教行信証・禅・ヴィパッサナ

 

― 南無阿弥陀仏と発菩提心、真宗と禅、そしてヴィパッサナ−

 

 

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ないしhttp://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html 

 

 

はじめに. 2

アプローチの仕方(私なりの教行信証の読み方). 3

結論を先に. 3

阿弥陀仏の本願とは何か?. 5

ひらめき:本願=発菩提心. 5

道元の発菩提心. 5

根っこの体験. 6

信(信の生まれる過程). 8

信、暗示、薫陶. 12

暗示と薫陶(無意識の構造). 12

信と脳の構造:神様の遊び. 14

ヴィパッサナにおける信. 16

智慧の構造. 17

いかだを捨てる. 17

行を選ぶ. 18

煩悩を断ぜずして涅槃を得る. 19

智慧・アイデアの出るメカニズム. 20

テイラーさんの体験、修行の意味あい. 21

まとめと検証. 22

本願、信、暗示、薫陶、自力、他力、智慧(まとめ). 22

曽我量深と鈴木大拙との対話. 24

無量寿経、正信偈などの言葉. 25

正理と法の道. 26

構造. 32

独り言. 33

横超. 36

その他(参考まで). 37

物騒なこと. 37

大悲. 39

華厳経・賢首品でみる信. 39

涅槃経の言葉から. 42

ミチオさんの言葉から. 43

中山正和さんの言葉から. 46

業、心の癖、暗示、薫陶、信(道元と孔子). 47

さいごに. 47

参考資料. 48

 

 

はじめに

 

ミチオさんとのネットでの出会いがきっかけになって、親鸞の教行信証を読み始めたら、なんだかわけがわからないことになり、どうしようかと思っていたら、あるとき突然ヒラメキがあった。

 

その後そのヒラメキの内容とつき合わせながら教行信証を読み、縦横斜め、いろいろ調べてみたのだが、教行信証の内容と、それまで私の感じていた「正理と法の道を歩む」というイメージ(そこにいたるいろいろな背景も含む)がぴったりつながることになった。

 

すでに大拙をとうして妙好人などはなじみは深かったものの、禅とかヴィパッサナなどと真宗がどうつながるのかというのが、ここに来てかなり明らかになったように思う。つまり、一般には念仏、禅、ヴィパッサナと、お互いにまったく縁がないようだが、根っこは一緒であり、「他力」「自ずから然り」「法の働き」などが、どう我々の生き方にかかわりあうのかが「わかる」ようなのである。

 

ということで、これまで私が書いた物に比べると、ここに書いたものは、これまでのものの総合的な統合(Synthesis)とでもいうような意味あいがあるように思う。信にからんで暗示とか薫陶などにもふれ、微妙・難解なところも突っ込んでみたが、少なくとも私には紛れがないようなのでここに公開することとする。なにかの縁でここを訪れた人がおられるなら、参考になれば幸いとするものです。

 

                                    2009年10月24日 洲崎清記

 

注)

    本文中、印のものはHPにファイルがあります。このファイル最後の参考資料にURLをまとめておきました。

    本文中の言葉で、さらに調べたいものがあれば「“洲崎清”X]というふうにグーグルで検索すれば、かなりの程度は見つかるようになってます。(Xは検索したい言葉)

 

アプローチの仕方(私なりの教行信証の読み方)

 

いろいろな人が残してくれたお経や、語録などの内容が、自分の体験とつながり、さらに、お経や祖師方の言葉の相互の連絡が見えると、これは面白いものであり、宗教というものの深みがますといった意味合いがある。但しそういうことが出来るには智慧のある読み方が必要になるだろう。そこで、この辺のところを詳しく見てみよう:

 

1)そもそも、なにかを読むというときには、それまでに蓄えられた情報との整合をチェックしながら読むのだと思う。そしてわかる、わからない、あるいは意味がある、意味がない、と、読みながら智慧を使って正しい理解・見地を見極めながら進めるというものであろう。ところで存在の底から(究極的に)何かがまぎれなくわかるというのは、いわば論理で納得というのを通り超えて、体でわかるといったものに結ぶ付くようである。

 

2)そうでなく、あらたに手に入れた知識をそれまでに蓄えたものと合成(Synthesis←智慧の働き)しない、あるいは体でわかったという感じと結びつかないなら、単に知識を蓄えるということは、あたかもいろいろな荷物を頭に詰め込むだけで、頭の中の統合がない「中途半端」な、あるいは「蓄えた知識の使い方が不明瞭な」状況を生み出すということになる。

 

ふとした縁で教行信証を読む機会があったので、あるところまで読み進めたら、何がなんだかわからなくなり、どうしようかと思っていたら、あるとき、ひらめきがあった。

 

そのひらめきはこの教行信証という本の焦点である、本願、名号、念仏、信心、といったものが、ある「見地」に立つことによって、(妙好人の言葉、蓮如、歎異抄とか大拙の本以外、ほとんど真宗にはなじみがない私にもかかわらず)いっぺんに「納得」されるものであった。

 

結論を先に

 

そこで、その「ひらめき」の内容(結論)をまとめ、それと照らし合わせてこの本を読みたいと思うようになった。もちろん、「ひらめき」の内容を鵜呑みにするのではない。

 

こういったやり方は強引と受け取られるかもしれないが、公案など、禅のやり方に慣れると、(ねらいは般若の智慧を体得するというところにあるので)いわば直観が鋭くなり、大げさに聞こえるかもしれないが、一を聞いて十を知る、といったことがあると思うからだ。

 

ところで、自ら禅者と名乗るものでも、いい加減なもののいるのは論をまたない。禅を志す者は、伝統的とはいえ、ことによるとその型にはまったやりかたにとらわれず、この親鸞の本からもたくさんの教えを学ぶべきところがあるというのが、私の直観なので、そういったことも考慮して読み進めたいと思う。

 

このファイルを読む人があるなら、私自身は身心から「わかった」という感じはあるにしても、もちろん私の納得の仕方はまちがっているかもしれないという可能性も認識して、先を読まれたら良いと思う。

 

 

ところで、一般に「ひらめき」、というのは、その起こった後で検証ができるならあたりまえ、となるのだが、それまでは「ひっかかり」がある。この辺(→智慧の構造)は中山正和さんの本や彼との対話などですでにあきらかだが、念のためそういうことが問題になる背景も簡単に見直しておこう:

 

「宗教は人類の幸福のために生まれたものに違いありません。。。無数というほどの信者を獲得してきたのがその証拠です。人の「心」を救うものを持っているのです。それがなお、今の時代に無力であるのは信者獲得のためにその本来の哲学が失われてしまった事にあると思います。つまり正法が末法になってしまったのです。ですから、我々は過去の大天才、キリストとか釈迦が、本当は何を考えていたのか、できる範囲でその真相に迫ってみなくてはならないでしょう」

p。ii(序文) 「釈迦の悟り」、中山正和

 

ついでに(ぱらっとみて目にとびこんできた、、、)これも:

 

「一般に芸術家は俗人にくらべて仏様に近いといっていいのです。どんな芸術でもそれに打ち込んでいる人はイメージを大切にします。右脳優先なのです。左脳の言葉で理屈を言うのは嫌いです。」p。38

 

よく引き合いに出されるところではモーツアルト(楽譜が見える)、アインシュタイン(数学は芸術→私はイメージで考える)などの例がそうでしょう。ちなみに、右脳の話は、後述するジル・ボルト・テイラーさんの体験談などにつながる大事な話であると覚えておくといいでしょう。

 

 

阿弥陀仏の本願とは何か?

 

ひらめき:本願=発菩提心

 

序文にその本の内容を網羅する結論を持ってくるというのはよくあるケースだが、親鸞の書いた教行信証の出だしにこうある:

 

「私なりに考えて見ると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は。わたることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」

p。3、親鸞、教行信証(現代語版)

 

 

私の「ひらめき」(←論理による検証の前に結論が飛び込んでくる)は「本願」(=念仏=南無阿弥陀仏)は「発菩提心」と同じということです。

 

それでは発菩提心とはなにかというと、私なりに言えば、釈迦のなくなる前に言ったという「正理と法の領域のみを歩んできた」という言葉(p。150、ブッダ最後の旅:涅槃経)の意味に感じ入り、その意味あいにそって生きようという心の最深部からの願いを持つということです。ただし、この願いが阿弥陀仏から来たかどうかというのが問題になりますが、いちおう私の言う「心の最深部」と「阿弥陀仏」が同じ、ということで話を進めたいのです。

 

それでも、さらに「ちょっと待て、お前、本当に阿弥陀仏を知っているのか?」ときかれたら、「はい、よく存じ上げております、いつもお世話になっております」と答えます。「それでは阿弥陀様はどんなイメージか?」と聞かれたら、「ありがたい、救われたことになった、おおもとの働きです。大智・大悲の根源です。」と答えます。

 

道元の発菩提心

 

ところで道元の正法眼蔵に発菩提心の巻があり(岩波3巻、p。325〜)、面白い・ありがたいことが書いてあるのですが、そっちにどっぷり入っちゃうと、読解するのに手間がかかるでしょうし、教行信証の話からそれてしまうかもしれません。但し、「本願=発菩提心」のひらめき(現段階では仮説)の検証のいみあいもあるので、簡単にふれておきます。:

 

―この巻で、道元は、発菩提心のあり方に、「読経念仏するなり」「一称南無仏するなり」という例を出している。(P。327)

―像を作ったり搭をつくるというのは自力でなにかするという解釈をしているものがいるが、それは外道であって無為の発菩提心である、ということを説明している。(P。330)

―彼のいう「千億発の発心」(P。332)は「千億発の念仏」につながるものであると読める。 

―(華厳経を引用して)「最初発心時、一向求菩提、堅固不動」というところ(P。336)はまさに「信心決定」をおもわせる。

 

ということで、道元のいう念仏、南無仏、自力、外道、発心と念仏、堅固不動といった言葉の意味あいと真宗のいう信心決定の意味あいに、「ぴったり」つながるものが私には感じられるのです。

 

おそらく真宗関係の人には、こういう道元の言葉の意味あいがすぐにはわかりにくいとも思えます。(もっとも、一般のひともそうかもしれない。。。)

 

けれど、ことによると「根っこ」は同じ、と感じられる人もおられるかとも思います。つまりある宗教体験がもとにあり、さらに幅広く、柔軟な見方ができたら、ということです。だから、そういうことなら親鸞も道元も「お前の指も私の指も、姿形は違うけど、同じ月をさしていたのだな」と、顔を見合わせて、「うんうん、これは面白い、ありがたい」、となったかもしれないというわけです。  (^_^)-☆

 

(注:私が2003年に書いた「蓮如と道元の比較」というファイルがあります、比較をすると蓮如は道元の正法眼蔵を読んでいたかのような気がするほどです)

 

(注:教行信証を読み進めてみると、発菩提心については、たとえば教行信証p。191(華厳経を引用),225(無量寿経を引用)に説明がある。p。223−4には自力と他力の菩提心、および完全な信と完全でない信について書かれている。

 

また信と本願についてこうある:「信はさとりのもとであり、功徳を生む母である」(華厳経を引用)p。208、「みな、ともに他力金剛の信心を起こして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏の悟りを得るものである」(観経疏を引用)p。220)

 

根っこの体験

 

ここまでのところをまとめると、、私は、禅やヴィパッサナ、そして真宗を調べた限りでは、「根っこ」は同じ、と直観したわけだ。つまり「本願」(=念仏=南無阿弥陀仏)=「発菩提心」=「正理と法の領域をのみ歩む」というもので、これらの願い(〜祈り、信心)、、は、言葉した姿は人、宗派、お経などによって違うかもしれないが、その根っこ、つまり「体験」ベースでの「心(心身)のあり方」が同じであれば、その意味合いが通じる・わかるだろうというわけだ。

