも自分をそれにささげるところに、人間性が認められなければならぬ。
これが人間としての自由性・創造性、および個としての実在性というべきものである。これらの性格のないところには、蟻群があり、蜂群があるが、人間の集団生活はありえないのである。』
『超個者の意志はそのままで実現せられるものでない、必ず個者をとうさなければならぬ。しかし個者は前者の目的を遂行するところのただの機械ではない。個者は自由意志の所有者として自己の判断によって、超個者意志を意志するのである。個者は個者としてどこまでも自由でなければならぬ。選択の分別知とその結論の実現とは個者の上になければならぬ。それが個の個たるゆえんだからである。』
ー
ここで、、、
>超個的主体の意志を本能的・反射的に行為するのでなくて、それと個たる自己との意識的矛盾をあくまで自覚して、しかも自分をそれにささげるところ<、、、というのが中道につながると思う。
したがって、ニサルガダッタさん(マハラジさん)のいう、、
>マインドを煩(わずら)わせたりしない。<
はいいのだが、、
(つまり、、、これは煩悩を断ぜずして涅槃を得る、、といった意味合い、、
あるいは中道の意味合い。)
>私の世界ではけっして何も間違いは起こらないからだ。<
、、、というのは
HPにのせた空病のような受け取り方にとられる可能性があり、それはそうでなく、
『煩悩即菩提として、煩悩を生かしてつかう。これが小乗に対する大乗の立場である。』(同上、大拙、p。99)
、、というところにいたるべきであろう。
マハラジ
不動でないマインドが、それ自身を不動にすることができるだろうか?
もちろんできはしない。
うろつきまわるのがマインドの本性なのだ。
あなたにできることは、意識の焦点をマインドの彼方へと移行させることだ
けだ。
質問者 どうすればいいのでしょうか?
マハラジ
「私は在る」という想念以外のすべての想念を拒絶しなさい。
はじめのうち、マインドは抵抗するだろう。
しかし忍耐と根気をもってすれば、それは降伏し、静かになるだろう。
ひとたびあなたが静かになれば、あなたからの干渉なしに、ものごとは自発
的にまったく自然に起こりはじめる。
質問者 このマインドとの長い闘いを避けることはできるのでしょうか?
マハラジ
できる。
生を起こるがまま生きなさい。
ただ留意し、見守り、あるがままにものごとが起こるのを許して、生がもた
らすままに、喜び、苦しみ、自然なことを自然に行う。
それもまた道なのだ。
質問者 それなら結婚し、子どもを持ち、仕事をして――幸せになることも
できるのですね。
マハラジ
もちろん。
幸せになるかもしれないし、ならないかもしれない。
あなたの歩調で歩くがいい。
質問者 でも、私は幸せになりたいのです。
マハラジ
真の幸福を、移り変わり過ぎ去っていくもののなかに見いだすことはできな
い。
喜びと苦しみは容赦なく交互にやってくる。
真の幸福は自己から来る。
そして、それは自己のなかにしか見いだせないのだ。
あなたの真我(スワルーパ)を見いだしなさい。
それとともに、それ以外のすべてもやってくるだろう。
質問者 もし私の真我が愛と平和ならば、なぜそれはこうも落ち着きがない
のでしょうか?
マハラジ
あなたの真の存在に落ち着きがないのではない、その反映がマインドのなか
に落ち着きなく現れるのだ。
なぜなら、マインドは落ち着きのないものだからだ。
それは水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。
欲望の風がマインドと、マインドのなかの真我の反映である「私」を揺り動
かし、千変万化に映しだす。
しかしこのような動き、落ち着きのなさ、喜びと悲しみといった観念は、す
べてマインドのなかに存在する。
真我はマインドを超えてあり、関わることなくただ気づいている。
質問者 どうやってそれに到達するのでしょうか?
マハラジ
たった今ここで、あなたは真我なのだ。
マインドのことは放っておきなさい。
覚めて、巻きこまれず、離れて在りなさい。
そうすれば、超然と油断なく在り、来ては去りゆく出来事をただ見守ること
が、あなたの真の本性の一側面であることに目覚めるだろう。
――
>どうやってそれに到達するのでしょうか?<
これなんだよ。そのマインド、、、
心の動きをそのまま「見る」、ただそれだけのこと。
けれど、このことがわかっていないものは、
こころが「何かに」到達したい、、、
というその対象に心がうばわれてしまう。
だから、ここまでのところを何回でも何回でも、
何千億回でも確認し、「体得」しないといけない。
すると、、、心ーここではマインドといっているーは、
>水面に映る月が、風で揺らめくようなものだ。<
と「わかる」というわけだ。(何度でも)
==
質問者 私は快楽が欲しく、苦痛は欲しくないのです。
、、、
マハラジ
、、、あなたは快楽を追求し、不快を避けてきた。
今まで成功しただろうか?
質問者 いいえ。快楽は長続きせず、苦しみはふたたび入りこんできます。
、、、
マハラジ
肉体的あるいは精神的なあらゆる喜びには手段が必要だ。
物理的、精神的な手段はともに物質であり、どちらもすたれ、使い果たされ
る。
それらが生み出す喜びは、必然的にその強度と期間に限界がある。
苦しみはすべての喜びの背景にある。
苦しむがゆえにあなたはそれを欲しがる。
だが、喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。
それは悪循環だ。
――
だから無常を無常と受け止め、
それをそう受け止められない自分がばたばたしているのを、、、
そそままに直視しなさい、、、ということ。
あたかも水面に映る月が、風で揺らめく、、、のをみるように。
鏡にうつる影がうごめくのを見るように。。。
これは、そのまま、汝自身を知る、ということ。
>喜びの追求自体が苦しみの原因なのだ。<
あるいは、、苦しみを逃れようというその葛藤そのものが苦しみなのだ。
悟りに迷うといったバカにはなるなよ!
