無限の慈悲

 

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はじめに. 1

無限の慈悲. 2

無限の慈悲と智慧. 4

智慧と慈悲(原点にもどる). 8

無我・無功用行の働き:事が法にそってなされる不思議!. 11

智慧慈悲の聖道門と浄土門での比較. 14

華厳の世界:相即即入:ジジ無礙. 15

おわりに. 16

 

はじめに

そもそも私が宗教に興味を持ったのは、そもそも自分を救うということ、智慧の働きを身につけたいということ、そしてそれを日常の行動に(仕事も含め)働きしめたい、(→自利利他)と思ったということ、そういったものが動機だったと思う。

 

HPにまとめられているようにネットでの活動は英語での活動を含めれば12−3年になろうか。禅、ヴィパッサナ、浄土教などを自分なりに、たんたんこつこつ修証してきたとおもっているのだが、そのなかでも慈悲、無限の慈悲、無縁の慈悲、、、は、般若の智慧を「知る」、というのとおなじように微妙な深みのある(→つまり底がない)ものと思える。そもそも、その性格からいって智慧も慈悲もわかった、身についた、ということは、わかってない、身についてない、というものであろう。

 

それはともかく、流れとしては、まず自分を救う、智慧を「はたらかす」、というようなことが焦点であり、それがある程度進む(?!)にしたがって、慈悲というものの洞察も進んできたように思う。もともと人知を超えた働き、といったものを言葉を使ってあれこれするのは無理、無謀、といった感じもしないでもないが、それはそれとして、感ずるものを出来るだけ表現したいと思って出来たのがこのファイルです。何かのご参考になれば幸いです。

 

                        2010年11月14日 洲崎 清 記

 

 

無限の慈悲

 

朝りんごの皮をむいていて、ふと思い出した。

 

私は皮のむき方がうまいのだが、これはどうみても、母親ゆずりということ。

水のながれるごとく無駄なくすばやく、一皮でむいてしまう。

 

と、そのとき、あたかも私の母親がそこに一緒にいるような感じがした。

不思議というより、それが当たり前、境がない、という感じ。

 

涅槃寂静の感じ、とちょっとちがう、

「不思議な意味のある」時空を超えた荘厳なる静寂といったもの。

 

 

ところでうちの母親が死ぬまえに、私の祖母の写真を一緒に、

お棺に入れて、という準備をしていたようだ。

 

やはり、でてきたもとのところに戻る、ということかな、と

そのとき思った。

 

つまり、この世とあの世の連絡、、、ということだね。

(あの世がどんなものか、あるのかないのか、

知らないにしても、、、ということだろう

→そう、他力にまかす、だな)

 

 

それと、もうひとつ、

ヴィパッサナでは(その準備がしっかり整うと)涅槃寂静が

直接体験されると私は感じるのだが、

10日なら10日のコースの最後に

メッタ(慈悲)の瞑想、というのをやる。

 

これがおもしろいのだが、それまでのポイント、

諸行無常、五蘊皆空、は、涅槃寂静、そして鏡の心につながり、

それが煩悩を断ぜずして涅槃を得る、につながるのだが、

その境涯と少し異なった境涯をコース最後のメッタの瞑想で感じるのだ。

 

ーー

 

『わたしは、知ってか知らずか

意識してか意識しないでか

その思いや言葉

あるいは行動で

わたしを傷つけた人々を許します。

 

わたしは、知ってか知らずか

意識してか意識しないでか

わたしの思いや言葉

あるいは行動で

わたしが傷つけた人々に許しを請います。

。。。

 

すべての生きとし生けるものが

苦悩から解放され

自由になれますように。

真の平安、真の調和

真の幸福を享受できますように。』

 

 

これをコースの最後に5−10分ほどやるのだが、

そのときの感じが、浄土教でいう「救われる」という感じ、

とかなり似ているのでは、という気がする。

 

そのとき、素直な感情があふれるとでもいうか、、、

すべての敷居を越えて、なにか全存在との一体感、とでも言うものを感じるのだ。

ーただし、そこまで丁寧になすべきをなしていたら、ということだが。

 

