碧巌録を読む

 

* HPにもどる:www.suzakijpn.has.it

 

 

はじめに. 1

方回の序. 2

目をきょろきょろ. 3

廓念と不識. 3

至道無難. 4

大用現前. 6

日面仏. 6

心不可得. 7

誰がために咲く. 9

日日これ好日. 9

株を守って兎を待つ. 11

問いは答処にあり、答は問処にあり。. 12

作麼生(そもさん). 14

あるときの一喝は、一喝の用をなさず。。。. 14

窮すれば即ち変じ、変すれば即ち通ず。. 15

凛凛たる孤風自ら誇らず、、、. 15

*休憩(お茶を一杯). 17

向上の一路. 17

. 18

吸毛の剣. 19

天辺の月に問え. 19

坐久成労. 20

井中の人. 20

妄想する莫れ. 21

いかなるかこれ祖師西来意. 22

這箇. 23

道はもとより言なきも、、. 23

杖を認得せば、、. 27

少林窟:言葉がない、動作がながれる. 29

かたきのごとく. 30

 

はじめに

 

この場をかりて碧録(岩波文庫)を眺めてみたい。面白そうな所のみ拾って、私の気のままのコメントとともにのせておく。サブタイトル(副題)はこれも気ままに(とびとびに)つけました。深い意味はありません。因みに、これはヤフー掲示版、創造性のトピに2006年7月―2007年1月にのせたものです。

 

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方回の序

本来無一物と言うを南宗となし、時時に勤めて払拭せよというを、北宗となす。

p。23

ーー

是がいわば対をなしているというのが面白い。臨済と曹洞もそうだが、あっちが、こっちが、というのより、その二つの「中」に中道を見るというぐらいの気分でいいではないか。

色即是空と空即是色あるいは往相回向と環相回向の回互関係のようなものだろう。(突き抜けてしまえば)一つを立てると二つ目がついてくるというのは、既におなじみのところではないか。

 

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心有なれば曠劫に凡夫にとどまり、心無なれば刹那に妙覚に登る。

達磨はいまいずこにかある。

p。46

ーー

いずこにかあるよ。

いったりきたり、ご苦労さん。

いったりいったり、もさらにご苦労さん。

 

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目をきょろきょろ

 

(ちょっと戻って)

「朕に対するものはだれぞ」
「知らず(不識)」
あげくに武帝は眼目をきょろきょろして落処をしらず。

p。42

ーー

何かいわれて、目をきょろきょろするというのは、頭で物(答え)を探す時によくある事のようだが、ここでこう講釈をしているのがおもしろい。

きょろきょろが、ピタッと(つまり、そのままで、ああそうかと)決まらないと、もういかんということになる。

 

(ところで、そのときの目の神経が脳のなかでどうなっているか、脳波がどうなっているか、意識・無意識の働きがどうなっているのか、調べればわかるだろうし、それはそれで面白いだろうが、その境涯はどうやってそうなったのかという事に関しての理解は難しいように思う。バイオフィードバックのような意味合いはいいのかもしれないとしてもだ。)

是はどういうことかというと、「その境地」にいつもいるのかどうかと言うようなものだ。「その境地」とは行深般若波羅蜜多時である。

そう、無意識の意識(定:全機)では目は落ち着いているのだ。それはまた知の限界をよく知っているというようなことでもあろう。

 

ある対象を見るというその見るものをまたおくから見るというような意味合いがあるように思う。(言い方をかえれば、鏡の心)

 

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廓念と不識

 

しばらくいえ、「廓念」と「知らず(不識)」と是一つか二つか?

p。50

ーー

いかなるかこれ聖諦の義廓念無聖
朕に対するものはだれぞ知らず

そう、是は一つだ。維摩なら基底のない基底だ。盤珪の仏心。などなど。

 

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相憶うことをやめよ、清風地にあまねく、なんの極まることかある。

p。51

ーー

風とともに、だ。
極まりなく、だ。
相憶うことは、やむのだ。

くつろぎの世界の発見と言うようなものだな。
もともとあったところの発見だから、再発見だ。
何度でも再発見、そのつど発見。

というところに、キラリと光るものをみたい。

 

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至道無難

 