質問者 混乱の構造は理解できますが、出口が見いだせません。
マハラジ
構造を調べること自体が道を示すのだ。
つまるところ、あなたの混乱はあなたのマインドのなかにだけ存在している。
そのマインドはけっして混乱に抵抗せず、それを理解しようともしてこなか
った。
マインドが抵抗したのは苦しみに対してだけだった。
質問者 それでは、私は混乱しつづけるしかないのですか?
マハラジ
油断なく在りなさい。
問いかけ、観察し、調べ、混乱があなたや他人に何をし、どう作用するのか、
混乱について何ができるのかをすべて学びなさい。
混乱について明らかにすることで、あなたはそれを一掃する。
――
達磨安心の公案をおもいだすなー。
慧可(えか)、、
「わたしの心はまだ不安であります。
どうか安心させてください」
ダルマが言った。
「心をここに持って来るがよい。
お前のために安らぎを与えてやろう」
慧可は言った。
「心を捜し求めましたが、
どうしても掴むことが出来ません」
ダルマが答えた。
「お前のためにもう安心させてしまったぞ」
==
質問者 深い眠りの状態を記憶することはできるのでしょうか?
マハラジ
もちろん!
目覚めている間の不注意なときを取り除くことが、眠りと呼ばれる長い放心
状態の感覚を徐々に除去するだろう。
あなたは自分が眠っていることに気づくようになるだろう。
――
これが不思議なところだ。
おきているときに、眠っていると気づくと、(だから目覚めている)
眠っているときにも、おきている、と気づく、、、(目覚めている)
ということにもなる。
これを無分別の分別、無意識の意識、、という。
第三の眼といってもいい。
==
身体が無意識にそれ自身を正しく調整するように、私も絶え間なく世界を正すように活動している。
あなたが社会のためを思って望むならば、世界全体があなたとともに望むだ
ろう。
人類の望みをあなた自身のものとして努めなさい。
そうすれば、決して失敗はあり得ない。
ーー
この辺華厳の相即即入といったかんじだな。
自ずから然り、、、、でもよい。
悲しみをもたらす欲望が間違ったもので、幸せをもたらすも
のが正しい。
だが、ほかの人たちのことを忘れてはいけない。
彼らの悲しみや、幸せもまた考慮に入れるのだ。
あなたはすでに、あるがままのあなたなのだ。
何があなたではないかを知ることでそれから自由になり、あなたはあなた自
身の自然な状態にとどまる。
すべては自発的に、努力なしに起こるのだ。
ーー
簡単といえば簡単。
ただあるがままで、、、
答えが見える。
気をつけなさいよ!
はい。
質問者 この世界には、ある方向性や目的があるとあなたは見ていますか?
マハラジ
世界とは私の想像の反映にすぎない。
何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。
だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか?
私にはそれらは必要ない。
世界は私のなかにあり、世界 は私自身なのだ。
私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に
閉じこめたいなどという望みもない。
ーー
> 世界とは私の想像の反映にすぎない。
何であれ見たいと思うものを、私は見ることができる。<
このいいまわし、面白い。
見る、、というところにも宇宙の意志(知慧)がはたらいている、、
ということなのだろう。
> だが、なぜ創造、進化、破壊というパターンを編みだす必要があるだろうか?私にはそれらは必要ない。<
編み出すのでなく、自ずからの流れに乗る、、、といったところか!
> 世界は私のなかにあり、世界 は私自身なのだ。
私はそれを恐れることもなければ、それをひとつの固定させた心理的画像に
閉じこめたいなどという望みもない<
世界は私自身、、、
あるがまま、、でしかり!
(いろいろな波がたっているな)
知慧も慈悲も無功用、、であらわれでる、、
といったところだろう。。。
ところで、世界は私、、というのでクリシュナムルティに
You are the world、、という本があるが、、パラパラみなおしてみると、、
彼はまあ自問自答しているようなものだから、、
その道筋がピンとわからないと、かなりの人はついていけないのではないかと思う。
お経と同じで、こういうものは確認の意味合い、、、
わかったあと読むとわかる、、という
キャッチー22の構造になっているから、、
公案と同じで、、ピンとこないと
ちとややこしいことになるのだろうな。
真我の実現は無知の反対にほかならない。
この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみ
の原因だ。
真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る
ことが自由であり、平和と喜びなのだ。
それはとてもシンプルだ。
ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学
びなさい。
すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。
それは鏡を磨くようなものだ。
あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せ
るだろう。
「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい。
ーー
>すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。<
やはり鏡、、、だな。
> 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい<
私の場合はヴィパッサナだが、2000年の体験(〜見性)で知覚が鋭敏になって、そのあと数年たって(2007年)、やっとその辺の微妙な構造に「気づいた」、、、。
この辺のことは「鏡の心」のファイルに(付録も含め)いろいろ書いておいたので、その内容についてはここでは言及しない。
http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html
ただ、それをパラパラ読み直してみると、大拙のこういう記述がやはりピンと来る:
『有限とみなされている対象―主観と客観の両般の世界に属する対象―が超智によって無限という観点から覚知されたのだと。それを象徴的にいえば、有限が無限の鏡に映った自分自身を見るのである。』
私の場合、無限の鏡は、、、そこしれない空間、、、空、、、とつながっており、(あたかも頭の後ろ?に無限の空間があるといった感じ)、それで色即是空、空即是色がぴったり、というかんじである。
ただし、この鏡の働きは、、いつでもすぐに気づくようではあるが、、、うっかりしていると、、ぼけてしまう、というのが現状です。
追記:
そういえば、この辺、西方法界さんと鏡の心について話をしたということもあります:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/seihouhokkai.html
そのファイルのなか、「山は山、川は川」というところで西方さんのパラダイム1、2というのにからんで「鏡の心」をかなり説明をしてあります。
この部分は私が西方さんのコメントに対しあれこれいっているので、自問自答的でないその分、この話*を丁寧に調べたい方の参考になるかもしれません。
*これほど大事な話はあるだろうか?!!!