 

以上が「ひらめき」の内容で、親鸞の言葉はそういうふうにみると、少なくとも私には、そのままで納得できるということです。(これはサーフィンが好きな人が、同じようにサーフィンが好きな人に会って話をすると、話がとんとん進むというようなものですが、もちろん、ここでの話題は宗教です。)

 

ということで、出だしの文をさらに丁寧に吟味してみます。

 

「私なりに考えて見ると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は。わたることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」

p。3、親鸞、教行信証(現代語版)

 

ここで、、

1)「わたることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船」

2)「何ものにもさまたげられないその光明」

3)「煩悩の闇を破ってくださる智慧」

、、というのが「本願」というものにつながる親鸞の「体験」の形容であろうと想像されます。だから極端なことを言えば、私が同じような体験をしており、その意味合いがしっかりわかっているのなら、この後の文章は読まなくてもいいと言うぐらいのものです。

 

そこで次に私の体験に照らしながら、ひとつひとつを吟味します:

1)「大きな船」は絶対の働きを感じさせます。「わたることのできない迷いの海をわたしてくれる」のだから、自力は必要ない、ということ。つまり、そのままで救われている、ということで、これが私のヴィパッサナでの2000年の体験以来感じる「ありがたい」につながっていることは間違いない。それで、なぜそうかというと、ほかに説明のしようがないのであり、その働きからは逃げられない、ということだから。(←これが「絶対」の定義)但しこういう表現だと、私というものが存在するような感じがするが、一方、私はその働きそのまま(あるいは大きな船そのもの)、という感じもある。(→これは、次でさらに検討)

2)「何ものにもさまたげられない、、光明」という表現は体全体が光明に包まれた、あるいは私自身がそもそも「光明」(光の粒子の踊り:プラズマ)そのものという、これまた同じヴィパッサナでのバンガ(身心脱落)の体験(2000年に体験につながるようです。では、これを書いている今現在、「光明」がどこにあるかというと、それは心を平静に、知覚をより鋭敏にすると気づくのですが、、、それは体の中すべての細胞(あるいはカルパ=素粒子)が微細の振動(ヴァイブレーション)している感じにつながると思う。これは後述のテイラーさんの、何兆もの体の細胞を感じる、という表現に相当し「道元の透脱という表現にもマッチするようだ。つまり、身心のしこり・歪、がない(→あるがままで自然)という感じにつながると思う。**

3)この光明が「煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝き」というのはまず、2)でいった「身心のしこり、歪」がなくなる、というのを意味していると思う。丁寧にいうなら、煩悩、葛藤、悩みは体の歪(の感じ)に現れ(というのも身心一如だから)、それに気づいて(←鋭敏な知覚)反発することなく(←平静な心)、そこでおこっていることをあるがままに受け止め、状況を冷静にみると、あたかも光がそこ(に置けるありさま)をくっきりと照らし、それとともに歪が解消していく(影が消える)さまを表現しているようだ。変に聞こえるかもしれないが、いわば「なにもしない」ままに智慧がはたらくのだから、これは自力ではなく、他力(絶対の働き)というわけだ。このことが「動中の工夫」につながるのであり、これは、なにをいおうがそういう体験なのだから、有無をいわせない(つまり、それはそうなっていると「わかる」、「信じる」、「感謝する」しかない)ということだ。

 

:  HPにファイルがあります   

**印: もう少し細かく言うと、私の場合、ヴィパッサナの瞑想をしていて禅定の進んだ段階で、目をつむっているにもかかわらず光が見えることがある。それと、これは十地経のたとえば法雲地(第10地:「その時すべての世界が大振動を起こして、同時にすべての苦悩が消えて、全世界は光明につつまれていく」)のようなイメージを指し示しているようでもあるが、親鸞はおそらく坐禅・瞑想をしてこういう見所にいたったのでは「ない」と思われる(→おそらくほかのお経からの転用)ので、あまり光明という字のもつイメージにとらわれる必要はないのかもしれない。

 

(注:このあと教行信証すべてを読んで吟味しましたが当初の直観・ヒラメキには間違いがなかったようです)

 

信(信の生まれる過程)

 

ここまでのことを整理すると、こうなる:

 

私にとっては、「本願」=「発菩提心」=「正理と法の道を歩もうという願い」、であって、上で見てきたような体験と密接な関係がある。それらの体験は不思議・ありがたい(理屈を超えた)法の働きと感じられ、「法の働き」というのは「他力」であり、「絶対の働き」と言い換えてもいいだろうということ。

 

ということで、次に調べてみたいのは、いかにしてそういう「本願」=「発菩提心」=「正理と法の道を歩もうという願い」が私に明らかになったのかということ。

 

もっとも、この疑問は考えると変なはなしで、普通にはどうやって信心をもらうか、あるいは「信心決定」するかというのが、肝心の疑問であるはずのところ、私の場合はその逆をチェックするということになったわけだ。でもそうなってしまった(と思っている)のだから仕方がない。(それとも、、、これが機法一体のありようかもしれないが、今はそれはそれとしておく)

 

そもそも真宗の教えによると、「信心」は「他力」・「絶対の働き」であり、「弥陀の本願によって回向されている」わけだが、もしそうならなぜそのことに気づかず、どういういきさつで、「阿弥陀の本願」にまぎれがないという「信」が私に生まれ「正理と法の道を歩もう」という願いが起こったのかということだ。(注:絶対の働きとして私という存在に組み込まれているなら、「外れる」あるいは「迷う」ということがないと気づくはずがないということ。)

 

「本願」(→信)に気が付かなかったときは、おさないときは別とすると、混迷の中に生きていたときというわけで、なにか人生への不安があって、安心を求めたい、あるいは禅などという、なんだかわけのわからないものを知りたい、という「思い」がどこかにあったのだろう。(注:誰しもそういう気持ちの出るおおもとに本願があるということなのだろう。その時それがどこから沸いてきたのかはわからないとしてもである。)そして私に「信」が生まれるのに、いくつかのポイントがあったようなのでここに簡単にまとめておく。:

 

1)もともと、、何かを求めるという「思い」がどこかにあったということだろう。だが、このとき(20歳台)は求道という言葉などは知らない。

2)(ひるがえって、幼いときはどうか、と思い起こしてみると、求めるという「思い」はないわけで、これはどうしてかというと、本願(絶対の働き)がそのままに現れたような生き方をしていたということだろう。キリスト教で言うエデンの園にすんでいて、左脳が発達の中途であり、知恵(言葉)にまつわる煩悩などの問題が強く感じられなかったというわけだ。)

3)30歳ごろから、禅、とくに大拙の本(ひいては彼の徳)にひかれていったわけだが、大拙の本をよんで、わからないままになにか浸透していくものがあったようだ。これが私における「信」の種とでもいうものであろう。知らない間に、だんだん大きく育っていった様に思う。

4)あれこれしているうちにヴィパッサナに出会い(当時52歳)、10日間の修行をしたとき、その4−5日目にこういうことがあった。修行では連日、ものも言わず、人と目もあわせずに、長いことすわるのだが、ゴエンカ氏の修行の説明、読経や法話を目をつむって坐禅しながら聞くということが何度もあって、その時に「これ、ほおって置くと暗示にかかるのではないか」と思い、しばし不安になったのだ。だが、もともと覚悟を決めてやろうと思っていたのと、ゴエンカ氏や、修行に関する情報などをそれまでに綿密に調べてあったので、覚悟を新たに、暗示されても悔いはない、と、それこそ身を投げるように修行に没頭していった。

5)8日目に「光明」「脱落」の「体験」があったのだが、業のお荷物が吹っ飛んでいったのがわかり、まことにありがたかったものの、10日間のコースを終わるにあたって、昔の混迷の自分に戻りたくないから、そのためになすべきことをなさないといけないと自分に「誓い」、私なりに法の道を歩み始めたのだ。(つまり具体的には、修行を続け、戒などゴエンカ氏の説明した内容を丁寧に守る、といった具合)

6)上のありがたい「体験」の意味あいが、今ひとつはっきりしなかったので、修行を続けるかたわら、お経とか大拙、そのほかいろいろな本を調べ、いろいろな人との意見交換、日本の掲示板での活動、調べ・検討・確認内容の整理、HPへのまとめ、なども含め、やたら調べを進めた。なぜそうしたかというと、ある種の感触はあったのだが、得られたものを失いたくないし、ほか()になにがあるかはっきりわからないので、それを何とか見極めたいということ。(注:このころからすでに、得られる、というのは実は得られてないのだ、ということはわかっている。というのもえられるーあるいはわかるー当体があるのはおかしいから。→この辺ややっこしいようだが、HPにのせた、動中の工夫、Wilbro氏のガイドなど参考まで)

7)この修証の歩みは現在につづいているのだが、法の道を歩むとともに、私が歩んでいる道は正しい道だという感じがだんだん強くなった。というのも、迷い・煩悩・葛藤に陥るということがどんどん少なくなっていったからだ。それとともに余計なことにかかわるということもどんどん少なくなっていった。(→智慧がうまく働くようになったのだろう)

8)そのような中で2007年の春にある「体験」があり、その時(悟り)体験の内容(意味合い)を理解できたという体験があった。(ちなみに、2000年の体験では体験の内容・意味合いが今ひとつはっきりしなかった。)(→この2007年の体験は大げさな言い方だが、秋月師の言う、大拙の「大悟」に相当と思われる。)これにより、「正理と法の道を歩む」という意味あい(鏡の心)がより明確に理解できた。ところで過去数年間、日々の坐禅の時間と迷い・煩悩(それがあるなら)の記録を続けているのだが、おかげさまで迷い・煩悩などの落とし穴に落ちることもほとんどなく現在にいたっている。また、この流れの中で生活がよりシンプルになったり、修行の内容が少し変わったりもした。(←盤珪や慧能の言を再認識し、2009年6月ごろからは坐る時間を一日、10〜20分程度まで減らした) 

9)2008年春に十地経に出会い、さらに「正理と法の道を歩む」という釈迦の言葉(涅槃経)に共鳴し、私もそうありたいという願いが自然と意識に上ってきたが、もともとそのやり方として動中の工夫を10年近くすすめてきたので、特にこのときから、そういう願いが起こったとはいえない。ただし、「正理と法の道」の歩み方(プロセス)が、2007年の「体験+理解」(の体験)でより明確になり、深い確信が得られたのにともなって、そういう願いが意識に上ってきたのだろうから、真宗の表現を使うなら、これが私の「信心決定」かもしれない。ところで、これはあたりまえのことだが、その後もチェックは怠らない。つまり「正理と法の道を歩む」というのは目的であり、手段でもある、ということだ。(これはまた、動中の工夫を進めるということでもあり、修証一等ということでもある。真宗ではこれを正念相続というようだ。)

10)            ついでにいうなら、こうして物を書き、あるいは掲示板での投稿をおりにふれてまとめ、HPに載せ、私が歩いた経過を誰からでも批判を仰げるようにという形を取ってきたのは、それ自身が、振り返ってみれば「正理と法の道」を歩もうという願いの一つの表れだったということだろう。もちろんこれはそうしようとしてということではなく、気が付いたらどうもそういう形になっていた(つまり手段=目的)ということだ。

 

 

以上が私に「信」の生まれる経過だが、ここでもう一度「信じるということを考えてみたい。つまり、信じるというのに信じるがいたらそれは(私の知る限り)厳密な意味でにならないように思う。つまり信じる対象があり、それを信じる人があるなら、それは自力の信であり、すでに「落とし穴」に落ちているわけで、これでは自力の修行と同じだ。「求めたら、求まらないのである」(←「法を求めるものは法を求めては成らない」−維魔)

 

