
妙、原点回帰、主人公、松本梶丸さんの話し
―妙好人、はたらき様、内観、などー
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
ここまで妙好人に付いて大拙の本を中心に見てきたが、ほとんど読み終わったので、私なりの感じを流れにまかせて、すこしまとめをしてみた。
そのあと、もうこのトピックは閉じようかと思ったが、ネットで妙好人を調べてみることとした。そこででてきたのが松本梶丸さんの話し。大変参考になるので、以前と同じようにところどころ、ポイントと思われるところを抜き出して、味わい、又私なりのコメントをつけることとした。興味のある方はもとのサイトを参考にされたい。
ちなみに、ここに載せたものはヤフーの掲示版、妙好人、に2007年夏〜10月上旬まで書き記したもののコピーです。
妙について考えるに、原点への回帰というのがあるんだろう。
ここで言う原点とは例えば小さいときに初めて持った深い問題意識に関わるもの、あるいは大きくなって絶体絶命の体験をした時に感じたもの、としておこう。大拙の例で言えば、どうしてこの世は不公平になっているのか、というようなこと。生死の問題でもいい。
それで、ある種の宗教体験をしたとき、その色合いがそこに出てくるように思われる。又、その体験(これを往々にして臭みのある言葉だが「悟り」といってもいい)をしたものはその原点に絡めて、何か開けたものを感じ、体験し、往々にして物騒ではあるが、うじゃうじゃ言うということにもなろう。
そこで、その体験・感動はいかんせん個人的なものであるから、その人の原点の問題意識に関しての色合いと言うのはでてくることがあるように思う。(これはいかんせん抜けきれない業の色合いだ。)
妙好人であれ、道元であれ、大拙であれ、釈迦であれ、畢竟、その「色合い」がいかに普遍性のある「法」にそったものであるか、こいつがいわゆる釈迦も達磨も修行中というところにつながるとしておこう。
それがキラキラの妙がいかにも深みを持ってくるということなのだと思う。
==
それで、その、すべてを取り払った、おおもとの原点における体験、歪みのない、あるがままの、いわば体験が体験するという体験、
これを原点として、そこから智慧、大悲がでるといってもいいし、妙とそれを知ると言う味わいがあふれ出る、といってもいいだろう。
そこで、、、このことを知ると言うのは、人間だけに与えられた特権であろう。
又、その体験の後を振り返って見ることができるので、その感じ・思いを宇宙の創造を目の辺りに見る、といってもいいのだろうね。まあ、独座大雄峰、とかいろいろ人によっていいかた、つまり、いろいろな色合いはあるけど。
で、それができるというのが、またおもろうれしありがたい、あるいは妙、というわけだ。
これが(私という)不思議が(体験の)不思議を不思議と知る不思議(妙)だ。
まあ、そこいらじゅうにある神様の働き・遊びを目のあたりにして、赤子が目をまるくするようなものだな。
==
>まあ、そこいらじゅうにある神様の働き・遊びを目のあたりにして、赤子が目をまるくするようなものだな。
そこで、一体どうなっているんだろう、、、、となるが、
それがそのまま、それこそ父母未生本来の面目で、絶対の働きの表れだから、どうということもない。
。。。
原点からの展開というと作為的にもとられようが、自ずから然りの、無限の可能性の展開、、、、
そいつの展開のエージェントとなり、あるいはオブザーバーとなって人としての本来の任務を果たす、というわけになるね。
おい、
はい
主人公でいろよ、
はい
(妙の)オブザーバーになったり、(可能性展開の)エージェントになったり、主人公(そのもの)になったり、いそがしいのう。
。。。
(独り言:小さい時に何かの歪があって、その業が解消されると、それがうれしくて、そのことに関する色合いが言わば解消した後のフィルター、新たなる歪、になるということもいえるかもしれない。あるいは、この色合いが正命となって、そのことに関してなにか仕事をする、という風に展開するかもしれない。歪が取れた後どういう方向にリリースされたエネルギーが向かうのか。これは人それぞれなのではないかな。
わたしの場合はどうかというと、まあ求めることがなくなったということ。ただし、そうはいっても、もっとふかいところで求める所は、まだあるのだな。菩薩のような願いがひとつの求め、ということもある。頭をあまり使わなくなったら、体を使うということもあるかもしれない。
歪が取れて、その次の歪が出てくるということもあるだろう。ただし、歪みのとり方の体得があれば、、、、、何処までも何処までも、その続きをするということになるかもしれない。
一方、あるところで手をうって、中道と言うものを見出すということにもなるかもしれないね。)
==
>(妙の)オブザーバーになったり、(可能性展開の)エージェントになったり、主人公(そのもの)になったり、いそがしいのう。
いや、いそがしくなんかないわい。
原点でダンスを踊っているんじゃ。
らったった、らったった。
ああそうか、主人公の踊りか。
ああ、なんとでもいえ。そんなこと思っていたらダンスの足並みが崩れるワイ。
==
ちゅんちゅん、
チーチー
そこにも、
ここにも、
ああ、いま、鳥が飛んでいった。
どこに?
もういってしまいました。
馬鹿!
==
踊りはどこ?
馬鹿!何をめくらが!
。。。
宝は目の前にあるのだよ。
。。。
白隠もいったっけ、「水の中にいて渇を叫ぶ」とか。
。。。
ポカ!
==
>ポカ!
主人公の踊りって痛いんですね!
。。。
痛かったり、痒かったり、うれしかったり、暑かったり、いそがしいですね。
。。。まあ、そういうことにしておこうか。
そう、それっきりの踊りと言うのでどうですか?
いや、それが事々無礙までいかんとなあ。
うーん。踊りって、まばゆいんですか?
君、こういうのは自分で答えるもんだよ。
あ、そうか。はい、わかりました。
==
(ゆーらさん)
はい!わかりました!
あーわかりましたですか
はい!
あーそうですか
はい!わかりました!
あーそうですか
はい!
はいありがとう
はい!
はいありがとう
はい!
はいありがとう
はい!
はいありがとう
いいえ
ありがとうございます
はいありがとう
感謝!祈!感謝!祈!
