妙好人の言葉―6(才市)

(むねのむくむく、ありがとう!)

 

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はじめに. 1

一念慶喜はとおにすみました. 1

やまいき、たばこ. 3

これさいち. 6

円環性. 7

娑婆世界. 10

かくれんぼう. 12

いないないばー. 13

念仏は虚空なり. 16

娑婆世界と他力. 17

さいちや、どんどこはたらくばかり. 18

なんにもない. 23

中道. 25

終わり. 26

. 27

 

はじめに

 

200〜2007年5月にヤフー掲示板に乗せたものです。才市の赤裸々な言葉が味わい深いです。大拙の言葉もまことにありがたい。面白いもので、面白い、面白い、あるいはありがたい、ありがたいと思って読んでいると、不思議な力がわいてくるようなのです。知らず知らずの内に、困った時など力に成るかもしれません。何度も読むと共感も深まり、いわく言いがたしの「感じ」が深まるのではないでしょうか。ちなみに、「ーー」マークの下には私なりのコメントです。小見出しは気のむくままにつけたものです。原書は鈴木大拙全集第10巻です。 

 

                              ―洲崎 清記

 

 

一念慶喜はとおにすみました

 

さいちは一念慶喜はいつすんだ。
私が一念慶喜はとおにすみました。
私が知らぬうちにすみました。
私がしらぬうちに、如来さんの、
さきにすましておいてくださった。
わたくし、よい如来さんにあいました。

さいちはこののちは、どおしてくらす

あさましいで、日を暮らします。

p。299

ーー

あさましい、
むくむく、
あさましい、
むくむく。

おい、それではいったりきたりだね。
そうそう、いったりきたりだ。

きりないね。
むくむく、むくむく、きりないよ。

あさましい、むくむく、ふしぎ
あさましい、むくむく、ふしぎ
で、きりない、きりない。

。。。

ところで、これに付いて、大拙のいうには:
「お悟りはとおいとおい、昔に如来さんがやっておいてくださった」などとは、禅者の夢にもいわないところだ。 −p。299

 

==

 

>ところで、これに付いて、大拙のいうには:
「お悟りはとおいとおい、昔に如来さんがやっておいてくださった」などとは、禅者の夢にもいわないところだ。 −p。299

これは神秀の:
 身是菩提樹   身は是菩提樹
 心如明鏡台   心は明鏡台の如し
 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して
 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ

(この身体はさとりを宿す樹のごときもの、心は清浄で美しい鏡台の如きもの、故に常に汚れぬように払ったり拭いたりして、煩悩のチリやホコリをつけてはならない)に対し、慧能の:

 菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し
 明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず
 本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)
 何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん

をおもいださせる。
勤めて払拭(ふっしき)はいいのだが、勤めて払拭(ふっしき)する本体があるうちは払拭(ふっしき)できない。あるいはその本体が本体()でなければいかんのだ。無一物の本体に応無所住而生其心(才市の胸のむくむく)が対応するのだろう。

煩悩がそのままでひっくり返って菩提に成るように、神秀の偈がひっくり返って慧能の偈になるというようなものだろう。これはまた往相と環相の関係と同じと思う。

 

==

 

やまいき、たばこ

 

やまいき、たばこは、よいたばこ、
こしかけたばこで、らくらくと、
さ、さ、かえりましょう、かえりましょう、
わがやへかえる、あしのかるさよ。
みだのくににかえるとおもえば、
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。301
ーー

かえろうね、かえろうね、
遠くに行っても、かえろうね、

いってらっしゃい、

はいよ。

おっとっと、

ただいま、かえりました。

まあくつろいでいってください。

 

==

 

たすかるとは
そりゃ無理よ。
たすけてあることの、
なむあみだぶつ。

p。303

ーー

ああ、ご苦労さん、
ご苦労さん、ご苦労さん、
ご苦労さん!

