
透脱、鏡の心、大円境智、
全機、ありがとう
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
または:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html
ここに載せたものは2007年3月〜2007年5月に、ヤフー掲示板、東洋哲学のカテゴリー、瞑想のトピに書きしるしたもののまとめです。又、これ以前にそこここに、いろいろと書きとめてきたものの全体像がここに出ているようにおもいます。ひょんな縁でここにこられたかたのご参考になれれば幸いとするものです。
(全体像などというと、個々の姿の味わいが薄れてはもったいないので、その辺は注意したいところではあります。)
合掌 −洲崎清 (2007年7月6日)
*微妙なところでありますのでその後、ご参考までに付録としていくつかつけたしを載せてあります。本来ですとこれらすべてをまとめるのがいいのかもしれませんが、書いたときの流れ、感触も大事と思いまとめはいずれ機会を見つけてということにします。 2008年6月2日 記
(今回のニュージーランドの)旅においてふと感じたことがひとつあるので、ここに掲げておく。つまり、:
道元の言う透脱の意味が(心身から)「分かった」ように思う。
そしてそれといわゆる大円鏡智というか、鏡のこころがうまくつながるようなのだ。
透脱はもちろん身心脱落につながるわけだが、私なりの感じを表現すると、透脱はからだの中が透明になって、感情、こころの癖の働きがよく「見える」ということ。(これはヴィパッサナでの体験から来る所のもの、動中の工夫、あるいはいわゆる神秀⇒慧能の偈、不落因果・不昧因果のポイントともつながる。)
要は、この見あるいは覚が、目覚めであり、主観=客観、あるいは絶対矛盾の自己同一、そして鏡のこころ、(体から来る)智慧(つまり何がどうなっているのかわかるということ、だから何をするべきか、しないべきか、が「わかる」ということ)につながるというわけだ。
鏡のこころは、いってみれば透明な体に、意識の映像が映るというようなもので、それでいて、ひっかかりがない。だから鏡に今此処の意識の内容が映っているというようなもの。これがまた意識即無意識あるいは無分別の分別、分別の無分別と言うような表現とマッチするわけだ。
大拙の使っていた言葉で言えば、第一系列と第二系列の連絡、うちと外を一目でみるというエッカートの眼にあたるということだろう。
中山さんの言葉で言うなら、無意識が働いて意識が働く、つまり道元の全機現、に相当という事に成る。
言葉を使うと、ややっこしいようだが、こいつを修証一等で進めるというのがポイントなわけだ。
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さらに、この辺のところをいじってみよう。
まず、透脱の感じ:
どーんと抜けるということがあるが、程度の差があれ、これがじっくり感じられるというのは誰にもあるように思う。
例えば変な話かもしれないが、寝るときに眠れないということがあったとする。そんな時、布団の中でからだをちょっと動かすと、意識の方向に変化があり、無意識の働きに気づくそしてすっと眠りに入るということがあるように思える。
これは幼児の時に親が背中をさすってくれて、あるいは抱っこしてくれて、その感触にほっとなだめられて、すやすや安心の眠りに入ったということかもしれない。いずれにしろ、その感触に、何か自分より大きなものを感じ、「それ」に身をゆだねることに安堵を感じたというようなものではないかと思う。
あるいは、そのときの今此処の感覚に気づき、いわば(坐禅をしている時に)意識に気を取られない、という定の状態に近い感覚が湧き上がる(もともとあったそういう感覚に気づく)のではないかと思う。
そこで、この安堵とは何かというと、大きなもの(第一系列、無為の本体、生命の原点)と意識の一人相撲(第二系列、人為、おっとっと)があるきっかけで連絡され、その間の歪がいわば中道と同じで、ハーモニアスに結びつくということのように思えるのだ。
その結果は戒定慧の慧と同じ。しかるべく道が見出されると言うこと。つまり、この場合でいえば、ぐっすりお休みと言うこと(あるいはお休みでないならそのままおきている)になる。いずれにしろ法に従った智慧の働きが「仏の家」からおこなわれるわけであるので、ほおっておくということに成るわけだ。
このつまらないようなこと(実はまったくそうではないのだが)、これが例えばヴィパッサナなどの修業ではよくわかるようになるとおもう。私が体の感覚が鋭敏に成るというのはこの辺のことをいっているので、極端な意味では、頭に血が上ったり、おなかが痛いというようなことがもっともっと微妙・繊細なレベルで、現在進行形(ただいま、そのまま:As-It−Is)でわかるということに成るわけだ。すると、定⇒慧で、余計なことはしないという智慧が働くことに成る。あるいはすべきことはする、という智慧が働くことに成る。
前にどこかで書いたが、少林窟で坐禅をしていて時々腰を捻るというのも(こういうことは言っていないようだが)この辺の所を見ているのだと思う。
そして(修業によって)この感覚が発達する(もともとあるものに気が付く)と、それがやがては透脱(心身脱落)につながり、無意識の意識、鏡のこころの意味合いが(動中の工夫においても)わかると思うのである。
そのとき、弦のないハープの音を聴く(Kabir)、3里先の火を持ってくる、隻手の音声を聴く、本来の面目を知る、と言うような「こと」が、体験をもってうけとめられる・うなずける、と思うのである。
また、こいつは、才市のいう、胸のむくむく、(うれしよろこび、むねのむくむく、なむあみだぶつー大拙全集10、p。298)あるいはありがたい(ありがたいな、わしや覚えず知らずに暮らす、自然の浄土にこれがいぬのか)にも現れているように思う。
いやまて、なんのかの言う前に、「それ」はそこいらじゅうにあらわれているのだよ!
あーそうそう。盤珪さんもいっているではないか。
カラスのカーカー、すずめのチュンチュン!
真空妙用、不思議の世界だ!
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少しトピからずれるようでもありますが(とはいえ、どこかでつながっているのでしょう)、、、面白いものが見つかったので、ここに貼り付けておきます。いずれ時間を見つけてこのサイト周辺も調べたいとおもいます。
http://www.e-net.or.jp/user/kanoh/cm/kb1103.htm
http://www.e-net.or.jp/user/kanoh/index.html
(*このサイトのねらいは整体ですが、もとを正せば「心身のありかた」についてですので、無意識の意識など、ヴィパッサナ、そして白隠のナンソの法、内観の法ともつながっていると思います。)
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大拙11巻、p。66に沢庵の不動智神妙録をひきあいにだして、おもしろい書き込みがあるのでここに転載します。応無所住而生其心につながり、また鏡のこころとのつながり・意味合いを調べるのに役立つように思えます。
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「こころを何処におくべきぞ。我答えていわく、何処にもおかねば、わが身いっぱいにいきわたりて、全体にのびひろごりてあるほどに、手のはいる時は、手の用をかなえ、 足の入るときは、足のようをかなえ、眼のはいる時は、眼のようをかなえ、そのはいる所々にいきわりてあるほどに、そのはいる所々の用をかなふるなり。万一もし一所に定めてこころを置くならば一所にとらわれて用は欠くべきなり。思案すれば試案にとらるる程に、思案をも分別をも残さず、こころをば総身にすておき、所々にとめずして、その所々にあって用をばはずさず叶うべし。」
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あえてコメントするなら、「わが身いっぱいにいきわたりて」は道元では透脱、ヴィパッサナではFree Flowの進んだもの(⇒動中の工夫)につながるとおもいます。また、これは応無所住而生其心(あるいは無意識の意識、全機)と意味する所は同じでしょう。剣道でもサーフィン道でもなんでも。。。
ちなみに大拙のコメントは「10の地点のすべてにおいて、こころを動かすためには、どの地点においても、こころをとめるな。いかなる一定の地点にでも、ひとたび踏みとどまると、結局、他の9地点を等閑にする。これはただし非常に鍛錬をようすることである。」
次にこれに付いて、「鏡のこころ」の意味合いを考えると、自在におかれたこころをいわば鏡が照らす⇒そして「全体」がよく見えることにより、何処からか智慧が働く(⇒自己組織性)、つまり法に従った道が見出される、と言うこととおもいます。
さらにいえば、見性はこのプロセスのひとつの表れであり、それがいわば心身の構造・メカニズムに何らかのインパクトを与え、いわばその(眠っていた)働きの活性化を促すというような感じがするのです。ゆえに、これが全機現につながるのでしょう。
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以下は仏法の根本義と題して、今日、大拙のトピにのせたもののコピーです。言葉を使うと「本体」にいろいろな「形」があるようですが、ケースバイケースで強調するポイントが(形容の仕方により)いろいろな色合いになって現れるというようなものなのでしょう。
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「一即多、多即一」という事実の直観的または体験的理解と名づけていいものは、どの佛教各派でも教える仏法の根本義である。般若経の語でいえば「空即是色、色即是空」である。。。
特殊世界の経験諸事実は相対的の意味でなく、絶対的の意味において、一切空である。絶対的の意味における空とは、分析的な論理の方法で達しえる概念ではなくて、花の紅などという体験事実そのままをさすのである。直観または知覚の事実を素直に認めることである。知的作用と言う外側のものに向かわずに、こころがその注意を内部に向けるとき、一切は空から出て、空に帰することを知覚するのである。
p。32
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いとも簡単にいっているようだが、なんと奥の深いことか。。。
と言うか奥はない、あるいは、「それ」は無限、空であるからこの言葉は色即是空、空即是色そのものを「知って」読まねば意味がない。(例のCatch-22、絶対矛盾の自己同一である)
「鏡のこころ」と言う言葉の意味合いもここにつながるだろう。
色が空にあって、その本当の色の意味合いが「わかる」というのは、いわば鏡に姿が正しくまぎれなく映ると言うようなものだ。(そしてこの鏡と塵の関係が、神秀と慧能の偈の関係に同じと思う)そしてその両方を見るから、往相と環相となり、あるいは定と慧とも成るのだろう。
そしてそこに何があるかとあえて言うなら、それは大悲と大智の働き、法の働き、絶対の肯定、生命の不思議・エネルギーというようなものではないだろうか!真空妙用ーなむあみだぶつ、である。自力、他力のない一面の他力(才市)である。
!(喝!)