至道無難、ただ揀択を嫌う。

わずかに語言あれば これ揀択、これ明白。
ひけらかすなかれ、魚泳げば、水濁り、鳥飛べば、毛落つ。

p。55

ーー

至道無難、ただ揀択を嫌う

揀択があって、さらに嫌うがあるとは面白いいいかたをしたものだ。

嫌うは揀択からでてくるではないか?!まったく矛盾だらけ、だからこっちが自らしっかりしないと、何がなんだかわからなくなる。

至道無難、ただ矛盾に親しむ。というようなものだ

 

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一に多種あり、二に両般(二通り)なし。

p。62

ーー

一即多、多即一と同じだろう。

これが至道無難、ただ揀択を嫌う、とどうつながっているかと言うと、
揀択を嫌う多即一、であるいは差別即平等で,けりがついている。これはまた、苦集滅道でもあり、なむあみだぶでもある。至道無難もまた同じ事とみる。

ただし一に多種あり、だから、まあこの世は面白い、妙なり、と言う具合に見ておくのが穏健だろう。

 

==

 

百丈いわく、「一切の語言と山河大地を一々転じて自己に帰す」

p。67

ーー

どうやら、ひっくり返すというのを転ずる、というようだ。

いろいろのひっくり返しがあるが、一番のそれは、すべてがひっくり返って(もともとそうであった)宇宙のあるがままに帰するというものだろう。

 

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大用現前

 

大用現前して、軌則を存ぜず。

p。68

ーー

これがあるから面白いというべきだろうか?!
ようは人間の知識の限界を超えているのだ。

臨済の、それをみてないものは見よ見よ!である。

(この大用。。。大いなる働きにばっかり目が行くと、おかしく成ることもある。だから、孔子の、「己の欲する所に従って矩をこえず」のことばが、大事なのだ。この二つの言葉が矛盾しているようであるが、矛盾してないという所を見るべきだろう)

 

前に出た、「本来無一物と言うを南宗となし、時時に勤めて払拭せよというを、北宗となす。」そして色即是空と空即是色あるいは往相回向と環相回向の回互関係と同じように、上の二つの文が対になっているね。

 

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日面仏

 

「和尚近頃ご機嫌いかが?」
「日面仏、月面仏」

p。69

ーー

星面仏、鳥声仏とでもつづけようかな。


==

 

徳山、坐具を提起していわく、「和尚」
為山、払子をとらんとす。
徳山、便ち喝して袖をはらって出ず。

p。77

ーー

龍譚での事件、つまり龍譚が夜、ろうそくをともして、徳山に手渡す時、徳山がまさに受け取らんとした時、龍譚が吹き消したという事件、(p。81)と一つなのだろう。

言って見れば、その「とき」が般若波羅蜜多時というわけだ。

盤珪においてはカラスの声が、「それ」を指し示したということでもあろうか。

 

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心不可得

 

道端の店の婆さん:餅がほしい?金剛経では、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得というが、どのこころでほしいというのかい?
徳山:無言
婆さん:(餅はあげられないね!)

p。81

ーー

心不可得なら無心に、「お餅頂戴」というのではどうかな?
絶体絶命の境地は無心の功徳(無功徳の功徳)を教えてくれるいい機会だね。

 

1)為山、払子をとらんとす。
徳山、便ち喝して袖をはらって出ず。

2)龍譚が夜、ろうそくをともして、徳山に手渡す時、徳山がまさに受け取らんとした時、龍譚が吹き消したという事件

3)盤珪においてはカラスの声

4)道端の店の婆さん:餅がほしい?金剛経では、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得というが、どのこころでほしいというのかい?
徳山:無言
婆さん:(餅はあげられないね!)

これらのはなしで、絶体絶命の境地は無心の功徳(無功徳の功徳)を教えてくれるいい機会。。。というようなことをいったが、才市の角が折れるという話(妙好人のトピ)も、棒喝も、鼻を捻る、おぼんをひっくり返す、というような話も、すべてが絶対絶命定慧(般若波羅蜜多)を見ているということだろう。無論、只管打坐も、なむあみだぶつも、おなじところをみている。

不思議なものだ。

見方に因っては物騒なものといえるが、絶体絶命とは真剣をむきみでつかむというようなものだから、まあ、やもうえないのだね。

 

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法堂に登って、東より西に渡り、西より東に渡りて、見渡して、「無、無」といって便ち出づ。

p。83

ーー

これが、透脱・平等・無事のありさまを身をもってあらわしているということではないだろうか。

「何もない、何もない」。かといってすべてがある、すべてがある、妙、妙、といった感じ、とみる。

 

