
十地経(華厳経十地品)を読む
−法に目覚め、法とともに生きるためのさらなる修行と確認(証)の道しるべ−
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または:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html
(5)難勝地 (もういかなるものによっても打ち負かせられない)
* 道を深めるということに付いて−1 (修証をしっかり、きっかけをつかみ慢心をいましめる)
* 道を深めるということに付いて−2 (反省、論理からのチェック)
* 道を深めるということに付いて−3 (発心、信、熱意、感謝、祈り)
(7)遠行地 (反省をさらに進め、人格が分別を離れて完成されるよう決意する)
おわりに: 無心、定、智慧の場、その境涯、大拙氏、中山正和氏
般若経から華厳経と言う流れを調べていて華厳経のなかにある十地経(十地品)に当たりました。ありがたい事です。ただ十地経の読み下し文は見つからないので、手元にあった玉置康四郎氏の本、「華厳入門」をたよりににこのお経を調べることにしました。
ところで、なぜこのお経がありがたいと感じたかと言うと、私の禅・ヴィパッサナの体験とそれによって感じ取ったイメージとぴたりとあうのです。般若経の空観、あるいは即非は無論それでいいのですが、般若経から華厳をみると、次元がちがう世界を感じます。端的に言うとそれは般若の智から、さらなる慈悲・仏性の展開です。
この展開というのは人においては娑婆における菩薩の働きにつながるのでしょうが、その裏に、いわば般若経における個人ベースの智の働きが全宇宙ベースにまで発展した永遠の働き(エネルギー)を感じるのです。その働きが、ジジ無礙、相即即入という表現にあるように、とほうもない「華厳」という世界のイメージにぴったり、という感じなのです。
そこで華厳の十地経ですが、玉置氏によると華厳経のなかでも非常に重要な経典といわれているとの事で、もともと独立していたお経が華厳にくみこまれて十地品と名づけられたということです。これを読むと華厳の世界を垣間見た人をさらに正しく導こうといった智慧を感じます。禅では十牛の図を修業のガイドとすることがありますが、十地経はその十牛の図の8,9図から10図への流れをさらに詳しく丁寧に説明し修業のポイントを示しているといった感じを得るのです。(「法に目覚め法とともに生きるためのさらなる修行と確認(証)の道しるべ」という副題はそういう意味合いでつけました)
さらに付け加えれば、このお経は、ある種の宗教体験をして、ああ私はもう究極の体験をしたというふうな「悟りの牢屋」あるいは「悪平等」に落ち込まないように大事なポイントを示唆しているようにも思います。
ところで、目次は1〜10地の流れに沿っていますが1〜10地の各地の後にある括弧の中の副題・言句(。。。)は便宜上私のつけたものです。また*印で示したものは読みながら気づいたものでさらに読み進める前に明確にしたいと思ってそのつどまとめたものです。
ここに書いたものはもとより私の鏡(修証の確認)とするといった意味合いであります。今までのひとつの集大成といった意味合いで丁寧に時間をかけて読みましたが、何らかの縁でこれを読まれる人(ご同行さま)がおられたなら、なんらかの参考になればとも願うものです。
合掌 2008年 3月 洲崎清記 (ニュージーランド南島にて)
以下玉置氏の華厳入門と言う本をもとに、修業のポイントなどを見ていきます(以下、青字はその本からのコピー。ページ数が最後についてます。それ以外は私なりのコメント、つまり自分なりの確認・戒め、です):
「悟りを開くという言葉はあまり適当ではありませんが、目が覚めた所から、宗教体験をしたところからこの十地は始まっています。。。原始仏教のブッダの悟りの光景からいうと、ダンマが私自身にあらわになって、一切の疑いが消滅した所からこの十地品ははじまるのです。
ダンマというのはまったく形を離れた純粋生命です。。。すなわち如来、あるいは如来の生命です。如来の生命は目にはみえないけれども、そのみえない生命が私自身にあらわになる。そのあらわになった時に、私自身は人間と言う地盤をこえて如来の家にうまれる。それが歓喜地です。つまりそういう目覚めの宗教体験を得て、うれしくて仕方がない、歓喜にあふれて仕方がない境地、それが歓喜地という事です。。。
世間をこえて如来の家に生まれるということは、自分自身のよりどころであるだけではなく、いっさい衆生のよりどころとなるということです。いいかえれば自利利他の根拠がここに確定したということです。そして菩薩はそれをよりどころとしてさまざまな願を起こして、仏道修行にいそしむのです。ですから目覚めと言う宗教体験が終りではなくて出発点であるというところに十地経のきわだった特長を見る事が出来ます。。。
つまり最初の歓喜地において、凡夫地を越えて如来の家に生まれた者が、再び人間の世界に帰って来て、そこから最も基本的な修業を始めていくのです。。」
p。94−6悟りの風光-華厳入門 (玉置)
身心脱落して、さあ、それでどうかと言う感じ。歓喜、ありがたさはわかるものの、業の根っこの深いところまで取り去るわけには行かない。また人としてこの世にいきるものは、ほおっておくと、又垢にまみれる恐れもある。私の感じでは、へたをすると十牛の図なら、5〜9図あたりを行ったりきたりと言う感じ。つまりそういったふれのある動的な状況に如何に上手く対応し、智慧を見出し道を確認しながら進むかというのが、永遠の課題と言う感じがするのです。
そこでこの機会に十地経を丁寧に見ていき、日々の修証のかてとし、進むべき道をさらに進みたいと思うわけです。
「菩薩の心構えとして、まず正直の心、素直である心が挙げられます。。。如来に対して素直である、すなわち如来に対して心の扉が開かれていれば、自然に如来の命がしみとおってくる、それが「正直」という事です。」 p。96
いつも思うが如来とは上手い言葉を当てたものだと思う。如が来る! 如とは、あるがままのありさま。そのままですべてがととのっているということ。問題はもともとなかったという安心。その境地が開けるという体験。それが基盤となるべきこころの位置づけといったものだろう。
そこで「心の扉が開かれていれば、自然に如来の命がしみとおってくる。」は、定慧で業の根っこが抜けていくという感じ。正直、素直でいると、どんどんどんどん、先に進む、と言うわけだろう。
これを逆に見ると、煩悩がはたらくその瞬間を捕まえ、定慧を徹底的に進める、つまり引っかからずにほおっておく、すると智慧が出る、という動中の工夫をやりつづけるということがひとつ。さらに日に一度は、一日を振り返ってとことん反省する。すくなくとも朝と夕には坐禅・瞑想をおこなって、あたかも心身の凝りを除くように、業の根っこを抜くという作業を(止観:ヴィパッサナで)行い、さらに年一度は8〜10日間続けて座って徹底的にいわばこころのチューンアップを行う、ということになる。
「それから柔軟心。柔らかな心。頑なでない心。よく人の言うことに耳を傾けて、それを受け入れていく心。それが柔軟心です。」 p96
これまた煩悩のわなに引っかからないよう、大円鏡智を働かすといった具合だ。あるいは応無所住而生其心でもいい。溶けた心も同じ。意見を一回保留する。ものごと、人の意見に反発しない、といった具合。我見、執着がないということも同じ。これができるには、禅定を練っていく、と言うことだろう。いってみるのなら鏡の存在を知覚するということがまずひとつ。かつその鏡は輝き、働いてないといけない。
ヴィパッサナで言う知覚を鋭敏にするというのが、この鏡の働きを高め、従ってつまらないことに引っかからない、あるいはことに当たってむやみと反発しないというのに役立つ。例えば人の話しを聞きながらも対象に心を留めずに息の出入りを同時に感じ取るといったぐあい。あるいは意識(頭)が働きながらも、手足や体の知覚が鋭敏であり、そこで(今・ここに)何が起こっているかを感じ取るといった具合でもよい。心が柔らかと言うのだけでなく体も柔らかいのだ。つまり心身が脱落しており、意識即無意識であり、いつでも智慧が働く状況にあるというわけだ。
ここで面白いのは、体の力がとことん抜けているということだろう。与えられた状況において心身のあり方に無理がないから、あるいは無駄がないから身体がやわらかい感じとなる。頭が先走ってしまうとそのとんがった感じが身体に現われるというというのの逆だ。無論、その身体に現われるという感じに気づかないというのでは、迷っていて迷っていることに気づかないというのに同じ。修業がたりない!につきる。
無論、柔軟心はものの見方がいろいろな角度からできるという事でもある。こっちから、あっちから、上から下から、意識から、無意識から、といった具合。いつも同じパターンでない。急がずにそこで何が起こっているのかをじっと見る。すると(自動的に)智慧が働くといった具合。これが受動の能動だ。法の働きだ。
「それから無欲の心。自分の欲にできるだけとらわれない心です。」p。96
「@たとえば、殺生を離れる。。。相手は敵だという心を捨てる。あるいはさらに積極的に、命あるものをすべてはぐくむ。。。単に生き物を殺さないということだけではなく、進んで生命あるものを育て伸ばしていくと言うことです。」p。97
これが自利利他だろう。そこでバランス(中道・智慧)を見出して道を進むということだろう。無駄をしないというのも「進んで生命あるものを育て伸ばす、、」というのにつながるだろう。これは生命の働きにただ感謝、といった感じが基盤にあると思う。
只、無駄をした、あるいは生命を損ねた、ということがあれば、そのときはそれ、丁寧に反省、供養をするといったことであろう。無理をしたならしたで、ちゃんとそれに気づき、しかるべく反省(→智慧)をすべきということだ。
間違いがあっても、釈尊が言ったように「後悔は意味がない」ということを身をもって知らないといけない。後悔はこころの引っ掛かりのひとつのあらわれ。余計な業をつくるということにつながるから、そのようなことにならないように即座に反省、供養。さらに丁寧に丁寧に、坐禅・瞑想で業を抜くという作業をすべきだ。このために朝夕の坐禅・瞑想はかかせないと思う。静中、動中の工夫をともに進めねばならない。
ところで、まるで間違いのない生き方と言うのをねらうのはこれも欲と言うものだろう。無欲、素直、柔軟心、、というのは形がないけど、生きるという形にあらわれるのがわかるから、、、体と用を正しくわきまえよということと思う。つまり人としての迷いを悟りながら進むという智慧を身につけるということだろう。
「A盗みを離れる。」p。97
動物は盗みの意識がないし殺生の意識もない。けれど人は、社会性、つまり周りとの相互関係が意識できるし因果関係がわかる。ゆえに人にされて嫌なことは人にするな、というわけだ。
したがって@の「進んで生命あるものを育て伸ばす、、」は盗みを離れる、殺生を離れる、というのにつながると気づく。つまり大悲の心が働くというのは人間にして初めて可能というわけだ。
ところで私は今ニュージーランドにいてこれをかいている。サーフィンも好きだが、山に入り鱒釣り(フライフィシング)をするのも好きだ。釣った魚はほとんど逃がすが、時々夕食に食べる事がある。すると殺生を離れるというのが守れない事になる。フライ(疑似餌)を使うというのは鱒を騙すということでもある。ふだん肉を食べたり、魚を食べるということも、間接的に殺生をするということだがあまり気にもとめない。サラダとか果物だってある意味では自然のものを盗んでいるといえないこともない。蚊だって何も考えずに殺してしまう。ありさんだって気づかずに踏み潰しているのではないか。
そこで今私としてできることはなにかというと、これら命あるものを、必要最小限だけありがたく感謝しながらいただく、と言うことではないかと思う。やはり一日を反省し、供養すべきを供養する。そして私が生きるために、私の一つ一つの細胞の「生き生き」をはかる、そして自利利他。周りの役に立つ、ひいては宇宙の全機にそった道をみいだす。「進んで生命あるものを育て伸ばす」、ということだとおもう。つまり極端に走らず、これもまた中道、というふうにすすめていくべきとおもうのだ。
ところで、空病あるいは悪平等に陥ると、「大用現前、規則を存せず」で、@やA(以下出てくるB〜Hも同じ)がおろそか、イイカゲンになるおそれがあるとおもう。そこで、そういった極端に落ちるのでなく、不落因果でありながら、不昧因果をも立てるというのが、智慧であり中道であると私はみている。要は「己の欲する所に従って矩をこえず」でなければならないだろう。矩は法であり人としての道でもあると言うようにみたいのだ。つまり、現在進行形で智慧を常に働かせながら生きるということだ。あるいは法が我々をとうして働くということだ。
禅に泥棒がその息子を鍛えると言う公案(つまり泥棒の親によって蔵のなかに閉じ込められた息子が、ねずみの声を立てたり、井戸に落ちた風を装って逃げ出すというもの)や南泉斬猫の公案があるが、この辺は気をつけないといけないと思う。つまりひとり智があっても悲が無ければ畢竟人間としては失格と言うことになると思うのだ。もし社会性のない禅というものを標榜するものがあるのなら、それこそ哀れであり、かたわであり、深みがない、と私は思う。
「B邪淫を離れる」
@やAと似ていると思うが、まず業というものは、人としてやもう得ない心の癖であろうと思う。だから人がある意味で動物と同じとすれば、動物の本能のようなものが働いて、@〜Bのような穢れ、垢が「人」としての正しい道を進む邪魔をするということが充分あるということだ。
「素直」に殺人した、盗みをした、邪淫した、というのでは、本人は素直、つまり無心に行動したとしても周りに迷惑がかかる。それでは動物と同じで、人としての智慧が働いてない。オートマトンである。深みがない、「進んで生命あるものを育て伸ばす」と言う智慧がない。