つまり、これを自力でやっては(こっちの都合でやっては)

ぴたっと決まらない。機法一体とならない。

 

要は自力の念仏というのとおなじで、

自力のメッタというのは、ぴたっと決まらない。

 

そしてそのぴたっと決まったときの

メッタ、というのはどういうものかというと

それはやはり無限の慈悲、といったものだろう。

 

むこう(無限の働き)がこっちにしみとおって

あらわれでる、といったものだ。

 

無限の慈悲を感じ、かつその無限の慈悲そのものになる、とでもいうか、、

それ以前の禅定、→涅槃寂静、、と一味ちがった

そう、やはり無限の慈悲にすっぽり包まれる、という感じ、これだろう。

 

一面の光、といったものだな。

それを感じるというか、それ自身になる、

(あるいは、すでにそれ自身だったということの確認)

という体験だ。

 

で、その体験の裏に、

出だしで言った母親の慈愛とでもいうか、、、

そしてそれをさかのぼってすべての祖先の慈愛(願い)

さらにそれらをひっくるめて、阿弥陀の慈愛、無限の慈愛、

そういったものが

私という存在において、ひとつひとつの細胞レベルで感じられる、

(毛穴から光がでる、、)

 

そしてその光というか働き、が周りとの連携に働き出る、

といった意味合いがあるようだ。

 

つまり、それは、いまここにおける智慧が、慈悲、、(とことんのやさしさ)とそのとき(すべての敷居をのりこえて)統合される、といったことかもしれない。

 

浄土宗のことばでは、一面の他力、となるが、

それはやはり自力がとことん落ちる、というのにあてはまる、

あるいは機法一体、ということになるよう

 

無限の慈悲と智慧

 

仮に智慧と慈悲とにわけて

A: 自力で智慧の道を進む、(聖道門)

B: 横っ飛び(横跳)で阿弥陀の慈悲に救われる、(浄土門)

、、と二つのやりかたがあるとする。

 

ーー

 

まずAの場合:自力で智慧の道を進む、(聖道門):

 

やってみてわかるのだが、Aで進むというのは、実は他力がそこで働いていないとだめ。これは間違いない。

 

そもそも智慧の構造というのが我・意識・自力を超えたもの、をみているのでこれは他力と同じといえる。

その智慧の構造を無意識の意識という、あるいは無分別の分別。

(注:ここでいう他力が浄土教の意味する他力と厳密に同じかどうかはとりあえず問わない)

 

そしてこの道を歩むときに、仏の慈悲の言葉に薫陶されたり、慈悲の瞑想などにも出会うであろう。

 

ただしこの慈悲への方向づけが、いい加減というのはありそう。

というのも自分が救われたら、(したがって他人まで考えが及ばない、、、)というのが、もともとの動機だった、かもしれないから。

そしてそれすらもなしとげるのが難しい・微妙なわけだ。

 

(そもそも大乗というのは、阿羅漢の場合のような自分だけの「悟り」ではいかん、という問題意識によっていたわけだろうが、

あにはからんや、実践面でその辺がいい加減、ということが十分にあるのではないかということ)

 

 

ヴィパッサナ(ゴエンカ氏)においても、自分を救わないでなんで人が救えるか、というのが理由でメッタ(慈悲)の瞑想はコースの最後までやらない。

 

また、とにかくやればいいというものでもない。私自身を振り返ってみても、その辺はいい加減であり、長いこと、実のない(形だけの)メッタの瞑想であった。(おっと、いまでもたいしてかわりないかもしれない)

 

智慧も慈悲も機法一体とならなければ、、、つまりこっち(機)があっち(法)とつながらないと、あるいはこっちがきえてあっちがにじみでないと、、、本来の智慧でも慈悲でもないのである。

 

次に禅に関してだが、以前2〜300ほどの公案を調べたことがあるが、慈悲にかかわる公案というのは非常に数がすくないというのが私のみたところだ。

 

白隠の作った公案の体系でも五位をみても、慈悲につながる、あるいは導くものは一体どれぐらいあるか、と考えてしまう。

 

