
ミチオさんとの対話―8
―宇宙まるごと阿弥陀仏、慈悲、十地経、悟りをかつがない―
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html
浄土門の人は禅とかヴィパッサナを聖道門とよんで浄土門の特徴をうったえているようだが、彼らに言わせれば、私は聖道門を歩んできたものの典型かもしれない。(もっとも妙好人の言行には長いこと感じ入ったものがあったのではある)
別のファイルにThy will be doneというのを作って、宗教の基本構造とでもいうものについての私なりの洞察をまとめたが、そこでの結論は究極には聖道門も浄土門もそこにいきつく(浄土門のことばでは往相回向)、あるいはそこから来たもの(環相回向)、というものであった。
それはともかく、ヤフー掲示板でのミチオさんとの出会いからこれで一年ちょっと。色々と微妙な話をしてきたが、朴訥?な、あるいはときとして切れ切れ?の彼の表現にもなじみ、味わいのあるお話ができたことに感謝するものです。
ひょんな縁で、ここを訪れた人にこのファイルが何らかの役に立てば幸いとするものです。感謝、祈り、感謝、祈り!
2010年11月14日 洲崎 清 記
M:宇宙まるごと阿弥陀仏
これをですね
ごっつぁんですといって まるまる 食べれば おしまい
逆に ごめんなさいで あやまる 手もある
これよりな 阿弥陀仏をぱくぱく 食べるのだよ ありがたくな
これで 卒業は できるぞ
科学では そおわいかんだろ
浄土教なら 阿弥陀仏をぱくぱく むにゃむにゃと 食べるのだ
そのために 化身として 地獄まで降りてきて みなに 見せている
はよう 食べてくれや とな
信じんか((注:信じないか)) ばかだなぁ
だから 地獄も へちまも こわいものなすびよ
はっきりいえば おまえも まるごと 阿弥陀仏なんだが
わからない
あっ そう 信心がたりない
ー
法華経に書いてある
地から 無数の仏が わいてくる
阿弥陀仏が わざわざ 化身として 地獄まで ついてきて
見せて 教えているのに
もったいない のぅ
わからんか
信心不足
修行が たりん のよ
ー
宇宙は仮の姿
不浄なものでもあるし 仮の姿になって 現れて くださっている
虚仮ともいうし 仮の宿とも
不浄なものに わざわざ 顕れて
教えてられている
究極の方便だな これなら
ほんとうだぜ
これなら かんぺき
ー
すべてのことは 起こるべくして
起こっている 調和して 方便としても
なにが 起きても よいのである
その 受け取り方
これだけ
ありがたく 映るのか
恐怖に歪むのか
各々方しだいと 弥陀さまも きっと 仰ることでしょう
やはり ここも 真理が働いているから
どっちにもとれるな それも言葉 神がつくったとも
いやいや 自然の理だとも 言葉のあや 本人の自由ともいえるが
神仏にしておくべし
==
S:(まず掲示板にあった上のミチオさんのひとりごと、のいくつかのポイントをまとめました)
>要領 一番が 浄土教
>浄土教は なにもしない 場香 信心だけでなる
>究極の方便だな これなら
>これなら かんぺき
>すべてのことは 起こるべくして
起こっている 調和して 方便としても
なにが 起きても よいのである
その 受け取り方
これだけ
>自然の理だとも 言葉のあや 本人の自由ともいえるが
神仏にしておくべし
--
S:ちゃんちゃん
宇宙まるごと、逃げ場のない究極の方便!
