
剣と禅(2)
− 創造的生き方を考える −
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大森曹玄という人の書いた「剣と禅」(春秋社)と言う本を読んだ。大拙が剣と禅についてなにかと連絡を取っていた人である。
創造性=生き生き生きること、とみると、何をこの本から学べるのか。どう剣道が生き生きに関わりあうのか調べたいのである。
ちなみに、ここに書いたものは2007年10月〜12月、ヤフーの掲示版、創造性のトピに載せたものです。
2007年10月10日
洲崎 清記
何の技でもそうだとおもうが、はじめはかならずその技の反復練習から入るのが順路である。もちろんそれは意識的な動作である。
それが千錬万鍛されていくうちに、だんだん意識をもちいないでも其の技が行えるようになり、ついにはほとんど反射的になってくる。それを手に入った、とか、身に付いた、または板に付いたなどというのである。
p147
ーー
反復がいかに大事か。
又そのためには発心がいかに大事か。
又、そのためには発心する「もと」がいかに大事か、と言うことになるな。
これは又、其の「もと」(法といってもいいだろう)を感じとる知覚がいかに大事か、と言うことになる。
その知覚はどうして得られるかと言うと、無心(応無所住而生其心)というとことになるな。
これはまた反復を無心でやれということにもなる。
そしてそう反復しようと言うのは、これは智慧だから、やはり無心が基盤にあるという事になる。
だから身に付く、は法にそって生きるということになるね!
面白いね!
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武道では古来そのために、数稽古と工夫稽古がおこなわれた。
前者はいわゆるかかり稽古式に回数を多くし、自然に技のコツを体得する量的な稽古である。後者は一本一本をむだなく反省工夫しながらおこなう理論的、質的な方法である。
p。147
ーー
なるほどね。ニューロンの幹をふとくしながら、新たなニューロンの正しい回路を開発していくというようなものかな。
やはり、名人のやり方から習うというのが効率がいいとはいえるのだろう。
基本的には戒定慧なのだろうけど、その戒すなわち、法にそった正しい道の見出し方の智慧、あるいは技(わざ)がどう身に付くかということだから、理論(→究極は法)の戒、と定慧からでてきた戒が、どうマッチし、その仕方がいかに、しっかり身に付くかということなのだろう。
知から入り、行から確認するというのと、ただ行から入るというのと、ふたつあるのかもしれない。
ただし行からはいっても知がどうなっているかが問題だから、行だけではなう、知と行の合一がやはり切り離せないのだろう。
(とはいえ、ひとによっては、行を最重視し、知は関係ないというやり方もあるにはあるのだろう。。。が、「人」としてはそれは(あるところーつまり智慧の方法がわかるところーまでくれば)そのままつづけるのは、やはりどうか、とおもうのである。つまり頭を使うというところまでこないと何となくどうかな、とおもえるのだ。
そしてそれが、いわゆる修証一等の意味合いとおもえるのである。つまり、このへんで、体を重視しすぎると、用がおろそかになるという意味合いがあるとおもうのである。)
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武道をやるものは畜生兵法に偏しやすく、禅をやるものには理兵法が多いのは、前者は力や技がすべてとする悪悟りだし、後者は心を万能薬と錯覚してのひいきの引き倒しというべきであろう。
p。148
ーー
ひとことでいえば体と心のバランスということになるかな。
片一方に重きを置くと、バランスがない。歪がある。全機現でない。
体の言う所を話すことができ、
正しい心の内容(理)がすなおに体からもにじみ出る、
というふうでないといけないのだろう。
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道の良く修まるときは法も自然とその中に備われども、一人法のみを修むる時は必ずしも道を含めりとせず。
p。149
ーー
これ面白い!
法があらわれるのはそこいらじゅう。でも道はその表れが、いわば最大限の表れというようなもので生き生きの様子がにじんでいる(→全機)といった所かもしれない。
となると、菩薩のあり方もその意味で、例の宮沢賢治の全世界の人が幸せにならない限り個人の幸せはない、というやつで、、、ある種の方向性が出てくる。
すると、、、やはり小乗の生き方は見方によれば、(ブラックボックスみたいなもので)道につながるということにはならないとも見えるのだね。いやまて、その道は大乗の言う道であって、小乗の道は、それはそれでその個人にとっては、紛れもない道なのだ!