==
>あーそうですか
>はいありがとう
これがいつでも何処でもいえたらね。。。
あーそうですか、
はいそうです
ありがとう。
いいえ、こちらこそ、
はい、さしつかえございません。
ありがとうございます。
そのまま、ありがたくいただきます。
ありがたくいただくと頭の中がすきとおっているんですね。
あ、そうか、ひっかかりがないからな。
はい、そのままです。
ありがとう、ありがとう。
==
でも、、、
しつこいようだけど。。。
引っ掛かりがあるからこそ
引っ掛かりのない、主人公の踊りが
ありがたいのだね。
まったく、
奇妙なふうに人間は作られたものだ。
というか、
そこがわかれば、
ありがたいのだから、
苦労、絶対絶命のおかげということになるな。
趙州のように、自ら地獄に赴く、、、というのも、
わからないことじゃあない、、、ともいえるんだな。
うーん。
そこで大悲がどうでるか、、、
それだそれだ。
その踊りこそ、
本物の踊りだろうな。
そしてその踊りをみれるものがいて、
踊れるものがある。
そこだよね、
われわれの存在の原点・根底での働きが
本当にひかるのは。。。
==
ひかっているか?
全機しているか?
抜けているか、
透脱しているか、
往相環相
おもしろいな。
いつまでたっても、
なんでもかんでも、
あれでもこれでも、
おーいゲーテさんよ、
もっと光を、ね!
ありがとうが
いつまでも、
いつまでも、
ありがとうでありますように。
==
主人公の踊りを外に見て不思議ありがたい。
主人公の踊りを内にみて不思議ありがたい。
それで一件落着のようであるが、、、
そうなっっちゃうと、
人が人でなくなっちゃう。
まあ、それでは味わいがないから、
娑婆というのがあるんだろう。
いろいろな問題あるその裏に、
ありがたいの答えがちゃんと隠れてる。
いないないばー。
==
いないないばー。
はおもしろいね!
いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。いないないばー。
そこいらじゅうだ!
ほら、そこにも、ここにも!
==
主人公の踊りが見えたり、見えなかったり、
おっとっとと、いないないばー。
おっとっとっとっと、、、、
いないないないないばー。。。
おっとっとっとっと、、、、
いないないないないばー。。。
おっとっとっとっと、、、、
いないないないないばー。。。
おっとっとっとっと、、、、
いないないないないばー。。。
ああ、きりないね。
きりないよ。
ありがたいがきりないのも
当たり前だ。
==
ふと、妙好人に関する大拙の本もほとんど読み終わったし、このトピをそろそろ閉じようかな、と思った。
。。。。素朴な妙好人。。。
そこで、Googleで「妙好人」をサーチしてみたら始めに出てきたのがこれ(ウィキペディア)
妙好人(みょうこうにん)とは、浄土系仏教などで、信仰心が篤い在家念仏信者を称賛して言う言葉。
語源は、サンスクリット語の白蓮華を意味する漢訳「妙好」から採られており、言葉として使われるようになったのは1753年に編纂された、石見国浄泉寺の僧侶・仰誓が編纂した『新聞妙好人伝』からと伝わっている。以後、江戸期から明治初期にかけて何篇かの妙好人伝が編まれた。
妙好人を最初に取り上げた知識人は、禅の研究者として名高い鈴木大拙であった。その後、柳宗悦が鳥取県を対象としたフィールドワークを纏めて『妙好人
因幡の源左』を発表し、一般に妙好人という概念が広く知られる事となった。司馬遼太郎は、『街道をゆく』「因幡・伯耆のみち」において妙好人に触れ、日常の瑣末のことがらにまで仏教的な悟りに似た境地にある一般人を指すと言い、また同時に歴史的存在であるとも述べている。
妙好人は、もっぱらその言行をもって周囲から尊称された人物とも言える。江戸〜明治期において市井に生きる人々の言葉が後世に残る事は稀であり、メディアが急速に発達した近代〜現代の人物を妙好人と評するに議論が分かれる論拠となる。
ーー
ということで、これからネットで妙好人をこつこつ調べ、なにかまた不思議な発見があるか調べてみようと思う。
さてどうなるかな?
==
以下のものは、
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub9262myoukouninnno.htm
にありました。
ーー
江戸時代から、この妙好人の記録がたくさん残されていますが、
50年間この妙好人を研究しておいでの楠キョウ先生から、
こんな話を聞きました。
妙好人の方々に共通することが、いくつかあると言いわれます。
その一つは、生命を尊重する気持ちが非常に強いこと。
第二に、謙虚である。その謙虚さは人間にだけではなく、
すべてのものに対して謙虚であること。
第三に、自分を詳察するというか、自分を振り返ること、
言い換えると求道心と言ってもいいと思いますが、
それが非常に強く、また10年20年と持続し、
やがて、これだと言うものを皆さんつかんでおられること。
第四に、すべてのものについて、恩を感じている、
感謝する気持ちが強い。
という共通点が妙好人にはあると言われます。
ーー
生命を尊重する。
謙虚である。
自分を振り返る。
感謝する気持ちが強い。
。。。ふーん。。。
==
これもそのサイトから:
また、毎日毎日、新しい発見をして、
普通の人からすれば何でもないことに、目を向け、
喜んでいらっしゃることが多い。
ーー
この発見と言うのが妙であり、ありがとう、なのだね。
阿弥陀仏の働きをそこに感じるというわけだ。
そこにも、ここにも。。。
そこいらじゅうに、ね。
これはまた妙観察智ともつながるようだね。
(先ほど瞑想のトピに投稿した所)
。。。
そう、感謝、感謝、で日々を過ごしたいね!
はい!
ありがとうございます!
感謝、祈り、感謝、祈り!
==
さらに続けてそのサイトから引用です:
例えば、急に夕立に出会い、ずぶ濡れになってしまっても、
慰める人に対して、イヤイヤ鼻が下向きに付いていて、
良かった良かったと、喜びの言葉をおっしゃったり、
どんな辛いことでも、嫌なことでも、
今日が、し始めのし収めである、二度と、し直しはできないと、
嫌であるとか嘆いたり、決してしない。
また、こんなことは、つまらないことと飽きがきて
粗末になりがちなことも、毎回毎回精一杯全力で
立ち向かっておられることです。
ーー
ありがとうの気持ちがいつもそこにあるからだね。
ぶたれても、物を盗まれても、肥溜めに落ちても、ありがとうなのだから、、、、
これまた、とことん徹底しておるね。
すべてに現れている「その」働きにありがとう。。。。
「気づき」にありがとう、だ。
はたでみたら、これはもう、妙妙妙妙、、、だね。
不思議で、、、又、その純粋なところに、、、周りの人が打たれる、ということもあるのだろうな。
感謝、祈り、感謝、祈り!