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尽大地つまみあぐれば、粟粒ほどの大きさなり

p。95

ーー

太平洋の水をひと呑みにしてこい、あるいは千里先の火をとってこい、というのとおなじようなものだな。

一が無限に成ると、これはおもしろい!
が、無限が一粒に成ると、これもまた一興なりということのようだな。

さわりがない、あるいは絶体絶命をひとっとび、というのは無礙、スースー、透脱、自在、不思議、真空妙有の境地だ。

そこで、意識の壁を破ってこい、ということだろう。

 

==

 

尽大地はこれ沙門の一隻眼なり。

注)一隻眼:一つの目、真実を見抜く目、本来具わった真眼。

p。98

ーー

そこいらじゅうに目がある、手がある、鼻がある、意識がある、云々、と言うふうに読むのが面白いな。

 

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誰がために咲く

 

百花春いたって誰がために咲く

p。102

ーー

もみじの紅葉したのが、なにかを語っているようである。
その言葉がわかると、これはたのしいね。

誰がために咲く、というのは、
すーっと、そのままに受け取るのだ。

すると、その誰が誰だか「わかる」。

 

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日日これ好日

p。104

ーー

反発しない、反発しない。
こつこつ、こつこつ、

法にそって生きる。
これ日日これ好日。

反発したら、
おっとっと。

道を踏み外さないようにね。
道を踏み外したら、そのように(定慧)ね。

 

正しい道というのは踏み外さないで何もしないようなものでなく、踏み外しながらしかも正して進むというのが人として生きる過程だろう。

 

おっとっと、おっとっと。

やれこれ、どっこいしょ。

 

ああ、ご苦労さん。

 

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僧あり問う「いかなるかこれ曹源の一滴水。」
法眼いわく「曹源の一滴水。」

注:曹源の一滴水=六祖法眼から流出した正法の意。

p。125

ーー

まあ、言葉の元にある「それ」をナマに体験せよ、と言うことなのだろう。理屈を言うと離れるからね。

 

どうなっているのか、

どうなっているのだ!というようなものだろう。

 

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株を守って兎を待つ

p。13

ーー

禅語ではないのかも知れないが、面白いポイントをさしていると思う。
もともと業の働きとはそんなものだね。便利なようであるが、また不便でもある。

そこで誰が主人公かが問題と言うわけだろう。
 

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僧問う「いかなるかこれ趙州」
州いわく「東門、西門、南門、北門」

p。142

ーー

8万4千の法門があるというのとおなじようだ。
透脱・自在であり、何処からでもかかってこい、というようなものだろう。

==

 

至道難きこと無し、唯揀択を嫌う

p。143

ーー

揀択があると、分別で分けて分けて、ものを見るから、全体(なにがどうなっているのか)がわからない。そこで道を見失う。

分けるのはいいのだが、そのわけるもとをつかんでないと、智慧がでないで、理屈が何処までも何処までも、垂れ流しに成る。

この連絡を「うまく」「法にのっとって」する、というのが中道の教えだろう。

 

==

 

須らく語言を断ち切り、格外に見諦して、透脱得しされば、
龍の水を得るがごとく、虎の山に登る(?)に似たりと言うべし。

p。143

ーー

かっこいいね!

黙って座れば、ぴたりとあたる、というようなものだ。

そこに、生き生きの生き生きが生き生きしている。

 

==

 

問いは答処にあり、答は問処にあり。

p。151

ーー

無手でうけとれ、
無手でだせ。

いかなるかこれ仏
仏。

どうしたらいいの
どうしたらいい。

いったいどうなっているんだ。
どうなっているんだ。

わからないな、
うん、わからない。

それで、ぴったりぴったり、だ。

それで、ぴったり。
本当?

これでいい、
これでいい?

どうなっているんだ、
?!

いろいろひっくりかえるね。

往相回向、
環相回向。

南無
阿弥陀仏。

意識無意識
無意識意識。

 

==

 

近頃いずこを離れしや

p。153

ーー

こういう問いが禅者の間でとりかわされるというとこに、面白い意味があるのだろう。

どこから来たのか?何々が、最近どんな事を言っているのか?とか、
まあ、引っかかるかどうか、ひっかかっているかどうか、をみているのだろう。

というのも、言葉ばっかりにとらわれる所に、落とし穴があるのだから。

ただ、もしそこに、引っ掛けるという意図があるなら、それはどんなものだろうか?