さらにきりなくご苦労さん。

 

==

 

もう一度:

たすかるとは
そりゃ無理よ。
たすけてあることの、
なむあみだぶつ。

p。303

ーー

これは神秀に対する慧能の偈に相当するものですね。

助かろうというので修業するというのがある。ところが助かろうと思わないでするのが本当の修業。それで修証一等という事に成る。

なむあみだぶ、なむあみだぶ。

 

==

 

世界に自力はなし
我心こそ自力なり
自力が他力にしてもらって
今はあなたと申す念仏

p。303

ーー

面白いのは、これが道元の言うところとぴったりと言うこと。
そう、「そこ」には自力も他力もあるわけない!
みんなで一緒に念仏三昧だ。(この念仏三昧は透脱に同じと見ます)

 

==

 

さいちよい、へ、たりきをきかせんかい。
へ、たりきはありません。
ただいただくばかり。

p。303

ーー

仏の家からいただく。
こっちでできないことがあっちからちゃんと帰ってくる。
ああ、ありがたい、ありがたい。
機法一体。

なむあみだぶ、なむあみだぶ。

==

 

これさいち
よろこびは、あてには、ならぬの
消えて逃げるぞ
逃げぬお慈悲は親の慈悲。

p。304

ーー

又才市の自問自答が続く。それを見て、わたしも、、、

おーい、才市どん。ようやるのう。
うんにゃ、やらなきゃならぬよ、きりないよ。
おっとっとのご苦労さんだね。
うんにゃ、一人相撲はばかばかしいのう。それでもいつも一人相撲とっているようなもんじゃ、親の目の前でな。
そこでひっくりかえっても、ありがたいのう。
そーだそーだ。何でもありがたいんじゃ。これさいち、とよびかけてもくれるしな。
それにしても、いい耳持ってるね。
いやそうじゃない、聞かせずにはおかん、といってくれるんじゃい。だからありがたいんだ。
なむあみだぶ、なむあみだぶ。
なむあみだぶ、なむあみだぶ。

 

==

 

煩悩は、何を思わば思え
南無の錠がおろしてあるよ。
あみだぶつで、なけらにゃあかぬ。
あけりゃ、六字のなむあみだぶつ。

p。305

ーー

なむあみだぶつ、で南無の錠をあける、は、むこうからあけてくれる。
(こっちからあけようというのは煩悩のようなものだ。)
あけりゃ、煩悩がそのままで、なむあみだぶつ。
これは、鏡に照らされるようなもの。
光に輝く世界がそこにある。

この錠の鍵、、、、
こいつが無門関の鍵というようなものだね。

 

==

 

大悲の親はよい親よ
わしの心とひとつになりて
よいもわるいも、あなたにもたれ。

p。305

ーー

もたれると、まかせると、
ほどけて、やわらかくなって、
きえていく。

そこに残ったのは
なむあみだぶつ。

 

==

 

円環性

 

霊性的直覚の世界における行為はいつも円環性を持っているので、往即環、環即往である。。。

自分だけの存在という事はありあたわざる事実なのだから、、、必ず我と人ということにならなければならぬ。そうなると往環のニ相はわけるべきではない。。。

この社会感を、、、平等観の上にのみ読まないで、又よく、、、差別観の上にも移して見るべきであろう。

p。312

ーー

平等にどっぷりつかった後どうか?
蛙が水に飛び込んで、その力で又浮上する、というやつだな。

 

==

 

集団生活は自力差別面で経営されていくのであるから、霊性的生活面を無条件にそこに押し出してはいけない。。。

知性的、差別的、社会的事業面では、事と事をひとまずはなして見るようにしなければいけない。しっかりと離しておいて、それから無礙の面を話すのはよいが、はじめから無礙を出すべきではない。

差別的社会生活面に見られる「不便」(ふびん)はなんとしても除けるだけ除くべき施設をなすべきだ。世間はできるだけ利益するべきである。

p。312

ーー

この辺にたいする(禅家の)理解の足りない所から、大拙に対する(ある類の)禅家から風当たりが強く成るということもあるのかもしれない。

いかんせん、行ったりきたりができないと人間として「かたわ」、というようなものかもしれない。だから、そこの連絡・理解に(中道の)智慧がいるというわけだろう。

こう言うのは簡単だが、まったく微妙なところではある。

 

==

 

「久遠劫より今まで流転せる苦悩」成るものは捨てようとしても捨てられぬ約束のものであるから、ここにいる間はその「苦悩」成るものを可及的程度を尽くして、住みやすきものにしてよいと信ずる。

ましてこの「苦悩」は我らの心の持ちようと、力の致しようしだいで、それを軽減し得べき性質の者であるから、ただそれを不可避的業報として忍受しなければならぬというわけはないのである。

p。313

ーー

真夜中のぎっくりごしという題でヴィパッサナでの体験をまとめたがそのときに思っていたことの大拙なりの回答がここにあった!要は「禅」(あるいは、ここの文脈では真宗)にも引っかからないということ、それが禅であろう。

彼は物事をオーバーオールに見るリアリスト - 現実主義者といえないだろうか。主義と言う言葉はよくないようだが、まあ現実的に物事を見、判断し、道を開拓して進むということ。(中道とはこれなりと思う。)

Sadhu, Sadhu!