一方、小乗の側から言えば、大乗は小乗(究極の悟り)がすんでなけりゃ、人を助けるということのなんなのか、そしてなにかするというとき、その方策に、間違い(歪)がある可能性があるという議論もあるだろう。
だけど、歪ゼロまで待つというのも、変な話だ。すべてが透徹してなくても、できる所からやるというのは、実践的な見方をとれば、それでいいという気もする。
まあ、そんなこんなで人間の歴史が形作られるのだろう。
結論で言えば、すべての人のとろうとしている道が法に沿っていればよいということになるかな。そしてそのためにいろいろな苦労があるというのが人の一生なのだろう。
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>ある種の方向性が出てくる。
どうもこれが成所作智というのにつながっているみたいで、ただし、目的・目標はありながら、それにとらわれず、無心の努力(努力しないー努力していると感じないー努力)を進めるということのようです。
菩薩でも、サーフィンでも、伊勢海老取りでも、経営でもなんでも、その辺の呼吸が大事ということなのでしょう。(究極は生き生きの全機)
法は法でそこいらじゅうに現れていても、道は中道というように、人間だけに課せられた任務で、その実践にはある種のバランス感覚・智慧が必要というふうに受け取れるわけです。(働き様の働きをいかに歪なく、こちらは無になっていわば働き様のエージェントとなって、表現させていただくか、ということでしょう)
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心が本で技が末と本末の関係を認め、しかも畢竟、本来究竟等也と喝破しなければ、真の芸道は成り立つものではあるまい。
p。150
ーー
(注)本末究竟等について(以下はネットで調べたもの):
諸法の実相とは、所謂、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等の十如是である)
簡単に語句の説明をすると、〔如是〕とは、真実の・ありのまま、〔相〕とはすがた・形、〔性〕とは、本来の性質・変わらない性質、〔体〕とは、相と性とのよりどころとなる本質、〔力〕とは、潜在能力、〔作〕とは、表面に現れた作用・働き、〔因〕とは、物が生起し、変化する直接的原因、〔縁〕とは、原因を助ける間接的な原因、〔果〕とは、因縁によって生じた結果、〔報〕とは、その結果による報い、〔本末究竟等〕とは、すべての事物・現象は、これらの九如是の総合の上になりたつもの、という意味で、これを十如是という。
本と末の関係は用と体の関係ににているな。
本がないと末はない。
かといって末がないと本はあらわれようがない。
同じように
用がないと体はない。
かといって体がないと用はあらわれようがない
あるいは
法がないと道はない
かといって(人において)道がないと(人において正しい)法はあらわれようがない。
だから十如是(→本末究竟等)のようなもので、いろいろの角度からの調べをすすめ、その全体をとらえてないと何がなんだかおかしくなる。
これは娑婆=極楽というのに同じ。元の元がわかっているなら、、、、
目先のことにとらわれず、おたおたせずに、、、
くつろいでいられる、といったものではないかな。
名人はそこのところをちゃんととらえているのだろう。
すると、表現(行為、考えなど)が、はたで矛盾とみえるものでもちゃんと、元から見れば整合性があるということがわかるだろう)
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ここに心と技との媒体となって両者を結び付け、これを発動させる原動力としての気というものに着目する必要が生じてくる。。。
大切な気を忘れたのでは、技は小手先芸の末にはしり、心は虚遠のいたずらごとに流されてしまう。。。
媒体が養われないから、心と技がばらばらにならざるを得ないのである。
p。150−1
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>両者を結び付け、これを発動させる
いわば矛盾を自己合一する媒体(時として鏡→智慧かな、あるいは定→慧)があって、そこでの働きが気でもいいし智慧でもいい。
「それ」が法にのっとって(道と言うある方向に)働くというわけだ。
だからいってみれば、始めはその二つの世界を認識し、次に(何もせずにじっとその中間状態・矛盾状態にまかせることによって)そこで生まれる働きに任せる、といったものだろう。
気はエネルギーであり、はたらきである。だから矛盾を乗越えるという意味でその意味合いはあたっているようですね。
それと、その発現が、全機につながり、心を技、あるいはハートと頭が結びついて、心身が生き生きするというのが、まことに、おもしろありがたいところです。
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気というものは孟子によれば「体の充」で、われわれの身体に充満しているものである。。。
孟子は「志一なれば即ち気を動かす、気一なれば即ち志を動かす」と、その交互作用的関係を明らかにしている。
p。151
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道元のいう、発心、発心、又発心。。。
の意味合いがここにあるのだろう。
原点に帰るというのも、
こいつの確認だろう。
それは、、、生きているものの、、
存在の原点。
心と技もいいけど、
ハートと頭、無意識と意識のつながりをみているようでもある。
そもそも坐禅・瞑想はそこをみているのだろう。
というのも、そこの連絡がされると、生き生きの全機がみなぎり、
智慧が働き、くつろぎが訪れるというものであろうから。
そこの連絡がまずいと、歪がいろいろな悪さをする。
間違った、悪い癖は直らないで、かえって邪魔をする。。。
だから、だかだ、、、、
常に原点に戻り、、、
頭をクリアにして、志を正しく、、、
いわば、体から、生きていこうというわけだ。
(ところで見性のときはこの気が不思議な役割を果たしていると見える。ただし、大拙が言う(p。198、人と思想)ようにそのときの現象を心理的現象とのみ見ると般若の智がない、ということだ。)
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ただしく呼吸する事は正しく生きる事である。
p。153
ーー
呼吸を正しく、、、
その呼吸の正しいのを知覚する感覚も正しく、、、
すると、、、
全身に気がみなぎり、、、
透徹した心身が、、、
自ずから然りのすべてが、、、
そのまま、整っている。
(ヴィパッサナも同じ所を見ている。→ U Ba khin Journal参照)
==
およそ気を養うの道は、気を減らさざると、ふさがざるとにあり。
気を和らげ平らかにすれば、この二つの憂い無し。(養生訓)
p。153
ーー
>およそ気を養うの道は、気を減らさざると、ふさがざるとにあり。
これが透徹、透脱とつながっているね。
作為的なものをほおっておくのだ。
オープンに、、、気の通るように流れをよくするのだ。
しこり、歪 →心の癖を取り去るのだ。
それを注意はしながらも、何もしない(無心)ことによって、成し遂げるのだ。
>気を和らげ平らかにすれば、この二つの憂い無し。(養生訓)
すると、気がやわらかくなり、すべてにいきわたる。
結果は自ずからわかる。
==
自我を否定しつくしたものこそ、逆に自己の根源に帰り、本当の自己が肯定されて絶対的主体に生き、マスターとなる事が出来る。
これを生の弁証法的構造とでもいうべきだろうか。
p。181
ーー
あるいは即非の論理でもいい。
ないし、くつろぎの論理。
(このハロウィーンの残りの飴、おいしいな!)
