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はじめに
私の半生を振り返ってみると、どういうわけかあまり仕事をしたという感じはないが、このところ仕事関係で頭を使うというより、サーフィンをしたり、スケートボード、ヨガ、ダイビングやテニスをして毎日、体を使う生活をしている。年を取って自然とそういうことに興味がわいてきたということだろうか。子供のころの遊び三昧の郷愁か、馬鹿のくつろぎのありがたさの確認のためか、徹底的に体から生きてみたいという興味か、理由は良くわからない。
ただ、それらの行為をあたかも第三者のように振り返ってみると、道を歩む・生き生きと生きる(全機現、智慧の発現、ツキ、ウン、直観、など)という事に付いての洞察が深まるようでもある。
頭をうまく使うこと、体をうまく使うこと、そして頭と体を上手くバランスをとって(ここに不思議な回互関係がある)使うこと。これらの事柄は道、あるいは中道(究極的には大智、大悲と生き生きの生)と不思議なつながりがあると思う。心身一如、全機現あるいは意識―無意識の連携などの意味合いを知り、つまり「汝自身を知り」、しかるべく生きるための役に立てばと思うところである。
ここに載せたものは2007年夏に、ヤフー掲示版、創造性のトピに載せたもののコピーです。(一部編集してあります)
2007年10月10日
洲崎清記
サーフィンにしろなんにしろ、いわゆる「道」(Tao)と言うのはいわば木が伸びるがごとく、オポチュニティーとそれに対する技量・エネルギーのハーモニーにより形、伸び、生き生き度が決まっていくもののように思える。
無論、これは無常のあらわれ(⇒応無所住而生其心・自在性のあらわれ)であり、一方、自己組織性がその基盤にある。
法にそった生き方、行き方、がいかに、というわけだが、これがなかなかわからないのが妙であり、おもしろ・難しいところだ。絶体絶命→智慧の発現がいかに、ということ。
剣道、弓道、茶道、いけばな、詩・俳句、芸術、などなどに共通のものがあり、禅の修業(ー証)もそこにつながる。(経営道に付いても、人と人のふれあい道に付いても、というところがあるがとりあえずそれも推して知るべしである。)
言わばゼロベースで基盤を確認し、生き生きエネルギーの発散・展開がしかるべく法に見合ったもので、そこにおける働きが周りの状況といかに上手く融合(⇒生き生き)しているかと言うようなものだろう。
状況判断、智慧の発現、生き生き度の確認、バイオフィードバックのような道(あるいは中道)の歩み方(木の場合なら枝ぶりなど)いかに、というわけだ。
先日近くの海でダイブしていて、こういう体験があった。
ケルプの林の周りをうろうろ、あるいはケルプに隠れてスピアで魚を狙うわけだが、なるだけ音を立てないように、あたかもケルプの一部になったようにしているのがいいわけだ。そのとき息もしずかに。シュノーケルだと、ときおり水をはいたりするのだがその回数も減らし、シュノーケルの中にはいった水が立てる音も減らすのがよいと思う。息をするのに、吸う、はく、吸う、はくと成るわけだが、なるだけ自然に連続的にこれをおこなうのが効率よく、自然、つまり法にのっとっているのだろう。
また、その日の午後、友達とテニスをしているとき、こう思った。
1)試合が佳境に入って、あるいはきつく成ると、息が荒くなる。そのときいかに心身のコントロールをするかが、ひとつ課題と成る。
2)一方、前に調べた沢庵の「不動智神妙録」に「溶けた心」の話しがあった。それはことをなすのに心をとめないということ。(→無心、自在)
ここで、1)と2)をくっつけると、息は自然に。また心をとめない、ということは、息はヨガをするときに常に(自然に)し続けるというのと同じように、テニスにおいても、試合はそれとして、息を自然にし続けるということに成る。(→いわば絶対矛盾の自己同一:人為は人為、無為は無為)さもないと、息が止まる・止める→作為→自在性が失われる、である。
これは又、坐禅(ヴィパッサナ)している時も同じ。無理に長くとか、しないで、自然(→自ずから然り)に、というわけだ。
大拙の息が非常に長く静か、と岡村美穂子さんは言っていた。これはエネルギー効率がよく、いわば全機現に対応(→道(法)にそっている)していると思う。ヴィパッサナでも常に(四六時中)息の感触に気づいている(Awareness)ことを言う。これをさらに拡大すれば、心身の様子(不随意・無意識の働き)を知覚しているということ。