 

==

 

そうだ、そうだ(Sadhu,sadhu)

今日、創造性のトピに載せたもの(#891)がこのポイントをみている。

アレは何の音だ?(というとき既におそい)
極楽でなく鳥の声だ。(といっても的外れ)

そこで、「それ」を意識と無意識の接点で火花が散るありさまとみると、その接点でのみ煩悩即菩提が「わかる」のだね。

ああ、ああ、ああ!

けれど、言葉を上手く使うということ(正語)をこころがけて、ダライ・ラマ氏がいったように、自分と周りが上手く行くやり方を見極める智慧が出るように図るべきだろうね。

As human beings, the one factor that differentiates us from other species is our intelligence which both expresses itself and trains itself through education. However, the development of the brain, the intellectual side of our nature, and the development of a good heart, a warm heart, must complement each other in a more balanced way. This is why, wherever I go, I always try to promote human values, the good qualities of the human mind, the good qualities of human beings. They are the source of happiness, and happiness is ultimately what each of us wants.


I believe we have both the ability and the means to solve our problems and improve our world. Perhaps the most important factors that inhibit us are short-sightedness, narrow-mindedness, and selfishness. Yet, to look after yourself is not wrong. Without a strong sense of self we cannot develop self-confidence, determination and will power. But, we must be careful, for there is also a narrow -minded selfishness that can lead to self destruction. To counter that we have to realize that in reality our own interest is closely linked to the interests of others and the benefit, happiness and interests of others are our own.

ーー

May all beings be happy!

 

==

 

宗教は出世間底ではあるが、そのゆえに世間底から逃げるわけにはいかぬ、またにげだしてはならぬ。実際を言うと、出世間底が世間で、浄土が娑婆なのである。羅漢が菩薩に成るとき、本当の佛教が成立する。

p。314

ーー

涙、涙!

 

==

 

娑婆世界

 

この娑婆世界から、極楽に
うまれる早道はほかにない。
娑婆の世界も、なむあみだぶつ、
極楽の世界も、なむあみだぶつ。
ありがたいな、ありがたいな、
才市が、このめがさかえ、
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。315

ーー

さいちどん、ようひっくりかえったね。
裏が表になり、表が裏だ。

ああ、ああ、ああ、ああ
不思議なもんだ。

 

==

 

極楽世界にいかに早くいかんとしても、この娑婆世界より外には何の道もないのである。言い換えればこの娑婆があるゆえに、極楽があるのである。

p。315

ーー

答えは目の前にあるんだよ。
早く行こうとすればするほど、逃げちゃうんだ。

だからまさにそこでひっくり返らないといけないんだ。
そこで何が起こっているのかじっと見る。心を使わずに。

ただそれだけのこと!
道元だってアレだけいやっと言うほど、いってるじゃあないか!

まあ、「わから」なきゃあ、自分で自分を「えい・ぽかっ」とでも励ますしかないか。

 

==

 

>極楽世界にいかに早くいかんとしても、この娑婆世界より外には何の道もないのである。言い換えればこの娑婆があるゆえに、極楽があるのである。

これがなければ彼はないのである。それゆえに、彼土にいかんとするものは、此土のことを「いい加減」にしてはならぬのである。此土における人事を尽くさなければ彼土の仏事にあずかるわけにはいかないのである。彼土の仏事も畢竟ずるに此土の人事にほかならぬのである。

p。315

ーー

尽くす、尽くすだね。
尽くすは、そのとき無心であり、定である。
それが此土と彼土、意識と無意識、あるいは娑婆と極楽の連絡の道だ。

丁寧に、丁寧に、
一歩一歩。

こつこつこつこつ。
道を歩もう!

