
妙好人の世界を味わう
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ここでは、YAHOO!の妙好人という掲示版でのkanasiminoanziiさんとの対話をご紹介します。慙愧=歓喜、他力=自力=絶対力(わたしのつくったことば)、解脱などを話題にしてあります。 2003年9月 洲崎記
(kanasiminoanziiさんから)
タスカッテミレバ
タスカルコトモイラナカッタ
竹部勝之進さんの詩ですけど
これは僕もなんとなく理解できるような言葉です。
なんだか説明できないけど、
言いたいことがなんとなく心に響くような・・・
今、「妙好人を語る」という本を読んでいますが
妙好人の言葉はいいですね!!自然で素直で・・・
才市の詩も載っていました。
海には水ばかり水を受け持つ底あり
才市には悪ばかり
悪を受け持つ阿弥陀あり
うれしや
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
これなんていいですね!!
そうそう!!って感じます。
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投稿ありがとうございます。
>なんだか説明できないけど、。。<とのことですが、説明しようとするとサイダーの気が抜けちゃうようなことかもしれませんね。
竹部さんを、ネットでサーフしていろいろ見つけましたが、とりあえず、ここにそのうちの二つだけあげておきます。
ヨロコビ
イツデモヨロコベルヨロコビ
ドコニイテモヨロコベルヨロコビ
コノヨロコビヲヨロコブ
コノヨロコビ
コノヨロコビハ
ワガチカラデヨロコベルヨロコビデハナカッタ
「慙愧というのは自分ではできません。自分でする慙愧は暗いでしょう。慙愧せざるをえない。そういう教えに出遇わしてもろうた。ありのまま、ありのままのわが身は恥ずかしいのだ。その恥ずかしいわが身が分かると、それはもう隠しようがない。その慙愧のところによろこびが溢れてくるんです」
この辺のところ、結局キルケガードのいう、"Truth is subjectivity."につながっているのかもしれません。
*これからもよろしく!
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>「慙愧というのは自分ではできません。自分でする慙愧は暗いでしょう。慙愧せざるをえない。そういう教えに出遇わしてもろうた。ありのまま、ありのままのわが身は恥ずかしいのだ。その恥ずかしいわが身が分かると、それはもう隠しようがない。その慙愧のところによろこびが溢れてくるんです」
慙愧せざるをえない。というとこまでいって自力から他力に移行するのでしょうかね。
受動の世界にいくということなのでしょうか?
竹部さんの「ヨロコビ」という詩もそんな事を訴えてるような気がします。
妙好人は鈴木大拙さんの言う所の絶対的受動性の世界を
みていたのかもしれませんね!!
その人の描く宇宙だから魅力も感じるしなんだか惹かれてしまうんですよね。(^。^
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慙愧=歓喜
>>「慙愧というのは自分ではできません。自分でする慙愧は暗いでしょう。慙愧せざるをえない。そういう教えに出遇わしてもろうた。ありのまま、ありのままのわが身は恥ずかしいのだ。その恥ずかしいわが身が分かると、それはもう隠しようがない。その慙愧のところによろこびが溢れてくるんです」
>慙愧せざるをえない。というとこまでいって自力から他力に移行するのでしょうかね。
慙愧を阿弥陀仏の慈悲あるいは神の愛から見ると、業によってしかるべくして慙愧となってあらわれているんでしょうから、そうみえるということは、その時点で我はほぼきえているんでしょう。だから、>その恥ずかしいわが身が分かる<ということはその時点で、すでに、光に照らされている、そして、阿弥陀の慈悲に包まれているという実感があるんだとおもいます。
つまり、ほんのすこしのこっている我のおかげで、この実感がある。したがって慙愧=歓喜。そして、どうしてもこれはわけられないという、なんともいえない世界を体験する。そこでおもわず口から出るのが。。。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
したがって、ありがたい、ありがたい。うれしいな、うれしいなというぐあいに、何があっても、感謝の心で生きるあるいは死ぬということではないでしょうか。
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>慙愧を阿弥陀仏の慈悲あるいは神の愛から見ると、業によって
しかるべくして慙愧となってあらわれているんでしょうから
救いを意識する以前にもう救われている(光に照らされている)ということなのでしょうね。
慙愧せざるをえない宿命みたいなものを感じ、感じる事が歓喜になる。
それは自分ではどうしようもない、何かに動かされているから。
それを感じた時、慙愧=歓喜になるように感じます。
今この瞬間がありがたいと感じるのかもしれませんね!
一瞬が慙愧=歓喜の世界になるんでしょうね!!
suzakicojpさんの言うように自力も他力も関係ないような気がします。
自力と他力を対立させた世界が一面他力になる。
やがて他力自体もなくなり、他力でも自力でもどうでもよくなり、ただ世界がある。
何だか、目の前に普通の世界があって
其処で悩んだり喜んだりして
普通の現実があるのですが視点変化する以前とは何処か違うんですね。
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>>>慙愧を阿弥陀仏の慈悲あるいは神の愛から見ると、業によって
しかるべくして慙愧となってあらわれているんでしょうから
>救いを意識する以前にもう救われている(光に照らされている)ということなのでしょうね。
これを理屈でなくからだでわかるのが解脱だとおもいます。もうどうしようもないわけですから。桶のそこが抜けたのと同じ。それで、歓喜、うれしくてしょうがないということでしょう。
さらに、本当に分かっているとおもうのは、たんに心理的な、昂揚でなく、意識と無意識の、つまり、慙愧と歓喜の連絡ができているというところでしょう。絶対の境地を身をもって体験し、そのまま、相対の世界に悠々といきる。
そして、悠々でないときも、悠々の境地を忘れないという具合かとおもいます。とことん、どん底を体験しての歓喜。解脱の体験でしょうから、その味は尽きないということとおもいます。
>慙愧せざるをえない宿命みたいなものを感じ、感じる事が歓喜になる。
それは自分ではどうしようもない、何かに動かされているから。
それを感じた時、慙愧=歓喜になるように感じます。
今この瞬間がありがたいと感じるのかもしれませんね!
一瞬が慙愧=歓喜の世界になるんでしょうね!!
そうおもいます。自分と言うものの内省がとことんできてないと、迷い込んで、迷い込んだことにも気がつかないでしょうから、光に照らされていることにも気がつかなくなるんでしょう。したがって気ずきの感度を高めると言うことと、自己を忘れて、仏の家になげかけるということができるかがポイントとおもいます。
ここでおもしろい(?!)のは、感度をたかめるのは、自己を仏の家になげかけるのとほぼ、同義ですのでここを超えるのを解脱とすると、みんな同じポイントに帰着することになります。西田哲学では、絶対矛盾の自己同一などというようですが、妙好人は,そんな難しいことは言わないで、本も読めないような人が、あるいは、それだからこそ、人間として味わいのある、さわやかな感じをわれわれに残してくれているんだとおもいます。大変ありがたいことと感謝しております。
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