これらのことを総合的に見ると、ダイブでもテニスでも、坐禅(静中の工夫)でも、日常一般(動中の工夫)でも、息に(→無意識の働きに)気づいておれ(→無意識の意識:鏡の心)、ということに成る。また、これは息だけでなく、心身全体の今此処のありように、気づいておれ(→全機現)ということだ。。。というのも、道を進む、ということは全機現・自己組織性(智慧)の働き(→生き生き)に密着したことだからである。
気づき
>心身の今此処のありように、気づいておれ(→全機現)ということだ。
といったが、今此処のありようというのはそう言うものを気づいていたらそれは気づいていないということ、あるいは自然に息をするというのは、自然に息をしていると気づいている状態ではありえない。というのもそのときには(その状態をチェックしようと言う)作為・人為がはいっているから。(つまり意識からのひずみがある)
これはどういうことかというと、努力しない努力をするというに等しい。只管といってもいいし、ただ、あるがまま、でもいいし、他力でもいい。今に徹するでもいい。とにかく意識をはずして、無心、自在、応無所住而生其心だ。「それ」(その心身的境地)が未知の、不思議の、智慧の扉を開くのである。
これを難しい?言葉で言うと、般若即非の論理。気づきは気づきでない、それが気づきだ、というわけだ。こっちを(ほとけの家に)投げ出して、むこうから(自然に)ひっくり返るのである。
(*ところで、息が、あるいは体の知覚が、定・慧の(つまり道を切り開く)鍵を握っているというのは、私のいろいろな体験からみてもよくあたっていると思う。チョッと考えると「そんなことあるかいな」と思えるかもしれないが、気づき・智慧というのはもともと考えている範囲の外から来るということに気づけば、すくなくともある程度はこのポイントは納得できるものと思う。無意識の意識とか無分別の分別というのは、定慧もふくめて、なんだか難しい形而上学の言葉にように思われるかもしれないが、はやいはなし、このポイントをしめしているわけだ。心が溶けていると(沢庵:不動神妙智)、意識の範疇の外の情報まで感じ取ることができ、そのおかげで道、つまり、なすべきこと、が見つかりやすいといってもいいだろう。)
投げ出す→自ずから然り
そこで、この「努力しない努力をする」つまり自己・我を「投げ出す」事がうまく出来ないときどうするかだが、それは坐禅でも名号でも(修業をしろ)ということになる。今まで培ってできた(作為の)癖をどう料理するかという事なので、参考できるものは参考に、いってみれば名人のコツをぬすむというようなものだ。
ここで熱意がどうかというのはもちろんだ。反復に反復を重ねてできた(悪い)癖は逆によい薫陶などを含め、ただしいことの反復をせよ、というわけだ。なにせ人為を越えての話しなので、自ずから然りが鍵なのだ。
それでこれが言わば天命にしたがってうまく行くと、「目覚め」・「気づき」がある。すると、当たり前が当たり前とわかるのだ。(いわば木がすくすく・生き生きと育つのである。)
素直になろうというのでなく、あるいはつべこべ言うのでなく、気づいたら素直の行いをしていたというようなものだ。また意識体系もそれにしたがって整理整頓されていくということだ。つまり、言葉の使い方が智慧を基にして「うまく」(ただしく)なるということ、および「そこ」における状況が上手く読めるということと思う。これが内と外、無意識と意識、あなたと私の連絡が法に従って「うまく行く」ということだ。
意識と煩悩は切り離せないようなので、(つまり言葉を使うことによるいろいろな行き違いがあるということ)このプロセスはわれわれの意識が働く限り続くものとなる。(→釈迦も達磨も修行中)また、社会の中での行いや身体の使い方のいい悪いも、全機現に向かっていわば進化が進む(法にのっとって道が開ける)ということに成るのだろう。
進化といったが、もっと卑近な例として、例えば木が育つというのは、いわばその時々の状況にあわせ道を歩んだその試行錯誤のありさまをバイオフィードバックして、さらにいろいろな展開を進めるということ。言ってみれば生きるということの原型がそこに見られる。生きるものとしての問題は、突き詰めれば、生き生き度、全機現がどうか、しかるべく(法にそって)生きているかということだ。