畢竟、引っかかるを通りすぎれば、色即是空、空即是色というようなもので、回互の展開の不思議、内とそとの連絡の妙を知り、うちでもそとでも自由自在になるだろう。ひっかかっても、ひっかからないのである。

 

==

 

作麼生(そもさん)

p。156
ーー

英語ならSo what? 道元なら、畢竟して何のようぞ?!であろう。

碧巌録では、喝、喝、、、といった僧に対して、それでどうなんだ?というわけだ。(これに対して僧は無言、返答なし。)

とことん抜けきらないと、いかんよね!

ほれほれ!

 

==

 

あるときの一喝は、一喝の用をなさず。。。

p。158

ーー

四喝もいいが、棒もいい、また、対機説法もいいではないか。

カラスのカーもなかなかなもんだよ。

 

==

 

法を知るものは懼る(おそる)



p。159

ーー

謙虚と言う事にしておこう。
我とか、放慢の逆だ。
本当の謙虚は、すべてを捨て去ったところにあるのだろう。

いろいろなところでしっぺ返しを受けて、
身にしみて法を知ったものでないと、こういう言葉は出てこないのだろう。

法を知るものは安楽、と言うこともいえるのだろうが、
放逸の安楽にならないように、安楽=懼る(おそる)というぎりぎりの所をみるべしだろう。

 

==

 

窮すれば即ち変じ、変すれば即ち通ず。

p。160

ーー

絶体絶命から智慧がわきでる。(絶対絶命無心・定慧)
ちゃんとそうなっているのだ。

 

==

 

禅なしとは言わず、ただこれ師なし。

p。168,175

ーー

教える事は出来ない、というようにとろうか?

自らの自受容三昧の意。

例によって、パラドックスである。

引っかかっては抜け、引っかかっては抜け、が禅の本領・存在理由(レゾンデートル)という事にしておこう。

 

==

 

凛凛たる孤風自ら誇らず、、、
もしこの消息を会せば、ひとえに自由きままなるに任す。
あるときは孤峰頂に独立し、
あるときはにぎわう市場に身をよこたう。
あにひとえに一隅をまもるべけんや。

p。177

ーー

それこそ風に吹かれて(自ずから然り)だね。

春風とうとうとかいったかな?

 

任運騰騰ですね。

遊化三昧。

ああ、いったいどうなっているんだ?

が、そのまま、そうなっているんですね!

(不思議だね)

 

そう、我がないのだね。
枯れているんだ。

あのシカモアの葉っぱのように。

風に吹かれて、
しかるべく旅をするんだ。

飄々とね、

透き通ったたびをね。

でも、まったくの受動でもないんだよ。

うちから沸いてくる孤風というのもあるんだよ。

ただ、それにいて、どうのこうの云うということがないだけさ。

あのシカモアの枯葉のありかたのようにね。

 

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*休憩(お茶を一杯)

 

丘の上のシカモアの木には、
もう数枚の枯葉がくっついているだけです。

それでも太陽の光を受けて、
黄金に輝くのです。

リスは冬に備えて、
まつぼっくりを集めるのに一生懸命。

空気はひんやり、
それでも太陽にあたためられることもあります。

外への世界からうちへの世界へと、
いろいろな準備が必要なのでしょう。

まあ、お茶を一杯どうぞ!

 

==

 

向上の一路

 

向上の一路は千聖すらつたえず。
学ぶものの形(からだ)を労すること、猿の影を捉えんとするが如し。

p。182

ーー

一路はプロセスコントロールとみて、
まあ戒定慧とでも云っておくのがいいのかもしれない。

だいたいこれ、というのが、間違いだろう。

規定できないもの(智慧など)を、規定しようというところに間違いがある。

そういえば維摩の「無基底の基底」というのとつながるな。

智慧だって底なしだ。慈悲だって底なしだ。

道は無限にあるのだ。

 

==

 

 

道はもとより言なきも、言によって道をあらわす。

p。184

ーー

動物、草木や石は道を表している。すべてが宇宙の意のあらわれ。
だが、人は言があるために道を表すことが出来る。

これまたパラドックスだね!