もちろん、いつまでも我にとらわれていたのでは話しにもならない。人は動物と違って言葉・意識を持っているのだから、反省もできるし、供養もできる。智慧をはたらかせてさらにさらに発展できるのだ。自利利他を進めるのであって自苦苦他であってはならない。
「C虚妄の語を離れる。嘘、いつわりの言葉を使わない」
「D両舌を離れる。二枚舌を使って不和をかもすようなことはしない」
「E悪口を離れる。他人を罵ったりおこらせたりする言葉をはかない」
「F綺語を離れる。飾りの言葉、おべんちゃらをいわない」
上のC〜Fは他人に対してどう言葉(意識・頭)を使うかと言うことだろう。ただし言葉に出して言わない、あるいは行為に示さないまでも、そういった意識(煩悩)がわきあがるかどうかということ、そしてその時、然るべく対処できるかどうかというのがひとつ大事なポイントと思う。
これはもちろん動中の工夫でさっさと処理すべきということである。これは@〜F(後述のG〜Hも含む)すべてにいえることだが、そういう気づきがあるかどうか、処理できるかどうか、常に常にこころすべきであり、常に常に修し証すべしということだ。
また即時的(即事的)な処理のできない場合は、そのことに対しての反省と日々の問題を次の日に残さないような処理(私の場合は坐禅・ヴィパッサナ、あるいは一分間瞑想)をすべきである。ほおっておくと悪業は育つ、根をはる、ということを身にしみて知り、それを正しつつ道を進むという修証のプロセスはいつまでも続けるべきだ。
さいわいこれまでの修証(ヴィパッサナや禅など)のおかげで、私自身、こういった問題におちいることはかなり少なくなったように思うが油断は禁物。落し穴はどこにあるかわからないし道に終りはない。まずは自分を、ということで、問題に陥る境涯を避けるというのも智慧のひとつの現われであろうが、さらに他の人が煩悩にとらわれているのを目撃した時に如何に智慧を働かせられるかと言うと、これは途方もない事だと思う。
やはり「うちからの光りが自ずから常に光り輝く」というところまでいかないといけないのだろう。
そのためには、(はしょっていうならば)まずは大円境智(鏡の心)が常に働いているということ、そしてその智慧の働きがさらに自動的(自ずから然り)になるまですすめよ、という事だろう。
「G貪箸を離れる。たとえば他人の持っているものに対して、うらやましいというような執着の心をおこさない。」P。97
これも「進んで生命あるものを育て伸ばす」という基本のありかたを身に付け、それに従ってすべてを判断するという事により解決できるように思う。
うらやましい、などという感情は、非生産的なもの(→煩悩)であり、「進んで生命あるものを育て伸ばす」為には何の役にも立たない。今ここにいて、あるがままの状況を受け止められるかどうか、そのまま感謝できるかどうか?!このポイントをいやと言うほど確認すべきであろう。
こういったことを実践するとシンプルライフを生きるということになるように思う。くだらないものを集めたり、瑣末なもの、つまらない日々のおこないなど、「進んで生命あるものを育て伸ばす」のに関係ないもの、つまり余計なものがないとなすべき事がよく見えてくる。反対にガラクタを集めると頭の中までガラクタでいっぱいになり、見えるべきものまで見えなくなる。
ここでシンプルライフを外境に沿った生活の仕方とするなら、煩悩がない、というのが内(こころ)のあり方だろう。はやいはなし内も外もスースー抜けるような、、、、お荷物を持たない生き方を智慧を使って工夫し続けよ!と言うことだ。
ところで貪箸の貪は「むさぼる」だ。食べる、寝る、スポーツをする、セックスをする、仕事をする、本を読む、娯楽に走る、云々、、、なんでも、度が過ぎればバランスが崩れる。すると「進んで生命あるものを育て伸ばす」ということ。つまり全機現(→自利利他)がおろそかになる。だから、例の「溶けた心」を常に持っていないといけない。智慧の出る鏡の心を持ってないといけない。またバランスを見出す智慧は中道につながると思う。
自分の「好き」なものをするというときも同じだろう。人に迷惑がかからないよう、あるいはバランスを取るのを忘れて自分を傷つけないよう、智慧を働かせないといけない。そのためには、やはり鏡の心を持ち、溶けた心で止観、つまり動中の工夫を常に進めるということだと思う。
逆に「嫌い」なものでも、法に見合ったもので、しなければならないものは、我を出さずに、無心でことにあたるということだろう。絶体絶命の場合はいくらもある。我をおしださなければ案外、物事は素直に進むように出来ているようだ。自縄自縛ということもあるではないか。
「H怒りの心を離れる。すべての生きとし生けるものに対しての慈悲の心、柔軟な心、すべてを包容するような心を持つ。」p。98
慈悲の心、すべてを包容するような心は平等性智の現われではないだろうか。というのも、すべてが仏性の現われ。みな同じ法に基づいて生きている。生かされている。好き嫌いを超えて、根本の所は何も変わらない。そして悉有仏性だ。相即即入だ。重々無尽だ。
そうだとしたら、なにをもって好き嫌いを言うのか?鏡の心はその前に現われるものをそのままに写す。そしてそこから働き出る智慧、大悲の心は周りになんらかの影響を与える。そしてその働きは宇宙の果てまでとどく。
ことによると、好き嫌いは我々の至らない様を示しているのではないか?ときとして心の反発の例という風にも見える。
つまり好き嫌いはインプリント(刷り込み:小さいときの体験にもとづいた心の習慣)のようなものかもしれないが、畢竟、我の働きそのものではないか?業が抜ききれていないということではないか?
いわば、無我→平等性智→悉有仏性→大悲・大智→相即即入→重々無尽・ジジ無礙というながれではないか?すべては法にそった働きではないか?!するとその法の現前する場(→つまり定)において、「進んで生命あるものを育て伸ばす」と言う智慧が働くのではないか?(実際には常に働いているのではあるが、、、)大悲はその(基底のない)基底にあるエネルギー・働きと思う。
だとすると、ここでいう怒りは、自分を痛め、周りにも問題を起こすのなら、これもまた非生産的であり、法にそってないだろう。怒りも貪りも我にとらわれていて、智慧(大智・大悲)が正しく働きでないという事の表れではないか?!
この辺の微妙な所。たて横斜めに、微に入り細に入り、とことん「調べ」、「修」し、「証」すべきだろう。。。
それでは法にそった生き方を見出しながら生きていくのがとことん好き、と言うのはどうだろう?そういう生き方を考えると、この場合の「とことん好き」は我によるものであってはならない。畢竟、法によって生きるということ。誠に徹し、素直であれと言うことだろう。そしてそのためには我々の心身は(あるいは意識の働きは)法によって、機会があるごとに「たて横斜め、微に入り細に入り」とことんマッサージ(チェック・アンド・バランス)されてないといけないと思う。
とはいえ、人において我(意識・有為)と無我(無意識・無為)の円環運動があるように(→これは定慧:中道)、法にのっとって生きる(出世間)のと、そうでない(世間)のの間にあるギャップを知り、そこにこそ大智・大悲の働きを生かすという事があっていいのだ。そしてその場こそ菩薩がこの世に人がいる限り、おわりない使命をもって無限のエネルギーをもって生き生きと働く場なのであろう。
「I正見をそなえる。正見というのは、、、目覚め、解脱にもとづく正しさ、仏の命に包まれることによって初めて気づく正しさです。そういう正しい見解が正見です。」P。98
Iが痴に対応しているものと見ると、G、H、Iはいわゆる「貪瞋痴」に相当するようだ。そして@〜Hのような非生産的な働き(つまり無明・心の垢)を乗越えるのが智であり、その「智慧の働き」を生み出す要因(場)がここで言う正見であろう。また、ここで言う「正しい見解」は八正道でいう正思ともいえると思う。
ちなみに「智慧の働き」は有為が無為(法)によってうらずけられたもの、というように言ってもいいと思う。鏡の心から働きが出る、つまり法の光が照らされるといった具合だ。
無論、そこには自ずから然りの法に裏づけられた、生き生きとした生が溌剌と跳ねまわっているということだ。
これが垢とか無明に落ち込まないという誠にありがたいことなのである。
「今挙げたような、最も初歩的、最も基本的、人間であれば誰しも行うべき徳目を修行していくのです。これは仏教に限らないことは言うまでもありません。人間の普遍的な道です。」 p。98
初歓喜地、つまり法の目覚め、の前にも既に修業のポイントとして聞いていたことがここで新たに確認され、これからさらに道を進むうえでの基盤となり、信となり、原動力となる。もはやなんら紛れはないのだ。これからは刻一刻、実践するのみである。
ところで私ももうすぐ60歳。ほおっておくと身体が固くなるように、こころも固くなるのであろうか?ただ、もしそうであっても、できる限り、いろいろな角度から法によるマッサージを続け、大智大悲の原点を確認しながらも、「進んで生命あるものを育て伸ばす」自利利他の道を進んでいきたいと思う。
(注)上で述べた10のポイントは十悪といってほかのお経でも参照されている。例えば仏教聖典によると、パーリ、本事経24(p。85),観無量寿経(p。109)にあるとの事。また同じ仏教聖典によると、パーリ中部14−141(p。170)に八正道に対応して以下のように表現されている。
正しい考え(正思):貪瞋痴
正しい言葉(正語):偽り、無駄口、悪口、二枚舌
正しい行い(正業):殺生、盗み、よこしまな愛欲
*正思、正語、正業はそれぞれ意、口、身に対応とされている。
「第三に発光地。第二離垢地の基本的な修業によって、だんだん自分の内側から智慧の光りが現われてくる。。。
菩薩はこの発光地で、一切は無常である。すべてのものは苦であり、又不浄である。そうしたことを如実に知る。ありのままに認識する。そして他の人を解脱に向かわせようと努力する。ではそのためにはどうしたらよいか。それはありとあらゆるものを如実に悟るよりほかに道はない。では、そのためにはどうしたらよいか。それは不動の智慧が生じるよりほかに道はない。」p。99
>だんだん自分の内側から智慧の光りが現われてくる、、、
というのは、逆にみるのなら業の根っこがどんどん抜けていくということだろう。余計なお荷物を捨てていくと、よくものがみえるようになる。つまり柔軟心、溶けた心が(無為に)働く。智慧が働く。すべきことがわかる。戒定慧でいうなら、戒は第二の離垢地の修業に相当。定は禅定。
慧は(1)業の根っこが抜けるということ、(2)迷いに気づくこと(3)物事の真相がわかるということ。したがって(4)すべき事が分かるし、(5)しては成らないこともわかるということ。だから離垢地の修業はもはや修業でなく、自動的に智慧が働いてそうなるということ。八正道も六波羅蜜も自ずから然りで行われるということだ。修イコール証である。自ずから然りである。己の欲する所に従って矩をこえずであり、己の欲する所に従ってなすべきをなすである。
そこで(3)物事の真相がわかる、とは:
>菩薩はこの発光地で、一切は無常である。すべてのものは苦であり、又不浄である。そうしたことを如実に知る。
ということ、つまり一切皆苦、諸行無常、諸法無我の実践的、即時的、即事的認識であろう。そしてこれを如実にまぎれなく知るというのが智慧だ。つまり、無常を無常でないように見る、あるいは我を出す、業にひきまわされる、ということが一切苦ということ。これは人として頭を間違って使う、あるいは業の働きに気づかない(無明)と言うことに相当するだろう。だがそれに気づく智慧(→大円境智)が働くと、その場は涅槃寂静の場(→妙観察智)であり、即、苦集滅道の実践である。また(4)すべき事が分かる(→成所作智)し、(5)してはならない事が分かる(→平等性智)である。
>そして他の人を解脱に向かわせようと努力する。
というのは、それの発展した形として、自利利他がより鮮明にまぎれなく働くということ。意識的に努力せずに自ずから然りで働くということだ。つまり自らの煩悩を取り除くのが上手くなるに従って、周りとの関係においても問題となるポイント(これを周りの人あるいは社会における煩悩といってもよいだろう)を指し示し、そのしこりを取り除くように働きかけるという智慧が自ずから出てくると思うのである。これの発達したひとつの形が釈迦の対機説法であろう。
これは、「不動の智が生じる」ようになるということで、実践的なプロセスがどんどんどんどん、自ずから然りで働く、ということだ。つまり、人格に現われるというわけだろう。だからほぼ自動的に、
「昼も夜も聞法を目指し、ダンマを喜び、ダンマを楽しみ、ダンマに従い、ダンマに安住し、ダンマに熱中し、ダンマをまもっていく。」p。100
ということになる。それがダンマ(法)にそって生きるということ。不動の智が生じるとはそういう自ずから然りの法にそった生き方をいっているのだと思う。
ここで、そうでないとき(もの)は、既に「自動的になっている」と願い、信じる事が大事と思う、つまり、発心、修業、菩提、涅槃は同時!である。これがその道がなんにしろ名人なるものの極意であろうと思う。
ただし身に付くためには、実践的なやり方として、、、、
(1)菩薩の四弘誓願を機会あるごとに確認すること。例えば朝夕の坐禅の最後。
(2)動中の工夫を常に進めること。
(3)静中の工夫(坐禅・ヴィパッサナ)を毎日、朝夕行う。
(4)寝る前の坐禅では一日の反省、供養、感謝、祈り!を行う。
(5)年一回は8〜10日間の坐禅(サンパジャーナないしヴィパッサナ)を行う。
といったものであろう。繰り返し繰り返し繰り返し、、、こつこつこつこつ、、、何度も何度も何度も何度も、、、、身に付くまで、自ずから然りになるまで、、、、である。発心発心又発心である!