だから、私の見方では、いわゆる「信心決定」は「機法一体」と対になっていると見えるのであり、これは一回だけでおしまいというのでなく、「動中の工夫」(〜正念相続)という日常のあり方に反映されるべきものとおもう。そしてそのきっかけをつくり、そのことの確認をするのが真宗においては「南無阿弥陀仏」・「念仏」だと思う。(→私においては動中の工夫:鏡の心の働きの確認)

 

ちなみに、この(「信心決定」・「機法一体」の)構造は道元のいうところと同じということを知っておいても良いだろう。:「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。」(現成公案) つまり私は何々を信じていますなどといっているうちは、まだまだ未知は遠いということに成る。そのような言葉には、ほかのものはわかっていない、などという優越感のようなものさえにじみ出ているかもしれない。

 

 

ところで、ここまでいろいろ書いてきたことを一言で言うなら、すべてが「自ずから然り」(=絶対の働き)ということだ。これは妙好人・才市の言葉だと、「一面の他力」だろう。そして、それを我々の日常の行為面でみるなら、孔子の「心の欲するところに従って矩をこえず」、つまり動中の工夫の理想の姿、となるだろう。

 

我々にできることはこのへんのところをできるだけ明確にして、「おっとっと」と時々道を踏み外しそうになりながらも、「知覚を鋭敏」に、かつ「心を平静に」、「正理と法の道を歩もう」というわけだ。

 

信、暗示、薫陶

暗示と薫陶(無意識の構造)

 

ここで暗示と薫陶(〜潜在意識・無意識の構造)について考えて見たい。というのも私の見る限り、これらは信とはきってもきれない関係があるからだ。ただし、ここでいう信とか暗示、薫陶というのはこれまで培ってきた悪業をふるいおとし、「正理と法の道を歩む」という方向付けを確認(〜道元のいう発心、発心、また発心)することを見ている。暗示というと、オカルトの例など物騒なことに結びつく場合も十分にありうるので、従来注意を配ってきたが、この機会に、さらに調べてみたい。

 

暗示の例として、催眠術を使ってタバコをやめるなど癖を直すことが可能というのはよく知られている。催眠については生前、中山正和さんとも話したところで、その内容は彼の生涯最後となった本にも書かれている:

 

催眠のポイントは、マナ識(ここではいわゆる通常の意識、言葉を使った意識と考えてよい)を弱める、あるいはその働きをゼロにちかづけ、無意識の(刷り込みの)記憶を変えるというのが鍵であり、そのためにはいくつかの条件が考えられる:

 

a)薄暗いところ

b)リズム。音楽。強烈な打楽器による催眠への誘導など。

c)視覚、聴覚などを「集中」させる。

d)繰り返し

e)短時間に強烈な刺激を与えること

 

これらを説得の技術として使う例としては、セールスマン、寺院の行事、サロンやバーのママさん、ヒットラー、新興宗教の教祖などがある。(P。106、私の「創造工学」総まとめ。一部意訳してある)

 

(注:かかりやすい人のタイプも私なりに想像ができるが、今はそこには触れないこととする。)

 

催眠の場合は、かけるほうが意図して行うものだろうが、たまたま上にいったような環境にいたために、あたかも知らないうちに自己暗示、あるいは集団の暗示にかかる、というのもあると思う。つまり、好き、嫌いなどの思考や行動の基準が(知らないうちに)脳の中に組み込まれていく、ということだが、薫陶あるいは、何かのイメージを心に念じるというのが効果をあげるのはそういう意味合いと思う。

 

たとえば、門前の小僧習わぬ経を読む、とか医者の子供は医者が多い、というようなもので、後者の場合は親父さんの好き嫌いが、あたかも自動的に子供の刷り込みの記憶に組み込まれたのだろうというわけだ。(好きこそものの上手なれ、も同じで宗教の場合は、宗派・修行などとの相性(あいしょう)につながると思われる。) 般若心経になじみの深い人は「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。。。」と、その出だしを聞くだけで、心身がピンと正されるという感じを受けるのではないだろうか。

 

何かのイメージを心に念じるということに関しては、イメージ・コントロールという概念がよく知られている。それは、関心の対象がサーフィンの上達であれ、芸術であれ、仕事であれ、発明であれ、人生設計であれ、「念じる」(〜達成された状況を刻銘にイメージする)ことによって、無意識の領域に組み込まれたプログラムがあたかも我々をオートマトンのように操作し、イメージ(ヴィジョン・信念)が現実となりうるということだ。これも我々の思考や行動の基盤に自動操縦・フィードバックの機構が組み込まれるようなものだろう。

 

私が感じ入った言葉の例としては、松下幸之助さんの「まず使命をもつこと」「熱意をもつこと」さらに「まず成功すると思うこと」という言葉が思い浮かぶ。また鈴木彦治さんという経営者には「人生はイメージ造形である」というすばらしいアイデア・イメージを教えていただいた。ただし、これらが正しく働くためには、松下さんがいうように「素直な心を持ち」「道理を知る」ということだろう。こういう言葉にであったのは私が30歳のころだが、そういった言葉の意味あいを私の人生において明らかにしようと、思い願ったものである。

 

「宗教」の宗という字は「大本」(おおもと)、という意味があるらしいが、私の直観では、「安心」を得る、「自在」を得る、あるいは「悟る」というのは、意識・無意識の基本構造が変わる、あるいは法の働きにそって、あたかもニューロン(細胞)がその自己組織性(→智慧)を発揮するようになるとおもわれるのだ。(←ちなみに、テイラーさんの体験がこの辺の検証におおいに役だつ。)宗教が世間一般の論理を超えているというのは、このあたりにその理由があるといっていいと思う。智慧がでる(更に言えばアイデアが生まれる、種が進化する)というのはこの生体の自己組織性(創造性の原理)とでもいおうか、我々存在の根源の働きに深い関係があると見えるわけだ。

 

変に聞こえるかもしれないが、トビウオが空を飛べるようになったのは、大きな魚から逃げるために「飛びたい」と「誠実に思った」からというわけだ。仏教に仏性という言葉があるが、これは自然の不思議というようなもので、トビウオに限らずそういう人の理屈を超えた物事のありよう(働き)を目の前に、そしてわれわれ自身に見出すというところを見ていると思う。 

 

信と脳の構造:神様の遊び

 

このところを脳の構造という視点で見ると、暗示や薫陶というものは、無意識のレベルで、あるニューロンの回路が組み込まれる、あるいはすでにあった回路が無力化され、働かなくなる(例:お化け、煩悩、に惑わされない、あると思っていた痛み、苦、がなくなる)、といったもので、それがなぜそうなったのか当事者は論理的には、はっきりわからないが、効き目がある、というのがその特徴だろう。もちろん煩悩の根が抜けないというのはその逆の場合だ。

 

ところで本当の「信」は、それが働いているときには「信」とわからないということとおなじだろう。「信」とわかるのは、自分が、後を振り返って、「ああ、そうだった」「信のおかげでこういう(ありがたい)ことになった」ということである。もともと、信とは、なんだか厳密にはわからない(言葉で表現できない)が、そのなんだかわからないものに、身を投げ、信じるということで。そのなんだかわからないものを阿弥陀仏、といってもいいし、「自ずから然りの働き」、あるいは「如来」といってもいい。極端なことー本当は極端ではないのだがーを言えば、身をなげて、あとはどうなってもいいと、(自然の働き、あるいは宇宙運行のプログラムに)おまかせすればいいのだ。

 

だから「信」の内容を対象化(目的化)すると、それは自己と信をわける、つまりマナ識(分別識のみの意)が働いている、ということになり、とたんに「信」に生きるということではなくなる。これは、維魔の「法を求めるものは法を求めては成らない」に同じ。したがって、私の見る限り、「信」と「正理と法の働き」はきってもきれないものであり、その働きは各人の言行において、あきらかにならなければ成らないということだ。

 

脳の構造でいえば、これは意識の働きを無意識の働き(=生体のもつ根本の働き)に明け渡す、というようなものだが、別のいいかたをすると、これは中山さんの表現だが、「我々は神様の遊びにつきあう」ということで、この「神様の遊び」というのが、我々にあらかじめ組み込まれた宇宙のプログラム(仏性:法の働き)ということ。これがいわば、すでに(神によって)組み込まれていた(→神による暗示:刷り込み:絶対の働き:根っこ)というものだからだ。「つきあう」というのは、そのことを正しく受け止め、正しく生きるように、日常に働かしめるということだ。

 

(注:「明け渡す」というと語弊があるかもしれないのでもう一言。というのもねらいは暗示、オートマトン、(あるいはゾンビー:植物人間)といったものではなく、本来ある智慧の働きが生き生きと働きでるというところにある、と私は感じるからだ。だからこれは生体の本来持っている働きが活性化するといったもので、これは道元のいう全機現:つまり意識・無意識が法にそって、ともにバランスよく働くといったものだろう)

 

これが、本願とは他力(法の働き)が自ずから働き出るというように身についてしまう。あるいは、もともとあった法の働き(これを至心―弥陀仏の衆生を救済せんとする真実心に回向されたとみる)が活性化される、という構造であり、本願・念仏・信というのはまさに「そこ」をみているのだ。したがってもし信を仮に自己暗示のようなものとするなら、その内容は、なんら作為の入ったものではなく法そのもの、となる。(つまり、生まれたのちの暗示とか刷り込みということではなく、刷り込みや脳の働きの大本の働きに目覚めるということだ)

 

したがって指導の立場にある者は、根本においては彼らはあくまでも補佐役であり、絶対的な権威はないし、彼らも所詮は有限の人間、つまり凡夫ということだ。まして初心のものが、とことん素直かつ謙虚でないものに、ふらふらとついていくことは危険なのだ。素直な人は私は素直です、とは言わないだろうし、道元も「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず。しかあれども証仏なり、仏は証しもてゆく」という。親鸞は「弟子一人も持たず」という。

 

だから禅でいう悟りとは、いわば存在の原点での働き(光明、智慧の光、仏性)をそのまま「覚する」「気づく」「体験する」ということ。真宗でいう信とはその働きを阿弥陀仏の本願として、それをそのまま、あるがままに受け止める(信心決定)、ということになる。ただし、体験し、あるいは受け止めた、というのでとまっていては、働きがないのであるからそれを刻々働かしめるということが出来て初めて「悟り」(動中の工夫)であり、「信」(相続)であるといえるわけだ。これが「証しもてゆく」ということだ。

 

(注:一部の禅者?!には何らかの体験をしたからといって、かえって高慢や独善になる場合がみられる。大智大悲が完全な人格として現れない限りにおいては、簡単に悟ったなどとうべきでないと思う。真宗でいう無上菩提心を知るべしということだろう。)

 

ヴィパッサナにおける信

 

次にこれらの事柄を私のヴィパッサナ(ゴエンカ氏)での修行・体験に照らし合わせてみよう。要はマナ識を使わないで、自ずから然りの働きに身心をまかすと、それこそ、無意識(阿頼耶識など如来蔵)のドアがあき、「自ずから然り」の安心が見出され、つまらない業のお荷物がすっ飛んでいく、といった体験があるのだ。そこで、検証の意味で、上で言った、a)〜e)の条件は、ヴィパッサナの修行においてどう対応するか、私なりにまとめるとこうなる:

 

a)薄暗いところ

→外部からの邪魔がはいらないよう、山のなかにつくられたホール(禅堂)で修行する。(とくに早朝、夕方、夜の坐禅は薄暗い)