あるいは何人も会った老師の挙動をみても、無学の妙好人の挙動に匹敵するような慈悲の働きというのは一体どれほどあるのだろう。悟りぐささをまわりにぷんぷんにおわしているものさえあるではないか。

 

禅林句集だって慈悲関係のものはほとんど見当たらない。いわば唯我独尊、のパターンがおおいのではないか。

 

ただし大拙は 趙州の地獄に落ちる、の公案これを重要視しており、

このポイントがしっかり「わかっている」とみられる。

 

『「和尚もまた地獄に入ることがありますか」

「老僧が真っ先に入る」

「大善知識がどうして地獄に入るのです」

「入らなければ誰がお前さんを救うのだ」(趙州録上)』

 

ただし、そこまでいくのは

かなり長い道のりというのが、一般のようだ。

(→大拙、 趙州、白隠の例など)

 

ーー

 

つぎにBの場合:横っ飛び(横跳)で阿弥陀の慈悲に救われる、(浄土門):

、、について考えてみる。

 

この場合は、信心決定で、智慧はすっとびこして、凡人、悪人さえOKで阿弥陀の慈悲に救われる、(すでに救われている)、という体験が来るといっていいだろう。

 

言い方が雑かもしれないが信心決定で、(これは、宝くじに当たる確率か?!)受動でぷかぷか、というわけだ。それは自力なし、智慧もない(といっていいと思う)ただ、救われるという体験。

 

ところが、自力の無意味さを身をもって体験し、(廃立で、)「救われた」ものは、智慧がない?とはいえ、自己を進めない、自我をださない、、、というのが廃立につながるのだから、そこにおいて「智慧」がはたらいている、ともいえる。

 

つまり、このことは、(いわば、ぐるっと回って)Aにおけるやりかたと、一致するはずなのだ。

 

だからBからはいったものは、上のことがわかっているなら

聖道門のやりかたは本来ならすらすらわかる、といったはず、ではないか?

 

それが必ずしもそうでない(らしい)のは智慧=問題解決とすると、その応用範囲がやたら広いので、誰でもそうだろうが、読みが浅かったり、早とちりするなど、やはり一切智というのかなとことんの体得というのは無限の時間がかかる、というのがよいのかもしれない。(かといって未完成の完成はある)

 

 

以上のことが慈悲が智慧と結びつく、ということの意味合いではないかと思う。

 

さらにいえば、浄土門から入って「しっかり」廃立、(自力を立てない)が身についているなら、聖道門を目の敵にするようなことはしないと思う。あるいはできないと思う。(ちなみに、外道といういいかたも、慈悲の表現ではない。)

 

そもそも阿弥陀の、あるいは無限の慈悲の意味合いはそういった意味あいがあるものと思う。

 

一方聖道門からはいったものは、無限の慈悲に行き着いて、(これが四弘請願の衆生済度の本来のいみあいだろう)そこではじめて大乗のスピリットが「わかる」といったものではないかと思う。(ところでそれに関して鈴木大拙は華厳が大乗仏教の最高峰である、と断言している。なお、無功用に関し、ジジ無礙、相即即入など、このファイルの最後に付け足してあります。)

 

 

ーここでちょっと思い出したことがある

 

私が30年ほど前、トヨタ生産方式の意味、方法を「悟り」、このぐうたらの私が日本を出て欧米はじめ何十カ国で仕事をするようになったのは、「無駄の排除」という智慧を知らしめよう、ということだけではなかった。

 

現場の人々が創造性を発揮せずに機械のようになって働くだけでは、あまりにもったいないというので、人間の尊厳をみた経営(→全機現)を、という、狙いがあったのだ。また、私自身、そこに沸いてくるエネルギーの根源を感じたということだった。

 

そのことを振り返ってみて、たんなる智慧でなく、慈悲がからまるという意味合いがそこにあったと思う。使命があったといってもいい。(この辺、松下さんの話とつながる)

 

それでこの話を、ここまでの話に続けて考えてみると、、、

 