==
>自我を否定しつくしたものこそ
言葉では、さっと読んで、さっと次の言葉に移り、、、
頭で理解する、と言うことになれていて、
一体このことの意味が本当に身体でわかっているものが
(私も含めて)どれだけいるだろうか?
また、わかったとおもっても、
いまここでそうかどうかは、、、
知る限りではない。
臨済が喝を連発した(かどうかよく知らないが、とにかくそうしたとして)
わけが、そこにあるのだろう!
否定して否定して、、、
否定して、、
その否定したものをまた、
否定して、、、
否定尽くす。
どうかな?
そこになにがある?
==
ある老居士が鉄舟に臨済録の提唱を、、、とたって請うので、
ではやりましょう、と、、、道場に入った。
そこで門人と撃剣一場して室に帰り、
私の臨済録の提唱はいかがでしたかと問われた。。。
(そのあと)臨済録を書物だと思っては困りますね、といわれたという。
p。183
ーー
!
==
「余がいわゆる剣法の真理は、万物大極の理を究むる」もの。。。鉄舟
p。187
ーー
何でも究めると、そこにいきつくのだね。
大拙はそこを、、、宇宙運行の原理といった。
これはまた、法でもいいな。
そして、、、
その原点から、、、法にそったものがどう現れ出るのか、、、
これをひとつ、、、
見るとともに、体験もして、、、
手段=目的で生き、生かされ、、、
あ、そうか、死ぬ時はそれのみ、だな。
要はジジ無礙だな。
おもしろ不思議でもあり、、、
なんとも言えないようでもあり、、、
かといって、いろいろ言う、考える、行為する、知覚する、、、
といった所でもあるな。
==
鉄舟先生が、、剣の極意を「施無畏」だといった、、が、
無畏すなわち不安や恐怖から人々を解放し、絶対の安心感を与える施無畏の剣にいたって無刀の道はきわまれるというべきであろう。
p。187
ーー
これはまた痴聖の境にはいるというらしい。
「のろのろとして、相対すれば相手はまったく敵対の念を喪失してしまうような、、、」(p。187)具合とのこと。
その人のそばにいるとそれだけで安心する、と言うことかもしてないね。
どんぐりへんぐりやーいやーい。
==
絶対の我を認得したものには、それに反する相対的な敵は自ずから存在しない。。
p。210
ーー
そう、負けても負けないね。
死んでも死なず。
つまり、負ける時は負けるが、負けても負けないに同じ。
また、死ぬ時には死ぬが、死んでも死なず。
まあ、般若即非をいいかえたものだな。
==
武道とは、死を通じて大活を現成し、永遠の生命に生きる人生の一大事であり、その体験である。
p。258
ーー
これをもって
「剣と禅」(の読解)を終えたい。
要は、我をとるということ、
(我が)死んで(→本来の生を、生き生きとしかるべく)生きるということ。
>武道とは、死を通じて大活を現成し、永遠の生命に生きる人生の一大事であり、その体験である。
の武道とは、を禅とは、あるいは仏道とは、、、と言い換えてもいいのだろう。
ここまでを振り返ってみて、もともと剣というのはあまり穏やかでない所があるが、、、、
まあ、ぎりぎりの所を乗越えるという、あるいは無我、無常を見極める、ひとつの方便・修業法と言うような意味合いで、、、
あるいはとことんの肝を作る(維摩:基底のない基底にいたる)と言うような意味合いで、、、受け取る事としたい。
==
一切皆苦
諸法無我
諸行無常
涅槃寂静、、、
本来、生き生きの生命。(→不生)
におちついたようだ。
要は「そこ」の確認の上、(往相回向)
「それ」を自ずからあらわしめる、ということだろう。(環相回向)
色即是空、空即是色!
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