==
さらに続き:
一回一回、一刻一刻を大事にしての生活、
そっこん、只今が大事である。
今この瞬間を粗末にしないで、大事にしての生活であります。
明日も明後日もあると、迂闊に時を過ごさずに、その瞬間を
精一杯生きておられます。
ーー
これはどうしてかと言うと、
いつも阿弥陀様がそばにいるから、と言うことだね!
あるいはその存在をきづかさせてくれる出来事、
これに会う度に、ぽっとなむあみだぶつが確認されるというようなものかな。
こういうのが、いつもいつもになったとき、
その人の内面の世界は光に輝いているのかもしれないね!
そしてその内面の光は外の世界にも満ち溢れ、
その働きが、すべてに感じられるから、
そこでまた、なむあみだぶなむあみだぶ、だ!
こればかりは、人である以上(業があるから)きりがないのだよ!
煩悩即菩提だからね。
それが業の根きりだ。
ありがとう、だ。
感謝、祈り、感謝、祈り!
==
>こういうのが、いつもいつもになったとき
>その人の内面の世界は光に輝いているのかもしれないね!、、、
ああ、これは、、、、
法悦の世界だね。
かといって法悦でないところが見えるから、
法悦があるというようなものだ。
煩悩をとらないでくれて、
ありがとう。
で、ありがとうは、
煩悩があるからでてくる言葉だね!
だから、だから、、、
いつもいつも、
ありがとう、ありがとう。
ありがとうでないから、
なおさら、ありがとう!!!
ああ、こりゃ、きりないわい!
ー
A)ありがとうでないからありがとう、
と、B)なんでもないのに、ありがとう。
これの関係も面白いね。
A)は人為から無為・人為へのひっくり返り、
B)はもともとの大悲のはたらきへの感謝、というようなものかな。
==
ネットでの妙好人検索から:
「わしは我が折れた。欲も得もないようになった」ということをよく言ってました。もうどうなってもいいと思うたけども、養子に来てくれる人があって、そして私の家内を嫁にもらったというんです。
なんかどうなってもいいけれんどもろうた、というと無責任のように聞こえますけれども、「お前にはお前ではなくてはならん任務がある」。ただその言葉に従ったわけです。自分はどうなってもいいんだ、自分には自分でなくてはならん任務がある。」
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/kotudou.htm より。
ーー
「我が折れた」と「お前にはお前ではなくてはならん任務がある」が対になってすばらしいね!
無我→大用現前だ。宇宙の意をあらわし、天(法)の道を歩むのだ。
==
同じサイトから:
魚買うた リンゴ買うた
その金
自分の仲間の人間に
払ったが
魚に リンゴに
金払った人間は誰もいない
私たちは他の生き物から只もらいしとるんです。ご供養を受けとるんです。
ーー
これまた絶体絶命、いかんせんにげられないところだな。
そして魚もりんごもただもらいしている。もちろんお金は払わない。
こういう絶対絶命の因縁を越える、というのでほとけの悟りがあるのだね。
で、そこをみてなむあみだぶということもあるわけだ。
これをまた不落因果、不昧因果という。
すると、、、
不思議や不思議、悉有仏性、華厳の世界がそこにキラキラ輝いているのだ。
==
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/matumoto.html 松本梶丸先生 「信心は如来の眼」 1995年6月27日から
松本梶丸氏は白山市、浄土真宗本誓寺住職との事です。本をいくつか書いておられます。
――
人生にとって、人間にとって、悩むということはとても大切なんだ。しかし悩むというところに光に 出遇わなければ、悩むことが何の意味も持ってこない。この世の中で悩むということが一番人間にとって大切であるように、もう一つ大切なことは光に遇うことなんだ。ちょうどお仏壇の中の如来様の 光背(後光)のように、光のない人生は寂しい人生だ。
ーー
そういえば岡村美穂子さんの本に光の中で暮らして、といった表現があったようだな。(大拙と一緒の生活をした時の思い出)→あいにく、チョッと調べたがでてこなかった。
いずれにしろ、その光。みんな持っているんだよね。
松下さんはダイヤモンドの原石からの光と言うような話しをしていたが、
素直なほど、光が輝くんだね。
権威を振り回す人ほど、光がぼけるんだろう。
そう、自ずから然りの光だ。
私の光を見なさい!というのじゃあ、まったくはなしにならんのだ!
夕暮れの雲の光、こおろぎの音の光、波のひかり、
真っ暗闇の光など、いろいろある。
そしてそれら、みんなただ!もともとあるものだからね!
そこにもここにも、悉有仏性。
ありがたい、ありがたい!
おう、鳥がチチチッ(Sadhu,sadhu)とないちょるわい!!!
==
前出のサイトから:
「北陸のいくつかの地方では、如来様のことを「はたらき様」というんです。これは如来様よりもさらに具体的な形を取った言葉だと思うんです。如来様のはたらきに出遇うた人が、はたらき様と如来様を讃えたんです。はたらきとはここにはたらきかけて下さる。そのはたらきを離れて、如来様が実体的にどこかにおいでになるのではありません。
はたらきをはずすと如来様は偶像になってしまいます。そうなりますと、キツネ様とあまり変わらんことになります。だから、はたらきということがとても大事だと思います。如来様のはたらきを通して如来様に出遇うんです。はたらかなくて如来様に出遇うことはありません。」
ーー
いいこというね!
「それ」は、生きた、働いたところでないとね。
==
(ゆーらさん)
あーー!!すごい!!
うれしいうれしいうれしい!!!
はたらき様ってすごい!
そんな呼び方!すごい!
ヾ(T▽T)〃うれしいうれしい!
ほんとにはたらき様!!ありがとう!!!
如来様ははたらき様か!
どなたかわかりませんが
ほんとにすごい!!
ありがとう!!!
すざきさま
伝えてくださって
ありがとうございます!
すごいですね!!!
感謝!祈!感謝!祈!
==
そう、まさに生きて、働いているんだね!
北陸のそこここで、
そして、そこでもここでも、あっちでも、こっちでも。
むしろ、ふっと一般には気づかない所で、
だからこそ、、、
(素直に)その働きに気づくと、ありがたい。
そこいらじゅうにはたらいている!