それにしても元が阿弥陀の慈悲であるから、
我、高慢などに陥らないよう、押さえがちゃんときいているというのが
まことにありがたいところです。
(もっとも虚仮もいるのでしょうがそれはそれ、無量・無限の仕事がのこっている、、といたしましょう)
というところで、、これ!:
「煩悩(ぼんのう)を薪(たきぎ)と為(な)し智慧(ちえ)を火(ひ)と為(な)す、
是(こ)の因縁(いんねん)を以(も)って涅槃(ねはん)の食(じき)を成(な)す」
『涅槃経(ねはんぎょう)』
**それにしても浄土教(という方便)を「考えた」もの(宝蔵ー阿弥陀仏)は、人間というものの洞察がよくできているな!ナムアミダブツでしか逃げ場がないように工夫がそこいらじゅうにされているようだ。
-
ところで、、、煩悩を断ぜずして涅槃を得る、、(正信偈ー教行信証)
と比較すると、
「煩悩(ぼんのう)を薪(たきぎ)と為(な)し智慧(ちえ)を火(ひ)と為(な)す、
是(こ)の因縁(いんねん)を以(も)って涅槃(ねはん)の食(じき)を成(な)す」
のほうが動的で、、、信、、、意、、、にそっているよう。
つまり菩薩の無功用行の味わいが感じられる。
*一方、正信偈大意(蓮如)にはこれがある:
光明の智火をもつて煩悩の薪を焼くに、さらに滅せずといふことなし。三途黒闇の衆生も光照をかうぶり解脱を得るは、このひかりの益なり。
というところで、、光明の智火、、は般若の剣を連想させる。
そこでふとおもったのが、
正信偈は親鸞が苦心してまとめたのだろうが
なんとはなく般若心経と対を成している、といった感じがある。
ともによく知られている、というのもおもしろい。
ついでに、、いろいろ考えてみると、
真宗は情の限界(←慚愧)
禅は知の限界、、を見て、そこから入る、というように
入り口が違うか、という気がするのです。
ことによると、(しっかと)「入って」しまえば、同じ、でも色合いがちょっと違う、
どちらも絶体絶命にいたるにしても、知は解けない、情は感情的コントロール不能、
といったことかもしれません。
(もっとも、そんなことを考えても意味がない!
ということではあります。)
==
M:
>ついでに、、いろいろ考えてみると、
真宗は情の限界(←慚愧)
禅は知の限界、、から、というように
入り口がすこし違うか、という気がするのです。<
^
けっきょく ここが ひっかかるんですよね
道元の ほうりこむ((注:仏の家に投げ入れる、の意であろう。ミチオさんはこれはそのままではないとみているようだ)) これも 自力発動
ここは 無意識 こんな言葉にはならない
これに救われた瞬間は 禅の坊主も 茫然自失で確信するだけの はずである
ここが 気になりますな
大死一番も これも いかにも 自力思考の終点的 臭い
このような言葉にはならないはず
((注:つまり、大死というのは、まだ大死を見ている自力がある、、、ということか))
だから 晩年の良寛は わかってから 口をつぐんだのではないか
たぶん もう 知で いじくりまわす 必要なしだから
ここらが 気になりますなぁ
慙愧は情ではなく 慈悲による 自然な なりゆき 回向
S:>慙愧は情ではなく 慈悲による 自然な なりゆき 回向<
ここも言葉の微妙なところか、と思うんだけれど、
私の感じは、己自身をとことん知る→罪→慙愧(情)→それが慈悲につながる、
ということかなと、いうことです。
というのは、罪はまあ過去の業の働きとか、因縁、なんだかんだで、、、、
たとえば人を傷つけたとか、いいと思ってやったことが悪かったとか、
助けたいが助けられなかったとか、
まあ知(理屈)もからむかもしれないが、
知のレベルを通り超えた、人間としての業、
身にしみた感じ(→情)がある。