このあと「人は言があるために道を失うことが出来る。」とも言い添えて然るべきだろう。

 

==

 

道を見れば即ち言を忘る。

p。184

ーー

(スポーツなどやって)名人に成ると、考えずになんでもうまくいくというのと同じようなものだろう。

 

==

 

いかなるかこれ道。
明眼の人井戸に落つ。

p。197

ーー

いかなるか、というところで、すでに外れているといったところではないか。

ただし、引っかからないということの、検証のために、そういう引っ掛かりの問いを出すというのは、まああってもいいのかもしれない。あいてにもよるだろうが。

 

==

 

吸毛の剣

 

いかなるかこれ吸毛の剣。
珊瑚は枝枝に月をささう。

p。198

注:吸毛剣(すいもうけん)
切っ先に吹きつけるだけで髪の毛が真っ二つになるほどの切れ味を持つ吸毛剣(すいもうけん)

ーー

これ面白い!

一つ一つの露に月がやどる、といった表現があったと思うが、いかにも形而上学に陥らないで、現場現物をもとにした世界をむきみでつかむといった感じがある

 

==

 

天辺の月に問え

p。200

ーー

その辺の草に問えでもいいね。
こおろぎの声でも、空の雲でも、
太陽の照り返しでも、風鈴の音でも、
なんでもいい。

答えがチャンとかえってくるのだ。
また、このみすぼらしい自分が、
そのままに天の働きを示しているという、
不思議を知るのだ。

 

==

 

坐久成労

 

僧、香林に問う「いかなるかこれ祖師西来意」
林いわく「坐久成労」

注:坐久成労:君はダルマが西から来るのを待って長く座っていてくたびれたな

p。229

ーー

いろいろ苦労して、ご苦労さんというわけだろう。
求めないと求まらないといえるかもしれないが、
畢竟、求めるという事は求まらないからね。

「これ」(いってみれば安心)に関しては、外を見ていちゃいかんのだろう。
修がそのまま証でないとね。

 

==

 

井中の人

 

A:いかにして井中の人を出し得ん。
B:ばか、誰か井中にある。
A:?

A:いかにして井中の人を出し得ん。
C:おい!
A:はい。
C:ほら出た!

p。245

ーー

注:井戸の中は、絶対絶命の時ととる。

おはよう!
おはよう!

チュンチュン
チュンチュン

ほら頭の動く前に、
答えが出た。

 

==

 

妄想する莫れ

 

無業は一生凡そ所問あれば、ただいう、
妄想する莫れ。

p。258

ーー

智のようにいかにひっくり返るか?
幕妄想!

どうしようもない時どうするか?

指を立てる、喝、さっさと去る、ご苦労さん、
棒で打つ、ひっぱたく、只管打坐、なむあみだぶつ。

頭を動かさない。目をきょろきょろさせない。
そのままそのまま。不識。ほっとけ。
己の欲する所に従って、矩をこえず。

 

==

 

今の人総じて恁麼ならず。

p。258

ーー

倶テイの一指禅はそれなりによい。
が、恁麼、恁麼で、定に目が向かうと、慧がおろそかにならないか?

頭を使ったり、頭を冷凍したり、
一指禅もいいが、バランスをとってのいわばウシワカマルの働きのようなものもいいではないか。

畢竟、定は慧にその働きをあらわすものだろう。

 

==

 

いかなるかこれ祖師西来意
板をもってこい。
(わたす)
(板でぽかっと打つ。)

p。262

ーー

おい、
ハイ。
わかったか。
わかりません。

水をもってこい。
はい、どうぞ。

わかったか。
わかりません。
(水をぶっかける)

 

==

 

這箇

 

石頭いわく、「生より死に至るまで、ただこれ這箇(しゃこ)。頭をめぐらし脳を回して、さらに別にもとむる事なかれ。」

p。269

ーー

ぽかっとやるのも、なむあみだぶ、も、只管打坐も、はいも、否定を通っての絶対肯定も、、、

だね。

 

==

 

心は万境に随って転じ、転ずる所実に能く幽なり。

p。303

ーー

転じー見方が変わる。(無意識の意識)
ひっくり返る。
気づく。
それがそのまま妙である。
不思議。

転じるところをしるもの、これ智慧。
きりのない智慧がある。

ありがとう!