 

==

 

かくれんぼう

 

娑婆の世界もあなたの世界。
才市が後生の定まる世界。
ここはあなたの待ち伏せの茶屋。

p。316

ーー

>娑婆の世界もあなたの世界。

うんうん、逃げ場がないね。

>才市が後生の定まる世界。

後でと思っていたのが既にここに定まっている。

>ここはあなたの待ち伏せの茶屋。

ということは、あなたがここで隠れて待ち伏せしていた世界だ。

でたり引っ込んだり、まったくかくれんぼうの世界だね!

 

==

 

前の才市の言葉に対する大拙のコメント:

娑婆で「物を憐れみ、悲しみ、はぐくむ」事を知らざる人の後生は「あなた」によりて請合ってもらえぬのである。「あなた」はこの娑婆という茶屋に待っていて、諸々の衆生を自らの楽邦へ連れて行かれるのであるが、娑婆の勤めを果たさない衆生はこの茶屋の前を通ることができぬのである。

p。316

ーー

「娑婆の勤めを果たす」とは「娑婆で「物を憐れみ、悲しみ、はぐくむ」事」であろう。この娑婆で人として一生懸命に生きるということであろう。

それを観て、大悲(阿弥陀)が働くようになっているのだと思う。かくれんぼうしていた阿弥陀さんが出てくるのだ。最も隠れて見えないのは阿弥陀さんの働きが悪いからではないだろうが。

 

==

 

逆説的であろうが大拙がアレだけの働きをしたと言う事の裏に、大悲の心が働いていたという事があるのだろう。つまり「娑婆の勤めを果たさない衆生はこの茶屋の前を通ることができぬのである。」ではあるが、茶屋をぶら下げておきたいのである。(布太鼓としか見れないかもしれないが。)

そして、この大悲の心は「すべてを知るものはすべてを許す」である。

悟りくさったものも、煩悩に悩むものも、判断がおかしいものも、みんなみんな許すのである。本人が気づくかどうかは、それは問わないのである。

 

==

 

いないないばー

 

ほとけが凡夫になるほとけ
ぼんぶなかまにいるほとけ
なむあみだぶをしらすほとけよ。
これはわからん、わからん、ふしぎよ。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。316

ーー

そこいらじゅうにいるほとけ。
凡夫の中にも、煩悩のなかにも隠れている仏。
それがみえないのは、こっちを進めているから。

いないないばーのほとけ。
これ(機法一体)を、なむあみだぶつ、という。

いないないばー=なむあみだぶつ、だ。

どこからでてきたのか?
不思議だね。

あ、そうか、
もうすでに、そこいらじゅうに出て来ているんだ!

そこにも、ここにも。

。。。

ところで、そういう私は、一体誰なんだ?

おう、夜が明けて、鳥がないておるわい。

 

==

 

ほとけが凡夫の仲間入りするというのは、凡夫のなかにさえ仏性の輝きがあるという意味なのである。

煩悩の中にひらめく光明と言うのは、大悲である。煩悩もその元は大悲にほかならぬからである。凡夫はそれゆえにこの娑婆ではこの大悲の働きを極度に発揮するものと自分は信じたい。

p。317

ーー

煩悩のもとは大悲!
衆生病む。ゆえに我病む!

これが娑婆を観る大悲のこころ。
大悲の鏡に映っているのが娑婆だ。

子供の病むのを見て病む母親。
どうしようもないのをほおっておけない。

この母親の心をすべてを救うまで自分は本覚をとらないという
阿弥陀さんの心とみるのだろう。

娑婆でこそ阿弥陀さんが、
大活躍である。

キラキラキラキラ
いないないばー。

 

==

 

海にはみずばかり、
みずをうけもつ、そこあり、
才市には悪ばかり。
あくをうけもつ、あみだあり、
うれしや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p、317

ーー

才市の悪、そこいらじゅうにある悪
(これに才市が気づいている)、
このきりのなき悪を受け持つ「底」がある、
悪があっても逃げられないほどの大悲がある。

それで一つ一つの悪がひっくり返ってしまう。
(これなんか迷ー悟をいう道元と同じだね)
いちいちいちいち、ひっくりかえってしまう。
それがうれしい、なむあみだぶつ。

 

==

 