(そこで自分を他人と同化して見る、、、
つまり、向こうの身になって痛みを感じる、ということ
→この感じは知でなく体から来るもの→情・同情。
たとえば、目の前で、雨の中で腹ペコの子供がひとり泣いている、、、
となったら、かわいそう、、という情が自然に起こる、といったもの
ただし、問題は腹ペコの子供だけでなく、煩悩に迷う衆生、、
ということでもあるのだね。)
それで、己自身を知る、、で、自分自身を知れば知るほど、
そして悪業の働き→煩悩、がいかに
自分に、そして人間社会全体にしみこんでいるのか、、、
そういったことに気づけば気づくほど、
そのままでは、絶体絶命、、逃げ場がない、ということになる。
しつこいようだが、そこには「悲しみ」があるから、、、
知より、情、、罪の意識かな、のほうが、深いのかな、、と、そんな気がする。
(もちろん、すべてはりんごを食べた、つまり言葉の間違った使い方、
ということでいえば、知、、、と言えないこともないが
人は論理のみで動くというものではない。→(知)・情・意が大事。)
ということで禅が知なら、
知に引っかからない馬鹿も(←言い方悪いけど、、)
情のほうで、、、阿弥陀の慈悲に引っかかる、(→罪・慙愧)
というのもあるかもしれないと、、、そんな感じがする。
(また、知ーへたな理屈ー身びいきーは慈悲の妨げになる、、という感じもあるようだ)
それで浄土教は一網打尽に、、、(という結論)から来ているから、、
(つまり、「つべこべいわず、そのままで来いよ。」→「はい」)
そしてそれがうまいことに(しくまれて、、)慈悲に絡んでいるから、
ぴたっと決まるか、(→安心)と、、、そういう感じがするのです。
M:周りの者を次から次に獲信させた おばあさんの 最後のお話:
「私はこの廃立(はいりゅう)を知らせて、機の深心まで人々を押し詰めて置くと、不思議にも大勢の人々が、信心を喜びだすようになる。在家の若い人々に大勢おります。今でもどんどん入信するぜ・・・・」
求道物語「仏敵」 伊藤康善 著
これだけで 良いと思うんですよね ぼくも この程度だったから
S:以下、廃立というのでネットででてきたもの:
『真宗には捨てものと拾いものとの二つのものがある。
この自力と他力の廃立(はいりゅう)をはっきりすれば、信心の水際も立つ、といった言葉がある。』
では、ここのところはそれでいいとして、、次にいかに信心が日常の言動にあらわれるか、、
というのでみてみたいのだが、、、
(これはすでに妙好人のトピでいろいろチェックはしましたが、、それはそれとして、、)
妙好人のトピにのせた高田という人の論文(1−4まである)、
から選んだ妙好人の無功用行とでもいうようなもの
(禅では「雪で井戸を埋める」、、、という言い回しをします)
これを幾例ものせてあります。
これらをまず読むと、無目的の目的、というやつ、
ここに書かれているような境涯は信心決定で即そうなるのか、
あるいはそれはもっと深い境涯なのか?
あるいは人によって異なるのか。。。?
別の言い方をすると、
阿弥陀の慈悲が、
あたかもその人に乗り移ったかのような
そういう行動(慈悲の行動)が自動的にでてくるのか、
この辺はどうですか?
*答えは、、、釈迦・阿弥陀仏に聞いてくれ、、、
となるかもしれないですが、
なにかあったらこの機会に、ということです。
*それと十地経では七地から八地に行くのが一番大変、というような
話があるのですが、ここでいう無功用の話は、それにつながるところ
とみえるのです。
やはり人それぞれ、、、
という気もしますが、いかがでしょう?
M:
>ここに書かれているような境涯は信心決定で即そうなるのか、
あるいはそれはもっと深い境涯なのか?
あるいは人によって異なるのか。。。?