もし慈悲があっても智慧がないなら、どうか、、、ということもあるだろう。あるいは釈迦の場合はどうか?とも考えられる。

 

結論は、智慧でも慈悲でもその働きの根源を常に見出すべく、、という願いを持つということかもしれない。(→四弘誓願、、、)

 

まあ、人それぞれなのだから、状況により道を見出すということ。AだけでもBだけでも大変。そんな中で智慧慈悲、慈悲智慧、といったような連携も見出すという、、なんともとほうもない話になったようです。

 

 

智慧と慈悲(原点にもどる)

 

ここで整理の意味も含め、原点に戻ってみなおしをしたい

 

まず智慧というと般若の智慧とか自利利他の働きが思い浮かぶ。それは禅で言う悟りで、無分別の分別、あるいは無意識の意識であるから、そこには個、おごり、独善につながるものは、まったくないはず。(ちなみに、自利利他の利は、世間一般でいう利とは異なる、ということは知っておくべきだろう。つまりそれは自力(自我・身びいき)に対応する利ではなく、「正理と法の道」にそっている、というように見るべきだろう。)

 

念のために此処のところを鈴木大拙の著作で調べてみると、:「それ(般若智)は世間一切の汚染の力より離れて存する。それはこの二元の世界のあらゆる黒闇を打破して、一切の衆生に平和と安慰を与える。盲者に光を与えて、無明の闇夜を安穏に行かしめる。あやまれる道にさまよい行くものを正道につれもどすものなのだ。一切の存在の真相をわれわれに示すものであり、そしてまたそのことこそ一切智であるのだ。。。それはそれ自体空そのものである、一切の真理を蔵する宝庫である、一切の仏・菩薩の母である。」全集5巻、p。11(注に六祖壇経より引用とある)

 

さらに、「般若智がそのまま正覚である。なぜかというと仏教経験では正覚があるときにのみ、般若智はその本来の清浄性に於いて動くことができるからだ。」同、p。12 (両方とも、もとは「般若経の哲学と宗教」)

 

、、とあるので、ここではそれをそのまま周到して話を先に進める。。

 

もちろん、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静にあらわされるような悟りの智慧、あるいは無分別の分別、色即是空、空即是色、鏡の心、四智、というようにあらわされるその「働き」がいかに日常において働くかというと、それは当然、苦集滅道、煩悩を断ぜずして涅槃を得る、中道(の意味するところ)につながっているわけだ。(つまり人知をこえている:般若の智。)

 

ただし、この体験は、個人ひとりひとりにおいての体験(身心脱落←般若の智慧に照らされることの了解=悟り)であり、その体験と周りの人がどう関係するかについては、少なくとも当初は二義的というふうに見られる。これは釈迦の成道の例でいうと、衆生済度を懇願するという梵天勧請が釈迦の悟りのあとで起こったとなっていることからもそうわかる。悟りの智慧(というマカ不思議なものを)を一体どのように娑婆の人、とわかちあえるか、あるいは悟りの智慧がいかに娑婆、他人との関係、ではたらくか、というわけだ。(無論、釈迦の生き様がそれを如実にあらわしているとみればよいのではあろうが。。。)

 

(ちなみにこの智慧に目覚める体験を論理的に表現すると(=特徴付けると)、まず自分が救われないで、どうして周りの人を救うことができるか、ということになるが、それでは大多数の衆生は困るだろうとしたのが後に出てくる浄土教・他力であろう。つまり、救われないもの、悟れないもの、あるいはそういった体験のない凡人、悪人などは捨ておくのか、というわけだ。このところは(阿弥陀仏の)慈悲にからんでいるので後で検討する。)

 

ここで成道にかかわるポイントを、道元の言葉からひろってみると、次のようなものであろう(注:道元が釈迦と同じ境涯にいたどうかについてはここでは問わない):

1)諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、然れども諸仏なり、仏は証しもていく(現成公案)

2)万法に証せらるるというは自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり

 

