
岡村美穂子さんとの対話−4
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久しぶりの電話。最近、私は盤珪語録などを読み直していたので、それに関してのいくつかのポイントをチェックしたいというのがこの電話の趣旨だったが、、、やはり大拙は盤珪をかなり重く見ていたようだ。(大拙全集の最初の巻で、約500ページを盤珪に関して費やしているということでもそれは明らかと思う)
盤珪の件で美穂子さんが思い出していうには、あるとき柳宗悦氏が自分の戒名を自分が生きているうちにというので大拙にもらいにいったという。そこで大拙は盤珪の不生に預かって「不生院」とし、それを棟方志功氏が筆で2メートルほどの大きさのタブレットに書き上げたということ。柳氏と大拙との間には妙好人などでいろいろ交流・親交の跡が見られるが、柳氏はこの贈り物をむしょうによろこんだのだろう。
美穂子さんの山口の盤珪のお寺訪問の話しもあったが、ひとつ面白いと思ったのは例の忠臣蔵の大石蔵之助は盤珪の弟子であったらしく、大拙の住んでいた鎌倉の松ヶ丘文庫には盤珪から蔵之助への手紙があるとのこと。
いわゆる悪をそのままにしないということ。討ち入りと心の働きでる前(Mind not actingと美穂子さんはいっていた)の精神の最奥からの働き。相対・二元にでる前の絶対のもの、無分別の分別。分別を超越するもの。。。に身を投げ出すということ。なんとも言葉にならないところだ。
ここで今回の対話からすこし離れるが、大拙にこういう文がある:
「当事者はもとよりのこと、その所属のほかの人々から見ても、身を殺して仁をなすは、もとよりしかあるべきことで、何にもそれがために悲しむ要は少しもないのである。しかし人間はこんな実例を見ると、手をたたいてよろこぶことをせぬ、頭をたれて泣く、何のために泣くのか。人間仲間には悲壮という言葉がある。論理的矛盾は行為的には悲壮である。または義烈である。こんな言葉の聞かれる限り、人間は個であり、自由であり、創造的である。
封建時代には義理と人情といった。人情は個所属であり、義理は超個者である。今日ではまた別の言葉を使うであろう。言葉は時代で違うが、行為的矛盾即ち悲劇は永遠に相続する。人間は泣く為に生まれたといってよい。またこれを人間の業という。(p。40−1、鈴木大拙に学ぶ禅の智慧、人生の智慧、さらにこのもとはp。94、禅の思想:撰集1)
続いて、禅の思想、p。95にこうある
「超個者は何ゆえに個を通さなければその意志を実現できないのか。個は、個としての自由意志の所有者でありながら、何ゆえに超個者の意志を顧みなければ成らぬか。これはわからぬ。不識というよりほかない。。。。
こんな問いでは、答えられぬのが本当である。なんとなればそれは即非の論理に徹底しないところから出る問いだからである。個というものの性格が元来そういうことにできているのである。。。そのままをそのままと肯定するよりほかない。」
ついでに是も載せておく:
「良寛の兄の息子が道楽息子で困ったという話がある。兄は良寛に何か説教を、、と思って、呼んできてご馳走をした。ところが良寛は何も言わなかった。。。
良寛が帰ろうとしてわらじの紐を結んでいたとき、その息子が結ぶのを手伝いにでてきた。そのとき良寛が泣いたというのだ。、、、そしてそのままいってしまたという話がある。これが「すべてを知るはすべてをゆるす」だ。良寛のそういう態度に打たれて、その道楽息子は心を改めたという。
聖書にも「イエス涙を流し給う」(ヨハネ伝11−35)という一節があるが、人間のぎりぎりの真実はしばしば涙でしか表現しえない。
涙は物言わぬ言葉というべきか、その一掬の涙のうちにこそ、主客未分の絶対の境涯がある。
自分がそうしたいからといってそのままに施すことは出来ないのだ。その辺は良く考えねばならぬ。つまり、誰かが特定の境遇に身をおいてどうかなったとする。自分も同じ境遇におかれれば、そうなるだろうと思えば、人を責めることは出来なくなる。何もいえなくなってしまう。それなら黙っているかというと黙ってもいられない。しかししゃべってはいけないのだ。しゃべれないのだ。そういう人情のあふれるところが、良寛の涙になったといえよう。偉大だ、、、」
(p。79−80、鈴木大拙に学ぶ禅の智慧、人生の智慧)
(ところでもう十数年も前、「釈迦は涙を流したか」という公案を私自身に課したことがある。この問いを大きく括って、「絶体絶命にいかに対処するか」、でもいいが、大なり小なり、そういう場面はいろいろとあるものである。)
。。。(引用はその辺にして、話を先にすすめる。)。。。
無分別の分別(無意識の意識)ということで、、(是が悟りであるが)、、、大拙と美穂子さんとこういうやり取りがあったという。
大拙、テーブルをたたいて美穂子さんに聞く:今、音を聞いたか?