別の言い方をすると、
阿弥陀の慈悲が、
あたかもその人に乗り移ったかのような
そういう行動(慈悲の行動)が自動的にでてくるのか、
この辺はどうですか?<
ー
これは もう みんなに伝えたくなりますよ
なんとかしてね 自然と湧き上がってきます
そして ネットの縁により 爆発してしまった
((注:浄土教を宣伝したいという意味合いだろう))
この教えは 十地の菩薩も知ることができないと
知ったとしても わずかばかりであると
つまり十地の菩薩とは 自力行でしょうね
これに向わせる 方便とも とれるが
方向転換が なされているのは 明白でしょうね
ー
信心決定はこれら生活の知恵をも包み込んで外にある越えているものでしょう
境涯により様々でしょうね 根本にはあるから分かりますよね
これも浄土真宗の味のような 神話かもしれないが
これらは当時の庶民感覚から 知恵により自然と導き出されるものでしょう如来さんの慈悲にこのような知恵もあると
元は一言で言えば 許すことができる
はははははは
刹那にすべてはあった 種が一瞬にして仕込まれている
これに取り付かれたものは光に向かい吸引されていく
ははははははっ
それでみんな 恩をかんじ せこせこと それなりに 恩返しするのだ
下僕として
はははははは
月光仮面 憎むな 殺すな 許しましょう
そおいえば 思い出しました よく坊さんの寮でも このようなことを話していました 悪人正機もここで勉強したし 土壌にあるんでしょうね
庶民パワー炸裂
ははははっ ないものは つよい はははは
持ちすぎでは ありませんか すざきさん はははは
わたしが 軽くしてあげましょう はははははは
--
S:ちょっと前にでた、
『真宗には捨てものと拾いものとの二つのものがある。
この自力と他力の廃立(はいりゅう)をはっきりすれば、信心の水際も立つ、といった言葉がある。』、、というのと、
『廃立(はいりゅう)を知らせて、機の深心まで人々を押し詰めて置く』
、、でいうと、、ここの「自力と他力の廃立」、云々、、は「わかる」(おっとこれは自力か)。押し詰める、は信心の水際、、(禅でいえば目が開く、といった感じ)につながるだろう。そしてそれは信心決定→自力が浮きだって見える、といった意味合いと思う。
これは私の従前のいいかたの、鏡の心、無分別の分別、無意識の意識、とほぼ同じようだ。
ただし、禅・ヴィパッサナのほうからでは、意識全体、、身心の動きすべてをあるがままに見る、→智慧が働く、といった感じ、に対し、他力ではいわば自力の働き(の無意味加減)を中心にみるのだから、結論は同じようにもみえるが、自我の動き(自力)にくっついて、一味違った、情感とでも言うものがあるように思う。
なぜかというと、同じ見るでも、どうも阿弥陀仏の慈悲(支え、あるいは後押し、といった感じ)がそこに入ってきてるようだ。だから同じ自力、あるいは業の働きを見る、でも、やはり味わいが違う、、という感じ。
ということで才市の慙愧即歓喜の言い回し、がわたしにはピンと来る。(此処に来てさらにピンと来るようになった、ということ)もちろんこれが悪人正機だ。
だから、それで、、ちゃんちゃん、でもあり
底が抜けた、でもあり、誠にしみじみ、ありがたい、でもある。
そして煩悩を断ぜずして涅槃を得る、、、
あるいは煩悩を薪とし、、とつながるな。
>持ちすぎでは ありませんか すざきさん はははは
わたしが 軽くしてあげましょう はははははは<
ははははは。
それは形の修行、、真宗では雑行というのかな、
では、肩がこるだろう。
ひとつおねがいするかな。
でもあなたが軽くしてくれるんじゃ、、、どうにもならんよ。
これではあなたも一回、月光仮面に頭をどずいてもらわないと、いけないようだ。
あ、それとも、、、
月光仮面は、、、
ミチオさん?!
ははははは。
M: 奥義 最強伝説
選ばれた者にしか 与えられない
薪を炊き 妙寂のめしに
その教えとは ・・
十地の菩薩も知らないといわれる ←ブッダのことば
公開中です
==
S:>十地の菩薩も知らないといわれる ←ブッダのことば<
このコメントには注釈が必要とおもわれるので、、、これだけ頭のすみにおいておいたらいいかもしれない。(以下私の十地経のファイルから)
(8)不動地 (自在、無明の底をみる、おのずから然り)
「しかし第七地から第八地への転換が最も困難である、、、この峠は一番越えがたいと言う事が強調されています。。。つまり無功用が実現されるのは第八地というわけです。。。
(それは)「不動の境地」と言う意味です。これが(前に出た)不動心です。原始仏典でブッダが究極の目覚めを不動と説かれていますが、、、「動かない、動揺しない、いかなるものによっても動かされない」と言う意味です。