 

==

 

道はもとより言なきも、、

 

道はもとより言なきも、言によって道を表す。

p。323

ーー

これは道徳経の言葉とかいろいろなところででてくる話しだが、何度でも確認していい所なのだろう。

道は法にそって生きるというところにつながっているだろう。

いわく言いがたし、ともいう。名人の後を追いかけるのは鳥の飛んだ後を追いかけるというのに似ているという言葉もこれに絡んでいるだろう。

名人のいう言葉は深みがあるというか、何かが違う。

畢竟、それ(言い表せない所)を感じる何かがこちらにないといけないということではないだろうか。

すると、以心伝心となる。これがまた不思議だ。

話したらきりがない。ただ話さないでいてわかるともいえるのだろう。(そこで矛盾がそのまま矛盾でないということになるね。)

 

==

 

いかなるかこれ奇特のこと。
独坐大雄峰。

p。333

ーー

これも言葉にならないところを言葉にしたというところだね。

「太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや。」 (南泉)でもいいとしよう。

 

==

 

当機拈弄の所にいたるや、いなや自然に活溌溌地なり。

P.335

注:当機拈弄の所:確信に直面してそれに対応する際、

ーー

「その」境地にあるならそこから出るものは、棒であれ、言葉であれ、どんな行為であれ、法にあっているというものだろう。(あぶないあぶない)

 

==

 

箭新羅(や、しんら)を過ぐ

p。344

元はソクジャクコウジャウすれば、箭新羅を過ぐ。とある。

注:突いたりたたいたりして詮索していたら、もう後の祭りに成る。

ーー

一方(生命)はあたかも光の速さで過ぎ去るようなもの。一方(頭でどうのこうの)はふらふら、あっちこっち。

ご用心御用心!

 

==

 

ただ一辺を守るべからず。

p。18 中巻

ーー

中道の意味する所だろう。あるなしを飛び出ている(道元ー豊倹より跳出せる)としておこう。

 

の言葉は道元の「一方を証すれば一方は暗し」、にあたると見よう。

 

==

 

ただ一辺を守るべからず。
左撥右転し、右撥左転す。

p。18

注:縦横無尽にコントロールする。

ーー

ここを読むと、道元と言うより臨済かな。

活溌溌地の生き生き、有無を言わせないね!

(物騒物騒!)

 

==

 

新豊和尚いわく「祖仏の言教を見ること、かたきのごとくにして、初めて参学の分あり。もし透りえざれば、即ち祖仏にだましさるる。」

p。20

ーー

かたきのごとく、見るというのは面白いね。
確かにそうだと思う。
法のはなしはいかにも物騒。
体験と言葉のつながりとか、その意味合いが間違って取られる事は山ほどあるだろう。

もともと迷いに付いての話を、迷っているものにするようなものだから、曲解は山ほどあるだろう。

教えるほうも教えを受けるほうも、まさに真剣勝負の心構えが必要だろうと思う。

ご用心ご用心!

わかったか?

はい。

ばか。

 

==

 

杖を認得せば、、

 

杖を認得せば、一生の参学のことおわれり。

p。24

注:杖:本文はチュウジョウシ

ーー

是面白いね。なんでもその「認得」がどうか、だ。

こういうのにつながっているのだろう:

みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切 」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と 眼に見えるもの、耳と耳 に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触 されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、そ れは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その 主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、 彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(ブッダ、Sanyutta-Nikaya 33.1.3

言葉は違うけど、盤珪さんもそういうことを言ってたね。

 

==

 

定上座、臨済に問「いかなるか是仏法の大意」
済、禅床をおり、引っつかんで、平手打ちを与え、便ちつきはなす。

P。25

ーー

是は話しが早いや。
というか話しなしでわかるね、わかるものは。。。

ところで、何か本を読んでわかりたいと思って本を開いたら、平手打ちがとんで来た、となったらどうだろう。

やはり根本のところで本はかけないのだろうな。

「その」感覚、加工することなく、そのままに大事にしたいね。

感謝、祈り、感謝、祈り。

 

==

 

無位の真人と無位の真人に非ざると相去ることいくばくぞ。いえ、いえ。

p。28

ーー

何かいうと、ちゃんとひっくり返すようにできている。ただそのやり方がいかにも単刀直入。というのもいつも、「そこ」を見ているから。

 