美穂子さん(M):はい。
大拙(D):どこで聞いたか?
M:。。。体全体で。
D:宇宙全体が聞いたのだ。それがTotality of absolute experience(絶対の体験)だ。
是を聞いて笑いながら私:No distinction, no boundaryだね。
M:そうそう
私:華厳のジジ無礙だ!
M:それそれ。無一物。本来もともとなにもないんだ。(大拙)
上の二人の会話は最近、文芸春秋に5回に分けて連載したということ。(後で私に送ってくれるとのこと)
。。。
次に禅体験の現れ方というので、まず私のヴィパッサナの体験、大拙そのほかの本にあった記述などの類似性を説明し、前に聞いた美穂子さんのいう「Touching live wire」(裸電線にさわるような感じ)という言葉を引用し、大拙はなにかそれらしいことを言っていたかと聞く。
美穂子さん:結局、Touching the basic force(根源の働きにふれる)ということで、大拙の場合は「そこ」から離れたことはまったく(一時も)なかった。
それとこういう話もしてくれた:
あるとき、美穂子さんの腕の下側の柔らかいところを大拙につねられた。
「Ouch! It hurts!,あー痛い」というと、、、
大拙:「Where did it come from?その音、いったいどこから出てきたんだ?」
「その音を、どこで聞いた?」
宇宙がその音を聞いたのだ。。。というわけだ。
それでピカソの言葉を私が言う:「なぜみんな私に芸術とは何かと聞くのだ?なぜあの鳥の声をきかないのか?」
すると、美穂子さん:大拙ならそうは言わないで、「なぜ鳥にならないのか」というだろう。
(ところで、これは美穂子さんに言わなかったが、ピカソにこういう言葉もある:Painting is stronger than I am. It makes me do what it wants. つまり「絵を描くというのは私以上のはたらきによるものなのだ。「それ」はそれのしたいことを私にさせるのだ。」
つまり彼と彼の根源の働きとの接点に火花が散り、創造性の働きが絵という媒体を通してほとばしったというわけだと思う。私の見る限り、ピカソはいわゆる禅の「修業」をせずに禅を生きていたとみえるのだ。ちなみに、これらピカソの言葉などは英語だが私の英語のHPにのせてある。)
私:「時代が変わると、特に最近は論理主導の人が増えて、前回話した根本のところについての疑問を持つ人が少なくなっているように思うが、、、」
美穂子さん:大拙は「ほっておけ。やるべきことをやればいいし、細かなところに気を使うより、もっと大きいところをみればよい。世界は広いのだ。働くべき場所はいくらもある。」といっていたとのこと。
最後に私が大変ありがたいと思っていることに、次のことがあると言った:「彼が、宗派を超え、たとえば盤珪、道元、臨済、親鸞、才市、エックハルト、などなど、いろいろな方面から調べを進めてくれたということ。それはあたかも影の部分がないよう全体像がにじみ出るような大仕事だったのであり、ほかにそういうことをした人はちょっといないように思う。大変ありがたく思っている。」
美穂子さん:「最後の仕事は親鸞の教行信証で、真宗とか禅宗というのでなく釈迦が教えたことを大拙もやったのでしょう。いろいろ宗派があるというのは小道具が違うといったもの。あるいはそのときの言葉の意味あいの違いなどがでてくるのでしょうが基本は同じ、ということなのでしょう。」
あいかわらずの楽しい時間であった。
ありがとう美穂子さん、大拙さん。。。根っこの働き!