この時経典は二つのたとえでこの第八地への転換、つまり「無功用」に付いて説いています。。。
そのひとつは眠っている人が夢の中で大きな川にきた。その人は向こう岸に渡ろうとしていろいろな努力を重ねます。ところが夢の中の努力によって、ハッと眼がさめた。眼が覚めたとたんに、夢の中の川も努力も消えてしまった。それと同じように、我々菩薩が煩悩の川にやってきて向こう岸に超えようとする。。。そのために大なる努力、精進をおこします。そして向こう岸に渡ってしまうと、今までのすべての度量から解放される。言い換えれば、、無功用になる。。。すべての私の計らいから解放され、いわゆる自然となる。これがひとつのたとえです。
もうひとつは、、、一艘の小船が川をくだっている。カイや櫓を用いて一生懸命こぎながら下っていきます。ところがその船が川を終わっていよいよ大海にでてくると、カイや櫓をやめて帆をあげる。ただ帆を揚げるだけで大海原の風を受けながらひとりでに走っていきます。その走り具合はカイや櫓を用いた時とは比較にならないくらいの速さです。このように菩薩行の大海にいたれば、私の分別ではなくて、仏智の力によってこの大海を無功用にわたっていく事が出来る、と経典は説明しています。
このようにして第八地にはいると、自分の計らいが捨てられて、ただ仏の計らいによってあるいは仏の智慧によって動かされていく、いわゆる無功用であり、自然です。」 p。107−110
*もとは:http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html#_Toc200240412
**注:(自在、無明の底をみる、おのずから然り)という副題は私が勝手につけたもの
***それにしても、、、>船が川を終わっていよいよ大海にでてくる、、<という表現は、阿弥陀の本願に乗る、という教行信証の親鸞の感慨とぴったり、というのがおもしろい!
そこをみると、十地経の1から7までのステップを一気に横とび(横跳)する浄土教は、さすが、、、と思います。修行を信で、ひとっとび、ということですね。
****>「不動の境地」と言う意味です。<は浄土教の信心決定とつながるとも見れるかもしれない。
ーー
もう一度言うと、、ここにある無功用、大海、、が最近私が話題にあげていた妙好人の行為にかかわるところ。つまり七→八地が、阿弥陀の本願、大船、、、につながっているような雰囲気があるわけです。
いわば此処に来て、自力がすいこまれて、、、自ずから然り(浄土教では阿弥陀にお任せ、、親鸞の自然法爾。)になるという感じ。
だから私の見る限りにおいて、、、
(これ自力?!、、はははは)、は、
十地経と浄土教の違いは見当たらないのです。
とはいえ、その実、いわばここで横とびのサポート(というか後押し:すでに救われているということへの信)に阿弥陀の本願がある、というのがそれが浄土宗のバックボーンになっているということとうけとれます。
聖道門でも他力でないと、飛べないのですが、そこの手がかりに阿弥陀の無限の慈悲が関与している、、というのがなんとも、なんとも、ありがたいということでしょう!
ー
ちなみに十地:法雲地では、
>するとそのときすべての世界が大振動を起こして、同時にすべての苦悩が消えて、全世界は光明に包まれていく。<
とかいろいろありますが、この光、、、光明、、、
これが肌から感じられるというのが、、、
ヴィッパサナでのバンガという体験でのヴァイブレーション、
あるいはプラズマの世界、とつながるようなのです。
一方、このことが、ダンマに包まれる、阿弥陀の慈悲に包まれる、という意味合いと受け取れるかもしれません。
ー
、、ということで、、十地経はそういった体験をもとに
(修行者が)道を間違えないようにという老婆心から、、、
(いうならば阿弥陀の本願の現れ方の一例として)
書かれたという気がするのです。
一方浄土教はそんな1-7地というような修行の手間をかけずに、
一気に、、阿弥陀の慈悲に包まれる、法(ダンマ)に包まれる、という大変ありがたい教えと感じます。
http://www.geocities.jp/suzakicojp/thywillbedone.html#_Toc277247689
参照
ーーーーちょっと書きすぎたかもしれないが、、、
まあいい。 意をくんでください。
浄土教の宣伝
S:> 奥義 最強伝説
選ばれた者にしか 与えられない
薪を炊き 妙寂のめしに
その教えとは ・・
十地の菩薩も知らないといわれる ←ブッダのことば
公開中です<
なんとなく、、、これ↑、劇画風、、
三文広告か?