煩悩は実に大悲のなかより湧き出ているのである。ただ凡夫はそれに気づかぬままに煩悩を大悲から切り離してみんとする。。。娑婆におけるすべての苦悩はいずれもここから出てくる。少しでも「あくの底にある阿弥陀」に気の付いたものは、いずれも各自の分を尽くして、その悩みを直す事に専心すべきだろう。

p。317

ーー

煩悩即大悲、即菩提。
そこに連絡がある。ないようでいて、ある。

そうなっていなけりゃ、話しがあわないのだ。

煩悩がひっくり返ると大悲と成る。感謝、祈り!である。

大悲がひっくり返ると、煩悩に成る。衆生病む、ゆえに我病む、である。

この絶体絶命の境界が、その実はつながっているのである。

 

==

 

念仏は虚空なり

 

念仏は虚空なり、虚空を照らす。
ぶつの念仏、わしの心をてらす。
親様、なむあみだぶつ。

p。317

ーー

>念仏は虚空なり、虚空を照らす。

そのものがそのものをてらす。

>ぶつの念仏、わしの心をてらす。

その、そのもの、虚空が(かがみのように)わしの心をてらす。

>親様、なむあみだぶつ。

大悲のおやさま、ありがとう。

 

==

 

苦悩の世界は大悲の光明に照らされて初めて浄土の様相に近づく、、、

自分の「照らされたこころ」は必ず苦悩の娑婆をまた照り返さなければならぬ。

p。318

ーー

往(いく)が環になる(もどる)というわけだね。
大拙の膨大な書物に象徴される働きは、まさにそれのあらわれなのだろう。
丁寧に丁寧に、心を込めて、のあらわれなのだろう。

 

==

 

娑婆世界と他力

 

娑婆世界は、煩悩所為の社会であり、凡夫の集団であるから、ここは必ずしも絶対憑依感でいけねばならぬことはない。自主的行動と、自由な思慮とで挺身的に進退しなくてはならぬ。ここの幸福とともに、集団全体の幸福を目標として万般の施設を行じなくてはならぬ。

p318

ーー

他力に限らず、自力もその究極は絶対の他力だろうから、(ほとけの家に投げかけて、、、)同じ事が言えるだろう。

意識=娑婆のありさま(意識が娑婆を形成する)、というようなものだ。そこで、また、素直(意識・無意識の連絡)が必要になる。

引っ込み思案に成るというのがあるのだろうが、そこを(バランスをみて)打って出る、といった意が出てきて不思議でないということなのだろう。

 

==

 

集団生活においては、知性面が支配権を持っているので、分別計画が喫緊事となる。

霊性的自覚の世界はその背後にあって、人間生活の前面に対して指導を勤めるのであるが、分別の娑婆世界では、分別によりて、而も霊性を顧みつつ行動するのが「衆生」の常道である。

p。318

ーー

>集団生活においては、知性面が支配権を持っているので、分別計画が喫緊事となる。

そうなのだね。。。バランス(中道)が必要と言う事はあるのだろうけど。

>霊性的自覚の世界はその背後にあって、人間生活の前面に対して指導役を勤めるのであるが、

そうなのだ。分別のチェックアンドバランス(いわば横方向)とともに霊性によるチェックアンドバランス(無意識の意識のーいわば縦方向)が大事だ。これが、次のポイントだろう。。。

>分別の娑婆世界では、分別によりて、而も霊性を顧みつつ行動するのが「衆生」の常道である。

安易な比較はしたくないけど、ここのところ、出家するより難しいという意味合いがあるという気もするね。(究極には釈迦の対機説法が機に応じてできるかどうかと言う事なのだろうね。。。。人間性の根本がよーくわかってないと、なかなかできることではないだろう。)

 

==

 

さいちや、どんどこはたらくばかり

 