ーー
> 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい<
この『私は在る』というところ、、、これもひとつの方便でしょうが、、、
そのままでいい、、、と受け取れます。
無論、ここでの「私」は、、、ニサルガダッタさんのことばでは真我です。
ちなみにWilbroさんのガイドというのもHPにアップロードしてありますが、そのなかで「Quiet center]というのが、「それ」に相当すると見ていいでしょう。
以下のものはそのファイル、、(http://www.geocities.jp/suzakicojp/guide.html )からの引用です(注:日英対訳):
The way of resignation is not necessary;
it can be replaced by the look of inquiry,
a sharper and more direct approach to the release insights.
つまり、あきらめによる解決は必要ではなく、そのかわりに『観想』があればいいのです。それがはるかに明確かつ直接的な解放(つまり知慧)をもたらす方法というわけなのです。
It is a fact that to see through and understand the turmoil that is oneself,
one must look from a 『quiet center』.
いってみるのなら、混乱の正体(それは自分自身であるのですが)を見抜き、理解するためには、あたかも『静かなる中心』と言うような場から、何がおこっているのかを眺めようということです。
――
ちなみに、私がその「鏡の心」にいたるいきさつはどうだったかというと、、、
それはこの辺に書いてあります:http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html#_Toc248205945
* 2007年のニュージーランドの旅のジャーナルでの書き込み(2月17−19日):
湖畔にて、柳の影の星明り。
星明り、無の爆発する音を聞き。
私は風。
私は水の音、鳥の声。
空の星、山の岩。
川にすむ鱒。
風に揺れる草の穂。
透き通って、輝いて、
燃えている。
(http://www.geocities.jp/suzakicojp/NZ3.html)
ーー
今思い起こしてみると、、
「それ」は日暮れあとの暗闇の中で、、、
(言葉にしづらい、あるいは言葉にするのは危険?!かもしれないが、、
あえていうなら、、、)
目を瞑ったまま、真っ暗闇の無意識(〜空。〜無限)をのぞきこんだ、
そしてその「(無限の)存在」(=私は在る)に気づいた
→そのものになった、という「感じ」。
そして「そこ」、、これが前出のQuiet Center、、であるが、、、
「そこ」から心の状況が(あたかも鏡に)浮き上がって見えるがごとし、、
と、、気づいたということ。
―
そこで、ニサルガダッタさんのいう:
『「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。
それを使いなさい。』
という表現であるが、、
その「私は在る」、、、というその場所を
あえてさししめすなら、
私の場合、どうも後頭部といった感じなのだ。
(そしてその場が、「いまここ」で、
真っ暗な無限の空間ー空ーに開かれているという感じなのです)
*注:
この辺の話は、、微妙で、、、ことによると、、
自己暗示の意味合いも出てくるところかもしれないので、
私の話はあまり重要視しないほうがいいのかもしれません。
というのも一人ひとりの道は異なるかもしれないから。
そして、この道にはたくさんの落とし穴がある、、
と思われるからです。
ここで鏡の心と浄土教についてちょっと考えてみたい。
まずはこれ(ミチオさん):
http://www.geocities.jp/suzakicojp/michio-8.html
M:宇宙まるごと阿弥陀仏
これをですね
ごっつぁんですといって まるまる 食べれば おしまい
逆に ごめんなさいで あやまる 手もある
これよりな 阿弥陀仏をぱくぱく 食べるのだよ ありがたくな
これで 卒業は できるぞ
科学では そおわいかんだろ
浄土教なら 阿弥陀仏をぱくぱく むにゃむにゃと 食べるのだ
そのために 化身として 地獄まで降りてきて みなに 見せている
はよう 食べてくれや とな
信じんか((注:信じないか)) ばかだなぁ
だから 地獄も へちまも こわいものなすびよ
はっきりいえば おまえも まるごと 阿弥陀仏なんだが
わからない
あっ そう 信心がたりない
ー
法華経に書いてある
地から 無数の仏が わいてくる
阿弥陀仏が わざわざ 化身として 地獄まで ついてきて
見せて 教えているのに
もったいない のぅ
わからんか
信心不足
修行が たりん のよ
ー
宇宙は仮の姿
不浄なものでもあるし 仮の姿になって 現れて くださっている
虚仮ともいうし 仮の宿とも
不浄なものに わざわざ 顕れて
教えてられている
究極の方便だな これなら
ほんとうだぜ
これなら かんぺき
ー
すべてのことは 起こるべくして
起こっている 調和して 方便としても
なにが 起きても よいのである
その 受け取り方
これだけ
ありがたく 映るのか
恐怖に歪むのか
各々方しだいと 弥陀さまも きっと 仰ることでしょう
やはり ここも 真理が働いているから
どっちにもとれるな それも言葉 神がつくったとも
いやいや 自然の理だとも 言葉のあや 本人の自由ともいえるが
神仏にしておくべし
ーー
要は大船でぷかぷか、、、(阿弥陀の本願:教行信証)であるから、、それがそのまま鏡、という具合となる。
「私なりに考えて見ると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は。わたることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」 p。3、親鸞、教行信証(現代語版)
--
ついでに盤珪の不生禅ついてもここに転載しておく:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html#_Toc202174755
大拙全集12巻で盤珪の言葉を大拙が説明している(もとは英語これは私の日本語訳です):
「この決定に達した瞬間から、皆さんは、人間を正しく見る眼が開かれる。これは私自身の体験である。私は不生の眼を得てから、決して人を間違って判断した事は一度もない。」ーp。399
以下は大拙の解釈:
「心理学的に言えば、悟りの経験はある人の人格の根底をなしている無意識の自ずから成る自発、、である。」 −p。402
「奇妙な事に、真理は、一人の存在の表面的な構造が崩れた後に初めて現れるものなのである。」
ーp。403
「不生は盤珪の全存在から沸いた彼の悟りの内容であり、それが発展して、彼は終始、不生の中に不生とともに生きているように感じたのである。彼の生活のどの瞬間もみな不生の表現であった。」−p。403−4