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透脱を現象面から見ると、「それ」の表現は爆発とか脱落、バンガ・Free Flowからクンダリーニやタントラまで、チベットのエロティックな仏像
( http://www.geocities.jp/suzakicojp/fugen.html )
まで含めていろいろあるようだ。(ただし、これはいかんせん個々人の体験の話なので、何をもって道元のいう透脱と同じと見るかは、とりあえずわからないとしておこう。)
またこれはいかにも微妙なところで、人を迷いに導く可能性があると言う理由であろうか、これらを統轄してまとも・客観的に扱ったものはほとんど見当たらない。これは体験したことのないものに何を言っても話にならないということだろうか?あるいは体験したものにとっても、その体験事体にはなんの意味付けもしてはならないということであろうか?(そりゃそうだ。)
それにしても1)客観的なもの:平井富雄さんの実験、一曹洞宗の僧の記述、ゴエンカ氏の話し、などなど、と2)主観的なもの:いろいろある微妙な表現(例えば無分別の分別、無意識の意識、透脱、全機現、Free Flowあるいは「桶の底が抜ける」、「爆発」などの比喩―隠喩というのかな)を結びつけるというのは、それを読むものにとっていわばリバースエンジニアリングみたいな役をはたすものではないか。(というのも、もともとの体験はただひとつなのであるから)
そこでこれをダルマの理入行入と照らして考えると、理入=行入として進める(これを知行合一と見てもよい)のが中道の教え(あるいは心身一如、鏡のこころの意味するところ)とつながるようである。
簡単に言えばサーフィンを習うのに理屈から進めるのと、実際の体験から進めるのと両方からおし進めるということ。そして名人になれば、(いわくいいがたしではあるにしても)それなりに周りの納得のいくものを言葉で説明でき、かつ法にそった行動をするということ、(知と行に矛盾がないこと)だろう。(つまり10牛の図を使っていえば、たとえそれが未完・不完全であるとしても、大悲大智を働かせて、8図にとどまらず、10図まで進めるべき(そして戻る時は戻ればよい)なのである。あるいは大拙のいうように(月を指差すことのできる)「理屈は尊い」のである。)
仏語(例えば透脱と全機現、鏡のこころなど)と言うのはもともとそういう意味合いをふくんでお互いが連絡されて出来上がっているのだと思う。そして「そこ」からわき出んとするものは、いわば「原始」のエネルギーで、まさに「生き生き」したもの(創造の原点での働き)なのである。そこで、この経過・ありさまを、今、かりに透脱・全機現と表現する、としておこう。
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理入行入から中道の話しがでたが、ここで八正道にもつなげて話しをしてみよう。
前にいった10牛の図の8図にとどまらず10図に進むというのは、大智大悲が社会に「うまく」展開されるということだろう。(ところで小乗がどうのこうのという事があるが、大乗と名乗るものでも道なお遠しという場合が多い様に見える。これもまた知行合一の意味合いからもよくおもい知るべしだろう)
そこでこのうまい展開が例えば八正道でいう正語、正業、正命、正精進とつながるならこれは、当たり前ではあるが、「法にのっとった」社会・宇宙への貢献・法にそった行い、と言うことに成る。つまり(本人に対しても周りの人に対してもであるが)悟りに迷うのではなく、迷いを悟るのである。そこでその智慧の発露として八正道が現れ出るというわけだ。そしてそこに社会にも正しく連絡した生き方がみいだされるだろうということだ。(またこれは修証一等で、修がそのまま証に成っているということ)
釈尊はそういう事で(いかんせん難しいながらも衆生をほっぽることなく)「話」をしたわけで、(彼自身の生き方が法に従っていたーだろうーということにあわせて)衆生を導く事が出来たのだろう。(⇒ただすわれ、喝、棒のみではないのである)
ところで中山さんもこういっている:言語の相寂滅の境地だから仕方ないのですが、「それでも言葉によるほかない」、というお釈迦様の情熱を受け継ぐとしたら、「悟りを得なければわからない」、という言い方は不親切です」p。84、道元さんの安楽説法。 また。道元の「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」について、「オレはこう思うがどうじゃ、賛成せよ」というのが迷い。あなたのおっしゃることに同感しますというのは悟り。そのほうがこころ穏やかでしょう。同p。16、
ここで、それがいかにして可能であったかと言うと、これは戒定慧の基本のプロセスの実践につながっていると思うのです。
早い話、応無所住而生其心で、あなたも私も同じ、(平等、あるいは定)なら、「そこ」における自在性から悟りとして絶体絶命を突き抜けたように、8図から10図への展開もできる(可能)ということでしょう。これもまた真空妙用なり、です。
いわば戒というものは、いろいろあるようであるが、これは衆生のためのガイドラインを釈尊の智慧を言葉にしてあらわしたもので、大悲大智の現われでしょう。また広義(あるいは本来)の意味で八正道だって戒でしょう。対機説法で現れた智慧だってその場、その状況における智慧の表れ(⇒戒)といえると思う。ここでわが身を振り返ってみると、いかんせん、「これ」が知行合一で日常の言動にあらわれでているかどうか、こいつが「問題」だろうと思うのです。
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仏の悟りは何かというと、一切皆苦のとことんの認識⇒解脱にあるだろう。これはまた、絶体絶命からのひっくり返り。あるいは絶体絶命そのままのひっくり返りといえよう。(桶が抜けて、あるいは透脱のひっくり返りだ。逃げられないままでのひっくり返りだ。)
これはまた苦がそのままで、心理的にはその力を失い、「生き生き」に変わるというようなもので、まったくの不可思議なのである。そしてその「ひっくり返り」を見ると、苦は苦でない苦であるという般若即非となっている。またこの「大変化」は応無所住而生其心が基盤にあり般若心経でいう行深般若ハラミッタ時におこるのである。
苦⇒解脱、「生き生きでない」(あるいは絶体絶命)⇒「生き生き」、という構図がどういう場合に現れるかを調べてみると、かえって例のリバースエンジニアリングと同じで、その「もと」(の姿)についての理解が深まるようである。
これは、例えば「大拙の禅と日本文化」(大拙のトピ)の検討から進められると思うのである。そして、これをとことん進めることにより現れでたものから現われ出る元のプロセス、そしてそのプロセスの応用のためのポイントの理解がさらに深まるのではないかと思うのである。
ただし、ここで仮説・シナリオを立てるなら、
武士道と禅ー与えられた運命の中での「生き生き」の解明・実証、技の習得。
茶道と禅ー平等、素朴と作法の意味合い。
俳句・絵画と禅ー月を指す指とそのあらわすもの。(ピカソ)創造のプロセス
坐禅ー何もしないであるがまま・本来の自己の解明、であり、
菩薩ー大智大悲のあらわれ、
というようなものであろうか。
ここで道元なら絶体絶命⇒仏の家に投げかける、がある。妙好人なら一面の他力で救われている、である。言い方をかえるなら、中山さんの言う「いのち」の働き(無意識)を意識する(⇒智慧)、があるでしょう。これはまた、定・三昧・(夢中)が智慧の現成の不思議の橋渡しをする、といったふうですね。
仏(禅)の教えでは、随所に主となり、生き生きと生きる、が命題と言うわけでしょうが、それがいろいろな場面でいかに出るかというのが、おもしろ不思議なわけです。無論、人としてそれは人格に反映されなければ意味ないといえるでしょう。また、それ(無心の行為)が周りの人に「生き生き」のいぶき、夢、可能性、大悲の心を、あるいは菩提心を起こすということに結びつくかどうか、というのがいかにも微妙なところなのでしょう。
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(前に述べたリバースエンジニアリングの見方で)名人のあり方、つまり元を「知る」「体得する」と言うこと、をいろいろある書き物などをもとに調べるといろいろ面白いことがわかってくるようだ。例えば:
武士道と禅ー沢庵の不動智神妙録、武蔵の五輪の書
茶道と禅ー茶の本、利休の本(これはあいにく読んでない)
俳句・絵画と禅ー芭蕉、ピカソの言葉
坐禅ー正法眼蔵
菩薩ー大拙の言動を書いたもの、
そのほかいろいろなお経、公案、言行録など。
このほかいろいろあるであろう、またできることなら、その人の言動、生き様、をじかに一緒にいて体験するというのがいいのであろう。(薫陶の意味合い:大拙―美穂子さん)
ここで思うのは大拙にしろ道元にしろ、ここで言うところの「やり方」を誠実に実行していたのではないかと言うこと。まさに「親のかたきに会うような」(と言う表現があるがー碧眼録だったかな)そういう緊迫感、誠実さで調べを進める。そしてそのやり方は、いってみれば、いわば道元の弁証法、あるいは般若即非の論理での、一回否定を通ってのチェックであろうと思う。(リバースエンジニアリングだって似たようなものだ)
そしてそれ(このやり方)がいい意味での習慣となったとき、定、応無所住而生其心、あるいは無心の境地が基盤(維摩経でいう「基底のない基底」)となり、無意識の意識が、鏡の心が、智慧が働く、そしてそれが身につく、というものであろう。表面だけの形を見ることなしに、その裏にあるものまでいわば神通力みたいなもので、わかってくる、深い意味合いがわかる、というものだろう。一を聞いて十を知るのである。(俗な言葉で言えば表面づらあるいはワナに、引っかからないのである。)
いろいろな道の名人はこういう風にして出来上がるのだろう。畢竟、奥が深いのである!