不思議、そのままにありがとう!
(GOOGLEではたらき様をひいたら、ほとんど出てませんでした。陰徳とおなじで、、、、おかげさま、というようなもので、静かに隠れて、こつこつと働いているんでしょうね。)
ありがとう、ありがとう!
不思議な働きのおかげで救われた!
如来様、働き様、おかげ様。。。
ありがとう、ありがとう!
==
前出のサイトより:
「あんたんとこの阿弥陀さんはどこにかざってあるのや」
皆さん方の阿弥陀さんも100%、お仏壇の中にかざってあるでしょう。まさか床の間や台所においてある如来様はありませんね。そしたら、このおばあちゃんはこう答えた。
「うらんとこの阿弥陀さんはうらの胸から出たり入ったりしとる」
ーー
飾っておくんじゃなくて、ちゃんとはたらいていただいてるんだね。
胸に入った時は、どんな時かな?
ふと気づいて一緒にいてくださってありがとう、といった時かな?
では胸からでた時はどんな時?
働いている時かな?それとも阿弥陀さんをぼんやり、気づかないときかな?
それとも、なむあみだぶつを唱えると入って、
次のなむあみだぶつで、外へのはたらきとなって、でるのかな。
==
>それとも、なむあみだぶつを唱えると入って、
次のなむあみだぶつで、外へのはたらきとなって、でるのかな。
なんであれ、あみださま、はたらき、いそがしいね。
ありがとう、ありがとう。
そこでもここでも。
あなたもわたしも。
ところでこのあみださまのはたらき、空の働きといってもいいし、戒定慧でもいい。信とか、証とか、覚とか、いいかたはいろいろあるけど、、、
要ははたらき様ありがとう、なのだ!
ということで、そんなもの、かざりでなくて、理屈でなくて、
大事なことは働きがどうか、ということ。
なむなむなむなむ。。。なむはたらきさま。
==
前出のサイトから(続き)
命そのものがいただきものだということがわかるじゃありませんか。私の命なんてものは絶対にないんです。
ーー
迷うとあると思っちゃう。
でも私のもの、なんて一体本当にあるの?
私なんて本当にあるの?
法律上はある、となっていても、
現実には、、
いったいあるの?
あるともいえるしないとも言える。。。?
すべてはいただきもの!?仏の働き?!
するといただく人はいるのか?
感謝する人はいるのか?
面白いね。
不思議だね。
==
(つづき)
人間の眼は一方通行です。どれだけ見えても、人間の目から見える世界は、向こうの世界ばかりで、足もとは見えてこないんです。
ーー
この一方通行と言う言葉、いいね!
こっちばっかり中心で、むこうからの働きにきづかない。
むこうからの働きに気づくと、
これは光に照らされるようなもの。
脚下照顧だね!
脚の下だけでなく、すべてだ!
我の働きを照らすんだ!
ああ、はずかし!
でも、じっとそのままでいると、
それが霧が晴れるようにすっきりする。
これが定慧の不思議なはたらきだ!
まあ肩のこりをほぐすようなもんだな。
ありがとう、ありがとう!
ほんとーーーに、ありがとう!
==
共に生きることはとても大事な言葉なんですが、共に生きることのできない深い悲しみを通さないと、本当に共に生きるという言葉は生きてこないんでないかと思います。
ーー
共に生きているんだけど、共に生きていない。。。
共に生きていないけど、共に生きている。
ああ、そうだね。
だから、詩があり、人生の悲喜劇がある。
それをみて、(共に)笑い悲しみ、そしてまたその絶体絶命のところに戻る。
でも、どうせそうなら、
それを超越した所を見て生きたいね。
==
。。。ばあちゃん、不安や悲しみあるか。私らその不安や悲しみ取ってあげる会をしとるから、私達の会に来なさい」
と言ったそうです。するとおばあちゃんは、
「そうか、本当に不安と悲しみの娑婆やねえ。そやけど、このウラ(私)から悲しみや不安を取ったら、なにをよりどころにして生きていったらいいかねえ
ーー
生死一如の空には、生きるエネルギーが、あるいは絶対の働きがあるとしても、、、
娑婆の真っ只中で、煩悩と共に、(そんなものをつきぬけて)強く生きるものの生命力は仏をもはずかしめる、あるいはおどろかせる、といったものがあるのかもしれないな。
(例えば、、、八大人覚の少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧、、、を超えたものがそこにあるか、ということ。)
==
信心をいただくことは、何かありがたいものをもらうとか、自分を改良するとか、何かなくなったらつけ加えるということではないんです。どうにもならん、どうしようもない。人間のはからいや、自力ではどうにもならんということです。
ーー
そう、絶体絶命なのだよね!
で、そこにこそ救い、があり、智慧が働く。
是が不思議でなくて、なんだろう?!
==
人生の苦しみとまともに向き合って、そこから仏法をいただいた人は確かなんです。仏法は学問や教養ではないんです。苦しみのまっただ中で何が聞こえてきたか。そこに仏法の生きたはたらきがあるんです。
ーー
>人生の苦しみとまともに向き合って、そこから仏法をいただいた人は確かなんです。
私の場合、やはりそんなことあったかな?あれとか是とかおもい浮かべるけれど、(それに関してなのだろう、、、)修業での苦しみも忘れられないな。やはり熱意、発菩提心か。。。があって、とことん徹底したところで、どん底から湧きあがって来るのが証あるいは覚ということのようだ。
>仏法は学問や教養ではないんです。
そうだね、でもいろいろの教えは羅針盤ないし矢印、月を指す指の役目をちゃんと果たしてくれるね!ありがたいことだ!!!
>苦しみのまっただ中で何が聞こえてきたか。そこに仏法の生きたはたらきがあるんです。
まっただ中、逃げ場のない真っ只中で、何か(マカ不思議な何か)が働くようになっているんだろうな。それがただとことんの一回だけでなく、いつでもそうなっているんだ。
感謝、祈り、感謝、祈り!