ここで1)は無功用行(つまり行動の主体はーいわゆる浄土教のいうー自力ではない)ということであり、2)の「他己の身心をして脱落せしむる」というのはその人の生き様が(意図的・作為的に何もしないでも)周りに安心を与えるような徳とでもいうか、論理を超えた「何か」、を匂わせている、その人がいるだけでほっとする、ということだと思う。(ほっとするというだけでは、まだその人の行為に結びついていない、と見られるかもしれないが、仏の行為は自ずから然り、であり、作為がない、無功用の行為、つまり、水が流れるように、といったもので、いわば、本人が気づかない行為がおのずからにじみ出る、というものだろう。社会にとどまる限り、そういう慈悲の思い(〜智慧のひとつのパターン)がわいてくるというのは当然といえるかもしれない。)

 

しかしながらこの1)、2)のこと、つまり成道(ここでは仮に悟りと言っておく)がすぐに無功用・無縁の慈悲に結びつくかというと、どうもそうは思えない。釈迦においてさえ梵天勧請があるごとく、つまり釈迦においてさえ難しいのに、仮に悟っても、その悟りが身についた働きには、なかなかならないのではないか、ということ。(このことはHPの「これで禅のすべてが尽きる」というファイルに書いてある。つまり(聖道門ー禅ーで大悟しても、それが身につき、大悲として現れるというようには、すんなりとはいたらないようだ、ということ。)

 

そこで、このところを禅では悟後の修行(←この表現のいい悪いはここでは問わない)、というわけで、十地経においては身心脱落しても(=歓喜地:第一地)、7→8地となって正理と法(智慧および慈悲)が身につき、そしてさらに進むというところに対応するわけだろうが、釈迦の対機説法のごとく、だまって座ればぴたっと当たる、あるいは、心の欲するところに従って矩をこえず、(これが「恒常的」な無分別の分別、無意識の意識に対応するだろう)となるには、釈迦も達磨も修行中(禅宗での表現)というがごとく智慧の完全な実践にはなかなか(=無限に)いたらない、と見るのがよいであろう。

 

そこで菩薩の四功誓願:つまり衆生無辺誓願度(これが慈悲に対応とみる)、煩惱無盡誓願断(これが智慧に対応とみる)、法門無量誓願学、佛道無上誓願成、ときりがないわけだ。山の中にただ一人、というならまだしも、娑婆で仏道を歩むにおいては、人間としての業をとことん断絶しない(→大乗の見方)という意味でも、一生(四弘誓願を持ち続け)仏道を歩み続けるということだろう。(大智大悲を身につけ働かしめるという意味では、道元においては発心、発心、また発心、他力においては念仏、念仏、また念仏、あるいは信心相続、があるというわけだ。)

 

 

ウィキで調べた般若の智慧と慈悲についてポイントと思われるところを、以下に引用しておく。注:カッコ内((。。))は私のつけたコメント:

 

般若の智慧:

般若を諸法の実相を体得した実践智として、常に悟りへつづく実践の根底に働くものとみる時、この般若の智慧こそ、仏教のさとりの本質である「自利利他二利円満」を完成するものとして、「仏母」とよばれるものである。『大智度論』 に次のように説明される。 :

般若とは秦に智慧という。一切のもろもろの智慧の中で、最も第一たり、無上、無比、無等なるものにして、さらに勝るものなし。

。。。

 

仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧をいう。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、諸法の実相である空と相応する智慧として強調されてきた。

。。。

 

((*注:>修行の結果として<、、というより、般若波羅蜜多時に、あらわれる智慧という言い方が正しいと思う。智慧は働きであるから、戒定慧を修行と見るなら、そのプロセスに対応するとしてよいだろうが、>得られる<、というより見出される、という意味合いのほうがより正確だろう。))

 

仏教が般若の智慧を真実の智慧として、それを悟りの実践智と説くことに注意が必要である。親鸞が「信心の智慧」「智慧の念仏」といったことの意味を考えるべきである。仏教の般若・智慧は、この意味で具体的生活の上に生きて働く智慧であり、信心の働いてゆく姿である。しかも、知識ではなく智慧であるから、自らの分別を離れ、自他対立や差別を超克したものである。