http://www.geocities.jp/suzakicojp/zenntofunnbetu.html#_Toc241205950
「悟りは開くものでなくて、もとよりあるもの、そのままのものである。これを不生というのである。。。自分(盤珪)は仏法をも禅をも説かぬ、と云うは実にこの点を見てのことである。盤珪の不生禅はこの意味でそのまま禅たることは間違いない。しかし、如何なる宗教でも最後の安心の処はそのままより外一歩も出ないのである。宗教は、みな絶対受動性に落ち着く。」 (鈴木大拙全集1巻、p。59)
、、ということで、、どこをみても、そのままそうと、
受け取れるのである。
『私は在る』の原文(英語:『I am that.』)約400ページのものが全文ネットにのっていた!
これはその一ページ目:
That in whom reside all beings and who resides in all beings,
who is the giver of grace to all,
the Supreme Soul of the universe,
the limitless being -- I am that.
Amritbindu Upanishad
That which permeates all,
which nothing transcends and which,
like the universal space around us,
fills everything completely from within and without,
that Supreme non-dual Brahman -- that thou art.
Sankaracharya
The seeker is he who is in search of himself.
Give up all questions except one: ‘Who am I?’
After all,
the only fact you are sure of is that you are.
The ‘I am’ is certain. The ‘I am this’
is not. Struggle to find out what you are in reality.
To know what you are,
you must first investigate and know what you are not.
Discover all that you are not -- body,
feelings thoughts, time, space, this or that -- nothing,
concrete or abstract,
which you perceive can be you. The very act of perceiving shows that you are not what you perceive.
The clearer you understand on the level of mind you can be described in negative terms only,
the quicker will you come to the end of your search and realise that you are the limitless being.
Sri Nisargadatta Maharaj
これがI am thatの全文:
http://www.maharajnisargadatta.com/I_Am_That.pdf
(そのほか:I am unborn.という本、Self-knowledge
and self-realizationという本もネットにのっている)
ちなみに、これは英文のウィキのサイト:
http://en.wikipedia.org/wiki/Nisargadatta_Maharaj
そのなかで、、
The mind and body act of their own accord, and we are the witness of them、、とあるが、
このことがヴィパッサナの場合のAwareness and equanimityにつながる、と見る。
'"The life force [prana]
and the mind are operating [of their own accord],
but the mind will tempt you to believe that it is "you".
Therefore understand always that you are the timeless spaceless witness.
And even if the mind tells you that you are the one who is acting,
don't believe the mind. [...] The apparatus [mind,
body] which is functioning has come upon your original essence,
but you are not that apparatus." -
The Ultimate Medicine, (pp.54 - 70)
というこの表現もぴったり!
それにしても、、盤珪の不生もでてくるし、、
大拙のいうI am that I am.もでてくるし、、、
このボンベイの貧困の中に生まれた人、
の指し示すところが、禅の教え他、、
そこいらじゅうとつながっている。
まったく不思議なものだ!
おっと、、、
それはそのまま、当たり前で、不思議ではない、、ということだ!
あたりまえに徹する、自ずから然り、ということだ!
この数日、いろいろニサルガダッタさんの言葉の調べを進め、確認をしてきたが、、、以下の達磨の言葉がどうもぴたっと来る:
心随万境転 …… 心は万境に随って転ず
転処実能幽 …… 転ずる処(ところ)実に能(よ)く幽なり
随流認得性 …… 流れに随って性(しょう)を認得すれば
無喜亦無憂 …… 喜びもなくまた憂いもなし
ところで記憶力のあまりよくない私は、この文のなかで、覚えているのはこの文:
>流れに随って性(しょう)を認得すれば喜びもなくまた憂いもなし
それでいつもネットで検索をするのだが、そうしたらこれが一番に出てきた:
http://www.geocities.jp/suzakicojp/annshinn.html
そこで、ついついこのファイルのすべてを読んでしまったが、あいかわらず同じようなことが、これでもか、これでもか、と書いてある。その上、このファイルの最後に何度でも何度でも確認を、、とかいてある。
こういうのもある:
「ある坊さんが、、、私は一遍、桃の花の開くのを見てから、今日に至るまで少しも疑わぬ」こういった。。。この疑わぬという所へくるのがすなわち安心であると思います
ー
そこで考えた。
1)私は疑わぬというところにいるか?