(ただし無常に生きるものとして、修証一等、つまり釈迦もダルマも修行中、である。つまり一歩一歩、丁寧に、法に従って、道をあゆむのである。)
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リバースエンジニアリングに絡んで、ひっくり返りについてさきほど大拙のトピに投稿をしたのを、ここにものせておくこととします。大拙のいう「円環運動」の意味合いがこれでわかるようにもおもいます。いってみれば、(意識の働きを)「たて」方向に見ると円環運動、(現象としての動きを)「横」方向から見ると中道、といったことかもしれません。:
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私はひっくりかえり、と言う言葉をここ2−3年使っているが、即非、道元の弁証法、そして往相⇒環相、8図⇒10図は、皆この辺の消息を示しているように思う。あるいは絶体絶命を抜けて、また地獄に戻る(趙州)というやつで(も)ある。
つまりこの動き、働きを自ずから然りの形で進めるということ。いってみれば梵天勧請の意味合いがここに見出されるのではないかと思う。
これはまた、大拙がどこかでいっていたが、往が即、環にならねばならないというところまで進むということなのだろう。
迷いに眼ざめるという、ひっくりかえりとともに、そこにとどまらずに、さらにひっくり返って娑婆に戻るという、ひっくり返りがあると言うことだ。
そして、この(働きの)「全貌」が見えなければ(深い意味での)中道の意味合いもわからない、あるいは、でてこないということではないだろうか。
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ひっくり返りとか鏡の心という事に関して、「死」を題材に昨日ちょっと思ったことがあるのでここにまとめておく。
これは2ヶ月ほど前ある人(曹洞宗関係)と話しをしていた時、その人が、死ぬ時にあわてるかどうか、というところに焦点を当て、だからどうのこうの(⇒私の言うことが大事なんですよ、よく聞きなさい、云々)、というような論理を進めていたと言うことがもとになっているようだ。これは3年ほど前に話した曹洞宗の老師も言っていたこと。(ところで、これはこの二人がそういう問題意識で仏道に入っていったのでその思いがもとになって周りの人も、、、というつながりがあるのかもしれない。というのも死(あるいはそれにまつわる苦)という「現象」(の対処)はわれわれの意識の動きに合わせて切っても切れないものなのだからね。)
とにかく、こういうことが原因になってかどうか、昨日、鏡を見てふと、「ああ、オレはもうすぐ死ぬんだな」と言う思いがあった。3年でも15年でもなんでも所詮は、もうすぐだ。
と、とたんに、そういう思いは「明日天気に成るかな」と言う思いとなんら違いがないというふうに気づいた。また、鏡の心というのはそんなものだなと「思った」・「気づいた」のである。
「ああ、オレはもうすぐ死ぬんだな」の、ああ、オレ、もうすぐ、死ぬ、、、は、明日、天気、なるか、、、のそれぞれの要素にいわば(業に絡んだ)価値・ウエイトが置かれていないという事。そして、これが平等であり、そのままが差別(されたこれらの言葉の指し示すもの)という事に成る。(⇒だから平等が差別を照らすという鏡の心と言う意味合いがある)
これは意識がこれらの要素を自在に組み合わせて「思い」(ある組み合わせでつくられたもの、つまり、こころの働き)を作り、それが、迷いの時は「われわれ」がそれに埋没して、この組み合わせゲームから抜けられなくなる(つまり引っかかる)、ということだろう。一方、悟りのときは、あるいは(大円鏡智の)智慧が働く時は、「そこ」(意識・無意識のプレイグラウンド)での働きが鏡に照らされたもののように明確に見える、したがってそれにいかに対処するのがいいかという智慧が働く、というようなもの(と映るの)である。
人生夢の如し、と言う言葉があるが、人生=夢が、色即是空。あるいは差別即平等。これが鏡の心、ほっとけ、あるがまま、執着なし、というわけだ。
ただし、それだと、働きが一方通行のみで、それではどうかというのがあってもよい様に思う。
そこで、無執着なら、あるいは死ぬが自然で、生きるも自然なら、「生きるということの味わいがない」かというのがある。そこでこの味わいを見るのが空即是色、平等即差別とみえるのである。
どういうことかというと、そこに法の働きがあるということ。人として、個人としての使命があり、それを確認しつつ智慧を使って進むということがあると思う。前に言ったが、理屈が尊い、というのは、尊いと思う「心」(何かの基盤)があること、それとその基盤(あるいは法)にそって正しい理屈(正思、正語、など)が状況に応じて「正しく」働く、と言うことだろう。
ここのところが確認できるとすると、「ああ、オレはもうすぐ死ぬんだな」、「明日天気になるかな」「生きるということの味わいはないか」というような思いがあたかも空・鏡を通って、「ひっくりかえって」、「法にそって今何をすべきか」と言う智慧の働きとなって、でてくるのではないかと思う。すると知も行も法で括られて、紛れがないわけだ。つまり、ある智慧にもとづいた行動、思考が進む、というわけだ。
従って、平等と言うところで、つまり色即是空の一方通行でとまるのでなく、法にそっての行動・ありかたが問題というわけ。言葉を変えて言うと、外、差別、云々の問題と、内、平等に関わるもの、そして内と外に関して自問自答の答え、つまり整合がどうか、というわけだ。
そこで、これのうまく行ったありようを、とりあえず、中道といっておこう。
「生きるということ」、「味わい」、「ないか」、、、も、あたかも鏡に映るようであるが、ところがどっこい、そこに「味わいがある」つまり、法にそった味わいがあり、不思議なことに吾我はそれを感知することができる様になっていると思うのである。
感謝、祈り、感謝、祈り!がそこから出てくると「思う」のである。
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鏡がどういうふうに働くのかに付いてさらに調べてみたい。
そこでエッカートの眼が外と内とを同時に見ると言う言葉が思い浮かぶ。対象に心をとらわれるとバランスを欠く、智慧が出ない。そこで内も同時に見る。
これはどういうことかというと、外を見ている⇒そのときの内の変化(内に起こる反応)に気づいているということだろう。これが意識は外、無意識は内、そこで無意識の意識、という按配だ。(無意識の意識が意識されるわけだ。無論そうなるには、例えばヴィパッサナのような修業も役に立つだろう。つまり内に何が起こっているのかを常に知る、Sampajanna、といった具合。そこで、これが自在にできるものを眼が開いたもの、というわけだろう。)
こういったことで外即内、となると、これが全機現であり、鏡のこころの比喩がそこにあたるようにおもえる。それで外が内に照らし出される、物事がありのままに、今此処でわかるといった具合。つまり、我を進めている、、あるいは何かに執着しているというのなら、それが手にとってわかるというようなものだろう。
これが対処しない対処、つまり、正見(あるがままに見る)すると、すべきことは自ずからわかる、智慧が働くといったものだろう。ということで、これが定慧の構造であり、応無所住而生其心の意味合いでもあろう。また大拙の言っていた第一系列と第二系列の連絡はこういったことを指し示しているのだろうと思う。絶対矛盾の自己同一もこれに同じ。さらに言えば、なむあみだぶつでの機法一体もこれに同じ。般若即非もまたこれに同じ。
つまり、「AはAでない(照らされる)だから、Aである。」である。
「外は外でない、(というのも、そのまま、内を見るから)だから、外は「外」(真実の姿の外)である」、といったぐあい。
いや、おもしろいな!
不思議だな。
どうなっているのか、というところで、気づけば、そのままに、どうなっているのだ!
感謝、祈り、感謝、祈り!
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昨日美穂子さんと久しぶりに電話で話した。鏡の心に付いてどういうふうに大拙が言っていたかと聞いたら、あまり覚えがないとのこと。むしろ大地性あるいは丹田というような意味合いで、鏡あるいは無意識の意識を表現していたようだ。(全集には鏡の心というような、あるいは大円鏡智についての明確な記述はなかったように私は記憶する。→→ 注:これを書いた後しばらくして調べたらそこ、ここにそれらしい表現があり、私の見方との矛盾は感じられなかった。)
確かに地面に足がついている、あるいは肝が据わっている、という感じもいいとおもう。又そのほうが鏡の心というような表現、そして意識のはなしに(⇒物騒だから)おちいらないで話しが早い、と言うことかもしれない。(これは井上老師との話で経験済み。つまり話しがややっこしくなる)
ということで唯識でも何でも、インド的な形而上学のような方向に進むと、それはそれで迷子が増えるから、そういう話は適当にしてあまりいじらないのがいいようだ。
趙州の麻七斤なんて、いじりようがないから、、、そういう意味で公案はいいのだろうね。一長一短はあるにしても。。。
いづれにしろ、大拙に言わせれば、こういう話は臨済の「人」に集約される、、、ということだろう。
まあ、中山さんはその辺も含めて、禅を科学しながら公案もやったという事で、ある意味で言えば大拙の緻密でオーバーオールな調べと似ているところもある。(こういうやり方は調べを進める上であたりまえと私は思うけれど、人によってある程度の好き嫌いがあるのはやもうえないとも思う。)
ということで、ここまでいろいろ見てきたが究極の所は実践なのだから、この話は、(私自身はあるレベルでの確認ができたから)、この辺でほおっておくのがいいのかもしれない。
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もうひとつ、思い出したのが中山さんの表現:「仏道とはちゃんと目覚めていながら眠る方法を考えること」p。2道元さんの安楽説法
「ものがある、と考えると同時に、眠っていてそのものがないと思ったらいい。」
そこであってない、という例の矛盾が出てくる。これが夢中になっているとき、三昧の時あたかも意識は意識のままで無意識の働きが(仏の家から)でるいった具合。
そのとき不思議なこと(智慧、などの働き:自己組織性、意識の限界を飛び越えた働き)がおきるというわけだろう。つまり絶対(法)の働き、に気づく、と言うことになるのだろう。
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こういうE-mailがきたのでご参考まで。
坐禅
修行の心得 八
井 上 希 道
何のために修行をするのか。囚われて迷い、惑乱して苦しむ心。そうした自分の心を何とかしたいからなのです。これをどのように解決するかが、それぞれの宗教の持ち味であり使命なのですが、禅門に於いての救いとは、囚われる自己を解決することにあるのです。極簡単に結論から言えば、している「今」、「そのこと」に徹することです。
徹すればそれ一つです。他が何も無いので迷うことは無いのです。「今」一つですから、それのみになって「只」しておればよいのです。本当に「只」になった時、苦しみの本である心の正体がはっきりして、囚われる本が無くなるのです。それが解脱です。その為の修行なのです。。。。
その為に単純なこの一呼吸を、理屈無く無我夢中ですることです。吐く。吸う。この「今」の事実を端的に「只」しておればいいのです。これだけを真剣にしておれば、呼吸ばかりになる。呼吸だけになり単純に成ることを徹するというのです。「そのこと」になる、結局は一つになることです。不純性が無いこの心を誠心誠意と言うのです。純の上の純のことです。癖が落ち、空っぽになった心のことです。
ーー
まったくそのとうりと思う。ただここでヴィパッサナについていえば、ヴィパッサナでは呼吸と言う代わり(呼吸も含む)に全身すべての感覚に「覚醒」(無意識の意識)する、といったようなものでしよう。ただ最初からそうするのは難しいということがあるので、少しづく体を丁寧に、刻々と体に何が(つまり、いろいろな感覚を、いろいろな場所で)起こっているのか見ていくするわけです。そしてその感覚が全身にいきわたった時、道元の言う透脱、あるいは禅でいう見性のような現象(バンガ)が起こるように思えます。
もうひとつ。白隠にナンソの法というのがありますが、これがなんとヴィパッサナとにているのです。何処でどうなってこういう修業方法が伝わったかは知りませんが、なんとも面白いですね。
==
頭で考えるんじゃなく体で考える。
頭を留守にして、体で考える。
これを(一般に言う)考えるは、(真実の)考えるでない、(それは心身で)考える(とひっくり返らないといけない)。としよう。
これは又無意識を意識する、に同じ。
ということで、頭だけで考えるのはまあ、夢のようなものだな。
足が地面についてないようなもの。ふらふら、あっちいったり、こっちいったり。
本来の考えるというのを、もう一度「考え」てみないとね。
==
瞑想、坐禅を体で考えるというふうに見てみよう。
すると、「そこ」には何が起こっているのか?