 

b)リズム。音楽。強烈な打楽器による催眠への誘導など

→時折ある読経(チャンティング)、時間を告げるチャイム、鳥、こおろぎの声、雨だれの音

 

c)視覚、聴覚などを「集中」させる。

→これはヴィパッサナでは「心身の感覚」への集中。すべての知覚が鋭敏。

 

d)繰り返し

→一回あたり1〜2時間の坐禅、5〜10分休憩、計、一日11時間ほどの坐禅を10日間続ける。毎日修行のポイントの確認と法話がある。

 

e)短時間に強烈な刺激を与えること

→10日間、俗世間からまったく隔離されて修行に取り組む。3〜4日目以降は一日3回、各1.5時間の坐禅では、体をまったく動かない「厳しい」坐禅(アディッタン)をする。

 

信と暗示というのの境界は微妙なものかもしれないが、今まで年一回、計10回ほども8〜10日間のヴィパッサナのコースをやり、さらに毎日1時間ほどもヴィパッサナの「修行」を続けてきたということは、十戒を出来るだけ守るということも含め、気づかないうちに何か(仏道!)が身につく(あるいはつまらない心の癖・業の荷物をすてる)といったことに成っていったのかもしれない。

 

もちろん、「修行」を体(無意識)からのものと見るなら、「心・頭」からはお経や祖師方の語録などの調べと、日常の反省を含む私なりの仏道を歩むということの確認を掲示板とかHPで続けてきたということで、それが「正理と法の道を歩む」という願いとつながっていると思う。当然、理を尽くすということも進めるべきで、盲信ではいけないのだ。知も行も進め、かつ知行合一を見るわけだ。

 

智慧の構造

いかだを捨てる

 

すでに言ったように宗教はおおもとの働き(真宗なら絶対の他力)を「知る」と言った意味合いがあり、ヴィパッサナにかぎらず、お題目を唱えるとか、称名や坐禅など仏道の修行に上で見てきたように信とか暗示につながる要素があるというのは知っておくべきだろう。要は、意識の働きをほっぽっておいて、無意識の働き(生体としての絶対の働き=仏性)を知るのだ。だから無意識との連絡という点でみると、修行は結果を見れば、(これは誤解を生み出す言い方だとも思うが→)いうなら催眠や自己暗示とおなじようなもので、うまくいくと、悟りを開くとか、扉が開いて絶対他力が入ってくるとなって、ありがたいのだが、こういった微妙なところに不案内な「指導者」にかかったら、非常に危険なことにもなる、と私は確信している。(後述:物騒なこと、を参照)

 

この辺のところは微妙で、どうしても矛盾に満ちた表現になるが、本来の「自ずから然り」の法の働き(つまりもともとあるもの)を「体得する」のが狙いだから、作為をいれず、したがって、信はあっても、暗示ではなく、法の働きによる、あるいは絶対他力(→自ずからしかり:法)にまかせるというのが正しい修行のあり方であろう。したがって真宗の念仏(他力の念仏)は「形」こそ異なれ、本質においてはヴィパッサナと何の違いもないと私にはみえるし、「坐禅が坐禅する」という禅の言葉も同じく自己を進めない(自力ではない)というところを見ているのだ。時宗の一遍の場合は「念仏が念仏をする」(p。172、南無阿弥陀仏、岩波)という。どれも形は違うように見えても、指し示しているところは同じということだ。

 

(注:ヴィパッサナとか禅もふくめ、なにか修業というと、すぐにそれは「自力」の行為であると短絡してみる人がいるようだが、確かに結果で見れば修するものはもともとないのであるが、その過程(ねらいは修証一等:手段=目的)において、法の働きを知るという上で、自力の無力さを知るという意味あいがあるということは知るべきと思う。何度もいうが、「法を求めるものは法を求めては成らない」、という維魔の言葉はまさに真理ということだ。そしてそこにこそ悪業をのりこえるという不思議があるのだ。)

 

したがって真宗の「機法一体」は禅においてもそのままあてはまるということになる。また私のいう鏡の心も同じ意味あい。つまりここで言うポイントを「真に」体得したとき、気が付いてみれば、仏道というものは修行の形には関係なかったということであり、(→つまり、自ずから然り、絶対の他力が基本ということ)釈迦のいう「いかだを担ぐな」という意味あいは、ここに至って始めて納得できるわけだ。いろいろある修行とか宗派は、それを体得する過程においては形は異なって見えるが、「真に」体得した時点においては、、、、このファイルの出だしに言ったとおり:

 

親鸞も道元も「お前の指も私の指も、姿形は違うけど、同じ月をさしていたのだな」と、顔を見合わせて、「うんうん、これは面白い、ありがたい」、となったかもしれないというわけだ。  (^_^)-☆

 

行を選ぶ

 

ここで一歩もどって、修行の方法について簡単にまとめをしておく。

 

そもそも人の性格の違いによって、好き嫌いにも違いがあるし、かついでいる業も千差万別だろうから、煩悩の数だけいかだがある、という見方はそれでいいと思う。(つまり根本的には自ずから然り、絶対の他力が基本としてもである。)教行信証には念仏が近道であるという記述があるが、(たとえばP。90、教行信証)仮にそれはそうとしても一人一人が歩む道、特に歩み始め、はいろいろありうるということだろう。ちなみに釈迦はカラマ・ストラで、実践的に歩を進めよといっている。日本語では増一阿含経というらしいがここでは英語版から私が日本訳したものしめす

Kalama Sutra(Anguttara-Nikaya, Vol.I). 
 
(教える)人の言うことにたよるな、また論に頼るのでなく、言わんとする元・ねらいを知れ。自らやってみてどうかという事を知れ、聞いたもの、伝統、(宗教の)書物など何も盲目的に信ずるな。権威ある人というだけで信じるな。よく見て、考え、もしそれが理()にかなったものであり、すべてに善・利益をもたらすのなら、その時それを受け入れ、それにそって生活しなさい。― 仏陀

 

http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/shitumonnntokaitou.html#_Toc240547411

 

つまり成果がでないのならそのようなやり方はおかしいか、あるいはその人にあってないか、といったものだろう。こういうのもある:

 

行者よ、よく知るがよい。もし悟りについてただ学ぶだけなら、凡夫の法から聖者の法、さらに仏の悟りにいたるまで、どの教えでも学ぶことが出来る。しかし、実際に行をおさめようと思うなら、必ず自分にふさわしい法によるべきである。なぜなら少しの力で多くの利益を得るからである。 (散善義) p。182、教行信証

 

ところで私は修行というのの基盤に、本願、発菩提心、あるいは「正理と法の道を歩む」という強い願い、がなくてはいけないと思う。そもそも宗教は、長年培ってきた業とか心の癖をどうするかということなので、それらの癖を超えるという、とてつもない「何か」(→信、熱意)が必要なのだ。ここで戒も修行のひとつと見ていいだろう。但しねらいは自ずからそうなるということだ。

 

煩悩を断ぜずして涅槃を得る

 

ちなみに維魔も言う「形のある坐禅はするな」「煩悩を絶たないままで、しかも涅槃に入るようにもなる、というように座禅をしなさい」(P。102、大乗仏典、中央公論社)これは教行信証(正信偈、もとは往生論註にある)において「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのと同じだ。(現代語版ではこのところは:「煩悩を断ち切らないまま、浄土で悟りを得ることが出来る」(P。144)となっている)また、私の言う「鏡の心」も同じところを指している。

 

自ずから然り、、が絶対の働き、法の働き、で正理にそっているなら、煩悩即菩提、娑婆即極楽(浄土)、つまり浄土と娑婆は無礙の一道でつながっているので、もはや「いかだはなくていい」、ということだ。ただし、この辺が未熟なら、というか凡夫である我々はいつまでも未熟なのであり、油断大敵でもあるから、知覚を鋭敏にして丁寧に行をすすめるということだろう。

 

では、そのようなこと(→人為的な暗示でない「暗示」=法の働きに任すということ:般若の智慧の働くこと)がうまくいったとき、具体的に「正理と法」あるいは「阿弥陀の本願」が人にどうあらわれるかというと、これは名人・達人となるようなもので、要は直観(智慧)がすすんでいて、いってみれば考えずに答えがむこうから飛んでくる、というものだろう。たとえば苦が滅される、智慧が出る、業のお荷物が飛んでいく、煩悩を断ち切らないまま涅槃を得る、ということに成る。

 

孔子の「心の欲するところに従って矩をこえず」もおなじで、「正理と法にそって」、「修行」を丁寧に進めた結果、ニューロンの組み合わせが、「正理と法にそって」(あるいは真宗なら阿弥陀仏の本願によって)無意識レベルで変わっていったために、自ずから正しい道が見出されるようになるものといえよう。

 

(注:念のためにいうと、この孔子の言葉は、自己を進めて、好き勝手に、何をしても自分のおもいどうりになる、ということではなく、矩、つまり「正理」と「法の働き」を知覚し、「正理と法」の領域()を逸脱することなく、とことん素直に、謙虚に、己自身を知り、たんたんこつこつと自然に進む、ということと同義だろう。) 

 

智慧・アイデアの出るメカニズム

 

ここまでが出だしにいった「ひらめき」の内容だが、苦から解脱する、あるいは「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのは智慧の働きで、それは正しくものが見え、考え、行動することが出来るということにつながるとみられるので、その構造がどうなっているのかということについて、ここで復習しておく。(詳しくは「禅と分別」のファイルなどを参照)

 

自己(の論理)を進めない、ということ(→無我)、なにもかも固定されたものはない、ということ(→無常)、というのは、あるがままに物事を見るという仏道の基本だが、我々が頭(→通常いう意識・論理)を使うということは、いずれ閉回路、つまり行き止まりにぶつかるというようなものだ。そこで悩んでアイデアが出て難問が解決されるということがある。(仏道の場合は苦集滅道)

 

そこで中山さんはアイデアの出るときの背景をこうまとめた:(p。15、なまけ禅手引書:中山正和)

 

1)理性的努力がなければ発見(インスピレーション)はおきないが、それがおきるのは理性的努力の直後ではなく、だいぶたった後のことである。

2)発見はあるとき突然起きる。

3)一時に全部わかる。

4)たいていの場合、発見したことは理性が予測した枠外にある。

5)間違いないという核心がある

6)するどい喜びを感じる。(p。15)

 

中山氏:「お釈迦様のやり方はこのように論理的なのです。。。人間独特の理性の使い方を教えているのです。。。(要は)智慧を出しやすいようにするためにイメージを自在にしておくことを忘れるな、それが前提条件だというわけです。そうしないと、理性をはたらかせたつもりでも、その理性は本当の理性としての働きはしていないのです。」(禅と脳p。87)

 

 

ここで「イメージを自在に、、というのは「考える種がなくなるまで」考えたらもはや考えることは出来なくなる、という境涯。ということで、少なくともその問題については)意識と無意識はここで一致(→意識即無意識;全機現)する。。。(→薬山の非思量におなじ)、ということ。また「本当の理性としての働き」は、全機現しているときに自ずから現れ出るということ。

 

ところが、自在性がうしなわれると、いわばハンマーの使い方を知ったら、身のまわりのものがみな釘にみえてきた、というようなもので、これでは固定観念になってしまうから、いわば頭の閉回路から抜けられなくなって、智慧がでないということになる。(このことはある宗派に「とらわれる」、という場合にも同じ。何か良いことが体験されると、それにとらわれ、暗闇で財布をなくしたのに、電灯の下の明るいところだけを探す、といったことにもなる。あるいは人の言うことが耳に入らなくもなる。法にそってないので判断がおかしくなる。) 

 

したがって信でも智慧でも、なんでも得たということは得ていない、と「知って」いないと、自在性・柔軟心、したがって法の働きは失われるということになる。ちなみに臨済も同じことを言っている:(法を)「得たというのは、得なかったということなのだ。」(得というは是れ不得なり)p。127臨済録、岩波。すでにみたように、河を渡ったらいつまでもいかだを担ぐことはない(→法にさえ執着してはならない)のだ。

 

テイラーさんの体験、修行の意味あい

 