2)だとしたら、それはいつからか?
1)に関しては、その答えは確認、確認、、ということで見ていくしかないように思う。(←無常)油断大敵!
2)はある特定の体験をした時点といえるかもしれないが、(たとえば2000年のバンガ)丁寧に考えると、1)と同じ、やはりそれは現在進行形で、、、ということになるだろう。
なにか『わかった』というのは『わかった』とおもえない、ということだ。そしてそれが『わかった』という見地、これを確認、確認、また確認、ということであろう。
どことなく頼りないようでもあるが、それはそうでない。というのもそれは知の領域の話ではないから。
そして、そのことが釈迦のいう「正理と法の道(領域)を歩む」、ということにつながるのだと思う。要は、とことんとことんの素直であれ!ということだ。
用心深いということであろうか、
私は念には念をいれ、、注意深く、、、ということで、
今回のニサルガダッタさんの言葉もながめてきた。
(注:まだ読んでないのはたくさんある)
無論、体験にもとづいた直観を大事にしながらも、
当然、大拙、盤珪、エックハルトなどなど他の人の言葉との比較もする。
そしてどこか抜けはないか、、というふうに、注意深く見ていく。(抜けは、どこにでもありうる)
手間がかかるがこればかりはやもうえない。
話すほうだって話す状況によって使う言葉もかわってくるし、
「体験」を言葉にするというのは
どうしても誤解をうむという可能性がある。
まして話題が話題である。
かりに話すほうがしっかりしていても、
受け取るほうが勝手に落とし穴におちるというのもある。
だから大げさかもしれないが、全存在をあげて
読む、、行間を読む、そしていろいろな体験と照らし合わせをする、、
ということでないといけない。
直観でよみ、論理的にもチェックするが、
(〜信頼すべき)他の人の言葉との整合、、といういみでもチェックする。
いいかたによって、いっているほうも矛盾することをいう、ということもある。
あるいは言葉にするとどうしても矛盾になる、ということもある。
そんなこんなで、全存在をあげて、、
あるいは、、たてよくななめに、チェックする、ということになる。
そしてそのとき、、、チェックするこちら側が、
法によってチェックされる、、ということにもなる。
(というか、そうでなければならない、、というわけだ)
そう、、、これまでHPに色々なものを載せてきた、、、というのも、
そういったことのひとつのあらわれだ。
なにか書くというのは、間違ったことを書こうという思いでやっているわけではないから、
HPにかいたもののすべては、「私」にとってそれなりの「意味」があったのであり、
それなりのチェックをしてきたわけだが、
願わくは、そのことが自分も人もまどわすようなものでない、、、ということを祈りたい。
これは昨日、慈悲、、のトピにのせたニサルガダッタさんのことば:
Learn self-awareness,
self-control, self surrender
It may seem arduous
But it is easy if you are earnest...
And quite impossible, if you are not.
Everything heals to earnestness
以下のものは盤珪についての大拙の記述であるが、「不生」を「われ在る」と置き換えるとそのままニサルガダッタさんの言葉になる、といってもいいぐらいぴったり!しかも、大拙は盤珪の不生の説明をする以下の文のなかで、ニサルガダッタさんの『私はある』、、という言葉そのままをつかっている。!
ーー
『不生』は盤珪の全存在から沸いた彼の悟りの内容であり、 それが発展して、彼は終始、不生のなかに不生とともに、生きているように感じたのである。彼の生活のどの瞬間もみな不生の表現であった。ゆえに彼の場合には不生は静的な概念ではなかった。いいかえれば、彼は不生を空間的に直覚したのではなくて、時間的に直覚下のである。つまり、彼は不生に生きていたわけで、生きている自分が不生であることを知ったのであるーこれが悟りなのだ。
盤珪は不生と仏心をひとつに見ている。この仏心はあらゆる感覚的存在(有情)に本来そなわっているもので、この心によって人は体と通じて感覚し、感情を動かし、想像し、一切の人事を営むのだといっている。それゆえ不生は霊明である。・不生といい、霊明といい、古い語彙であるが、盤珪の意味では、不生は空虚な抽象語や、概念的な普遍語ではなくて、生きている、活力の在る、具代的な、個人的な観念なのである。
ゆえに悟りは悟ったもののみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは、悟りじたいであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳密に言えば、ほかの何人の証認をも必要としないものである。それはそれ自体に充足している。
。。。
要は、各個人におけるかかる意識・無意識一切の活動が、「わたしはある」「私は存在する」という基礎的概念によって起こるということである。。。。この「われ在り」を最も深い意味において理解したとき、「不生」をえるのである。。。
(ここで)知りうることは、盤珪が不生へ到達するためにその一切の所有、その全存在をあげて投入したことが、彼にはいかにも当たり前で必然だったということである。。。すなわち自ら死にきってこそはじめて生き返ることができるのだ。。。
生きて死ぬこと、あるいは死んで生きること、これは論理上では不可能であるが、この不可能を禅匠は実行しろというのである。死にきったところから行われるあらゆる行為こそ、「善し」とたたえられるのである。
ー大拙全集12巻p403−407(禅による生活)より。
ーー
上の記述に対応するように、ニサルガダッタさんは彼なりに不生、、をこういっているというのも、不思議・面白い所である:
『あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。
あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。
だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、
この特定の身体をあなた自身
のものと信じているところに過ちがあるのだ。』
ーー
要はそれ「不生、私は在る」は「絶対」、、、ということだ!