ところで、以上は自灯明、法灯明を基本にしているが、これを進めると、おかれた状況にあわせて周りの人との対話やなすべきことを正しく進めるということができるようになるのだと思う。
「そして第4番目に焔慧地(えんねじ)。「焔(ほのお)で輝く境地」と言う意味です。だんだんと私の内側に現われてきた智慧の光が、、いよいよ燃えさかっていくということを表しています。」 p。101
これはやはり「自動的」に法が働いていくということ、考えずに物事が働くということだろう。つまり答えがどんどんむこうからあるいてくるという感じだろう。苦労が苦労でなくなり、自ずから然りの働きがそこここで見られる。悩み、引っかかりは長続きしない。
すこし煩悩などに引っかかっても、処理のし方がわかっているから、猿も木から落ちる、という程度ですむ。燃えるというのは業の根っこが燃えていくというイメージがあたっているのかもしれない。だんだんだんだん角が取れてつまらない物事にこだわらなくなる。
周りや自分に何が起こっているのかが見ようとしないでもよく見える。頭の中がすーっとして軽くなっている。身体も知覚が発達していて、いわば自律神経系や免疫性が働いている。全機現といったものだろう。そしてこの全機現はだんだんと周りの人にも作用し、何もしようと言う意図がなくてもしかるべく物事が進むということ(成所作智)がそこここで見られるようになるのだと思う。
今までに修業してきたことがらが気づかずに自ずから然りで行われる。四智が頻繁に働き、慈悲の心が光り輝く、といったものだろう。また四弘誓願に心がこもっており、願の意図するところが頭主体でなく身体の芯から働き出るというようになっていくのだろう。
ところで、そういった働きは初歓喜地のとき、あるいは脱落のときの心身の輝きとつながりがあるものであり、自分と法、あるいは意識と無意識の隔て、業による引っ掛かりが消えつつあるのを実感するということだと思う。
急ぐことはないのだ。流れに沿って法の働きを感知し、、、そう、「心は万鏡に随って転じ、転処は実によく幽なり。流れに随って性を認得せば、喜びも無くまた憂いも無し」といった境地ではないかと思う。
「打ち負かされるのは非常に難しい境地と言う意味です。つまりこの難勝地になってくると、もういかなるものによっても打ち勝たれることはない、自分が克服されることはないという確かな境地に到達するのです。」p。101
方向付けから言ったら、私はこの辺まではきているかな?内のエネルギー、第4番目の焔慧地の燃えているという感じは身体で感じる。もうすぐ60歳、自分でいうのもなんだが、方向付けはしっかりしていて、熱意があると思う。熱意は衰えないでさらにさらに、という感じだ。
だから「いかなるものによっても打ち勝たれることはない、、、」と言う感じはする。こつこつこつこつやってきた。これからもこの流れは変わる要素は見当たらない。「自分が克服されることはない、、、」と思う。
ただ、落し穴があいかわらずそこここで待っていると見たほうがいいようにも思う。これは自分に対する疑問というより、気づかないところからひそかに襲いかかってくる、予期できない、、、悪魔の働きというようなものだ。だから「確かな境地」にいるという安心ではなく、綿密な注意、という意味合い。スポーツにたとえるのなら、基本のポイントは常に身体で覚えていないといけないのだから、綿密な見直し、調べ、チェックアンドバランス、チューンアップ、修証、はつねに気を配るということと思う。
油断大敵ということだ。即非で表現するなら、到達したということは到達してないと言う意味合い。また到達してないでいて、到達している、という意味合い。
ところで、ふと思ったのだが、第4番目の焔慧地の「燃えている」という感じであるが、7〜8年前のヴィパッサナでのバンガの体験(身心脱落)の後10日間ほど身体の感覚が極めて鋭敏で、あたかも身体中が共振してしびれるような感じ、一つ一つの細胞が生き生きと生きている感じがあったが、その感じに非常に似ていると思う。つまり、その時は日がたつにつれにその感覚がだんだん穏やかにおさまっていったのだが、今此処で思う・感じるのは、その体験が消えたのではなく、ずうっと続いていたということ。
言葉でその感覚を表現するのなら、それはあたかも業が燃えて根っこから引き抜かれる感覚のようでもあり、あるいは生き生き全機現の感覚、あるいは智慧が働いているという直接体験、といった感じ、つまりこれが私の第4番目の焔慧地の「燃えている」という感じである。この「直接体験」は「あるがままに今ここに起こっているものを知覚する」ということであり、それはまた法の働きを「知る」ということでもある。つまり人為・意識の中にも無為・法の働き・智慧の働き・宇宙の働き・無意識の働きを知るということである。これが絶対矛盾の自己同一でもある。そしてこれが第3番目の発光地でいう「昼も夜も聞法を目指し、ダンマを喜び、ダンマを楽しみ、ダンマに従い、ダンマに安住し、ダンマに熱中し、ダンマをまもっていく。」でもある。法がいつも一緒と言うことだ!
そして、この第五番目の難勝地の記述を読んでわが身に引き当ててみると、これからの行くべき方向と熱意の確認をすることにともなってその感覚がまた強くよみがえってきたように思えるのだ。ただ、これを書きながらなんとなく自己暗示的な感じがしないでもないとも思うが、ことによるとキルケゴールの”Subjectivity is truth.”あるいは主客一如をここに見て、つべこべいわずにそのまま納得していけばいいのかもしれない。いや、すでにこの「働き」は人間の理屈を超越したところであるのだから、それはそれでいいのではないか!あのとことんの修業でそうしたし、これからもそうするように、いろいろな思いも疑問もいっしょくたに仏の家に投げ出して進む、ということなのだろう。
誠に微妙な所だが、そう「納得」できるような気がする。つまり、この十地品で、ここまでの第1〜5地を振り返ってみると、今までのおさらいと言う気がする。つまりそういった修業の経過、それにまつわる体験などを過去のものとしてほおっておくあるいは、そのままで安心しちゃうのではなく、丁寧に確認し、今ここに現成させながらさらにさらに進む(したがってこれが「難勝」地の意見合い)というように思えるのだ。
人格の完成というのは途方もないことでありながら、そのへんを見ているということかもしれない。第1〜5地をみると、すこし卑近な例かもしれないが、例えばスポーツや芸術、あるいは経営道で、名人が後進のものを叱咤激励すると言うとき、にたようなプロセスを手を変え品を変えて使い、進むべき道に修行者を自ずから気づかしめるという誠に至難の技、方便を使っているというように思えるのだ。もしピカソにこのポイントを一言で言わしめるのなら、「大事なことはただ為すことである、それがなんであれ!」(Important thing is to do, whatever that may be.)ということになると思う。
(注)確か小乗のアビダルマか何かで「流れに入るもの」(Stream entrant)とか「もう戻らないもの」(Non-returner) とかいう段階があったが難勝地というのは後者に対応しているのかもしれない。
ここで十地品の流れからちょっと離れて、「道を深めるということに付いて」考えたい。道を「究める」でもいいようだが、道を深めるというほうがなんとなく懐が深いように思う。焦点はいうならば無意識と意識の関係と言うことだが、それをいわば自己暗示、神・仏からの引力、仏の家に投げ出すということ、無心、母と子供の関係、方便、陶酔、共鳴、余計なものを振り落とすということ、智慧を働かせる極意、発心、熱意、持続性、法悦、好きということ、、、と言うような要素をかんがみて調べてみたいのだ。また論理的な分析が可能か、意味があるのか、あるとしたらどういう意味があるのか、と言うような事がここでの関心事である。
まず余計なお荷物(法にそむくもの・非生産的なこころの癖・業)を取るということでは、以前に何度も見てきたように戒定慧のプロセスが智慧を生み出す、あるいは業の根を取るという風にみていいと思う。「そこ」では暗示はない。あるがままの今此処の知覚、認識、溶けた心、反発しないという事が、そのままお荷物を降ろすというのと同時に、道(解・智慧)が見出されるというように展開されるのだ。そして、これはとことんの修業(あるいは修証)を積むことによって体得される。体得されれば、不精でイイカゲンでない限り、この「コツ」(プロセス)は身心から離れていくということはない。使えば使うほど強化される。どんどんどんどん確信がふかまる、技がきわまっていくといったものだ。そして「誠にありがたい」というようになるのだ。
但し、コツを体得するまでは、こころの癖(業)による邪魔が入るから、この業によってもたらされる絶望感、あるいは絶体絶命の境地をとおらざるを得ない。これを言い直すなら、問題は業(これを「我」といってもよい)が自らを投げださなければならないというところにある。長年かけて生み出した癖、あるいは我を抜くというのがいかに困難なことかはそれをやったもののみがわかるといったものだろう。道をさらに進むには、同じ悪い癖を続けていたなら意味がないと「頭」でわかっても、それだけではどうにもならない。だから、、、絶対・ぎりぎりのところに至らなければ先には進めない。そしてその絶対の所、やむにやまれぬ所、にいたり、その障碍を乗り越さしめるものがひとつには坐禅・瞑想(私の場合はヴィパッサナ→定)であり、これが「あるがままを知覚し、溶けた心をもってそこに起こっていることに反発しないという場」を見出すということである。いかんせん発心し、自らを投げこむ(修業する)という事がないと、菩提、涅槃ないし道(解・智慧)は見出されないということだ。
そこで既にこのけわしい道を突き進んで行ったものはその難しさを知っているから、例えば坐禅、公案、念仏、対機説法、お経、などいろいろ工夫を凝らし、大拙が言うように「おいしいもの味わったのでそれをなんとか分けたい」と工夫する、あるいは「方便」をめぐらすわけだ。ただ「ぎりぎりの所」は言葉によってだけでは伝え得ない。評論のような話し、あるいは科学的な説明はできる。だからそういう詰めができる者は、できる限りの所まで突き進むべきだろう。ただぎりぎりのところにいたっては絶望の場に「身を投げ」ださねばならない。前述したようにこれは、我、理屈、癖、習慣、、、が法の働きの邪魔をするというのがもともとの問題(つまり苦の構造、智慧の発現を拒む理由)だからだ。こちらの都合ではどうにもならないという絶体絶命を通り抜けるプロセスこそが智慧なのだ。
仮に科学的、あるいは理屈によるものでないにしても、ロールモデルとなる人の人格や、その人のかもし出す働き、雰囲気、に引かれるという場合もあろう。言ってみれば恋に落ちるようなものだ。そしてそのような人に感じ入り、そういう境地に行き着きたいと願うのだ。そこで導く方としてできることはブレークスルーのきっかけを作り出すよう工夫することだ。これは親が子に対する理屈を超えた慈愛と同じであるが、人に因っては好きなところから入るという導きであり、知から入るということもあるし、感性、直観を大事に、あるいは情から入るということもある。そこで声聞、縁覚、菩薩といったタイプによる区分けもできるわけだ。
いったんきっかけがつかめれば、、、というのからはじまって、さらにあたかも段階を、あるいは関門をひとつひとつ超えるように進むわけだが、この辺は十牛の図の意味する所に同じだ。十地品も似ているが、ひとつレベルが高いように思える。もちろん慢心は誡めなければならない。なぜかを一言で言うなら、道を進み、深めていくというのは四弘誓願、つまり、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願覚、衆生無辺誓願度、仏道無上誓願成なのである。まことに慢心は敵であり、それ自身が我の表れといったものだ。道を修するものはこの願を素直に受け止め、明らめ、その原点にあるとことんの働きに目覚めるということだ。そしてそれが現在進行形で自ずから日々の行為に自ずから然りで働くというのが名人、道を修めた人という所以なのである。
繰り返しいうと、道を歩むというものは、この辺をできる限り調べ、絶体絶命の所を通らねば成らないということ。つまり、仏の家に身を投げる、と言う按配だ。従って調べ(修・証)がしっかりしてないようなものは、導くもの、ロールモデル、「教え」をどう選び、受け取るかによって誠に物騒になる可能性があるということは知っていないといけないと思うのである。
上のものを書いてある程度のまとめができたから、まあいいだろうと思って寝たら、明け方近くになって夢を見た。それは私がどこかの学校の教師になって既にある先生と生徒の関係の流れの中に入って何かを成し遂げ、貢献せねばならないという状況に陥ったというもの。既に何か流れがあり、それに対して私が横から入って行って、すぐに貢献をするというのはなんであれ難しいことだ。
夢の中でいろいろなやみながらいろいろな人と話し合い、いろいろな意見のある中、混迷の中で気づくところがあった。それは前進するためには反省をし、問題点を明確にしていくというプロセス、つまりPDCA(Plan-Do-Check-Act)のプロセスをCheck(現状評価)からはじめるというもの。これは経営コンサルタントとしていろいろな会社の問題にアドバイスをあたえるのに非常に役に立ったTQC(あるいは欧米ではTQM、つまりTotal Quality Managementという)のひとつのやり方であり、状況により(相手の癖、性格、能力などを見て)工夫しながら方策をねるということだ。