人の場合も、胸のわくわく、というような言葉に表されるように、生き生きの度合いがどうかであろう。(というのもその瞬間瞬間でしか生きられないのであるから。)育つということ、あるいは育つ可能性をどうとらえるのかということ、これはサーフィン、テニス、ダイブなどのほか、仕事のやりかたや呼吸の仕方、細胞の働きにいたるまで、あたかも木のえだぶりがどうか、そして根っこや全体のバランスをたもつ新陳代謝のようすまで、どうなのか(どう法にそっているのか)と言うこと。
そこでこれを意識でまとめてどうこうすると言ったらきりないので、(それはそれとして悪くはないが)他力、自ずから然り、無意識の意識、が登場するわけだ。(もともとそうなっているのだから)
これの機構が「わかって」いて、名人が当たり前のことを当たり前にするごとく、しかるべく対処できるか、というのが妙(→人生妙なり)なわけだ。(なぜ妙かと言うと、人知を超えているから。)
それを一言で言うなら、至道無難の「生きながら死人となりてなり果てて、思いのままにするわざぞよき」である。
道にからんで、好きと言う事に付いて考えを進めたい。両者はあたかも全然関係ないトピックのようであるが、例によって元のところは一緒!というのはすぐにわかると思う。
はじめに
生き生きと生きるうえで、「好き」、というのは非常に面白い見所と思う。「いのち」の好き、という言葉は故中山正和さんの言ったところであるが、この「好き」と言うのが「わかり」、その働きをうまく活用すると、それこそ生き生きの「いのち」がその人の生き様に、溌剌とすると思うのである。(「思う」というか、体験からそういっているので、わたしはそう「信じている」あるいは、そう「確信」しているということ)
また、この「溌剌さ」は周りまで浸透して、周りの、あるいは組織の、社会の「生き生き」に貢献すると思うのである。(たとえていえば同好会)
ただしそこで注意すべきは、この「好き」は天(法)の道に沿ったものであるということ。いわゆる欲、執着と言うようなものとは似て非なるものである。
ひとつ、わかりやすい例を出すなら、子供の遊び心、といったものだろう。「そのとき」本人は遊ぶという観念さえない。ただ無心に遊ぶのである。そしてそれがそのまま、その子供の生き生きとつながっている。だから「好き」=無心=生き生き、の構図がそこに見られる。
これを別の言葉で説明すると、「好き」は「目的=手段」の時、その行為が現れる、といえるだろう。なになにをするのが好きと言うのでいいのだが、「そのとき」はその人も対象もひとつ、つまり無我の境地ということ。又これを別の言葉で言うと、そのとき天(法)の道が現成しているということだ。
ところで、あと2ヶ月、10月になるとスペインに行って何か講演しろといわれてる。創造性とか顧客の満足と言うようなものと企業の経営について聞きたいというわけだが、思うに、ここで言う「好き」の話しをもとにするのがいいんじゃないかと思う。
そして企業の経営と個々人の好きがマッチするなら、こんないいことはない。又私が従前から話したMini-Company(⇒自己管理・企業管理)の話しも、ぴったりだろう。
私の「好き」なことを話してそれが聴く人の「好き」につながり、会社経営、創造性、顧客指向などというのと上手く(自ずから)マッチすればこりゃあ最高というわけだ。→そう、これが人を動かそうと思わずにうごかせるリーダーシップでもあろう。というのも人のエネルギーのもとを確認し、それに従って個々人で又、組織で智慧を出して行こうというわけだ。自己管理や適材適所なんというのも、その智慧の表れだろう。
簡単にいうと、かって息子に「おまえの好きなことを知れ、そしてそれが社会のニーズにマッチするようなものであれ、」といったけど、仕事での使命(Mission)が、その人の行き方の好きとマッチしているということ、これが「成功」の鍵、と思うのである。これが見出されれば、(道を見出すというのにつながるが)心身に歪なく、いわば八正道の正命、か正業としての道が切り開かれると思うのである。(詳しくは私のMini−companyのアイデア参照(英語です):http://www.geocities.jp/suzakicojp/Mini-companyQA.html )
というところで、基本概念:
まず、「いのち」があって、
そこに現れる「いのち」の働きの方向性を「好き」と仮に呼ぶ。
これは過去の因縁によってできたもので、親⇒子供へと、それまでに見出された体験・智慧の「刷り込み」が元になっている。つまりわれわれの小さいときの親からの刷り込みが好き・嫌いのある方向性を示しているというわけ。(→これはDNAのさらに上の階層といっておこう。ところで、一番上は意識と見ておく。)