。。。
ここまでみてくると、出だしに直観した、わたしのいう「鏡の心」と見る内容はぴったり、とかんじるのである。ことによると、あの世で行われている大拙とニサルガダッタさんの会合に私も末席に参加している、、という気がしないでもないのだ!
最初にニサルガダッタさんの数行の言葉に何かを感じた、この掲示板に書き込みをしたとき、それはもう数日前になるが、いったい私はここまでの展開を読んでいたのか。あるいはうっすら感じていたのか。それはどうでもいいようなところではあるが、いずれにしろ不思議・面白い・妙なところではある。
ははははは、、(ぐすっ)
いろいろながめてきたが、、、
『われ在る』と本来の面目!
アブラハムの生まれぬ前から、私は存在する(ヨハネ8−58)
(Before Abraham was, I am)
不生不滅
個と超個との矛盾!
即非の論理!
鏡の心!
この辺がみな同じポイントを示しているということ。
大拙と盤珪と聖書とヴィパッサナと般若の知慧と、、、
阿弥陀の本願・大船まで、、
みんなひっくくるめて、、
(ただひとつの、、、)
絶対の『それ』を示す!
それ(一)、、とあれこれ(多)の関係を示す。
そしてそこに行為・働きがある。
自ずから然り!
無功用!
大智大悲!
心の欲するところに従って矩を超えず。
間違いはない!
う〜〜〜ん!
(と、うなる、、というほどでもないか!
いや、もちろん、うなるというほどでもあり、、、、
うなるというほどでもない!
ははははははははははははははは)
ーー
参考資料:
ー秋月リョウミン:鈴木大拙の言葉と思想:P。61−67(アブラハム)
ー大拙選集1禅の思想:とくにP94−99あたり(個と超個など)
*それにしても、、、
こういう「話」!は、論理、定義などにのらないところのもの(見所)にからむから、、、物騒でもあり、、
一方、「そこ」がわかれば、紐解くようにみな明らかになる、、といった、、、
不思議満載。。。
そう不思議でないはずがないのだな。
知の世界にいたらおっつくはずがない。
そしてそれがそのままで、あたりまえなのだね!
感謝、祈り、感謝、祈り!
そういえば、こういうのも私のHPにのせてあった:
「(じゃあ、救われるとどうなるのか?)
「摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり。」と出てきます。
これは今まで中心というものが「私」の側にあったわけですが、
それが「仏さん」の側に移ってしまって、
絶対者の愛に包まれている状態、絶対者の一部として自分があるような
安心が感じられる状態になります。
そして根拠のない自信が湧き出してきます。
これは拡張感と深い安心感を伴った状態であって、
ここにいたっては一切皆苦や諸行無常に対する「恐れ」「不安」
は消えていきます。
煩悩やカルマがあるので、「不安」「恐れ」は出てきてます。
ただ、す〜と波のように消えていきます。
そしてただ愛のみがあるというか、
この世が浄土と同じようになるというか、
この世と浄土の区別がつかなくなるというか、
正信偈では「能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃」、
「能(よ)く一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
とあって、仏性が目覚めれば、煩悩はなくならないけど、
煩悩から自由になると書かれています。
これは、相対的な分別知から無分別知へ心が移行するということですね。
立脚点や価値観がこの世の相対観から、あの世の絶対観に移行するというか。
このことをもっと分かりやすく言えば、
「〜になること」に終止符が打たれて「私であること」を生きるようになっていく、
ということです。
。。。
「私であること」、今の自分で良いということに気づいて、
やっと肩の荷が下りるのです。
まさしく、この世とは不完全な自分自身を直すための修行の場、
人と比較対照しながら勝ち負けする競争の場と思い込んでいた思い込みが、
実にばかばかしくなっていきます。
するとどういうことが起きるのでしょうか?
まず嫌々する努力という感覚がなくなっていきます。
目の前に与えられたことは淡々とやるってことになっていきます。
念力的に目標達生しようとしていたことが、
阿弥陀さんの手足となって自由に使い切ってもらえばいいと思うので、
縁という自然な流れにのって念力や目標達成にこだわらなくなって、
良い悪いや正しいか正しくない、こうあるべきだ、あらねばならないが消えて、
仏性が感じる本質的な快か不快かによってのみ、
目の前に来ることだけを謙虚にフォーカスしていくようになります。」
http://www.geocities.jp/suzakicojp/thywillbedone.html#_Toc277247687
ーー
当たり前といえば、あたりまえ。
不思議といえば不思議だなあ。。。
感謝、祈り、感謝、祈り!