じっと何もしないで意識ー無意識の空間を見る、看る、観る。
すると意識が動く、
それにかかわらず、見る、看る、観る。
でてきた意識が消えていく、水に浮かんだ泡のように。
それに関わらず、見る、看る、観る。見つづける。
これをとことんやり続けるということはどういうことか?
それは自然(法)に任せて、意識ー無意識の「空間」を「整理する」ということ、
生きるという本来の目的に沿ってしかるべく歪をとり、
生き生きの全機現(の働き)をあらわしめるということ。
「問題」解決の智慧が出るという事。
聡明に成るということ。
大悲の心があらわれる、にじみ出るということ。
。。。
==
体で考えると、頭はくつろぎ。
体もくつろぎ。というのも頭と体はつながっているから。
余計なことがどんどん消えていく。
で、そこに残ったものは何か?
ああ、それは頭で考えてもわからんよ!
それは直接、体で感じるものだからね。
==
>余計なことがどんどん消えていく。
で、そこに残ったものは何か?
>ああ、それは頭で考えてもわからんよ!
それは直接、体で感じるものだからね。
頭で何もしない(いじらない)ということができると、
これはもう、おもしろいね。
それこそ。くつろぎの世界だ。
ピカソがそれと同じ事を言っていたというのがこれもなんとも面白い。
大拙も同じようなことを言っていたな、西田の死にあって。
アレはまさに悲しみのまっただ中のくつろぎだ。
そう、それと、坐禅を長いことすれば、
いずれひっくり返って、つらい(と思っていた)のが、そのままなんともなくなる。これはそうできているのだろう。我が取れないと、そうはならないからね。
それで長いこと座っていてもなんともない、というようになる、
こいつも頭で考えるというのが、あるときその主導を体に渡した、といったものなのだろう。(人によって程度の差があるようだけれど。。)
すると、(あるいは頭⇒体の過程で)いろいろな智慧が体から出てくる、というわけだ。
それにしても、これはいったい、おもしろふしぎなことだなあ!
(でも坐禅すんであっという間に元に戻るというのも、あるようだけど。
そこで、ご注意、ご注意!⇒⇒体で注意だよ!)
==
体で考えるというのは結局、主体は何なのか、というのに通じるね。
主体が頭、我であれば、これはきりがない。
主体が体、あるいは本来の自己とでも言うか、であれば、きりなどもともとない。あるもないもない。
そこで「そこ」にくつろぎがある。
体で考えるというが、体に任せる、というほうが当たっているかもしれない。
まあ、体でなくて、仏様、神様、阿弥陀様、なむあみだぶつ、でもいいのだろうが、そこに対象を立てないという意味で体(無意識の意識)というのがぴったり、という感じではある。
==
ところで、主体の話しはそれとして、体で考えるを別の言葉で表すと、無意識の意識、あるいはもっとその雰囲気をつよめると、応無所住而生其心と言うことに成るのだと思う。これが定の正体だろう。
というところで、はなしを私が最近やっているサーフィンにくっつけてみたい。それは何かというと、沢庵の沢庵不動智神妙録にもあるが「心をひとつの対象にとめず」すべて一片に見る(⇒千手千眼の観音)、というような按配。つまり正しく(とらわれなく)「見る」(正見)ことにより、むこうから何がどうなってどうすべきかを感知する、といったものだ。
結論をさきに言うと、音を見る(観音)というのも、体で考えるというのも同じ。坐禅もサーフィンも剣道も経営道も同じと言う事に成る。この「智慧」が剣道、あるいはサーフィン道などの道につながるということ。ピカソも言っている、「私は探さない。見つけるのだ」(I
do not seek. I find.)畢竟、これが名人の道なのだ。
そこでサーフィンの例をとると、波を上手くとらえて、それに乗り、バランスを保って波と一緒にサーフすると言うわけだが、私みたいな初心のものはタイミングのつかみ方、体の動き、などいろいろなパラメーターに気を配るという事に成る。ところが、ここで大変面白いのは、細かな点に心を「留める」のでなく、上で言った「千手千眼の観音」であれ、と言うことなのだと思う。
そこで成所作智と言う言葉が思い浮かばれる。ネットでしらべると:
「対象について十分に観察する智慧、それが妙観察智であります。その上で、望むがままに自由自在にはたらく智慧、成すべきことを成し遂げる智慧、これ成所作智と言います。」とある。
どうもこれとぴったりと言う感じなのだ。
こころをとめず、自在になすべきことがわかるということ!
サーフィンだけでなく、何の道にも、日常の我々の行いなどもふくめ、人生道にもあてはまるではないか!
==
ネットでもう少し調べたらこういうのもあった:
「成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。」
これだと(六識の)「意」の「感」をみてないが、それは意は空にしておく、というように見るのがいいのだろうと思う。ヴィパッサナの(感性を鋭敏にという)修業もこういうところで役に立つのだろう。
われわれの日常の意識の働きにいかに「対処しない対処」をするのか、定慧を働かせる(正しくは向こうからー自己組織性でー働く)のかがなんとも、おもしろ不思議なところだ。
人として生まれた以上、この辺の消息にふれるというのが言葉に尽くせない、妙味なのだろう。
釣り師、サーフィン師、が日常にその悟ったところを反映させる、そして経営道でも仏道でも何でも、いろいろな道にそのプリンシプルを反映させる、なんとも面白いではないか!
==
ところで「黙って座ればぴたりとあたる」、とは誰がいったのか知らないが、うまい事を言ったものだ。
これが定慧をあらわしている。心をふれさせずに(⇒止)ただ観るのである。するとすべきことがわかる。
ただ、こいつを動中の工夫にも反映しないといかん。
そこで沢庵の不動智神妙録では、「心を止めない」「心をおかない」という。これが又、応無所住而生其心である。
理を尽くし、行を尽くして、そのうえで心を止めない、である。
また理を尽くし、行を尽くすときも意識ー無意識の回互関係があり、そこに定慧がある。(これがあくまでも法のプリンシプルだ)
そして、これが又修証一等というわけだ。人としてなすべきことを為す(⇒成所作智)というのは、ここをみているのだろう。
==
黙って座ってぴたりとあたらなかったらどうするのか?
そのときは、やはり基本にもどるのだね。
ところで、今日創造性のトピにのせたもの:
人もし生くること
百年ならんも
おこたりにふけり
励み少なければ
かたき精進にふるいたつものの
一日生くるにも
およばざるなり
無我・無心、そして信じて進むというようなこと。
定慧、定慧、、、
それが修証一等。
こつこつこつこつ。
理入、行入、理入、行入。
そう成所作智のもとは戒定慧にあるんだね。
(すべき事はできる限りやって。。。)Let thy will be done!
こいつを、、、すべてを突き抜けてやっているのかどうか?!
いってみれば自問自答だね(もちろん二つ目の自は宇宙の意のあらわれ)。
==
今、鳥がないている。
鳥が鳴くのは、宇宙の意のあらわれ。
では、私という現象は、宇宙の意の現れであろうか?
(ある見方では)そこに言葉ができて、人為がはいってきて、悲喜劇が展開される。(別の「見方」では、そのままで宇宙の意)
煩悩が生まれるように詩も生まれる。
衆生済度も生まれるし、成所作智も生まれる。
そう、生死も生まれるんだね。
(ところが別の「見方」では「不生」)
そこで戒定慧を働かせて、為すべきを為すんだね。
(これが、己の欲する所によって矩をこえずであり、別の「見方」では大用現前軌則を存せず=宇宙の意そのまま、だ)
==
成所作智がでたので、四智:大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智
をながめてみよう。
大円鏡智、は穏やかな感じ。色即是空・空即是色かな。
平等性智、はくつろぎの感じ。ゆーらゆーら。共鳴の振動。
妙観察智、はキラキラの感じ。鳥の声。光り輝いている。
成所作智、は宇宙の意の感じ。なるようになる。
だとすると、悲にも四悲とかあってもよさそうなものだけど、悲は衆生を救うというそれひとつしかないらしい。
戒定慧で気づいたら四智がでて、今度はそれがひっくり返って大悲になるのかな。そして娑婆に戻っての円環運動、回互がそこでできる。
娑婆・衆生を相手にした成所作智もそこでできるのかな。
大悲がおおもとにあって智がでる、ともいえそうだね。
==
四智でなく五智というのもあるらしい。
⇒法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智
ネットで調べたらこういうのがでてきた:
前5識は、五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用であるが、これが成所作智(じょうそさち)(不空成就如来の智恵)に、第6識はその感覚的情報に基づいて行動や判断する意識であるがこれが妙観察智(みょうかんざっち)(阿弥陀如来の智恵)に、第7識は第6識の意識下にある無意識で、自我を形成するが、これが平等性智(びょうどうしょうち)(宝生如来の智恵)に転じる。第8識は全く意識されない潜在意識で、生死輪廻する業(活動)の主体であるが、これが大円鏡智(だいえんきょうち)(阿如来の智恵)に、さらにその奧に本来的に清浄無垢な自性清浄心と呼ばれる第9識が潜み、これが法界体性智(ほうかいたいしょうち)(大日如来の智恵)に転じる。
成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。(不空成就如来)
妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。(阿弥陀如来)
平等性智は、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性をもつ事を覚る智恵である。(宝生如来)
大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。(阿如来)
法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。(大日如来)
ーー
智の出方にいろいろある。そしてその背景としての構造上の説明がある、ということのようだ。説明に少しピンとこないところもあるが、早い話し、「内」の「調べ」を進めると、智の現れ方にいろいろある、ととりたい。
よくは知らないが、如来にいろいろな種類の如来があるように、あるいは対機説法がいろいろな固有の状況によるように、要は(いろいろある煩悩の)ひっくり返り(智慧のはたらき)を見ているのだろう。
(ところで、構造的な話しをあまり突っ込むと、かえって引っかかり・混迷を生むような気もする)
==
坐禅 修行の心得 その10というE-mailがきた。少林窟法語というのに本文は載っているのだと思うのでここでは全部は再掲載しない。
このE-mail のポイントは心の癖によって生み出される隔たりを「今」に集中する事によって取るという話しであるが、ここでいう「今」に徹底すると、「今」に集中しなくて言いように成るようにも思える。意識的な集中がないからその状態は無意識の意識である。鏡が働くというようなものだ。あるいは定慧でもいい。
これを別の言い方で言えば般若即非であろう。一回否定するのである。するとひっくり返り・気づきがあり、正見ー智慧の働きがでる、というようにつながると見える。
このE-mailのおわりにこうある:「生きたまま徹底死んで、そして大きく蘇生することです。自己を忘ずるとはこの事です。これを徹するとも、成り切るとも言うのです。一切を脱ぎ捨てることですから、これを解脱とも脱落とも言うのです。本来に目覚めることですから、これを見性とも言うのです。本来の面目を現成することです。これが本当の「今」です。永遠の命です。
これを得るための修行です。当面は本来の自己と、悪弊の自己との戦いです。癖に心を取られるか、「只」「今」を護るかの戦いです。本当の生きた修行はなかなか面白いものです。
自分の向上が分かるし、次第に楽になっていくからです。自信は自己矛盾が無くなるにつれて安定し始めて具わるものです。とにかく努力です。
道元禅師曰く、人々分上豊に具われりと雖も修せざるには現れず、証せざるには得ることなし。」
――
言葉の意味合い(うけとり方?)が微妙であるが、いわんとするポイントは紛れがないと思う。
==
さらに成所作智に付いて簡単に調べました:
「対象について十分に観察する智慧、それが妙観察智であります。その上で、望むがままに自由自在にはたらく智慧、成すべきことを成し遂げる智慧、これ成所作智と言います。」
「成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。」
「成所作智:澄んだ水がすべてのものの成長を育むことに喩えられる不空成就如来の智慧」
このほかにもありましたが、要は宇宙の意、あるいは法(の働き)にまかすといった感じです。正見⇒正思、正しい判断の智慧、といった意味合いがあるように思えます。もちろん、無心がその元にあるんでしょう。
==
5智もいいけど、言葉に引っかかるな、と言い聞かせないと気づいたら迷子になりかねない。
理ばかり進めると、行がおろそかに成る。
まあ、お茶をいっぱいどうぞ。(体をねじってもいいか。。。)
盤珪さん、出番だよ!