そんなことを夢の中で体験したのだが、目覚めてその夢を振り返ってみて、上述した「道を深めることに付いて」にすこし付け加えをしないといけないと思った。それはどういうことかというと(求道者として)道を歩む上で反省をすると言うことの重要性であり、持っている能力すべて、つまり理性、感性、情性などすべてを使ってのチェックし、一歩一歩、確認を行いながら進むという意味合いだ。(ところで夢は何かの問題意識に自己組織性がはたらいて自動的に答を与えるもの(ホメオスタシス)ということだろう。)
ここではいかに道を歩むかという個人の問題なので夢の場合に比べ話しは簡単のようだだが、それでもいろいろな意見やアイデアが「私」のなかに整理されずに混在しているともいえる。だからこれらのものを上で言ったPDCAプロセスを使ってCheckし、評価し、次なる計画を練り、実施するということが道を進める上で役に立つということ。いわばいろいろな情報を整理整頓をするということだ。ちなみにカラマストラでは釈尊は修行において教えをする人の権威などにとらわれず「効果があれば取り入れ、そうでなければやめればよい。」といっているが私の場合ときおり、こういったチェックをしてどうなのかという事だ。
ところでこの整理整頓に絡んで、私の英語と日本語のHPにはいろいろなファイルがあるのだが、これらのファイルがなぜそんなにたくさんあるかと言うと、これまでのいろいろな調べをそのつど丁寧にまとめてきたらそうなったということだ。人との対話、私自身の修業の経過、体験のまとめ、反省、興味あるインターネットでのサイトないし本から学んだこと、などがいかにも乱雑に羅列されているようであるが、ところがどっこい、それらのすべてが私にとっては血となり肉となっていると感じているのだ。ちなみにこのようなPDCAを使ったプロセスは私の書いた英語の本でも言及していて、組織の経営にも非常に役立つのと同時に個人個人の責任範囲における(ミニ・カンパニーの)経営を確かなものにするという意味があると思っている。ちなみに最近私のHPに載せた「私と宗教―私の人生の旅路をふりかえって」と言うファイルは私の人生の旅路に焦点をあてたもので、60歳を控えてのこれまでの旅路の反省、そしてこれからの道をすすむ確認すべきことのまとめというわけだ。道を誤らずにあるいはわき道に迷い込まないためにも時々フィードバックをかけるといった意味合いである。要は人生の方針管理がちゃんとできているのかと言うことなのだ。
釈迦の言葉で「真実はいろいろな角度からチェックすることにより明らかになる」というものがあったと記憶しているが、「道を深める」場合にもやはりいろいろな角度からチェックすべきであり、たとえば今、丁寧に読み進めている十地品の流れも、論理的な意味も含めて、これまでのいろいろな体験などに引き当ててじっくり消化しながら進めていくべきと思うのである。そしてその結果、どんどん進むべし、と言うことになれば、それはそれ、一歩一歩道を確認して進みながら「大事なことはただ為すことである、」となるわけだ。
要はさまざまな角度からのチェックをしながら、「あるがままに見る」、「我を投げ出す」、「分別しない(無分別の分別)」という境涯をとうして智慧がわきでるという、戒定慧の基本プロセスをさらに進めることになるわけだ。修証を進めてきたのであるから、さらに深いレベルでの確信が得られ、さらに道が深められるということだ。そして「そこ」に何があるかと言うと、ひとつには途方もない安心・感謝の境地であるが、それに留まらず、十地経にあるように、更なる求道という絶対の課題が待っていることに気づく。これまた智慧の発現(法の働き)と言うわけだ。つまりそこで気づいた絶対の肯定、慈悲、菩薩の誓願はいやおうなく、われわれの存在の基盤にある法の働きと一つになって私に強く働きかけることになる。これが発心、発心又発心であり、同時の発心、修業、菩提、涅槃である。あるいは感謝、祈り、感謝、祈り、だ。
発心するのはもともとある法それ自体であるが、人においては人格に作用する。けれど簡単には「こころの欲するままに従っての矩をこえず」には至らない。つまり、自利利他、あるいは上求菩提、下化衆生という菩薩の願いは簡単にはかなえられない。とはいえ自らの修証をさらに進めようという熱意はある。
そこでどうなるかというと、いわばゼロベースにもどって、発心、信、熱意、感謝、祈り、、である。道を深める、ないし究めるという時、前に言ったロールモデル、名人の言動、お経などが役に立つ。あいかわらず、道の未達の者がそれなりにできる限りの判断をして進まなければ成らないという(物騒な)ところであるが、調べをとことん進めて、少なくともある期間は身をなげだしてやってみないことには話しに成らない。そしてフィードバックをかけて(反省して)さらに進むわけだ。私の場合、ロールモデルとして例えば禅では大拙、経営では松下幸之助さんが例として挙げられるが、さんざんチェックを進めると最後にのこるのは信である。いわば我は投げ出されておまかせだ。
経営(道)の名人といわれる松下さんは「まず使命をもつこと」「熱意をもつこと」といい、さらに「まず成功すると思うこと」といっている。私はこれが面白いと思う。言ってみるのなら、これは自己暗示だ。あるいはイメージコントロールでもいい。論理では追いきれないのであるから、後は感性、イメージ。イメージが思い浮かばないのなら中山さんのいう「イメージの一人歩き」である。そしてこれが非思量であり、「定」であるが、ときとしては、そこに名人と言うロールモデルが道案内人になるわけだ。名人の言動と言うことなら公案でもいい。お経でもいい。あるいはこれも各人の好みに因ってだが、南無阿弥陀仏、でもいいというわけだ。そして最後の所は「身を投げ出す」、「百尺の竿頭一歩を進む」である。すると、道が開けるのである。これが修証であり私の道を深めるプロセスである。
「第六番目に現前地、「直面している境地」と言う意味です。この現前地がひとつの大きな峠になっています。ここでいわゆる三界唯心の教えが現われてくるからです。三界というのは欲界、色界、無色界です。。。要するに我々の迷いの全世界が三界です。それが唯心である。これを元の言葉で説明すると。。「三界よりなるこの全世界はただ心のみなるものである」と言う意味になります。。。
ではなぜこの「三界唯心」ということが十地における重大な峠となるのでしょうか。「三界よりなるこの全世界はただ心のみなるものである」と言う一節によく注目してください。要するに「この迷いの全世界はただ心のみなるものである」といっているのです。これが第六現前地の急所です。言い換えれば迷っているのは、ただ心の我執のためである、というのです。
さらに言い換えれば、全世界そのものが我執ということになります。。。全世界の根源は我執であるという事が第六現前地にまできて初めてわかったのです。今まではわからなかった。解脱を体験してもわからなかった。それがここへ来て明らかになったのです。それを簡潔に「三界唯心」というのです。我執ということがいかに底の知れないほど根深いものであるかがおわかりでしょう。
ところがこれでびっくりしてはいけません。さらに驚くべき事が出てくるのです。実は驚くべきことではなくて当然のことなのですが、「全世界の迷いはそのままただ心のみである」と知られた時に、すーっと迷いも我執も消えてしまうのです。。。それが三界唯心のきわまる所です。。。しかし仏道はこれで終わったわけではありません。。。。たとい迷いや我執が幻影であるとしても、我執に基づく業熟体から我々、、、は抜け出すことができません。。」 p。101−3
なぜここに色即是空、空即是色の話しが突然出てきたのか?
>全世界の根源は我執であるという事が第六現前地にまできて初めてわかったのです。今まではわからなかった。解脱を体験してもわからなかった。
この表現だと、解脱は身心脱落、ヴィパッサナのバンガとして、あるいは(1)初歓喜地として、その体験をしてもわからないというのは、単に体験として「ダンマが私自身にあらわになった」事を実感すると言うことであり、その時には、その体験の意味合いが(智慧の表れとして言葉で)表現できなかった、と言うように見るしかないことになる。
>それがここへ来て明らかになったのです。それを簡潔に「三界唯心」というのです。我執ということがいかに底の知れないほど根深いものであるかがおわかりでしょう。
これだと上で言う解脱(身心脱落、あるいはヴィパッサナのバンガ)の体験と我執がとれるというのとだいぶ時間差があるような意味合いになるが、これはどうしてかというと体験だけでは我執をとるという根本のプロセスが明らかでなく、さらにいろいろな調べを進め確認をして始めて身にしみてわかってくるという意味ということだろう。
>ところがこれでびっくりしてはいけません。さらに驚くべき事が出てくるのです。実は驚くべきことではなくて当然のことなのですが、「全世界の迷いはそのままただ心のみである」と知られた時に、すーっと迷いも我執も消えてしまうのです。。。
この表現では色即是空、空即是色をいわば体験のあとで「理屈」で理解した(つまりそういう智慧の働きを知るという根本の智慧の働きに気づく)というふうにみえる。だから
>たとい迷いや我執が幻影であるとしても、我執に基づく業熟体から我々、、、は抜け出すことができません。。」
、、という現実に出会い、まだまだ先が長いということだろう。これは私の体験と同じととれる。だんだんだんだん、「理解」が深くなるのだ。つまり「理屈」(ないし「結論」)がここにきて身にしみてわかっても、それだけではまだだめで簡単にはさらに先へはいけない。その現実を素直に見つめろ、ということだろう。般若心経では行深般若波羅蜜多時に照見五蘊皆空、、、となっていて、それはわかっても、その「納得」が身に付いて常に日々の行動に現われるということではないのだ。
私の体験から言えるのは、色即是空、空即是色に現される「鏡のこころ」、鏡の智慧(大円鏡智)がそのまま現実の局面で「いつも」働くという所まではなかなか行かない。だから妙好人においては「煩悩をとらないでくれてありがとう」と素直に感謝する。カビールにおいては「有心と無心の間にブランコがある」、大拙においては「円環運動」、道元では「一方を照らせば一方は暗し」と見える。ある意味ではこれらが動中の工夫であり、それでいいのだが、いうならば菩薩(四弘誓願)はそんなことで納得してはいかんということだ。そしてこれこそが大乗の意見合いであろう。
したがって第六地にこれ(色即是空、空即是色)をもってきたというのは、いろいろと調べを進め、(1)体験し、確認し、(2)深め、(3)不動智となり、いつもダンマとともに生きるようになり、(4)知慧の光りが燃え盛り、(5)もう自分が克服されることはないと確信したのちに、(6)その全体を俯瞰して(→色即是空・空即是色:鏡のこころ)もう一度念を入れて今いる自分の場所を確認する、といったものだろう。
別のみかたをするのなら、例えば禅では実践的には、たとえ見性・解脱しても、公案の体系を終わっても、只管打坐を続けるなり、さらにいろいろなお経を調べるなりして調べ(修証、求道、PDCA)を続けなさい、そして日々の行動に法をあらしめなさい、決して油断はしなさんな、道はまだまだ長い(終わりはない)のだ、とこの十地品がいっているようなのである。たとえ名人になったとしても名人には名人の(四弘誓願・上求菩提、下化衆生という)道があるのである。
「遠くまで行く境地と言う意味です。。。要するにこの遠行地では、これまで菩薩が行じてきた仏道、つまり声聞、縁覚、菩薩とわけて声聞、縁覚は小乗の教えといわれ、菩薩は大乗の教えといわれるけれども、小乗、大乗にかかわらずさまざまな教えが説かれ、それをいちいち行じてきた、そのこれまでのすべての行が、これからは無功用に思慮を離れ、分別を離れて完成されなくてはならない、と決意するのです。。。自分自身の計らいが消えるということです。。。
孔子の言葉に「50にして天命を知り、60にして耳順う。70にして心の欲する所に従って矩をこえず」とあります。。。50にしてはじめて天命があらわになってきて知ることができた、天命とは形なき命そのものです。その命が、、、人格体にだんだん浸透して60になったら天命が耳に聞こえるままに身体がそれに付いていくようになった。そして70になって自分の思うままにふるまってしかもおきてからはみ出る事が無くなった、というのです。。。
第七遠行地で(は)菩薩は「無功用に思慮を離れ、分別を離れてこれまでのすべての行を完成すべきである」と決意して努力するのです。。。そして菩薩は一刹那も道の成熟から離れない。歩いている時も、たっているときも、座っている時も、寝ている時も、夢の中でもこの完成から離れない。
さらに菩薩は第一地から第七地までの過程をすべて省みて、自己反省をしています。しかも第一地から第七地までのすべての菩薩行が、今度は第八地から第十地までではなくて、究竟際まで、ずっと果てしないかなたまで、無功用に完成されなければならない。ということは、決して第十地では終わらないということを意味しています。」 p。104−6
>第七遠行地で(は)菩薩は「無功用に思慮を離れ、分別を離れてこれまでのすべての行を完成すべきである」と決意して努力するのです。。。
これは紛れはない!
