ミチオさんとの対話

 

- 真宗(他力)によるミチオさんの「宗教体験」、禅との比較など -

 

 

     HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または

http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html

 

 

 

はじめに. 1

出会い:父王よ、. 2

やはりそういうことか?. 5

棚から牡丹餅. 6

生い立ち・いきさつ. 8

妙好人 鈴木大拙 清澤満之. 11

阿弥陀仏の力. 14

求道と信心. 15

まとめ. 21

 

付録:素直と謙虚について. 22

ヤスパース、アウグスティヌス、親鸞、道元. 22

トーマス・マートン. 26

父王よ、. 29

参考資料:. 30

 

はじめに

 

インターネットは時として、意外なことに遭遇する機会を与えてくれることがあり、まことに不思議・ありがたい、思いをすることがある。私は日本のヤフーの掲示板にこれまで6年ほどもトピを作って投稿をしたり、周りの掲示板もみてきたが、あるときさりげない投稿が目に付いた。この投稿を読んで、私は、おもわず「むむ、、!」っといったぐあい。かなり深い「宗教体験」をしていなければそういう投稿はしないだろう、と驚いたのだが、その後、話を聞いて、やはり、そうかと言うことになった。

 

その投稿主はミチオさん(M)。真宗で「救われた」宗教体験をした持ち主ということがわかった。私も同じようなありがたい体験をしているので、妙好人のトピでいろいろ話を聞き、意見の交換をしたので、その内容をここにまとめておく。

 

ちなみにミチオ氏は現在61歳。私と同じ年。彼の体験は37歳のときとのこと。(私の体験―これは真宗ではなく、ヴィパッサナと禅によるもの―については別途HPに載せてある。)

 

ここにまとめたものがここを訪れた人の参考にでもなれば幸いとするものです。

 

                              2009921日 洲崎 清記

 

 

出会い:父王よ、

 

 

父王よ、
今はただ静かに座して念仏してください。
それは念をはなれて無念を求めるものでもなく。
生をはなれて無生をもとめるものでもなく。
また相好をはなれて法身をもとめるものでもなく。
文字をはなれて悟りをもとめるものでもない。

==

(洲崎)

 

(あたかも、その掲示板でのそれまでのいきさつになんの関連もなく現れたようなこの投稿にびっくり。上の内容が「わかる」には並大抵な宗教体験ではおぼつかないはず、、と直観。それで、、以下の回答をしたのがきっかけでいろいろわかってきた。)


いいこというね〜
ありがとう!!

それで、、これ誰が言ったのですか?
ネットで調べたらでてこなかった。

==

 

これも経文だよ
調べてそれも書こうとしたが 見つからなかったからだが
教行信証にも 出ていたぜ
最初みつけたのは 中村先生のだな  (→中村元)

 

==

 

(ミチオさんの過去の投稿を調べ、やはりそうか(→ある種の宗教体験をしているな)、、といった感じをもったので、更に突っ込んでみた)

 

まずこれがあって、、、、
うれし・ありがたかったとともに、、
おぬし、、ん?!、、というかんじ。

>父王よ、
今はただ静かに座して念仏してください。
それは念をはなれて無念を求めるものでもなく。
生をはなれて無生をもとめるものでもなく。
また相好をはなれて法身をもとめるものでもなく。
文字をはなれて悟りをもとめるものでもない。  No.1940

そのほか、、あなたの言葉で気に入ったものは:

ばかはそのままで救われる、、、
秘密の迷路も 必要なし、、、  No.23022303

雑行、云々、というのもあったっけ。

(念仏でいいのだから余計なことをしないでいいだろうの意味合い)

それとついでに、これも、、、:

 

(つまらない掲示板での反論に対して)
たこが いくら 食いついてきても 焼け石に水よ
文句あるなら 釈尊に聞いてくれ 文句いいな   No.2361

それであなたの前の投稿をさらに調べたら、、、

の父王、、のやつはかなり気に入っているようだね。
もとは中村元さんらしいが、
これがもしそのままで「わかった」なら大変なものだ。
私はほとんど不可能に近いと思う。
(その辺どうなの?)

れで、さらにあなたが去年の夏、妙好人のトピにぶらっと来たときのもみなおしてみた。No.12871294

それで、、こういう提案はどうかな?
つまり、あなたのどんでん返し(宗教体験)のいきさつ
他力との出会い、などをまあ気ままに書くということ。

私は興味があるのだが、、、
あなたの「発心、、、云々の転換の機運と経過など

まああなたの気がむいたら、ということだが、
ことによったら病んでいるものとかその他の人にも
「ことによったら」何かの役に立つようにも思うけど、、
どう思う?

 

==

S:上の父王、、のやつはかなり気に入っているようだね。
もとは中村元さんらしいが、
これがもしそのままで「わかった」なら大変なものだ。
私はほとんど不可能に近いと思う。
(その辺どうなの?)

 

 

父王の文は みなに 分かりやすい ヒントになるとおもったんだ
それで 貼り付けただけだよ

ーー
S:発心、、、云々の転換の機運と経過など


ーーーーー
M:これについても 実にシンプル 信心いがい なにもない
願いもしないのに 勝手に向こうから 飛び込んできた
それはもっとも深い地獄の底で転換する 救われる
深い業に、業から目覚める 瞬間でもあるだろう

信心、プラス現実には縁だ たまたま寺に生まれた
実はたまたまではなく 過去世からのつながりなんだが

悪人正機を自覚認識 これも実際の己は見えていないが認識はしていた

これも言葉としての懺悔と感謝のイメージ 
キリスト教などのおかげでイメージも分かりやすかった 
救われるとは そのようなものだろうと

諸行無常 この世は儚いものだ

これらは 深い意識の中にあった 
多くは親父に自然と教わったものなのだろう

釈尊は なぜか分からないが 完璧に信じていたな
勉強は 殆どしたことがない 

たったの これだけさ 
お経も称えない 象徴も なにもそれらしきものも 持っていなかった

そのた 細かいことは きりが無いが

なにが 言いたいのか 一切関係なし 信心だけで救われる

あえて メカニズムをいえば ぼくの場合は 上記のものなんだが

経典に書いてあるとおり  それより かなり甘いな
信じていれば みな 救われる

しかし凡愚とは 地獄の中からしか 救われないかも しれないな

それだけさ

 

====

 

やはりそういうことか?