==
あてとつもりははずれるもんじゃ
ーー
なになにを、あてにする、というあて、
なになにのつもりと言う、立場の構築、とでもいうか、
そういうのは長続きしない。どこかでくずれる、といったぐあい。
Expectation(期待)は泡のようなもの、という感じ。
つまり馬鹿だね、無意味だね、あるいは無理、というような意味合いもあるようだな。
そういうことにさっさと気づくのが、智慧だ。
ぽっと浮かんだそういうおもい、に即、気づく、ということ。(道元のいう、迷いを大悟する、だ)
==
あて通りに人生はいかない。あてが外れたところに南無阿弥陀仏の命は流れ続けているんですね。人間のあてなど全く問題にしないところで、命はいつも流れ続けています。その命のふるさとに帰れ、というのは念仏申せと言う呼びかけでしょう。
ーー
これ意識と無意識の連絡といったようにもいえるようだな。
煩悩を照らす鏡の光、その橋渡しをするのが念仏、という事と思う。
>ふるさとに帰れ
で安心、でいいのだが。
旅はまだ続くのだよね。
特に人間の社会性に関して、智慧の光を、という難しい問題がある。(⇒方便)
==
仏様の言葉は真実の言葉です。必ず光明と名号(南無阿弥陀仏のこと)という徳を持っています。徳というのははたらきです。如来様は色も形もありません。しかし、如来様が言葉にまでなって具体化する。如来が言葉になった時に、その言葉は如来様の徳を代表する二つのはたらきである光明と名号を必ずそなえます。
光明と名号と二つあるのではありません。光明が名号となり、名号が光明となる。私達は忘れ続け、見えない。それで、悪いことは人のせいにしている。しかしながら、光明と名号はあり続けていて、ただ今のわが身を気づかしてくれる。呼びかけてくれる。照らして下さる。そこに如来様の生きたはたらきがあります。
ーー
この働き=智慧(鏡に映った、という大円鏡智につながっているように見える)
この、
>如来様の生きたはたらき
が「それ」だ。
それが。ふるさとからの、つまり、
>命のふるさと
からほとばしる、知慧・慈悲、(はたらき)だろう。
==
(少し戻って)
高光大船と言う先生にこういう言葉があります。
「時のない話は人間の話、時のある話は仏さんの話」。。
時というのは今です。。。
(つづき)
如来様は、親鸞様、蓮如様、よき人の仰せを通して、今を忘れ続けて生きている私達の時のない人生に、今という時を開いて下さる。今という時をいただく人生と、全く今を知らない人生との人間の生き様には、私は天地ほどの大きな違いがあるのではないかと思います。
ーー
>時のない人生に、今という時を開いて下さる。。。
とは、まあ道元の前後裁断と同じと、とっていいと思うが、
そこにも例のひっくり返り、つまり意識主導から、いわば今此処の感覚ー無意識の意識ーが目覚める、といった感じがあるといっていいだろう。
ここでも(例によって)言葉の限界を感じるのだが、無心の、涅槃寂静、、、、
あるがまま、、、自然法爾の世界(是はまた、色即是空、空即是色である)がそこに「ある」・展開している、のだ。
すると、
>時のない人生
と言うのは、そのまま不生不滅だ!
(いやまったく、仏の教えというのは、一見ちんぷんかんぷんなようで、それ(そういう見方)が、とことんひっくり返ると、おいしいアイスクリームでもたべたような不思議な感覚がある、、、といいたい!)
==
「こころの時代」というテレビ番組があります。それにノートルダム女学院というキリスト教系の学校の理事長をしておられる渡辺和子さんという修道女の方が出られました。その人がこういうことを言われたんです。
「人間は二つに大きく分けられる。それは気づかされる人生と、気づかされることのない人生との二つ である。気づかされる人生を生きることと、全く気づくことのない無自覚なままで終わる人生とは、 人間の生き方、深さ、豊かさにおいて、天地ほどの違いが出てくる。」
ーー
気づくというのは、むこうから聞こえてくる、教えてくれる、といったものだね。
こっちを進めているうちは、聞こえない。
繊細なものだな。微妙な所だな。でも違いは、まさに、
>天地ほどの違い
だね。(こっちとあっち、娑婆と極楽、迷いと悟り、有心と無心、。。。。)
==
「信心は眼のごとし。ゆえに智慧眼ともいう。肉眼を具すとも、光照の縁にあいて信を得ずば、無眼の人なるべし。」
ーー
これがまたおもしろいね。
>信心は眼のごとし
なぜ目なのかな?
一目でわかるから、、
一目瞭然。
千の言葉よりも、、、だ。
だいたいインスピレーション、もハッとわかる、ではないか。
「むこう」からそう教えてくれる。
>光照の縁
もいい言葉だね。光が照るごとく、闇が消えるごとく。
だからまあ、目と言う感じがするわけだな。
あっという間で、論理じゃあない。
けれど納得できるし、難しいけど、言葉にもできる、
例:信心は眼のごとし
これがハッとわかれば、
ありがたいという思いがこみ上げてくるのなら、、、、
天地がつながる、といったものだな。
桶の底が抜けるといってもいい。
==
親鸞聖人が仏様の智慧に出遇った時に、ご自身のことを無眼人無耳人という言葉でおっしゃっています。まなこなき人、耳なき人。
私達のことをおっしゃっておられるんでなく、ご自身が仏法に出遇って、仏様の智慧に照らされた時に、今までこの目はなんでも見えると思っていた。人間の眼が一番確かだと思っていた。この耳はなんでも聞いてきた。こう思っていたが、この眼は何一つ大事なものを見ていない、この耳は何一つ大事なものを聞いていない、と目覚められたのでしょう。そういう目覚めの言葉が、無眼人無耳人という言葉だと思うんです。
ーー
感覚にとらわれて、引きずられて、直接・あるがままに、ものをみない、聞かない。
無眼人無耳人は頭の使い方がわかってない人という事でもありますね。
禅の老師がぽかっとやるのも、そこをみているようでもあるね。
痛いが紛れもなく痛いとわかる。。。
これは単純なことだけど、不思議と単純でないということがあるからね。
やはり自分は迷ってるというのが悟った人という事にもなるんだね。
==
人の肉眼はよく見えますが、人間の眼は外観の眼です。曽我量深という先生がこういうことをおっしゃっています。
「仏教は日本に何を与えたか。こういうことになりますと、私は一言でもってこれに答ることができます。それは何であるかというと、我々は仏教によって内観のまなこを開かしてもろうた。仏教は日本人に内観のまなこを与えたというだけをもって、もう仏教と日本の関係を明らかにしている」
ーー
ああ、たいしたものだね!!!