 

((*注:「われらが身の罪悪のふかきほど」(機の真実)と「如来の御恩のたかきこと」(法の真実)の両方を知らしめるのが「信心の智慧」なのである。。。信心の智慧により「わがみの罪悪の深きこと」(機の深信)も「如来の御恩の高きこと」(法の深信)も知らしめられ、しかもこの二つは矛盾対立することは全くなく、いささかの疑心もなく往生一定と大安堵した境地のものなのである。 (この部分は「親鸞における信心の智慧について」(ネット)より引用)))

 

 

慈悲:

無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahā karunā)と言える。

昔の人が俗世間的に慈悲の字を「茲心非心(じしんひしん)」と割って「この心、心に非ず」といい、自分の心を中心とするのでなく、相手の心を心として生きる。いっさいの衆生と平等であるという自覚に生きることが慈悲であると説明するのは、このことである。

 

 

無我・無功用行の働き:事が法にそってなされる不思議!

 

上で「衆生と平等であるという自覚に生きる」というのがいわば無我における働き、ということ、無功用行、ということだろう。ジジ無礙ということで論理的にいうと宇宙の全機現というものをみているといえるようだが、これは知の範疇にない→それで不思議なのだろう。→不識、つまり気づきはあっても、人知では(おそらく)おいつかない、のだ。

 

法は求めても求まらない(維魔経)、智慧も慈悲も同じ。それは身心の「準備」が整ったときに(=無我・無心の境地において、むこうから)自ずから然りであらわれるもの。だからその境地は求めても求まらないもの。

 

これを逆にいうと、智慧も慈悲も、いわばThy will be done!(キリスト教では神の御心のままに、仏教では如来=あるがまま・実相)という体験において如実にあらわされる働きといっていいだろう。

 

そしてそのとき(つまり般若波羅蜜多時)、智慧(←たとえば色即是空、空即是色にその消息があらわされる)を(身心をもって)働かしめるということ(般若心経)であり、中道を(知らずに)歩むということ(宝積経)であろう。のような人は第三の目を持つ、あるいは覚する、鏡の心を持つ、というようにも表現される。

 

ここでは、Thy will be done!といったが、それは本来の面目にであう、といった意味合い(慧能)を他力的に表現したということで、聖道門も浄土門もその究極においては同じ境涯をちがった言葉で表現したとみていいと信じる

 

ここでの表現は、正確にはThy will be done, 本来の面目は「知る」ことはできないというのが正しい言い方であろう。つまり「それ」は「知った」とたんに、「それ」でなくなる、というわけだ。人知の及ぶ範囲にないのだ。それも無功用なのである。(→浄土宗なら阿弥陀の本願は人知の及ぶ範囲でない、というのに相当するだろう)

 

これに関して、たとえば趙州悟境という公案がある:

雪峰禅師にある僧が質問しました「悟りを得た境地とはどんなものですか」

雪峰「目をサラのようにして見てもそこまでは見えない」

僧「飲んでみたらどうですか」

雪峰「飲もうとしてものめない」

趙州この話を聞いて、「もちろん鼻からもはいらないな」

そうすると僧は今度は趙州に聞きました「悟の境地と一体になったときはどうでしょうか」

趙州「苦いな」(悟っても娑婆にいることにはかわりないということでしょう」

僧「飲んだらどうでしょう」

趙州「死ぬ」

雪峰これを聞いていわく「趙州は古仏なり」

 

あるいはゴエンカ氏にある人が質問をする「あなたは悟っていますか?」

答え「私は悟っていない」

(注:この言葉の意味は、その取り方が少なくとも二つあるがそれは自ずから察するべきだろう)

 

あたりまえ、かつどうしても避けられないことだが、上の内容は個人個人において極められなければならない。つまり、智慧は一人一人の生において刻々現成されねばならない。妙好人でもキリスト教の行者ローレンスの場合でも、エッカート(エックハルト)でも大拙でも中山さんでも、それぞれがそれ(智慧)を発見。現成しつつ生きていくしか、手がないわけだ。これは人間の人間たるが故のこと、人間として生まれたということにまつわる業である。