 

(以下、対話をM(ミチオ)さんの文にS(洲崎)がさらにコメント・質問、、の形でまとめてあります。妙好人トピ:#1429)

 

M:父王の文は みなに 分かりやすい ヒントになるとおもったんだ
それで 貼り付けただけだよ  #2438

 

S:前に言ったように、あれをみてぱっとわかるのはそうはいないと思うが。。。

あれはいわば禅の公案みたいなもので、わかったというのがいたら、

本当にわかっているのか、そのわかったという内容をさぐってみたいぐらいだ。

だれか食いついてきたのいるかい?  #2491

 

M:誰もいないなぁ これは他力ならすんなり分かるだろう  (ここから妙好人トピへ移行)

==
(Mの発心、、、云々の転換の機運と経過など

M:これについても 実にシンプル 信心以外 なにもない
願いもしないのに 勝手に向こうから 飛び込んできた
それはもっとも深い地獄の底で転換する 救われる
深い業に、業から目覚める 瞬間でもあるだろう

 

S:勝手に向こうから 飛び込んできた、、というのがありがたいね。

(私は飛び込んでくる直前まで、絶体絶命の悪戦苦闘をしたよ。

そうそう、釈尊だって悪魔とあんなに戦ったじゃあないか、

おっと、私とはレベルがちがうか。。)

 

それはそれとして、その転換前にたとえば罪の意識とか何かを特に考えていたことがあったのかい?

やはりなにかきっかけがあったのでは?

それと、、そのときあなたの年はいくつなのかな?

(ついでに、今いくつ?)

 

M:寸前にしても宗教のことはなにも考えていなかったな 恐らく数年の短期にしても 
頭が狂っていたような 今考えるとかなりの分裂気味だったからな
つまり寸前までまるでなにも宗教のことは考えていなかったな、このようになるだろう

人生のトータルとしては それまで 宗教的ないきさつがあるということなんだが
あの頃とは現世の蛸壺の中でもがき苦しんでいた 出世欲からあらゆるものである
多少の宗教を学ぼうとも 己はなにひとつとして見えていなかった 恐ろしいことだろう

その前とは一生なので話せば長くなるが、ほんの数年レベルで考えると完全に病気だったな精神が分裂していた
車の中でぶつぶつと独り言をいっていた それを聞いてはっとするといった具合だ また くだらんことを吐いたと

そうこうしているうに ぼくには荷の重すぎる仕事が入ってきたそのいきさつの中での出来事なんだが
まぁ それによって 仕事は全て如来に取り上げられたが
不思議なことに 後に考えると 苦痛ひとつなく氷解していたんだ自然と 無意識のうちに 
一生を賭けていたつもりの職業だったが しかしそれも 坊さんを
やりたくなかったから だったのかもしれない やはりそうだろう

つまりそれまでのトータルとしての信心 これで救われたんだろう
これとて たいしたことでもないのだが

 

棚から牡丹餅


そのとき 一瞬 なにやら 思い出したのか

 

微細に考え詰めてみたんだが 随分前のことだが 37-8歳 現61
後のイメージとしては瞬間飛び込んできたコンマ0秒といった感じだ
地獄の釜の底に到達同時になにかを思い出したしのか、まさにこれもあるとしても瞬間なんだが、
そしてそれは懺悔だったのか、苦しみの余り願ったのか、親でも呼ぶように
そして瞬間救われていたのか、ここにも殆ど時間が無い、瞬間苦の中からなにかを思い出したような、
瞬間瞬間ではっきりしないが、親鸞の言うこれが極速のなんとかなのさ、、
殆ど全てが同時の出来事なんだが、瞬間のその前にそれらもあったような、、、 かすかな記憶
業の目覚めと懺悔と願いと赦し、これらが同時だったのか、前に僅かかすかなもの思いがあったような

これより20年もそのまんまだったのは これも最近考えるに、阿弥陀仏の力、これを知らなかったからさ お灸だろうな
瞬間のイメージが強いのは恐らく 無我 このせいかもしれないな 最近思いついたんだが
あれらには 一瞬だが無我も入っているような よくは分からない

しかし時間があれから殆ど感じられない

 

これはボケのせいだろう 昔からこの傾向あり 過去なんてないといえばなしだ
つまりどお考えても 釈尊を信じきっていた これだけなのさ
生れ落ちて勝手に救われたようなものさ 
縁と親父 親父に救われたこれも最近気がついたありさまなのであったが

 

ずーーーんと 暗闇に沈んでいった 悲鳴を上げる寸前(なにかを思い出した?)瞬間には救われていた こんな 感じだな

 

もう種もわかってきた。悪人正機なんだよ やはり
信心により それは ある程度 鍛えられていた
だから  なにかの 機会に 目覚めることが できるのさ
それも まるで つくられた 舞台装置のように
たぶん こんなことだろうな

 

どっちにしても ぼくのは 棚から牡丹餅なのさ
勝手に 門が 一瞬 開いた

 

==

M:信心プラス現実には縁だ たまたま寺に生まれた
実はたまたまではなく 過去世からのつながりなんだが

悪人正機を自覚認識 これも実際の己は見えていないが認識はしていた

 

S:親父さんの薫陶があったからかな?

かなりの人物かもしれないな。。。

 

==

M:これも言葉としての懺悔と感謝のイメージ 
キリスト教などのおかげでイメージも分かりやすかった 
救われるとは そのようなものだろうと

諸行無常 この世は儚いものだ

これらは 深い意識の中にあった 
多くは親父に自然と教わったものなのだろう

 

 

生い立ち・いきさつ

 

S:やはりお寺は真宗かい?