テイラーさんという人は脳溢血で左脳が損傷され、自らその時の体験を、涅槃の体験と表現しているが、、、、この人の体験がいろいろお経や祖師方の書いていたことのひとつの確認の意味があるようだ。というのも不思議なことに、宗教にほとんど関係ない人が体験した涅槃のありさまが、(少なくとも私の)宗教体験の内容と不思議なくらいマッチするのだ。

 

ここでは別途HPにまとめたファイルから彼女の言葉をいくつか引用しておく:

 

―それまでの感情のお荷物、苦悩、そのほかすべてのごみがすっとんでいったのだ。 

―体の無数の細胞(の働き)が感じられる。

―すべての細胞がその可能性を発揮して働いている。

―その体験のとき私はそのままで宇宙、境界はどこにもない。

―私は私のエネルギーの使い方に関してすべての責任を負っている。

―この世にはエネルギーをもってくるのとエネルギーを取り去ってしまうのとの二種類の人がいる。

―考えるということはエネルギーをたくさん必要とする。

―悲しみというのは体でかんじるものだ。

―過去というのはあなたの「今」というのにとってなんの力もおよぼさない。

―過去のお荷物を拾い上げるということをしない自由がある。

―頭の中のノイズを静まらせるのだ。

―(つまらないことにかかわらないで)心を別のところに向けなさい。

 

似たような表現はいくらも見つかるが、たとえば臨済にはこういう表現がある:

君たちが、、、自由に生死に出入りしたいと思ったら、今そこで説法を聞いている(君たち)その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく、場所も持たずに、ピチピチと躍動していることを見て取ることだ。その人が発動するさまざまの方便はすべて、働きとしての跡形を一切とどめぬ。だから追いかければ追いかけるほど遠ざかり、求めれば求めるほどそれていく。ここがマカ不思議というものだ。p。63、臨済録、岩波

 

まとめと検証

本願、信、暗示、薫陶、自力、他力、智慧(まとめ)

 

微妙なところなのでうまくまとまるかどうかわからないが、以下に私なりにここまでのまとめをする:

 

真宗でいう本願は、発菩提心と同じ。私においては「正理と法の道を歩もう」という願いで、これは状況により自力の願いでもあり、他力(阿弥陀仏:つまり法を働かす)の願いでもある。自力と他力がマッチしたときが機法一体。もちろん、これが道を歩むというのの羅針盤の役割を果たす。

 

これは、自力の側(意識としておく)が絶対他力(無意識の働き:理屈では間にあわない)によって、あたかも光に照らされるようなもの。その時、煩悩を断ぜずして涅槃を得る、という体験(これを仮に悟りといってよい)があり、このことが明らかになったとき(2007年)その内容を私の言葉で「鏡の心」とあらわした。

 

ただし、私の場合、そのような体験の前に、もうひとつ、宇宙と自分がひとつ(自分が光明そのもの)と言う体験(2000年)があった。これはそれまでに蓄えられた煩悩の荷物がその契機にあたかも燃焼した・吹っ飛んでいったという感じ。

 

これらの体験は似ているが、2007年の体験は、なにがそこ(意識・無意識、あるいは身心)で起こっているのか「わかる」といったもので、これは法華経の序文にある東方照と同じ構造、、と今、これを書きながら気が付いた。

 

「そのとき、、、身体を動かすことなく、また心を揺るがすことなく、、、三昧に入った。。。仏国土の全土は六種に地震を起こして、上下四方に動揺し、激しく振動した。。。そのとき、、両眉の間にある毛の環(眉間白毫相)から一条の光を放った。そのは東方において、一万八千の仏国土に広がった。そしてそれらの仏国土は、すべて、、、完全に見渡された」p。19法華経、上

 

ところで、この「地震」、云々はヴィパッサナの2000年の体験で私の身体のエネルギーの放出とともに体が激しく振動したというのを示唆しているようであり、「」はそのときのプラズマの体験とマッチするようだ。また「身体を動かすことなく」、というのはヴィパッサナのアディッタン(体を動かさない、〜決死の覚悟)を指し示しているようにみえる。また、2007年の体験はこれらのことの全貌をつかむ、つまり智慧の発現する構造をつかむ、といった意味あいを感じる。

 

道元も同じようなことを言っている:

 

「いわゆる仏祖光明は尽十法界なり、、、仏光なり、この光明を修証して、、、証仏す。。。この光は仏光なり、照東方は東方照なり。東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、、、」正法眼蔵、光明の巻

 

このような体験は、真宗の言い方では、あくまでも人としての仮の体験というようなもので、これを仮の浄土ということもあるようだ。もちろん体験にとらわれるとか、その体験(これもいかだに同じ)を担ぎまわるようではまことに情けないので、私はその意味あいは、禅でいう動中の工夫に同じであり、要は「正理と法の道を歩き続ける」際の気づきのありようを明確に(確認)するためのひとつの例と受け取っている。

したがって根本は、本願、発菩提心、「正理と法の道を歩き続ける」、機法一体(自力=他力)という方向付け、大事ということなにしろいかんせん有限の意識をもった我々が、どこかに至ったと思ったら、あるいは迷いに気づかないならとたんに落とし穴に落ちる(ひっかかる)のだからプロセス(現在進行形)でみるということ。正理と法の道をあゆめ、ということだ。 

 

(→結論:#1877妙好人)

 

曽我量深と鈴木大拙との対話

 

ところで、この辺にからんで曽我量深と鈴木大拙との対話があるのでその一部をここに引用しておく。ある意味では真宗と禅宗の対話というようなものだ。両者、表現と感じ方が微妙に違うようだが、指し示すところは同じとみてとれる。(曽我量深の履歴は、日本の明治〜昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。真宗大谷派講師、大谷大学学長。。。とある。このサイト(ウイキにある曽我師の法語集というのがありがたい)

 

曽我:われわれ人間は一生かかって仏になるのである。。。

鈴木:もっといえば、一生かかっても、二生かかっても、仏に始中終なっていくのだと思う。

曽我:それは仏のほうへ向いていくのでしょう。仏のほうから召喚されて、仏の方に向わしめられる。だから、向わしめられるから、われわれは、生きている間は仏ではない。

鈴木:それと同時に、仏になりつつ、仏である。仏になりつつ行くことが仏である。

曽我:それは『華厳経』などの仏でしょう。
。。真宗の教えは、特に無上仏とか無上涅槃というのである。あるい無為自然の悟りといって、法性常楽をさとる。法性常楽、無上涅槃というのでありまして、われわれは生きている間は無上涅槃とはいわない。こういう教えである。それは仏になっているのであって、ただ仏であると言わぬだけだといえばそれまでで、別に拒絶するわけではないが、仏教には真俗二諦ということがある。真諦ではそうでありましょうけれども、俗諦ではそうはいかない。

鈴木:すなわち俗諦へもどって話をするわけですね。

曽我:真宗からいいますと、要するに俗諦を非常に重んずるのです。

 

――

 

同じ大拙との対談で曽我量深師のこういう言葉もある:

 

阿弥陀の本願がわが本願でなければならぬと、こういうふうに言いますけれども、もう一つ言えば、わが本願が阿弥陀の本願になり、わが本願が、阿弥陀の本願の中に発展解消していくのでしょう。」「私どもが真実信心を獲るなら、その人のいるところは浄土の連続でしょう。浄土と連続しているのでしょう。それを、浄土だとは言わない。浄土とは言わなくても連続している。私どもが仏を知らないときは、地獄と連続している。本願を信じたときに、地獄との縁が切れたというわけではありませんが、しかし、浄土の連続が、はじめてできたのでしょう。浄土の連続ができれば地獄の連続があってもないと同じである。

 

次のものはデマーティノ氏(大拙師と親しい)との対話にあった曽我量深師の言葉:

 

禅の方ではね、現在、現在。これを私どもの方では、すべて、こう、如来より賜るということでもって・・・。仏様ご自身は現在であろうけれども、私の方からみると、仏様というものを未来にみていく。

 

現在は正定聚、未来は滅度(成仏)」「臨終の一念に大般涅槃をうる。」「われわれはこの生涯の終わるときに涅槃を完成する。死んでから仏になるのではありません。」「私たちは信の一念に、・・・信の一念のとき命終する。信の一念のとき、命終わるとこう考えてもよいですね。そのときは仏です。これ無上涅槃です。」「要するに、いつ死んでもよいのですよ。

 

ところで、ここの「死ぬ」、は禅では大死一番、百尺竿頭進一歩(百尺竿頭に一歩を進む、あるいは道元の「仏の家に投げ入れる」で、それを常に見る(覚悟する、自我をほおりなげる)、という意味あいだろう。

 

一方、これは親鸞においては:「たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄にちたりとも、さらに後悔すべからず」いずれの行も及び難き身なれば、地獄は一定すみかぞかし」p。43(歎異鈔)、、となるだろう。

 

但し、(自我が死んだのちによみがえったなら)使える頭は使うのであり、(→全機現:受動の能動:自利利他)これが動中の工夫であり、正理と法の道を歩む、ということ。真宗においてはというと、二河白道のたとえ(教行信証:p。183−9)がそれに対応するようであり、そもそも本願を信じるというのはそのように道を進むということであろう。

 

無量寿経、正信偈などの言葉

 

真宗関係のお経で、目に付いたものを確認の意味でここに引用しておく:

 

この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、
喜びに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩
の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたた
び苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。
仏説無量寿経<大経> 


信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ちきらないまま、浄土でさとりを得る事が出来る。凡夫も聖者も五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。
―正信偈

阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。

信を獲て見て敬い大いに慶喜(きょうき)すれば、ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ちきられる。 

明らかに知る事が出来た。本願の念仏は、凡夫や聖者が、自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏のはたらきかけによるものであるから、行者の側からすれば、不回向の行というのである。大乗の聖者も小乗の聖者も、また重い罪の人も軽い罪の人も、みな同じく、この大いなる宝の海と例えられる選択本願に帰し、念仏して成仏すべきである。

 その仏の本願のはたらきにより、名号のいわれを聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往生し、おのずから不退転の位に至る。
大経下巻

さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべてみな阿弥陀仏のおおいなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因がきよらかであるから果もまた清らかである。よく知るがよい。
教行信証 証巻

 

なれないと、あるいはなにか宗教体験とでも言うようなものがないと、読んでも意味合いがわからない、あるいは身体からの感じがないということもあろうが、そもそもお経というのは禅の公案みたいなもので、その意味合いは、わかったものはわかるが、わからないものはわからないという構造になっているようだ。またわかり始めるとあたかも謎がとけるようで、どんどん読みが深くなり、深み、ありがたみも増していくという気もする。

 

正理と法の道

 

ところで、私自身このようなお経を読むと暗示につながるのでは、という気持ちがないではない。これは私の用心深い心の働きとでもいおうか、これまでに培ったやり方といおうか、要はある文章(注:文章に限らず何の情報でもいい)を理解したと思っても、法の検閲を得るためには、いわば体から(智慧の鏡で)チェックするというようなプロセスが必要と思うのだ。これはこのファイルの出だしに言ったことにつながる。つまり:

 

「読みながら智慧を使って正しい理解・見地を見極めながら進めるというものであろう。ところで存在の底から(究極的に)何かがまぎれなくわかるというのは、いわば論理で納得というのを通り超えて、体でわかるといったものに結ぶ付くようである。」

 

これはひとつには、自力と他力(絶対の他力)の接点(つなぎ)を確認するといった意味なのだが、さらにいろいろな角度からチェックするというのは避けられないようだ。持っている頭は使わない手はないのであり、頭を正しく使うということ。これが正理だろう。私が調べを進め、HPにいろいろとまとめをしてきたのはすべてその意味あいがあってのことであり、知と行との合一も、こうしてHPなどに書いてきたすべてのものにおいても、ひずみが無いようなものでなければならない。要は右脳も左脳も全機していて、そこにある種の法にのっとった検閲・自己組織性の働き、とでもいうようなものが常に無ければならないというわけだ。