あるいは漫画の読みすぎか?!
あ、そうか、、、、
もともと壮大な御伽噺だったんだ!
ははははは
らっしゃい、らっしゃい!!!
==
M:これは 誰でも広く救う教えこ
州崎さんのように 才能があればよいが
みんな そうではないんだから
この教えなら そんなに難しい修行はいらないんだ
信心だよ 信心 これだけ
==
S:いや、ごめんなさい、
冗談きつかったかな。
>州崎さんのように 才能があればよいが<
これ、才能は関係ないでしょう。
禅にしろヴィパッサナにしろ。
例によって馬鹿になれ、、ですよ。
つまり修行といっても、
ねらいはもともと修というより、証、、、なんですね。
(これが浄土教のナムアミダブツ)
業の根っこを抜く、という意味では
悪業を対処するという修行といった意味合いがあるように見えるけど、
その実は何もしないで、あるがままを見る、、、
ですから、余計なことをせずに、
素直であれ、といったものでしょう。
後は、法(阿弥陀様)におまかせ。
これを証すればよい。
(浄土教的にいえば根っこは抜いてもきりないから、
無力化すればよい。煩悩を断ぜずして涅槃を得る。
で、結局抜いたというのと同じこと))
だから「修行」でも馬鹿のほうが早いでしょう。
むしろ才能とか、、、、知、頭関係、、のものは
しごく簡単なところを複雑化する、
(頭の上に頭を重ねる、と禅ではいいますが、、)
というようなマイナスの要因になるでしょう。
知識は直観を悪くする、
といったものです。
だから頭関係は、、
浄土教とおなじで一般には自力、、、ですから
いわば我の働き、身びいき。
それには、かかわらない
ただ見る、
すると五蘊皆空がみえる、
智慧が働く、、(→中道)
したがって鏡の心の意味合いが「わかる」
といったぐあいでしょう。
(→実相をみると智慧の自己組織性が働く、
といった感じ)
浄土教ではこのところが、
自力と他力の廃立(はいりゅう)をはっきり、というのにつながって、
阿弥陀の慈悲・光明に吸い込まれる、
といったものでしょう。
(→自力が慈悲の光にあって
とけてしまう、、、といった感じ!
ないていた餓鬼が、抱かれているうちに
いつのまにか元気になって泣き止んでいた、、
といった感じ)
だから素直・謙虚、、、
赤子のような、、、という
そういうのが基本になっているというのは
浄土教と禅もヴィッパサナも同じと私は見ています。
M:妙好人才市
この人も たんなる 泥臭い凡夫
宣伝が ききすぎているだけ
寺は迷惑だと 実際は泥臭いものだったと
そんなに 外面は かわらないんだよ
喋れば そうなのか
この程度だなんだよ
あとはその人の境涯
もって 生まれたものだ
変るのは 逆におかしい
そのまま 現世利益なしね
心が救われる
世間の表に出てくるものは 変ったと錯覚するかもしれない
かわるのは自力の教え
これは そのままだ
じたばた 手足を漕ぐ必要はない
浄土教:悟りをかつがない:素直・無功用
S:そこが浄土教の抑えのしっかりしているところ、
凡夫で来るから、、
あるいは悪人正機でくるから、
おごりに結びつかない。
>かわるのは自力の教え
これは そのままだ
じたばた 手足を漕ぐ必要はない <
信心を得ても、「悟り」という余計なものを担がない、
肩で風を切るようなつまらない格好付けをしない、
気取らない、
純粋、素直、、、
だから名前が残らないような、、そういう人で
逆によくできている人が妙好人のように、
市井の人の中にいる、、、
というのが誠にありがたいところ、と思います。
(あいにくそのために、知に走る人は
なかなか気づかない、、、ということにもなるのでしょう。)
==
M:ぼくの おふくろでも
35歳前後にあったようだが
全然しらなかった ぼくしか 知らないだろ
最近 聞いたら 教えてくれた
後光が射すわけでもなく
親父の晩年でも おかしくなって 親父にあたっていたが
ぼくの せいもかなりあるだろな
いまは 普通になっているがね
ただの おふくろ
犬猫が救われたところで
空飛ぶ 鳥くんが 救われたところで
後光は射さない わからない
そのまま
ブッダによると 動物に化身 救っていると