親父さんとのなにか思い出の話などあったら聞いてみたい。

 

M:浄土真宗 親父は真面目な人だったな
クソがつくくらい 今考えるとなにも文句さえいわないような
死ぬまで89歳ちゃりんこで檀家参りこれが印象強い
しかし寺を立派にする檀家を精力的に増やすなどはしなかったような
情け無いい親父 葬式坊主さ 家事も不平なく手伝うような優しい人
もっともおふくろも働いていたからなぁ 子どもの頃は自分の家庭しか分からないからな今考えると柔らかい真面目な人 悪くいうものもあまりいなかったようだし 
ぼくは 17(高校生)までしかいなかったからな 
宗教に限定すると
小学生に上がるまで月一回の説教この勤行でお経を称えさせられていた
ここから親父の作戦が始っていた
小学校高学年のころ帰宅途中 ふと暗くなったのを今でも覚えているよ
この頃から坊さんはやりたくなかったんだ このパターンは多いようでよく聞くよ

高校生の頃になると記述した悪人正機 懺悔と感謝 諸行無常などを詰め込んだんだろう この世は儚いはいつもいっていたそうだが子供には分からない 悪人正機については 人殺しでも救われる なにをいってるのかさっぱりだったな これは理解できないでいた 懺悔と感謝こちらのほうがなんとなくそうかなと

そして坊主の大學に進み(龍谷大學)寮生活で数人が集って悪人正機の話をしていたのさ それらに加わり先輩達の話などにより なるほど人とはなにごとをもってしても自分本位になるものだと やっと理解できた目から鱗だったのが今でも強く印象にあるな 

ここでもまったく一度も勉強の記憶なし 本も覚えていないなぁ
そうそう 高校のとき宗教部でほんの初歩的なことは理解した記憶がある
仏陀とは真理に目覚めた人 これは一発納得 それと3毒の煩悩などだな
簡単なこれらで なるほど凄いや釈尊は もっともなことだと納得
単純一発 これはかなわないとてもじゃないがと それでおしまい
奥は深すぎて そう思い込んだ 真剣に見たり覚えた意識なし
読んでも かなわないと

そうそう高校のとき(坊主学校)宗教の先生がクリスチャンからの聖書の寄贈を快く受け取り生徒みなに配ったんだ これも大きかった
後の人生で 手元にこれしかなかったからだ

17歳で家を出て 結果は そのまま家出したようなものさ 親鸞とは逆だな

 

親父の話も こころに残っているのは 
戦災で家が潰れたが親父は近くのお婆さんに助け出されたんだ
しかし子供が数人取り残されたらしい どうすることも出来ない
そこで 親父は子供達にお釈迦様が迎えに来るからねと言ったらしいんだ
すると不思議と子供は泣き止んだと
暫くしてから家に戻ると骨があったらしい 墓地に地蔵さんがひとつあったが
覗き込むと骨もこちらから 見えていたな 子供の頃は印象が強く
なんども 聞いたのを覚えているよ なぜ助けなかったんだと
もちろん 駄目なのは知っていたが
やはりなにひとつ不平もいわず くたばるまでちゃりんこ(自転車)参り
これがぼくの一番お気に入りのところだな
それに ひきかえという事だろうが
だから 信心だけなのさ 時が来れば救われるんだろ

 

親父は親鸞ばかだったようだ 毎日親鸞の話をしていたと
その親父が ぼくが 家を飛び出して 数回ぼくの前で泣いてたな
一度は親鸞が 悲嘆にくれて慙愧するところだが
読みながら 泣いてみせたのも 印象に残っている
まぁ どおして 伝えようかと 思案していた
ぼくも そのころは 教えも 知っていたのだが

 

==

M:釈尊は なぜか分からないが 完璧に信じていたな
勉強は 殆どしたことがない 

 

S:勉強せずに、それでもなにかの問題意識のようなものはあったのだろうな。

たとえば釈迦の場合なら、城の外に出て生老病死のケースに出会ったといった具合。

 

あなたの場合は:>諸行無常 この世は儚いものだ、、ということか。。。

とするとそれにかかわる実例もあったのだろうね。

==


M:たったの これだけさ 
お経も称えない 象徴も なにもそれらしきものも 持っていなかった

 

ーー

 

S:余計な知識がないというのはかえっていいかもしれないね。

荷物がないだけ直感が働きやすい。慧能なら無一物、、といったとこだな。

あるいは例のバカになれ、というやつだ。

これを知的にいうと、無意識の意識とか無分別の分別とか、まあいろいろいうわけだが。

それらを何か言うとかえって、いじり始めて迷い込むというのもあるからね。

スポーツや芸事とおなじで本来はそういう情報はある程度に抑えて、そういうのは確認のために使う、というのがいいようにも思うが、

まあ、なかなかそうも行かない。

 

(ところで、あなたの過去の投稿を作晩あれこれ読んだが、シンプルでポイントを付いていて私は好きなのだが、

これがまた難しいところで、気づきの種をまくということ以上はなかなかできないね。

禅的にということなら、手のひら開いて、ほらここにあるよ。。。てなもんだな。)

 

==

M:そのた 細かいことは きりが無いが

なにが 言いたいのか 一切関係なし 信心だけで救われる

 

ーー

 

S:その雰囲気(つまり信心の意味あい)わかるよ。

そして念仏さえも必要ないといった具合だろう。。。

なにしろ自ずからの働き(→如来)にまかすのだからな。

 

==

 

妙好人 鈴木大拙 清澤満之 

M:あえて メカニズムをいえば ぼくの場合は 上記のものなんだが

経典に書いてあるとおり  それより かなり甘いな
信じていれば みな 救われる

 

ーー

 

S:ところで妙好人の生々しい話に興味があるとか妙好人のトピに書いてあったけど、

才市の角とか、慚愧とか、やまほどあるね。(私のHPの妙好人のファイルにいろいろ入っている)