簡単明瞭!
(ただ是が何処までわかるのかは別問題。。。)
外とうちを同時に見るという「エッカートの眼」も同じだね。
==
内観とは内にまなこを開くことです。我々の目はどれだけ頑張っても、私の内を照らすというはたらきはないんです。そういうはたらきが私達の目にあれば、極端なことを言えば、仏法を聞く必要はないんです。人間の目で心を見ていけばいいんです。しかし、そのはたらきはありません。
ーー
内観→気づき、といったものかな。
あるいは、内観→無意識の意識の知覚→気づき。
あるいは定→慧。
慧は「むこう」からの働き。
==
このまなこをいただかないで、人間の目だけで見ていると、人ごとよそごととしてしか物事をとらえることができない。あいつがこいつがというまなざしの上にしか見ることができないんです。
ーー
だから外ばっかり見てちゃダメだよ、内観のまなこをわすれなさんな、といったわけだね。
(ところで是はいってみれば無意識の意識というわけだが、たとえばヴィパッサナではその知覚をいわばおもいだすような修業・坐禅をするわけだ。是が身に付けばーといっても、もともとあるのだが、−対処しない対処が楽にできるようになる。)
==
ユダヤの格言に
「人は転ぶと石のせいにする。石がないと坂のせいにする。坂がないとはいていた靴のせいにする」
日本でも同じですね。どこまでも自分のことだったなあと受けとめることができないんです。その心が自分を苦しめ、相手を苦しめるんです。
ーー
おっとっと、、、
おっとっと、、、
おっとっとゲームで日がくれる。
ひっくりかえれ、
ひっくりかえれ、
ひっくりかえれのうちまなこ。
うちまなこ=内観のまなこ
=
近くにすむおばあちゃんがこういうことを言うんです。
「仏様の教えに出遇うと、素直でない身勝手な自分が見えてくるんですね。人間は教えられないと、自分が悪かったということに目が覚めないもんですね」
ーー
教えられてもわからんと言うこともあるからね!
目の前に答えがあっても見えない。
あ〜こりゃ、もう、そこいらじゅうで絶体絶命だわね。
だから智慧の法というのにあうと、あるいは慈悲の心にであうと、、、、
これはもう、どうしようもないほど、ありがたいんだな〜。
==
親鸞聖人は光明や智慧ということを何度も教えて下さっています。たとえば
「阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし」
とおっしゃっています。阿弥陀仏とは光なんだ。光とは如来の智慧なんだ。
ーー
光は何でも照らして、闇が明らかになる。
われわれの頭が袋小路に迷い込んでどうにもならなくなったとき、
その光に照らされると、
つまらないことはやめるようになる。
進むべき道が明らかになる。
明らかに、明らかに、
道を照らしてもらって、
正しい道を進みたいですね。
時には「ごっつんこ」「いててて」もあるけど、
それはそれ。
目から火が出たら、その火で明るくなって、
やるべきことがわかるといきたいね。
。。。うーん、おっとっと
いきたい、というのが、身びいきじゃあいかんなあ!
はい。
==
金子大栄先生は、
「べしというのは、親鸞聖人が聞かれた如来招喚の勅命である」
と言われました。つまり、「べし」という言葉が出た時には、人に向かってこうしなさいと言っているのではなく、自分自身にもう一度如来の呼びかけを確認する時に使われたのです。だから、「光明は智慧のかたちなりとしるべし」と言われているのは、そこをどうか大事にしてほしいという願いがあるんでしょう。
ーー
ああ、わかるなあああああああ。。。
わかるべし、
べしべしべしべし。。。
==
また別の所には、
「光明は名づけて智慧とす」
という言葉があります。「光明は智慧なり」でよさそうなものですが、わざわざ「名づけて」と言われます。光明のはたらきに出遇ってくださいという親鸞聖人の深い願いを、私はこういう所に感じるんです。
ーー
「本体」・「剥き身」は言葉で表されない、というような意味でもあるだろうな。
四智もあるから、智慧というのもいろいろな形容ができるのだね。
働きの具合がいろいろな形に表れる。
だけど、本体、もとのもとは光明、、、、
光明ー仏性ー智慧の働き、、、とつながっていて、、、
華厳の世界の展開がそこに見られる、といったものかな。
つまり、、、
みんな、光ってるんだ!
光、光明がまばゆいばかりに、、、
そこいらじゅうだ。
で、「これ」にあうのを
南無阿弥陀仏というのかな。
あるいは「その」体験を、、、
ときとして物騒な言葉だけど、
それを名づけて、
見性、といっておこうか。
(それにしても言葉というのは便利なようで、やっかいなものでもあるな)
==
『徒然草』の兼好法師:
「かしこげなる人も、人の上のみはかりて、おのれをば知らざるなり。われを知らずして、ほかを知るということわりあるべからず」
ーー
われを知らずして
ほかを知るということわりあるべからず
とはまた、いい言葉だね〜。
知ったかぶりと言う言葉があるけど、、、
あるいは「知る者は言わず、言う者は知らず。」というのがあるね。
無に参じなさい、というようなものだな。
==
山崎ヨンというおばあちゃんが、「自分を見る目は相手を受け入れる目や。自分のことは自分で見えんもんや」と言った後に続けて、
「自分を見るときゃ、如来さんのまなこいただかんと見えんもんや。このまなこいただくと、むこうさんと変わらん同じもんがここにおるだけや」
ーー
エッカートの眼とおなじだね。
自分を見ないといかんね。
前にでた内観のまなことおなじだな。
不思議なものだ。
見る、知る、わかる、気づく、、、
ありがとう。
==
「この眼いただくことが一番大事なことなんやけれども、人間はその一番大事なことを忘れて生きておるのやね」
と、おばあちゃんは言うのです。
ーー
不思議だね〜
おばあちゃん。
、、、ということで「山崎ヨン」でネットを調べてみたら、、、
不安は私のいのちやもん
不安をとられたら生きようがないわ (山崎ヨン)
というのがありました。
生きるというのは智慧を使って、不安、問題を解決していくプロセスかもしれませんね。
(この反対?の立場に心身の滅した境涯が(瞑想では)あるようですが、とりあえずそれはほおっておきます。)
==
真実というものは回向してくるんです。私が真実をつかむんじゃないんです。真実が私のはからいに関わりなく、向こうから来て下さるんです。
ーー
自我が目の前の世界を曇った、フィルターにかかったものにする、というようなものだな。
フィルターの曇りにきづくようになるのに、、、
どうか、ということだ。
それが智慧のひとつの現れ方であり、
それもまたこっちを進めてはできないと知るのも智慧だろう。
ここの微妙な所を通り抜けるのが、
一般の言葉で言うと「仏の智慧」
あるいは内観、如来のまなこ、ということになるな。
そこで、実際、刻々、どうなるか、
さあ、さあ、さあ、、、、
==
曽我先生はおっしゃいました。
「南無阿弥陀仏という言葉を現代の言葉に直せば、なるほどそうかという世界だ。なるほどそうかといううなずきを知っている人は、広い道を悠々と歩いていくことができる。なるほどそうかといううなずきを知らない人は、狭い道を肩をいからして歩いていかなければならない」
ーー
なるほどそうかでいいけど、
それでわかったと思ったらいかんだろうね。
働きがそこここで現れ出て、
刻々と、なるほどそうですね、、、、
大智大悲に、ありがとう、
となるかどうか、だね!