感謝、祈り、感謝、祈り!
今回は真宗に絞って例によって一時間以上も電話でお話をしたのでその内容をここにまとめておく:
前日、海野ご夫妻(大徹さんとアリスさん)とお会いしたので、その旨ご連絡。海野大徹さんは仏教の海外での普及に寄与したというので仏教伝道文化賞をもらっている人で英語で本(特に真宗関係)もいろいろ出しています。ご夫妻とは何度か日本であったとの事。子供のマークさんも2−3回会ったというが別に特筆するような思い出はないようだった。:別途HPにご夫妻との出会いについてのファイルを載せてあります。(大変有難いとともに勉強にもなりました):http://www.geocities.jp/suzakicojp/unno.html
この一月ほど、ミチオさんという人と掲示板で会って、真宗での「体験」にかかわる話とか禅と真宗の位置づけなどについて対話していたのだが、微妙なところもあり、大拙における真と禅との融合(受け止め方。消化のされかた)、、とでも言うような面からいろいろと話をした。
話は妙好人から始まるわけだが、かなりの部分はこれまでに調べてきたことの確認の意味あいだった。ただここに特筆すべきものとしては、
―妙好人は真宗のお寺(→本願寺)では異端と見なされていた(Not accepted)とのこと。その理由はお寺は世襲性であり、官僚的でもあるということらしい。(現在もそうかどうかは聞いてない)
―そもそも妙好人を再発見し、世に出したのが大拙ということなので、お寺などでのお経の受け止め方、教理、方向付けなどというものは押して知るべし、というところだろう。
―(ところで大拙による盤珪の(再)発見というのも妙好人における場合と似たような意味があり、これは前回の美穂子さんとの会話でも出たところだが、こういうのは固定観念で固まっている頭では気づくべきものに気づかない、ということだろう。大拙がどこの宗派、派閥とでもいうものに依存しないという自在性とでも言うものが彼の智慧の光を更に透徹なものとしたということではないかと思う。もちろん、これは本来そうあるべき(智慧というものの意味合い)なのであえて言うことではないのだが。。。)
―サンタモニカの真宗のお寺(西本願寺系らしい)で最近、本を借りてきたけど他の英訳はあったが、大拙の教行信証を英訳したものはなかったようだ、といったら、東本願寺は大谷大学(大拙が教鞭をとっていたところ)だから英訳があるだろうが、西本願寺にはないのだ、ということ。(まあ、聞いてびっくり、宗教のエゴ、つまり、私は「知っている」、あなたは「知らない」、、→境をつくるということ、は大分根が深いのだろう。)
―次のものは美穂子さんからの言葉:「百万遍の念仏、しかし念仏は一回でいいんです」「それが本当に飛躍するということ、つまり横跳(おうちょう)」「それが悟り」「相対から絶対に飛ぶ、ということ」
(これが目ざめ、禅でいう見性(〜悟り)につながるのだろう。ところで美穂子さんのこういう言葉はチェックは受け止める側で必要だが、こういうのはそのまま大拙の言葉と受け取っていいとおもっている。つまり私は長いことお話してそう感じているということ。)
―「妙好人はSaintly(信仰深く、聖者というようなもの)であり、Pure(純粋)、Enlightened(悟っている)」「親鸞の信心決定は悟り」
(ここの悟っている、という悟りの意味は真宗の人には、おそらくそうは受け取られないだろうが、、、つまり、悟りというと釈迦の悟り(アノクタラサンミャクサンボダイ)、、のみを思うのであろう、、、禅者で「悟った」といって独善・高慢になるものがいるので私は真宗の見方がよい(正しい)と思う。これは又、「十地経を読む」というファイルに載せたが、禅の悟りは初歓喜地程度のものと思う:http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html さらに、これも参照まで:http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html )