妙好人といえば私の好きなのは、才市の「煩悩を取ってくれないでありがとう」というやつ。

大拙も「私は煩悩だらけだ」といっていたけど、

そいつがないで、そこからそのままのひっくり返りがないと

やはり人間としての味わいがないというか、「ありがたみ」がないね。

 

そういう意味もあって前にもどこかで言ったが禅の連中はやさしさがあまりない、

(特に掲示板に出てくるのは突っ張っているのがおおいみたいで)なんとはなしにかわいそうという気さえする。

知にばかり走っていて、そういう深いところから沸いてくる味わいを味わはないなら味気ないと思うね。

 

まあ独坐大雄峰とか、唯我独尊もいいけど、やはり維摩の病だな。それと一般民衆とのつながりだろうな。

素直で素朴、謙虚、、これがまさに宝だと思う。

 

ということで、、>信じていれば みな 救われる、、

でいいのだけど、(禅では慧能の頓とか、盤珪の不生、あるいは臨済の黄檗の仏法多子無し」とかあるが)

あなたの知っている人で、しっかり救われたのいますか?

まあいろいろきっかけを作っているというのはわかるけど、その辺も含めて教えていただけるとありがたい。

 

M:こんなことは やり始めたのは最近だから それはないね

もっとも 若い時から職場でも つい 宗教の話はしていたようだな
みな 納得してくれていたが 深く知らないし 途中でこちらからやめていた みな 若いやつも納得していたなぁ 感触はよかったよ

 

親父には申し訳ないことをしたが

親父が教えてくれたとは
いまごろ 気がついた

61なら やつとも おなじだな 3人 団塊の世代かぁ
ぼくは やつとおなじ 3月生まれだよ
やつも しぶといからなぁ  余談

 

ぼくが 高校生の頃だったか 両親がよく話題して喋っていた

ぼくに向かって 救われている 清沢が 分からないのか
と 情けなそうな顔をして 一言言ったのを覚えている

大拙についても 最後は同じになるんだろ と 一言ぽつりと言ったのも 覚えていたよ

言われても わかるはずがない それが ちと 情けなかったのも覚えているが

これも なぜか 記憶に残っている 印象としては 強い部類だな
もっとも高校生くらいにならないと こちらも興味をもたないが
それとも 世に出て 実家に帰ったとき 聞いたのかもしれないが

清沢満之  この人が歎異抄を広めた こんなに最近だとは これにも驚く

なにやら その奥に なにやら ありそうだ

両親のひそひそ話で 妙好人 大拙 満之 この3人が印象に残っていたが 
もちろん たまたまなのだが

 

==

 

分からないのか、、、というので思い出した話。これは岡村美穂子さんにも言ったしHPにもどこかで書いたかもしれないが、おそらく1999年ごろ、大拙の講演集だかを読んでいて、そのころはわかってなかったのだが、なにかわからずのままに、ただただ大拙の話を読んでいて、涙がおもしろいほどに止まらなくなったということがあったのを覚えているよ。顔を洗って、また読んで、また洗うといったものでね。

あれは今から考えても不思議だったな。ある意味ではなんとも愉快でもあった。というのもまあ、自分以外の何かが働いているということに気づいたということだったのかもしれないな。きっと心が洗われていたのかもしれない。

かなしいというより、わからないままに大悲を感じてうれしい、といった感じかもしれない。

当時、大拙の言っていることが、わからないんだけど、「何か」がジンジン伝わって来るんだ。あれには参った。

で、その次の年だと思うけど、ヴィパッサナで扉が開いたんだ。
ただそこに至る過程は、あなたのと違って、かなりきつかった。

まあ絶対絶望だったのがあることがきっかけになって「抜けた」んだ。

 

(注:後で読み直して、「あなたのと違って」は間違いと気づきました。

 願いもしないのに 勝手に向こうから 飛び込んできた
それはもっとも深い地獄の底で転換する 救われる
深い業に、業から目覚める 瞬間でもあるだろう

、、、で「もっとも深い地獄の底で転換する」とありますので私の場合(絶体絶命)とむしろ一緒かもしれません。)

それで、その後その体験の意味あいがはっきりわからずに少し苦労したのだが、7年ほどたって、まあそれまでに感じはあったのだが、あるとき、「ああこれか」と明確になった。(それが鏡の心:HPにファイルを載せてあります

禅の例では、大拙、秋月そのほか、こういった二段階というのもどうやらあるみたい。一方、一段階目でひっかかって二段階目にいかないというのもあるようだが、この辺の調べはまだちゃんとできてないで、いま気の向くままに進めているところ。

禅体験、禅意識、というので何とかくくれそうなんだが良くはわからない。

ところで、このへんを念仏とつなげることは出来ると思っている。

まあ、大拙が手助けをしてくれたというのがひとつ、それと妙好人のことばがピンピンわかるから。たとえば「おその」の「お差支えなし」「はい」など、まさに簡単だけど、やはり立派だな、と思う。(これらもHPに妙好人という題でいくつかファイルを載せてあります。たとえば

http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/myokonin-nimanabu9-12-2003.html )

そういうひとの言行を読む、そしてその心境をかんじる、というのは、なんともうれしいものだと思う。というのも、なにかがつたわってくるからね。

 

== 

 

阿弥陀仏の力 

 

M:

これより20年もそのまんまだったのは これも最近考えるに、阿弥陀仏の力、これを知らなかったからさ 

S:
ここよくわからないのだが、救われて20年安心にどっぷり、という感じだったということ?

それと、阿弥陀仏の力のなにをしらなかったの?
それとも救われたときにはそういう認識がなかったということ?