喜びを、まかせるひとは、なむのにじ。
われがよろこびや、なむがおる。
さいちや、どんどこはたらくばかり。
いまはあなたにくをとられ、
はたらくみこそなむあみだぶつ。
らくもこれ、よろこびもこれ、さとるもこれ、
らくらくと、
らくこそらくで、うきよすごすよ。

p。319

ーー

>さいちや、どんどこはたらくばかり。

>らくもこれ、よろこびもこれ、さとるもこれ、
>らくらくと、
>らくこそらくで、うきよすごすよ。

にもつがなくなると、働きがすなおにでる。
そこで「どんどこはたらくばかり」

で、そのはたらきはある意味では、くまんばちやありさんの働きに同じ。
無心のはたらき。

宮沢の賢さんは、「世界全体が幸福にならない限り、個人の幸せはありえない」というが、個人の「幸せ」(「幸せ」と言うより自ずから然りの自在性とでもいいたい)が見出せない限り、「世界全体の幸福」は絵に描いたもち(ひずんだもの)かもしれない。

というのも、基盤のひずんだ所には、いかんせん、どんどこ無心の働き(幸せ)はでないだろうからね。。。

、、、それとも、こういうか:
まず、自らの病を治す。(迷い悟り)
すると他の人の病も気づく。
それでそれを治すべく働く。(釈迦の場合は梵天勧請に相当かな)

ただし、周りの人の幸福のために働くと、自我がどんどんなくなって、自らの病も治る、というのもあるだろう。

無心に成ると、この両方が(その人の「ひととなり」に合わせて)自動的にうまく処理されるようでもある。あるいは「素直に成る(自我・執着が取れる)と、内でも外でも、つまり、個人の幸せでも、周りの人の幸せでも、「実践的に」すべき事が自ずからわかる(どんどこはたらく)と言うことだと思う。」

 

==

 

どがゆうてもの、
あなたのほうからだけ、の。
ありがたいな、うれしいよ、な。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

p。320

ーー

むこうからあるいてくるのである。
こっちがどういおうが。絶対の働きがあるのだ。
それで、そのままいただいて、ありがたい、うれしい。

やれやれ、どっこい。
ご苦労さん。

 

==

 

>むこうからあるいてくるのである。

こっちをすすめると、むこうからあるいてくるのに気づかないのだ。
そう、影ふみみたいなものだね。

だからじっと静かにしてごらん。定。
こっちが動き出したら、それをじっとみる。

するとそこで何がどうなっているのかがわかるだろう。
あるいはなんともわからない、とわかるかもしれない。

ところが、それはそれ、そのままでととのっているのだ。

そこで:

どがゆうてもの、
あなたのほうからだけ、の。
ありがたいな、うれしいよ、な。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

 

==

 

どがゆうてもの、
あなたのほうからだけ、の。
ありがたいな、うれしいよ、な。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

ーー

これは絶体絶命を通り越えた喜びだ。
何度も何度も苦労をし、どがゆうても、どうしようもならない。
ところが「あなたのほうから」だけはどうしようもある!
この不思議に、才市は「ありがたいな、うれしいよ、な。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。」と身を震わせるばかりである。

 

==

 

どがゆうてもの、
あなたのほうからだけ、の。
ありがたいな、うれしいよ、な。
なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

如何な哲学者でも、、、知性的分析力に富んだ人たちでも、結局才市老の「どがゆうても」の外一歩をでるわけには行かないのである。ただ彼の場合には、事実を言うと彼の搾った智慧成るものの中にはなんら抽象的な推論的なものはなかったのである。彼は実際にそのような体験を経過して、その上を反復往来して、それでなんともしようのないところ、そのままを吐露したのである。。。「どがゆうても」の一句、彼においては誠に千鈞のおもみを持つものである。

p。320

ーー

真の芸術家、名人の場合と同じで、現実の体験としての絶体絶命を通り抜けてきた(そしてそれを常に見ている)ものの知る「ありがたさ」であろう。

 

==

 

あなたのほうからだけ、と言うことに成ると、こちらは絶対受動である。何もない、無一物である。無一物であるが「うれしい」があり、「ありがたい」がある。。。煩悩の人間、、であればこそ、、、「あなたのほうからだけ」というもの「うれしい」と自覚するものを認めなければならぬ。

才市老はよく「このところ」に安住している、そうしてまた、よくそこに動いておる。「らくらくであんきだ」という。この上に一言もくわえる余地はない。

p。321

ーー

「らくらくであんきだ」はいいね。
難しい言葉を使うと、応無所住而生其心だ。無一物中無尽蔵だ。

ひょっとすると馬鹿の幸福、Ignorance is bliss.ということになるが。それもまあ、しこりがなくていいではないか。

前にいったが、

In Ecclesiastes 1:18, The Bible says,

For in much wisdom is much grief, and he who increases knowledge increases sorrow. (NKJV)