―岡村さん:「百万遍念仏しろ、の意味は瞑想の意味だろう」
(念のためこれ↓をネットで見つけました:
法然と親鸞は他力本願では同じですが、法然は阿弥陀さんの本願にすがるには百万遍の自力が必要だと主張し、親鸞は阿弥陀さんの本願にすがるには、回数でなく、1回にこめるから真心がこもると主張しています。法然は自力から他力を「あみだ」し、親鸞は百万遍を「1回」に短縮したということです。)
―岡村さん:「農民など一般の人はお寺に行って坐禅する時間もない。だから念仏は一般の人への方便とも言える。」
(上の百万遍の念仏の意味あいは動中の工夫にあわせてみると、良いかもしれません。つまり日常の生活そのもの(→すべて)が修業であり、そのままに道を証するべしということ。→行住坐臥すべて禅。私の言葉では「こつこつたんたん」)
―岡村さん:「大拙は『親鸞は教行信証など、随分しちめんどくさいものを書いたものだ』といっていた」
(最近、数十ページばかり読み始めたのだが、確かにそんな感じがする。私は大拙を通して、妙好人の言動を、いわば公案のように受け取っていたので、教義などはある意味で後付けだとかんじていた。つまり、才市だかが言った「そこ(お経)には阿弥陀がわしを救うとかいてある」というその一言ですべてが言い尽くされている様に思う。
ただし親鸞はいろいろな知識があるし、お経との整合性とか、根拠など「抜け」がないように、いろいろな方向からチェックしたという感じがする。
*念のため:「しちめんどくさい」というコメントで大拙は真宗をないがしろにしたように見えるかもしれないが、あくまでも美穂子さんだからそういったのだろう。そもそも彼は95歳ぐらいで老体に鞭打って教行信証を英訳したのです。彼が真宗を認めていなければそんな仕事はしないでしょう。
―岡村さん:「『救われている』で十分。ただし人によっては(知的好奇心を満足させる為に)小道具がいるということでしょう。 『いいお天気!』だけでも十分。」
―岡村さん:「大拙の晩年は真宗というより華厳。宇宙全部のジジ無礙、関係やつながり(の妙)。」
(私の本、Results from the Heartは華厳を経営の根本原理にということで、私なりに大拙の願いにこたえたもの。聖武天皇のころの(華厳→)東大寺建立と国を治めるという意味あいにもにているかもしれない)
―岡村さん:「大拙は『ありがたい』より『妙用』『面白い』をよく言っていた。」
NZにもうすぐいくということもあり、久しぶりに電話でお話をした。不思議なことに今回は殆ど日本語。こんなことは始めて。
送っていただいた文芸春秋の本の話という美穂子さんの書いたものの話から始まって、ミチオさんの話、禅と真宗の話、妙好人の話、オバマ大統領の話など、例によって40分ほども話しただろうか。微妙な話ばっかりでここに簡単にまとめるということは難しいが、、、一言で言えば、確認の意味あいが強かったようだ。
でだしは大拙の禅から真宗へという体験のはなし。これは秋月氏の本で読んだ、大拙の大悟から大悲へというような道もふまえ、禅から真宗・妙好人の発見云々、と言う道のりになぞえてみると、わかるな、というもの。禅の「知」重視の傾向、そして高慢・独善などの欠点、と真宗の情、大悲、わるくいえば知の欠如、、と言うようなものについても話をした。
大拙自身は広く、深くと言う感じがあるのはもちろんだが、美穂子さんは彼女自身について知の傾向が強いと自分のことを言っていた。それとミチオさんのみる禅(の欠点)という話に絡んで、彼の背景(牡丹餅、悟りの見方、云々)なども色々話したが、禅に限らず真宗でも、高慢、、と言う例はあるようで、結局は人によるというような見方をされていた。これにからんで、ミチオさんは教団など相手にするな、と言う意味あいのことを言っていたといったら、そうだろう、、大拙も(美穂子さんも)にたようなもので、そういうところに属するということに疑問を感じているようだ。結局は個人個人のことでもあり、そこに自在性をみているということかとも思う。