 

(注:いま、このファイルをまとめるので上を読み直してみると、私が二段階だったというのとなんとなく似ているのかな、とも思える。私の場合は阿弥陀仏の力ではなく「鏡の力」:無意識の意識の意味あいという感じ。ともに同じような働きがある(←如来:つまり、あるがまま、の働き、が来る)とみられる。ちなみに、この内容はHPに「鏡の心」と「これで禅のすべてが尽きる」というファイルにまとめてあります:

http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html 

http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html )

M:

ここが不思議なんですが 知る境遇にありながら いつもなぜか 釈尊と本尊である阿弥陀仏が区別できないでいたんだ なぜだか分からないが 仏像は仏様 仏様は仏陀とイメージが強く あれって 阿弥陀仏さまなんだよね きっと
ぼくにとってはなぜか 釈尊仏陀のイメージだけが強かったんだが

つまり 阿弥陀仏さまの力なんだ を 知らなかった 
つまり それは名号であり 浄土を願い名号を称えるものたちを救うという願力仏力の含まれた それらを含め 知らなかったんだよ
全て釈尊に委託してもよいようなものかもしれないが
勉強嫌いな弱点が出てしまったのさ ?
まぁ とんでもないバカだったわけさ

その瞬間 そして少し後にやっと そうかと少し思いだし 軽く称名したのは覚えているよ ここらのことも(このような現象) よく知らなかったし まぁ 表現としては呆然自失 その後 成り行きに任しておいた 
そのうち 元に戻っていく これも分かったな このままでは元に戻るし しかし この体験はもう2度と出来ないのも分かったが

つまり ここらのことを勉強知っていれば それから称名念仏 感謝といったふうに 即 入っていけたかもしれないのだが

これには実は聖書も起因してたんだ 10戒の神の名は徒に称えてはいけない阿弥陀仏さまとは ここらは違っていたのだが・・
確かにそうかもしれないと 神仏とは畏れ多いものだと 納得もしていたものだ

 

 

つまり これでいくと 正に棚から牡丹餅なんだが
やはり親鸞浄土真宗の威力なのは違いない
ぼくもやはり親父の影響で単純にバカのように親鸞を表に出していたし
(世間で話すとき)
それと釈尊信仰
これだけで おおめにみてくれたのさ

だから
みんなは 少し教えを学び 信じるだけでも 必ず救われるということが分かる
肝心な阿弥陀仏の なんたるかを知らなくても なんとかなるのだから

それらの ポイントとは やはり 信心はもとより 悪人正機など なのだろう

面白いのは 阿弥陀仏を教えてくれなかった 子供のときより そうだ
大人になっても そのときまで 誰も 教えてくれなかった

浄土真宗にも秘密あり



(S注:

「宗教体験」と「理屈」・「教理」・「お経や祖師方の言葉」というようなものが結びつく、というのがあるときはっきり「わかる」ということ。そしてその確認を何度も続けてきた、というのが振り返ってみて私がかんじることだ。この辺は道元も「仏の足跡をチェックする」,という意味あいのことをいっていた。

つまり、、、

「わがあとのあきらめらるることは、仏のあとをはかるよりうるなり。このあとをうるを、仏法とは言うなるべし」唯仏与仏、p。465正法眼蔵(4)岩波」)

 

求道と信心

 

M:

 

ぼくは求道とはほど遠い存在だ

 

それが 救った
いままた 生い立ちから ほじくり ぼやっーと 流れを 思考してみた

たまたま寺に生まれたのだが 
なぜか 親父は尊敬していた (その大元が親父の信心なるものなのだ)

ぼやーっとして 育っていったが そんなことで 必然 感じ取り いつのまにか そのようなことを 完全に信じていた 

親父に一服盛られていたのかもしれない 

葬式坊主なんて やっておれない 成人近くになると なにか 寺院の形態もおかしいとはわかっていた 子どもの頃より 仏像みても 有り難いとは ちっとも思わなかったしな

しかし 

教えは全く別 凄すぎて 歯が立たない もう 体でわかっていたし
真実真理だと

そして 寺から離れた 念願の 俗世の中に (坊さんなんかやらないぞ)

しかし 粘着テープのように離れなかった 釈尊教えが (かといって深く知らないのだが 感覚で分かっていたのだ)
そして 幾年も経ち 俗世間の頂点(世間のダニ)で救われた

まぁ いまでも ダニかしらないが 求道らしい求道なんて 
ここには 一切ない  

もしぼくが ぼくのない脳使い 教えを学んでいると
果たして 救われていたか 疑問だな それは 救われたいという願望
欲求が勝り また教義に満足 逆効果になっていたかも しれないからだが

これらが 正直な感想なのである これだから 全員 救われないはずがない
その 簡単な方法を 書きたいものだが
学べば やはり 簡単で 書くこともないほどなのである

信心正因なのだが

 

 

わかったことは

 

信心がやはり正因なのだ
これにより 抵抗はしても 与えられるものもあるのだ

念仏は
口に出して 称えるべし このほうが効果大 
理由は簡単だ
これも阿弥陀仏さまの誓いの中のひとつだからだろう

念仏の正体とは もちろん 歎異抄のいうところの 
<ありがたくなって 称えたくなったとき> これがもう念仏なのさ

つまり だから はからいは らない

 

 

念仏も、そんなこといってると・・

 

称えるチャンスもなくなるというものだ

称名することにも大いなるハタラキがあるのだから

思い切って口に称えることだよ そのほうが 効果大なのである
これも事実

少なくとも大信心になるまで 口に称えること これも秘訣となるはずだ

称えなくても 救われるんだから・・

 

==

 

S:

 

いや、(あなたの場合は)それでまったくいいのだろう。
うまい具合に親父などからの薫陶もあったし、
(知識)からでなく体からしみこんでいったのだろう
(これ菩薩の六波羅蜜に対応するかもしれない)

ところで、求道という言葉は微妙な意味あいがあると思う。
つまり私は良く引き合いに出すのだが、求道は
維摩の「法をもとめるものは法を求めてはならない」
これだと思う。

(あなたは縁がないから知らないとも思うが般若経に般若即非の論理というのがあって、要は求道は求道でない、それを求道という、というようなものだ)

ということで、、、
求めたら求まらない。
ところが変なはなしだけど、
まあ、もとめるわけだ。
こたえをさがそうと、、、
ところが、見つからない(笑い)