 

ところで釈迦は「真実はいろいろな角度からチェックすることにより明らかになる」といったとのこと。(←ゴエンカ氏からの又聞き)これは禅でいう説似一物即不中(言葉で説明したら外れてしまう)、法華経なら「この法は示すべからず、言辞の相が寂滅すればなり」を逆に言った、つまり使える頭は使う、という意味あいだろう。また「中道」も意識と無意識の働きをしかるべく働かすという意味でその辺の微妙なところを指し示していると思うし、「正理と法の道を歩む」もそこ(機法一体)をみている。

 

ただし念のために言うと、上の文で「正理」なしに、「法」だけというなら、動植物や鉱物と同じ、つまりまったくの受動であり、そこで正しい頭の使い方をする(→正理)のとあいまって、始めて人として歪みない働きが出るということだろう。したがって業や暗示、薫陶、方便の意味あい(煩悩の処理法:智慧のメカニズム)が各人において不明確では情けないし、煩悩に振り回され、判断を間違えるということにもなるので、生きている限りは、いろいろな角度からのチェックは怠るなということと私はみている。瑣末なところの判断・処理はそれとしても、究極の所は常にまぎれないように、ということだ。

 

ところで、お経にしても、矛盾もあるようで、後世の人が自分の感じたお経が最高というふうに思い込んで手をいれたという感じのところも見られる(たとえば法華経の一部、p335、下巻、岩波)。一方「自分にあった修行を選べ」(カラマ・ストラ) と釈迦はいったようだ。したがって「正理」というのは、お経といえども鵜呑みにするというのでなく理を尽くして丁寧に調べろという意味合いがあると思う。ある角度からだけで物事を見ていて影の部分に気づかず、何かのきっかけであるときとき突然ひっくり返る、というのではどうか、というわけだ。

 

この辺、まことに微妙なところで、言い方は矛盾を極めると見えるかもしれないが、ここで私なりに精一杯のまとめをしておく:

 

「正しい道を歩むというのは正しい道を歩むというやり方がわかっていて正しい道を歩むとわかるのである。そして正しい道を歩むというやり方が本当に正しいかどうかは実際に道を歩むことによって確認される、といったものだろう。したがって、「正しい道を歩むというやり方」、これが「正理と法の道を歩む」ということだが、これは常にチェックしてないといけないということになる。

 

そして、これがうまく出来ているのかどうかのチェックは、要は煩悩があるかどうかということ。煩悩をうまく処理しているかどうかということ。智慧が働いて判断、言行が正しいかということ。それをし続けるということ。そして釈迦のように、(出家した後の)何十年もの道を振り返ってみて、確かに「私は正理と法の道を歩んだ」といえるかどうか、ということだろう。」

 

これが「法を得るということは得るということでない」(臨済)あるいは「いかだは担がない」、の意味あいとつながるわけだ。生きるというのは現在進行形なのだ。お経はありがたいのだが、そのお経をも捨てる、(お経をかつがない、とらわれない)となったとき始めてそのお経が生きてくる・真にありがたい、ということになるのだ。(注:これは悟りにとらわれない、修行のかたちにとらわれない、という構造と同じ)

 

なんだか暗示、薫陶、業、方便、煩悩と智慧の働き方、中道、など、もともと微妙なところを突っ込んで、かえって難しくした様でもあるが、ここで例をとって調べてみる。たまたまネットで読んでいた蓮如上人の言葉につぎのようなものがあった:

 

 蓮如上人は、 「 お聖教を拝読するときには、その一言一言が他力の信心の勧めであると受け取っていけば、読み誤ることはない 」 と仰せになりました。     (蓮如上人御一代記聞書)

お聖教とは浄土三部経のことと思うが、これを読んで、ああそうだなと思う。また、これはお経を読むという場合に限らず、なんでもそうだが(特に事に当たっては)正理と法の働き(=他力の信心の勧め)に照らしながら進めということと思う。そしてこのことは、はからいを捨て、あるがままを見る、というのと同義だろう。というのも自己を進める(自力:業の働きにまかす)智慧(他力)の働きを見失うというようなものであり、自己は透明でないといけないというようなものなのだ 

 

このことを業と暗示という面から見ると、この両者の間には微妙な関係があるのだが、悪業(悪い癖)を正しめるのが法(智慧)の働きという構造になっているというわけだ。

 

一方、お経とか祖師方の語録、戒などは「正理と法の道を歩む」ためのやりかた、道具・規範であり、それは間違ったことをしないようにという「おさえ」という意味合いもあるわけだ。

 

だがもしお経でもなんでも法による検閲など、上で言った意味あいがわからずに、それらを盲目的に、絶対のものとみるなら、そこには盲信(Blind Faith)とでもいうような、オカルトのような、物騒なことがありうるだろう。これは、なんでもいいが我々の悪い癖が、どう出来上がったかを思い浮かべればわかる。要はよい情報(智慧の働きの事例など。鳥の声でもよい)に接するのがいかに大事か、ということだ。

 

お経は正理と法の働きを表したもの、と見たいのであるが、問題がある可能性も考え、やはりいろいろな角度からの丁寧なチェックが必要と思う。ちなみに「正理と法」、、ということでいうと大乗、小乗と分けることもおかしいように思う。法は常にどこにでも働いているとみると、正理とは、ある状況においての法の現われを言葉・論理で表現したものと見ることが出来るだろう。山登りと同じで、道の歩み方はその人の性格とか周りの状況などにより違ってくるということは十分考えられる。単に良い・悪いを言うのでなく、その辺まで智慧を働かせて読む必要があるだろうーもともと智慧を働かせることがひとつの狙いであるのだから。

 

あれやこれや宗派間などでも論争があるが、論争の対象がなんであれ、おざなりな対処・判断は出来ないと思う。三乗の教えとか、釈迦が対機説法をやったというのは以上のようなわけで、あまりに規格化された(杓子定規な)やり方には無理があるということかもしれない。ただ、根本の原理として「正理と法の道を歩む」ということを進めていかないといけないのだろう。

 

この辺にからんでスッタニパータに最上についての八つの詩句」というのがある。大事なところなので以下に引用する:

 

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

 

 

これが正理というものの見出し方、判断の指針を指し示しているのではないかと思う。つまりお経や戒律が絶対かということについても、釈迦は注意しなさい、盲信してはいけません、といっているようである。仮にうまくいったからといって「いかだ」にとらわれてはいけないのだ。常に目覚めていろ、ということだ。

 

ただし親鸞の例のように「凡夫はそんなことは出来ません。簡単なことだけでも修する、あるいは行じることがむずかしいのです。」ということもあるかもしれない。

 

すると仏教はすべて方便となる。けれど、何の教えでもそれを「十二分に吟味し、あたかも全てを投げ捨てて進む」、というところに大智・大悲・光明が見出されることがある。親鸞の場合もはじめは自力の修行をして、他力が見つかったというわけで、ことによるとそういう絶望にいたるまでの体験が無ければ他力にいたったかどうかは、わからないようにも思う。

 

もともと自力で修行をはじめて、あるとき他力のなんたるかに気づく(身心脱落・光明・智慧)というのが、壮大な釈迦の方便かもしれないではないか?!人のおかれた立場、性格などにあわせての対機説法。これがお経においてもおなじ。いろいろな宗派についても同じ、という構造をしめしているようではないか?(気が付けばみんなお釈迦様の手の上のことなのだ)

 

そしてこのやり方:「正理と法の道(領域)を歩む」を釈迦自身が出家して以来、死ぬまで進めて来たというわけだ。だからどこから道を歩み始めるかというのはあるだろうが、我々がこの「本願」・「発菩提心」を見失わない限りにおいては、どの道も究極にはつながっているということになるのではないか。

 

したがって道を見つけたというのは、仮にそう思ったとしても、それが終わりでなく、現在進行形で歩む、ということであり、これがまた、臨済に言わせれば、「(法を)得たというのは、得なかったということなのだ」(得というはこれ不得なり)、というわけだ。(ちなみにこの言葉は維魔の「法を求めるものは法を求めては成らない」と対になっているとみれる)

 

金剛経に筏(いかだ)の喩えの法門を知る人は,法さえも捨てなければならない.法でないものはなおさらである.」とある(p。55般若心経、金剛般若経、岩波)

 

なんだか法華経にあるいくつかの比喩を思い出すが、そのほかにもいろいろな言葉・教えがある:

 

「如来は、それぞれの世界に応じて、それぞれのときに応じて、それぞれの使っている言葉に応じて、それぞれの人に応じて、それぞれの資質に応じて、ひとつの事柄について違ったとき方をするのである。ひとつの名を持つ事柄を数限りない名で説き、ひとつの意味を数限りない名で説き、数限りない意味を数限りない名で説く。。。」 (涅槃経)p。409〜教行信証

 

これをさらに読むと面白いし含蓄があるが、紙面がたりなくなるので、つぎのところのみここに転載しておく:

 

「ひとつの名を数限りない名で説くとはどんなことかというと、涅槃を説くようなものである。煩悩を滅しているから涅槃といい、生じることも滅する事もないから無生ともいい、はからいなくはたらくから無作ともいい、作られたものでないから無為ともいい、すべてのよりどころであるから帰依ともいい、堅固なところであるから窟宅ともいい、迷いの束縛を離れているから解脱ともいい、智慧が明らかであるから光明ともいい、迷いの闇を照らすから灯明ともいい、迷いのこの世界を超えているから彼岸ともいい、何事にも畏れることがないから無畏ともいい、迷いに退転しないから無退といい、安らかなところであるから、安処ともいい、煩悩を滅して静かであるから、寂静ともいい、あらゆる相を離れているから無相ともいい、何にも比べられないから無二ともいい、唯ひとつのまことの働きであるから、一行ともいい、煩悩を離れて涼しく清らかであるから、清涼ともいい、迷いの闇を離れているから無闇ともいい、何者にも妨げられないから無礙ともいい、何の争いもないから無ジョウともいい、煩悩のにごりがないから無濁ともいい、すべての世界に道渡っているから広大ともいい、優れた功徳を味わうことが出来るから、甘露ともいい、までたいものであるから吉祥ともいう。。。」409−411

 

構造

 

ここで簡単に「正理と法の道を歩む」というのの構造を示しておく。

 

    本願:あっちからの働き(=絶対他力:最初は何のことだかわからない)

    正理と法の道を歩もう:最初は自力、こっちからの発心(←暗示、薫陶、修行)

    こっちが、いつのまにか、あっちからの働きに成る(如来:如が来る)

    機法一体:あっちとこっちのつながりがある(→信心決定)

    その体験は、自ずから然り、というようなもの。歪が無い。身心一如。

    身心脱落、光明、智慧

    煩悩を断せずして涅槃を得る! →鏡の心、動中の工夫

    自利・利他

 

 

注:自ずから然り=自己組織性=あるがまま=あるがまま(如)が来る(来)=如来=阿弥陀様=そのままでちょうどよい=無礙の一道=一面の他力=絶対他力=悉有仏性

 

これを頭でわかるのでなく、身心でわかる、感じる、、、ということ。

 

するとこういう結論(紛れのない「真理」)に至るのではないかと思う:

 

「私なりに考えて見ると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は。わたることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」

p。3、親鸞、教行信証(現代語版)

 

 

これは門が開くということ、光に照らされるということ、智慧が出るということ、

あるがままを見るということ、であり、これらはすべて自力では無理。釈迦の教えはみなそのポイントとつながっているのだろう。

 

声聞、縁覚、菩薩と分ける見方があるが、親鸞はいう:「大乗には二乗、三乗の教えはない、二乗、三乗の教えは、一乗の教えに入らせる為に説かれたものである。それは如来の本願の働きにより、あらゆるものに仏の悟りを開かせるただひとつの教えにほかならない。」教行信証p、124 (法華経の方便品もおなじ。)この事を私なり表現するなら、声聞、縁覚、菩薩の修行は、修行でありながら、実は修行ではなく、釈迦の考え、行為の現れた(証)姿をそういうふうに名づけたというもので、もともとの働き、つまり釈迦の存在の原点における法の働きは、状況によってはそのような形にもあらわれうる、というものである。

 

なんどもいうが、修行というものは、自力の修行(つまり自分と修行が別れてしまう)ということでなく、絶対他力となって(つまり自ずから然りとなって)始めて本物、ということであり、行住坐臥すべてに、自ずから現れ出るのが、「正理と法の道」にそったもの、ということであろう。

 

独り言

 

(この辺で雰囲気をかえて、、、)

 

帰依、、、
つまり本願にもどる、、、
はじまりにもどる、、
というのが
それなのだろう。

離れて収束し
つまり原点の確認、、、
そして確認して
離れる。

そして確認は静寂(定)と
つながっている。

確認がないと正しい言葉は使えない。

正理はわからない。



信と体験の関係を振り返ってみると、、

暗示、方便、、があって、(前の信)
やって、、、
つまり自らを放り投げて、、
見つけて、
その後の説明は、、、
それですべてが整っている(後の信ー確認)

で、この関係を相続する、、

そういうものだった、、
ということ(だけ)なのかなあ?