同じような意味あいで、教義も所詮は後付け、というのはそのとうりということ。
真宗の悟りの見方については、(そのまえに東と西本願寺、妙好人、、、についても色々話したが、それはそれとして)真宗は往生して、、ということで現生での悟りを認めないわけだが、一方無量、無限の光明は娑婆を照らすという例の大拙の見方、、つまり(悟りにおいて)娑婆がそのまま浄土になる、、という意味あいのことを美穂子さんも感じ取っていたようだ。
それにからんで私は正信偈の「煩悩を断ぜずして涅槃をうる」という一文をだして、話をしたのだが、つまり、この文を現代語訳では、「浄土に生まれて」悟りを得る、と言うように訳していると話したわけだ。つまりこれは死後、、と言う方便的な意味あいがあり、訳がおかしいのではないかというところ。この辺はミチオさんもまだ私の言うことがピンと来ないということかもしれないが、要はそれはそれとしてということだろう。
この辺は大拙の大智・大悲の掘り下げ、とでも言うところに絡んで、あれこれいうのは大事であり興味深いと私は思うが、微妙であり、畢竟個人個人の問題なので、あまりがたがたいってもしょうもないところだろう。美穂子さんは禅は真宗、真宗は禅を、、「知る」べしといっていたが、そのとうりと思う。名号は禅の公案であり、真宗における悟りの意味あいがどうかということもあり、その辺のつなぎがどうかというのは、(ある意味残念ではあるが)言葉でああだこうだいってもまああまり意味がない、と言うことだろう。
そういえば美穂子さんは梵天勧請についてふれていた。(つまり話せないことをいかに話すかと言うことに関しての微妙なところ)
そういえば真宗はイスラムやキリスト教とおなじ一神教だろうと、、つまり神に対して、、と言う意味あいのこともいっていたが、いいわるいはあれこれいえても、結局は受け取り方の問題と思う。信心についても、真宗で形だけの信心と言うのがあるようであり、なんにしてもおなじ。つまり禅なら形だけの坐禅もある。中身がどうかが問題と言うわけだ。そして究極のところにいたるには疑問、これがないとどうしようもない、というのが美穂子さんの考え。
(大拙は苦手の人が来るといつのまにかいなくなるという話が書いてあったが、水の流れる如く生き、そして、外は広く奥は深い、という彼の見方。ピンとくるところで、ゆかいでもあるのだが、それでいてやるべきことはやって置く、という芯のある一生。。。それを思うといつもながら頭が下がる。。のです)
オバマ大統領について
というところで話をかえて、ノーベル賞のスピーチにからめてオバマの話をだしてみたのだが、彼女もやはりかなり感じるところがあったらしい。大拙がいきていたら、同じようにオバマになにか重大な物を感じただろう、と言う意味のことを言っていた。
オバマは仏教がわかっている、と言う意味あいのことさえ美穂子さんはいっていたが、、、実践的と言う意味あい、いい意味で流動的、そして、これは話さなかったがおそらく慈悲、、、大智大悲を感じたのだろう。
私は今回スピーチを聞いていても、ときおり涙が出るのだが、、どんどん掘り下げたところからでてくる言葉、、、存在の根源からわいてくる言葉とでもいうようなそれは、、ことばというものが実体そのものではないにしても、、、不思議な、、琴瑟相和す、、とでもいうか、、大変な力を持っているものだと思う。
大拙は、「そこ」にふれた(ふれつづけた)からこそ、ああいうふうに一生をまっとうした、ということなのだろう。
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