>そして菩薩は一刹那も道の成熟から離れない。歩いている時も、たっているときも、座っている時も、寝ている時も、夢の中でもこの完成から離れない。
これはひとつには動中の工夫がぴったり決まる、ということ。道からずれる前にピンとわかって、横溝に落ち込むというようなことはなくなるということ。私の場合、ヴィパッサナの毎日の修行の時間と横溝に落ちたら黒丸のマークを記録するという事をやっているので今後はその密度を濃くするといったものだろう。
道をはずさないという「気づき」を引き起こす為の「知覚」が上手く働いているか、というのが「一刹那も道の成熟から離れない。」ことに対応するのであろうが、これをするには例えばヴィッパサナで息や身体の知覚を時々感じてみるという半意識的な修証の仕方(→無分別の分別)があるのでこれを一日に何回もやって習慣づけするまで続けるという事が考えられる。これはまた鏡の心つまり大円鏡智が働いているかどうかのチェックと言うことにも通じる。
「問題点の顕在化」というのが磨きをかけるためのポイントになるだろうが、一応は今までのやり方を踏襲し、今後はもう少し世の中にも出てみるというように意図的に外乱を加えてみるということもあっていいのかもしれない。またある期間ごとに反省を加えるといったことだろうが、そのやり方としては、例えば一ヶ月ごとに、第一〜七地を読み直しながら、反省点やその期間のまとめを記録に残して、進むというようなアイデアを実施すればいいだろう。
ということで、本来は自ずから然りとなるべきなので工夫をさらに進めるということだろう。ということで、以下にこの辺を見直し、修証の管理項目としてまとめておく:
1)動中の工夫がぴったり決まるということ。道からはずれる前にピンとわかって、溝に落ち込むというようなことはなくなるということをチェックする。私の場合、ヴィパッサナの毎日の修行の時間(これは原因系の管理項目)と横溝に落ちたら黒丸のマークを記録する(これは結果系の管理項目)という事をやっているので今後はそれの意味合いをよく認識して続けること。
2)道をはずさないという「気づき」を引き起こすの為の知覚が上手く働いているか(→無意識の意識)スポットチェックするという管理項目であろう。これをするには例えばヴィッパサナで息や身体の知覚を時々感じてみるという半意識的な修証の仕方がある。いままでこれは、というポイントのみにこれをやってきたが、これをさらに一日に何回もやって習慣づけるという事が考えられる。これはまた鏡の心つまり大円鏡智が働いているかどうかのチェックと言う意味合いでもある。
3)お経を読む、本を読む、ネットのサイトを読む、対話をするなどを含め、ヤフーの五つの掲示版での投稿を過去4年半ほとんど毎日続けてきたが、やはり継続は力なり、と思う。今後も続ける事としたい。私がトピ主としてやっているもの以外のトピでもすこしずつ対話・投稿をするのもいいだろう。このような活動はいろいろな角度からものを見ると言うこと、これまでの修業の流れ・効果の確認。それと常にゼロベースでものを見、気づかずに落し穴に落ち込まないようにというための注意を喚起すること、という意味合いがある。反面教師と言うケースもある。
4)「問題点の顕在化」というのが磨きをかけるための管理項目になるだろう。ある期間ごとに反省を加えるといったことだろうが、そのやり方としては、例えば一ヶ月に一回、第一〜七地を読み直しながら、反省点やその期間のまとめを記録に残して、進めばいいだろう。(これは原因と結果を期間を決めて見直し、PDCAをまわすということ) またそれと同時に四弘誓願の一つ一つを管理項目として期間ごとにまとめ・反省をし、あるいは四智の働き具合もチェックし、プラスもマイナスもよく現状認識し(→自己観照)道を進む(PDCAをまわす)ということも行ったらいいだろう。
上の1),2),3)は既にある程度やってきたので、今後それらをさらに進めると共に、4)のまとめを新たに組み込むようにしたい。ところでここで言う基本的な管理方法はミニ・カンパニーの経営手法として本に書いたり、自分の人生経営に応用したりしてきたものであり、それがここに来て十地経の流れに合わせる事が出来るというのが面白いと思う。こういうことをするのは人によっては苦手かもしれないが、私の場合は既に(よい意味で)習慣になっているので、これを元に第八地に進めるのではないかと思う。
「しかし第七地から第八地への転換が最も困難である、、、この峠は一番越えがたいと言う事が強調されています。。。つまり無功用が実現されるのは第八地というわけです。。。
(それは)「不動の境地」と言う意味です。これが(前に出た)不動心です。原始仏典でブッダが究極の目覚めを不動と説かれていますが、、、「動かない、動揺しない、いかなるものによっても動かされない」と言う意味です。
この時経典は二つのたとえでこの第八地への転換、つまり「無功用」に付いて説いています。。。
そのひとつは眠っている人が夢の中で大きな川にきた。その人は向こう岸に渡ろうとしていろいろな努力を重ねます。ところが夢の中の努力によって、ハッと眼がさめた。眼が覚めたとたんに、夢の中の川も努力も消えてしまった。それと同じように、我々菩薩が煩悩の皮にやってきて向こう岸に超えようとする。。。そのために大なる努力、精進をおこします。そして向こう岸に渡ってしまうと、今までのすべての度量から解放される。言い換えれば、、無功用になる。。。すべての私の計らいから解放され、いわゆる自然となる。これがひとつのたとえです。
もうひとつは、、、一艘の小船が川をくだっている。カイや櫓を用いて一生懸命こぎながら下っていきます。ところがその船が皮を終わっていよいよ大海にでてくると、カイや櫓をやめて帆をあげる。ただ帆を揚げるだけで大海原の風を受けながらひとりでに走っていきます。その走り具合はカイや櫓を用いた時とは比較にならないくらいの速さです。このように菩薩行の大海にいたれば、私の分別ではなくて、仏智の力によってこの大海を無功用にわたっていく事が出来る、と経典は説明しています。
このようにして第八地にはいると、自分の計らいが捨てられて、ただ仏の計らいによってあるいは仏の智慧によって動かされていく、いわゆる無功用であり、自然です。」 p。107−110
この文を読んでひとつ思い至ったのがいわば空病に陥った人のケースだ。無功用に働いているようで、孔子の言葉で言えば心の欲する所によって矩を超えずの「矩を超えず」という一線がわからない、あるいは、すでにある程度のところに至ったと思いこむと言うケース。これに付いては別途「空病に付いて」というファイルを作ったが、そこから出だしだけをここにコピーしておく:
最近、禅者で空病を患っているとでも言うべき人とネットで会って対話をしました。私の感じたところ、この人はある種の宗教体験および知的安心をえたようなものの、症状として以下のような問題が見出されました。:
1)すべてが空、平等でOKという見方(→悪平等、つまり中道でないので、パターンにはまってしまって智慧がでない)
2)もはややることはないという見方 (→生き生きの生が感じられない)
3)のらりくらりの対話、無責任な放言
4)うろうろ、おちつきがない。動中の工夫が未熟
5)禅機がない、活気がない、、、などなど、です。
たとえば、彼のこういうコメントがあります:
「クセで、問いかけがあれば、答えちゃうからです・・とにかくわずらわしいんだな・・バカの相手をするのは苦痛なんです。」
「嫉妬して、相手を殺すということもあるかもしれません。」
「極めて少数を除いて、わたしより、落ち着きのないひとを知りません。貧乏ゆすりでもなんでもかんでも、とにかく動いてないと落ち着かない・・・映画を一時間以上見ることだけで、椅子にすわっているだけど、もう、苦痛で一杯・・、、、なんかすぐ、歩き回っちゃうクセがあるんで・・・部屋でもどこでも、うろうろして顰蹙をかったりしてるんで・・・」
無功用がこのように現われると、a)腰を下ろして悟りのロ−ヤに入ってしまう、b)それは空を空というもの、あるいは空という「原理」として捉えることから来る誤り、c)空を実体視する者たちを治す方法は無い、d)バンガ、、、脱落、透脱、、、を大事なマイルストーンとしながらも、(大悟に大迷しないよう)、、注意すべき、e)悟りのあるのはなお迷い、、である、f)もはや悟った大隙(おおびま)あいた、おらはこれから心の儘じや 殺生偸盗(せっしょうちゅうとう)も気遣(きづか)いないぞ、、、邪見断無のわがまま悟り よその見る目も恐ろしや、励み求めし見性の法は いまは地獄の種となる、、、というふうに、ナーガルジュナから白隠にいたるまでいろいろな人が注意を喚起している。 (空病についてのファイル参照:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kuubyou.html )
つまり空病というのは前述した例えば松下さんの「まず成功すると思うこと」と言うような、信、というか自己暗示?!のみが働いてチェックがきかないまま、修行者が気づかないままに落し穴に落ち込むという場合ではないかと思うのだ。そしてそこから抜けがたいということになるのかもしれない。(真宗なら異安心?!ということであろうか)ところでこの人の場合、知的には安心は得たと思っていても苦からは離脱しておらず、動中の工夫ができてないというようだ。
ところで空病はそれとして、第八地について玉置氏は聖徳太子の例を出して解説している:
「聖徳太子が勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)のなかでしきりに第八地以上の菩薩の事を賞賛されています。。。太子はこの第八地の境地に達して初めて、自分の無明住地に気づかれたように推察されます。
無明住地というのは人間のどうしようもない業、そしてそのどうしようもない業の根底は無明である。その自分の無明住地に気づけば気づくほど、どうしようもない業にこそ仏の命があらわになって、その業に染みとおっていく。その人生のぎりぎりの所を太子は味わっておられるように思われるのです。」 p。109〜110
これはどういうことかというと、大円鏡智で業の働きが目の前に課に現われているかがわかるだけでなく、その自分の業の根っこから、業の働きが起き上がってくるその姿がその底までみえる、したがって深いレベルでの智慧が働くといったことではないかと思う。
業の働きは人間としての(意識・無意識の)構造から言ってやもうえないことであり、一方これを見る、滅する、あるいはその働きを調べ、味わう、というのが智慧そのものの働きということだ。妙好人(才市だったとおもうが)の「煩悩を取らないでくれてありがとう」と言うコメントはまさに同じポイントを見ているのではないかと思う。一方では厳しいもの(例:それじゃあいかん)、他方ではいかにもゆったりしたもの(例:そのままでよい)と言う矛盾を自己同一して生きる様がそこから見て取れるようである。これまた中道ではないだろうか。維摩の例のように自他共に病を患っていること知り、大智・大悲をもって病に付き合うという意味合いもあるようだ。
>どうしようもない業にこそ仏の命があらわになって、その業に染みとおっていく。その人生のぎりぎりの所を太子は味わっておられるように思われるのです
というのは業の働き(無明)が智慧によって正しく昇華されるという不思議を、味わっているということのように思えるのだ。無明の底からの働きまで透き通って見えるということかもしれない。
ところで、
>無功用になる。。。すべての私の計らいから解放され、いわゆる自然となる。
というのはこの第八地以前にも体験は何度もあったのである。と言うのもそれが戒定慧のプロセスであるから、ある程度の修証を体験したものはこのコツは身につけているはずだ。但し第八地はその働きと日常の生活が「常にぴったりあっている」そしてさらに深めるというところが妙なのだと思う。つまり業の働き(無明)に引っかかると言う事がほとんどない境地と見えるのである。これはまた、無明の働きは人間だれしも共通だから、他人との関係においても言うことなすこと間違いが少なくなるということだと思う。
但しその人の存在・挙動そのものが教えとなって、周りの人に利他の働きが自ずから働く、という境地、これは私にはなんともはかりえないところである。中山さんがいう、「その人がいるだけで物事がうまく進む」、というぐあい。あるいはこう言い得るのではないか:つまり、そういうことはあるのだが、あると思うとなくなるといったことではないかということ。要は我がでて高慢になる、あるいは意識的になると物事はスムースに進まないというわけだろう。あくまでもあくまでも、我を出さず、出さずということも意識しないで、淡淡と生きる。春風駘蕩というか、自ずから然りなのだ。大人でありながらも赤子なのだ。
だとすると四弘誓願はどうなるのだろう?あるいは熱意、信、感謝、祈り、発心、修業、はどうなるのか?修と証が同時になるようにすべてが同時、と言うこと、つまりすべてに歪がないということか?つまり「心の欲する所に従って矩をこえず。」たんたんたんたん。。。。上求菩提、下化衆生も、たんたんたんたん。あたかも水が柔軟に行くべきところを見出して流れていく。無明もみえ、智慧がでるように、しなけばならない事もわかる。
こういうと、もはや人間ではない(→仏)ようであるが、あにはからんや、最も人間らしい人間(→自ずから然り)と言うことでないかと思う。つまり悩む時は悩む。智慧が出るときは智慧が出る、出ないときは出ない、災難に会うときは会う、死ぬ時は死ぬ、無理はしない、かといっていつまでも安心ということでもない、つまりなすことはなす、だ。「無功用になる。。。すべての私の計らいから解放され、いわゆる自然となる。」と言うのは、とことん「素直」ということではないかと思う。それは当たり前のことを、無理せず、かといっていい加減にもせず、しごく当たり前になすという事だと思う。但し誠に人知でははかり知れないのであるが、人の業と言うものがわかっているので、無限の慈愛がわいてくる。大拙の好んだ言葉「すべてを知るものはすべてを許す」を身をもってなすのだろう。畢竟、四弘誓願を思うでもなく、願うでもなく、あるがままに体現しているということになる!
そうなるとある意味で人間ではないということになるのだろうか。これは般若即非の言い回しで表現するしかない。つまり、もはや人間であって人間でない、人間でなくて、人間である、ということになるだろう。そこには無明、業に因って、あっちにごっつん、こっちにごっつんしながら法、大悲、大智によって、道が明らかになる。つまり、一切皆苦、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静に親しい、矛盾をそのままに内蔵しながらそれを超えているものが活溌溌地で「生きている」のである。これが「自然(法爾)」であり、また「自在」、「随所に主」ということだろう。(またこれが大拙のいう臨済の「人」であろう。)
「随所に主」ということで、念のために鈴木大拙の「臨済の基本思想−6(補遺)」(HPのファイル:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/kihonshisou6.html )を見直してみたら洞山の五位も、プロティヌスも華厳もくっついてでてきた(注:以下、ページは大拙全集3巻のもの)。以下のものはファイルから適当に選んでみた:
兼中到
有無に落ちず、誰かあえて和せん。
人人ことごとく常流をいでて、
折合して還って、炭裏に帰して、坐せんと欲す。。。といったところであろうか。 p。531
四智などというものを次第に立てないで、それを一つにしていずれをも、同時に、無媒介的に行為的に、見極めようとするのである。 p。535
多即一・一即多の論理が成立するところに、「人」が現前する。あるいは有が無であり、無が有であるところに「人」がでてくるといってもよい。 p。538