ーーまあその姿こそがあわれなのだけど。。。
それはそれとしてーー

とにかく、見つからないまま、
いずれ絶体絶命に対面して、、、
(というのも我が「ある」わけだから)
どうにもならないところ、、
そのぎりぎりを、、、
すべて(我)を投げ出すことによって
通り抜ける、(→本来の自己にあう:見性)
これがいわば私のパターンであり、一般の禅のパターンだろう。

まあ、つらいけど我を抜くにはしょうがない。
それまで長い年月をかけて頭の中にニューロンのネットワークを作り、
何度何度も反復することによって強化してきた心の癖だからな。
(鉄板脳だ。こればかりは良いも悪いもない。)

それで、上で言ったことは体験したことを後づけでそう言ったまでのことで、そのことがああそうか、と仮に頭でわかったとしても、実際には我というものがしつこく絡まっているから、そんなレベルの話じゃあない。

いざというときに、それ(我)が、いやだいやだ、死にたくない、身を投げ出したくない、となって、いわば血みどろの格闘をするわけだ。(まあそれほどでないということもあるかもしれないが、、一般にはそんなものだろう。)

それで絶体絶命に陥って、、、それでどうか?!
つまり一件落着(→身心脱落)するかどうか、
これがあなたの場合なら扉が開く
棚から牡丹餅、、、ということだろう。 (つまり向こうから来る=他力)

だから本当に何か感ずるところのある人でなけりゃ、いい加減なところで挫折、あるいは迷子かもしれない。ただ見性とか脱落してさらに迷う、見失うというのもある。

一方そのような宗教体験がなくても指導者(と指導の内容)がしっかりしているなら法の道を進むというのは(つまり、方向付けは)ちゃんとできると思う。

ただ何かに頼る、、というとき宗教というものは物騒なところがある。変なのにあたったらとんでもない方向に行ってしまう。老師とか何とか言っても本当に気をつけないといけないと私は思っている。

じゃあ何をどうしたら良いのか、ということだが、私としては、この辺のところを私なりにHPにまとめておけばいずれ誰かの役に立つこともあろう、、と思っている。

 

いずれにしろ、、

私は本当に(救われて)ありがたいと思うかどうか、、、
そこに至るかどうかが大きな境目と思う。

それがひとつ、

それと、あなたのいう「はからわない」
(→自ずから然り)
これだろうね。

やはり肩の力が抜けてないとダメだろう。
意気込んでいるものはやわらかさがないから、
どっかでぽっきり折れる、というようなものだと思う

 

==

M:

 

ぼくは ばかな部類だから 洲崎さんのように 
仕組もびんびんとは わからないが

浄土教  これなら どんな バカでも 救われる

いうことは わかっているんだが

 

==

 

S:

 

六波羅蜜は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧でしょ、、
これ(特に布施、持戒、忍辱、精進、)は体からの修行なのだね。つまり理屈を言わずにやれ(やる)、という具合。頭のいい悪いは関係ない、いや、むしろ頭が良いと思っていて突っ張っているのはバカバカしくてできないでしょ。

 

M:

 

う〜ん ここらもよく分からないが 持続はしないものの 瞬間
やらされていたのかも しれないが 信心で自然と
しかし もっと 別なところに あるような気が今のところは強いんだ

まぁ 一言で言えば 無量寿経がすべてなんだが

S:


それで五つ目、禅定、は無心といったものでしょ。私は念仏は禅定と同じようなものという気がします。

 

(白隠もこういう

それ摩訶衍の禅定は 称歎するにあまりあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 みなこの中に帰するなり
一坐の功をなすひとも 積みし無量のつみほろぶ

、、とちゃんと念仏がはいっている)

最後の、智慧はほかの五つの修行と意味が異なって、つまり、ついてでてくるものでしょう。(たとえば棚から牡丹餅で救われる)

 

(注:こまかくいうと慧能の定慧一体:慧と定はひとつ、というのがあるがそれはここでは追いかけない)

で、あなたはそれ(六波羅蜜)を知らずにやっていたんじゃないのかな、というわけ。

一方禅をやるようなのは六波羅蜜をしないで、知でいじくり回す。もっと簡単な方法はないか、、といった具合、、、(→むしろ声聞の八正道に近い)そんな気もします。で、何が良いか悪いかはまあ人の好みかもしれない、

ついでにいうと、現在の禅は(もちろん指導する人にもよるだろうが形骸化しているようにもみえるし、公案だって只管打坐だって形、、、に目がいっているようにもみえる。(まあ一般化はできないだろうが、、、)

以上すこし言い過ぎかもしれないが、できるなら、いろいろな角度からやったほうが良いだろうというのが(影の部分は見えないからね)私の(用心深い)見方です。

 

、、、というか、興味もあって、大拙にくっついていったら(おそらく大拙も似たような興味があったのだろうが、、、)禅、念仏など、あれやこれやの意味あいが見えてきたように思うのです。

それぞれ人の好き嫌いにあわせた特長もあるから、ピタッとあったもの一本でスーッととおればそれでいいのだろうけど、まあ私みたいにいろいろ調べるというのもいても良いんでしょう。何かの役にたてばいいのですが。。。1469


==

 

                                 
ついでに、、
最近はどうやって暮らしているの?   → なんとなくだな
妻子はいるんですか?               → 一人ものだ
これからやりたいことは? 
他力をもっとみんなに知ってもらいたいということ?
                                    → これを自然と知らせることだな

  宣伝するんだ

 

 

まとめ

 

上でみてきたような宗教体験の話を聞くのは、それだけで大変にありがたいのだが、それがとくにミチオさん(真宗)の場合、なんだか私が今までいろいろと調べてきた妙好人のひとりと話をしているような気がしたものです。

 

私の場合大拙と歩みの経過が似ていて、禅からヴィパッサナ、真宗などを調べ、特に妙好人についてはHPにのせてありますが、丁寧にチェックしてきました。

 

禅は知に走る傾向が強いようですが、真宗は情、、凡夫を対照にしている感じがあります。この対話を機会に真宗、他力の意味合い、禅との比較などさらに続けていますが、それは別のファイルにし、いずれHPにアップロードする予定です。