たとえて言えば、うちの息子は本を読むのが好きだが、それは彼が小さいとき私が本を読んで楽しんでいたのを肌でかんじて(刷り込み)そうなったというようなものだろう。これは心に深層の「癖」というようなものなので、よいにしろ悪いにしろあとでかえるというのはなかなかの事でない。
だから、私は彼に、こういったわけだ。
「おまえの好きなことをみいだせ。そしてそれが社会にやくだつものであれ!」そういう仕事を見つけられたら、我々一人一人に与えられている人生の公案:「お前にはお前ではなくてはならん任務がある」に結びつくだろう。
好き=情報が既に(心の深層部:阿頼耶識に)入っている=コンピューターならOSみたいなものでこれを基にした情報の処理がすばやい=長持ちするー飽きない=熱意がある=失敗してもこたえない=智慧がわいてくる、、、というような構図だ。
ただし悪い親もたくさんいるだろうから、法によるチェック(⇒定慧)を怠ってはならない。(けれどこれがいや、という刷り込みもあるから、話しは一筋縄ではいかない⇒リーダーシップ、熱意、論理による説明、など)まあ、進化というのはそういうものなのだろうな。
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「好き」は法にそったものであるべきということ。(←戒定慧)
これは、周りのニーズ(状況)にあって、かつ内のシーズ(好き、才能)にもあうというようなもの。これが進むべき道だろう。
「好きなら才能・潜在能力の花が開く」(好きこそものの上手なれ)、である。
「花が開くなら、まわりもうれしい」、だ。
「好き」なら、エネルギーが沸いてくるし、困難にあってもちょっとやそっとではめげない、だから持続する、アイデアがわく、というのはあきらかであろう。いい事づくめなわけだ。
ということで事例を上げて調べてみたい。
(→私が掲示版にいろんなことを書き続けているのも、まあそうするのが好きだからだろうね。周りに役に立っているかどうかは、とりあえず問わない。)
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もうひとつ、事例の前に、(忘れないようにここに書きとめておきます)
好きこそもののじょうずなれ、のほかに「上手」になる方法がある。
それは厳しい、絶体絶命を通り抜けること。いわば、そこでの、「たたけよ。されば、開かれん」の体験だ。
禅における喝、棒の例もあるが、変な例では戦争、剣。。。。における絶体絶命の境地がいろいろな工夫を生むということ。是に付いては後ほどこの問題に戻ってさらに調べることとしたい。
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いろんな人がいる。仕事が好き、人助けが好き、女性が好き、落語が好き、本を読むのが好き、科学が好き、スポーツが好き、娯楽が好き、お金儲けが好き、旅行が好き、カメラが好き、絵が好き、泥棒が好き、何にもしないのが好き、などなど。ことによったら苦しむのが好きとか言うのもあるかもしれない。
何でそうなったかは、それぞれの人の背景から異なってくるだろう。でもここでいう「好き」は、結果も大事かもしれないが、あたかも子供が無心に遊ぶように、その経過そのものが「好き」というふうに見たい。それをする事が好き、夢中になれる→三昧というわけ。
ここで三昧は無心、あるいは我を忘れてそのことに没頭する、とほぼ同義と見ていいと思う。
脳生理学的には「そこ」でなにが起こっているか、いろいろあると思うが、(ドーパミン、A−10神経ー快楽神経、など)それはとりあえず此処では言及しない。
ところで、応無所住而生其心、あるいは沢庵の「溶けた心」、南泉の「太虚の廓然として洞豁なるが如し」というのもあるが、これも三昧・無心・無我とほぼ同義と見てよいと思う。要は同じものでも何に主眼を置くかによって表現に違いがでてくるとみれるのだ。
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三昧、無心、いのちの好き、などと関係した言葉に「大用現前軌則を存ぜず」というのがある。一休さんが頭に浮かぶのだが、このを軌則を存ぜず、というのは、なにか私の性格とあうのだ。(たちがわるいのかな?)