The same verse in another version of the Bible for clarity:

"For in much wisdom there is much sorrow, and he who stores up knowledge stores up grief."
(New American Bible)

である。いやまったく言葉にならないね。。。(ただし上でwisdomの解釈は透徹したレベルの智慧ではなくて低次元でのそれということだね)

 

==

いやまて、それは一切皆苦(Much grief)をみるWisdomを示しているのかもしれない。

そこで、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の四法印やはり上手くできているのだ。

鴨は何処にいるか?
飛んでいってしまいました。(⇒Knowledgeの荷物をしょってる)
鼻を捻る(馬鹿!)
いたい!
まだここにいるじゃあないか。

 

==

 

なんにもない

 

才市にはなんにもない
ほかには、なんにもない。
いいも、わるいも、みなとられ、なんにもない。
ないがらくなよ、あんきなよ。
なむあみだぶにみなとられ、
これこそあんきな、なむあみだぶつ。

p。321

ーー

これ、透脱だね。
すーととおってて、引っ掛かりがなにもない。

なむあみだぶにみなとられ、がおもしろいね。
只管にみなとられ、でもいいけど、
とにかく意識・無意識の活動が、
そのとき法にそって自在におこなわれているといえるかな。

なにか(意識に)出る前に、既に消えてしまう、といった感じかな。

>ほかには、なんにもない

というのは、「ほか」でない「もの」(法)に心身の働きがまかされているということのようだね。

それで、そのまま、

>いいも、わるいも、みなとられ、なんにもない

これは色即是空というようなものだろうね。

そしてそのまま、宙ぶらりんで、あんき、くつろぎ、ありがたい、だ。

不思議な世界に住む才市、

一体、周りの人はその才市とどうかかわりあったのかな?

才市はすきとおっていて、周りの人は才市の存在を不思議に思ったのかな。

 

==

 

うれしや、うれしや、
わしがなんぎを、あなたにかけて、
わしや、らくらく、
なむあみだぶつ。

p。321

ーー

そうだね、透き通っているというのは、
荷物しょわないからね。

わしや、らくらく、
なむあみだぶつ。だ。

まあ、人を救おうという煩悩もおこらないのかな。
それで、またその故に、人を救っているかもしれないね。

こりゃあ、らくでいいわ!(自在)

でも、、、、
いつもそう、という事ではないのだね。

大悲を本当にありがたがるというのは、
それが何かの行為に結びつくようになっているのだろう。(自在行為・智慧)

その現れ方は、その状況によってどう出るかはわからないとしてもね。(それにしても、禅のほうで、たたく、喝、あるいは指を上げる、などというのは、そう、なむあみだぶつとおなじで、いわば暗号を解く鍵のようなものだね。まあワンパターンでなくて上手く対機でできれば、それこそ如来さんだね。)

 

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>わしがなんぎを、あなたにかけて、

(大拙いわく)これからの他力宗徒は、この「なんぎ」に二種ある事を認覚してほしい。一つ派「あなた」にせおってもらはねばならぬもの。今ひとつは「わしら」のほうでお互いにわけあって背負っていくべきもの。このふたつである。

p。322

ーー

ああ、上手いところを見ているね!
大乗、中道のポイントはそこなのだろう。

磁石(阿弥陀、今此処、只管、不ニなど)、に引き込まれるというのはそれで「あり」「よし」、としても、
残りの引き込まれないもの、とどう「うまく」関わりあうか、
これは人間として、永遠のテーマということなのだろう。

他力宗でなく、自力宗だって(なかにはいろいろあるようだから)おなじことだろう。

(妙好人という事でここまでいろいろ書いてきて、いま終わりにあたって、大拙は、ちゃんと指し示すべき事を指し示しているということだろう。)

 

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中道

 

二つは必ずしも、何処何処まで分けられるのでなくて、畢竟はことごとくあなたの肩頭にひっかかるののであるが、娑婆的、集団的、分別知的生活の面から見ると、吾ら仲間で充分に背負っていけるもの、又、そうしなければならぬものがあるのである。

p。322

ーー

このバランス、を中道といいたい。
本来は智慧が「あなた」からでるので、この二つに分けたものは一つなのであるが、分別智の性格上そこにいきさつがある(みえる)ということだろう。