==
>盤珪さん、出番だよ!
はいいんだけど、「常住不生の仏心でいればいい」でちょんだね。もともとそうなっているんだから。。。
あるいは気癖を出さなけりゃそれですむ、という。(そりゃそうだ)
痛いは痛いでわかる、カラスのカーはカーでわかるんだ。(そりゃそうだ)
すると、四智とか五智も不生でかたずいちゃう。
(智慧の出てきたものに色合いつけて、ああだこうだという、というようなものだからね。)
いってみれば、なむあみだぶつでちょん、というような感じでもあるね。
「ご破算に願いましては」、あるいは無心、でもいい。
ああ、こりゃ楽だ、(言葉、概念の)荷物をしょわないで、(自分が迷子に成る前に、すでに)透脱している。
そう、何のかの言う前に、もともとそうなんだからね。
黙々こつこつ。
カーカー
チチチ。
面白いものだ!
不思議なものだ。
喝!
==
チーチー、カーカーで
定はいいのだけど。
そこから言葉の世界を見て、言葉の意味する所をしかるべくつかみ、(⇒鏡の心)
使われないで、上手く使う。
やはりそうなるね。
そこで言葉につながった体験(⇒これは脳の中の話)がいわば業の働きとして、(言葉ーイメージのニューロンの回路で)くっついてくるから、そこでの働きを統合して見る働きの原理をとことん学び(⇒定慧の体得)、おかれた状況にあわせて(対機説法のごとく)、上手い対処するという実践的な「太刀さばき」を体得する(⇒修証)、ということになろう。
これが早い話般若即非の論理(原理)であろう。
こういうのは簡単だが、習気(じっけ)があるから、とことん、というのは生易しいものではない。
(というところで、ほい!
生易しくないは、生易しくないでなくて、生易しくない、だ)
(さらに言えば、ご苦労さんは即、定で、カラスのカーカー。くつろぎの世界。
ということで問題はもともと何もなかった、ということになるね。。。ご苦労さん、ご苦労さん、往環、往環。なむあみだぶ、なむあみだぶ。)
==
神秀の「身は是れ菩提樹、心は是れ明鏡台の如し、時時に勤めて払拭せよ、塵埃を惹かしむること勿れ」と、慧能の「菩提本樹に非ず、明鏡亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん」の偈に付いては前にも言及したが、ここで鏡の心に絡んで、もう一度おさらいをしておく:
神秀は往相、慧能は環相という感じがある。あるいは十牛の図なら1−7図と9−10図のちがいかな。もっとも慧能のいうのは1−10図すべてが「丸」(円相とでもいうのかな)でくくられているので、もともと「見失ってはいないのに、どうして探し求める必要があろう」、「勤める」という事自体おかしいといっているようだ。
ということで、これ(神秀⇒慧能の流れ)もまた般若即非をそのままあらわしているという感じ。定慧というも同じだろう。
迷いが智慧でひっくり返る。無明が光に照らされて、闇が消える。己自身を知るというのは、ここのところをとことん知り、日常の思考・行為にあらわしめるということ。
それが「わかる」と、己は他人の己でもあるのだから、深い人間性にもとづいた知情意が、つまり大智・大悲が現れるということだろう。
そこで問題は、実践をともなわない頭での理解はなんら意味がないと言うこと。わかったというのはわかってないということ。言葉に引っかかるな、ということだ。中山さんもいっていたが、意識と無意識の弁証法と言うような、無意識の意識の働き、こいつがどうかというわけだ!
喝!
==
大拙全集12巻で盤珪の言葉を大拙が説明している(もとは英語これは私の日本語訳です):
「この決定に達した瞬間から、皆さんは、人間を正しく見る眼が開かれる。これは私自身の体験である。私は不生の眼を得てから、決して人を間違って判断した事は一度もない。」ーp。399
以下は大拙の解釈:
「心理学的に言えば、悟りの経験はある人の人格の根底をなしている無意識の自ずから成る自発、、である。」 −p。402
「奇妙な事に、真理は、一人の存在の表面的な構造が崩れた後に初めて現れるものなのである。」
ーp。403
「不生は盤珪の全存在から沸いた彼の悟りの内容であり、それが発展して、彼は終始、不生の中に不生とともに生きているように感じたのである。彼の生活のどの瞬間もみな不生の表現であった。」−p。403−4
ーー
「正しく見る眼が開かれる。」⇒無意識の意識、定慧。
「決して人を間違って判断したことは一度もない。」⇒判断できない時はほっとくのだろう。
「悟りの経験はある人の人格の根底をなしている無意識の自ずから成る自発、、である。」⇒定慧(の徹底したもの)
「真理は、一人の存在の表面的な構造が崩れた後に初めて現れる」⇒否定と通っての肯定、般若即非。真理=智慧とみる。
「不生は盤珪の全存在から沸いた彼の悟りの内容であり、」⇒なむあみだぶつ、というようなもの、いわば「それ」のポイントを指し示す記号・暗号。
「それが発展して、彼は終始、不生の中に不生とともに生きているように感じたのである。彼の生活のどの瞬間もみな不生の表現であった。」⇒この「それが<発展して>、云々」というのが、えもいえず、ありがたい!!!
ところで、上の「不生」と「無意識の意識」、「表面的な構造が崩れる」、「不生⇒悟りの内容」、は例の鏡の心(大円境智あるいは四智)をしめしているようである。
ついでに、次は「不生」を一般聴衆にわからせるために盤珪がよく言ったくだり:
「あなた方が、、、説教を聞いている時、鐘の音、からすの声をきけば、直ちに鐘がなっている、カラスがないていると聞こえる。決して誤らぬ。眼で見る場合にも同じことである。。。。これらの不思議をおこなうのはあなた方のなかの「不生」である。 −P.405
「盤珪にあっては我知覚す、ゆえに我あり」であろう。この我ありをもっとも深い意味において理解した時、「不生」を得るのである。。。。我ありというのがまったき「一」であり、生き生きしていてこそ、初めて我々は不生にいたりうるのである。」 −p。406
これがヴィパッサナでいう無常を観じ(Sampajanna⇒定、無我)る(と智慧が出る)、と言うのに同じ。そのとき心は鏡のようになって、すべてをあるがままに知覚するということ。それが「まったき「一」であり、生き生きして」いるということの意味合いだろう。
わーいわーい!!!!
おーい。みんな生きているよー。
(全機現だ。)
(不生でいて、(ひっくり返って)、生きているのだ)
(不生は根本の「それ」だから、それは沢庵の不動妙智ににているな。)
(究極はみな「それ」だろう!「それ」でいて「これ」なのだ。)
==
内と外を同時に見る、これが「エッカートの眼」と大拙は言う。
そこで私は「ああ、そうなのだね」、と「納得」する。
内と外を同時に見るのは、そのまま、鏡の心であり、無意識の意識、全機現だ。そしてそれはそのまま、ヴィパッサナで言う所の「全身の感覚を鋭敏にして」(透脱)そのものがそのものをそのまま「わかる」(⇒定慧)ということだ。
多即一でも、色即是空、空即是色も、娑婆即極楽でさえも似たようなものだ。
無論、言葉づらで「内と外を同時に見る」のは判断・理解できない。そこで大拙は見性体験が必要と言う。(禅の思想p。132−3)
そう、面白い事に盤珪の不生も、沢庵の不動智もこれにつながるのだね!
あ、そうそう。機法一体や、才市の「なむあみだぶつ」だって、同じ事だ。
ところで定慧だと時間的に見るようにも見えるが、鏡の心だと、空間的・意識論的にも見れる。
これはまた静(⇒寂静)のきわみにおいては、涅槃寂静でもあるだろうし、また、そこでの働きを見て、真空妙有、妙用ともいえる。応無所住而生其心もそこでの現象・自在の働きというようなものだ。
また四智にあわせてみると、その働きは大円鏡智であり、平等性智、妙観察智でもある。また定慧の慧を強調して成所作智といってもいいだろう。
いやはや、なんという事か!