 

そこで、、、、絶体絶命を突き抜けて智慧にいたった、という、あるいは絶対矛盾の自己同一が領解されたという体験があったとしても、それはあくまでも仏道の第一歩(十地経)といったもの、、それを身に着ける」(実際はすでに身についていて、自我を落とせば、その「宝物」(Thy will be done)は輝きでてくる)ということがさらなる課題となるのだが、そのとき、「いたった」、あるいは「領解された」体験は、その場そのときのことで、それをいつも担いで回るわけには行かない。そこに前後裁断の意味合いがあり、これはどうしても避けられない。智慧は存在の根源における働きであるから、現在進行形で働かしめなければ意味がないわけだ。すでにHPに書いたが、悟ったということは悟ったということではない、(大悟についてのファイルー禅のすべてが尽きるー参照)というわけだ。

 

但し絶体絶命を知り、すべてをあるがままにうけとり、そこを智慧を生かして生きる、というのが人間の特権であり、四句誓願を持ち続け、正理と法の道を歩もう、というのが仏道を歩むということだろう。

 

*注:小乗、大乗、における慈悲のありかた:

小乗の聖者は、あらゆる煩悩を断ち尽くし、すなわち愛がなくなっているから、衆生を済度するということが考えられない。それに反して大乗の菩薩は衆生済度が第一の目的であるから、煩悩を全断してはならない。菩薩の慈とか悲とかは、いわば浄化された煩悩であり、菩薩は存在への「結」(煩悩)によって、あえてこの世界への生を受ける。」 p。201宝積経(注より)、大乗仏典(中央公論社) ← この点、維魔経でいう「衆生病む、ゆえにわれ病む」と通じる。

 

ーー

 

般若の智慧を体験したものはその道(仏道:聖道門))を歩むとともに、自らを振り返ることができるので、衆生済度という慈悲の働きが自ずからにじみ出る、ということになる。これが菩薩としての働き

法蔵菩薩はその一例で、その無限の働きを阿弥陀仏とし、(その智慧・慈悲の働きを神仏化した)、という方便となったわけだ。

 

智慧慈悲の聖道門と浄土門での比較

 

如来と智慧、慈悲の関係を聖道門と浄土門で比較すると次のようなものであろう

A: 如来ー如(あるがまま)が来るという体験ー悟り(あるがままですべてが整っている)ー般若の智慧(あるがままを見る→般若の光がさす=智慧が働く:無分別の分別)ー禅(聖道門)

B: 如来ー如来の本願(如来がー救いにー来る)−(如来様:人格化)-本願を信じれば、そのままで救われるー信心決定ー浄土教(浄土門)

 

あるがままを見る→智慧(聖道門)=そのまま・あるがままで救われる(浄土門)

 

A: 如ー智慧 -般若の智慧(働きを受ける側が働く側に身を任せ、働きの源泉を見る(見性)・源泉(般若の知慧の働き)に気づく=厳密には見て見られる・光・鏡に照らされるという感じ、あるいは、見るものは見られるもの -

B: 如来ー慈悲 -華厳の世界(働きを受ける側が働く側の働き(本願:〜悪人正機)に身を任せる=相即即入:事々無碍ですべてのことは法の働きのあらわれと「知る」・「すでに救われている」浄土の荘厳無限の感謝) -浄土教

 

智慧つまり般若の光を受けたものの、この世におけるその人自身の働きを、はたからみると、自ずから無縁の慈悲になっている。(本人は作為なし、自覚なし)

つまり般若の光は見方を変えると、慈悲の光であった。

 

メッタの瞑想をヴィパッサナのコースの最後にやるというのは悟りの後、娑婆に戻るに際し、自ずからの立場を確認するとともに、衆生済度に生きるという意味合いをシンボライズしているといえよう。

 

たしか釈迦が私をみるものは法を見る、といっていたそこに人物としてすべて(智慧と慈悲)が一体となって現れ出ていた、ということだろう。

 

追記:

*「法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るー「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.)漢訳:雑阿含経(一二六五)