ブッダもここに化身
けっきょく ごく 普通になるだけ
飛び出していたものが ひっこむ
この程度のものなのさ
出世欲とか世俗の 突出した欲望
これが へこむ
たいして 変らない
変わったと言う人 出てきて 教えてくれや
なにが 変ったか 聞きたい
別に風景は変らないぜ
ただ 物が 流れているだけ
そのままに 煩悩のままに
それが なにか
その煩悩でナンマンダブ
これが証
慈悲により 凡夫にしらしめるのである
だからといって
なになにをしなければならない
そうではない
してはいけない 自力のはからい
しっかり おまえの 煩悩が見えたか
と
よし よし
つまらない どおしょうもない 情けない 教えなのさ
どおしょうもないものを 救うんだから
この程度
しらしめる
情けない どおしょうもない教え
つまらない 教えなんですね
ちがったかな
この教えは 情けない どおしょうもない 教えだと思うが
間違いましたか
S:>この教えは 情けない どおしょうもない 教え<
たしかに否定、、、
あるいは受動、、、
余計なものを出さない、
そのまま、、、
だから
そう言えないこともない。
けれど、、、
その教えをうけたもの、
それぞれがそれぞれなりに、、、
感謝を身をもって何かの働き、、、にあらわす。
そしてそこに、くつろぎというか、
ゆとりというか、
慈愛というか、、、
馬鹿のままの素朴さ、
あるいは実直さ、というか
つまりひずみのない身心、、、
ひずみがあってもひずみが溶けたような身心、
そこから何かが発信されるのだな。
それがなんであれ、、、
で、それが自力でないから、
無功用、、となる。
あるいは自然法爾となる、、
あるいは無為、
といったものだろうな。
だからあるがままで、かわり映えはしない、、
けれど、外(娑婆)から見ると、
結果としてかわり映えしてる、
となるかもしれない。
というのも
かわり映えしないのをかわり映えさせようと
弄繰り回すのが娑婆のしきたり、
煩悩のありさま、といったものだからね。
まあ、それもそれで、
目くじら立てずに、、、
たんたんと、、、
なすべきをなすということではないかな。
>間違いましたか<
いえいえ間違っていないと、、、
これを言っちゃうと、しかられるかもしれないが、、、
だから、その辺もふくめて
丁寧に、、、
たんたんこつこつ、、
というふうに私は領解
(←この言葉はじめて使った)
しています。
*ちなみにネットをしらべたら、
領解文というのがちゃんとあるのですね。
不精しようというのではありませんが、以下に本ファイルの出だしに書いたものをコピーしておきます。というのも、ここで対話したものは、実ははじめも終わりもないような、、、あるいはつねにはじめ、というような意味あいではないかと思うのです。
常に第一歩に居る、ゼローベースに居る、というのが私の感慨であります。そしてそれがー不思議なことにーそのままでありがたい、とそう感じております。May all beings be happy!
――
『浄土門の人は禅とかヴィパッサナを聖道門とよんで浄土門の特徴をうったえているようだが、彼らに言わせれば、私は聖道門を歩んできたものの典型かもしれない。(もっとも妙好人の言行には長いこと感じ入ったものがあったのではある)
別のファイルにThy will be doneというのを作って、宗教の基本構造とでもいうものについての私なりの洞察をまとめたが、そこでの結論は究極には聖道門も浄土門もそこにいきつく(浄土門のことばでは往相回向)、あるいはそこから来たもの(環相回向)、というものであった。
それはともかく、ヤフー掲示板でのミチオさんとの出会いからこれで一年ちょっと。色々と微妙な話をしてきたが、朴訥?な、あるいはときとして切れ切れ?の彼の表現にもなじみ、味わいのあるお話ができたことに感謝するものです。
ひょんな縁で、ここを訪れた人にこのファイルが何らかの役に立てば幸いとするものです。感謝、祈り、感謝、祈り!』
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html