なんといっても、
ああそうか、なるほど、、、
という、うなずき、だものね。
わからないほうが
わかったというより、
かなり深いんじゃないかとおもうよ。
あるいは、それが沢庵の溶けた心、
につながっているようだね。
==
人間の生きざまが今生、娑婆の世界のことばかりに一大事になっている。「なんか儲かるうまい話はないか」といったことばかりにかかりはてているんです。そのように人生を生きていると、今という命の出遇いが全然ないんです。
こんな質問をされた人はどう答えるかというと、
「儲かるうまい話があるよ」
と答える人は一人もいませんね。みんなどう答えるか。
「なんもろくなことはないわいね」
皆さん、たかが挨拶一つですが、人間の内面的な貧しさを表しています。そんなものしか心にないんです。そのことしか一大事がかかっていないんです。
北陸では面白い挨拶があります。どんな挨拶かというと、
「後生の一大事に夜明かししたかや」
今でもこんな言葉が残っています。人と人が出遇う時、生きざまを確認しあったんです。
ーー
「後生の一大事に夜明かししたかや」
いいや、わしゃあねたけんど、
夜中に起きてこおろぎの声をきいたな〜
ほんで?
ありゃア、きれいなこえでなくのう、、、
うんうん。
でもあきが深まってくると、、
だんだんだんだん、、、声がちいさくなるんだ。
うんうん。
時々途切れたりしてね、、、
それで、
又、息をついで、なくんだ。
ほーそうか。
チョッと心細い声でのう、、、
でも、一生懸命やっちょるで。
うんうん。
一生懸命ありがたいのう!
なむあみだぶなむあみだぶ、、、
いやはや、ありがたいワイ。
なむあみだぶなむあみだぶ
==
>北陸では面白い挨拶があります。どんな挨拶かというと、
「後生の一大事に夜明かししたかや」
今でもこんな言葉が残っています。人と人が出遇う時、生きざまを確認しあったんです。
お前、限りある人生の中で、娑婆だけに振り回されて生きているんでないか。今を忘れているんでないか。一番大事なことを忘れているんでないか。お前は何を一大事にして生きているのか。
人と出遇った時に、何か大事なものを忘れてはいないかと、お互いに確認しあうんです。こういう言葉が残っていることはありがたいなと思うんです。
ーー
>人と出遇った時に、何か大事なものを忘れてはいないかと、お互いに確認しあうんです。
ああ、すばらしいな!
禅の公案に、朝起きて。
自分に向かって、主人公を忘れるでないぞ、、、
というのがあるが、(巌喚主人)
それをここでいうように、
みんなでやったら、、、
是は大変なものだな〜
主人公はそこいらじゅうにある、あらわれている。。。
あのこおろぎの声も、そのあらわれ。
おい、
大事なものをわすれてないか?
え!
ああ、、
そうだそうだ、、、
ありがとう、ありがとう!
==
「時のない話は人間の話、時のある話は如来さんの話」という言葉に関連するかのように、曽我量深先生の、
「現在のある人は心に満足がある。不平不満の人は現在を知らぬ人である」
という言葉に出遇ったんです。
注:時というのは今。現在。
ーー
今まさに何が起こっているかを「知る」と言うのは、今に生きていないとできない。
今に生きているというのは、すべての知覚が鋭敏に、、、
今ここで、何がどうなっているかを、刻々、「知る」ということ。
すべての知覚が鋭敏に、、、
今ここで、何がどうなっているかを、刻々、「知る」というのは、
自ずから然りの世界をなんら歪なく生きるということ。
自ずから然りの世界をなんら歪なく生きるというのは、
如、即、まま、絶対矛盾の自己同一、、、ということ。
「そこ」に何があるかというと、、、
いってみるのなら、、、
透き通った、くつろぎの世界がある、としておこう。
>「現在のある人は心に満足がある。不平不満の人は現在を知らぬ人である」
だから、、、
こころはその「とき」、、、
しかるべく、法に従って、(人為でなく)
ととのっている。
→安心。満足。(人目でみると満たされてなくても満たされているという満足)
==
ものやお金がある人が、心に満足しているとは限りません。欲望の満たされた人が、心も満たされているわけではないですね。我々はあれも欲しい、これも欲しい、こうなったら、ああなったら、と生きています。しかし、人間の一番深い心の中の願いは、あれも欲しい、これも欲しいということではないと思うんです。
私は人間の一番深いところで何が欲しいかというと、これでよかった、このままでよかった、と言える命に出遇いたいのだと思えて仕方ありません。
ーー
生まれてこの方、あれがいい、これがいい、といろいろなもの、考え、行いなどに「教育」を受けてきた。(馬鹿はそういうのと無縁)
その教育(テレビの広告とか、人のうわさなど、いろいろあるね)のおかげで業の根っこが深くなった。
でもそのこころのプログラム、癖は何処まで行っても追いつかない追いかけっこと気づくのだ。(笑い)
なんにもないのに、くつろいで、安心、ハッピー、こだわらない、鳥の声が楽しい、月の光が美しい、ということがあるのだ。
文句を言うべき所、文句を言わず、反発せず、じっとじっとそこで何がおきているかを見て、法の道を歩むということが、あるのだ!