 

ここに書きとめたものが、たまたまここを訪れた方の、何かの参考になれば幸いとするものです。

 

 

 

付録:素直と謙虚について

ヤスパース、アウグスティヌス、親鸞、道元

 

(我をとる、とらわれ・はからいを落とす→身心脱落、救われる、、というものは念仏でも禅でも「そこ」は(究極には他力・如来・自ずから然りの働き、、、による・まかす、という意味で)同じとみられるだが、そのことが明らかになるというのは我々が真に素直であり、謙虚である時と思う。そしてこのことは言葉・表現は異なっても、いろいろな先人がいろいろ工夫してそのことにいたり、その体験の内容、発見した内容を残してくれている。以下のものはそういう例と思う。)

ヤスパースの「アウグスティヌス」から

アウグスティヌスは、自己満足の持つ解消しがたい倒錯を認めるが
この倒錯は解消しがたいモノであるであるのは
それがわれわれ有限性を免れるぬものには
不可避のものであるからである。

すなわち、良い行動をするためには、
私は、善をみて私の行動をよしと認めなければならないが、
しかし、私はこのよいという意識を持つことによって
すでに【高慢】の端諸を遂行していることになるからである。

善についての知識がなければ、私が良くなることが出来ないが
知識をもってしては、私は純粋なままで居ることが出来まい。
そして謙虚さ自身もそれが意識されるともはや謙虚なものではなくて
直ちに謙虚さの高慢になる。

このような事情が生じるの根拠は自愛にある。
人間は、理解できないしかたで神の援助をうけるのでなければ、
この自愛を免れることができない。

神の援助によって、
人は意識的な謙虚さに陥ることなしに謙虚であることが出来、
高慢に成ること無しに善を為すことができ、
最高の自由の中で自分が神から贈与された居ることを
経験することが出来る。

神の援助は、人間の自由を完結せしめると共に
この自由を通じて、人間を神へと到達せしめるものである。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&mid=43431

==
S:
ここで最後の一文(というか全文にもあてはまるけど、、)は法の道を歩むという風に「理解」しておきます。あるいは、、、往相回向、環相回向、、(〜中道)でもいい。

それと、、、

「自力作善のひとは、 ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、
  弥陀の本願にあらず」
        
         (歎異抄三章)

、、は道元だとこうなるのだろうな:

自己をはこびて 万法を修証するを 迷とす
万法すすみて 自己を修証するは さとりなり
迷を大悟するは諸仏なり
悟に大迷なるは衆生なり

さらに
悟上に得悟する漢あり
迷中又迷の漢あり

諸仏のまさしく 諸仏なるときは
自己は諸仏なりと 覚知することをもちゐず
しかあれども証仏なり
仏を証しもてゆく

身心を挙して色を見取し
身心を挙して声を聴取するに
したしく会取すれども
かがみにかげをやどすがごとくにあらず
水と月とのごとくにあらず
一方を証するときは 一方はくらし

仏道をならふというふは
自己をならふなり
自己をならふといふは
自己をわするるなり
自己をわするるといふは
万法に証せらるるなり
万法に証せらるるといふは
自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり
悟迹の休歇なるあり
休歇なる悟跡を長長出ならしむ



まだまだ探せば似たようなものはでてくるだろうけど、
それにして、なんともありがたいものだ。
ということで、修し証し、、、たんたんこつこつ、たんたんこつこつ、だわい!

おのれにピシピシ鞭打って、、、一歩一歩一歩一歩!!!
発心、発心、また発心!

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

――

S:


ともかく深い「人間」というものへの洞察(汝自身を知れ)からこういう言葉が出てくるのだろうな。

こういうものはいくらでもいくらでも身にしみこむまで読んで体得する、ということだろうな。そしてそのとき、なんというか、懺悔のような、身を投げ出すというような境涯にいたって始めて、こういう「言葉」との「真のつながり」が見出されるというような気がする。:

トーマス・マートン:
「謙虚な人は、他人に褒められても心を乱さない。

その人は、もう自分自身には感心をもたないし、自分の良い点が
どこから来るのか知っているので、褒められてもそれを受け入れる。

つまり、賞賛は、自分の愛している神のものであるので、
この賞賛を受け入れても、それを自分の為に使わず
すべて神に喜んで捧げることが出来るからである。

「全能のお方が私に偉大な事を為さったからです。そのみ名はきよく」(ルカ1:49)

謙遜でない人間は、賞賛をいさぎよく受けない。

この人は、それについて自分がそうすべきかをわきまえている。

賞賛を神に捧げようとするとき、かえって自分で躓いてしまい、
おどおどして人の注意を引くことになる。


まだ謙遜を知らない人は賞賛をされると心を乱したり、くつがえしたりする。

こんな人は、人から褒められると我慢できなくなってしまう。

自分の至らなさを考えて褒められるはずがないと思い、いらいらしてくる。

たとえ、このことが大騒ぎをするとまでは行かなくても
少なくとも、自分についていわれたことが付きまとい、
いつも自分を苦しめるようになる。


人間のもう一つの極端に形は、謙遜を全然持たない人である。

その人は、褒められていると、
犬が肉の切れっぱしを飲み込むように賞賛をむさぼり食うである。

そんな人は問題外だ。

何故なら、アリストファネ以来、
あらゆる笑劇の主人公になっているのはこういう人だから。」

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&mid=9233

ーー
S:
「謙虚な人はおのれが謙虚なことを知らない」、、というわけだが、これが単なる知識(教科書脳)では、いかんせんこまるわけだ。

そこで、、孔子なら「己の欲するところにしたがって矩をこえず」。。。

おっと、引用ばっかり、私の教科書脳、、、、にもいろいろつまっているな〜
太鼓(ジェンベ)でもたたいて自ずからの整理整頓しなくちゃ。。。

感謝、祈り、感謝、祈り!