人間の論理を使うと、、
だまされて(身を捨てるというのを)やってみて
(その間、、、暗示も薫陶もある)
そうなった、、
だから、私はもちろん、
あなたもよかったらどうぞ、、というわけ。

スポーツや芸術など、何かのコツをまなぶというのとおなじようなもの。

で、そのこつとはなにか、、になると
説明できても、説明のみでは役に立たない。

やらない限りにおいては。

だから、雰囲気を作り、
たとえばなしをし、
論理でいけるところは進め、
方便をつかい、、
うまく(自分自らのりたいというふうに)のせて、
ということになるか。

自らの自らへの暗示、意思、、、つまり
その時どきに
なすべきを(全心身をもって=信)ただなすということ。

それがなんであれ、、

そしてその行為の中に
正理と法の道を歩む、、という願い、本願、
そしてそれ(真理、大悲大智)が現れ出るという不思議があると、、、
確認し、信じるということ。。。

そうなるのかな。



そうだな。。法の道は歩むことによって
自ずから明らかになる、、

これだな。

だから、これだ、、というのを
見出して、、、
進め。

そしてその確認をし、
おっとっとと、なったら、
軌道を修正し、
先に進む。

その過程で大悲大智の働き(ありかた・効果・証)を
自ら確認し続けなければならないし、
お経やその他いろいろのものとの整合をし続ける、、、
(たとえば科学的説明しっかり進める)



その過程で、外の静かな木々のたたずまい、、

鳥の声、、、波のきらめき、、、
とそれを受ける心が、
(静寂ー定ーが引き金となって)
その働きをさらに喚起する、、、
ということもあるではないか。

そしてこれは今ここに、そこいらじゅうに
現れているはたらき(仏性)、
永遠に続く、その働き、
宇宙運行のプログラム(絶対の他力)に
帰依するということ、、

どうもそういうことのようだな。

それがはたからみて、自己暗示といわれても
なんといわれても
それはそうということだ。

というのもこれが宗教のもともとの存在理由であり、
理屈では追いつかないところ。

 

とはいえそこに不思議な、、説明不能な、、くつろぎが

あるのではないか?!

 

(^_^)-

 

横超

 

私の見る限りでは、その二種深心がそのままで、
煩悩を断ぜずして涅槃を得る、になっちゃうのだね。

(→横超:根っこの公案を一気に解いたというようなものだ。)

 

(*注:二種深心

深心というはすなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種あり。
  一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、噴劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。  二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもう。疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。  

                           ― 善導大師散善義、P.112教行信証)

そしてそれがそのままで、こうなる:

父王よ、
今はただ静かに座して念仏してください。
それは念をはなれて無念を求めるものでもなく。
生をはなれて無生をもとめるものでもなく。
また相好をはなれて法身をもとめるものでもなく。
文字をはなれて悟りをもとめるものでもない。

なんともはや!

なむあみだぶ
なむあみだぶ。

こりゃあ、やはり根っこの根っこだなあ、、、
と思ったら、、外はまだ暗いのに鳥が鳴きはじめたわい。

Sadhu, Sadhu (そうだそうだ、よく言った)
といっているようだ  (なき笑)

(^_^)-☆

 

その他(参考まで)

物騒なこと

 

ということで、話かわって、、、

 

宗教は物騒なことがたくさんあるので注意が必要、というのが私の見方だ。それはどうしてかというと:そもそも苦とか煩悩から抜けたいという人が宗教に答えを探しに来るわけで、それは心の深層(無意識)部分の脳回路が「法にそって」働いていない、というのがそもそもの問題といえるだろう。

 

そこで、いわば心の深層部(無意識)に手を加えるということ、そしてその際に、論理は働らいていない、というのが、危険になりうるわけだ。これを医者と患者の関係で置き換えれば、本来は医者はいらない。正理と法があればよい。つまり作為なしに自ずから然りで直るのだが、、、つまり修行のテクニック(技法)が、正理と法に基づいていればいいのだが、そうでなく、まがい物の指導者が下手な指導をするとおかしくなることが十分にある、というわけだ。

 

おかしくなって、周りに悪い影響がなければいいが、本人がおかしくなっているということがわからないというのが催眠、暗示(→無意識)の構造であり、私がこのファイルの始めに、私の言うことをそのままに信じてはいけないと言ったのも、そういう意味だ。

 

このところはいくら言っても言い切れないと思うが、もともとわらをもすがる、といった感じで宗教に入ってくる人もいるかとも思うので、その辺の判断を念には念をいれて、正しく進めていけるかどうかはまことに微妙なところだろう。

 

注意しないといけないのは、釈迦が言ったという名のもとに、あるいは私は老師だとか、これこれの権威があるのだ、というのに隠れて、いい加減なことが行われる可能性があるということだ。実例もそこ・ここにある。有限な人間のすることに恐ろしいことがありうる、というのは十二分に知らないといけないことだ。

 

実際の場面ではどこがどうなるのかというのは、それは無意識内でのことだからわかる由もないが、もはや自力では無理、というような場面に遭遇し、すでにふれたとうり、道元の言うように「仏の家に投げ入れる」、というように意を決するときが、あるだろう。これは親鸞においては「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」 ―歎異抄

 

私のヴィパッサナでの場合は、上に述べたように、すでに十分調べは尽くしたので、(ゴエンカ氏の)暗示にかかってもいい、という覚悟を10日のコースの中ほどであらためてきめたということだ。また、その後、「身心脱落・光明」の体験のときも、絶体絶命に陥って、すべて自力で何かをする、目の前の問題と戦う、という思いを投げ捨てた(=すべてをあきらめた)ときに、そういう体験があった。まさに、これが禅でいう大死一番だったということ。

 

そしてその「体験」の後で振り返ってみると、この体験で業のお荷物が吹っ飛んで行ったという確信があったのだが、なぜそうなったかというと、これは自力でないのだから不思議(法の働き!)としか言いようがない。目の前の問題(絶体絶命、逃げられない)が「なにもせずに」、それをそう受け止めたとたんにその問題が勝手に解けたということは、不思議でなくてなんであろう。

 

ただし、理屈をつければ、それは自ずから然り、ということであり、自力でないのだから、他力、あるいは絶対の他力、ということ。また、自ずから然り、はあるがままであり、それがあたかもどこからか(わいて)来る、という感じは、如来、つまり如(あるがまま)が来る(来)、という言葉とぴったりと思う。

 

大悲

 

公案とか只管打坐だと、、やはり、(大悲の)押さえがあまりきかないかもしれない。たとえ四弘誓願を口でもぐもぐしても、しみこまないかもしれない。

もともと知の傾向の強いのが禅にいくようだから、、やはり抜けちゃうのかもしれない。

その点、ヴィパッサナ(ゴエンカ氏)はメッタ(慈悲)をしっかりおさえているようだ。これうまく出来ていて、10日のコースだとその最後にヴィパッサナメッタの瞑想というのをやる。是がそのときじっと「聞く」内容:

わたしは、知ってか知らずか
意識してか意識しないでか
その思いや言葉
あるいは行動で
わたしを傷つけた人々を許します。

わたしは、知ってか知らずか
意識してか意識しないでか
わたしの思いや言葉
あるいは行動で
わたしが傷つけた人々に許しを請います。
。。。

すべての生きとし生けるものが
苦悩から解放され
自由になれますように。
真の平安、真の調和
真の幸福を享受できますように。




今でもなみだがでるんだな。これ。

 

華厳経・賢首品でみる信

 

華厳経からの引用が4ページも教行信証、p。208−212にある。

 

このファイルの出だしに書いた「ヒラメキ」の内容をあまりにぴったり記述しているので、すべてをタイプしようと思ったが、ネットに原文が見つかったのでそのコピーをここに載せておく。現代語ではないが、かえって面白いこともわかる。たとえば上で見るように原文の「道」を現代語版では「さとり」と訳してるが、これは、「道」のほうが「正理と法の道、、、を歩む」(動的)という意味あいを思い起こさせるようで私にはぴったり来る。 

 

(注:カッコ内には現代語版における訳を挿入しておいた)

信は道の元とす、功徳の母なり。(信はさとりのもとであり)
一切もろもろの善法を長養す。(
すべての善を養い育てる
疑網を断除して愛流を出でて(煩悩を離れ)涅槃無上道を開示せしむ。
信は垢濁の心なし。(煩悩の汚れがない)清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。(敬いの心をおこさせる)
また法蔵第一の財とす。(すべての功徳の中で第一の宝とする)清浄の手として衆行を受く。

信はよく恵施して心に悋むことなし。 (おしむことなし)
信はよく歓喜して仏法に入る。
信は智功徳を増長す。
信はよく必ず如来地に到る。
信は諸根をして浄明利ならしむ。
信力堅固なればよく壊することなし。
信はよく永く煩悩の本を滅す。
信はよく専ら仏功徳に向かえしむ。
信は境界において所着なし、諸難を遠離して無難を得しむ。(何ものにも執着しない)
信はよく衆魔の路を超出し無上解脱道を示現せしむ。
信は功徳のために種を壊らず。(功徳を得るための壊れない種である)
信はよく菩提樹を生長す。
信はよく最勝智を増益す。
信はよく一切仏を示現せしむ。
このゆえに行に依って次第を説く。 

(だから菩薩の行を積む順序についていうと)
信楽最勝にしてはなはだ得ること難し。乃至 

(信楽はもっともすぐれていて得ることがとても難しいのである)