引っかかるのと引っかからないのと、その境界に社会人としての我々は生きるのであろう。又だからこそ、教えもあり、感激もあり、悩みも、智慧の働きもあるということだ。

 

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貧乏は善行でも、徳行でも、聖行でもない、又富貴はその反対でもない。。。高楼に座して天下の清風を満喫することも必ずしも悪徳ではないのである。

つまり、社会悪は自分等で責任を持ち、世界悪は「あなた」に背負ってもらうのである。

p。322

ーー

いや、また上手いことを言うね!!!

意識の中の整理(智慧)と意識ー無意識全体の整理(智慧)との関係というか、社会性と存在の根源に関わるところのものとの働きのあり方に付いて、ちゃんと上手く心身を働かせなさいよ、といっているようだ。

 

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終わり

 

これで大拙全集7巻p1−322まで読み終わってしまった。今回はこれを読むのに23年かかったと思うが、何度読んでも、味わいふかいのだ。

オーイ、さいちどん、
御前さんの書きとめたもの、
よみおわっちゃったよ!

ばかもん、
終わりなんかあるもんか、
はじまりも、おわりもないんじゃわい。

そこになく鳥、
その声に始まりや終りがあるだろうか?

おっとっと、
おっとっと、

ほら見てごらん、
きりないんじゃ!

じゃあ、これからどうする?

ばかもん、
そんなこと俺の知ったことか?

そうだそうだ、
いつもいつも、新鮮!生き生き。

あーそこに御前さんは生きているんだね!

終わりも始まりもないところ!
諸法空相 不生不滅

かんかんかんかん、
ぽくぽくぽくぽく、

黙々黙々
こつこつこつこつ。

 

==

 

 

妙のはたらきがある。
うちに、
外に。
そこいらじゅうに。

おーい。
おーい。

妙がこだまする。

ああ、すごいな。

ありがとう!

 

==

 

妙ばっかりだと、社会性がないように見えるが、
実際そうだろうか?

無理に社会に絡んで、どうのこうのするより、
馬鹿のくつろぎのままでいることが、そのままで、なんらかの(法にそった)社会的な意味合いをかもし出すかもしれない。(これまた方便)

やはり、無理に、あるいはこうでなければいけないと言うのでなく、不思議は不思議として、
自ずから然りの働きに、その智慧の働きに、おまかせがいいのではないかな?

ということで、やはり大用現前規則をそんぜず、か。

そう、戒あるいは行は智慧から(=智慧にマッチして)でてくるものだろう。

 

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>そう、戒あるいは行は智慧から(=智慧にマッチして)でてくるものだろう。

これが、いわば不思議の表れとして、沸いてくるということ。

人生妙なり、だね。

それでまた、

自然、妙なり、

宇宙、妙なり。

で、妙を妙と見る妙がある。

。。。


妙はきりないのだね。

 

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鳥のなく妙。
木々の緑の妙。
ここに私がいるという妙。
自然に呼吸するという妙。

妙は不思議。
不思議は妙。

妙はこの世。
この世は妙。

一体どうなっているんだろう。
それがそのまま、どうしようもなくどうなっているというのが妙。

みんな丸く収まっている。
収まってないのは人の心。

でもその心のおかげで妙がみえる。
不思議の不思議。

妙の妙。

黙々こつこつ、
黙々こつこつ。

人がこの世に生まれてきたというのは、
妙を知るためにうまれてきたのかな?

神は自分のする仕事を見るために人を作った、と誰かが言っていたが、
それもそうだね。

中山さんは神様のいたずらにつきあう法、
というようなものを書いていたが、まったくそうだね。

上手く付き合わないと、
これはもう、大変なことになるよ。

 

(ここでいろいろな人のなかには、妙そのものと言う人もいるということを付け加えておこう。名人、あるいは芸術そのもの、といった感じの人だ。その人がいるとすべてが自ずから然りと整う。いってみれば神々しいといった人。それはまた自ずから然りの自分の使命を知り、、、そう、八正道を実践している人だろう。 ―――受動=能動なのだ。うん、まさに壮大なる妙だな!)

 

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

 

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