 

 

トーマス・マートン

 

 

謙遜な人は、まるできれいに磨かれた窓から太陽の光が入ってくるように
賞賛を受けるのである。

それが真の光であればあるほど、つよければ強いほど、ガラスは目に入らなくなる。


真の謙遜とは、自分を意識することを止めるが
偽りの謙遜というものは、かえって自分に対する意識を強めてしまう。

そのために身動きできなくなり、
なにをやろうとしても自己弁護と自己呵責の渦に巻き込まれてしまう。

ほんとうに謙遜であるならば、決して自分に関心を持つはずがない。

何故持つはずがあろうか。

私達が持つべきものは、神のみ、神の聖旨のみであり
自分が望むものや価値あるものではなく、
あるがままのものや価値の客観的秩序のみである。

また、この世のものに対する幻を持ち続ける必要はなくなり
私達の行動は自由になる。

また、私達の謙遜は他人の思惑に依存しないので
高慢だと言われることに対して、自分を弁護するために
でっちあげられた多くの言い訳などで、困らせられる必要もなくなる。

 

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=552019920&tid=a5aa5bfbda165a4ka4da4a4a4f8la4j9ga4a4a4dea47a4ga4a6&sid=552019920&action=m&mid=9234

 

 

――

 

ちなみに、マートンと大拙は1964年にあっていて、逸話があります

http://books.google.com/books?id=Hl39IdGTrf8C&pg=PA136&lpg=PA136&dq=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%8B%99&source=bl&ots=dyg2b2oGko&sig=1RSJwxvNSR67wKrKW8DKzomztz0&hl=en&ei=eiicSonECtSEngfsguyVCA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3#v=onepage&q=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%80%80%E5%A4%A7%E6%8B%99&f=false

これ大拙の風景」という本増補版)からのもの、マートンは大拙にあった後こうかいている:

「博士(大拙)こそは誰でもが真に会いたいと願う人である。ほかに会うべきだれがいるというのであろうか。博士に会って一緒にお茶を飲みながら、この「人」に会えたと感じた。それは、やっと我が家に帰り着いた境地にひとしかった」p。186

ちなみに私が大拙に興味を持っていろいろ調べを始めたのは彼の書いたものよりも、むしろマートンの例のように、数多くの周りの人の彼の印象(→人格)が不思議な力を持っていたというのがその大きな理由です。

というところでマートンにもどって:

善と悪のどちらかを選ぶ事の出来るのは、自由の最低限度である。
何故なら、それが自由と言えるのは、まだ《善を選ぶことは出来る》からである。

私達が《悪を選ぶ自由》がある限り、私達はまだ真に自由ではない。
悪を選ぶこと、それは自由を破壊することである。

私達は、悪と悪として選ぶことは決して出来ない。
《表面的にはそれを善として》選ぶのだ。

本当は善でないのに、自分の目から見て善と見えることをやろうとするとき、
それは、自分が真にやりたくないことをやっているのだ。

従って、私達は実際に自由ではない。

完全なる霊的自由というものは、《いかなる悪も、全く選ぶことが出来ない》ことである。

自分の望むものが、本当に善ならば、
また、自分の選ぶものが、その善を熱望するだけではなく、
実際にそれに達するならば、その時こそ私達は自由である。

何故なら、そこにおいて自分のやりたいことは全部為されることになるので
私達の意志からでるすべての行為は、完全成就される。

          ....................................


ただ、神の聖旨だけが、あやまちを犯す事がない。
神の聖旨をのぞいた他の自由はどれも、誤った選択により自分を傷つける。

真の自由は神の超自然的な賜として、
また神は私達の霊魂に注ぎ込む愛によって、
神ご自身の本質的な自由への参加として、私達にやってくる。

          .........................................

人間の本性が持っている自由と言われているようなものは、
善悪の選択には無関係である。

それは、恩寵や聖旨、それに神の超自然的愛によって達成される能力や
可能性以外のなにものでもない。


          「観想の種子」ヴェリタス書院 トマス・マートン

==

S:


大拙のとおったという「ひじ外に曲がらず」の公案を思い出す。

やはり根っこがわかると、「そこ」が「我が家に帰り着いた境地」となるわいな!

 

 

やはり、、、

人は法によって(つまり法に即して)生きろ、ということと、

法は人によって(つまり人を通して)「生きる」、ということだな。

 

 

父王よ、

 

五会法事讃 (唐 法照)のなかで《凡夫には仏の智慧やさとりはとうてい修められるものではない》ことを次のように語られているとのこと:

「釈尊は父の浄飯王仰せになった。
《王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが凡夫にどうしてできましょうか》

 



それにしてもやはり求めると絶体絶命に陥って、
それをひっくり返すというように、

これ、、、
《王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが凡夫にどうしてできましょうか》

がこうなって、、、

>>父王よ、
今はただ静かに座して念仏してください。
それは念をはなれて無念を求めるものでもなく。
生をはなれて無生をもとめるものでもなく。
また相好をはなれて法身をもとめるものでもなく。
文字をはなれて悟りをもとめるものでもない。 <


例の維摩の「法を求めるものは法を求めてはならない」になってますね。(即非)

だから、念仏は、道元の仏の家に投げ入れる、と同じで、身心を念仏に投げ入れる、というものですね。

坐禅だってこれも維摩の三界の中に現れないようにというのがあるが、「かたち」にあらわれない坐禅ということだ。(もっとも坐禅にかぎらないが、、)

だから法を「知る」というのは、理論、論理、など、そしてはからいでいじくり回してもダメと気づかないと、どうしょうもないわな。 

 

 

参考資料:

 

 

近代真宗の祖清澤満之先生の教え

http://www5e.biglobe.ne.jp/~ym7m4ovz/kiyosawamanshi.htm

 

 

私のHPのファイルから:

 

清澤満之「我が信念」を読む:

http://www.geocities.jp/suzakicojp/wagashinnnenn.html

 

「鏡の心」:

http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html 

 

「これで禅のすべてが尽きる」:

http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html 

 

妙好人:おそのの「はい」:

http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/myokonin-nimanabu9-12-2003.html

 

 

     HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または

http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html