分別の無分別・無分別の分別と言うことが了得されて、そこに無礙の大道の横たわっているのを見るもの、それが「人」であるといえる。 p。538
煩悩即菩提とか、娑婆即寂光土とか、生死即涅槃とか言うと、いかにも矛盾した思想のように受け取られるが、臨済の「人」は無礙の大道を闊歩しているので、そのような矛盾には つまずかないのである。 p。538
それで臨済は「この人、、、十方に通貫し、三界に自由なり。」というのである。彼は自らに充足しているから、外に出て求めることがない、あこがれがない、またあがくことをせぬ。 p。538
プロティヌスに有名な一句がある。
「このような境涯は、神神、および、神に近きもの、および、人間の中では恵まれたものに属する。此の世でわれらを繋縛するものからの解放である。地上のものに愛着を持たない境涯である。独一から、独一への飛去である」 p。539
(この後、大拙はプロティヌスにも華厳のジジ無礙観に似たものがある。。。といって面白い説明をしている。詳しくは私のファイル:。。。を参照)
「光は絶対一者そのものである。絶対一者は自らの光で自らをみるのである。」 p。545
プロティヌスは自ら問いを設けていわく
「併しそれはどうして成就するのか」
自らこたえていわく
「一切を放下箸せよ」 p。545−6
彼(プロティヌス)は、、、また見体験に触れている。その大要を記すと、
この経験においては、見るものと見られるものとは二つでない。。事実の上では、見られるべきものは何もない、何のあとも残していない。。
彼は一者とひとつになったので、その中にしずみ去ってしまった。中心と中心が一つになったので、これをはなしてみることが出来なくなった。はなしてしまえば元のものでない。ただそれに付いて話される外物でしかない。これはその境地を通過したものでないと会得できぬ。 p。546
プロティヌスの「人」は、あまりにその、、、絶対一者面を強調するように見えるでもあろうが、この一者は、一者として知性からも感性からもはなれたものでない。
一者はいつも後者の中に動いていて、彼らをして不断に一種の希求、一種の不安を感ぜしめているのである。それゆえ、下位にあるものはいつも向上的憧れをわすれず、上位のものはまた、この憧れをとうして下位のものに働きかけている。向上と、向下と、その間に不断の回互的、円環的運動がおこなわれている。 p。547
私の見る限り、大拙、臨済、プロティヌスは少なくとも第八地の(自在の)境涯がよくわかっていたと思う。洞山の五位も同じ。大悲については少なくとも禅は知に走っているようで、今ひとつはっきりしないのであるが、こればかりは内から輝き出なければならないのだろう。
いやまて。やはり知に走っていてはいかん。人の業と言うものが身にしみてわかればわかるほど(→これは大智とする)無限の慈愛(大悲)がわいてくる、というのが本当であろう。
自在、無我、無常、涅槃寂静、そして一切皆苦という境地が真に体験されれば、大悲の心は「おのずから」ほとばしり出るのだと思う。安心、自在、、、、があって感謝、祈り、感謝、祈りということだ。母の子に対する理屈を超えたというような、あるいは大拙の言う「おいしいものを食べたら分けたいと思う」自然の働きなのだ。皆そういうものを核心にもっているということだ。
ところで自己暗示と言う言葉をチョッと前に使ったが、微妙な所であり、受け取り方によっては、物騒な意味合いもあるのでここですこし整理してみたい。まず、この言葉をどう使ったかと言うと:
>道を深める、ないし究めるという時、、、未達の者がそれなりに、できる限りの判断をして進まなければ成らないという(物騒な)ところであるが、調べをとことん進めて、少なくともある期間は身をなげだしてやってみないことには話しに成らない。そしてフィードバックをかけて(反省して:自灯明、法灯明)さらに進むわけだ。。。さんざんチェックを進めると最後にのこるのは信である。いわば我は投げ出されておまかせだ。
>経営(道)の名人といわれる松下さんは「まず使命をもつこと」「熱意をもつこと」といい、さらに「まず成功すると思うこと」といっている。私はこれが面白いと思う。言ってみるのなら、これは自己暗示だ。あるいはイメージコントロールでもいい。論理では追いきれないのであるから、後は感性、イメージ造形。イメージが思い浮かばないのなら中山さんのいう「イメージの一人歩き」にまかすのである。
>空病というのは前述した例えば松下さんの「まず成功すると思うこと」と言うような、信、というか自己暗示?!が働いてチェックがきかないまま、修行者が気づかないままに落し穴に落ち込むという場合ではないかと思うのだ。そしてそこから抜けがたいということになるのかもしれない。(真宗なら異安心?!ということであろうか)
簡単にいうなら、ここでいう自己暗示は「法によるあり方(働き)をこっち、つまり我、を進めることなくあるがままに受け止めること」と言う意味あいだ。では具代的にそれはどういうことかと言うと、例えば、使命を持つ、あるいは成功するといった課題、つまり今此処のそうなってない自分とそうありたい姿と言うギャップがあるという「絶体絶命」の境地に面する事が(人として頭を使う以上)往々にしてある。そのとき法に反する心の癖(業の働き:無明)に任せないということ。これが第一の気づきであろう。つまりこのとき心が対象にとらわれているかどうかの気づきが鍵というわけだ。
そこでその時どうなるかというと、一般には自分(心身)の中をスキャンして(あたかもコンピューターのサーチ(検索)スキャンといった具合)答を探す。ところが、公案と同じで、ぎりぎりの問いに対する論理的な答はないから絶体絶命(の境涯)である。ここでお酒を飲む、麻薬を使う、娯楽にふける、など「問題」を避けるという(業(無明)に任せた)行為をとらずに何もせずに(ただそのとき起こっている心の働きにのみ注意を払って)じっとしていると、非思量、あるいは定となるわけだが、「その境涯」は智慧(自己組織性)の発現、あるいは何かの気づきにいたる引き金が解をもたらすという頭の休まった「受動」の状態だ。ところで、夢はそのような場合に命が生命体を守るために働き出た智慧の一例といえるが、そうでなく、目を覚ましたまま、受動の状態を続けるということ、これを中山正和さんは「目覚めて眠る」つまり「無意識が働いていて意識が休む」(無意識の意識)という表現をしているが、それが坐禅などで体得すべき技と言うわけだ。だから、遅かれ早かれ智慧は見出されるに違いないという「自己暗示」はそういった意味合いを含んでいるという事を知らねば成らない。 (そういえば中山さんと催眠の話をしたっけ)
ということで、こういうのはどうだろう。智慧が出るというのはいわば絶体絶命が引きがねになってなにか不思議な力が働き、不可能が可能となるといった風である。例えばトビウオは敵に追われていやおうなく空を飛ぶという技を身につけたといえよう。生き物を見るとそういう不思議がそこいらじゅうにあることに気づく。花が咲くと蝶が現れるし、人間という存在もその不思議である。大変なものである。また、いかんせんどうにもならなかったものがあるとき突然できるようになるということはスポーツ、芸術、仕事などいろいろな場面でもありうる。これらはどれも智慧の働きであり、いわゆる悉有仏性につながる、つまり宇宙の運行原理に沿った働きであると私は見る。トビウオは敵から逃げるのに、空を飛べるとあるとき「思い込んだ」のだ。
トビウオが空を飛びように、不可能が可能になることを知るということ。もうちょっとで飛べる、飛ぶのだ、が、ああ、飛んでいる、ということになる、これが自己暗示(あるいは信)、「まず成功すると思う」、という松下さんの言葉。あるいは「すでに成功したと思う」といった具合だろう。身びいきしない願い、「願」でもいい。まことに不思議なことに宗教というのはそういう体験を教えてくる、まことにありがたい、かといって知から離れるということのない、、、大拙の言うように宇宙の運行原理を知らしめてくれるもの、うちから働いているもの、と私は「確信」している。
自己暗示という言葉は誤解を生みやすいかもしれないが、「自己暗示」は法への南無・帰命であろう、正しい道、しかるべき道をしめしたまえというわけで、つまりは我(人為)を「仏の家」に放り投げるであろう。法の暗示(自ずから然りの智慧の働き)を待つといった、まったくの受動の境地、つまり定であろう。ゆえに自己暗示は正しくは「信」であろう。そしてそこに見られる働き、つまり生命、大智・大悲は信のあらわれ(光が鏡によって照らされたもの)といえるだろう。不可能が可能になるという不思議である。
(ただし、ここは空病のように、あるいは自分は仏様になったという誤信のように、物騒な例もあるところではある。ぎりぎりのところはいろいろな角度からチェックすべしということは忘れてはならないと思う。)
いよいよ微妙なところに来た。トビウオが飛べるようになる、花が咲く、あるいは生命の働きを智慧と同義と見る。そしてその智慧が出るのが自在の働きと知る。これが人においては定であり、溶けた心、あるいは応無所住而生其心。不可能が可能になるというのは(人知あるいは人為においては)矛盾。自然はそれがへっちゃら。だから智慧というのは(人の論理における)絶体絶命を超えるという、、、矛盾を超える働き。これはまた悉有仏性である。つまり宇宙・生命の働きそのままである。
ところで少し前に、「人の業と言うものが身にしみてわかればわかる(→大智)ほど無限の慈愛(大悲)がわいてくる、というのが本当であろう。」といった。また、「自在、無我、無常、涅槃寂静、そして一切皆苦という境地が真に体験されれば、大悲の心はは「おのずから」ほとばしり出るのだと思う。」ともいった。自らの無明を知る智慧の働きを知ったなら、衆生を助けたいと思わないはずはないというわけだ。
これは大智と大悲が結びついていることを示している。「すべてを知るものはすべてを許す」だ。このフランスの格言がわかれば、後は何もいらないと大拙は言ったのはこの意味でのことだと思う。つまり、悪、煩悩を超越してすべてを悟り・正しい道に導くのである。
一方、母と子の関係は理屈を超えたものがあるということもわかる。おぼれる子供がいたら悪人でもそれをほおって置くということはしないだろう。そこに本能以上の自在から出る働き、自ずからの働きがある。それが大智であり大悲であるというわけだ。大智も大悲も自ずから然りというすべての基本の働き、すべての自在性からほとばしり出る働きというわけだ。
だとすると菩薩の四弘誓願も自ずからの大智大悲の願であろう。八正道も六波羅蜜も大智大悲あるものの働きを示すように、そのように現れ出るということだ。言われてどうこうというのではない。自ずからそうなるというわけだ。
状況によって道はいろいろ。あらかじめ、どうするこうする、というのは必ずしも目の前の状況においてあてはまるとはいえない。常に変化する周りとのいろいろな関係がある。だから、あっちにごっつん、こっちにごっつんということもある。いや、頭を使うというのは一切皆苦の意味がある。すべての情報を集めて判断するというのは神業だ。だが、その神業が自然において現成されているのだ。
それを修行を積み、たとえばフライフィッシングの腕が上がり、考えなくてもなすべきことがわかるように、人生の道において「自ずから然り」の、、、「心の欲するところに従って矩を超えず」を、、、、、「心の欲するところに従って菩薩の四弘誓願」を、、、「無明を明らめる」、、、大智大悲を、、、法にそって「自ずから然り」で働かしめますように!
草木、動物、人が生まれ、それらが生成発展する。全機現である。大智大悲の働きがそこにある。。。今ここにある。そこいらじゅうにある。それを感じるとき、そして大智大悲が明らめられるとき、私の心身が宇宙のエネルギーの発露となり、宇宙の働きに震え、この小さなとるにもたらない存在が宇宙そのものとして働いていることを「知る」のだ。「体験」するのだ。「修証」するのだ。
状況は刻々と変わる。「随所に主なり」という原点を見失わず、自ずからの(大智大悲の)働きを働かしめ、「活溌溌地」で内からの宇宙のエネルギーを全機現し、心身すべてに法をあらわしめるのだ。そしてそのとき、なすべきこと、してはならないことは明らかになり、道は「常に常に」開けるのである。「無限に」開けるのである。
「これは善意を持てる境地」という意味です。もはや第八地の最大難関を越えた菩薩は、、極めて自然に菩薩行が続行してきますが、その最後のところにこうあります:
一毛端処において(一本の毛の端っこのところ)無数の如来がいまして、そのいちいちの如来が無数の衆生に説法しておられる。そしてそのいちいちの衆生の心に応じて無量の法を授けられる。この一毛端処のように、一切の法界においても同様である。我々はこのような広大な念を成就すべきである。
この一節はどういう意味でしょうか。。たとえば次のように考えます。あるちょっとした出来事でわれわれはよく悩みますね。。。些細なことが心の全体を占領して、その悩みから開放されない。その問題をじっと抱きしめていくときに、そこが毛端処です。ごくささいなこと、一本の毛のはしっこのようなところにじっとそれを抱きしめてみると、その問題に無数の力が働いてくる。それは無数の如来がいちいち説法しておられるようですね。私の抱えている問題に、無数の如来がよってたかって働いてきて説法してくれる。そういう細かなことが実は宇宙いっぱいに遍満して仏が働いている。すなわちこのような広大な念、広大な憶念を成就すべきである。こういう風に教えられているように私には思われます。
あるいはまた自分の体をじかに考えてみましょうか。。。生理学上の用語にホメオスタシスというのがあります。。。要するに、身体の主体性のことなのです。。。つまり、私自身が知らないうちに、私のこの体の中で、無数の生命体が二六時中活動して適切に働いているために、私自身が生かされているのです。この「己」を大事にしなくてはならぬことがよくわかります。「おのれをこそよく整えよ」といわれた仏陀の教えがしみこみますね。
以上述べてきたことを腹に収めて禅定に入るとき、この全人格体のなかで無数の生命体が働いており、それが一転して、無数の如来が「正しく生きよ」と説法し続けておられる姿が響いてくるようです。」 P。110−114
一本の毛で思い出したことに、ヴィパッサナでの体験で以下のような話がある。端的にいえば鋭敏な知覚は法の働きを如実に感知するといったもの。(夜中のぎっくり腰、http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/koshinoitami.html 参照)本文の流れに沿うよう一部省略・改定してあります)
今回の接心のおわりに、ある人と会話した内容をここに書き留めておきます。それは簡単に言えば、坐禅(ヴィパッサナーゴエンカ氏)をして、今までお金、地位、名声など外を見ていたその眼を内に向けると、なんと見方が変わのであろうか!、というものです。
つまり、この人がいうには、今までいろいろ外の世界を気にしていたが、今回坐禅をしていて、あるとき、自分の腕の毛に風が当たって揺れているのを感じて、そのことが、なんとすばらしい事かと気づいた(頭でなく体で直接に感じた)というのです。それを聞いていた私は思わずにこっ。そして二人は、この直接体験の喜びと、それをはたから聞いたら、ばかばかしいとも言われるかもしれない、言葉に尽くせないもの(絶対矛盾)を感じて大笑い。
そういえば以下の公案(捻花微笑)はこの辺の事(→体験の共有)に絡むかもしれません:
釈迦が霊鷲山で弟子に説法しようとしたとき、梵王が金波羅華(こんぱらげ)を献じた。釈迦は一言も言わず、ただその花を捻(ひね)っただけなので、弟子たちはその意味が理解できなかったが、迦葉(かしょう)だけが、にっこりと笑った。それを見て釈迦は、仏法の全てを迦葉に授けた。
ついでに、もう一つ、盤珪禅師も不生で一切がととのうということで、こんな事を言ってます。