――
さらに、こういうのも別のページに載っていた:
「真理に生きるということは、
情絡みの関係から愛や真実の関係に移行するということですから、
どんなに叱られても、真理に生きようとする人は、
本能的と言ってもいいほどそういう道を好んで歩んでいくし、
自分の自己実現や願望実現のために真理を利用している人は、
時間が経過していくと必ずや目の前から去っていくし、
、、、
そんなことが体験的に分かってくると、
相手に対する期待や押し付けもなくなって、
付き合いが実にシンプルになっていきます。
また、「自分は自分でいいんだ。その人はその人でいいんだ」と、
相手を許せるようになっていきます。
とても気が楽に何事も受け入れられるようになっていく。
ただし、目の前に来ることは、阿弥陀さんのご催促として、
一生懸命やらせてもらう。ただそれだけ。
後の人生も運命も阿弥陀さんに全託する。
とにかくお任せ状態になっていくのです。
もはやハンドルを手放した状態です。
あとは、勝手に車は阿弥陀さんがつくってくれた、
わだちに沿って自然と走らされていくって感じです。
ビジネスだって、人間関係だって、人生だって、死ぬ日だって、
ぜんぶ阿弥陀さんという絶対者にお任せなのです。
願わくば、
阿弥陀さんの願いに沿って、
自分自身の「いのち」をこの世で使い切ってもらうってこと。
こういうのを「自分を捨てる」、「絶対他力」って言われているわけです。
ですから、
この内容をいくら難しくても読んで感じる人は感じるし、
読んでも感じない人はまったく感じないし、
読まない人ははなから読まないでしょう。」
http://www.naturalclean.co.jp/blog4/blog.cgi/permalink/20090328180516
ーー
ここで、、
>相手に対する期待や押し付けもなくなって、
付き合いが実にシンプルになっていきます。
また、「自分は自分でいいんだ。その人はその人でいいんだ」と、
相手を許せるようになっていきます。<
、、というの、、、、それと、、、
>ハンドルを手放した状態、、<
、、、というのがなんともありがたい、、ですね!!
Thy will be done!
ーー
さらにこういうのもある:
「歎異抄の第一章に、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生おばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」
つまり、阿弥陀さんに救われているんだと信じて念仏しようという心が自然
と起こってきた瞬間すてにもう救われている、ということですね。
この考え方の背景にあるのは、実は、
「私が阿弥陀さんを信じるのではない」
ということです。
「阿弥陀さんを信じる」というわたしの心そのものが、
阿弥陀さんの働によって起こったということなんだ、ということです。
。。。
親鸞さんはそう言ってるのです。つまり、
「阿弥陀さんにすべてをおまかせすれば、
阿弥陀さんは私のいのちを救ってくれるんだよ」
ということなのです。」
http://www.naturalclean.co.jp/blog4/blog.cgi/permalink/20090326080937
ーー
すべてをなげだすと、、、
ちゃんとひろってくれるようになっている!
、、、というのがいかにも不思議ですね!
つまり、、、信心は向こうから来るもの。
ということでニサルガダッタさんの『私は在る』は、、
ことによると自力、、と見えるかもしれないが、
その実は『阿弥陀は在る』『摂取不捨』
ということでもあうようですね。
ナムアミダブツ
ナムアミダブツ
==
この数日、ニサルガダッタさんの言葉『私は在る』にであってから
創造性のトピ、妙好人のトピ、大拙のトピなどに、いろいろ書いてきたが、
それらはいずれファイルにまとめるとして、
慈悲ということでここにひとつのポイントを書き記しておくとするなら、、、
それは慈悲というのはむこうから来るものであり、、
絶対他力であり、、
心の欲するところに従って矩をこえず、、とおなじで、、
無功用行、、だということ。
だからメカニズムということでいえば、
悟りに迷う、というのと同じで、
慈悲に迷う、というのも変なはなしで、
自ずから然り、、、
と現れ出る、、ということでしょう。
このことは以前にもどこかで書いたことですが、
ここに来てまたあらためて
そのことが身にしみて感じられたということです。
これは絶対矛盾の自己同一、、に同じで、
一般の論理にのらない、、、とうけとめられますが、、、
だからこそそれは
宗教の宗教という宗教のゆえん、、
といった風にうけとっております。
Thy will be done!
感謝、祈り、感謝、祈り!
大拙の講釈した:I am that I am、、がさてどこにあったか、、とおもっていたら、やっと出てきた。p116〜、「鈴木大拙に学ぶ禅の知慧・人生の知恵」(志村武著)
ーー
先生(大拙)によれば、「汝自身を知れ」は、聖書に出てくる「I am thatI am]を知ることを意味し、また釈尊の誕生時の第一声たる「天上天下唯我独尊」を知れということになるのである。(注:以下、大拙の言葉)
(この言葉:I am that I am)は出エジプト記の第三章に出てくる。。。
それを直訳すると、われあり、ということのもうひとつ奥へ入って、あるということになるんですね。
こうやってしゃべっている、そのわれというものですね。そのわれの奥にもうひとつ、われをわれといわしめるところのわれがあるというのが、I
am that I amですね。
、、、
そのわれがあるとして、われをわれといわしめるところのわれ、この最後のわれですね。そういうものが、ここにこうやっておるわれなるものの奥にあるのですね。
この奥にあるというと、場所的に見て、どこそこにあるとかんがえられるかもしれぬが、そうでなくて、ただある。
それから宇宙を包んでいるところのなんかの霊だなどというのでもない。そういうものがあるということになると、もうかぎられてしまうんですね。限られてはもうそのものではないのです。
すべてのものがそのなかにはいっておるが、すべてのものが、一塊になっているのではない。わしとか、あんたとか、なんとかいうようなものが、それぞれそこにいて、それぞれにわかれわかれになっておって、そうして、それぞれのものがそれぞれでないのである。
分かれてわかれず、ひとつになっていてひとつになっていない。一塊になっていないのである。別々にわかれておって、しかもその間になんらの差別がない。
あっちがこっちで、こっちがあっちというように、自由自在の行き合いをしていながら、それが各自に別々になっておる。千差万別になっている。(→華厳)
、、
(とにかく、、)個々のわれにぶつかるんですね。
今の心理学者のいうような無意識ですね。
そういう無意識といってももうひとつその奥に天地の無意識というか、
宇宙の無意識、、というものにぶつかるんですね。
無意識といえばぶつかるもとがないようなものだが、あるんですね。
そういうものが自覚せられるときに、人間尊重ということの根本が感じられる。
そういうものが感じられるときに、「われあり」とこういわれるのです。
そういうときが天上天下唯我独尊です。
(出光オイルダイジェスト)
ー
上の内容は、大拙の声の録音を元に書き記したものだろう。
とにかくここで面白いのが、大拙が見出したI am that I amが
そのままニサルガダッタさんの「われ在る」(I am that)とぴったりつながっているということ。
内容的にも両者から般若の知慧、一即多、多即一、華厳、鏡の心、などが、読み取れるのです。
ところが実際は、単によみとれる、、というのでなくそのままそれが両者の人格に生きている、、と感じるのです。
(無論、盤珪、そのほか、も同じ)
そして、、これ(われあれの働き)がまた、ありがたいことに、、、
私の何年もお世話になった中山正和さんの
HBC(Human brain computer)モデルでいうX(命)なのです。
私に言わせれば、それは法であり、絶対、、ということ。
だから、、阿弥陀の本願でもいい、、、と、いうわけです。
前にいったThy will be done..と
つながるというのは言うまでもないことです。
如何?!