==

ことば語らんと欲するも言葉うしない、心は縁(よ)らんと欲するも、慮ほろぶ。

p。34

ーー

それはまあ、安心の境地だよね。

まあ、めでたしめでたし、といっておこう。

 

==

 

少林窟:言葉がない、動作がながれる

 

昨日(日本時間の15日かな)、久しぶりに、少林窟の井上老師の法話を聞いたら、二つほどうなずけることをいっていた。

1)長いこと定にはいっていると言葉が見つからなくなる。

是はそうだね、坐禅だけでなく、(私の場合は)釣りなど三昧にふけった後などは、人と話しをしようとすると、かったるくなる、言葉が見つからない、馬鹿になったように思う、ということ。確かに安楽、ではある。

ただし、ここのところは、例えば趙州や、臨済などはそうは言わないかもしれないな。鏡を拭いていると、拭くのに忙しくて、鏡に映ったものへの智慧のある行為というのが出てこないかもしれない。こいつが井上老師やヴィパッサナ、(悪い意味での小乗)の「鬼窟にはいる(?)」おそれがあるというところという気がするわけだ。いわばはいって(色即是空)、そのままでる(空即是色)というところの呼吸だろう。

2)ものをするのに素直に(気づかずに)行動に出る。

これは我がないから、我意識を起こすという手間がないうちに、あたかも体が動いてすべきことがなされるということ。つまり1)の場合の三昧の様子を示しているということだろう。

是もそうだな、と思う。我意識の荷物をしょわないというのは楽なわけだ。是はいわば戒を守っていると、素直になりやすいというのと通じるだろう。あるいは至道無難、唯嫌揀択、つまり比較など揀択を嫌う、というやつと対になっているのだろう。

ただし、鏡の心と言う喩でいえば、あたかも意識が無意識のはたらきの上に映って見え、従って盲目でなく、社会性を持ちながら、そこに知慧が働くという所も見てないといけないのだと思う。

確かに微妙なところと思うが、単単単、、、のまま、かつ社会性、つまり言葉、意識をうまく「使う」(正思)まで「行きたい」(気づいたらいってしまったということになること)のである。それが名人芸とおもうのだ。

タイトルで「言葉がない、動作がながれる。」といったが、「言葉がない、動作がながれる、しかも、しかるべく言葉を使って、意識が流れる」というのがどうかということだろう。

 

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かたきのごとく

 

新豊和尚いわく「祖仏の言教を見ること、かたきのごとくにして、初めて参学の分あり。もし透りえざれば、即ち祖仏にだましさるる。」

p。20

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是は前に出たものだが、もう一度此処で見直しをしておく。
というのも、此処でいう厳しさがどうしても必要と思われるから。

たとえて言えば、一般論で禅の話しをするなど、もってのほかだろう。
もっとも、話しをするということは、一般には前の経験と言葉の組み合わせをもとに意味合いを見つけ出すというような作業であるから、やすきに流れるという事になりがちだ。

だからこそ、かたきのごとく、というわけだ。

是はまた、とらわれなく、自在であれと言うのに等しい。
それでどうか?というわけだ。
定慧である。無分別の分別である。(ほら、ほら!危ない、危ない)

まあ、ある意味でいえば徳山の棒がいつでも飛んでくるというぐらいの感じですべてのことにあたるというぐらいの気概であってもいいと思う。

 

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仰山、僧に問う、「近頃いずこを離れしや」

p。40

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是も物騒な問いだね。

いつも「そこ」との関係に気づいているのなら、それなりの答えがあるだろう。

そこを僧は、「ろざん」と答えた。是はこの僧の来た所なのだろう。だから、遊山してないということになる。

遊山はいわゆる、「くつろぎ」であろう。

一体私ならなんとこたえるだろうか?

「近頃いずこを離れしや」

何処も離れてないよ!離れたらちゃんと戻ってる。
なむあみだぶ、なむあみだぶ。

 

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心はこれ根、法はこれ塵、両種なお鏡上の痕のごとし。
痕垢つくるとき光初めて現ず、
心法ならび忘じて性すなわち真なり。

p。47

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キラキラひかりの、
馬鹿の幸せ。

太陽があがれば、世界中が黄金。
鳥が鳴けば、空気がばっさり。

心身落ちて、
あっけらかん。

頭、玲瓏。
芯まで冷えてる。

 

 

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