「親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。
その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。
その不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの。」。
このようなことは長いこと坐禅した人のみが共有化できる体験のような気がします。。。ある体験がそれ自身何か不思議なものであるという考え、したがってそれをなんとか求めるべきものであるというのは間違った考えとおもいますが、一方、日常の当たり前の体験が「わかる」というのは、無分別の分別、あるいは無意識の意識で、そこに透き通った(透脱した)ものがあるように見えるのです。
ということで、この話を鏡の心(大円鏡智)に結び付けてみたい。(鏡の心については、http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html を参照)つまり鏡の心はあるがままに物事を映し、法に沿った正しい道を指し示す。智慧を生み出す心だ。
「心身の知覚」発達すると、体がこうしろ、ああしろ、あるいはこうするな、ああするなと、教えてくれるのがわかる。体は刻々と働く生命の現れそのもの。今ここの心の働きが、あたかも鏡、つまり体、に映ったかのように知覚されるのだ。怒ると胃が痛むとか、考えすぎて頭が痛くなる、心配しておなかが悪くなるといった例もあるがもっと微妙な心の働きがあるがままに(自在に置かれ法によって働く)体から知覚されるのだ。ヴィパッサナでは「無意識の意識」を鍛錬する。つまり、無意識が意識されるのだーあたかも不可能が可能になるように。(ちなみに大拙はこの辺のプロセスを第一系列第二系列の円環運動という)
畢竟、心と体は意識と無意識の関係にある。あるいは人為と無為の関係といってもいい。自ずから然りは無意識、無為の働き。これはまた鏡の心の智慧の働きでもある。定から慧が発現する、というも同じ。
無明、業の働きも鏡に映ったかのごとく検知される。業の働きをじっと見て、それに引っかからないのだから、ポッポッと業の働きが目の前を通り過ぎるといった感じ。ただそこにある現象を見るだけ。そのぶん自在性が進み、我にとらわれないので判断がより正しくなる。
以上を踏まえて、第9地の話を一つ一つ読みなおし、吟味してみる。つまり:
「a)一毛端処つまり一本の毛のはしっこに、無数の如来がいて、b)そのいちいちの如来が無数の衆生に説法しておられる。c)そしてそのいちいちの衆生の心に応じて無量の法を授けられる。d)この一毛端処のように、一切の法界においても同様である。e)我々はこのような広大な念を成就すべきである。」というのは、
a)体の知覚が鋭敏に成っていて毛のはしっこの感覚も鋭敏に成っているということと見える。b)だからその一本一本の毛(→これは体全体の知覚がそういう微妙なレベルまで発達しているということ)が心の動きを指し示してくれ、c)智慧を発現させてくれるという具合だ。
d)これはまた、一本の毛でなくても体すべて、あるいはそれ以外のものも同様に智慧を発現させてくれるのだ。e)だから我々はそういった法の声を聞いて、法に沿って生きるよう念ずるべきである。
私なりにこの話を整理すると、「体全体で法の働きを感じ取り、大智・大悲を働かせて、自ずから然りに生きろ」、ということに成る。第八地でみた「自ら然り」はこの第九地にきていわば宇宙のホメオスタシス。自己組織性の働き。全機現である。悉有仏性の華厳の世界ということになる。
「こうして第十法雲地に入っていきます。「法の雲の境地」という意味です。このとき菩薩は灌頂地にいたるといわれます。。。ここで灌頂というのは、頭の上に一切智(仏智)の水を注ぐということです。灌頂地にいたった菩薩はさまざまな三昧に入っていきます。たとえば離垢三昧、海印三昧、大虚空三昧、そのほかさまざまな三昧です。。。
法雲地になると、ほとんど仏と同格です。。。もう私どもの手には負えません。其の状況がつぎのようにとかれています。
さまざまな三昧が現前すると、直ちに大きな蓮華が現れてくる。この蓮華は世間の境界を超出している。其の蓮華の上にこの菩薩が座って禅定に入ると、無数の蓮華が現れ、そして十方世界から無数の菩薩が現れてきて、其の一つ一つの蓮華に座って三昧に入る。するとそのときすべての世界が大振動を起こして、同時にすべての苦悩が消えて、全世界は光明に包まれていく。そしてこの菩薩が大蓮華の上で禅定にはいると、菩薩の両足の裏から無数の光明が放たれて其の光明が無間地獄にまで届いて地獄の衆生のすべての苦悩が消える。また両方の膝から無明の光明が放たれて今度は畜生の世界を照らして、畜生のすべての苦悩が消える。次に菩薩のへそから光明が放たれて餓鬼の世界にいたってその苦悩が消える。次に左右の両脇から光明が放たれて人間の世界にいたって苦悩が消える。両方の手から光明が放たれて天上阿修羅の世界の苦悩が消える。両肩から光明が放たれて声聞の世界を照らす(これ以降は苦しみはないのでただ照らすだけです)。次に背中と首から光明を放って縁覚の世界を照らす。面門すなわち口から光明が放たれて初発心から第9地にいたるまでの菩薩を照らす。眉間の白毫から光明が放たれて灌頂地の菩薩を照らす。最後に頂上、頭のてっぺんから光明が放たれてすべての如来の世界を照らす。こうしてあちこちから放たれたすべての光明が大輪となって大虚空に浮かんでいる。
こういう光景が第十地の中で説かれています。私たちはただもうそれを拝見するだけです。。。何をする術もありません。
かくしてこの菩薩は十方諸仏の面前で一刹那の間に無量の大法の輝き、大法の光、大法の雲を受け取って保持する。このような大法の雨、つまり大法の雲からさんさんと降り注いでくる大法の雨は、第十地の菩薩にして初めて受けとることができる。したがって第十地を法雲地と名づける。
経典はこのように記しております。雨あられの大法を残りなく受け取るというのですから仏ではなくて菩薩であることがわかります。しかも菩薩のぎりぎりの姿、究極の境地を説いているのです。
しかしながら菩薩の仏道はこの第十地で終わるのではありません。前に述べましたように第八地から究竟際(くきょうざい)までとありましたから菩薩は果てしない世界に向かって船出していくのです。究竟際というのは「究極の完結」という意味です。つまり仏果を成就するまで、きわまるところのない果てしない世界に向かって菩薩は歩み続けるのです。以上が十地経です。」 p。115−8
さあ第十地だ。
>「法の雲の境地」という意味です。このとき菩薩は灌頂地にいたるといわれます。。。ここで灌頂というのは、頭の上に一切智(仏智)の水を注ぐということです。灌頂地にいたった菩薩はさまざまな三昧に入っていきます。たとえば離垢三昧、海印三昧、大虚空三昧、そのほかさまざまな三昧です。。。
ここでいうさまざまな三昧というのがおもしろいと思う。たとえばつり三昧というのがあるがその行為に無我夢中、あるいは無心になってすべてを「今・ここ」に投入するわけだ。つりの名人というのは頭はいわば空っぽ。体で覚えた「正しい」働きが与えられた情況に沿って正しく現れ、それにしたがって手段=目的で、うまく(法に沿って)行為される、といったものだろう。周りの人はそれを見てもなぜかそうなのかわからないし、名人その人も、おうおうにして、なぜそうなるのかを聞かれてもうまく設明できないというようなものだ。前に出たホメオスタシスあるいは自己組織性そのものであり、自ずから然りの働きが頭の介在なしに素直に行われる。
頭の中は空っぽで、ゆとりがある。だからいろいろな情報がバイアス・ひずみなしに入ってきて、ぎりぎりのところがわかる。フライフィッシングでいうなら、見えないはずの魚が見え、不可能と思える状況にも魚を捕まえることができるわけだ。ニュージーランドの釣りでは川にすむ鱒の居場所を探し出すというのが大事だが、光の反射、微妙な波の合間、深い石の陰に、魚の頭の一部分がかろうじて動いて見えるということがある。そして向かい風の中、柳の枝のぎりぎりのところにフライをキャストして魚を捕まえるということがある。この行為を生き生きの働きが自ずから然りで素直にでたものといえないだろうか。周りから見れば、不可能が可能になるという智慧が出るという風に見えないだろうか。前に言ったトビウオの場合もおなじ。つまり空を飛ぶという不可能が可能になる。生き生きが現成する(全機現)というわけだ。定慧(無心・三昧・定→智慧)の構図・プロセスである。ただし、そういう名人技そして智慧というものは山ほどある失敗を踏まえて、つまり貪瞋痴ではなく、あるがままに受け止めて見出されたものということを忘れてはならない。
経営においても同じことが言える。失敗に失敗を重ねて、絶望の上、見出した成功がある。そこには信がある。三昧がある。無心がある。素直がある。だから絶体絶命、ぎりぎりのところは無心・智慧を見出すための仲のよい友達といえるのではないだろうか。小さいときに「はいはい」から「あんよ」を覚えた時だって同じだ。釣りも経営も何もかも、自然、つまり「自ずから然り」というのは三昧・無心がその基本だ。まして坐禅、公案、念仏などによっていたる「禅定」はそのぎりぎりのところを教えてくれる。人間の世界というのは畢竟、意識によってはどうにもならない絶体絶命の世界が自然(自ずから然り・法・智慧による生き方)との接点だ。(これをあの世との接点といってもいい。あの世=無意識、の意識である。空意識である。)
ということでこの第十地を読むとまことに面白い・不思議なのだ!そこで、ここに書いてあるいろいろな三昧を見てみよう。
>さまざまな三昧が現前すると、直ちに大きな蓮華が現れてくる。この蓮華は世間の境界を超出している。其の蓮華の上にこの菩薩が座って禅定に入ると、無数の蓮華が現れ、そして十方世界から無数の菩薩が現れてきて、其の一つ一つの蓮華に座って三昧に入る。
この一つ一つの三昧が、いうならば一つ一つの世界だ。そしてそれらすべてが全世界を形成する。釣り三昧も経営三昧も芸術三昧も、読書三昧も、さらに呼吸三昧、食事三昧、生き三昧、死に三昧も、みなここにはいっている。第一地から九地の修行も同様に修行三昧だ。あるいは修証三昧だ。そのものになって、いろいろな三昧をする。(三昧そのものはひとつであるが一応そういっておく。)すると智慧が出るし、身にもつき、(自ずから然りの)名人にもなる。そして三昧は菩薩の活躍する場、大智大悲の働く場でもある!
このように見ると第十地で三昧が出てくるのはまったくそうあってしかるべきなのだ。智慧が働くことにより自分の苦悩を消すとともにほかの人にも働きが及ばされるようになる。そしてそこいらじゅうの菩薩がそこいらじゅうで働きを進めるというわけだ。(もともとそうなっているのではあるが、そのように正しく納得されるというわけだ。)
>するとそのときすべての世界が大振動を起こして、同時にすべての苦悩が消えて、全世界は光明に包まれていく。
定慧の構造・プロセスで苦が消えていく。そのときは(あたかも感謝に体が震えて)振動が起き、全世界は光明に包まれる。この表現は初歓喜地の体験(身心脱落)に同じ。ただし、ここでは納得のレベル・深みが違う。つまり、その体験が一つ一つの世界、いろいろの世界で起こり、またそれら全部の世界がひっくるめて光明に包まれるということだ。ひとつの世界で名人になったならほかの世界においても同じように名人になれうるわけだ。いろいろな場合に大智大悲が働くというも同じ。つまりこの世界はそのままで光明に包まれているというわけだ。(→事々無礙、妙観察智などなど)
>そしてこの菩薩が大蓮華の上で禅定にはいると、菩薩の両足の裏から無数の光明が放たれて地獄の衆生のすべての苦悩が消える。また両方の膝から畜生の世界を照らして、、、へそから光明が餓鬼の世界にいたって、、、左右の両脇から人間の世界にいたって、、、両方の手から光明が放たれて天上阿修羅の世界の苦悩が消える。両肩から光明が放たれて声聞の世界を照らす(これ以降は苦しみはないのでただ照らすだけです)。次に背中と首から光明を放って縁覚の世界を照らす。面門すなわち口から光明が放たれて初発心から第9地にいたるまでの菩薩を照らす。眉間の白毫から光明が放たれて灌頂地の菩薩を照らす。最後に頂上、頭のてっぺんから光明が放たれてすべての如来の世界を照らす。こうしてあちこちから放たれたすべての光明が大輪となって大虚空に浮かんでいる。
要約すると、「両足の裏」から地獄の衆生、「両方の膝」から畜生、「へそ」から餓鬼、「左右の両脇」から人間、「両方の手」から天上阿修羅の世界の苦悩が消える。「両肩」から声聞の世界、「背中と首」から縁覚の世界。「面門すなわち口」から初発心から第9地にいたるまでの菩薩を照らす。「眉間の白毫」から灌頂地の菩薩を照らす。最後に「頂上、頭のてっぺん」から光明が放たれてすべての如来の世界を照らす。こうしてあちこちから放たれたすべての光明が大輪となって大虚空に浮かんでいる。
体験なしには意味がわかりにくいかと思うが、これがヴィパッサナの体験につながっているようで面白い。ヴィパッサナでは苦悩の内容がいろいろありそれが体のいろいろな部分に現れるというので、体の知覚を鋭敏にし、いろいろな部分に注意(覚醒)を働かすということにより、いわばしこり・ひずみ・業の根っこを取るという作業をするわけだが、しこりが取れると、楽になって、(→しこりが脱落するという意味合い)その部分に光明が放たれる、つまり智慧の光が現れる、という風に言ってもいいと思う。光明は自ずから然りの働きだ。
>こういう光景が第十地の中で説かれています。私たちはただもうそれを拝見するだけです。。。何をする術もありません。
しかり。何もせずに、つまり頭を介在せずに、ただ知覚を鋭敏に、ただそこに何がおこっているのか「見ればよい」。三昧、智慧(定慧)は自ずから然りの働き。たて横なな目に見る、調べを入れるというのは法によるマッサージを進めるという意味合いが感じられる。
>かくしてこの菩薩は十方諸仏の面前で一刹那の間に無量の大法の輝き、大法の光、大法の雲を受け取って保持する。このような大法の雨、つまり大法の雲からさんさんと降り注いでくる大法の雨は、第十地の菩薩にして初めて受けとることができる。したがって第十地を法雲地と名づける。
>経典はこのように記しております。雨あられの大法を残りなく受け取るというのですから仏ではなくて菩薩であることがわかります。しかも菩薩のぎりぎりの姿、究極の境地を説いているのです。しかしながら菩薩の仏道はこの第十地で終わるのではありません。前に述べましたように第八地から究竟際までとありましたから菩薩は果てしない世界に向かって船出していくのです。つまり仏果を成就するまできわまるところのない果てしない世界に向かって菩薩は歩み続けるのです。」
これが最後の言葉だ:「雨あられの大法を残りなく受け取る。そして仏果を成就するまできわまるところのない果てしない世界に向かってまた船出する」。。。私は入法界品をよく読んでないが、あらすじだけは知っている。終わりに善哉童子がもうこれ以上(教わることは)ないというところに来て涙を流すというシーンがあったと思う。いまここで、なんだがその感じが伝わってくる。
ただ、ふと気がつくと、一言で言うなら目的=手段ということだ。目的があっていろいろやってきて、そのいろいろやってきた手段が目的そのものだということに気づく。そしてその手段を今後もいろいろな場面で使っていく。活用するというわけだ。道元なら修証一等。だがその修と証がいろいろなところに、いわば多次元的に感じられる。だから雨あられの大法を内も外もそこいらじゅうから受け取るということなのだろう。そして大智・大悲を働かしめるということ。
ここに来れば、後は前に述べたピカソの「大事なことはただ為すことである、それがなんであれ!」というやつである。法に任せての生き生きの生を現成せしめたまえ!!!
感謝、祈り、感謝、祈り!