大拙もエッカートも、盤珪も、沢庵も、才市もそこいらじゅうの如来・菩薩も、中山さんも、みんな「ここ」でダンスを踊っているようなものだ!あの道元さえも、わしも一緒に入れてくれといっているんじゃないかしら。
どうかな?!
==
ここまでのところで、いろいろな見方、言い方がいわば智慧の翻訳機にかけてその意味するところが「理解」されたようである。鏡の心、エッカートの眼、無意識の意識、応無所住而生其心、などなど、表現はともあれ、もしこの「理解」が正しければ、後はその「理解」の体得と一刻一刻の実施、実践あるのみである。
(またこれを逆に言えば、正しい実践があるときこの「理解」が正しい「理解」となるわけだ。知行合一である。)
そこで、実践は実践としておし進めるとして(ここで「坐禅」などチェックメカニズムの確立が大事なのであるが。。。)、一方その裏ずけとして、釈迦は「私は一生涯、法の道を歩んだ」と言っていたとおもうが、その釈迦の言葉をスッタニパータをもとに調べ、上記の「理解」についてそっちの角度からも検討してみたい。
*ところで、チェックメカニズムであるが、思いつくのは、坐禅・自己観照(一分間瞑想のようなやり方も組み込める。)とNZでやった(反省のための)ジャーナル・日記のようなものであろう。継続は力なり、というのは明らかなので、あたかもNZで釣りの名人と成るための努力を惜しまず、どっぷりとその道を目指すように、法の道を力強く進むための仕組みを工夫したい所である。ところで、才市の覚書・ノートもそういう意味合いの表れというように思う。
==
大拙の言葉で鏡の心に相当するものにこういうのがあったので、ここに載せておきます。元は全集7巻の「佛教の大意」からです。
差別の世界が本当の意義を持ってくるのは無差別の光明に照破されるときなのです。これが会得される時、宗教的生活が始まるのです。ーp。10
我等日常の意識成るものは、それだけで充分に役立つものではありますが、般若の指導なしには実際はひとり立ちができないものです。いつかは煩瑣極まりない迷路の中に追い込まれていくようにできています。それだといって、般若は分別識を跡形なくしてしまうのではありませぬ。分別識が般若の鏡に照らされて、自らの姿をはっきりと見つけることによって、自らの働くべき場所を明瞭に会得するのです。 p。12−13
分別智と般若とをべつべつに考えて対照的に分離させることは錯誤の元です。。。無分別は分別の中に入り、分別は無分別の中にはいりて初めて照用自在の働きがあるのです。 p。13
なんと、明確な説明か!
これを又別の言葉で言うと、「第三の眼」を持つということのようだね。「目覚めている」でもいい。
また、この第三の眼が、なんと、体の知覚(心身の連絡の様子を直接知ると言うこと⇒心身一如につながる)にあるというのがヴィパッサナのいうところだろう。(道元の全機もそこをみているとうのは前にも言った所。)
いやまったく不思議おもろいことだ!
それとも、その底のなさを見れば、不思議おそろしい、ともいえるか!
いかんせん、思慮分別を超えるものだからね!
==
以下は大拙のトピに今日載せたもの。修業のポイントを確認するためにもここにも載せておきます:
本心がうせると所々の用が欠けるので、失わぬようにするのが専一なり。
たとえば本心は水のごとく一所にとどまらず、妄心は氷のごとくにて、氷にては手も頭も洗はれない。氷を解かして水となし、何処へも流れるようにして、手足をも洗うべし。
p。67
ーー
この辺、道元の柔軟心、透脱(⇒鏡の心)に同じ、また、ヴィパッサナのねらいと同じ。とくに、「何処へも流れるようにして」というところの訓練は、いわば癖に逆らう所なので、発心、発心、又発心ですすめるということだろう。(いつまでも、いつまでもね)
引っかかりを一つ一つ丁寧にとっていくというようなものだ。
(ところが、それをやらないで、同じところに引っかかっていると、そのひっかかりのニューロンが強化されて癖が抜けきらないという事に成る。だから、いろいろな方向からマッサージをしないといかんということだね。反応し始めた時それに気づいて、じっと何もしない(⇒定)、というのがいいのだけど、まあ覚悟を決めて、戦うのだね!)
==
蛇の毒が体の隅々に広がるのを薬で制するように、怒りがおこったのを制する比丘はこの世とかの世とをともに捨て去る。−蛇が脱皮して古い皮を捨て去るようなものである。
p。11 ブッダの言葉ースッタニパータ(岩波)
ーー
解脱すると、これ、あれに心を留めなくなる、といったものではないだろうか。つまらない事はほおっておく。
あるいは何でも意識でひっかかるのでなく、まずいじらずにほおっておく(沢庵のいうには心を溶かす)、するとすべきことがわかるということかな。(定⇒慧)
==
愛欲を絶ち、妄執の水流をからし、驕慢を滅し尽くしたものは此の世とかの世をともに捨て去る。
p。11(SN2,3,4に対応。ここでは略してあります)
ーー
前(1)と同じで、透脱の内容を示しているようである。
自在だと余計な事はしなくなる。業に関わらなくなる、といったものであろう。正しい、法にあったことがわかる(智慧をはたらかせる)ことができるのであろう。
これはCatch-22だね。わかったものはわかる、と言うようなものだ。だけどこういう(法の働きの)イメージをおく、というのは悪くないのだろう。(正しい受け取り方ができれば、ではあるが。。。というとこで、あ、また、Catch-22だ。)
==
「業苦の繋縛が解消するということは、それゆえに、業を業と「まともに」認識すると同時に、吾ら存在の根源そのものはそれで縛られていないということを自覚することです」
p。32、全集7巻
ーー
これこれ!!!!
これですべてを表現しているといえるとみえる!!!
実に上手いことを言ったものだ!苦集滅道も、鏡の心も、応無所住而生其心も、柔軟心も、鏡の心も、透脱も、般若即非も、絶対矛盾の自己同一も、みんなこの文で表されているといっていい!
ありがとう大拙さん。前にも読んだこの文だけど、いままた、身にしみて納得いたしました。
ありがとうございます!
==
(ゆーらさんの投稿)
大拙さま
安心をみせてくださって
ありがとうございますm(_ _)m
すざきさま
安心うれしい☆を
ありがとうございますm(_ _)m
(T_T)(ToT)(T_T)(ToT)
(T▽T)(T▽T)m(_ _)m
感謝!祈!感謝!祈!
==
外は風もなく、静か、
鳥がチュンチュンです。
ありがとうございます☆
感謝!祈!感謝!祈!
(え、何がありがたいのかって?
そう、何が、何で、ありがたいのかな?
まあ、それがわかったらありがたくもなんともない、
としておこうよ!ね!)
==
(ゆーらさん)
はい!V(^-^)V
わかりません(T▽T)m(_ _)m
感謝!祈!感謝!祈!
==
「知」は何かをわかろうとするところにその存在理由がある。
だけどわかろうとするとかえってわからなくなるということがある。
それは知ではどうしてもおっつかないところのもの。
知がものを分析して、分けたり、関係づけたりするのに対し、
そのもの、そこで起こっていること、をじかに「知る」ということがある。
この感覚をなくしたら、一体どういうことに成るのだろう?
理屈は尊い。
それを上手くつかうことができれば。
理屈は危うい。
それを下手につかえば。
状況によっていろいろ使う理屈・頭の働きを、
あたかも智慧の光で検閲するようなことを常に心がけたいと思う。
そう、それができないのなら、
じっと黙ってそこに何が起こっているのか、
よーく見るべきなのだろう。
わかったか?
はい。
ばか!
==
わかったか?
はい。
よし!
==
(ゆーらさん)
A:わかりませんm(_ _)m
B:はいm(__)m
A:はい!m(__)m
ありがとう☆
ありがとう☆
感謝!祈!感謝!祈!
==
気が付けば
そこいらじゅうが
はい、だらけ
そうでないのは、
ひとのこころのみ。
ついでに、もう一句、
はい、ありがとう。
これができたら、
胸いっぱい。
==
大拙さんがこんなこと書いていました。
われわれの悩むということは、迷うということは、人間がそういう具合にできているので、ありがたくもあり、又ありがたくもなしであるが、結局ありがたいのである。
p。338全集22巻(宗教とは何ぞや)
ーー
これ面白いね!
何が何でもありがたいのだ。
苦しみを味わい、それでも、つべこべ言わずに、ありがとうで済ましちゃう。
スパッと切れているのだね。
いわばたんたんコツコツ、絶対の肯定だ!
ヤッホー。
==
ありがとう
ありがとう、
文句言わずに、
ありがとう。
おっとっと、
おっとっと、
おっとっとのまま、
ありがとう。
そのまま、
そのまま
そのままのままで(つべこべいわずに)、
ありがとう。
苦しい
苦しい、、、が
ひっくり返って
ありがとう。
ありがとう、感謝、祈り、感謝、祈り!