悪い意味では、既存の規則、しきたりをすぐには真に受けない、(疑う)というのがある。これをいい(?)意味で言うと、一回否定する、と言うこと。なにかを創造するのが面白い、というのがある。ことによると、子供が何で?と聴くとか、何でも反抗する、というのは此処へのつながりがるのだろう。
すると、、、生命の原点は、そして創造性の原点は、この、何かにぶつかったら、なんでもひっくり返していくその過程にある、とも言えるようだ。
(私の既に書いたものを読んだ人はおわかりとおもうが)悩みをひっくり返す(⇒安心)というのも、こいつからきているのだよね。
となると、、、
(是が定慧とつながるのだが)
いのちの好きの上(層)の好きぐらいは、(理論的には)かえられる(つまり法に基づいて正すことができる)ということになるね。
つまり、理からせめて、、、最後のところは、
行で定慧の働きを見るということになる。
(是が中道と結びつくと思う。つまり定慧→戒、戒→定慧のいったりきたり、あるいは円環運動なのだ。)
==
ここいらで「周り」の好きに我々が影響を受けるという点に付いて考えてみよう。
親から、あるいは周りからの薫陶は(HBCでは)インプリント(脳へのすりこみ)で、いわばこころの深層に入った「好き」・「癖」といったもので、是は、ほとんど人の考え・論理にのらない分野のはなしだ。医者の子は医者、泥棒の子は泥棒(反対の例では親の言うことを子供は聞かない)といったものである。
我々が育つ過程のみならず、例えば大人になっても周りがサッカーファンあるいはサーフィンファンだったら、私もそうなる可能性が高いというのもある。(進化という面から見ても、よさそうなものにくっついていくというのは、効率がいい場合が多いという経験則があるのだろう)
だから、そのような「好き」は個人的には、本能的ななにか、もっと深い所では「いのち」の好き→生き生きと活きたい:全機現、につながっているのだろう。いわば、ねらいは資源の有効活用→生き生きの生である。
ただし、人の世に生きるには、動物ではないのだから社会性のチェック(つまり周りに迷惑かけるかどうかということ→社会の全機現)を進めるというのが智慧というものだろう。
ここに個人の好きと社会(つまり家族、隣人ないし会社や国でもいい)の好きのすり合わせ、というのがでてくる。動物の場合は自然の法そのもの(→無為)ですりあわせがおこなわれるが、人間の場合はそれとともに、人為の工夫(例えば法規、約束など、人の論理)が入ってくる。
そこにギャップがあると、(是はあるにきまっているのだが)工夫しないとどこかが(社会の、あるいは個人の健全な働きという点から見て)おかしくなるというわけだ。(⇒歪がうまれるというわけ。これは、ほおっておくと体・「いのち」によくないということにもなる。)
だから工夫をすすめるということは、いわば創造・進化の過程そのもの、と言うようなもので、社会の活動(⇒全機現)を進めるには、そして個人の全機現を進めるには、避けて通れない所というわけだ。
==
ここで、個人の悟り、知慧の発現の原理:戒定慧を社会のそれ、に写して考えてみる。
卑近な例が同好会。すき物同士が集まって、あれやこれや、三昧・定・無心→楽しい、自在、→それではこうしようか、とアイデアが生まれ、みんなワイガヤ、で次なる方向が決まっていく。
これを組織でやるのが、私の考えたMini−Companyのアイデア。(どうやら松下さんも似たような事を考えたらしい。)そういえば本田のワイガヤ、アイデアコンテスト、もある意味では似たようなものだ。
ただ、そこでの鍵は人。熱意、(松下さん:まず成功すると思うこと)興味、そしていろいろな人の技量、過去のいろいろの体験などをもとにアイデアがわいてくるような「場」を作るのが大事ということ。
つまり料理と同じで、材料を上手くそろえ、(もちろん、お客さんの腹具合、何がほしいのか、云々も、「考慮」し)発想を豊かに、すべてが全機するような方向・アイデアを見出す(→アイデアはむこうから歩いてくる)。
(そういえば本を書く、絵を描く、映画をつくる、サーフィンする、経営戦略を作る、政治家がリーダーシップをはたらかす、というのもにたようなもの。というのも、創造の原理!はおなじだものね!)
(そう、思い起こせば、これが8年ぐらい前であろうか、生前の中山さんとの話しのひとつの焦点であった。。。。)
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