* ひとつ上にあるいろいろな三昧について思ったのが、いろいろな三昧は相即即入、ジジ無礙、悉有仏性につながるということ。いわば三昧は何でもその元になる境涯があってそれがいわば種になって、いろいろなものがつながるという構造になっているというかんじがするのだ。たとえば、釣り三昧、読書三昧、も上でいういろいろな三昧とつながるところがある。それがゆえに、いわばそれら三昧が大悲・大智の働きの場を提供している、つまりすべてはコミュニケーションしあう、智慧が出る、宇宙の全体に光が輝くという、これが華厳の哲学につながるのであろうが、そういった壮大な宇宙感というか体験につながっているという気がするのだ。
まずこれは注意書だが、まず悟りという「体験」を脱落、あるいは透脱の体験とすると、それは初歓喜地の意味合いはあるにしても、そういう「心理的体験」とでも言うものにあまりとらわれてはならないと思う。大拙はその違いをちゃんと言っていたが、この辺をまちがえると、悟りに迷うということになると思うのである。中山さんの場合、彼は「どかん」といった体験はなかったように聞いた(一週間ほど、「うきうき」した体験はあったとはいっていた)が、日常の行為、あり方、あるいは話、書き物を読むと「その境涯」は、しっかり「つかんでいた」と思うのである。ここは「何か途方もない体験」を重大視、あるいは神聖視する人には知ってもらいたいと思うと同時に、「その境涯」をまぎれないようにするのが大事と思う。
それはそれとして、とくに第十地を振り返って「その境涯」について感ずることがある。それはいいかたはいろいろあるのだが、大拙のいう「無心」でいいと思うが、別のいいかたをするなら定、煩悩に気づく場、智慧の場、無意識の意識、自在の境地、あるいは無分別の分別、非思量、三昧、、、。さらに、即今、前後裁断でもいいし、臨済の喝、あるいは念仏の意味するところでもいいだろう。また中山正和氏のいうこれ以上考えようとしても考えられなくなった境地でもよい。それが「雨あられの大法を残りなく受け取る。そして仏果を成就するまできわまるところのない果てしない世界に向かってまた船出する」というのの基本にあると思う。
ここは言葉で書くのは難しいところだが、たとえば大拙について岡村美穂子さんが「体の力がだらっと抜けていた」という表現をしていた。無心、定、智慧の場、無意識の意識、自在の境地、云々、、というのは、ひとつにはそういう形であらわれるものだとつくづく思う。まさに「自ずから然り」なのだ。またそのとき、ふと気づけば、呼吸も穏やかであり無駄なく実に静かなのである。生命の完全燃焼ともいえるだろう。あるいはそれは定慧一如でもある。中山さんもいつも冷静、沈着、穏やか、そして体の力が抜けていたと思う。彼は怠け禅を勧め、坐禅をすすめることはしてないがちゃんと無心の境地、「その境涯」は心得ていたのだ。「いくら考えても考えられないところから禅ははじまる」という柴山全慶老師の言葉を使ったり、創造性の智慧のメカニズムを同様、絶体絶命のところに生まれるもの、と位置づけ、無心という言葉は使っていなかったがその境涯は大拙と同じであろうと見て取れるのである。
ところが、あいにくそういうポイントに目をつけずに上でいった「体験」(の現れ方)を重視している禅の老師もいる。そして体験を比較していわく「大拙は悟ってない」という。これはまことに残念と思う。確かに私も脱落の「体験」をして、その意味合いは感ずるものであるが、そういう体験はそれまでの業の出来具合とその解け具合によって人によって現れ方は多少なりとも違うというふうに思うし、それ自体はその後のことを思えば、あくまで一里塚といった意味以上にたいした意味はない。それはこのお経の出だしにも書いてあったようにあくまで一時のものであり、その体験のさし示すもの、つまり上で言った「その境涯」あるいは無心が日常の心の持ち方にならないと、、、そして「心の欲するところにしたがって矩を超えず」というところにいかないと、大悟に大迷するといったことになると思うのだ。
ということで第十地にあるいろいろな三昧、あるいは大拙、中山さん、の境地は無心、自ずから然り、で通じるものと思う。ただその深さをとことん強調しているわけだ。また第九地でも「一毛端処において(一本の毛の端っこのところ)無数の如来がいまして、そのいちいちの如来が無数の衆生に説法しておられる」というのは「その境涯」、つまり無心というのは、心が溶けている、自在である、ということをいっているのだと思う。応無所住而生其心も同義。
ところで中山さんは創造性は異種のものの組み合わせによって生まれるとした。智慧の場合もアイデアが出るプロセスと似ているが、意識と無意識の弁証法的に止揚したものとみており、現象的には自己組織性という言葉でこれを説明している。これは人為と無為の円環運動をいう大拙やカビールなどと同じだ。鏡の心(→大円鏡智)も般若即非も色即是空・空即是色もみな同じ意味合いだ。これらすべては無心、定、無意識の意識、自在の境地、あるいは無分別の分別、非思量、三昧、、、をその(智慧の)発現の「場」としているというわけだ。これが「その境涯」の意味である。
もうひとつ、第十地で言う深い智慧が働く、無明の底が見える、業の働きが無力化される、というのは無心、定、、、においてあたかも心が溶けて、体の力が抜けていろいろな働きが自ずから然りで進められるということであり、ここがいろいろな三昧とヴィパッサナがつながるところがあるというようにみえるのだ。ちなみに我を進めるときには体のどこかに力が入っているのは誰でもある程度は体験しているだろう。だからその知覚を鋭敏にし、その我の動きに反発しないでじっと観ずる(→無意識の意識)というのが智慧が働く、無明の底が見える、業の働きが無力化されるというのにつながるわけだ。
だから第十地では、足の裏、膝、へそ、両脇、手、肩、背中と首、面門すなわち口、眉間の白毫、頂上、頭のてっぺんから光明が放たれてすべての如来の世界を照らす、智慧が出ると表現されているわけだ。あるいは第九地では一本の毛の端っこのところまで無数の如来がいて、そのいちいちの如来が無数の衆生に説法しておられる、というような境地で智慧が働くというわけだ。
要は、この境地が常に身についているということ。これが眼目であるというのを忘れてはならないと思う。
いや、忘れてもいいがこの境地を常に身につけておけということだ。実践、実践、また実践である。自ずから然りを体現、、、というわけだ。
上を書いたときには気づかなかったが、大拙と十地経のつなぎが見つかった。前に読んでいたのだろうが気に留めてなかったのだろう。(ちなみに岡村美穂子さんと電話で確認した時は大拙が十地経について聞いた覚えはないとのことだった。)いずれにしろありがたいことである。カビールにしろこの十地経にしろ、私の見つけたと思ったものが大拙の全集にも入っており、おかげでチェックができる。あたかも大拙と私が一緒に生きており、対話しているようだ。
大拙全集5巻で、p。198〜199で十地経の歴史的背景。p。307〜312に正覚への願いのもと、性質、その及ぶ範囲、結果で十地経からの引用を。最後にp。343から350まで8ページにわたって第十地、法雲地の偈頌で発菩提心を説いており、これはこの「華厳の研究」という論文の最後に当たる。ちなみにEssays in Zen Buddhism – Third Series (上記のものはこの英文の本の日本語訳である)では十地経はDasabhumika となっている。また5巻ではGandavyuha は華厳、Avatamsaka は花環、花飾りという意味あいと書いてある。(5巻p。197)英語の十地経はまだネットで見つかっていない。日本語のもあいにくネットにはまだのってないようだ。
大拙はヴィパッサナについては同じ華厳の研究の中で5巻p。200において、六波羅蜜のような徳の実践とともに、(これは戒と見ればいいだろう)サマーサ(Samatha:止観の止、寂静)とヴィパッサナ、つまり観が、お互いに補足すると見ている。「サマーサだけでは自己満足の状態に陥り、共感の心の動きの源泉を涸らしてしまうこともあろう、そこでヴィパッサナ行の必要が生じる」といっている。(これは定あるいは三昧から智慧の発現を見ろ、つまり戒定慧の意味あいと取れる。平等を通ってひっくり返った差別の真相といったものであると思う。)
そのあと観の内容を六つにわけて、、、「法蔵の言うところによると華厳経を理解するためには次のような六観が必要である」、としている:
1)万法が帰するところの寂静の一心を観ずる。
2)一心から現れるところの個別の世界の不可思議を観ずる。
3)万法が無礙に相即即入するのを観ずる。
4)如幻的な存在がそれぞれの影をそこに投ずるところの他には何者も存在しないのを観ずる。
5)即の鏡中には万象の映像が映じて然も一々の影が他を妨げるようなことのないことを観ずる。
6)全宇宙にわたって完全な主伴関係が相互的に存在していて何かひとつのものを引き上げると、他のすべてのものがそれについて上ってくるのを観ずる、ことである。
私のやっているヴィパッサナでは表現は違うが、簡単に言えば「心身のつながり」を平静さを保ちながら知覚するというのが、上の1)〜5)ないし6)までをカバーしていると思うが、いかんせん、これは各人体験で確認するしかしようもないところである。(この辺についてはHPに「鏡の心」という題のファイルにまとめをしてある:http://www.geocities.jp/suzakicojp/kagaminokokoro.html )
ということで十地経、大拙、ヴィパッサナのつながりが見えたわけだが、上の「十地経を読む」の本文を書いた時点でのヴィパッサナの位置づけ、および、発菩提心の意味あいなどはそのまま紛れがないと見られるので十地経の解釈、大拙の見方、ヴィパッサナの法話・説明(ゴエンカ氏)などと私の体験、解釈がこれでひとまず整合性が取れたことということにしたい。
― 2008年6月2日 洲崎清追記
大拙の「華厳の研究」の最後にのせてある偈頌をここにも転載しておくこととする。金剛蔵菩薩が,、、諸々の他の菩薩に対して初菩提心を説くというくだりである。(5巻p。343〜)ところで大拙はもとはEssays in Zen Buddhism – Third Seriesに英語でこれを書いたのだろうがそのときの風景・心象が眼に浮かぶようだ。ありがとう!大拙さん。
自らの主となり、平らかに、
心やわらぎて、安らかに、
空ゆくごとく、風のごとく、
菩提の智慧に住しつつ、
粗と穢とを遠離せる、
諸々の菩薩の、
いともすぐれし、
行業に、耳傾けよ、人々よ。
諸々の、如是の菩薩は、
無量劫に、
万億の善根を積めり、
万億の大仙仏陀を供養せり、
無数の辟支阿羅漢を供養せり、
諸々の、如是の菩薩に、
菩提心は起こるなり、
一切世間の利益のために。
戒を修し、忍を行し、
悪を愧じ、善を喜び、
功徳、智慧いやまさりて、
慧解ひろく、
心仏智に満てるもの、
諸々の、如是の菩薩に、
菩提心はおこるなり、
十力の具有者に、たぐうべき。
(注:仏の十力とは@処非処智力(如実にすべての理と非理とを知る力)A業異熟智力(如実に三世の業とその報いとの因果関係を知る力)B静慮解脱等持等至智力(如実にすべての禅定や三昧の順序や浅深を知る力)C根上下智力(野実に衆生の能力や性質の優劣などを知る力)D種種勝解智力(如実に衆生の了解断定を知る力)E種種界智力(如実に衆生の素性素質やその行為などを知る力)F遍趣行智力(如実に人天などの諸々の世界に趣く行の因果を知る力)G宿住随念智力(如実に過去世の種々の事を憶い出し知悉する力)H死生智力(如実に天眼を以て衆生の死生の時や未来の善悪の世界などを知る力)I漏尽智力(自らすべての煩悩が就きて、次の生存を受けないことを知り、また他のものが煩悩を断つのを誤らずに知る力)。八十巻本『華厳経』巻十七では、この十力を菩薩の修すべき法としている。―――以上ネットからの調べです)
過現未の諸々の仏を供養し、
十方の国土を厳浄し、
一切法平等と了知する、
諸々の、如是の菩薩に
菩提心は起こるなり、
一切世間の解脱のために。
喜びと、すぐれし智慧とを具有して、
布施の行を修するを好み、
一切世間を利せんとはげみ、
仏陀の諸々の徳に随喜し、
有情を悪より譲るもの、
諸々の、如是の菩薩に、
菩提心はおこるなり、
三界饒益の業成就のために。
悪行をやめ、
浄業にはげみ、
心平らかに、
戒行を修するを好み、
仏に帰依して、
菩薩の行業に身をささぐる、
諸々の、如是の菩薩に、
菩提心は起こるなり、
三界饒益の業成就のために。
諸々の善に随喜し、
忍の喜びを頒ちつつ、
諸々の功徳を味得し、
倣りたかぶる心をはなれ、
聖なる思いに心を定め、
和らぎとよろこびに住せる、
諸々の、如是の菩薩に、
菩提心は起こるなり、
世間の利益成就のために。
清浄なる行業を修し、
雄雄しくも困難に堪え、
気高くも一切有情のために立ち、
よく諸々の功徳を成じ、
煩悩の諸軍を断伏す。
かくの如き心に、
すなわちに、菩提の願は起こるなり。
擬愚の暗闇消えうせて、
心は寂静の城に住む、
汚濁の道より離れ去り、
心は覚めてゆるぎなし、
輪廻の縛しめ解き放ち、
寂静の喜びに明け暮るる。
かくの如き心に、
すなわちに菩提の願は起こるなり。
その想い、虚空の如く汚れなく、
世間出世の二智に通じ、
魔王マーラを征服し、
寄せ来る煩悩を撃退す、
諸仏の言葉に帰依しつつ、
諸法如の意義に達したり。
かくの如き心に、
すみやかに菩提の願は起こるなり。
三界の安寧を成ぜんと、
確乎として智慧に立ち、
煩悩諍乱の覆障払わんと、
明智と神力を具えたり、
善逝の功徳をたたえ、
善逝の心を喜ぶ。
かくの如き心に、
すみやかに菩提の願は起こるなり。
三界の至福を願い、
満たすは菩提のもとむるところ、
その企てに決意は固く、
その行はいかに困難なりと、
たゆむことなく浄業に、
菩薩は勤め励むなり。
かくの如き心に、
すみやかに菩提の願は起こるなり。
十力具有者の徳を願い、
菩提の行業をよろこび、
煩悩諍乱の世に打ち勝ちて、
自誇のきづな切り離し、
善の道に随い、
法の意義をば得んとぞ願う。
かくの如き心に、
すみやかに菩提の願は起こるなり。
諸々の如是の功徳に満ちみてる菩薩の行業を修せしめよ、
かの仏語仏願を具足せるものの、
神通力にいたらしめよ、
かの三徳において清浄なるものの、
菩薩の願にいたらしめよ、
かの三帰依に清浄なる菩提薩埵たらしめよ。
(三徳:真の救済とは人類が煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と開くところの、即身成仏の功徳を得せしめる以外にはない。 −これはあるネットのサイトからのものです。)
(三帰依:仏法僧の三宝に帰依することを、三帰依ということです。)
― 2008年6月2日 洲崎清追記
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it
または:http://www.geocities.co.jp/NatureLand/7243/youkoso.html