合掌。
もとはp。194−6 大乗起信論(岩波)です:
、、、悟りの自体とその特色には4種の「大」の意味があり、その広さにおいて虚空にひとしく。その清らかさにおいて澄んだ鏡と似ている。どんな4種か。
1)本来のあり方としての悟りは如実に空っぽな鏡(如実空観)である。それは一切の主観(心)客観(境界)の相を離れていて(遠理=空)何物もそこにあらわれるものがない。鏡自体には何も映し出すものがないように悟りの自体はなんら現しだす(覚照)ものをもたないからである。(空即ち純粋に清浄)
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空も維摩のいう基盤のない基盤もおなじでしょうね。無限でもいいし、不生でもいいし、無意識でもいいし、無の正体でもいい、趙州の「太虚」でもいい。本来の自己というと、働きの方を感じますが、むしろ涅槃寂静の場といった感じがします。パーリ語でチッタは封筒と言う意味合いがあるようですが、それも感じとしてわかります。言葉づかいは難しいけどまあ隠喩みたいなもので、頭の働く場といった感じ、覚めた境地をこのように現しているということだと思います。
2)それは衆生の内なる因として働きかける鏡(因薫習鏡)である。これは衆生の心には本来如来と同じ、煩悩にけがされていない諸徳が如実に満ち満ちていて(如実不空)それが衆生に働きかけて悟りの実現に向かわせることをいう。鏡がその前に現れたものを何でも映し出すように、この本来清浄なるこころは世間のあらゆる出来事がそのままに映し出されるが、所詮は映像であって、真実には出ることもなく入ることもなく、失せもせず、壊れもしない。真実にはただ常住なる一心があるだけである。なんとなれば悟りに備わっている一切の徳性はすべてこれ真実な性質のものだからである。従ってこの自性清浄な心の表面にあらわれるいかなる穢れもそれを汚染する言葉できないということ。(どんな影像が現れても鏡自体は汚れないごとくである。)そして悟りは智慧を本性としており、不動でありながら、そこに煩悩にけがされない諸特性を具備していて、それが衆生に働きかけて悟りにむかわせるのである。
――
ひとつには阿頼耶識(あるいはその下、、、無意識といっておくか)の働きと言うイメージ、つまり智慧の発現の構造に付いてかたっている。ただ鏡は鏡、「常住なる一心」、なんら変化しない。
3)それは真実なる諸徳が汚れをはらって現れでた鏡(法出離鏡)である。これは因の内に備わる不空なる諸徳がそれを覆う煩悩と言う妨げ、および知に関する妨げを除き去って、悟りと迷いの和合した阿頼耶識の相を離れて、淳浄な明知となる点をいう。
――
汚れは人としての業に因って現れる煩悩。鏡はそれに汚されない。(これを知覚する事が出来るというのが修・証の意味。)影が動いても階段にある塵は動かない。
4)これは外から縁となって衆生に働きかける鏡(縁薫習鏡)である。これは前項の不空な徳性が覆いを離れて輝き出る(法出離)のに基づいて、その結果雲をでた満月の如く、あまねく衆生の心をてらし、善根を修めさせるべく、そのこころの動きに応じて働きを現す点をいう。
これが成所作智に対応するのではないかと思う。つまり道を歩む方向がその時の状況に応じて見出されるといった具合。
以上、1)は鏡の体、2)は内からの働きの様子、3)は徳が現れるさま、4)はなすべき事が分かるという智慧、といった感じである。したがって修―証するものはいわばこういった特性を持つ鏡を自らの中に発見し、その働きをいろいろな状況で確認し、その功徳を知り、それを生きるうえでの根本の原理として生きなさい、ということだろう。このプロセスを仮の言葉ではさとりといい、上はその体と用の様子をまとめたものと言うことだ。
達磨の無心 (意訳してあります)
―究極の理は、、無心である。
―見聞覚知することーこれが即ち無心の行為である。
―心にはこれといって把握すべき姿、形はない。
―心というものは得られない。
―無心のなかに心即ち個的実在の謬想を起こし、種々の業をつくり、有心を妄執すると六道に輪廻して絶えず生死を繰り返すのだ。
―無心の悟りにいたれば一切の業繋は滅びて、生死の連鎖は断ち切られる。
―無心だと悟れば、煩悩も、生死も、菩提も、涅槃もないのだ。
―有心だと万物が生起し、無心だと悟ると一切無になるのだ。
―無心とはいうが、よく有心を通じて動き、有心そのものに諸法の実相を覚了せしめる。
―無心を覚了すること、これが修業である。
―無心がわかれば一切寂滅、悩みはなくなる。
――これをきいて弟子は忽然と大悟して、初めて心外に物なく、物外に心なき事を知った。それで挙止動用、皆自在を得て、諸々の疑網を断ち切り、とどこることの全然ない、無礙の境地を体得した。
道信(四祖)の捨て身の法
―まず第一に空を観じ、それによって心を空ずる
―絶対寂静の心は空そのものである。
―これがまさに修すべき修業だ。
―捨て身の法は身の仮現性を徹見することである。
―そうすれば、個ころとその対象界とは明瞭になり、心の働きは了了として照らし出される。
―常に自分の身を観じて、それが難であるかを見よ。それは空虚なもので、実在性のないこと影のようなものだ。(ヴィパッサナの修業とぴったり)
―般若の智慧はこういう影の様なもののさなかに現れる。
―此智慧はあるのであるが、畢竟じて住するところがないのである。(→鏡の働き)
―空のさなかから六根は生ずる。そして六根そのものも又空である。(→般若心経)
―六根の対境も如幻、夢の如しである。その対境は鏡に顔が映るようなものである。
慧能の無念
―無念をたてて宗とし、無相を体とし、無住を根本としている。
―無相とは相をみとめても相に執せぬことである。
―無念とは相対的意識の中にあってそれに汚されぬことである。意識の上に外境が現れているのではあるが、しかもそれから離れている。
―無住とは人間の根源的な性質である。心がとどこおることのないことー即ち無住が我々の生活の根本である。
―ひとたび悟りを得、、、般若の智慧の光りが意識の根底まで達すると、その光りは広く内外を照らし、万物は明らかになり、人は自己自身の内奥の心を知ることになる。
―内奥の心を知ることは即ち解脱である。般若三昧である、無念にいたることである。
―無念とは一切のものをあるがままに見てしかもなにものにも執着せぬことである。 (→まさに鏡の心)
神會の無念禅
―無念はたとえて言うと鏡のようなもので、前に映像がなければ、中に映像はない。影像があるのは、前に対象があるからだ。
―鏡は前に対象があってもなくても常にてらしているものだ。
―衆生の心もそれが清浄なものに成れば、その本性の大智慧光がそこに現われて、全世界を照らすようになる。
―無念を徹見するものは中道にあり、究極の真理そのものの中にあるのだ。((エッカートの眼に同じ))
―無念を徹見するものはよく一切法を生ずる事が出来るのだ。
―、、衆生が一時に倶に滅しても、一念の悲心を起こすこともない。なぜかというと(彼)は空と平等に達しているからだ*
―無念に達すれば見聞覚知しながら常に寂であり、空である。
*(物騒なところ)
ここは悪平等に絡む大変に物騒なところと思うので(→「愚さんーのらりくらり・悪平等に酔うなかれ」「空病について」のファイルを参照)、神會による頓悟・悟りに付いての記述もあわせて載せておく。
神會の頓
大拙は言う:頓思想のもっともよく委曲を尽くしているのは「神會録(じんねろく)」21節である。(大拙全集3巻p。44〜から抽出)
―自心は本来空であるということを知るのは頓悟である。
―心に即して無所得ということも頓悟である。
―心に即してこれ道、心に即して無所住と言うことも頓悟である。
―万法をそのままにして、無所得の心をこの中に証する、これは頓悟である。
―一切法これ一切法と知る。これも頓悟である
―それで生死を捨てないで涅槃に入ることが可能に成る。それが頓悟である。*
― 経文に、自然智・無師智なるものがあるというが頓悟はこの智が働いて出るのである。(事実は自然智(すなわち無師智)が分別智を動かしているので、分別智はそれ自体を支持していけるのである。頓悟と言うのはこの事実に直面する事にほかならぬ。今までは分別智の上でのみ分別智を見ていた者が、この智の底に、自然智・無師智・無分別智・根本智・本来自性智などといってよいものがあるという事に気付くー是が頓である。飛躍である。。。そしてこれが悟りなるものなのである。)
*(涅槃に入る)
この文は「生死」でなく「衆生」を捨てないで涅槃に入る事が可能になる、とも読みかえられるだろう。だとするとその前の、「衆生が一時に倶に滅しても、一念の悲心を起こすこともない」*と矛盾するようだが般若即非で、大悲は大悲でない、大悲である、と、、、つまり自ずからの働きとして、、、無・大悲である(般若心経の無、、→絶対)、という意味に取ることはできる。もちろん大悲、大智は絶対の働きだろう。
だとすると良寛、大拙の涙はそれとして、釈尊、維摩、、、は涙を流さなかったような気がする。すると、釈尊には拈華微笑。ヴァイサリーは楽しい。。。などの話があるが、<人間>としての感情は、、、笑い、涙など、、はほとんど消えたようにも見えるが、これは回互的に見て消えて消えてない、あるいは消えないで消えているというように見ておきたい。
道元の大迷に大悟する、カビールの有心と無心のブランコ、大拙の円環運動、往環相回向、回互、、などはいわば、心の振れ、いかんせん根っこから抜けない業の働きに気づくという意味合いがある。従って動中の工夫の意味合いから見れば、あるいは悟後の修業の意味合いから見れば、上での神會の指摘は行深般若ハラミッタ時において、と言う風に受け取れるだろうとおもう。ただそれを先にいってしまったら修業にならないので、上記のような表現と成ったといえるのではないだろうか。(つまり、究極の滅は菩薩としては、、、達せても、達さない、といった具合。わかったというのはわかってない、という意味あい。修証一等のプロセス→中道が「人」として生きるということ。)
畢竟、それはそれ、これはこれで、、、達磨のいう、「流れに随うて性を認得すれば、 喜びもなくまた憂いもなし。」ということだろう。
心随万境転 …… 心は万境に随って転ず
転処実能幽 …… 転ずる処(ところ)実に能(よ)く幽なり
随流認得性 …… 流れに随って性(しょう)を認得すれば
無喜亦無憂 …… 喜びもなくまた憂いもなし
(この辺、大智大悲の働き、全機現などからんでまことに微妙なところですが、安心、感謝、祈りというファイルにコメントがあります。御参照まで:http://www.geocities.jp/suzakicojp/annshinn.html#_Toc199549954 )
まことに面白いこともので、ヴィパッサナで修業するサンパジャーナ(Mahasatipatthana Sutta)Constant thorough understanding of impermanenceが付録―2で神會のいう頓 (→これを現在進行形でみる)に相当すると思う!