ここで私自身の自己観照(〜反省)です。:
上でのべた「ところ」に現れ出る大智大悲の働き(無功用行)についてですが、大拙、ニサルガダッタさん、盤珪、中山さん、、などの場合、彼らがおかれた状況に即し、働きが、それこそ知行合一で、ダイナミックに現れ出る、という感じがあります。
これを逆に考えると、私のいう「鏡の心」は、これまでどちらかというと静的な感じが強かったということかもしれません。つまり私においては、智慧の働き慈悲の働きが、まだまだ、無功用(なる行為)にまではいたっていないということなのでしょう。
先は長い、、というのはそのままでいいのですが、、「我あり」が、やはり宇宙(神、阿弥陀、法)の「意志」、としていかに働きでるか、、さらに、自ずから然りの「実践」を中心に、あわせてニサルガダッタさんの本を読むなど、こころして進みたいと願っております。
上をかいてからしばらくたって、また大拙(および秋月リョウミン)の言葉が見つかったのでそれを下に載せておくこととする:
(大拙いわく)
「バイブルに、神が光あれ、といわれたら、光が現れて夜と昼が出来た、とあるが、一体誰がそれを見ていたのか?」
「。。。わしが見ているのだ。このわしがその証人なんだ、とね。ほかならぬ我々のこの心に、その働きがあるのだ。わしらは時々刻々にそれを行じているのだ」 p。65「鈴木大拙の言葉と思想」(秋月リョウミン)
もちろん、先生(大拙)がここで「わし」が見ているといわれる「わし」といわれるのは、臨済のいう「常に汝らの面門より出入りする」「無位の真人」にほかなりません。
天地初めの神の創造は、先生によると我々の実存成立の即今目前の事実なのです。先生はかって書かれた「神は神にとどまっている限り、神は神でない、非存在である。神は神であるためには、神は彼自身でないところのないものかを自覚せねば成らぬ。神は神でないときに神であるのだ。。。。神自身でないところのこのものは、神自身の思いであり(神の思いーロゴス)意識である。この意識でもって神は神自身から離れ、そして神自身に帰るのだ」−p。66
。。。
鈴木先生は、禅はある意味で『無位の真人』で尽きているといわれる。
臨済はいわれた:「赤い血のかよったこの肉体の中に一人の無位の真人がいて、何時もお前たちの感覚器官を出たり入ったりしている。まだそれを見ないものは、見よ、見よ!」 −p。68
。。。
無位の真人はつねに、なんじら諸人の面門より出入りしているーわれわれの見るところ、聞くところ、思うところに、いつも生き生きとして働いているのだから、そしてその『無位の真人』を証するのが悟りにほかならぬのだから、悟りへの入処は見るところ、聞くところ、思うところに『常に』存するわけです。
−p。70
==
上のことが日常、ぴたっときまっていたら、それで禅は尽きている、ということになる、ということだ。
ただしあえてつけくわえるなら、このことは言葉を追っかけてもおっつかない、ということ。それこそ不立文字、直指人心、というわけだ。悟りに迷うなよ、ということだ。
(この部分、2011年4月追記)
このところI am That(私は在る)−英語版、をちょっとづつ読んでいるのだが、なんだかこれまでみてきた禅、大拙や盤珪や慧能やエッカートの眼や「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」など、何もかも、がでてきて、、本のなかでの彼の言い回しに慣れてきたということにもよるのか、色々な角度からのチェックが進んできた(しみこんできた)ということか、彼のいうことがすうすう通るようになってきた。
これはネットにあったその本の一部:
You said: “Here and now I am”. Stop there, this is real. Don’t turn a fact into a question. There lies your mistake. You are neither knowing nor not-knowing, neither mind nor matter; don’t attempt to describe yourself in terms of mind and matter.
これがヴィパッサナでゴエンカ氏のいうMind and matterをこえたところ、、(の体験)、というのにぴったりつながる。ゴエンカ氏はそれをEnlightenment(悟り)という。そこが「わかれば」よいのだ。そして、、おどろくべきことに、無分別の分別でも無意識の意識でも、鏡の心でも、不生でも、、、言い方はなんでもいい。要は上の言うところとぴったりつながっているのだ。その言葉でしめすところが、ぴたっと体験とつながるかどうか、、、、まさにそこなのである。
あいにく言葉それ自身をいじくってもその意味するところは、究極には本人しだい(体験によって検証・見性していくかどうか)ということだ。
(この部分、2011年4月追記)
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