>これでよかった、このままでよかった
は、大変なことだね!
周りから見たら、それこそ馬鹿、か知れない。
でもその馬鹿の顔は輝いているのだ!
目は底無しに澄んでいる。
口元にはアルカイックスマイルか何か知らないけど、
それとない自然の微笑が漂う。
身体は荷物をしょってないから、
余計な力が抜け、まわりの人の評価に右往左往するということもない。
ただ、太陽を眺め、青空と鳥と雲と、ありさんと、、、、
木々の風にざわめく音に興を感じ、
キラキラ光る波や、月の光り、こおろぎの鳴き声を友として、
たんたんたんたんと、時を過ごすという不思議な世界に溶け込んでいる。
ああ、ああ、ああ
ばかのくつろぎはこの世の宝だな!
おーい。。。
というこえも、馬鹿の心を通り抜けていく。
カーカーカー
ああ、カラスが鳴いている。
==
八木重吉という私の好きな、親鸞聖人に遇わせてもらう御縁になったキリスト教の詩人がいます。この詩人にこういう詩があります。
「窓を開けて雨を見ていると
なんにもいらないから
こうして穏やかな気持ちでいたいと思う」
私はときどきしんどくなると、この詩を思い出すんです。窓を開けて雨を見るのは、いつでもある光景ですね。その中に八木重吉は大事なものを感じとったんです。
あれも欲しい、これも欲しいというのが人間の欲望でしょう。しかし、人間のもっと深い命の中では、これでよかった、なんにもいらない、そういう命の出遇いを求めているんだと思うんです。
ーー
欲はいらない、
欲でもとめていたものは一体なんだったのか?
それに気づくと、お金も、名声も、なにも、一体何をもたらしたのか?
小欲知足、、、
無一物中無尽蔵、
のくつろぎ!
何にもないところに、
とんでもない不思議があったのだ!
==
>「窓を開けて雨を見ていると
なんにもいらないから
こうして穏やかな気持ちでいたいと思う」
ーー
これに対して、そのとき何かへんな感じをしながらも、こう書いた:
>何にもないところに、
とんでもない不思議があったのだ!
つまり、ここでチョッと気にかかる(笑い)ことがある。
>「窓を開けて雨を見ていると
なんにもいらないから
こうして穏やかな気持ちでいたいと思う」
これは、本当はひっくり返らないといけないかどうか?
つまり、いつも穏やかな気持ちでいたらそんなこと考えないのではないか???
>こうして穏やかな気持ちでいたいと思う
というのは求めているのではないか???
まあ、見方によるといえばそれまでだが、
「何にもいらない」が徹底すると
何を食べてもおいしいし、呼吸するのも空気がうまい、
なんにもないところに、
いろんなものがあった、とならないか?
何を見ても妙、ということにならないか???
この辺どんなものだろうか?
==
>「窓を開けて雨を見ていると
なんにもいらないから
こうして穏やかな気持ちでいたいと思う」
>私はときどきしんどくなると、この詩を思い出すんです。窓を開けて雨を見るのは、いつでもある光景ですね。その中に八木重吉は大事なものを感じとったんです。
ーー
こういうふうに見たらどうか?
>私はときどきしんどくなると、この詩を思い出すんです。
というときの「この詩を思い出す」がある種のひっくり返りの場を提供している。つまり、そのしんどいのに流されない何かの「感じ」を思い出させる。その感じとは、いわば「涅槃寂静」につながる、無心の境涯。定である。
>窓を開けて雨を見るのは、いつでもある光景ですね。その中に八木重吉は大事なものを感じとったんです。
この大事なものというのが、佛教では定ー慧と言うふうにみえる。
「この詩をおもいだす」というのが、いわば方便となって、(きっかけとなって)本来の足場にもどることの役に立つということのようだ。
「こうして穏やかな気持ちでいたいと思う」と言うおもいでなく、「なんにもいらない」そのものが無一物中無尽蔵の不思議な転回をもたらすというようにみえるのである。
==
この頃は豊かで便利な時代になりました。スーパーに行ってお金を出せば、欲しい物はどんな物でも買えます。しかし、人間の根源的に大事なものは、お金を出して買えるでしょうか。心の中を豊かにするものを売って下さい。心を満たすものを売って下さい。心に暖かい体温を感じるものを売って下さい。
人間の一番大切なものは、お金をどれだけ積んでも買えないんじゃないですか。私はそこに仏法の大事があると思います。
ーー
お金が悪いんじゃないが、やはり小欲知足は真理だと思う。
小欲だと、目がくらまされないから、いろいろなほかのものが目に付く。
いろいろなほかのもの、とはなにか?
安心
空の青
人の笑顔
猫のくつろぎ
こおろぎの声
きりないほどの自然の不思議。。。。
生きていることの不思議。
なにもないのに、ありがたいということ。これも不思議。
>人間の根源的に大事なもの
心の中を豊かにするもの
心を満たすもの
心に暖かい体温を感じるもの
人間の一番大切なもの
そこに仏法の大事があると思います。
心がないと(無心)何でも入るんだよね。
ふところ広く、ね!
求めるんじゃなくて、
なんでもひずみなく入ってくるんだね!
で、豊かということになるかな。
あるいは自ずから然り!とするかね!
これは又絶対の肯定ということだな。
==
命が真実の言葉に触れた時が、念仏申さんと思いたつ心のおこる時です。曽我先生のお言葉によれば、
「ああ、そうであったな」
これが転換なんですよ。
ーー
>命が真実の言葉に触れた時
これがまあ、定慧の瞬間だろうな。
言葉でなくてもいい。
ハッと、青い空に気づく、
花の可憐なのに不思議を感じる、
などなど、、、、
>念仏申さんと思いたつ心のおこる時です。
それはまた、例の帰依というやつだろうな。南無!
それは、根源の働きに合一します(絶対矛盾の自己同一)というわけだ。
>曽我先生のお言葉によれば、
「ああ、そうであったな」
これが転換なんですよ。
転換ね〜
ひっくり返りと私は感じていたけど、
転換でもおなじだな。
歪が解消だ!
ありがたいだ。
もともとの自ずからに戻るのだから、
文句の言いようがない、
理屈のつけようがないまま、(説明抜きに自然で、、、)
ありがたい、と言うことになる。
>「ああ、そうであったな」
うんうんうん!
そうだそうだ!
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