もし常に諸仏に信奉すれば、すなわちよく大供養を興集す。
もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。
もし常に尊法に信奉すれば、すなわち仏法を聞くに厭足なし。(聞いて飽きることがない)
もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。
もし常に清浄僧に信奉すれば、すなわち信心退転せざることをう。
もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。(ゆらぐことがない)
もし信力を得てよく動くことなければ、すなわち諸根浄明利をえん。
もし諸根浄明利を得れば、すなわち善知識に親近することう。
すなわち善知識に親近することを得れば、すなわちよく広大善を修集す。(広大な善根を積む)
もしよく広大善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。
もし人、大因力を成就すれば、すなわち殊勝決定の解をう。
もし殊勝決定の解を得れば、すなわち諸仏の為に護念せらる。
もし諸仏の為に護念せらるれば、すなわちよく菩提心を発起す。
もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。
もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生まれて如来の家にあらん。
もし生まれて如来の家に在ることを得れば、すなわち善をして巧方便を修行せん。
もし善をして巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心、清浄なることをう。
もし信楽の心清浄を得れば、すなわち増上の最勝心をう。
もし増上の最勝心を得れば、すなわち常に波羅蜜を修習せん。
もし常に波羅蜜を修習すれば、すなわちよく摩訶衍を具足せん。
もしよく摩訶衍を具足すれば、すなわちよく法のごとく仏を供養せん。
もしよく如法に仏を供養すれば、すなわちよく念仏の心動ぜず。
もしよく念仏の心動ぜざれば、すなわち常に無量仏を覩見せん。
もし常に無量仏を覩見すれば、すなわち如来の体常住を見ん。
もし如来の体常住を見れば、すなわちよく法永く不滅なることを知らん。
もしよく法永く不滅なるを知れば、すなわち弁才無障碍をえん。
もし弁才無障碍を得れば、すなわちよく無辺の法を開演せん。
もしよく無辺の法を開演せば、すなわちよく慈愍して衆生を度せん。(慈しみの心で)
もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなわち堅固の大悲心をえん。
もし堅固の大悲心を得れば、すなわちよく甚深の法を愛楽せん。(喜び味わうことが出来る)
もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなわちよく有為の過を捨離せん。(迷いの罪を離れることが出来る)
もしよく有為の過を捨離すれば、すなわち驕慢および放逸を離る。(おごり高ぶりや、怠け心を離れる)
もし驕慢および放逸を離るれば、すなわちよく一切衆を兼利せん。(救うことが出来る)
もしよく一切衆を兼利すれば、すなわち生死に処して疲厭なけん、となり。(迷いの世界にいて疲れることはない)

略抄

不思議なもので、これが「宗教は麻薬だ」といった非難をあびるかもしれないところだが、私がこれに傾倒するというのは、つまりここに書いてあることにもはや疑問を持たないというのは、「すべてできる限りの調べはし尽くしました。これ以上は私のできる範疇ではありません。後はお任せします。どうぞ暗示でも何でもしてください」というようなものであろうか?!

 

いや、そうではないだろう。すでに述べたように、如来の本願が自ずから然りであり、その根源からのあるがままの働き、、、これをもはや紛れがないと身をもって体験したので、身心からその働きにそって生きようということだ。これまでやってきたことをここで確認(証)し、そのとほうもない恩恵にありがとう、と感謝することができたので更に丁寧に一歩一歩、歩をすすめるということだ。 

 

涅槃経の言葉から

 

「仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。」(涅槃経)教行信証、P。206

 

「如来は即ちとらわれを離れた無である。これははからいを離れたあるがままのはたらきである。。。真実のさとりは生じることも滅することもない。だから悟りは即ち如来である。。。

 

如来は即ち涅槃である。涅槃は尽きることのないものである。尽きることのないものは即ち仏性である。仏性は即ち決定である。決定は即ちこの上ない悟りである。」   (涅槃経)教行信証、P。391−2

 

「光明はいつまでも衰えないものである。いつまでも衰えないものを如来という。又、光明を智慧という。。。

 

すべての有為はみな無常である。虚空は無為であるから常住である。仏性は無為であるから常住である。虚空は即ち仏性である。仏性は即ち如来である。如来は即ち無為である。無為は即ち常住である。常住は即ち法である。法は即ち僧である。僧はすなわち無為である。無為はすなわち常住である。」(涅槃経)教行信証、p。394−5

 

ミチオさんの言葉から

 

間違いのない教義では

信心が正しい因となり 結ばれることになる

信心決定

だから  信じるものは救われるとは 正しいのだよ

 

 

みんな信じてないだろう

 

あーでもない こーでもないと 講釈ばかりで
あっちに ふらふら こっちに ふらふら
これは よほど 縁があるものでないと 難しいのだよ
縁があると  離すな

 

 

それだけだよ

そのうち 奇跡が起こるよ

掴んだら  離すなよ

無常観  この世とは儚い

悪人正機 人間とはなにごとにおいても自己中心になるものだ

懺悔と感謝

このくらいは 覚えておく

 

 

深く 考えなくても よいんだよ

自然でさ

自然と 身についていく これも 信心による回向

ただ 阿弥陀仏さまの いわれくらいは 知っておいたほうがよいぞ

ぼくなんてさ いわれを ハッキリ知らなかったし

釈尊だけは 絶対的に信じていた (浄土真宗)

信じていただけでさ  しかし 普段の生活では殆ど考えもしなかった

それでも  突然  くるのさ

だから  救われないはずが ないじゃーないか

 

 

救われたら

 

感謝になるのさ

それが 念仏の正体でもあるのだが

そんなことは どおでもよいから

教えを知り  信じることだよ

 

 

救われているといえば救われているが、

 

ところが どっこい

それは 論理

そこにあるのは ○○地獄なのさ

 

 

これらは方便とか一種の刷り込み

 

そのような 類とは異質なものだ

信じる者が やがては 救われていく

真実の教えなのだ

 

 

信心がないと不可能だから

 

信心正因

信心で決定する  これだけなんだよ

みんな 不合格だな

 

 

わかりやすくいうと

 

信心で掴み 念仏で行じていく  このようになる

 

 

教義は必要ない、

 

しかし ないといけないという

そういうものだろう

 

 

勉強するなら信後なのさ

 

その前に いくらやっても わからない

バカが はやい ゆえん でも ある

 

 

中山正和さんの言葉から

 

*注:カッコ内は私なりのコメント。

 

「迷いを断ち切って、右脳を自在にする為には修行がいります。(→正しく念仏をやる人は称名するたびにこれをやっている)ひとつはトリ・ケモノのように一切コトバで考えないことです.人間は左脳を持っているから、「いっさい」というわけにはいかないが、せめてパロールだけにしてメタ・ラングを使わないこと、というのは六歳児の心境になれば良いでしょう。「大賢は大愚に似たり」といって、一休(良寛?)和尚などは時々子供になって一緒に手まりをついて遊んだりしたようです。

 

コトバを使わないことは、また、理屈を言わないことに決心するといっても良いでしょう。「信仰」とか「信心」といって、なにか心に決めた神様や仏様を一心に拝む。迷いだしたら、「お願いします(南無)」といってお題目を唱える。これでもいいでしょう。コトバをまったく捨ててしまったわけではありませんから「南無」といっているうちに何か悟ることがあるかもしれません。

 

しかし本当に問題を解決しようと 思うなら、コトバによって「考え」なければなりません。知識レベルの高い人ほどそうでしょう。だが、知識レベルが高いほど、逆にこのコトバがイメージをかき乱すことも起きてきます。(→右脳の自在性が失われる)左脳が右脳をコントロールしやすいのです。これを左脳の理屈で、そういうことが起きないように「修行」します。その上で、右脳から左脳への論理化ができれば、どういうふうに修行すればいいか、ということを他人に伝えることが出来ます。(これは苦集滅道の構造・プロセスに同じ)

 

道元禅師は「只管打坐」といって、ただすわりさえすればいいのだといいます(このねらいはヴィパッサナと非常に似ている)が、それにもかかわらず彼は正法眼蔵という全100巻にも及びそうな大著をあらわしています。自分の究めたことを人に伝える為でしょう。そうしなければ悟りは自分だけのものでおわってしまうのです。

 

無学文盲のおばあちゃんでも、南無阿弥陀仏と唱えて幸福に生きることが出来ます。学問はないが、腕に覚えのある名人芸の職人さんは、自分ではその腕で奥義をわきまえているのだが、他人にそれをコトバで教えることは出来ません。たいていは無口の人が多い。しかもこれらの人は、学問があって世間に名前を売っている人々よりは幸福であることがしばしばです。

 

学問をして、しかも本当のことを人に説くことはかくのごとく難しい。。。右脳が自在であることを前提にして、学問というコトバを左脳の上で使わないと真の悟りは得られません。東方照という理性の働きは現れないのです。(→全機現、般若の智慧)

 

p。20−22、釈迦の悟り、中山正和(産業能率大学出版)

 

業、心の癖、暗示、薫陶、信(道元と孔子)

 

道元に「華は愛惜に散り、草は棄嫌に生えるのみなり」(現成公案)という言葉がある。

 

仏道というものが「わかって」も、好き嫌いの性格まではインプリント(→刷り込み:小さいときからの暗示・薫陶のようなもの)があるから、なかなか変えられない、というようなものだ。

 

一方孔子に、はねつるべの話がある。これは大拙の書いたもののコピー:

 

 あるとき孔子の弟子の子貢が、農夫の手ずから水を井戸からくみ出して、畑にやっているのを見て、「なぜ、はねつるべを利用せぬか」と尋ねた。すると、その農夫のいわく、「何でも機械にたよるものには機心がある。この機心を自分は嫌うゆえ、それを利用しないのだ」と。。。

孔子は子貢の報告に接して言った。「それは面白い。このような人は、物のまだ一つで、二に分かれぬ先に生きている人である。これは一を知って二を知らぬ人だといってよい。云云」と。

つまり孔子の意見によれば混沌未分のところに心を据えておいても、それにとらえられず、二つに分かれた世界に処しては、またそれに応じて行動しなくてはならぬ。内をのみ治むることを知っても、また外を治むることを知らなくてはならぬ。つまり内外に処して十全の働きがあるべきだ、、というもの。 』

http://www.geocities.jp/suzakicojp/zennnosyakaisei.html#_Toc190261400

 

 

さいごに

 

いろいろ書いてきたが、言葉にすると微妙で、どこまで話しが通じたかわからない。それはそれとして、「正理と法の道を歩む」、という意味あいがある程度は説明・確認できた様に思う。見方・言い方がいろいろあるので、かえって混迷、、ということになったかもしれないが、何かの参考になれば幸いです。

 

鈴木大拙全集6巻に大拙の真宗関係の論文などが集められてあるが、このファイルを終えるにあたってパラパラとながめてみた。おそらく数年以上前に読んでいて、私のしるしたアンダーライン、書き込みなどがあるが、紛れはないようだ。もっとも前に読んだのが頭のどこかに残っていたということかもしれない。

 

私自身の体験や、道の歩み方の感じをふりかえるとともに、お経とか、テイラーさんなど、他の人の体験などもふくめ、いろいろな角度から調べ・確認をするというのは、やはり「正理と法の道を歩む」上でこれからも続けるべきものと思う。

 

 

 

参考資料

 

参考サイト

 

私のHPのサイトから:

テイラーさんの体験:http://www.geocities.jp/suzakicojp/taylor.html

蓮如と道元の比較:http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/rennyoanddogen.html 

歎異抄を読む:http://www.geocities.co.jp/Suzakicojp/tannisyou.html

ヴィパッサナでの体験(脱落と光明:英語です):http://www.geocities.co.jp/Suzakicojp/revisitingvipassana-2000.html 

十地経を読む:http://www.geocities.jp/suzakicojp/jyuujikyou.html 

Wilbroさんのガイド(観想の方法:動中の工夫):http://www.geocities.jp/suzakicojp/guide.html 

禅のすべてが尽きる:http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html 

鏡の心:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html

禅と分別:http://www.geocities.jp/suzakicojp/zenntofunnbetu.html

智慧の見出し方(最上についての八つの詩句):http://www.geocities.jp/suzakicojp/chie.html 

ミチオさんとの対話―1:http://www.geocities.jp/suzakicojp/michio.html

 

本:

大乗仏典、中央公論社

教行信証(現代語訳)、本願寺出版社

ブッダ最後の旅、岩波

中山正和:天才脳の構造・釈迦の悟り、産能大

スッタニパータ:ブッダの言葉、岩波

法華経、岩波

正法眼蔵、岩波

 

 

 

         HPに戻る:www.suzakijpn.has.it 

ないしhttp://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html