 

*「比丘たちよ、たとい比丘が、わたしの和合衣の(もすそ)を執り、後より随行して、わたしの足跡を踏もうとも、もし彼が、はげしい欲望をいだき、欲望のために、激情を抱き、瞋恚をいだき、(よこし)まの思惟にかられ、放逸にして知解なく、いつまでも惑うてあるならば、彼はわたしから遠く離れてあり、またわたしは彼から遠く離れてあるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見ず、法を見ざる者はわたしを見ないからである」 『如是語経』の第九二経、『和合衣』

 

 

上のことがわかっても、いつもわかっているわけではない。(日常の行為に現れ出る、にじみ出る(無功用)、ということではない:

それが自ずからにじみ出る境地が十地経なら7→8地、心の欲するところに従って矩を超えず、の境涯。(理想)

これは人として業をもっているという構造からいって、ある意味でやむをえない。

そのことをポジティブにいうのがたとえば妙好人才市「煩悩をとらないでありがとう」、つまり、感謝できるというのは煩悩のおかげ、という境涯。ー受動的(浄土教)

禅では 趙州の「このわしが地獄に一番で行くのだ」(そして衆生を済度するのだ)、という境涯。ー能動的(禅)

 

したがって人が生きている限り、このことは永遠に働き続ける、ということになる。→無量寿仏の意味合いか?*

 

救われた(往相)→即→救う(環相) この浄土門のプロセスは聖道門の、自分が救われないで他人がすくえるか、というポイントに同じとみていいだろう。

 

*ちなみに無量寿経は浄土宗に親しいが、ウィキによるとそれは「極楽の荘厳」という意味だそうで、華厳の世界とどうもつながっているようだ。「五劫の間思惟して行を選び取り、、兆載永劫にわたり修行し、願が成就し、無量寿仏(阿弥陀仏)と成り、その仏国の名が「極楽」であると説かれている。」とのこと。

 

華厳の世界:相即即入:ジジ無礙

 

ということで最後に華厳の世界を垣間見てこのファイルをとりあえず終えたい:

 

まずNHKこころの時代での華厳思想についての竹村牧男先生の講義より

自己から世界を見る見方をひるがえして、世界から自己を見る見方をとるということです。自己は世界の無限の関係性の中で成立している自己であるとの洞察が、そこに開かれます。自己の一毛孔(いちもうく)に、世界のすべてが宿っているのです。世界のすべてに、自己は関与しているのです。この自覚が開かれたとき、おのずから関係する他者へ配慮せずにはいられない生き方が促されてくることでしょう。慈悲心と一体となった菩提心というものが、おのずから発せられてくることでしょう。』

 

次は鈴木大拙:

事事無礙観の応用とでも云うべきものを申上げて、結論と致します。人間の集団的生活はまた法界の相を宿しています。集団の構成単位は個多の事事に相応するものです。此の中の一個事に何かの変化が生ずれば、それは必ず余他の事事に影響を及ぼすにきまつています。

 

人間の集団はそれほどに緊密の聯関の上に立っているのです。大海に一つの波が動けば、如何に微小なものでも、全体に及ぶのです。』p。76仏教の大意(大拙全集7巻)

 

この辺は私の提唱したMini-companyのアイデアにつながるところであり(Results from the Heartという本にまとめてあります)、それは人間世界の共存共栄のお互いの関係を華厳の立場から書いたものです。

 

このサイトもご参考まで:http://nichigetu.b-tama.com/e_photo23.html 

(著作権云々と書いてあったのでここへの引用はしません)

 

おわりに

 

このファイルを振り返ってみると、どちらかというと理のほうから見た慈悲の話になってしまったような気がする。いろいろな表現がある中で、私なりの体験を反映させながら、できるだけ一本筋を通した見方、立場、を見出すというのがまず大事とおもったので、結果としてそうなったように思うが、慈悲については華厳との関係など、まだまだ検討したいことがあるので、(もっとも検討しきれないというのは目に見えているのではあるが)いずれ改めて調べを入れてみたい。

 

 

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