言い換えるならば、ヴィパッサナで進める体の知覚の鋭敏化、つまり心の動きが体の知覚に現われ、それを現在進行形で常に知覚するということ、(Awareness and Equanimity:つまり平静さをたもってかつ知覚は鋭敏。)これが鏡の働きに相当する。また動中の工夫もここを見ている。私の場合、バンガ(〜見性、透脱、脱落)の体験でこの知覚が一挙に鋭敏化されたということ、それが、上で言う絶体絶命の自己同一の体験であり、又現在進行形での確認ということになる。これを神會の言葉で言うなら、「―無念に達すれば見聞覚知しながら常に寂であり、空である。」ということ。皆苦、無我、無常、寂静、の同時の目覚め、これが悟りという事だろう。
ちなみに、p。82、Mahasatipatthana Sutta – Vipassana Research Instituteによると、釈尊は知覚(Awareness)を説明する時はいつもサンパジャーナに言及していたということである。私の今の感じではこの知覚・目覚めは日常の行動を進めることの基盤となりうるが、いわば大拙が「私は煩悩だらけ」というように、あるいは道元が「大迷に大悟するは仏なり」というように、常に修・証を進めるべきものであると信じております。
*ところで悪平等あるいは空病についてだが、自分は救われても、人に苦を作り出してよいという事ではない。ここに人においての大悲大智の働きの場がある。あるいは鏡の心の働くゆえんがある。ゆえにそこで見出される道が中道であろう。つまり意識を上手く使う(意識即無意識、全機)ということで、空に留まらない。ゆえに不落因果で不昧因果である。(趙州の無の後に百丈野狐の公案が無門関にのっているのはこのためと思える。また趙州の「12時を使う」というのが大事なわけだ。) ちなみに、空病についてのファイルはこれ↓を御参考ください:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kuubyou.html)
以下のものはゴエンカ氏のヴィパッサナについてのコメントです。実際にヴィパッサナの体験をして、いかに智慧が働くかという裏づけが得られるとここにある表現が「鏡の心」あるいは般若心経でいう「五蘊皆空」をそのままに表しているということがあるとき「わかる」(→体で体得される)と思います。ポイントをついていると思いますのでここに載せておきます(日本語訳は私なりにすこし意訳してあります):
『苦というもののあり方に気づいていないと(→無明)体に起こっている感覚が(もとになって)苦を拡大、増幅するということになります。というのも、そういった感覚に対しわれわれは何らかの反応を起こすからです。つまり問題は、あるいはストレスは、そういった体の感覚が引き金となっておこり、またさらにおおきくなるのです。したがって、われわれは、まさにこのレベルで(そこに)発生する問題を解くことが必要であり、これはまたそこで起こっている心の癖を変える(つまり悪業の働きを無力化する)ということを修行しないといけないのです。ですから我々はその感覚に反発することなく、ただそのいろいろな感覚を知覚しているだけ、ということを(体で)学ばないといけないのです。その感覚がどのように変わるものであれ、なんであれ、執着しない(引きずられない)のです。そしてそうすることにより、我々は盲目的にことに反発する、業に引きずられる、という苦から自由になるのです。』
これは英語の原文です:
『When one is ignorant, sensations are a means to multiply one’s misery, because one reacts to them with craving or aversion. The problem actually arises, the tension originates, at the level of bodily sensations; therefore this is the level at which one must solve the problem, to change the habit pattern of the mind. One must learn to be aware of all the different sensations without reacting them, accepting their changing, impersonal nature. By doing so, one comes out of the habit of blind reaction, one liberates oneself from misery. 』
- P.36 The Discourse Summaries of S.N. Gooenka
「六祖の時代に無念と言うことが強く主張された。達磨時代には、無念よりも無心が使われていたようである。但し無心も、無念も同じ意味である。此無心の無念が体得せられた時に、佛教は悉くわかるのである。」
(p。431、大拙全集五巻)
(無心:さらに全集7巻p。149〜168ぐらいが鍵といった感じ。)
ありがとう。大拙さん。30年ちかくもいろいろな角度から調べて上のコメントの意味が「わかる」ようになり、日常の生活に生かす事が出来るようになっています。おかげさまで、妙好人、盤珪、慧能、趙州、臨済から、エッカート、カビール、老子、荘子、などなど、、、始めはそれこそ鉄の玉をほばっているようでなんのことやらわからないままに、どっぷりつかってしまいました。修と証を進め、繰り返しの調べにより、30巻以上もある全集そのほかいろいろな資料もいつのまにか「わかる」ようになりました。その過程で岡村美穂子さんにも助けていただきました。
こういうものを書いておけば後でなにかの役に立つこともあるであろう、と大拙さんのいわれたとうり、いろいろなものが私と言う不思議な存在をとうして輝いているといった気すらします。そしてその元に、大拙さんの上の言葉を生み出す体験が「響いて」います。
ヴィパッサナでの体験・修業のほか、中山さんWilbroさんなどにも助けていただき、いろいろなお経なども大変役立ちましたが、いかんせんたくさんある全集がなによりの羅針盤であったと思います。この茨の道、物騒な道を、ともすると閉鎖的と思える日本の禅社会の弊害もうけず、ここまでこられたのはなによりも大拙さんのおかげと思っております。
禅は思想に成らねばならない、そして発展するのだ、といった意味合いが大拙さんの全集などに含まれています。したがって、もとの「働き」がいろいろな形であらわれ、言葉に残され、解釈され、それらを使って逆に私自身の体験を吟味、確認する、という多少手間のかかる作業だったように思いますが、物騒なところでもあり、そうあって然るべきだったのだろうとも思っています。
華厳を世界にという大拙様の願いに応じるということで、まだまだやれる事があると思います。無心、無念から輝く智慧でしかるべく道を見出し、歩を進めたいと思っております。ありがとうございます。
外からの風鈴の音が聞こえます。
也風流庵、ここにあり!
2008年1月30日
洲崎清拝
(注:この辺の意味あいについて、その後「禅のすべてが尽きる」という題でHPにひとつのまとめをしてあります:http://www.geocities.jp/suzakicojp/subetegatsukiru.html ご参考まで)
以下のものは大拙全集26巻、講演集1でみつけた大拙の大円鏡智についての記述です。ただでさえ言葉も微妙で、体験の裏づけがないとまさにチンプンカンプンかもしれませんが、それはそれとして、まさに肝心かなめのところですので、ここまでの確認の意味あいを含め、私のコメントを含めここに添付しておきます。(ことによると読んでいるうちに感覚がだんだんとつかめるということもあるかもしれません。)
2008年6月25日 洲崎清記
「超智(般若)は、、、我々の感覚とか知性の限られた対象そのままが無限と一枚になりきるときに生ずるといえよう。これは無限が自分自体を自分の中に見るといってもよいが、更にこういったほうがもっと我々の経験にぴったりするのではないかと思う、つまり、有限とみなされている対象―主観と客観の両般の世界に属する対象―が超智によって無限という観点から覚知されたのだと。それを象徴的にいえば、有限が無限の鏡に映った自分自身を見るのである。
知性は我々に向かって対象は有限であるという。併し超智はこれを反発して、対象はその相対性の領域を超脱して無限と成るべきものだという。存在論的に言えばこういうことになろう、一切の有限の対象物または存在は、その根底に無限が通貫しているからこそ、その存在が可能なのだ。あるいは一切の対象は、相対的なものとして、したがって限定せられるものとして無限面の上に表されているが、この無限がなければ、対象は自己の根拠地を失ってしまうものだと。」
−p。584
「大円鏡智adarsanajnanaとは、無意識すなわち阿頼耶識の底がぶち抜かれたときにあらわれるのだが、この超智とは私のいう超智的直観のことである。存在の一切がそれから示現するていの根源的無意識とは、決して盲目ではないし、また単なる無意識でもない。これがあたかも無意識であるかのように見えるのは、われわれの無知(無明)によるためである。この無知が鏡を暗くし、鏡のある事自体さえもわからなくなってしまうのだ。盲目は我々の側のことで、意志の側のことではない。意志とはもともとその本来からして叡智的であり、志向的である。意志とは超智に慈悲をくわえたものである。智慧に愛を合したものなのだ。
それが相対的で有限な、制約された次元から見ると、断片的なものとして現れるように見られるのである。言い換えれば、我々は根本的意志とは我々自身の心の働きとは別物であると考えがちなのである。併し大円鏡智の中に意志が自己を表現すると、それはあるがままの神なのである。神の中では、超智は慈悲と別個のものではなくて、慈悲があればこそそこに超智があり、超智があればそれが慈悲なのだ。」
―p。585
――
まず上段についての私なりのコメント:
>超智(般若)は、、、我々の感覚とか知性の限られた対象そのままが無限と一枚になりきるときに生ずるといえよう
この辺はいわば生き生きのエネルギーの働きが頭の中で行われている意識・分別というメカニカルな操作に喝をいれ、自己組織性のスパークを働かしめる、といったもので、そのときにしかるべき「意味あい」が感知される(→智慧)といったものとみえる。これはまた仏性というもの・働きの意味あいを示していると思う。
>この無限がなければ、対象は自己の根拠地を失ってしまうものだ。。
これはまさにそうと思う。うえで言った、しかるべき「意味あい」、というのがここでいう「自己の根拠地」に対応するだろう。自ずから然り、というのはこの根拠が確認されたという意味あいがはっきり感じ取られるときにそういえるのだ。
次に下段についてのコメント:
>存在の一切がそれから示現するていの根源的無意識とは、決して盲目ではないし、また単なる無意識でもない
これが私の場合、ある(見性)体験によって(知覚が鋭敏に成って)気づかされたということ。つまり無意識の働きが意識されるという(不思議という)わけだ。
>これがあたかも無意識であるかのように見えるのは、われわれの無知(無明)によるためである。この無知が鏡を暗くし、鏡のある事自体さえもわからなくなってしまう
ただしこの(気づきの、あるいは目覚めているという)「感覚」は時として、たとえば対象に眼を取られるなどぼんやりすると薄れていくということもあるように思う。そのような時は、おっとっと、と原点(つまり本来いるべき場)を失った事にしばらくして気づき、いわば原点(あるいはその場)を再確認する、つまりそのときおこっているあるがままをあるがままに見る、、、というあるべき姿をいわば呼び起こすことによって、道を踏み間違えない、というように対処される。(→これを「対処しない対処」と私は呼ぶ)
>盲目は我々の側のことで、意志の側のことではない。意志とはもともとその本来からして叡智的であり、志向的である。
ここで言う意志はいわば神の意志、あるいは宇宙の意志、仏性(の働き)ともいえよう。中山さんのいう(誰もが持っている)「いのち」(つまり宇宙の運行原理の)働きである。その働きがしかるべく働きでると、これが道元のいう「万法に証せらるる」ということになる。
その大智大悲の働きにぴたっと気づくとき、我々はただ、「感謝、祈り、感謝、祈り」をささげるのみなのである。またその瞬間、我々のこの取るに足らぬように思える存在がその「意義」・「存在理由」を見出すのである。
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
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